千物語「黄」
千物語「黄」
目次
【R[I]MOTE-CONTROL】
・腹違いの妹を自由にすべく、「ぼく」は社会を洗脳する。そのためにすべきことは何かと考え、行動する話。
【首元に刃が迫るまで】
・殺人代行者が任務をこなし、日々をすごし、死ぬまでの話。
【棚からずんだ餅】
・愛するからこそ奪いたい、ねじれた女たちが交差し、ねじれ、最愛の最愛に辿り着くまでの話。
【ディスク・クール・ロージャ】
・なぞの組織に追われる女は、仲良く居酒屋でよもやま話に花を咲かせていた!? 女は誰で、何者なのか。この話は何のか。駄作のなかの駄作と名高い、郁菱万の初期短編。
【R[I]MOTE-CONTROL】
社会が私たちに徹底的な教育を強要するというのなら、わたしはそれを洗脳と見做す。
社会が私たちに恣意的な教育を義務づけるというのなら、わたしはそれを洗脳と呼ぶ。
社会がそれを洗脳と見做さず、呼ばず、称揚すべき公的処置だと認めるというのなら、わたしはわたしにとっての〈洗脳〉を――すなわち、社会にとっての教育を――社会に対して強要し返すことをする。
わたしは社会を〈洗脳〉する。
わたしは社会を〈教育〉する。
【わたしは、わたしの、私たちへ】著・璃基(りもと)苑劃(えんかく)(本文抜粋・第八十四貢)
『イモート』 ***回想***
ぼくには妹がいる。彼女は当たり前にぼくより年下で、当たり前にぼくより利口だった。いや、利口というのとはすこしちがうかもしれない。彼女はぼくより頭がよくて、ぼくより達観していて、ぼくよりも理想主義者で、だからこそ、彼女は誰よりも人間からかけ離れていた。
現実という名の不条理の渦――混沌――を許容できない、かわいそうな子。
父さんは、ぼくが十歳になる日に、ぼくの妹こと戦眼(せんめ)ツシカを連れてきた。
ぼくは十歳になったその日、妹を得て、父と母を失った。父さんは、ぼくの知らないところで、ぼくの知らない女の子を――妹を――つくっていた。母さんだって知らなかった。父さんが家庭のそとで、母さんもぼくも知らない女の人とのあいだに娘を儲けていたなんてこと。いわゆる、浮気というやつで、ツシカは隠し子だった。
母さんは潔癖なところがあって、そういった浮気だとか隠し子だとか、同性愛だとか小児愛好だとか、親近相姦までをも含めた、あらゆる性癖を蛇蝎視していて、端的に「倫理」と呼ばれるものにひどく固執していた。それは社会が母さんに課した桎梏などではなくて、母さんが自分自身で掴み、しがみついていたものでしかなかった。宗教的な、と言えば簡単に納得してもらえるだろうし、簡単に、ぼくの意図せざる誤解を生んだりもする。
母さんはいい母親だった。それが主観的にも、客観的にも、事実だとぼくは断言できる。母親の鑑だったと評したっていい。ただし、父がツシカを、ぼくの妹を連れてくるまでは、という限定条件つきだけれど。
母さんは狂ってしまった。
ツシカが来て、父さんがふらりと消えてしまって。まったく知らない幼女を押しつけられて、けれどその子はまったくの赤の他人というわけでもなくって。母さんは、「裏切られた」という憎悪のどん底で、同時に、その憎悪の元凶の血を引くふたりの子供を育てなくてはならなかった。育児放棄でもすればよかったのに、母さんは真面目だからその辺の融通が利かなかった。
半年だったと思う。ぼくがツシカと出会って、父さんが家に帰ってこなくなって、およそ半年。母さんはある夜を境に、壊れてしまった。あれほど潔癖だった母さんが、あれほど「倫理」というものに拘っていた母さんが、あの日の夜を境に、発情したただの女(めす)に成り果てた。煙草を吸い、酒をあおり、昼夜問わず男を家に連れ込んだ。見た目は特に変わったところはなく、服装だって相も変わらず、着飾らない質素で上品な装いだった。それでも母さんは、すっかり人間にある快楽を追求する欲動に流されていた。自ら流されることを選らんだのだ。いや、それもまたちがうのかもしれない。母さんは、流されないように抗うことを止めたのだ。
母さんが男どもを家に連れ込んで、汗だとか精液だと愛汁だとか、そういった体液を互いにこすりつけ合い、なめ合い、ぴちゃぴちゃ、くちゅくちゅ、させていたおかげで、ぼくとツシカは空腹に苛まずに済んだ。これまで通りの生活に困らないだけのお金を、母さんにたらふく精液を注ぎこんだ男どもが、置き土産をしてくみたいに置いて行ってくれたからだ。母さんはだから、壊れてからもぼくたちのために働いてくれていた、という言い方もできないことはない。
逃避だったのだろう。母さんは必死に逃げていたのだ。
流されないようにがむしゃらにしがみついているよりかは、いっそのこと、潔く流されてしまったほうが幾分も楽だ。そのことに母さんは気づいてしまったのだ。そうして、自らしがみついていた「倫理」から手を放し、自らの欲望を解き放った。
母さんは自由になった。人間という理から外れて、自由になった。ぼくは母さんが堕落していく様を、さらに半年という月日をかけて観察した。
母さんはくだらない生き物だった、との結論がゆるぎないものとしてぼくの裡に定着したその日、ぼくはツシカの手を引いて、父と母に育てられた家を――父と母を失った家を――ぼくがツシカと出会ったその家を、後にした。そとは凍てついた空気が、しん、と凍った水面みたいに張っていた。息を吐けば白く、もくもく、と儚く昇った。積雪した街並みはみっしりと灰色に包まっていた。
十一歳。ぼくはそのとき、ようやく赤ちゃんをつくれるくらいの機能を肉体に宿しつつあった程度の、がきんちょだった。股間にはうっすらと、ほつれた糸みたいな毛が生えていたくらいの、うそでも青年なんて呼べる見た目ではなかった。ツシカに至っては、出会ってから一年、ずっと口を利かなかった。しゃべられない子なんだろうな、とぼくは諦めていたし、それでも構いやしない、と気を揉むこともしなかった。
ツシカは言葉を発しなかったけれど、意思がないわけじゃなかったから。
普段は、じぃ、と極力無駄なエネルギィを消費しないように、窓際に座って、そらを眺めていたツシカ。
家を出てからは、ちいさな手でぼくのゆびを掴んで、トコトコとどこまでもぼくのそばで、ぼくといっしょに歩んでくれたツシカ。
母の財布から数万円を抜き取っていたから、しばらくの生活には困らなかった。
幾度か補導されそうになったけれど、その都度ぼくはツシカを抱き上げて、路地裏に逃げ込んだ。ネコがネズミを追いかけるのと同じで、小路にさえ入ってしまえば、ぼくたちが捕まることはなかった。
ただ、ネコとちがって人間は利口なうえに狡猾だ。保護者同伴の気配のない子どもが街中を徘徊しているという噂を、誠実な大人たちは見過ごさなかった。未成年者保護条約の許、ネズミ狩りならぬ子ども狩りが行われた。人海戦術が実地されてしまった以上、頼るべき家族も仲間さえなかったぼくたち子どもに、逃げきれる可能性なんてほとんど残されてはいなかった。まるで野生のうさぎを殲滅させる猟犬のごとくに、奴ら大人は、毎日、昼となく夜となく、不規則に街へ現れた。
時間の経過と共に、ぼくたちと同じような、家を飛び出し、街中を放浪していた子どもたちが、大勢補導されていった。
ぼくもまた何度も捕まりそうになった。けれどぼくにはツシカがいたから、幾度となく窮地を脱することができていた。ただ、こちらがそうして大人たちを出し抜けば出し抜くほど、奴らは勝手に矜持を傷つけられたと勘違いして、いきり立った。ぼくたちは要注意児童として、指名手配された。ぼくとツシカの、服装や体型など、容姿の仔細に記された情報が大人たちのネットワークにばら撒かれた。それは目に見えない情報だった。チラシだとか、壁紙だとか、そういった手配書ではなく、子どもたちを保護するために狩りだされた大人たちが密かに共有する、形なき情報だった。
表通りを出歩いていれば、それが何曜日のどこであっても、途端に、上っ面なだけの笑顔を張りつけた大人たちがぼくたちを追ってきた。いつだってやつらは保護色の目つきをしていた。
なぜ見つかってしまうのだろう。むしろ、どうしてぼくたちが家出した子どもであるのだと――指名手配されている子どもであるのだと――判るのだろう。疑問を抱いていたぼくに、ツシカはさらりと教えてくれた。初めてツシカが口を利いた瞬間だった。
「あのひとたちは情報を持っているの。わたしたちについての情報を。わたしたちの姿を視認した人たちが集積し、統合し、〈わたしたち〉の姿を文字に置き換え、記録し、伝達し――そして、共有しているの。わたしたちの持っていないものを、あのひとたちは持っている」
ずるいね、とぼくが言うとツシカは、どうして、ときょとんとして立ち止まった。引っ張られるようにぼくも歩を止める。振り向くと、のどを伸ばしたツシカがこちらを見上げていた。
「ずるくなんてない。だって、勝負ではないもの」
勝負ではないから、ずるくない。ルールなんてないのだから、ずるくない。
ツシカの瞳はそうささやいていた。
ツシカのおめめはとても澄んでいて、黒眼のまわりが、青みがかっている。
「そうだね」ずるくなんてないんだ。
ぼくは同意した。ぼくは納得した。ぼくはツシカに諭されて、ツシカがとっくに悟っていたことをこのときになって、ようやく悟ったのだ。
ずるい、を決めるのはいつだってぼくたちではなく、ずるい、を決めるのはいつだってぼくたち以外の大人だってことを。
その日、ぼくもツシカも、大人たちから逃げることをやめた。
逃げる必要なんてなかった。ぼくたちは闘うべきだったのだ。
十二歳。ぼくはまだまだがきんちょで、でも、ほんの少し、人間にちかづいた。
***
施設にいるあいだのことをぼくはあまり憶えていない。興味がない空間。興味の持てない相手。興味の向かうことのない遊戯と、納得のいかない規則の数々。そんな環境のことなんて、どうしたって憶えていられるわけがない。
不満そうなのはぼくだけで、ほかの孤児や育児放棄された子どもたちは、案外にその施設に順応していた。もちろん、満足なんてしているわけがないのだけれど、それでも頑なに反抗したりすることもなく、たまにやってくる、ボランティアの、お兄さん、お姉さんたちとも仲良くやっていた。
ツシカもまた、不満を抱いている様子はなく、静かで良い子の評価をそつなく得ていた。
ただひとり施設で反抗的だったぼくは、だから、職員さんたちから「手の焼ける問題児」という重複的な称号を得ていた。問題児なのだから手を焼くのは当然だし、手を焼いているから問題児なのだ。そういった指摘を返してしまうぼくであるので、よけいに煙たがられた。
きょうだいから悪影響を受けるかもしれない、と危惧した職員さんたちは、ある日、ツシカをぼくから引き剥がそうとした。なんて非道なことをするのだろう、と思うのは、当事者であるぼくだからであって、客観的にはどうしたってその行為が善意の塊からくる配慮にしか見えなかったらしい。ただでさえ閉鎖的な施設内で、ぼくに同情して、味方をしてくれる者なんていなかった。
ただ一人、ぼくの妹、ツシカを除いては。
ツシカはおとなしい女の子だった。まだまだ幼いくせに、職員さんたちから、深窓の佳人、などと冗談半分にささやかれているくらいに、手間の掛からない子どもだった。ただ、ぼくから引き離されそうになったその時に限り、まるで悪魔にでもとり憑かれたみたいに狂乱した。
身体をつんざくほどの声で悲鳴し、体中を掻きむしり、服をびりびりと引き裂き、髪の毛をぶちぶちと引き抜いた。阿鼻叫喚がごとくの異常な様相に、職員さんたちはひどく取り乱した。すぐさま一一九番通報し、救急車を呼んだくらいの周章狼狽具合だった。
だが、ツシカが救急車に乗せられることはなかった。なにせ、慌てふためいている職員さんたちを尻目に、ツシカはぼくのゆびをちょこんと握って、ぴたり、と泣きやんでいたのだから。ちいさな身体を包んでいる衣服だけがボロボロ。到着した救急隊員さんたちは、何事もなかった様子のツシカを見て安堵してくれていた。それと同時に、この有様は尋常ではないということで、施設内での虐待を訝しんでいるふうでもあった。
事実、この施設では虐待が行われていた。それを知っているのはいまもむかしも、被害者たるぼくたち子どもと、虐待をする側だったあの青年だけで、職員さんたちはもちろん、被害に遭わなかった子どもたちだって知らないままだろう。
そいつは週に一度、施設にやってきた。善意でぼくたちの世話をしてくれるボランティアグループに、そいつは紛れていた。
奴はいわゆる、チャイルド・マレスターだった。ぼくの推測にすぎないけれど、十中八九間違っていないと思う。
最近になってぼくは、ツシカの記したテキストを通して、チャイルド・マレスターなる人種がいることを知った。その当時のぼくが知っていたのは、奴がしてくる行為が、侮蔑の塊だってことと、ぼくたち子どもを人間以下のおもちゃとして扱う、「唾棄すべき接触」だったという、それだけだった。
奴らは、子どもが異常なほど好きなわけではない。人並みに子どもを愛でる精神を持ち合わせていながら、何食わぬ顔でぼくたち子どもにいたずらをする。小児性愛者(ペドファイル)ではないし、ロリコンでさえない。性的興奮を抱くのが成人女性であるにも拘わらず、ぼくたちを己の性欲でべちょべちょにしようとする。奴はそういう人種だった。
キャンディをあげるからと言って、口を開かせ、男が男足り得る肉体の一部をねじこまれたり、柔軟体操とは名ばかりの性的愛撫を、肌が赤くなるまで繰りかえされた。奴の舌はざらざらと紙やすりみたいで、痛いのだ。そういった忌々しいことを、施設内の幾人かの子どもたちが受けていた。腹立たしいことに、ぼくもそのうちのひとりだった。
あいつがあからさまにツシカを目で追っていたから、ぼくはじぶんから奴に声をかけた。
「いもうとに……あのコに手ぇだしたら、ころすから」なにがなんでも、ぜったい、と最初は釘をさすだけのつもりだった。でも奴がシツカから目を離し、
「へぇ。きょうだいなんだ。きみたち」
舐めまわすようにこちらを見詰めてきたのを目の当たりにして、ぼくは閃いてしまった。安直に、「しめた」と思ってしまったのだ。奴の興味がシツカから離れ、ぼくへと移った。そう見えてしまったから。
チャイルド・マレスターには、児童をひとつの生物として見做す傾向があるという。つまり、そこに性別は考慮されない。男の子でも、女の子でも、それは子どもという一個の生物であり、人間ではなく、だから奴らは遊び半分に手を出せてしまう。あのとき、奴がぼくを性欲のはけ口として利用することを、なんの躊躇もなく、すんなり思い付いたのは、単純に奴がチャイルド・マレスターだったからだ。ぼくは奴のおもちゃになることで、ツシカを護ることができる。愚直にそう考えていた。そのことでツシカがどれだけ傷つくのかを、ぼくはまったく想像することができないでいた。
ぼくは、ぼくの身体を弄ぶ奴の顔をいまでも思いだせる。興味深かったからだし、気色わるかったからだ。どうしたらこんなことでそんなにうれしそうな顔ができるのだろう、とふしぎだった。
ぼくは奴に身体を舐めまわされていたあの瞬間の、あのねっとりとした時間に、短絡的ではあるにせよ、漠然とした嫌悪を確固たるものとした。
――ぼくは男という生物が、大ッ嫌いだ。
愚かしいことに、けっきょく奴はツシカにまで手を出そうとした。愚かしいのは奴ではなく、ばかしょうじきに奴がぼくをツシカの代わりとして見做すと信じ込んでいた、このぼくのほう。
あのころのぼくはまだ、ツシカを見くびっていたのかもしれない。ぼくと奴とのあいだにあった、ツシカには絶対に触れてほしくない秘密が、まさかツシカに看破されてしまうなんて思ってもいなかった。
ぼくが奴に身体をいじられていたあいだは、ツシカはぼくの言いつけどおり、みんなといっしょの部屋で本を読んでいた。そのときを見計らって、「イセルちゃんが呼んでいるよ」とツシカを誘惑すれば、それがたとえ嘘かもしれないとツシカが疑っていたとしても、ツシカはぼくに逢えることを期待して、付いて行ってしまう。
そうしてツシカは物置き部屋へと連れ込まれ、そこで、奴の本性を垣間見てしまった。
一方でぼくは、中々こない奴を不審に思って、一旦、ツシカのもとに戻った。が、いるべきはずのツシカの姿がない。ぼくは焦った。奴がぼくらをおもちゃにする際に使用する部屋の場所の大方をぼくは知っていた。見つけ次第ぶっころす意気ごみでしらみつぶしに奴を捜した。
その甲斐あってか、ツシカが奴の毒牙にかかる前に、ぼくはなんとか間に合った。普段は鍵の掛かっていない物置き部屋に鍵が掛かっていたことで、奴が中にいることをすぐに察することができた。ぼくはいちどそとへ出て、小窓から部屋に侵入した。比較的体躯がちいさかったことがさいわいした。
突入してすぐ、ぼくは奴をぶっころすよりもさきに、いち早くツシカを庇ってしまった。そのぼくの激昂した表情を見て、ツシカはすべてを一瞬で悟ってしまったらしい。ぼくはツシカに見抜かれてしまったのだ。
――すでに穢されてしまっていたことを。
絶望的な表情だった。ぼくはツシカのあの顔を、きっと死んでも忘れられないだろう。死んだって出会えないだろう。あんなに切なく、儚い、生きていながらに死んでしまったかのような表情を浮かべられる少女なんかに。
けっきょくのところ、ぼくはツシカを護っていたつもりでいて、ひどく傷つけてしまっただけだった。
それから起きた出来事を、ぼくは見ていない。
奴が死んでしまったその瞬間を、ぼくは記憶にとどめることができなかった。見えていなかったからだし、興味だってなかったからだ。
気づいたときには、死んでいた。
奴は頭から血を流し、小汚い物置き部屋の床に、仰臥(ぎょうが)していた。
そばには、開かれた状態の脚立が倒れており、芝刈り機のエンジンがガタガタと駆動していた。芝刈り機から生えるようにして身体が、くたん、と伸びている。奴の頭はぐちゃぐちゃだった。だからこの場合、頭から血を流しているのではなく、頭が血だまりになっていた、と言うべきなのかもしれない。
個室に連れ込まれていたツシカ。そこへ駆けつけたぼく。
唐突に消えた照明。暗転した室内。
奴の呻いた声と、脚立が倒れる音。
芝刈り機のエンジン音。
そして、かぼちゃをミキサーにかけたような、液体の飛沫する音が、ただ渾然と連続的にぼくの表面を過ぎ去った。
ぼくは見ていない。その瞬間を。
それでもぼくは知っている。ツシカが奴を殺した揺るがぬ事実を。
ふたたび室内に光が満ちて、ほこりが目に映るようになったのと同時に、ツシカはぼくの胸元に顔を押しつけて、ぐちゃぐちゃに泣きだした。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
なぜ謝るのかが解らなかったし、なにを謝っているのかも解らなかった。でも、じゅうぶんだった。ぼくはツシカのあたまをやさしく、そっと透くように、撫でてあげた。
***
事故死として処理された奴の死以降、ぼくは施設からの脱走を企てていた。こんな場所に閉じ込められていては、ツシカが傷ついていく一方であることに、遅まきながら、ぼくはやっと思い至ったのだ。
大人たちはぼくたちを守ってくれない。大人たちはぼくたちを顧みてくれない。ぼくを守ってくれるのはツシカだけだったし、ツシカを守ってあげられるのもぼくだけだった。なによりも、ぼくに護れる存在なんて、ツシカ以外にいなかった。
ツシカがいればそれでよかった。ぼくには妹の存在だけが特別だった。
ただ、大人たちの情報網を侮ってはいけないことをぼくはすでに学んでいたし、大人たちの身勝手さを許すこともできなかった。ツシカにこんな社会を生きてほしくなどはなかった。だからぼくは、施設からだけではなく、この社会というしがらみ――現実からも――脱してみせようと抗うことにした。
十四歳。ぼくは、順調に、人間としての外郭を獲得しつつあった。
この一年後、ぼくはユウゴたちと出会い、ふたたびの家族を手に入れる。
すべてはツシカを、この現実(フェイク)から連れだすために。
『リモート』 ***ぼく***
待ち合わせ場所は向こうが指定してきた喫茶店で、駅構内から繋がっているビルの四階だった。
指定された時刻の一時間前に着いた。奥の席に陣取り、ぼくは駅前の雑踏を見下ろしている。
こうして、ぼーっと眺めているだけでも時間は向こうのほうから勝手に流れてくれる。暇なんてものは、どうあっても潰れるものだ。それを、より充足に楽しく過ごそうとしている時点で、暇つぶしとは言えないんじゃなかろうか。ぼくは至極どうでもいいことを割と本気で考えてしまう性質なので、そうして沈思黙考しているあいだに、約束の時刻の十分前となった。
「リモトさんですか?」
入口に背を向けるような格好で座席に納まっていたので、そう声を掛けられたとき、相手の姿は視認できなかった。ぼくは、落ち着きはらった、イケテル男を意識して、
「いかにも。ぼくがリモトだよ」
名乗ってから、飲みかけのコーラを啜り、
「燈真寺(とうしんじ)さんだよね」
相手がここを指定してきたジャーナリストであることを確認した。十分前であるにも拘わらず相手は、お待たせしてすみません、と謝罪した。芯のつよそうなその声を耳にしながらぼくは、このときになってようやくきちんと向き直った。
ハスキーな声の割に、線の細い女性が立っていた。
「座ってもよろしいですか」
ぼくがいつまでも閉口したままなので、彼女のほうから許可を仰いできた。ええすみません、とぼくはここでもまた沈着冷静な男を意識して、どうぞ、と手を差し向け、着席を促した。冷静な様を意識してはいるものの、ぼくは気が気ではなかった。ちらちら、と彼女を窺う。
切れ長の目は、けっして小さくはなく、柔らかくも凛々しい眼光を放っている。鼻は小さく、人形のようだ。うっすらとピンク色をした唇はぷっくりとしている。液体みたいに艶やかな黒髪が、彼女の陶磁器のように透きとおった首筋をしっとりと覆っている。ポニーテールにでもすればさぞかし映えるだろうな、とぼくは彼女のうなじを想像する。
こういうことは稀にある。気乗りしないと言えばそれにちかい。相手がこうしてぼく好みの容姿をしている女性ともなれば、さすがに気が引けてしまうのだ。
ただ、これまでにもこういったことは幾度かあったし、その都度ぼくは彼女たちを利用してきた。今日だって同じだ。燈真寺と名乗ったこの女性を、ぼくたちは利用したい。そのための顔合わせなのだから。
「わたくし、『星屑の森』所属、フリージャーナリストの燈真寺さつきです。以後、お見知りおきを」
やや古風な挨拶で彼女は名刺を差し出した。ぼくは受けとる。軽く目を通して、「フリーなのに所属している会社があるなんて」と疑問した。その疑問はそのままにして、名刺をテーブルの隅に置く。
燈真寺さつきを名乗るアカウントから、璃基(りもと)苑劃(えんかく)宛てに「取材希望」のメールが送られてきたのは、先週のことになる。ぼくは一年前から、とあるWEBサイトで小説もどきを掲載している。その著者名が、璃基苑劃だ。
璃基苑劃の作品が、以外にも好評を博しているのは、ひとえに、その小説もどきが際どいテーマを素材にしているからだ。よく言われていることだが、インターネットを頻繁に利用している人間というのは、〝過激〟を求めている傾向が高い。だから、商品価値では測れないような、いわゆるゲテモノじみた作品が風靡することも珍しくない。
サイトを立ち上げてから半年という異例の速度で「璃基苑劃」の名はインターネットを、それこそ網の目のごとく伝播した。悪評やバッシング、クレームや警告も含めて、またたく間に人口に膾炙した。アンチの数が増えるのに比例して、熱狂的支持者も増えていった。というよりも、アンチそのものがすでに狂信的読者と言ってもあながち間違いではなかっただろう。
アンチ読者というのは、意識的にしろ、無意識的にしろ、バッシングや批判をすることまでをも含めて「娯楽」と捉えている者たちだ。琴線に触れた代物をわるく言う。そのことに言い知れぬ快感を得る生き物こそが、アンチなのだ。言ってしまえばドSなのだろう。そして、どのジャンルのアンチであっても共通しているのが、彼らは本当の意味で興味または魅力のないものには、見向きもしないという点だ。
口コミだけで、話題となった「璃基苑劃」の小説もどきを、出版業界が見過ごすわけがなかった。最初に連絡を寄こしてきたのは、どこぞの雑誌の記者を名乗る男だった。
「リモト・エンカクさんの素顔に密着したいのです」
本当にそんなことを言ったのかをぼくは知らないが、メールに記載されていた番号に掛けると、是非とも取材をさせてほしい、との旨を熱く語られたらしい。その記者がどんな声だったのかをぼくは知らない。仲間に頼んで、代理人となってもらっていたからだ。電話を掛けた本人は、後日、ぼくにこう説明した。
「あの記者はダメだ。完全に『璃基苑劃』の人物像を思い描いてしまっている。その固定観念がある限り、あいつの書く記事は、『璃基苑劃』にとって不利益なものにしかならない」
至極まっとうな意見だと思った。その進言を素直に聞くことにしたぼくは、記者からの取材を断った。後で調べて分かったことだが、その記者は、我田引水な記事を書くことで有名な、「使い捨てライター」だった。特ダネではないけれど、読者の興味を引くような記事が欲しいときに、出版社はそのフリーライターを雇う。誇張や歪曲、そういった〝過剰〟を売りにした記事を書く小説家じみた灰汁のつよいライターは、言ってみれば欠陥品だ。自社にはいらない人材だが、たまに欠陥品の書く「優秀な嘘吐きの記事」が入り用となる。そういった意味で重宝されている、ぼくの嫌いな類のライターだった。
代理人こと、岩亡家(いわぼうけ)潤紗(うるさ)の分析と判断は正鵠を射っていた。やっぱり潤紗に代理人を頼んだのは間違っていなかった、とぼくはじぶんを褒めてあげたい。
それを期にぼくは彼女、岩亡家潤紗を、「璃基苑劃」の代理人として正式に雇用した。そのころには、電子書籍として、WEBサイトに掲載していない短編集を販売していて、その収益が結構な額になっていたから、潤紗に支払うくらいの金銭的余裕を保てていた。
ともあれ、代理人という人材を手に入れてからというもの、ぼくはこうして、コンタクトをとってきた出版業界の、いわゆるジャーナリストたちと顔を合わせる機会を幾度か持つようになった。
今日は通算、十二度目の、初顔合わせだ。慣れてきたこともあり、以前ほど緊張しない。ただ、この燈真寺さんはちょいと美人すぎる。ぼくは、良心が痛まないように、「おそらく彼女はこのあとイケメンとデートだ」とじぶんに言い聞かせる。すると、いい具合に、彼女を困らせたくなった。普段から自負していることではあるけれど、ぼくはじぶんをコントロールすることに長けている。
燈真寺さんは、ぼくが面談を承知したことへの感謝の念を簡単に述べてから、さらりと本題に移った。
「まずは最初に確かめておきたいのですが、不躾ながら、『璃基苑劃』なる作者があなたであることをここで証明できますか?」
会った直後、すぐにこう問うてきたのは彼女で二人目だった。前回こう訊いてきたのは、ぼくでも知っているような出版社の編集者だった。彼は中々に優秀で、だからぼくは彼が気に食わなかった。出版の準備があることを熱心に説いてくれたのだが、ぼくはその話を断った。それだけにとどまらず、ぼくはそのとき、彼を利用することも諦めていた。ぼくは優秀な人間が嫌いだ。自分が優秀であることを自覚していて、なおかつ慢心せずにいる者が苦手だ、と言い換えると、ぐっとぼくの本心にちかづく。
実際に会ったとき、こうして、ぼくが本当に「璃基苑劃」であるかを疑うのは普通の発想だが、それをすぐに面と向かって確認してくるというのは、ぼくの知る限りでは、普通じゃない。
「なにをどのように示せば、それが『璃基苑劃』がぼくであることの証明になるのかな」
こう訊きかえすほかない。ぼくには本当に、どうすれば「璃基苑劃」とぼくが同一人物であるかを証明できるのかが分からなかった。誰であっても難しいはずだ。自分が自分であるということの存在証明。
名刺や運転免許証を見せれば証明できる、なんて考えているようでは、そいつはまっさきに詐欺師のカモとなる。戸籍標本や保険証だって同じだ。そんなものを見せたところで、証明にはならない。多くの人間がそれで納得できてしまえるのは、単純に、それらの書類を無条件に信用しているからだ。だが、この世で盲信ほどおそろしいものはない。こうしてぼくが、盲信を盲信的に恐れている時点で、それを証明できていると思う。盲信は矛盾を許容する。
「そうですね。ではこういうのはいかがでしょう」燈真寺さんはカバンからメディア端末を取りだし、ディスプレイを操作した。とある画面を表示させると、こちらに向け直し、「今ここで、好きなお飲み物なんかをここに書き込んでくださりませんか」
テーブルをゆびで叩いて、メディア端末を強調した。
そこにはぼくの管理するWEBサイトが表示されていた。コメント欄に書き込め、ということらしい。管理人が書き込むと、名前欄に「管理人」の文字が付く。
そんなことで、「璃基苑劃」とぼくが同一人物である証明にはならないような気もしたけれど、相手がそれで納得できるのなら、とぼくは懐から愛用のメディア端末を取りだして、操作した。
「一応、お訊ねしておきますが」彼女はカバンをひざのうえに置き、中身を漁りながら、「お好きなお飲み物は?」
「えっと。ラブジュースかな」ぼくは答え、メディア端末を懐に仕舞う。書き込み完了だ。
「そうですか。どんなジュースなのか、飲んでみたいですね」
よくもまあ、白々しいことを真顔で言えるものだ。
ラブジュースがどんな汁なのかを知らないジャーナリストなどいるはずもない。ここで眉を顰めずに愛想笑いを維持できている時点で、やはり彼女は優秀だ。ぼくは彼女のその応答に、心地よさを垣間見た。彼女はカバンを横に置きなおした。
ぼくはわざわざサイト名のよこに、「ラブジュース」と書き込んだ。そうすることで、そのサイトの管理人であることを判りやすく示してあげた。彼女は自身のメディア端末でそれを確認すると、満足そうに笑窪を空けた。
「すごいですね。あんな短時間で、ソースを書き換えたんですか」
彼女はそんなことに感心していた。もう少し、ぼくがそのサイトの管理人であることを驚いてくれてもよいものを、と思わないわけではなかったけれど、おそらく彼女は最初から大して疑っていたわけでもなく、「璃基苑劃」がぼくであると素朴に信じていたために、かようなズレた感想を呟いてしまったのだろうな、と若干期待はずれな彼女のリアクションをぼくは好意的に受け取った。
今回、燈真寺さつきこと、フリージャーナリストの彼女がコンタクトを取ってきた理由は、話を窺う限りにおいて、「短編の寄稿」と「素顔を伏せての、インタビュー」および「売れっこ作家との会談」のお願いにあったようだ。これまでのジャーナリストたちと要件はそう変わらない。ただ、彼女からはどうも、それらの要望を通そうとする熱意が伝わってこなかった。その冷めた感じが、ぼくには好印象だった。もう少し、彼女との会話を楽しみたいと思っているぼくがいる。
「最初にはっきりさせておくけど、ぼくはどこの雑誌にも載せないし、どのメディアからの取材もお断り。ただ、こうして個人的にお話を窺いたいとの申し出であれば、でき得る限り会っておきたい、という思いもあるにはあるんだよね」
「なぜですか」
「知りたいからだよね。ぼくたちの触れることのできる情報の大部分を総括している、マスメディアという媒体集団が、いかほどの希薄さで構成されているのかを。いや、これでは言い方がわるいかも。言ってしまえば、ぼくたちの知ることの許されている情報、ぼくたちが真実だと思っている情報、それらがどこまで真実なのかを、それを発信している彼らはどの程度把握しているのか、を、ぼくは知りたい」
「把握なんてしてないと思いますよ」彼女はしれっと嘯いた。「それが真実である、という保証なんて誰もしてないですし、できないと思います。あなたにとっての現実と、私にとっての真実。これは同値ではありませんね。あなたが真実に、『璃基苑劃』であるのかを私がここで確実に証明してもらうことができないのと同様に、あなたが、〈あなた〉であることをここで確実に証明できないのと同じレベルで、真実というものは、同時に複数存在しています。個人があるだけ現実があり、そのなかで、見出そうとする人物の数だけ、真実が生まれる――そういうものではありませんか?」
「情報の中から真実を見抜くのは、情報を発信する側ではなく、受信する側だと? だから発信する側には責任が生じないと?」
「そういうわけではありません。少なくとも、発信する側には、その根拠とすべき事象が――最小公倍数的にも、そういった事象があったという記録を用意する必要があります。というよりも、用意すべきなんだと私は思います」
「情報を記録し、発信する側が、その根拠に記録を頼りにするというのもおかしな話だけどね」ぼくはここで一旦、話を区切った。ウェイトレスを呼び止めて、パフェを注文する。彼女がパフェを持って戻ってくる前にこの話を終わらせようと試みる。「燈真寺さんもよくよく実感することだと思うんだけど、記録というのは、精確に記そうとすればするほど、カオスに陥るという難点がある。それは、精確に、齟齬の生じないように説明しようとすると、どうしても、説明が繊密になってしまうからだし、それと同時に文字数が嵩んでしまうから。言ってみれば、情報が膨大になってしまう。ただ、現実というものが、無限にちかい情報量から形成されている、と考えれば、それはとても当たり前のことなんだけどね。言っている意味、分かるでしょ?」
「とてもよくわかります」燈真寺さんは首肯してくれた。そのうえで、ぼくの言いたかったことをまとめるように、「複製、または上書きされるごとに、記録は、現実からかけ離れていくものですから」と自身の意見を述べてくれた。
「むしろ、記録されたその瞬間からすでに、現実とは言えないのでは」
ぼくがそう指摘すると、彼女は我が意を得たりとばかりにほほ笑んで、
「記憶が記録の一形態であるというのなら、我々の認識しているこの『現実』というものもまた、充分に現実からかけ離れていると言えますね」
軽やかにこの話題を締めくくった。
この話題でぼくの言いたかった結論はそれだったので、彼女の思惑通り、呆気なくこの話題は終了した。これだから優秀な人間との会話は面白くないのだ。ぼくはちょっぴり不貞腐れる。
***
璃基苑劃の紡ぐ小説もどきでは、概ね人が死ぬ。それも、惨酷に、たくさん。
そのことについて燈真寺さんは、「リモトさんの願望が反映されているのですか?」と実に率直な、言い換えれば幼稚な質問を投げかけてきた。
「思ってないよ。人を殺したいなんて」そう前置きしてから、ただ、と付け加える。「ただ、『殺人がわるいこと』という常識が真実だとも思ってないんだよね、ぼくはさ」
「人を殺してもいいということですか?」
「少なくともこの国では、殺人が許容されてるもの」
やや間を置いてから彼女は、「死刑、ですか」と話の流れを汲んでくれた。
「うん。世界的に見れば、そこに戦争を傍証にあげてもいいよ。人の命が絶対的に尊く、絶対に殺人が許されない、というのなら、殺人者を殺処分するなんてことも許されるわけがないんだ。人の命の尊さをどうしても説きたいというのなら、殺人がわるいことだって本当に信じているのなら――殺人行為はどうあっても肯定または許容すべきじゃない。でも、この世界では、殺人が限定的であるにせよ、許容されている。しかも、社会という合意体がそれを容認している。それはもう、人の命が尊い、なんて言葉がただの詭弁であることの証だよ」
「そう言われてしまえばそうですね。人間だけの命が尊い、なんてこと、本気で信じてる大人はいないと、私なんかも思います」燈真寺さんはそっけなく、それでいて嫌みなく同意してくれた。けれどすぐに、「ですが」とやさしく諭そうとする。「ですが、人間のつくった社会である以上、そこに人間を中心に考えられた規範が組み込まれるのは、しごく自然な流れではないですか?」
「ごくごく自然だね。つまり、人工なんだよね。人の命が尊くて、殺人はわるいことだっていうのは、ひどく人工的な偶像にほかならない。それは真理でもなければ、事実でもない。ただの妄言だもの」
「ですが、私たちが人間社会に身を置いている以上は――」
燈真寺さんの言葉を遮ってぼくは、
「うん。人の命は尊く、殺人はわるいことで、許容すべきではない、という規範に従うべきなんだ」と潔く同意した。同意しつつも、でもさ、とぼくはここで言いたかったことを強調する。「でも、この社会は、その従うべき規範を、自ら破っている。つまり、ぼくたち国民が従うべき規範――人の命は尊く、殺人はわるいことだ――という原則を、この社会そのものが守っていない。それは言ってしまえば、ぼくたちには、人の命を尊いものだと信じる義務はなく、殺人がわるいことだって信じる義務もないってことになるんだよね」
「ですが、人を殺せば罰せられます」
「そうだね。人を殺せば罰せられる」
人を傷つけても、人を欺いても、社会という合意体が規定した法律に反した人間は、罰せられる。だが、だからといって、それがわるいことである、という憑拠にはならない。罰せられるから殺人をしない、というのなら、それは逆説的に、罰せられなかったら殺人をする、または、罰せられてもいいと思った人間は殺人してもよい、ということになり兼ねない。殺人の善悪を決めるのに、罰せられるか否かは関係ない。
また、「殺人者は殺されても仕方ない」と思っている人間というのは、その殺人者と同じ思考を持ち合わせているとも言える。けっきょく誰もが、自分たち――社会のために、マイノリティな人間を殺してしまおう、と考えているからだ。逆に、どうあっても人を殺してはいけない、という思想を徹底的に他者へ押し付けようとする人間もまた、殺人者と同じと言っていい。殺されそうになっても相手を殺してはいけない、というのは、現実問題「死ね」と言われているのと同義だからだ。
「哲学的なお話しになってきましたね。すこし、話を戻してもよろしいですか」
どうぞ、と許可する。
「リモトさんの作品の主人公は共通して、どこか、人間が人間としてあるべき感情の一部が欠如しているように感じます。それというのは、モデルがいるのですか?」
「いないですけど。完全に創作ですけど」ぼくはデマカセを言う。「そもそも、人間が人間としてあるべき感情ってなんだろ? ぼくはぼくの作品のキャラクタたちが人間らしくないなんて思ったことがないもので、ちょっと解り兼ねる意見かも」
「そうでしたか、失礼しました。では、具体的に言い換えます。リモトさんの主人公は一様に、『倫理観』というものを、なんの呵責もなく破っています。通常、私の知る限りにおきましては、そういった良識的な事柄に反する行為をする場合、人間はある種の葛藤を抱くものだと思っています。ですが、リモトさんの作品にある主人公たちには、その葛藤がみられません。それが、私には『感情の欠如』として映ってしまうのだと思います。誤解してほしくないのですが、リモトさんの作品がたくさんの読者を魅了している要素、それというのは正にそこにあると私は考えているんです」
「ああ、なるほど」そういう意味なら、とぼくはすっかり空になったパフェのグラスの底をスプーンで突っつきながら、「たとえばさ」と最初から用意していた話を口にする。
「たとえば、今ここでぼくが殺人するとするね」テーブルに置かれたナイフに目をやって、「そのナイフを用いて、燈真寺さんの目玉を抉ってもいいですし、そこのウェイトレスの喉をかっ裂いてもいい。とにかくぼくが今ここで殺人をするとする」
彼女はやや柳眉を曇らせたが、嫌悪を顕わにする、といった感じではなかった。話の意図が汲めなくて戸惑っているのかもしれない。ちいさく顎を引いて、それで、と無言の相槌を打つ。
「今ここでぼくが殺人することについて、きっと多くの人は考えると思うんだよね。どうしてあいつはそんなことを仕出かしたのだろう、って。でも、ぼくには特に動機なんてないんだよね。いや、普通はあると思うよ。人が人を殺すときにはそれなりの動機が――そいつが邪魔だったからだとか、単純に人を殺してみたかったからだとか、母親への当てつけだとか、ペットを蔑にされた復讐だとか――他人がそれに共感できるか否かは措いといて、大なり小なり、動機があるものだよね。それは拡大して言ってしまえば、人間の行動には総じて動機がある、と言ってしまえると思うんだけれど、それをぼくは支持しない。人間の行動にだって、動機のない行動は多くある。ぼくはそう考えちゃう。だから、今ここでぼくが殺人するにしても、そこにはなんの動機もない。ただなんとなく、強いて言えば、燈真寺さんと会話していて、その流れで、ふと、『あ、人を殺そう』と思っただけ。動機じゃなくてささやかなきっかけがあるだけ。でも、そういうことってあるでしょ? なにともなしに他人を傷つけたくなったりとか、目のまえの雑踏、視界に入る通行人たち全員、死ねばいい――とか、思ったりしません? でもそれは、衝動的とか、発作的とか、そういった怨恨や憎悪だとか、むしゃくしゃしての突発的に湧きたつ感情じゃなくって、単純に『あ、ちょっと息を止めてみよう』だとか『ここですこし立ち止まってみよう』だとか、『無意識的にホコリを払っていた』だとか、しなくてもいいのに、なんとなくしてみようかなっていう、素朴な閃きにちかったりする」
ちょうど青空を見て、ああきれいだな、となにともなしに思ってしまうことに似ている気がする。ぼくがそう説明すると、
「ですが、普通のひとはそこで実際に殺人を犯したりはしないですよね」
燈真寺さんは、控えめに反論を呈した。ぼくは、そうなんだよね、と同意する。
「多くのひとはそこで人を殺したりしない。もちろんぼくだって殺さないよ。でもそれは、殺人という行為のあとに待ち構えるいくつもの『面倒くさいこと』をぼくが、面倒くさいな、って思っているから。言ってしまえば、罰せられてしまうから。だから犯罪の抑止力として、この社会に罰則が存在するのは至って合理的なんだよね。さっきの話じゃないけれど、ぼくは殺人がわるいことだなんて思ってないし、真実、殺人はわるいことじゃない。それでも、この社会に生きている以上、法律は無視できない。いや、無視してもいいんだけど、すると途端に、面倒くさくなる。その面倒くさいことをがまんしてまでしたいと思うようなことじゃないんだよね、人殺しっていうのはさ」
ぼくがなにを言わんとしているのかが解らないようで、燈真寺さんは、苦笑を浮かべている。
「ただ、空想の世界では、その面倒くさいことって、度外視できるでしょ? というよりも、その面倒くさいことを面倒くさいと思わない人間がいても、不自然にならないように、作者が勝手にあれこれ設定できる。具体的に言い換えれば、死刑になったっていい、と思う人間がなんの葛藤も躊躇もなく蟻を踏みつぶすような感覚で人を殺したとしても、それが自然な流れであるように創作できる。むしろ、作者である限り、それが空想であるかぎり、人を殺しても面倒くさいことには決してならない。ぼくは璃基苑劃の作品を通して、擬似的に、かつ、リアルに人を殺している」
「つまりどういうことですか?」
「ぼくの願望の反映というよりかは、ぼくの理想にちかいんだろうね。璃基苑劃の作品って」
殺人が極々身近なものとしてある世界。誰の死もすぐそばにあるということを、忘れることのできない世界。それは、暴力の支配する世界などではなくて、もっと、弱者にこそやさしい世界だった。弱者を食いものとする強者を、弱者がぶっころす世界。それが正当される世界。けれど、強者をぶっころした時点で、その弱者は強者となる。そこで自分ではない弱者を食いものにしてしまえば、遠からず自らも強者として弱者によってぶっころされる宿命に立たされる。この連鎖は、いまのところ、璃基苑劃の作中では、途切れていない。だからまだ、ぼくの理想が、璃基苑劃の作品に反映されているかというと、若干の疑問を禁じ得ないことは否定しない。
ぼくの言わんとしたかったことが、自身の投げかけた質問の答えに結びついたと察してくれたようで、燈真寺さんはようやく頬を緩めてくれた。すっかり手つかずで冷めてしまったコーヒーを一口啜ってから彼女は、
「願望と理想の違いはなんですか」
すぐにそう切り返してきた。予想外の、けれどぼく好みの質問だ。やはり彼女、頭の回転が速いらしい。
「願望は独善的で、理想は公共的なもの」ぼくも負けじと応じる。「少なくとも、自分だけでなく、広く賛同を得られるようなものが、ぼくにとっての理想の意味かも」
「興味深い話ですね。言ってしまえば、リモトさんは、ああいった殺戮の肯定された世界が理想の社会だと考えているってことになりますが」
「そうかもです」
「それは、えっと」そこで彼女は可愛らしく噴きだした。清々しいまでに明るい口調で、「失礼ですが」と断ったうえで、「かなり狂ってますよね。それは」
「うん。狂ってる。でも、狂っていることを自覚しているぼくと、自分たちは狂っていないと盲信している『普通のひと』たち。どっちが正気かは、議論の余地があると思うけどな」
ぼくの言葉を脳裡で反芻しているのか、燈真寺さんは視線をななめ上に漂わせた。すこしの間を空けたのちに、こちらへと視線を戻し、
「同感ですね」
ふんわり、ほころびてくれた。
***
燈真寺さつきを名乗るジャーナリストと接見しようと、本日ここまで出張ってきたのにはわけがある。端的に、ぼくは彼女を利用したい。彼女の経歴、彼女の権力、彼女の財力、彼女のコネクション。彼女がこれまで生きてきたなかで、己にぺたぺた身につけてきたありとあらゆる付加価値を〝ぼくたち〟は利用したい。そのために、こうして遠路はるばる(とはいえ、自転車で四十分ほどの距離だし、言ってしまえばそれこそ、こんな地方都市まで足を運んでくれた燈真寺さんのほうがよほど遠路はるばるなのだけれど)、ぼくはここまで彼女に会いにきた。
「ぼくは人の心が読めるんです」
――と、ようやく口火を切れたころにはすでに、燈真寺さんと対面してから一時間ほどが経過していた。
数分前、パフェのお代わりをしたぼくは、ひと口ひと口リズミカルについばみつつも、さきほど燈真寺さんが喰いついてくれた話――とどのつまりが、璃基苑劃が異常である、という話題――を深く掘り下げて語っていた。
「つまり、璃基苑劃というのは、究極の平等主義者なんだよね。生き物すべてを差別することなく、また区別さえしない。だから作中のキャラクタたちは、人間のことも、蚊を潰すような感覚で、雑草を引っこ抜くような発想で、容易に殺してしまえる」
「ではなぜ彼らは、いわゆる弱い者たちを殺さないのですか? 殺人がわるいことでないと思っているのであれば、もっと無差別に殺人を繰りひろげてもいいように思うのですが」
「そこらへん、勘違いされやすいんだよね。彼らは殺人が好きなわけじゃないんだ。彼らは極めてぼくたちと同じ思考をする。雑草を引っこ抜いたり、蟻の巣を殲滅したからって、ぼくたちは誰からもお咎めを受けない。でもだからって、そこら中の雑草を引っこ抜いたり、虫を踏みつぶしたりしないよね? だって面白くないもの。それと同じように、彼らもまた、殺人を好きこのんで繰りひろげたりしない。ただ、蚊がうるさく飛び回っていたら、潰してやりたくなるし、雑草が大切な鉢植えに生えてきたら、抜きたくなるでしょ? それに、草取りをしてお駄賃がもらえるなら、子どもだって草を抜く。彼らが人を殺すのも、同じようなことなんだよ」
「なるほど。ですがその話は、さきほどされた話――殺人をするのに動機は必要ない――というリモトさんの主張と矛盾するのでは? 今の話では、あきらかに主人公たちには、殺人する動機があることになりますが」
「あるよ、動機。だってさっき話した〈動機なき殺人〉ってのは、ぼくの考えであって、キャラクタたちの考えではないもの」
「と言いますと?」
「ぼくは殺人を、動機なくしてできる人間を理解できるし、ぼく自身、面倒くさくなかったら、人を殺してしまう人間ってこと。ただ、璃基苑劃の作品のキャラクタたちは、ぼくのその意思とは無関係に、独自に殺人している。彼らはぼくではないし、ぼくの分身でもない。ただ、ぼくはそこに、ぼくの理想を――つまりね、動機なんかなくたって殺人という行為を、まるで雑草をひっこ抜く程度のこととして簡単に行ってしまえる人間の存在を、ぼくは彼らに重ねて見ているということ」
「なるほど。あの主人公たちはリモトさんから独立して動いているのですね」燈真寺さんは感慨深げに、「リモトさんもまた、キャラクタたちが暴れだして、勝手に物語をつくってしまうタイプの作家さんなのですね」と言った。
「というよりも、璃基苑劃の頭の中には、この現実世界ではない、もうひとつの世界が広がっている。璃基苑劃は、その世界を俯瞰的に視ることができる。俯瞰的にその世界を眺めたときに、意識せずに、ふと目に入ってしまう個人の人生を、璃基苑劃は、文章を通して、自己の外に顕現させている」
これというのは、窓のそとを眺めたとき、真っ白な積乱雲がまっさきに目に入ったり、巨大な山脈が目に付いたり、または、窓辺に咲く素朴な花に目がいったり――そうして風景に溶け込んでいないような、特別に存在が浮きぼりになっている個――を璃基苑劃は、観察し、メモを取っていると言える。だから璃基苑劃の作品はすべて、ひとつの世界を構成するパズルの一部と称することもできる。ぼくが以前、岩亡家(いわぼうけ)潤紗(うるさ)にそう自慢げに講釈振りまいてみせたとき、彼女は所在なさげにこう言った。「ああ。観察日記な。神さまの」
「神さまなんかいないよ」言い得て妙なだけに、ぼくは憤懣やるかたなかった。
***
「ひとの心が読めるんです」そんなことをぼくは嘯く。
いまでこそ他人の思考を読まずに済むよう、濁流のような他者の思念を意図的に遮断することのできるぼくではあるのだけれど、幼いころには否応なしに他人の思念がぼくの意識になだれ込んできた。ぼくはだから、人間という生き物の持つたくさんの愛らしい性質を、サブリミナル的に記憶する以前に、人間がどれほど醜い生き物であるのかを知ってしまった。
人間は、幼い頃から、極めて短時間に過ぎない儚い場面を、「記憶」という概念に置き換えている。そうすることで自我を育んでいる。貼り絵のように、ぺたぺた、と塗り固めていくことで――それこそ、ロマンチックな映画の山場みたいに強調された「誇張と潤色に富んだ歪曲された情報」としての現実を、自我へ肉付けしていく。さながら、キメ顔ばかりのアルバムといったところだ。写真に映っていない場所では、鼻をほじくり、恥ずかしげもなく屁をこいている被写体(世界)のことなど、ぼくたちは想像しようとさえしない。
そうして人間は、人間社会がぼくたちに刷り込ませようとしている「常識」や「良識」といったものを普遍化し、一般化し、『現実』というありもしない幻相を、個々のうちにつくりあげている。その幻相は、個々によって異なってはいるが、概ね相似している。合同ではないにしろ、縮尺または拡大することで、その輪郭はあまねく合致する。それもこれも、個々が互いに、内なる世界を覗き視ることができないことが、そのような洗脳じみた並列を可能としている。
『現実』という幻相には思考を麻痺させる効用がある。
他人と自分は圧倒的に別種の生き物である事実を痛感させないための麻痺が、恣意的に引き起こされている。『現実』という名の「常識」や「良識」は、本来共有されることのない他者との世界を、「共有され得る世界である」と無条件に思い込ませることを可能とする。わたしはあなたで、あなたはわたしで、あなたとわたしは、だから、私たちという共同体を築きあげている。そういった幻想をあたかも真実であるかのように〈個の世界〉を歪曲させる。その歪曲を可能としている最大の要因が、だから、相手の世界を覗きこめないこと――すなわち、相手の思考を読めないこと。
けれどぼくは、本来視ることの叶わない、〈他者の世界〉を如実に感じることができてしまう。本来、秘められておくべき、人間にある醜悪な感情のあらゆる形態を、ぼくは社会から『現実』を刷りこまれる以前に、この身を以って、〈ぼく〉という存在に刻みこんでしまった。
道端の犬の糞に、普遍的な価値がないように、道端に溢れている人間にだって普遍的な価値などはない。そもそも価値という基準そのものがすでに、万物流転のよい見本だ。流体し、肥大化し、減退し、衰退し。それでも需要が残り、希少になることでふたたび付加されはじめる。それが価値というものだ。
人間が尊いならばほかの生物だって尊くあるべきだ、とぼくは思っている。逆に、ほかの生物が、家畜や害虫として、代替されるべくして代替される商品やゴミとして見做されているとするのなら、人間だって同じように掃いて捨てるほどに溢れた卑小な存在として見做すことのどこが間違っているだろう。間違っているはずもない。ぼくはそんなふうに、懐疑をいだく余地もなく結論していた。人間は尊くもなければ、清らかでもない。虫や雑草と同じように、ただぼくの周囲に溢れていて、たまに干渉してくる介入者。ぼくの世界を穢すもの。ぼくの世界を邪魔するもの。けれど同時に、それらは、ぼくの世界を支えている、世界の一端でもある。
人間は、ほかの多くの物質、多くの生物と、大差ない存在だ。
ぼくにとってはそれが真理だった。
それもこれも、ぼくにある特質、ひとの思考が読めるせいなのだ。
――と、ぼくは慣れた調子で語って聞かせる。
ここでこんなけったいな話を信じる相手をぼくは信じない。
だから仮に、ここで「そういうこともあるのかもしれないな」なんて鵜呑みにする心構えを持ってしまった相手ならば、わざわざ利用する価値もない。仮に燈真寺さんが、そんな素ぶりを見せたのなら即座に、「なんてね」とちゃめっけたっぷりに冗談めかし、今日の接見を終えるまでだ。
だが燈真寺さんは無垢な子どもを愛でるように、「リモトさんにしてはやや有り触れた設定ですね」とぼくが新作の話をしているかのような返答をした。ややもすれば、ぼくのことを小馬鹿にしているふうに聞こえ兼ねないその台詞はけれど、ぼくのことを気遣っている類のフォローに思えた。単純に、そんな話は事実ではない、との前提で彼女は話を受けとっている。
「信じてくれないんですね」ここでぼくは目を伏せる。ぼくなりのしょげた振りだ。敢えて表情を変化させないことで気丈に振る舞っている感も醸しだす。「本当にひとの心が読めるのに」
「なら読んでみてくださいませんか」
冗談を冗談として楽しむみたいに燈真寺さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。そっと触れてみたくなる果実のような唇の合間から、可愛らしい歯が覗いている。
「気、わるくしない?」ぼくは、子どもが母親の機嫌を窺うような上目遣いで、「燈真寺さんの思考を読んでもいいっていうなら、読んじゃうけど」
控えめに彼女を見遣る。
「私でなくても構いませんよ。というよりも、まずはそれが真実であると私に信じさせてみてくださりませんか。できれば、私の思考を読むことなく」
なんともわがままな提案だろうか。だが、その無茶ぶりはこちらとしてみれば好都合だ。
「いいよ。信じてもらえるか否かは判らないけど」
言ってぼくは目をつむり、ゆっくりと息を吐く。精神を統一させる。これは真実に精神を統一させている。慣れてきたとはいえ、人を騙すというのは、さすがに気が滅入る。呵責が必要以上に膨らまないように、こうしてぼくは一度、思考を切り変えなくてはならない。
この瞬間に至るまでぼくは燈真寺さんと少なくない言葉を交わしてしまった。ぼくと彼女の縁は、切れることの可能なほどに繋がってしまったのだ。そんな相手を幻惑するというのは、やはり気乗りしない。いや、相手がぼく好みの女性だから、こうして過剰な自責を予感してしまっているにすぎない。相手がいけすかない男だったならば、ぼくはおそらく、一切の呵責も躊躇も抱かずに、当初の手順で予定を開始していただろう。
そうだとも。予定の時刻はとっくに過ぎている。燈真寺さんとの会話を楽しみたかったからぼくはぐだぐだと予定を先延ばしにしていた。本当ならとっくに、燈真寺さんを幻惑し、利用するのに最適な動揺を彼女に植え付けて、この場を後にしていたはずだった。
だが、そろそろ痺れを切らしてきたとみえる。
時折、ぼくの背もたれが小さく、小突かれていた。音にもならないようなその振動は、けれど、ぼくをほどよく急かした。
後ろの席では、恋人同士に見える男女が、毒にも薬にもならない、他愛もない会話を交わしている。ぼくはちいさく咳払いしてから、
「心が読めるとか、頭ワル」
抑揚なくつぶやいた。
燈真寺さんが小首を傾げたので、ぼくは親指を立てて、背後に向ける。そうすることで、そこに座る爽やかそうな青年の思考を読んだんですよ、とそれとなく教えてあげる。さもそいつが、こちらの会話を盗み聞いていて、内心で嘲笑していたような台詞だ。
背後の会話が途絶える。ぼくはさらに、後ろの席にも聞こえるような声で、
「きみはずいぶんと、女ったらしだね。このひと月で八人の女の子とセックスしてる。その子――ミヤちゃんは、あぁ、今日もこのあとで……ああ、そう。なんというか、お疲れさまだよね。ふうん。ミヤちゃんってば、顔はいいのに、小股の締めがイマイチなんだ。でも、ホテル代とか出してくれるんだね。都合のいい女の子ってわけだ。ふんふん、『なんだこいつ』って思われちゃった。まあ、普通はそう思うよね。でも、どうしてぼくが君のことを解ったような口を利いているのか、その理由を君はすでに知っているよね、ハルヒコくん。いや、吉田竜明くんか」
ぼくが名前を口にした途端、背後にいた青年は勢いよく立ちあがった。
「誰のサシガネだよ!」
随分と古風な言いまわしをするものだ。ぼくは噴きだしそうになる。あまり使い慣れていないせいか、やや口調が硬かった。
「誰の差し金でもないんだよね。ざんねんなことに」ぼくは本当に残念がってみせた。「吉田竜明くん、二十三歳。なんだ、立派に成人してるんじゃないの。へぇ、ミヤちゃんは女子高生か。ふむふむ。これはなにやら犯罪の臭いがするね」
「どういう……こと。ねぇ、ハルヒコくん」
女の子の声が青年のさらに奥のほうから聞こえてくる。彼女はまだ座ったままらしい。
「ミヤちゃん、か。あらら、君は本名を告げてしまっているんだね。ああ、そう。本気で付き合っていると思っているんだ、純情だね、純粋だね。でもね、こんなチャラついた男を選んでしまうキミは男を見る目がないよ――ねえ、橋本ミヤナちゃん。ご両親が知ったらさぞかし悲しむと思うよ」
「な、なんで」青年と女の子、双方の呟きが上手い具合に重なった。
「どうしてぼくがキミたちのことを知っているのか、って驚いちゃった?」相手の確認を待たずにぼくは続ける。「聞いてたでしょ? 人の思考を読むことができる。ぼくはそういう人間なんだ」
青年はこちらを睨み据えている。女の子はそんな男の形相を心配そうに――いや、どちらかと言えばこれは不審そうに――窺っている。ぼくはダメ押しとばかりに、
「サクラバキョーコ。サトウミツル。カワグチマヨ。タチカワカオル」青年が今月に入って肉体関係を持ったと思しき女の子たちの名前を羅列する。最後に付け加えるようにして、「ミウラトオル」
「……うそ、でしょ」
ミヤちゃんの顔から血の気が引いていく。すごいな、と素直に感心する。彼女の演技力はリアルという面で、群を抜いている。TVドラマに出てくるデフォルメされた演技しかできないような俳優どもとはわけが違う。
「信じるなよ、こんなガキの言うこと」
青年が喚くが、女の子は口元を両手で覆って、目に涙を溜めている。青年はさらにぼくの言葉を否定した。
「オレがミヤちゃんの親友に手ェ出すわけないだろ」
あ、墓穴を掘った、といった表情をぼくは燈真寺さんに向ける。その顔で彼女も察したようで、「ああ」と声を出さずに口だけを空けた。
「ハルヒコくん……どうしてトオルがわたしの親友だって知ってるの」
そう、ミヤちゃんはまだ彼に親友のことを紹介していない。彼はまだトオルという女の子と会ったことがないはずなのだ。
「いや、」青年は口ごもる。しどろもどろながらもなんとか二の句を継いだ。「ミヤちゃんが話してくれたじゃん、前に」
「わたし、言ってない」
「あ、違った。オレの友達の友達が偶然トオルちゃんでさ。で、話したらミヤちゃんと親友だって言ってて」
「ウソ! だったらトオル、わたしに言ってくれる。ううん、それが本当だったら、なおさらおかしい。トオルが内緒にしてるってことは、そういうことなんでしょ!」
疾しいことがあったから話してくれなかった。女の子はそう結論し、青年のことを指弾した。
店内に響く女の子の声で、天井から流れるメローな曲が浮きあがった。次いで、よそよそしさと好奇心に満ちたざわめきが店内を満たす。
注目を集めてしまったことを恥じた女の子は、青年の浮気にショックを受けたこととも相俟って、その場から走り去る。予定調和だ。青年もまた、女の子を追って駆けだした。が、事の始終を見守っていたウェイターに引きとめられ、会計を迫られる。
「釣りはいいッ」
ぞんざいに紙幣を手渡し、青年はそとに飛びだした。
***
「随分と手が込んでますね」
開口一番、燈真寺さんはそう言った。冗談じみた口調だったが、本気で抱いている感想のようだった。今の茶番が、ぼくの仕掛けていた演劇であることを匂わせる発言だ。
動揺を悟られないようにぼくは、
「なんなら、燈真寺さんのも読んだっていいんだけど」と強気に返す。
「そうですか? なら、お願いします」
まるで、心が読めるなんて嘘であることを見透かした様子だ。けれど、その余裕こそ彼女のハッタリであることをぼくは見抜いている。さきほどは、嘘であることを確信していたからこそ、彼女は、こちらを立てるような提案をしてきた。つまり、はっきりと嘘か否かの真偽を確かめることのできない手段でもっての証明を提案してくれた。第三者という存在を介すことで、燈真寺さんにはその真偽を確かめることはできない。要するに彼女は、ぼくが恥を掻かないように配慮してくれていた、ということになる。
ただ、予想していたよりも真実味のあるリアクションが目のまえで引き起きてしまった。だから燈真寺さんは、おそらく、当初よりもぼくの「読心」を信じかけている。自身に芽生えた懐疑心を払拭するつもりを兼ねて彼女は、「私の思考を読んでみて」と提案してきたのだ。
燈真寺さんの挑発じみた許可を得たぼくは、まっすぐに彼女の瞳を覗きこむ。聞こえないくらいに、ゆっくり深呼吸をして、
「あなたは、だれですか?」
もっとも根源的なひと言を投げかけた。
***
燈真寺さつき。二十六歳。性別、女。
二十二歳より前の来歴は不明だ。どうやら彼女自身、身分を偽っているらしい。怨まれることの多いフリージャーナリストには、そういった身分を詐称している者が少なくない。むしろ、「燈真寺さつき」という名を未だに使っていることに小さくない好感をぼくは抱く。
燈真寺さつき――インターネット黎明期の現代において、この名を検索すれば、容易にとある事件がヒットする。
通称、「天誅投身殺害事件」または、「悪因悪果事件」と呼ばれている凶悪少年犯罪だ。
十数年前、幼い少女が両親を惨殺し、さらに数か月という短期間に、九名の成人男性を高層マンションの階段から突き落とし、次々と殺害する、といった事件が起きた。
そのとき少女Aは八歳で、少年法により、実名の報道の規制をはじめとする、あらゆる尊厳が守られた。
二十名を超す人間を殺害しておきながら、少女Aは法に罰せられることなく、鑑別所にも少年院にも送致されずに、非行少女たちが親元を離れて一時的に保護される、女学院へと入園させられた。
この凶悪少年事件の特異な点は、少女Aが世論から一概に「凶悪犯」と見做されなかった点にある。殺された側にも殺されるだけの理由があった――少女Aには殺すだけの理由があった――そのように社会は少女Aに同情を寄せていた。
殺人者である少女Aは、定期的に保護司への面談を義務づけられていたようだ。保護司は、一般人からの有志を募り、そこから無作為に選抜された個人に任される。保護司の担当している人物が誰であるのかや、保護司を担っている人物の情報などは、原則、開示されることがない。そのため、件の少女Aを担当していた保護司がどこの誰であるのか、などの情報は、インターネットにも洩れておらず、拾うことはできない。
殺人などの重罪を犯した人物が社会復帰する場合、多くは本名を変える。殺人犯でなくとも、社会的影響の大きかった事件の犯人であれば、弁護士を通して、戸籍の一部を変えることができる。
少女Aもまた名を変えていた。女学院に入園したときからの変更であったと思われる。そのため、女学院で知り合った多くの人物たちもまた、少女Aがどんな事件を起こし、どんな理由で入園してきたのかを知らずにいただろうことは想像に難くない。
そこからの少女Aの軌跡は、海辺を歩んだようにとんと途絶える。足跡を辿れないように社会が少女Aを隠匿しているためだ。
今もどこかで殺人鬼がのうのうとこの社会に息衝いている。けれどぼくには関係のないことだ。殺されそうになれば殺し返せばいい。この国には正当防衛という法律が設けられている。殺意を抱いている者からの自己防衛が正当され得るのだ。
燈真寺さつき、という名をインターネットで検索すれば、容易にこの連続殺人事件について知ることができる。少女Aの本名が、それだからだ。
だが、その逆は難しい。事件名を検索しても、少女Aの本名は拾えない。
だから、「燈真寺さつき」を偽名に使っていても、特に問題は起こらない。
たとえば、かの凶悪少年犯罪の犯人、「酒鬼薔薇聖斗」の本名を告げたとして、それが直結して「酒鬼薔薇聖斗」の本名であると連想する人間は稀だろう。「酒鬼薔薇聖斗」の本名もまた、インターネットで検索すれば容易に知ることができる。のみならず、当時の写真までも見ることができてしまうほどだ。しかし、検索すればの話で、多くの人間は普段の生活の中で調べようなどとは思わないだろう。
それと同じように、「燈真寺さつき」という「少女A」の本名を聞き、すぐにピンとくる者など、普段生活している限り、お目にかかることなど、まずないと言っていい。おそらくこの詐称は、フリージャーナリストである彼女なりのきついジョークなのだろう、と思う。
彼女のことを調べようと思った相手は、燈真寺さつきという名前を検索して、「ぎょっ」とするだろうし、元から知っていた人間であれば、そのことを指摘するだろう。ともすれば彼女は、自分と同じような人間を探してもいるのかもしれない。
一般常識であるかのように、「少女A」の本名を知る人間を、自分のような人種を、彼女は希求しているのかもしれない。
まさか、せっかく変えた本名を自ら名乗っている、元・最年少殺人鬼などとは到底思えないし、現実的ではない。ましてや、彼女の本名もまた「燈真寺さつき」であるなどといった偶然も考えにくい。それこそ、ジャーナリストともなれば偽名を使うだろう。本名が凶悪犯と同じであることで生じる誤解を考慮すればなおさらだ。
ややもすれば、それが本名でさえなければ、その生まれる誤解を屈託なく純粋に楽しめてしまうのが、ジャーナリストという人種なのかもしれない。
と、たいていの人間が都合良く捉えることを、彼女はきちんと理解している。
***
ぼくは燈真寺さんへ、ぼくの入手した彼女自身の情報と、さらに次のような趣旨をさらりと告げた。
「あなたは身分を偽っている」「あなたは璃基苑劃にかなり同調できる人物である」そして、「あなたもまたぼくと同じように、殺人をわるいことだと思っていなく、動機なく人を殺せる人間を理解できてしまうひとである」そういったことをぼくは、燈真寺さんに話して聞かせた。さも、あなたの心を読んだのです、と言わんばかりの神妙な顔つきで。
もっと深く、プライベートなことを探れなかった言い訳としてぼくは、あなたは闇を抱えている、と適当に言い繕って煙に巻いた。闇を抱えているひとの思考は、その闇に塗れて読みにくい、と如何にもな口調で説明する。
「なるほど」燈真寺さんは頷いた。涼しい顔だ。けれどそれは、これまで浮かべていた、ある種の自己防衛じみた微笑とは異なった、燈真寺さんの素にちかい表情にぼくには映った。
「今ので判ったことというのは、ほかの誰よりもリモトさんが私のことを知っている、ということだけですね。もっと言ってしまえば、リモトさんはけっきょく、私の思考を読めなかったわけですし」
「燈真寺さんの闇が深すぎるんだもの」ぼくは調子に乗って、「もしかして燈真寺さん、本物なんじゃない」と揺さぶりをかける。
「ほんもの? なんのですか?」
「燈真寺さつき――それ、犯人の名前」とぼくは指摘する。齟齬が生じないように、「十数年前に起きた連続殺人事件の」と付け加える。
「ああ、お気づきでしたか」しれっと彼女はほころびた。「そのことを見抜いて、わざわざ確認してきたのはリモトさんが初めてです」
「ジャーナリストなら誰でも気づくでしょ。身内でいなかったの? 指摘してくれたひと」
「十八年も前の事件ですから。とっくにみなさん、お忘れですよ」
そんなものかな、とぼくも思う。十八年前、と彼女は言った。そんな遥か過去に解決した殺人事件のことなんて、憶えているほうが異常なくらいだ。幼稚園のころのクラスメイトの名前だってほとんどのひとが憶えていたりしないだろう。そういうものだとぼくは思う。どうでもいいことは、積み重ねられて埋もれていくだけの瑣末な情報として扱われ、脳にある機能から「忘却」の許しを得て、海馬のそこへと沈んでいく。ふたたび掘り起こされない限り、二度と脳裡に浮上することはない。
「信じる、信じないは措いておくにしても、とても興味深かったです。もしや、私になにか依頼されたいことがあったのでは?」
見透かしたようなことをおっしゃる。ぼくは気恥かしかった。
もうなんだかすべてを吐露してしまいたい気持ちを寸でのところで押しとどめ、
「もしも燈真寺さんがぼくのこの体質を信じてくれたのなら――または、信じてもいいって思ってくれたなら、そのときは、ぼくを雇ってみる気はないのかなって」
「小説を寄稿していただける、ということですか」
「いや、そうじゃなくて」ぼくは泣きたかった。ヒーローになりきった青年が道端でばったり母親と遭遇し、あんたなにやってんの、と叱責され、素に戻ってしまったかのような恥辱がある。言ってしまえば、演じることが億劫になってしまった。ばかばかしいのそれだ。「燈真寺さんの職場や仕事先などで、『こいつの思考が読めたらな』と思う相手とかいるでしょ。そいつらの思考を読んであげますよ、ってことなんだけど、でも、その必要もないみたいだね。燈真寺さんにはさ」
「そう、ですね。いえ、読んでいただけるのならうれしいのですけれど」彼女はここで、ふっ、と柔和に目を細め、「ただですね、私の仕事相手は、のきなみ心に闇を抱えている人物ですので、リモトさんのお力が発揮できないのでは、と私などは危惧してしまうのです」
迂遠に断られ、迂遠に虚仮にされた。ただ、不愉快でないのは、ひとえに彼女が大人な対応をしてくれているからだ。ぼくはじぶんが情けない。
「……そう、かもですね」ついつい敬語になってしまう。「じゃあ、まあ。物は試しということで、いつでもいいので、ご利用お待ちしております」
「お呼び出ししてもよろしい、ということですか」
「うん。燈真寺さんの、ここぞ、という時にぼくをお伴に連れていってくれたりとか」
「それはうれしい御提案ですね。機会があれば、是非」
「さきに言っておくけど、会談の席なんて設けられてたら、ぼく、帰るからね。すぐに」
「あ、バレてました」燈真寺さんは下唇を噛みしめた。これまでに見せなかったような、お茶目な仕草で、はにかんだ、と言えばそれにちかい。
明らかに今日は失敗だ。相手がわるかった。今回ばかりは、この作戦を考案したユウゴに不平の一つも鳴らしてやりたくなる。とは言え、恥を掻くのも仕事の一環だ。致し方なくぼくは、頭の痛いおこちゃまを演じ通した。
***
詐欺をはたらく場合、ターゲットへどのように近づくかが問題となる。ただ、人間社会というものはふしぎなもので、どんな人間も他者と必ず繋がっている。だから、その人物にとってもっとも権力の高い人物を紹介してもらい、さらに紹介してもらった人物にとってもっとも権力の高い人物を紹介してもらう、といったように「紹介」を数回繰り返すだけで、一国の首相規模での権力者との接点だって得ることができてしまう。それは丁度、薄い紙を二十五回折るだけで富士山の高さになるのと同じ感覚だ。
趣味ではじめたWEBサイト。期せずして璃基苑劃の小説もどきが、(インターネット内という限られた世界であるにせよ)一世を風靡してしまった。この機を逃す手はない、とぼくたちは――というよりも、ユウゴが立ちあがった。
ユウゴはぼくたちの保護者代わりで、面倒見のいいリーダで、ぼくたちはユウゴの指示の下で、たくさんの嘘とたくさんの虚偽を駆使して、生活費を稼いでいる。その労力は結構にばかにならない。単純に、バイトや日雇いで稼いだほうがよほど楽だと思うくらいに、たいへんだ。
でも、ぼくたちの目的は、生活費を稼ぐことにあるのではない。それはただの副産物で、目的を遂行するための過程で得られる副利益だ。ユウゴはこの社会に復讐を誓っている。ぼくらはそのための駒にすぎない。
ユウゴの復讐を――反逆を――革命を――テロリズムを遂行するための道具。
ぼくたちを拾ってくれたユウゴに対するこれが誠意で。
ぼくたちを匿ってくれたユウゴに対するこれが感謝で。
ぼくたちがこうしてふたたび家族をすることができるようになった、その代償がこれなのだ。
ぼくたちはユウゴのために、他人を騙す術を磨いている。
ぼくたちは自分のために、社会を欺く術を模索している。
ぼくらは孤児で、社会から見放された存在だった。今は、社会から孤立しようと抗う存在だ。
独立ではなく、孤立。
社会に内包されていながらに、社会からの干渉を拒絶するわがままな子ども。
それがぼくたち、
――名もなき家族(ファミリィ・オブ・ノーマーク)。
***
燈真寺さんとの接見を終えたぼくは、尾行が付いていないことを確認したのちに、まっすぐ工房へと戻った。
郊外にある、山沿いに、草原と林が斑に広がっている地域がある。繁華街の駅前から自転車で四十分ほどの距離だ。
外観は一見すれば、朽ちた工場だ。野球グランドなみの草原に、ひっそりと建っている。
錆びた鉄骨の階段を上って、地上から五メートルほどの高さにあるプレハブ小屋を目指す。元は工房の事務所だったと思われるここが、ぼくらのアジトであり、家であり、帰る場所だ。
玄関をくぐると、珍しく潤紗が出迎えてくれた。岩亡家潤紗・二十四歳。璃基苑劃の代理人を買って出てくれた女性だ。ぼくたちのよき姉貴分で、タンクトップにエプロンといった魅惑の服装を好んでしている。ツン、と張った豊満な胸が強調されている。素直な感想として、エロい。目のやり場に困るほどだ。けれどぼくと潤紗との仲はそんなことを気にするほど短くはない。遠慮なくぼくは凝視する。彼女のエプロンは、どろっどろに汚れている。汚れがまったく乾いてないところを鑑みるに、どうやらまだ粘土を捏ねている段階らしい。いや、こうして一服ついているということは、粘土を捏ね終わって熟成させているところか。
「お疲れさん。どうだった」
「どうだろ」ぼくは冷蔵庫からお茶を取りだして、カップに注ぐ。ひと息に飲み干してから、「燈真寺さんには合わない手法だったのかも」と今回は失敗に終わりそうな気配があることを、遠まわしに伝えた。
「今までが上手くいきすぎてたんだ。失敗して当然だよ。ユウゴの作戦はいつだって無茶なんだ。『どんな突拍子もない出来事であっても、一度目の当たりにしさえすれば、真面目な人間ほど無条件に信じてしまう』という主張はいささか強引にすぎる」呆れたようにこちらを見遣って、「〝いくら、おまえが心を読めるったって〟、信じてもらえないんじゃ意味がない」
「それは否定しないけど」
ふしぎなことに、現代人の多くは、リアリストを自称している割に、目のまえで引き起こる不可解な出来事に対しては、のきなみ強引な理屈をこじつけようとする。超能力や超常現象はすべて、からくりありきのインチキとしか見做されない。だから、すこしばかりの脚色をしないと、信じてもらえないのだ。「今回の失敗したら、またユウゴに異議申し立て?」
「失敗しなくとも異議申し立てだ」
出たよ、とぼくは苦笑する。失敗してからでは遅い、が潤紗の口癖だ。
「好きにしたら。ぼくは止めない」この会話はおしまい、とばかりに冷蔵庫にお茶を戻す。扉を閉め、カップを洗って、階段を上がる。ちょっと上ってから、潤紗を見下ろし、小声で、「ねえ、やっちゃんは? 帰ってきてんの」
「まだだな。ラミも戻ってきていないから、女と遊んでるわけではないだろ」
「ふうん」そっけない相槌を打ちつつもぼくは胸を撫でおろす。もしも夜次場が戻ってきていたら、今日のことでグチグチ小言を吐かれそうだな、と気が重かった。ただ、夜になればユウゴも戻ってくるので、夜次場もいじわるにぼくを責めることはできないはずだ。
気持ちスキップで階段を駆けのぼる。
***
ぼくには、岩亡家潤紗のほかに、四人の仲間がいる。彼らを仲間ではなく、家族と言い換えれば、ぐっとぼくの認識にちかづく。
ぼくらは詐欺師で、端的に犯罪集団だ。他人の備蓄を、なんの対価も支払わずに戴くことで糊口を凌いでいる半端者。でもぼくたちは無闇に他人を殺傷しないし、できるだけ当人たちにも、騙されたという傷心を与えないような工夫を、カモたる彼らへ施している。
往々にして、盗まれたと気づかれなければ、被害者は被害者足り得ない。
騙されたと思わなければ、彼らにしてみればそれが真実であり、現実だ。
あとで辻褄が合わないことに彼らが気づいたとしても、それもまた、誤謬の域を出ないようにぼくたちは巧みに詐欺をはたらく。つまり、幻惑する。
人間というものは、変化に疎い生物だ。大きな変動でない限りは、その変化を見逃してしまう。自身に損益が被らない限りは、たとえ変化に気づいたとしても、見て見ぬ振りをする魯鈍な生き物でさえある。
誰も彼もが面倒くさがり屋なのだ。ぼくたちはそんな面倒くさがり屋から、面倒くさがっている怠慢分を、罰金として徴収しているにすぎない。いや、正当化するのは良くない。正当する必要すらない。ぼくらは他人から利益を奪っている盗人だ。そこに偽りはないし、偽る必要もない。ぼくたちが偽るべきは、事実ではなく、ぼくたち以外の他者が認識している『現実』――この社会、からの評価だけである。
今回、燈真寺さつきを名乗るフリージャーナリストの情報を穿鑿してくれたのは、ぼくの仲間である、夜次馬(やじば)紺丈(こんじょう)だ。利用可能な、権力者や異常者がいないか、をユウゴは知りたがっていて、『璃基苑劃』宛てに連絡してきた数々のジャーナリストの中から、適当な者がいないか、を夜次馬が探っている。ぼくは彼を「やっちゃん」と呼ぶけれど、内心では「夜次馬」と呼び捨てにしている。
昼間、ぼくの読心術がきっかけで痴話喧嘩をしてしまい、カフェのそとに飛びだしていった青年、あいつが夜次場だ。けっきょくあのときのドタバタは燈真寺さんの指摘したようにぼくらの演劇にすぎなかったのだけれど、あのときぼくが言った台詞は、彼の名前以外、概ね本当だったりする。ぼくが羅列した女の子たちの名前だって概ね本名だ。ちなみに、夜次場の向かいに座っていた女の子は「浦蜜(うらみつ)ラミ」という名だ。夜次場が彼女の親友と寝たって話も本当だというのだから、ぞっとしない。夜次場は女ったらしだ。だからぼくはあいつが大嫌いである。ただ、ラミみたいに殺意を籠めるほどの嫌悪ではない。間違っても夜次場は、子どもを性欲のはけ口にしたりしないし、どれだけかわいらしくとも、男の子には見向きもしない。
一方でラミは、夜次場を心底憎んでいる。親友を寝取られたうえに、遊びと割りきり、大事な親友をあっさり捨てられたのだから、その憎悪に同調するのはやぶさかではない。だのに夜次場と家族をやっているというのだから、ラミのその自制心にはしょうじき舌を巻く。じぶんをコントロールすることに長けていると自負しているぼくであっても、一度抱いてしまった殺意を自制できるかまでの自信はない。
ぼくは階段をのぼりきる。ここからは先は、二手に廊下が伸びている。
右へ行くと工場内に出る。みんなの部屋や、シャワー室、車庫や書庫、いろんな部屋がある。
左へ行くと、ぼくの部屋――というよりも、ぼくたちの部屋がある。そこには、璃基苑劃こと戦眼ツシカが、ひきこもっている。そう、だから、ぼくは璃基苑劃ではないし、WEBサイトに掲載されている小説もどきの数々も、ぼくが書いたものではない。(ツシカはこの、「書いた」という言い方を好まない。「キーボードを打鍵しているだけなのだから、書いたというべきではない」というのがツシカの主張だ。できあがった作品を小説と呼ぶのも気に障るらしい。飽くまでもツシカは、「物語を記録している」と形容した)。ぼくはWEBサイトの管理人で、ツシカの紡いだ物語をただネットの世界に流しているだけである。
「ただいま、ツシカ。新作はどう。順調?」
部屋に入り、投げかける。ツシカはディスプレイに顔を向けたままで、
「おかえりなさい。〝おねえちゃん〟」
振り向かずに応じた。脱稿していればすかさずぼくの胸に飛びこんでくるツシカなので、どうやらまだ完成していないらしい、と判る。ただしぼくの妹は、創作が順調であっても、PCのそばからテコでも離れなくなるので、そういう意味では、順調なのかもしれない。
気が散るといけないので、ぼくはいつもの場所、部屋の隅に張られたハンモックに包まることにした。足の踏み場もない床を、つま先立ちで、ひょこひょこ跳ねて渡る。空中に張られたネットのうえは、蜘蛛の巣みたいだ。知れず死を待つ蛾の気分を味わう。ツシカの集中がきれるのを待つ。
***
燈真寺さつきは、生粋の人殺しだった。実際に会って、確信した。フリージャーナリストを名乗っているようだけれど、そんなのは嘘っぱちだ。ぼくに会うための方便にすぎない。
ことのほか大きな獲物がかかったようだ、とぼくは内心、高揚している。
彼女は、『璃基苑劃』に会いたがっていた。彼女の内面を覗いてみて解ったのは、そのつよい想いと、彼女がこの十八年間抱きつづけてきた、人を突き落とすことへの、つよい憧憬だけだ。
彼女は十八年前、少女Aだった。両親をその手で殺し、九名の男どもを高層マンションから突き落とし、殺した、連続殺人鬼だ。いまは、その殺人衝動を抑えているようだけれど、ぼくの見立てでは、それもいつまで保つか分からない。
潤沙には黙っていたけれど、ユウゴにはこのことを報告する。きっとユウゴは、ぼくの仕入れた情報を元に、ほかの誰にも思いつかない計画を立ててくれるだろう。
ぼくたちは間もなく、燈真寺さつきという、凶器を手に入れる。
***
閉め切られた室内は薄暗い。PCから放たれている青白い光が、この空間に、仄かな起伏を与えている。
部屋は雑貨で溢れている。綺麗好きなラミからは、「ゴミ屋敷ね」と揶揄されているくらいの散らかりようだ。それでもツシカにはどこになにが置いてあるのかが判るらしく、散らかっているのと同時に、ツシカなりに整理されているらしかった。
ぼくの妹は、日がな一日、雑貨に埋もれるようにして、この部屋でキーボードを叩きつづけている。そのうちPCが悲鳴をあげるんじゃないかって心配なくらいの連打だ。手を止めたら死んでしまいそうな気迫がある。まるで、ぼくには見えない何者かと死闘を演じているかのようにも見える。ある意味ではその通りで、ぼくには視えない世界をツシカは眺めている。ツシカの頭の中にだけある世界だ。ツシカだけの世界。ぼくの妹は、それをぼくにも感じられるかたちで、テキストとして打ち出してくれている。
――記録、している。
ツシカのこの状態を、「ひきこもり」と言われてしまえば、否定するのはむつかしい。ぼくが強気に誘いさえすれば部屋のそとに出てくれるとはいえ、やはりぼくの妹は世間一般に言うところのひきこもりだ。
ただ、この部屋に閉じこもっている限り、シツカは、無意義に傷つかないし、ぼくの願いは「ツシカをこの社会から乖離させてあげること」であるのだから、社会がぼくたちを放っておいてくれない現状、こうしてぼくたちのほうが――ツシカのほうが――社会からの干渉を拒むほかなく、それはどうしたって、閉じこもることでしか叶わなかった。
いまはまだ、ツシカを鳥籠の中で護るしかないぼくなのだけれど、いずれは、この社会のほうを薄暗い箱の中へと追いやり、そこへ閉じこめてやるのだ。
ツシカを見遣る。ちいさな背中がある。冷たく希薄な気配が滲んでいる。ぼくの妹は<世界>を記録しているあいだ、こうして限りなく存在を掠めてしまう。その儚い姿を眺めながらぼくは、今日もひそかにつよく誓う。
必ずぼくが連れていってあげる。
――ツシカを、現実(フェイク)のそと側へ。
【R[I]MOTE-CONTROL】END
【首元に刃が迫るまで】
・プロローグ・『走馬灯』
今日という日を、「昨日の続き」と捉える者がいれば、「明日への手続き」と捉えている者もいるだろう。
または、今日という日を「今」や「現在」としてではなく、「死への猶予」として甘受している者もいるかもしれない。昨日という懐古や悔恨ではなく、明日という希望や絶望でもなく、今日という「最期」を、無自覚にせよ、自覚的にせよ、感受している者たちがいるはずだ。
俺たちは、生まれた瞬間に死を宣告されてしまっている。死神から名刺をもらった者でないとこの世に生まれてくることはできない。だとしても、俺たちが辿るべく終焉というものは、死への道なりではなく、すべからく道なりの末の死であるべきだ。死ぬために生きているのではなく、生きた果てに死ぬ。
どこをどこまで、どんな道を、どこへ歩むのか。いかような道を形づくるのか。それが人生というものらしい。
ところが、斯様なゴールなき人生のなかであっても、突如として道が途切れてしまうことがある。
不慮の死、がそれにあたる。
一方では、寿命ではなく、余命を知ってしまう者もいるだろう。
死が強制的に与えられている時限装置だとしても、タイムリミットを克明に報せてくれているわけではない。だからこそ俺たちは死を忘却し、日々をのうのうと穏やかに、太平楽に、暮らせている。
だがときとして、強制的にタイムリミット((余命))を提示されてしまう者たちがいる。生きている時間のすべてが死への道のりでしかなくなった者、そうとしか感じられない者がこの世にはたしかにいる。
だが、今日という日を「現在」ではなく、「過去」でもなく、「未来」ですらない、変遷も流動も侵食も進行も、なにも引き起こさない、ただただ頽弊されたままの、隔絶された時間として生きている者がいても、俺は構わないと思う。
死にもせず、生きようともせず、ただただあるがままの、自分だけの世界で、自分だけの時間を生きている者がいたって別に構いやしない。
十人十色、人それぞれ、思想の自由、言動の自由、相対主義、寛容主義、なんでもよい。ともかく俺は、今日という日に、一切の意味を付加できない人間がいてもよいと思っている。それどころか、皆が皆、そう思っていたって構わない。むしろ俺はそれを望んでいるのかもしれない。
希望も絶望も。
思い出も悪夢も。
後悔も反省も成長だって。
改善だって無くたっていい。
そんな崩壊しきって、止まってしまった、瓦礫の日常を生きていたって構わないとは思わないものか。
問題を解決する目的が、「平穏な日常における、より多くの自由を感受できる日々を手に入れること」だとして、だったらそんなもん、過程を抜きにしてさきに目的を果たしてしまえば済む話だ。
問題を問題として認識せずに、あるがままを、なすがままに感受する。そのなかで、自分がしたいことだけ、すればいい。
護りたいものがあるなら、守ればいい。
毀したいものがあるなら、壊せばいい。
協同だとか共生だとか、規則だとか秩序だとか、そんなものに拘る必要なんてない。
社会は便利を齎してくれるが、俺という「個人」にはなんの関心も示しちゃいない。
社会が決めた、義務と権利と禁止と善悪そして懲罰。それらに縛られる必要はない。
過去の俺は、あのとき、そんなふうに思っていた。たしかに俺は、そう思っていた。
そう思っていたことすら忘れて、俺はなんの自戒も自責も自律も自制すらなくし、あるがまま、なすがまま、勝手気ままに、人を殺してきた。
縁もゆかりも怨さえもない赤の他人を俺は依頼されたというだけの理由で殺しつづけてきた。他人の代わりに殺人を繰りかえしてきた。欲しくもない金を対価に俺は殺したくもない他人をどうでもいいというだけの理由で俺はこの手で毎日毎日飽きもせず拒絶もせずある目的を果たすためだけに繰りかえしてきた。
過ちがあったのかもしれない。
不安を抱いたことは一度もない。問題を問題と思わずに、あるがまま、なすがままに、死ぬこともせず生きようともせずに俺は、見知らぬ他人を殺しつづけてきた。
これだけ殺してきたというのに、あれだけ殺してきたというのに、どれだけ殺したのかも分からないほどに殺して殺して殺しつづけてきたというのに。
どうしてこうも減らないのだろう。人間というやつは。
殺されてしまう人間も。
殺しを依頼する人間も。
どうしてこうも、減らないのだろう。
どうしてこうも、出遭えないのだろう。
どうしてこうも、行きつかないのだろう。
俺が抱いたもどかしさはいつしか、日々繰りかえしつづけてきた殺人を、憂さ晴らしのための破壊行為として風化させてしまった。ほんとうは俺自身そのことに気づいていた。
気づいていたのだと、今になって、そう思う。
この、
今日という日が、俺にとっての「最期」になるだろう、この、
しゅんかんになって。
ようやく俺は気が付いた。気づいていたのだ、と気が付いた。
自分の泣きたくなるほどの魯鈍を自覚したと同時に、俺はさらに確信した。
俺は今日、
ここで――死ぬ。
『殺意なき殺人』
***五日前***
雑多な喧騒が裏路地に反響している。饐えた臭いが満ちている。こちらからの声はどこにも漏れないだろう、と思われた。事実、さきほどからクソうるせぇ悲鳴を上げているこの男のもとには、今のところ、誰の手も差し伸べられていない。言い換えれば、誰一人として俺の仕事の邪魔をしようと、割って入ってくる者がいない。
裏路地は、表通りに面している。たった数十メートル離れているだけで、ここから数分も歩まない場所では、幾人もの人間が飄々とすれちがい、流れている。
彼らの多くは、他人の視線を気にしてはいるものの、その実、他人の気持ちや境涯なんて差して興味のない人間どもだ。あとの少人数は、他人の視線すらも気にせずに、自分が世界の中心だとしか考えられない――インディヴィジュアリストにもなれない――主観でしか世界を見ようとしないエゴイストだ。
「ゆるしてください、知らなかったんですよ」
男の声が耳をつんざく。そのせいで、くだらない沈思を妨げられた。ありがたいようで、腹立たしくもある。邪魔をされるというのは、どんなことであれ、腹立たしい。ただし、いつだって不愉快な感応に満たされている俺にとって、今さら特別な感情を誘起させられるほどの腹立たしさではない。
尻を地面にこすりつけながら男が、じりじり、と後退している。こちらへ向け、
「冤罪だったなんて、そんなこと」おれはなにも知らなかったんですよ、と必死に弁明している。
嘘だとは思えない。
「だろうな」おまえはきっと本当に知らなかったんだろうな、と同意してやった。
だったら、と男が強気な声を発した。「だったら、おれじゃないでしょうに」
復讐がしたいのなら自分ではなく、ほかのやつにしろ、とでも言いたいのだろう。気持ちは解らないでもない。だが、こいつが執行ボタンを押したのは事実だ。そう指摘してやるとこいつは顔をしかめて、
「したくてしたわけじゃないですよ。仕事だったんですよ」
訴えるでもなく泣きじゃくるみたいに零すのだ。呵責に耐えていたのだろう。それはひとつの真実ではある。さらに言えば、この男のほかに、さらに二名の立会人が、執行ボタンを同時に押していた。誰のどのボタンが、スイッチとなっているかが判らない仕組みらしい。皮肉なことに、その配慮というものは、自責に苛む人数が三倍になっているだけのことで、呵責の念が三分割されるなんてことにはなっていないのが現状だ。
いずれにせよ、この男が執行ボタンを押したことで、無実の罪で自由を奪われていた者が、ついには、不自由すらも奪われてしまった。
すなわち、殺された。
男が押したボタンは、死刑を執行させるためのボタンだった。
今回の依頼はだから、冤罪によって理不尽に命を奪われた者の遺族からの、意趣返し。
夫を、お父さんを、私たちを、不幸にした人間どもに、死を以って償ってもらいたい。罪のない夫がされた処遇がそれなのだから、罪ある彼らが死なない道理はない。
そういった依頼だった。
しごくもっともだな、と無感動に俺は思った。無様に命乞いをしているこの男はその手で明確な殺傷行為に加担したとはいえ、仕事の一環だったのだ。仕事というのは、基本的に、やりたくないことをやることが多いという。ならばそこで、やりたくない、と拒むのは、仕事の放棄にほかならない。
男には死刑執行の立会人を拒否する権利があったはずだ。それでも、いずれ誰かがやらねばならないのなら、自分がやるべきだろう、とそういった無垢な善意が男にはあったかのもしれない。仮に仕事で殺人に加担したというのなら、俺もまた、仕事で殺人をしても致し方ないということになるだろう。だから俺はそう告げた。
「俺も仕事なんだ」下ろしていた銃口を向け直す。「言い残しておきたいことはあるか」と尋ねる。この世のどこにも遺りはしないがな、と胸のなかで付け足す。
男は、びくびく、と全身を戦慄かせている。敬語も立場も忘れ、
「な、なんでおれだけ!」
怒声をあげやがる。おそらく理不尽に自分だけが殺されることに対しての憤懣だ。だがその怒りはお門違いとしか言いようがない。どうせ最期だ。俺はやさしく教えてやった。
「安心しろよ。あんたで最後だ」
引き金を引く。
少女のすかしっぺみたいな音が鳴る。
拳銃から荒い反動が伝わってくる。
男がその場にくずれて地に伏する。
男の右目を射ぬいてやった。これだけの至近距離だ。頭部の損傷はあまり見られない。距離があれば、スイカを棒で突くみたいに頭蓋が破裂していただろう。
こうして至近距離でも拳銃を使っているのは、今回のターゲットがずぶの素人だったからだ。相手が戦闘に心得のある者であれば、こんな近距離で拳銃なんて使わない。ナイフのほうがはるかに相手の自由を限定しやすいからであるし、場合によっては拳銃のほうが不利となるからだ。ナイフであれば、とりあえず手足の健を切っておけば、ターゲットの行動を制限できる。もしも相手が暴力行使の玄人であれば、互いに邪魔の入らない場所を選ぶ、といった暗黙の合意だって成立する。
それが素人の場合、ナイフではあまりにも効率がわるい。暗黙の合意が成立しないために、こうしてひと気のない場所まで誘導しなくてはならない。誘導するにしても、ナイフだと無闇に抵抗を試みようとするバカが湧いたりする。拳銃をひけらかして脅すほうがよほど手っとり早い。
これまでにも、幾人かの玄人を殺したことがあった。ただし、そいつらも、せいぜいが死闘をくぐり抜けてきた程度にすぎなかった。常に死を奪うことを目的と定めて生きている人間、そういった外道ではなかった。
俺がナイフを使わざるを得ない相手というのは大方が、同業者だ。
犯罪請負人。いわゆる、代行者(エージェント)。
やつらは、死とはなにか、を知っている。それゆえに死を恐れない。
死がどれほど有り触れていて、どこにでもあるということを知っている。生があるのと同じくらい日常に溢れている卑近そのものであり、生とおなじくらいくだらない事象だという宇宙規模の理を知っている。
だからやつらは他人の、命を、生を、魂を、造作もなく憎悪もなく、淡々と踏みにじることができる。
あいつらと同じだ。
そして、俺と同じだ。
あいつらと俺は、同じなのだ。
望んで、選び、おなじ穴のむじなとなったとはいえ、それを思うたびに、自然とどぎつく奥歯を噛みしめている。ぎりぎりと。ぎしぎしと。不愉快が常の俺であるにも拘わらず。俺はあいつらを思うときだけ、ぜったいの殺意を、何度も何度も抱き、幾重にも凝縮させてきた。
この殺意だけが、俺を、死にもせず、生きようともしない、かぎりなく空虚な中身のないハリボテにしてしまった。凝縮された殺意を、うすっぺらく延ばしてふくらませた外皮だけ。たったそれっぽっちの希薄さだけが俺を俺として確立させている。存続させている。
俺には過去がない。未来もない。現在すらどこにもない。
俺の人生はあのとき、確実に途絶えた。途絶えておきながら俺は、そのときに抱き・凝縮し・望んだ殺意で、俺としての形骸をこうしてこの世に漂わせている。
ふたたびあいつらと出遭う偶然がこの身に巡りくるまで。
俺は俺としてとっくに溶解しておきながら、蒸発しておきながら、がらんどうの存在になっておきながら、こうしてあいつらへの殺意が消えるまで、干からびたナメクジのように、屑みたいな残骸としてこの世をただひたらすらに当てもなく、それでいて放浪する意思もなく、人を殺しつづけていくのだろう。
あの外道どもと同じように。ただただ単純に、目的もなく、意味もなく、子どもがふと思いついて気まぐれに雑草を引き抜くように、人を殺しつづけていくのだろう。
そうすることでしか俺は、あいつらと同じ外道に落ちることでしか俺は、あいつらとの念願の遭遇――殺意にまみれた邂逅――をこの身に宿すこともできないのだから。
だから俺は、なんの目的もなく、意味もなく、淡々と依頼された人間を殺しつづけている。
善も悪も関係ない。
俺は俺のためだけに、俺は俺のやりたいことを、俺は俺が許せないから、俺は俺を殺すために、俺は俺で、殺人者になることを、望んだ。
あいつらと同じ外道になることを、選んだ。
けだものどもが俺を、死にぞこないの屑みたいな形骸にした。あいつらが。俺の大切なひとたちと、俺の大切な時間と、俺たちの人生を、奪った。踏みにじった。あいつ。あいつ。あいつ。あいつらと同じ代行者(エージェント)とに、俺はなった。
それはすべて、あのとき大切なひとたちを救えなかった俺の贖いでもあるのかもしれない。または、こうして独りこの世に取り残されてしまった俺のできるゆいいつの自殺手段なのかもしれない。
どれでもよかった。どうでもよかった。
行動原理も。動機も。目的も。意味も。人生も。命も。秩序も。社会も。平和も。
平等に、理不尽に、どうでもよかった。
社会があいつらを裁いてくれないというのなら俺は、怠惰な社会そのものをあいつらと共に捌いてやりたいと願った。
俺の大切なひとたちが絶叫をあげたあの夜。父は、母は、姉は、自分以外の家族の命を乞うていた。「娘を」「娘を」「母を」――助けてやってください。父や母や姉たちが、「なぜですか」「どうしてですか」「話しあうんじゃなかったんですか」と殺意を向けられる理由を問うているあいだも、社会という個人の複合体は、まったく俺たちを省みてはくれなかった。それはそれで仕方がないことなのかもしれない。見えない場所で起こっていた虐殺だった。俺の大切なひとたちの叫喚に応じてくれることもなければ、畏怖に沈んでいた俺の無様な祈りが届くわけもなかった。
ただ、どうして、どうして社会という個人の複合体は、俺の家族の死を悼んでさえくれなかったのだろう。それだけが解せなかった。それだけに許せなかった
しばらく経ったあとで分かったことだ。
――なかったことになっていた。
俺の大切なひとたちは殺されていない。死にはしたが、殺されてはいない。そういうことにされていた。たしかに殺されたにも拘わらず、俺の目のまえで殺されていたのにも拘わらず、社会的には俺の家族は事故によって死んだことになっていた。
おかしかった。なにもかもがおかしかった。あまりに不自然すぎて、逆に俺のほうがおかしくなったかと思った。
大切なひとたちの殺された場所。たしかにあの場所には、翌日になって警察が立ち入っていた。俺はそれを、遠巻きに眺めていた。
あの夜、
「そこにいな」「うごいちゃだめだからね」
言ってくれた姉と母。父は無言でうなずいてくれた。
あの日の俺はだから、その場から動かずに、大切なひとたちの殺されていく場面を、刻々、と目に焼きつけていた。絶望と瞋怒と、畏怖と殺意と、相乗された感情は凍てついた灼熱と化して、俺を俺として形づくっていた幾多もの過去と記憶とぬくもりと日常を、俺にあったはずの未来ごと、無残に霧散霧消させた。
からっぽになってからも俺はしばらくその場に潜んでいた。腹が減っても、喉が渇いても、凍えても、痛くても、俺はじっとそこから大切なひとたちの遺体が運ばれていく様と、わらわらと集まってきた人間たちが去っていって、その場が、ふたたびあの夜みたいに寒々閑散としてからも、俺はずっとそこに潜んでいた。
そのまま死にたかったのかもしれない。
そのまま逝きたかったのかもしれない。
家族のもとで生きたかった。それが叶わなくなったと知った俺は、行きたかったのかもしれない。せめて、家族と同じ結末まで。この人生の終焉まで。行きたかったのかもしれない。
だが、行きたければ歩まねばならない。それは、死ですら例外ではなかった。
あのときの俺は、ただただ死が訪れることを待っていた。それがいけなかった。ただ待っているだけで死が訪れてくれるには、俺はまだ幼すぎた。
貧弱な身が、意識を朦朧とさせ、脆弱にさせたころ。俺はその霞む意識のなかでたしかに見ていた。
俺のなかに刻まれた、家族たちとの日々を。過去を。記憶を。俺は見ていた。
それらは、するする、と消え去っていった。これ以上、俺の命が削れないようにと。俺のなかにあった大切なひとたちが、笑いかけてくれたり、叱ってくれたり、諭したりしてくれながら、するする、と白滅していき、やがてまっしろに溶けこみ、反転し――夜空の向こうへ同化した。それっきり、二度と俺は大切なひとたちと逢うことはなかった。
俺はそのとき、ぬくもりごと遠ざかっていく大切なひとたちを呼びとめようと懸命に駄々をこねていた。情けないほど必死な俺へ向けてあのひとたちはどこまでも困った顔で、子どもを諫めるように、俺ひとりをそこへ留めようとしていた。これ以上ないほどの、ありがた迷惑だった。
ほんとうに俺のためを思っていたというのなら、ただそばに、一緒にいてほしかった。一緒に消えてしまうにしても、そのほうが、ひとり残されるよりもよほどよかった。
俺は、一生に一度の、人生を賭けたお願いを叫んでいた。一緒に連れてってくれと。独りにしないでくれと。俺は叫んだ。
それなのに、大切なひとたちは、困った顔で、「そこにいなさい」「そこで生きなさい」と俺を突き放す。姉にいたっては、
「きょうだいげんか上等だよ、我が弟」
いつもと変わらぬ屈託のない、けれど頑固な眼差しを注いでくる始末だった。
俺の大切なひとたちは、俺の一番の望みを拒絶して、俺のもとから、完全に、永久に、その姿を消した。
俺にある大切なひとたちの記憶はだから、あのときを境に、すっかりと白滅に侵食されて、映像ではなく、記憶でもなく、ただただ「そんなふうだった気がするな」といった漠然とした印象に成り果ててしまった。
あの一夜で俺は、一度になくしてしまったのだ。
大切なひとたちと。
大切なひとたちとの思い出と。
大切なひとたちが、どうして大切だったのかというその根拠を。
俺を俺として形づくっていてくれていたはずの根源、そのものを俺はなくしてしまった。
あの日、あの時、あの場所で。
同時にそれは、俺から奪ったやつらがいたということで、奪われた以上、俺はそいつらから取り戻さなくてはならないということで、取り戻すためになら俺は、俺から〈俺〉を奪ったそいつらと同じことをしてでも俺は。だから、なにを毀してでも俺は。あいつらから「あいつら」そのものを奪うために、あいつらという存在を破壊し、砕き、殺し経て、〈俺〉という「あいつら」を手に入れなくてはならない。そう思った。
――鬼族。
俺から〈俺〉を奪ったあいつらの名だ。
あいつらの死によってのみ、俺は〈俺〉としてふたたびの生を得――そして、死ぬことが許される。
たとえ俺が死んだって、もう二度と大切なひとたちのもとへは行けないことくらい、俺は弁えている。それでもこのままでは、あのひとたちを忘れたまま――俺は死ねぬままに――〈俺〉ではない何者かとして――俺はこの世からすっかり消えてなくなるほか術はなかった。
しゃぼんだまがはじけて、そこにあったのかも判らない、痕跡ごと霧散する、幻じみた消滅だ。
消滅の軌跡そのものが消滅する消滅だ。
過剰な消滅しか、あの時の俺にはなかった。いや、今もそれは変わらない。
大切なひとたちが、事故死として扱われているように。
俺の死はきっと、死亡すらしない死滅として扱われる。
存在しない存在である俺は、死ぬことさえもできない。
だから俺は、あのとき――大切なひとたちに突き放されてしまったあのとき――それでも一緒にいたかった〈俺〉として、大切なひとたちが辿った結末を――同じ死という存在の崩壊を――この身に宿したいと願っている。
そのために俺はこうして、あいつらと同じ殺人代行者(エージェント・マーダ)として、ここにいる。
***一日前***
「基本的に現代社会は腐っている。見た目はきれいに潤色されてはいるけれど、その実、内部はどろっどろに腐敗している。この潤沢に溢れた社会の基盤は、吐き気を覚えるほどの理不尽な暴力によってその枠組みを形成しているの。誰かが誰かを虐げ、そうしてできた犠牲のうえにこの社会は成り立っている。醜悪であるにせよ、悪ではない。少なくとも自然とはそういうものよ。ねえ。きみはどう思う?」
俺に殺される前にその女はそう言った。肝臓を撃たれ、瀕死だった。
「まったくのその通りだよ」
同意してやったのは単なる気まぐれだった。俺にとっては腐敗も醗酵も、醜悪も潤沢も、代わり映えのしない空疎な価値観にしか思えなかった。どちらにしろ、一瞬の閃光にすぎない。万物流転。そういうものだ。
その日。俺の仕事はその女の護衛だった。なにをしでかし、追われているのかは詳らかではない。女は追手から逃げていた。俺の同業者どもからだ。断れるものなら断りたかった。護衛は俺の領分ではない。なし崩し的に引き受ける羽目になったのは、女が俺のアジトまで逃げ込んできたからだ。そこを追手であるほかの代行者どもに嗅ぎつけられた。気を抜いていたわけではなかったが、興が乗らなかったことも確かだ。それを言い訳にするつもりはないが、三日目にして、女は負傷した。
女は自ら死をせがんだ。このままだと、きみは殺され、わたしは捕まる。そう言って、俺に殺してくれ、と頭を下げた。腹からは真っ黒い血がどくどくと漏れている。瀕死であるし、致命傷だ。
三日行動して判ったことがひとつだけある。追手は女を殺す気がない。だからこの負傷は俺にとってだけでなく、やつらにしてみても不慮の事故だ。回避できることならある程度の融通は利くだろう。交渉の余地すらある。
あいつらに捕まれば死ぬことだけはないのではないか、と――投降する道もあることを提案してみたが、女は、「いやよ」と首を振るだけだった。
「わたしの頭のなかにある機密。これがどれほどのものか、あなたに見せてあげたいものね」
「見せられてもわかりゃしないさ。生憎と俺は学がないんでね」
「関係ないわ。物の本質を見極めるのに必要なのは、そんなものではない。それを知らないあなたではないはず」
「いいや、知らないね。俺はなにも知らないさ。知っていることと言えば――」
「――なにも知らないことだけ」女が口を挟むようにした。「ね? あなたは本質がなにかをきちんと知っている。学を得た、と満足した時点で人は本質を手放すものだもの」
「えらそうに抜かすなら、助かる術を模索しろ」
「だから頼んでるんじゃない。いますぐ殺して」
――わたしを破壊して。
縋るような目が俺を射ぬく。黒い瞳。固い決意が映えていた。俺は女を見下ろして、
「言い残すことは、あるか」
「ええ。ありがとう。楽しかったわ」
この三日、いちども見せなかった笑顔を、女はそのときようやく浮かべた。俺はできるだけしずかに。苦しむ余地も与えないよう、女の眉間を撃ち抜いた。
***本日***
女の遺体を埋葬したあと。俺へ仕事を配分した企業であるところの、人材派遣会社「ボディ・カーニバル」のビルへと足を運んだ。本社はこの街から数百キロ離れた大都会に置かれている。
俺の仕事は護衛じゃねえぞ、と文句を言いに来たわけであるが、期せずして、女を追っていた暗部のやつらと鉢合わせした。たまに、こんな日もある。
「なんだ。あんたも苦情を言いに来たのか?」
気さくに話しかけてきたのは、俺の愛車をつぶしやがったやつだ。だが仕事での損益は十割自分の過失であり、自己責任だ。俺だってやつらの仲間を二人殺した。喧嘩両成敗ではないが、これは痛み分けだろう。俺は無視して担当の霜根(しもね)のもとへ赴く。
霜根タダシ。名前のごとく、下ネタ好きな下等生物。人をおちょくるのを趣味としている無粋な男だ。俺がこの道へ足を踏みこんでからの付き合いになる。最近どうも俺を、便利屋かなにかと勘違いしている節がある。仕事で同業者を相手にする場合は、あらかじめ知らせておくのが定石だ。あまつさえ今回の暗部はクルーだった。多勢に無勢。意味もなく苦労した。警告を怠った責任は軽くない。下手をすれば会社からの粛清行為かと判断し兼ねなかった。そういう意味でも、命拾いしたな、と皮肉をぶつけてやりたい。
「はやかったね。ごくろうさま」いけしゃあしゃあ、と霜根が出迎える。「失敗したらしいけど、今回はこっちの不手際でもあるからね。半額だけ支給しとくよ。特別だかんね」
「社員を馘首する仕事ってのはないのか。俺はいますぐにでも、てめぇの首を掻っ切りてえ」
「物騒なことを言うね。でも、仕事ってのはいやなことをするから仕事足り得るんだよ。したい、やりたい、だけじゃ仕事とは言えないよ」
「説教される筋合いはねぇよ」
「仕事あるけど、どうする?」
話が通じない。どうせ皮肉を口にしたところで、「命拾いってさ。命を拾ってもらうんじゃなくって、拾うわけだから、それってつまり自分のおかげだよね」と煙に巻かれるのが落ちだ。
「護衛だったら容赦しねえ」
「安心しなよ。護衛じゃない。そもそもボクぁ、きみにも女性とのだね、お付き合いというものをだね、体験してもらいたくってだね」
「うっせえよ。いいからはやく言え。どんな仕事だ。だれを殺(や)ればいい」
「飢えてるねえ」霜根は相好を崩すと、これだね、とメディア端末を寄こしてくる。必要な情報が入力されている。前回の仕事で渡された端末は、現場で処分してしまった。万が一にも俺が殺されるとも限らなかった。些細な情報でも相手に渡さないのが俺の流儀だ。とは言え、相手もここから派遣された刺客であるのだから、事実上、俺の(本当の意味での)雇い主(ボディ・カーニバル)には一切の損益が生じない。人材派遣会社という同じ場所から、別個の雇い主へと派遣されて、互いに殺しあう。奇妙なようで実に社会的だ。
誰もが代理人を介して暮らしを維持している。それと共に、誰もが代理人足り得る仕事に就かねばならない。社会とはそういうものだ。多くの作業を、大勢の人間で分配し、作業効率を高め、低コストでの大量生産を可能にする。社会の役割とは概ねそれだ。自給自足をせずに済むように。より潤沢な暮らしができるように。
そういう意味において、自分の代わりに争いを請け負ってくれる者がいてもなんらふしぎではない。むしろ合理的ですらあるだろう。そのうち、戦争だって代行され始めるかもしれない。現に、抗争程度なら、実質的に、雇った代行者の死んだほうが負けとなる。もし相手が代行者を雇っていなかった場合は、問答無用で代行者を雇っていたほうの勝ちだ。魔法のアランジン。そういうものだ。
霜根から紹介された今回の仕事は、魔法のアラジンを一匹毀してほしい、というもの。つまり、同業者殺しだ。最近では、『共喰い』と呼ばれる、同業者殺し専門の刺客がいるらしいが、そいつの出番となるにはまず、俺みたいな手頃な駒をぶつけて相手の力量をより精確に把握しておくのが定石だ。言い換えれば、俺がそいつに殺されても構わない、ということだろう。言うなれば、俺もまた、壊れた魔法のアラジンということになる。
前回、俺に任された仕事は女の護衛だった。にも拘わらず、俺は女を殺してしまった。護衛の対象は女であったにせよ、おそらく雇い主は別にいたのだろう。俺の独断が気に食わない誰かさんは、俺の処分を「ボディ・カーニバル」へ依頼した。こうした場合、ほかにも代行者の処分を希望する依頼があれば、互いに殺しあわせ、残ったほうを『共喰い』に始末させる。ざっとこんなところだろう。だが、これが初めてではない。今までも幾度かこんな茶番に付き合わされたことがある。その都度、俺は相手を殺した。あまりにも呆気なく俺が生き残ってしまうものだから、逆に俺への評価が高まった。今のところ俺は『共喰い』とは出遭っていない。
今回もおそらく同じだ。あわよくば俺が死ねばいいと望みながらも、邪魔な代行者を始末させようとの腹積もりがこの依頼には透けて見えている。強いて言うなれば、『共喰い』のレプリカこそが俺になるのだろう。むろん、奴らは、俺がそのことに気づいていないと思っているのだろうし、そもそも気づいていても反逆しようとする男ではない、と高をくくっているだけかもしれない。現に俺はなにもしやしないし、なにをするでもない。依頼された仕事を熟すだけ。殺して殺して殺しつづけるだけだ。俺にとって同業者を殺すことは目的の遂行には欠かせない過程でもある。その末に、いずれ、俺の求めるあいつらをこの手で始末できればいい。それが果たされたとき、俺は〈俺〉として死ぬことが許される。
「ということで、よろしく」霜根が冗長な口上をようやく結んだ。「前金だけは振りこんどくから。生きて帰ったら残りもね」
メディア端末と一緒に「鍵」を受けとる。俺は言葉も返さずその場を去った。生きて帰ったら――。霜根の言葉が脳裡にこだまする。生きてなどいない俺が、生きて帰ることができるとすれば。
――あいつらをこの手で殺せたときだ。
うすぐらい空。分厚い曇天だが、雨の降りそうな気配はない。駅前へと歩を向ける。尾行されていることにはすぐに気づいた。相手も隠すつもりはなかったようだ。人通りの多い道に面したカフェへ入る。窓際の席に座り、珈琲を注文する。ここからだと店の入り口がよく見える。予想通り、来店してきたのはあの男だった。さきほど人材派遣会社「ボディ・カーニバル」で遇った男。つい先日死闘を繰りひろげた相手だ。
「これはまた。奇遇だね」断りもなく男はこちらの対面に腰を下ろした。
「一人か? 不用心だな」そうではないと判っている。ジョークの一種だ。遅れて入店してきた客にも見覚えがある。「なんの用だ。場所を移すならそうするが」
そこでウェイトレスが注文を取りに来た。男はパフェを注文した。邪魔が去ったのを見届けると、
「おれは芝久(しばく)蔵良(ぞうら)。先日は世話んなった。おまえに首を掻っ切られた男の兄だ」
親切にも自己紹介をしてくれやがる。
「お礼参りにでもしにきたか」俺は名乗らない。要件を言え、と促す。「なんならここで遣りあうか」
「いや。死んだのは弟の自業自得だ。哀しいが、誰を責めるでもない」その声に悲愴は滲んでいなかった。「ちょっと話をしたくてな。情報交換ってほどでもないが、まあ、話だけでも聞いてくれ」
「二分やる」
「助かるよ」腕を祈るように組むと芝久は口火を切った。「単刀直入に言う。おまえ、『共喰い』が何者か、知らないか?」
***述懐***
最近、耳にすることの多くなった巷説がある。通称、「毒草」と呼ばれる代行者殺し。代行者でもなく、『共喰い』でもなく、「ボディ・カーニバル」にさえ登録されていない無法者が、俺たち代行者を殺し歩いている。
という噂だ。
無断で失踪する代行者どもがいるために、そうした根も葉もない噂がささやかれる。遁走した代行者は粛清の対象だ。「ボディ・カーニバル」を主軸としたネットワークに触れずに暮らすことなど実質不可能だ。
仮に「毒草」とやらが本当に存在したとして、秘密裏に代行者どもが処分され、遺体が発見されないにしても、代行者同士が戦闘を繰り広げれば、それなりの痕跡というものが残る。この都会で、人知れず戦闘を交えることのできる敷地というのは限られている。そこに痕跡がない以上は、代行者が勝手に行方を晦ませたと考えるほうが自然だ。
仮にそうでないとすれば、よほど腕の立つ暗部がいることになる。代行者を音もなく殺させるほどの暗部が。
暗部――人殺しを生業にする人ならざるけだもの。
代行者もまた暗部であるにせよ、組織化され、道具としてこき使われているとなれば、けだものとは言い難い。飼育され、調教された、猟犬。それが代行者だ。
およそ十二年前のことになる。当時、暗部同士の殺しあいが連鎖的に拡大しつつあった。報復による報復。個人で殺人代行を生業にしていた暗部どもが、仕事の過程で鉢合わせし、互いに殺しあう事態が多発した。仕事のあとでも因縁は残り、意趣返しが横行した。不毛な殺戮時代が築かれつつあった。そこに一線を引いたのが人材派遣会社「ボディ・カーニバル」だ。独立していた暗部どもは、組織化され、根こそぎ統合された。
仕事での損益は自己責任、との規定が合意のもとで成立した。絡み合った報復の連鎖は、いちど解かれた。
だが、それは暗部どもの理屈だ。
争うことを忌避し、平穏に暮らしたいと希求している大多数の人間。彼らにとって、暗部の仕事は、奇禍にもならない理不尽そのものだ。唐突に、なんの警告も説明もなく、突如として家族を殺される。人生を根本から狂わされる。覆される。それを怨むことのなにがわるい。けだものどもを殺してなにがわるい。
報復の連鎖は途絶えたかもしれん。だが、報復の炎は、いくらでも個人のなかで灯りつづけている。崩された人生を火種にして。あらゆる犠牲を払いながら。彼らはいつだって復讐の機会を窺っている。
俺もまた、そのうちの一人にすぎない。
毒草。仮にそんな野郎が存在するならば、そいつもまた、人生の瓦礫を燃やし、猛る業火に身を焦がしている――救いようも、救われようもない――生きることもなく、死ぬこともできない――憐れな亡霊。
存在しない存在、なのかもしれない。
***
芝久蔵良から持ちかけられた話は、要約すればみっつだ。
・俺が『共喰い』ではないのか、といった疑惑。
・そうでないのなら、『共喰い』を処分しないか、という勧誘。
・断るにしても、『共喰い』に狙われそうになったら教えてくれ、との懇願。
俺はそのすべてを、否定した。俺は『共喰い』ではないし、俺の求めている獲物もそいつではない。仮に『共喰い』が俺の求めている獲物だとしても、だとすればなおさらおまえらに横取りされるようなことはさせない。俺を穿鑿するのは勝手だが、おまえらに協力する義理はない。俺は席を立つ。引きとめるでもなく蔵良がつぶやいた。
「おまえに心臓を抉られた女。あれ、おれの姉きだったんだ」
その声には、身を切り裂くほど鋭利な切なさが籠められて聞こえた。殺されたことへの憎悪よりも、愛しいひとを守れなかった自責の念。または、単純な悔恨か。
「……わるかったな」
「いや。自業自得さ」
代行者らしくない爽やかな青年だった。だからでもないが俺は伝票を取った。パフェくらいは驕ってやってもいい気分だった。贖罪というよりも、むしろ仲間意識が芽生えていたのかもしれない。実にくだらない。
カフェを後にしたその足で俺は今回の仕事を手掛けることにした。
メディア端末に記されている情報によれば、対象は今日、少女三人を惨殺する。
***
若者の考えが上の世代に理解されないのは世の常だ。基本的に若者はなにも考えちゃいない。だから解らなくて当然だ。漠然とした夢をみているか、もしくは漠然とした将来への不安を抱えているかだ。その漠然としたモヤモヤから脱しようと、脳内麻薬を分泌させたがるのが若者の性質だ。刺激を求めるのはなにも、現実逃避したいからではない。現実というものを実感したいからだ。大人たちの敷いた社会への貢献と、大人たちが強いる将来への期待と。レールとルートの狭間で若者はいつだって燻られる運命にある。だからこそ若者は、生かされているのでなく、自らが自らによって生きている、と実感したがる。私は私である、という特別性を見出したい気持ちは解らないでもないが、そうやって自分が独立した個として存在できる、と夢見てしまえること自体が、まだまだ若いと言わざるを得ない。どれほど著名になろうとも、どれほど自由になろうとも、自らがあらゆる存在に支えられていることを知り得ないようでは、大人とは言い難い。
命、という何にも替えがたい代物を奪うことで、存在の形骸を留めている俺だからこそ、ここまで偉そうに嘯ける。考えるまでもなく、俺は多くの他者によって存在し得ている。巨大な太陽が、小さな砂利にさえも影を与えているように。社会によって俺という形骸は亡霊のごとく彷徨いつづけていられる。
いずれにせよ、若者の考えなど俺には解らん。衣食住に困ることがない暮らしのなかで、なぜ買春に手を出してしまうのか。そこまでして金がほしいわけではあるまい。彼女たちは肉体を穢そうとすることで、生きていることを実感したいのかもしれない。まっさらな存在が、真っ白い空間にあるかぎり、自らの存在を証明するには、汚れるしかない。だが、売春ごときで穢れるのは、せいぜいが、青くて食えたものではない魂くらいなものだ。熟す前に穢れた魂は、いずれ存在そのものを腐らせる。そうして彼女たちは、まっしろいままで、中身だけを腐らせ、存在証明を果たせぬままに、真っ白い空間に埋もれていく。埋もれた結果、突き抜けて、堕ちてしまう者もいる。大なり小なり、大人とはそうしてできあがる。
どういった経緯で依頼されたのかは定かではない。売春グループの少女たちを消してくれ、と依頼された男がいた。俺はそいつをこれから殺しにいく。
裏街のホテルだ。七階の077号室。階段はない。エレベータでしか上がれない。エレベータの扉は暗証番号を入力すると開く。箱のなかに入っても、昇降ボタンはない。代わりに鍵穴がひとつだけ空いている。専用の「鍵」がないと起動してくれない機構だ。霜根から受けとっていた「鍵」を鍵穴へ差しこみ、ひねる。扉が締まる。
数秒すると扉が開く。そこはもう室内だ。音も重力変化さえなかった。おそらく、縦だけでなく、横にも移動するタイプだ。「ボディ・カーニバル」のビルと同じ機構だ。
まっさきに視界に飛び込んできたのは、首を吊った男の姿だった。
俺が殺す手筈になっていた男が、ぶらぶら、と揺れていやがる。つぎに、柑橘系の香水が、刺激臭よろしく俺の鼻を突いた。ベッドで少女が三人、折り重なって死んでいる。ソファのうえにバックが置かれている。口を空けて、吐瀉したみたいに、中身が散らばっている。落ちた拍子に香水瓶の蓋が空いたのかもしれない。どぎつい香りは、絨毯に染みた液体から放たれている。
そこで俺はそいつと出遭った。ここにいるはずのない、介入者。
俺が殺すはずだった男を、殺した男。
「ああ。そういうこと」
そいつは勝手に納得しやがった。若い。十代か。背は低く、痩身だが、身体の軸がまったくぶれていない。急に現れた俺への警戒はおどろくほど薄く、逆にそのことが、そいつがこれまで潜ってきた死線の数を物語っている。
状況を整理するので一杯一杯だった。そいつが男と少女三人を殺した。いや、少女は男に殺されて、そのあとで男がそいつに殺された。憶測にせよこの推論がもっとも腑に落ちる。
部屋の出入り口は事実上、エレベータのみだ。窓やベランダもあるが、鉄骨が空気以外の出入りを阻んでいる。強いて言うなれば、ここは檻のなかだ。
「あんたの仕事はぼくがやっておきました。そういうことにしませんか」
ふてぶてしい提案をしてくるそいつを俺は睨み据える。「そりゃ、どうも」
「そろそろ、ぼく、帰ろうと思ってたところなんですよね。そこ、どいてくれませんか」
エレベータから降りずにいた俺は、一瞬、唯々諾々と場所を譲ろうとしてしまった。が、寸前で押しとどまる。
「生憎と俺の仕事も終わったらしいからな。どうせ降りんの、一階だろ?」と横にずれる。どうぞ、と空いた空間を手で示して、「相乗りと行こうや」
そいつは肩を竦めた。緩慢に歩み寄ってくると、「そういうことなら」と乗りこんでくる。
鍵穴に納まったままの鍵を、くい、とひねる。音もなく扉は閉じて、俺とそいつは沈黙を共有した。
***述懐~二日前~***
「あなたはなぜこんな仕事を?」俺が殺したその女は、職業体験をしている少女みたいな口ぶりで素朴に問うてきた。「人を殺すことをなんとも思わずに済むのって、一種の才能よね」
「欠陥を才能と呼べるのならまあ才能かもな」俺は淡々と応じた。「おまえこそ、なにを仕出かしたんだ? なんで追われてんだよ。サツに匿ってもらえない理由ってのも是非ともお聞かせ願いたいもんだがな」
「まさにそれ。行政にも司法にも匿ってもらえない理由を知っているから、わたしは狙われているの」
「情報か。だとしても、知っているだけで、ここまで執拗に追手がかかるものか? 猫がしゃべった、と言っても誰も信じやしない。たかが個人の戯言なんざ、喧騒に塗れて掠れるもんだろ」
「そうかもしれない。でも、わたしが知っているのは、トライアングルの頂点が、なぜ頂点足り得ているのか。なぜ底辺が、いつまでも底辺足り得ているのか。その仕組みについてだから。仮に底辺が失われてしまえば、トライアングルは途端に、ただの三つの点に成り下がる」
「三権分立の話か?」
現代ではすでに、行政も司法も、立法の持つ権力に屈している。さらに立法は、企業という資本に、いいように操られている。そのうえで、それら循環するヒエラルヒーを、人材派遣会社「ボディ・カーニバル」が巧みに操っている。牛耳る権力などどこにも存在しない。権力は常に、とっかえひっかえ定まることを知らずに循環する。そこには一定の流れが生じている。上手く乗りこなせれば、あとは自動的に海まで運んでくれる。途中で流れが変われば、あっという間に転覆し、魚の餌となる。海の藻屑にもなれやしない。「ボディ・カーニバル」は、いわば、川に岩を投じているようなものだ。任意の地点に渦を起こしてほしい、と依頼されて、岩石を投入する。そういった役割を担っている。奴らは常に陸のうえで、高みの見物を決め込んでいる。いつだって濡れるのは岩石――俺たち代行者だ。
「いいえ。もっと抽象的なもの」女は目を伏せて、儚げな声を漏らした。「《世界》そのものに関わる話」
俺は肩を竦める。心を籠めずに労った。「そりゃ、難儀だな」
***
招かれざる介入者はエレベータを降りると、やけに親しげに手を振って、「またね」と去っていった。跡を追おうかとも思ったが、くだらない、と思いなおした。
「終わったぞ。次の仕事、紹介してくれ」人材派遣会社「ボディ・カーニバル」のビルまでもんどり打って、新しい仕事を催促する。
「はやかったね」霜根が下品に笑いやがる。「相変わらずの早漏だ。もっと楽しめばいいのにさ」
遅いよりかいいだろ、と返すと、「それもそうだね」と首肯されてしまう。
「遺体はどうしたかな? 処分してくれた? それとも放置?」
「放置だ」答えながらメディア端末を返却する。「どうせもともと女どもの死体はそのままの手筈だったんだろ。だったら一緒に始末しといてくれ。あの男のも」
「ああ、そっか。なんだ。女の子たち、殺されちゃってたんだ」
「そうだな。二時間くらい早ければ、生きてたかもな」
「もったいないな」と口にした霜根の口調はあたかも、食べ残したケーキを捨てられた子どもみたいだ。「まあ、しょうがない。運がなかったってことで」
勝手に自己完結した霜根は、どっちがいい、とメディア端末を二つ寄こしてくる。
「どっちが、どっちだ?」と曖昧に尋ねる。
「こっちが、暴力団の若頭を処分するので、こっちが、いま流行りの通り魔を処分する仕事」
右が暴力団。左が通り魔。
少し考え、俺は左のメディア端末を掴みとる。
「やっぱりね。そっちを選ぶと思ったよ」
裏返してみると、「当たり」のシールが貼ってあった。ふざけすぎだ。どうせ残ったほうの端末にも同じシールが貼ってあるんだろう。そう思い、手にとって裏返してみると、「きみはこれを裏返す」のシールが貼られていた。霜根を睨むとやつはしたり顔を浮かべてこう述べた。
「ぼくはね、預言者なんだ」
***
曇天は厚さを増していた。夕暮れどきであるにせよ、薄暗すぎる。心なしか、通行人の数も少ない。
懐からメディア端末を取りだす。ディスプレイを操作して、情報に目を通す。
通り魔――通称、孔雀。
数年前から同一人物または同一グループによると思われる連続殺人事件が横行しはじめた。遺体の死因に特徴有り。どの被害者も背後から一撃で致命傷を負わされている。致命傷は延髄裂傷による即死。犯行の鮮やかさから、「孔雀」の異名を誇る。被害者の多くに共通点はなく、無差別通り魔殺人事件として捜査本部が設置されている。捜査の進展は芳しくなく、現時点においても有力な容疑者は挙がっていない。
表向き、どうやらそういうことになっているらしい。俺はつぎの項目をめくる。「ボディ・カーニバル」の調べによる情報だ。
被害者はいずれも、暗部、または情報屋に属している者である。仕事を熟したその直後、または、仕事中に掩撃されている。おそらく「孔雀」は未登録の暗部である。弊社・「ボディ・カーニバル」は一切、本件に関与しておらず。孔雀を特一級危険暗部として手配中。
ここまで情報を確認して、おや、と怪訝に思う。特一級危険暗部扱いされている対象の処分を、どうして一介の代行者である俺に宛がわれているのか。そもそも、孔雀についての情報が少なく、あまりにも薄弱すぎる。中身のスカスカな情報でいったいいつ、どこで、誰を、どのように殺ればよいというのか。甚だ疑問だ。
特一級危険暗部ということは、懸賞金も掛けられているはずだ。ほかの代行者どもがこぞって穿鑿しているに相違ない。軍隊アリが明確な餌を求めて跋扈している中にあっても、未だにその存在の片鱗しか掴めていないという事実。これはもう、俺の出る幕ではない。何にも増して、俺の求めているあいつらではない。
俺の求めるゆいいつ――鬼族。十二年前、突如として鳴りをひそめてから、一切の情報が出回らなくなった。仮にやつらが活動を再開させたというのなら、「ボディ・カーニバル」が黙っているはずもない。少なくとも、この通り魔がやつらの所業であるとすれば、そう断定されているはずだ。だが、斯様な情報はどこにも載っていない。やはり孔雀はあいつらではない。
実のならないと判っている樹の手入れをするほど、俺は好事家ではない。今度ばかりは霜根の野郎に一喝しとくべきだろう。くそったれ、と端末の電源を切る。本日三度目の斡旋を受けに、急旋回よろしく、俺は勢いよく踵を返す。
――ひゅッ。
目のまえ、首元に刃が迫っていた。
【首元に刃が迫るまで】
【棚からずんだ餅】
『最愛の采配』
***ずんだ餅***
緑色のぬいぐるみを胸に抱く。ソファに寝ころび、六五インチのディスプレイに映し出されるアニメを、かきの種をボリボリ頬張りながら観賞する。家にいるあいだは基本的にこうしてぐーたらと、ご主人さまの帰りをじっと待つのがあたしの一日の過ごし方だ。
「まーたそうやって、おっさんみたいに」冷蔵庫から牛乳を取りだし、ごくごくとおいしそうに飲むその娘は、あたしのご主人さまこと、この部屋の主、本多(ほんだ)奈々(なな)だ。
「あたしも飲みたい」
腕だけをあげて催促する。
「せめてブラジャーぐらい付けよう」奈々が目を細めている。顎を振ってあたしの慎ましやかな胸元を示すと、「小豆がふたっつ透けて見える。ズンダだけに」
あたしの名前が、持田(もちだ)ズンダだからか、そんなことを言う。
「家んなかでブラジャ? じょうだん」
「垂れるよ」
「垂れるほどねぇし」
「あ、そっか」
納得しやがった。「調子のんなよ。乳でかいからって」
「ひがむな、ひがむな。みっともない」脇を通りがてらぺしりとおでこを叩かれる。「そろそろ行くわ。人と逢うんで今日はたぶん遅くなる。泊りになるかも。戸締りしっかりな」
「お泊りだなんていやらしいです!」あたしはたった今観ていたアニメのキャラっぽく言ってみた。
「妬くない、妬くない。相手は女だ、安心おしよ」私にはズンちゃんしかいないさね、とうれしいような気色わるいような台詞を奈々は抜かす。あたしはクッションに顔を埋め、
「妬いてねーよ。どこへなりとも行っちまえ」
「おう。明日は仕事して、はやく帰るから。いっしょにご飯食べよ」
乱暴に頭を撫で、奈々は出ていった。
玄関の閉まる音がさびしく響く。
「気をつけて」
いってらっしゃい。
あたしはひざを抱えてうずくまる。ポケットからライターを取りだし、火を点ける。ゆらめく炎を、じぃと見詰めていると、むかしのことを思いだす。記憶の水面に炎が触れて、ぴちょんぴちょんと波紋がひろがる。
□□□本棚□□□
本多奈々がズンを拾ったのは二年前のことである。仕事を完遂させたその足で帰宅しようと奈々は、急な夕立のなかを駆けていた。帰ったら一杯飲むまえに風呂だなこりゃ、などと暢気に考えていたのは、身体が冷えきっていたためだ。仕事で身体は温まっていたはずだし、ずっと走っていたことも相俟って、真夏であるのだから汗くらい掻いているのが自然であるというのに、なぜかその日は、鳥肌が立つくらいに冷え込んでいた。
公園のよこを通った折に、視界の端でブランコが動いているのが目についた。容赦なく吹きつける雨のなか、やたらと張り切ってブランコを漕いでいるアホがいた。
「ざッけんなよ、バァーーーかッ! 雨の分際で、調子こくなっつゥの!」
なに勝手に降ってやがんだッ――と、分厚い曇天へ向けそいつは、身体いっぱいで吠えていた。
怪物に立ち向かうようなハチャメチャな雄姿を彷彿とさせるものの、現実には、呆れてしまうほどに無益な抗議活動でしかない。呼応するように雨脚が強まる。間もなく、びだびだ、と全身を鞭打つ豪雨となった。
怒声を荒らげているそいつがブランコに乗って前後に大きく振れるたびに、ダバダバと雨が切り裂かれる。世界に散らばった真珠を両手で乱暴に掻き集めるみたいな豪快さがあり、我知らず歩を止めていた。
ブランコの振幅がちいさくなっていく。やがてそいつは動かなくなった。さんざん怒鳴り散らして気が済んだのか、それとも、とうてい敵わぬことを悟ったのか、或いは単純に飽きた可能性もある。
なんだか興味が湧いた。魔が差した、とも言える。奈々は公園へと足を踏み入れた。
「なあ」
声をかけると俯いていたそいつが顔を上げた。髪の毛がおでこに張り付いている。豪快に前髪を掻きあげてそいつは水しぶきを飛ばした。
「なにさ」文句があるならどっかいけ、用があってもどっかいけとでも言いたげな眼差しをしていた。
「何してたのさっき」
「……見てたのかよ」
「見てたともさ」
無視されるかな、とも思ったが答えてくれた。
「……勝手に降りだしやがってむかつくから、ちょっとお灸を据えてみたっていうか。うん。それだけ」
「雨に?」
「そ。雨に」
「反感買ったみたいだったけど」奈々はこれ見よがしに天を仰ぎ、手のひらで雨を受けとめる。
「負け惜しみだよ、こんなの」
「びしょ濡れだね。捨てられた猫みたい」
「お互いさまだろ、そんなの」
「ちがうよね」と否定する。「私には帰る家がある。それで、きみは?」
押し黙ったそいつは、関係ないだろ、と突っぱねるように身を縮めた。丸まった様がほんとうに捨て猫みたいで愉快だった。
「私さ、前からペット飼ってみたかったんだよね」
そっけなさを醸しつつ投げかける。応答はない。めげずに続ける。
「でもさ、ペットって手間かかるでしょ? そういうのはイヤなわけ」
身勝手なやつ、とそいつが吐き捨てる。ますます以って猫みたい。おかしくなって奈々は最後にこう言った。
「ウチに来ない? 世話はしないけど、出ていきたくなるまで置いてあげる」
顔を上げたかと思うとすぐに伏せてそいつは、拗ねたような声を発する。「うるさいなあ。ほっといてよ」
「うるさいなあ。いいから来い」
口真似をして腕を掴む。強引に立たせると、抗議の隙を挟ませないうちに、
「私、本多奈々。奈々って呼び捨てでいいから」
捲し立てる。引きずるようにして歩かせながら、さらに、
「あとはそうだな。べつに取って食うわけじゃないけど、拾われたからにはペットらしく私の帰りを待ってなさい。それ以外は基本、自由にしてていいから。お利口にしてたらお駄賃だってあげる。はい。なにか文句ある?」
「……文句しかないんだけど」
「あんたペットなんだから、文句くらい我慢しなさい」
「りふじんすぎる」
つぶやいた彼女はけれど、それ以上文句を垂れることはなかった。
この日、奈々は、拾ったその娘の名が「持田ずんだ」であることを知り、腹が捻じれるほど笑い転げた。奈々はむかし、ずんだ餅のぬいぐるみを持っていたことがある。ちょっとした運命を感じた。
「本棚のくせに!」
娘が喚いたが、ふしぎと腹は立たなかった。
※※※~十二年前~※※※
家出をしたわけではなかった。帰る家はあったのだ。
裕福な家だった。庭があり、車庫があり、三階建てのつくりで、休日は父と遊び、母は毎日おいしいご馳走を作ってくれた。弟がいた。三歳も年が離れているというのに、まるで喧嘩をしなかった。弟のほうが大人びていたからだ。姉である自分のほうが幼くて、いつも瑣末なことに腹を立てていた。弟はそんなこちらを慕っていた。庭には体躯の大きな犬がいた。旅行にもいっしょに連れていくし、散歩だって弟といっしょに、毎日のように公園まで行って駆けまわった。
中学校へ入学した年のことだ。春うららかなあたたかい日だったのを憶えている。日中、家族四人と一匹でピクニックへ出掛け、夜も更けたころに帰宅した。弟は車内で眠っていた。こちらもまた眠かったが、姉の威厳を示そうと思い、懸命に睡魔と闘った。
弟は父の背中におぶわれ、家へと運ばれた。それを眺めながら、「いいなあ」とちょっぴりうらやましく思った。
「お荷物、運ぶの手伝って」
母に頼まれ、車から降りる。
軽い荷物を母が持ち、重そうな父のリュックや、四畳半ほどもあるビニル製の敷物はこちらの担当となった。中学校で器械体操部に入部してからというもの、なにかにつけ母はこうして「鍛練ですよ」と重労働をさせたがる。自分が楽をしたいからだ、と憤ってみせたこともあるが、「そんなことないわ」と哀しそうな顔をするのでそれ以来責めたことはない。父が母の尻に敷かれているのも腑に落ちた。母はちょっと、一筋縄ではいかない。憎めないからなおのこと性質がわるい。
車から荷物をひっぱり出していると玄関から、物が落ちる音がした。見遣ると母が荷物を落している。
あんなに軽い荷物をどうして落すかな。役に立たないなあ、もう。
じぶんの分の荷物を抱え、しっかりしてよね、と玄関へ赴く。
……あれ。
まず異様な気配に気づいた。母が直立不動で固まっている。わずかに震えながら、未だ明かりの灯らない家のなかを見据えている。視線のさきは闇である。闇のなかに、さらなる漆黒が、とくとくと拡がりつつあるのが見えた。
液体が零れている。
でも、なぜ?
闇のなかの漆黒がつらつらと輝いていた。ふと気づく。そういえば「チャポ」の声がしない。車からさきに降ろしてあげていた犬の名だ。いつもならしばらく庭で駆けてから、呼吸を荒らげて興奮気味に玄関へと駆けこんでくるというのに、チャポの気配が今は水の底に沈んだように消えている。
風が頬を撫でる。
月光が雲間に隠れ、暗闇が増す。
母の影がある。声をかけようとして息を呑む。
母がくずれた。その場にどしゃんと。糸の切れた操り人形みたい。
人間の身体がとても重いのだと誇示するみたいな、倒れ方だった。
「お……かぁ、さん?」
抱えていた荷物を床に置く。なにが現実かを確かめるようにゆっくりと動いた。
ごろん、ごろん、ごろん…………こつん。
足元に小さめのボールがぶつかった。歪んだボールだった。ボールだと思った。ボールではなかった。悪寒が背筋をかけのぼる。球形からは程遠いその影には、夜風になびく長い毛があった。
闇に同化してしまいそうなほどに黒い――長髪が。
母の、髪の毛が。
なにかを叫んだ気がした。声になっていたかは定かではない。一瞬、足元のそれを蹴り飛ばしてしまいたい衝動に駆られたが、残っていた寸毫の理性で押しとどめる。
それは母だ。
母なのだ。
落ちた拍子に顎が外れ、だらしなく口が開かれているが、それはたしかに母なのだ。胴体と離れてしまってはいるが、胴体に首がないからこそ、それは紛れもなく母だった。
両手で口元を覆うようにすると、呼吸の仕方を忘れてしまったようなぎこちない嗚咽が、まるで他人の呼吸みたいにてのひらに感じられた。
『なんでッ』と声がした。『なんで殺したッ』
女性の怒号だ。
玄関のさき、漆黒に濡れたフロアの奥に誰かいる。
闇に目が慣れたせいか、模糊としながらも、床に倒れている人物の起伏が見てとれた。あれはきっと父だろう。そばには弟も倒れているはずだ。
誰かが母をこんな姿にしてしまったのだ。
父を、弟を、どうにかしてしまったのだ。
足元の【母】を拾いあげる。【母】から漏れるぬくもりがこちらの胸を、腹を、腿を、つらつらと濡らした。
……おい、と闇の奥からみたび声がした。
『レイシィ、答えろッ。なんで〈クルミ〉以外を殺したッ。これはあんたの復讐か? あんたの復讐に付き合わされてんのかッ!?』
話がちがうッ、と喚く女性の声を宥めるように、
『こいつら、〈クルミ〉の家族だろ。だったら一緒に屠ってやんのが情ってもんだろ』
男の冷めた声が、低く、重く、聞こえてくる。
遠くで猫が鳴いている。発情期に特有のかしましい鳴き声だ。
夜風が頬を撫でる。おだやかな夜だ。現実味が薄らいでいく。
闇の奥からの声がやんだ。立ち去ったのだろうか、と思ったのも束の間、全身に、背骨ごと胴体を掴まれたような圧迫感を覚えた。立っていられないほどの苦しさが襲う。
『……やめろよ』やはり闇の奥から声がする。『その子まで処分する気……』
女性の声にはとまどいが滲んで感じられた。
『むしろ処分すべきは餓鬼どもだろ』
男の声がこちらまで届く。
視線を向けられているのだと判る。
『遺伝しないってのが常識だろッ』女性の声が上擦っている。『やめろッて!』
揉めている。揉み合っている。男の呻く声が聞こえた。空気の膨張が感じられた。爆発よりもゆったりと、暴風よりも重圧に。これはきっと空気だけではない。空間そのものの膨張だ。だがこちらはやはり動けない。
『逃げるぞ』
闇から飛び出してきた影に、腕を掴まれる。
強引にその場から連れ去られた。
繁華街はネオンに彩られ、昼間よりもまばゆかった。街灯の逆光で、影はやはり影にしか見えず、女の声を発するその影は、最後にこう告げ、去っていった。
『けじめは付けてやる。絶対にだ』
だからおまえはなにもするな。
なにかをしようだなんて思わないでくれ。
抱えていたはずの母の首はいつの間にか消えていた。どこかへ落してしまったのだろうか。
雑踏は絶えず、喧騒を生み、淀みを増していく。人人人。これほどまでに命が溢れている。大勢の命、幾重もの人生が絡み合う駅前に、ぽつねんと取り残された。
そう、少女は独り、のこされた。
***ずんだ餅***
奈々に拾われてからしばらくはヒモ同然の暮らしをさせてもらった。奈々がいいって言うんだから、あたしに拒む理由はない。気遅れしたのも最初の数時間だけだ。行く当てなんかなかったし、もしも何かあったら、あたしには最終奥義がある。それぶッ放してさよならすればいいだけだと思った。泊めてくれるってんなら泊っちゃうし、住んでいいと言われたら住めばいい。利用できるものは最大限利用すべきだ。あたしはそう考えた。
奈々はあたしへ、いっさいの、強制も強要もしなかった。奈々の帰宅してくる時間に家にいること。ただそれだけの義務を課せられただけで。それを遵守さえしていれば、奈々はお小遣いをくれたし、家を自由に使わせてくれた。家賃なんて払わなかったし、書斎だって勝手にあたしのマイルームにしてやった。奈々は文句一つ言わないどころか、あたしがひーこらと模様替えしている様を、リビングのソファにふんぞりかえって、「おー。感心、感心」とミルク片手に眺めていた。
なんだか居心地が良すぎちゃって、却って居心地がわるく感じちゃうようになってしまったのは、奈々の仕事が実は、人に知られたらまずい類の、あんまり真っ当な職ではないってことに薄々気づきはじめたころのことだった。
モミジの落ち葉が木枯しに舞いはじめた季節。奈々に拾われてから三カ月くらいが経っていた。
あたしはふと気がついた。でかけるときは小奇麗だった奈々が、時折ひどく汚れて帰ってくることがある。服がよごれ、破れていたりする。夏は過ぎ去り、肌寒い気候となっていた。素肌をさらす服装ではなかったから、奈々自身に傷があるのかはいまいち判らなかった。もしかするとこれまでにもこうして汚れて帰ってきていたのかもしれないのに、あたしはそれまでまったく奈々を観察していなかったからすっかり見逃していた。
出掛ける間際に奈々は帰宅時間を告げる。その時刻に必ず家にいること。帰ってきた奈々を、「おかえりなさいまし」と出迎えること。それだけがあたしに要求される対価だった。だから、どんなに無愛想に出迎えようが、どれほどだらしなく暮らしていようがお咎めはなかった。とりあえず、「おかえり」とぶっきらぼうに言っておけばよかったんだ。
奈々にとってあたしはペット以下のぬいぐるみだ。
その程度の関心しか注がれていないんだなって思ってた。
ちょっぴりさびしいな、だなんて考えちゃうようになってしまったのも、ちょうどそのころからだった気がする。
気になったことは放っておけない性質のあたしだ。なにかを知りたくなったら全力で穿鑿するし、ほしくなったら何を犠牲にしてでも手に入れる。頑固でもわがままでもなんでもない。これはあたしの生き様だ。
だからこそ、やたら滅多に穿鑿なんてしない。あたしがいちばん知りたいものも、いちばんほしいものも、今はたったひとつしかないから。
家族と一緒に穏やかな日々を、「退屈だね」「そうだね」なんて愚痴りながら暮らすこと。
ただそれだけ。
でもそれがいっちゃん難しくって、いっちゃん贅沢な願いだってことをあたしはこの身をとおして知っている。
奈々がどういったつもりであたしを拾ってくれたのかは分からないし――お節介だろうが、利己的だろうが、なんだっていいんだけど――こうしてあたしになにかを施してくれた奈々が傷付くのだけは勘弁ねがいたかった。これ以上、あたしは見たくなかった。
人が傷つく姿も。
人を傷つけてしまう姿も。
あたしのせいで誰かが傷つく現実なんて、見たくなかった。
あたしは奈々の跡をつけた。
奈々の仕事を見極める。
解決すべき問題が奈々にあったなら、あたしは今の生活が崩れようともその問題を打ち砕いてやるんだ。独善まっすぐらに意気込んでいた。
頼んでもいないのに勝手にあたしに親切にしてくれる奈々への当てつけだったのかもしれない。ひさしぶりにひとにやさしくされて、ちょっとどうしていいかわからなくなっていただけかもしれない。もしかしたら、いつか失ってしまうくらいならいっそのこと自分の手で毀してしまおう、だなんて考えがあったのかもしれない。今になってはもう、あのときの自分の気持ちなんて分からない。
奈々はあたしでも知っている大企業のビルへと入っていった。有名な人材派遣会社で、たぶん、今のご時世にこの社名を知らない若者はいない。もしもいたらそいつは確実に社会から孤立していると断定できるくらいだ。
職をあっせんしてもらいたいならその会社に登録すればいい。たったそれだけの手続きで、日雇いから長期までの職を得られる。もちろん雇用形態は基本的にバイト扱いだし、派遣社員になっても一定の期間働けば、契約解除される。三年以上働いた契約社員には正社員になれる権利が付加されるらしいけど、企業のほうで「そうはさせじ」と三年経過する前に、契約切れを名目としていちど解雇されてしまうみたいだ。そのあと二週間くらい期間を空けてから、またもういちど派遣社員として契約し直すんだって。だったら端から正社員として雇ってやればいいのに、と思わないでもないけど、あたしがとやかく言う問題ではないので、「勝手にやってろよ」と気にしないことにしている。
妙なことに奈々は派遣会社の「本社ビル」へと足を運んでいた。これはちょっとおかしいな、と思った。なぜって、職をあっせんしてもらいたかったら、メディア端末で登録すれば、あとは定期的に送られてくる雇用情報をもとに、雇用希望の連絡をして、安価な労働力をご所望の店舗や企業さまに採用してもらえばいいだけの話だから。
それがどうだろう。奈々は本社へ直々に出向いていた。「仕事に行ってくる」と出ていったのだから、考えられる可能性は三つだ。
ひとつ目、奈々が企業の社員である。
ふたつ目、奈々が企業へ殴りこみに行った。
みっつ目、奈々が企業に雇われた何者かである。
答えはどれでもなかった。いや、結果としては、そのすべだった、とも言えた。
三十分ほどでビルから出てきた奈々はその足で繁華街のほうへと歩を向けた。あたしも距離をおいてうしろに続く。自慢じゃないがあたしは尾行が得意だ。相手の呼吸と同調し、ときには周囲の雑踏に溶けこむことでこちらの気配を限りなく希薄にさせる。なつかしいな、と気を緩めた途端、
――処分しろ。
ぞくり、と悪寒が貫いた。
いっしゅん、むかしの記憶が脳裡によみがえりそうになった。寸前で海馬の奥底へと追いやる。いやな汗が噴きだした。もう終わったことなんだ、とあたしは自分に言い聞かす。
不意に奈々が歩を緩めた。あたりを警戒する素ぶりをしたかと思うと身を滑らせるように脇道へ逸れた。そちらの道は裏街へ続いている。隙のない身のこなしだ。
やっぱりな、とあたしは思う。
奈々は一般人ではない。暴力を行使する類の人間だ。あの身の熟しだけでも充分に解る。
裏の人間。法の拘束力をまったく鑑みない人間。
唾棄すべき外道。
人ならざるケダモノ。
胸が苦しくなった。裏路地まで奈々を追いかけるべきか逡巡する。うじうじと二の足を踏んでいると、
「お嬢ちゃん、かわいいね。うちで働いてみない」息のくっせぇおやじが話しかけてきやがった。「お嬢ちゃんならすぐにナンバーワンになれるよ」
「うっせー。いますぐ消えな」
「いいねえ」おやじは下卑た笑みを浮かべた。「気のつよいコってのは人気でるんだ。ひと晩、百万だって稼げるかもよ」
面倒だ、と思った。あたしはその場を離れる。おやじが背後に付いてくる。
「なんならおじさんが払ってあげてもいいよ。いくら? お嬢ちゃんなら十万までなら出すけど」
立ち止まりあたしは思いきり睨んでやった。
――ウセロ。
念じる。愚鈍な人間にも伝わるように親切にもあたしは身を刻むような殺意を放ってやった。踏まれた牛ガエルみたいに奇怪な声をあげておやじはその場にへたりこんだ。ちょっとお灸がすぎたかもしんない。
「わるいな、おっさん。あたし、さき急ぐんだ」
あれだけ戸惑っていたというのにあたしは颯爽と裏路地に踏み込んでいた。
□□□本棚□□□
ズンと暮らしはじめてから三カ月ほどが経った。ぶつくさ不平を鳴らしてくるもののズンは案外にできた子だ。自分のことは自分で熟すし、こちらへの気遣いというものも、不器用ではあるにせよ向けてくれる。
ズンは、ペットにしては手間がかからなさすぎる。物足りない気持ちがないわけではない。もっと節介を焼いてみたい。ちょっかいだって出してみたいし、甘えられてもみたい。だが今はまだ、そういった関係には程遠い。ペット以上、姉妹未満。そんな感覚。気の置けない仲と言えないこともなかったが、ちょっとしたことでよく口喧嘩をする。ほんとうにくだらないことでズンは怒る。それがまた粘着質で、あしらうのに一苦労する。最近ようやく、彼女の憎まれ口に見え隠れする、照れや、羞恥、むつけた感情を察することができるようになった。
秋晴れのすがすがしい日のことだ。
久々に実りある仕事を請け負った。満足できる仕事、という意味ではなく、仕事を完遂させる過程で得られる副産物――個人的な利益がようやく手に入る。
奈々には目的がある。けじめを付ける、という目的が。そのために必要な情報を収集し、穿鑿するために、今の業種に就いた。やりたいわけではないが、成したいことを成すためには、選ばざるを得なかった。
かつてこの国には「刺客」がいた。暗殺を行う者たちである。だが、時代は侵略を糧とした繁栄を手放し、秩序と保身を優先した。間もなく、暗殺は国家間においても禁止されるようになった。暗殺が公に否定されない限り、自らも常に暗殺の気配に臆しつづけなくてはならないことを、ようやく統治者たちは悟ったのだ。
重要なことは、「公に禁止されている」という点であり、社会の影にあたる場所では、暗殺はいまもなお、権力の維持と拡大に際して有効な術であるとともに常套手段とされている。
かつての刺客は大きく二つに分類できた。
忠誠を誓う者と、己以外を信じぬ者。
忍びと呼ばれた者たちは、圧倒的に後者が多く、侍と呼ばれる者は前者であった。
現在もこの図は乱れていない。刺客は他者の殺意を肩代わりし、殺人を代行している。
時には、命令され。或いは、依頼され。
基本的には、率先して殺人代行を請け負う。
現代の刺客は、殺人代行者として完全に機能している。指示された対象を、破壊し、停止し、葬り去る。食品を缶詰に加工するのと同じ感覚だ。
殺人代行者は個人営業ではない。組織化されている。
ひとむかし前であれば個人やグループで行っていた者たちもいたが、互いに縄張り争いや、報復合戦となり、収集がつかなくなった。暗殺の混沌はやがて無干渉、無秩序が唯一のルールであった彼らに、ひとつの複合した社会体制を形成させた。すなわち、殺人代行業のシステム化である。
昨今ではすっかり、一つの企業として機能している。表向きそれは人材派遣会社として世間に認められてはいるが、その実、依頼主へ的確な暴力を紹介する「傭兵派遣」が本業だ。殺人代行からはじまり、暗殺、抗争、戦争、と顧客の要望に合わせ、暴力と武力を、整える。
暴力は暴力を呼び、動乱は金を生む。
奈々はそういったシステムのひと駒として組みこまれている。派遣会社から顧客を紹介してもらい、尽くすべき主としてその命に従い、人を殺す。場合によっては脅すだけで済ませることもあるが、相手に報復の機会を与えてしまうという点において、暴力による恫喝は、あまり有効な手段として見做されない。もっとも、それ専門の人材というのもいる。彼らは情報を用いて相手を強請る。形なき情報は強請りとの相性がいい。彼ら情報屋もまた、派遣されるべくして駒と化した人材だ。
懐から写真をとりだし、眺める。
さきほど本社に出向き、とある情報屋から仕入れた写真だ。あまり著名でない政治家の姿が映っている。目に焼き尽けるようにする。
「……やっと見つけた」
ライターを取りだし、火をつける。写真がメラメラと燃えていく。
※※※~~十二年前~~※※※
街中に一人残されてから、幾人かの男に声をかけられた。ナンパ目的で、こちらの肉体が目的だ。数人をやりすごしたが、長い時間その場に佇んでいたので、家出少女とでも思われたのだろう。柄のわるい若者たちに無理やり連れ去られそうになった。
そこで助けに入ってくれた男がいた。
彼はこちらを連れ去ろうとした男たちを呼び止め、いくらかの金額を提示し、譲ってくれと言いだした。むろん柄の若者たちとしては、金を奪いつつこちらの身体も手に入れるのがもっとも美味しい結末であるので、現れた男から金をふんだくろうと暴力を振るった。
が、数秒後、そこには顔面を鼻血で彩り、或いは腕を折られ、または外傷なく気絶した若者たちが地面に転がった。
「行く当てがないならついてこい」
言って男は歩きだした。そこでこちらがついてこなければそれもよしとする潔さがあり、ふしぎと地面に根を張ったような足が動きだしていた。
男は終ぞ名乗らなかった。
四年という期間を共にすごしたが、解ったことは彼が興信所を営んでおり、その裏では正攻法で解決できない問題を暴力を行使して解決するといった酔狂なことをしている人間だというそれだけだった。
なし崩し的に男の助手として仕事の手伝いをしいくうちに、いつの間にかこちらも相応に人間を破壊する術を身につけていった。
「なんでわたしを助けたの」
四年目にして尋ねると、男はメディア端末にとある映画を映しだし、
「好きなのよ、オレこれ」
カップにそそいだ牛乳を片手に観賞しだした。
掃除屋を名乗る暗殺者がとある不幸な少女を匿い、共に暮らすといった内容で、いかにもロリコン野郎が好みそうな映画だった。執拗に牛乳を飲ませてきたのも、どうやらこの映画のせいであったらしい。
「胸くそわる過ぎるんだけど」
「あとはおまえが殺し屋になりたいって言いだしくれればいいんだがな」
そう言われたからでもないが、この日、男のもとを去る決心をした。
別れも告げず、拾ってくれた感謝の言葉もなしに黙って出てきたはずだったが、なぜか懐にはヤツのお気に入りのライターが入っていた。ほかにも退職金の文字が書かれた茶封筒が、わざわざそうする必要もないのに、下着にくるまれるように紛れ込んでおり、中身を改めると当分の生活に困らないだけの大金が入っていた。
「まぁ、映画の監督にくらいは感謝してやってもいいかな」
映画のラストでは殺し屋が少女の復讐を代行し、死んでしまうのだが、よもやそこまでしてもらう義理はない。
自分の手で達成してこそ意味がある。
男のもとを離れてから二年後、かつて少女だった女は、殺人代行を担う派遣会社があると知る。
***ずんだ餅***
風が吹き、目にゴミが入って涙目になる。こすると手の甲が煤けて黒く汚れた。
本多奈々こと、あたしの家主兼飼い主さまはそのとき、路肩のブロックに腰かけて、手元のなにかを燃やしていた。機密文書を燃やすような素ぶりで、蝋燭の炎を吹き消すのにも似たせつなさを匂わせる。
奈々が腰をあげ、颯爽と歩きだした。
ビルが乱雑に立ち並んでいる。裏街の一画で、昼間だというのにドクドクしいネオンが陰鬱な路地裏を華々しく着飾っている。
ホテルというホテルの個室には、身体で奉仕する代わりに金を得る、少女や少年、またはその成れの果てが、亡者のように納まっている。かつて遊郭や赤線と呼ばれた街並みは、こうして現代にも引き継がれている。彼女たちを卑しいとは思わないし、彼女たちが不幸だとも思わない。幸不幸は平等に個人のものであるからだ。ただし、あたしは彼女たちを憐れんでいる。自ら選んでそこに納まっているとは、とうてい思えないからだ。もしもほかに示された道があったならば――ほかに選ぶべき暮らしがあったならば――彼女たちはきっと現在とはちがった未来を生きたはずだ。
こんな社会なんか、ぶっこわれてしまえばいい。
この反逆思想は、あいつの受け入りだった。あたしを救ってくれたあいつの。奈々と出会う前にあたしを〈あたし〉として生かしてくれた――認めてくれた――あいつの言葉。
あたしは奈々にあいつの面影を見ていたのかもしれない。無意識のうちで感じていたのかもしれない。ふと、そんなふうに思ってしまう。
彼女たちとあたしはちがう。
あたしは自分で選択したんだ。
脱落し、殲滅し、堕落することを。
では、奈々はどうなんだろう。
直接訊く勇気があたしにはまだ、ない。
□□□本棚□□□
指定されたホテルに着いた。登録制の売春宿だ。受付はない。
エレベータのまえに立つ。暗証番号を入力する機構が備わっている。入力すると扉が開く。乗り込むと昇降ボタンの代わりに、ぽつんと鍵穴が空いている。ポケットから鍵を取りだしそこへ差しこむ。
鍵を回すとエレベータの扉が締まった。僅かな重力変化もない。数秒の静寂のあと、ふたたび扉が開く。鍵を引き抜き、降りると、そこは室内だった。
エレベータは縦だけではなく、横にも移動する構造になっているのだろう。フロアを介さずに個々の部屋に直接運ぶ機構のようだ。ボディ・カーニバルの本社と同じだ。
ワンルームの個室で、ざっと十二畳はある。ソファがあり、ベッドがあり、壁紙はどこぞの宮殿を思わせる瀟洒な内装だ。柑橘系の香りが鼻をくすぐる。個室を使ったやつの残り香だ。ざっと見渡してみる限り、清掃は行き届いているが、空気が淀んでいる。空気清浄もしっかりしてほしいものだな、と眉をしかめる。
部屋に充満する残り香に鼻が慣れはじめたころ、その中年男はやってきた。
エレベータから降りてくると、
「おお、今日は当たりだな」
コートを脱ぎ、さも当然のようにこちらへ手渡してくる。
奈々は腕を組んだままで受けとらない。男の顔に険が滲む。
「おい。その態度はなんだ。目つきもわるいね。あれかね。そういうオプションなのかね。だったら無用だ。ワタシは舐められるが嫌いなのだ。どちらかといえば――」
舐めるほうがいい、と続いただろう男の口を、腹を蹴ることで黙らせる。
腹を抱えるようにしうずくまっている男を見下ろし奈々は、「二つ質問する」と口火を切る。
「一つ目。九年前におまえが雇った暗部の名を教えろ」
「なんのことだ」
奈々は男の大腿部を踏みつける。鈍い振動が足に伝わり、じっさいに鈍い音が鳴った。人体でもっとも丈夫な骨を砕いてやった。男は豚のように悲鳴した。
「おまえが無駄口を叩くたびに関節が増えるぞ」奈々はもういちどだけ同じ質問を繰り返す。「九年前だ。おまえは当時、収賄の容疑がかけられ、窮地にあった。それが一転したのは証人が殺されてからだ。その途端に表だって騒がれなくなった。どころか、立てつづけに検察官の家族が事故に遭い、死んだ。おまえが雇った暗部の仕業なのは解っている」
男がみるみる蒼白になっていく。「おまえも、あいつらの……ボディ・カーニバルの社員か……」
社員ではない。だが奈々は否定しない。代わりに砕いた部位を踏みつける。もう一方の腿を砕かなかったのはかるいサービスのつもりだ。男は悶絶したが、声を立てないところを鑑みるにどうやら自身の置かれた状況を把握したようだ。
「……いまさら騒いだところでなにも出んぞ」
「あんたを裁きたいわけじゃない。質問にだけ答えろ。雇った暗部の名は?」
「粛清か? あの当時はまだあんたらは完全に組織化されていなかった。ワタシがどこで誰を雇おうが、あんたらの干渉を受ける筋合いはない。統合しきれなかったそちらさんの過失ではないのか。ちがうか」
奈々はみたび砕けた部位を蹴り、身を丸めて煩悶した男の腕を掴んで無理やりに立たせる。流れるように腕をへし折った。こもった音が鳴る。関節を捩じり折ったので、手応えは軽い。今度ばかりは容赦なく男が悲鳴した。
「バカだなおまえ。質問にだけ答えてりゃいいのに。したら余計なケガなんて負わずに済むんだよ」
「こ、ころさないでくれ」
「ほんとバカだねあんた」指を絡めて、薬指の爪を剥ぐ。男が呻くと同時にゆびの付け根から、めきり、とへし折る。蟹の脚をもぎ取るときの感触に似ている。男は、あぐあぐ、と汚らしく涙や鼻水を垂れ流し、
「お、おにぞく……。『鬼族』だと紹介された」
「鬼族って」
まさか、と耳を疑う。「無印(ノーマーク)の、か?」
「よくわからん……ワタシはただ、仕事を十全に熟してくれるやつらを探していただけだ」
「どうやって依頼した」仮に無印(ノーマーク)に所属するあの『鬼族』であるとしたら、奈々の想像をはるかに超えた相手となる。
「しらん。ほんとうだ。ワタシはただ、紹介されただけだ。企業パーティで知り合った男にだ。ミタラシという名の男だ」
詳しく話せ、と迫ると、男は命乞いよろしくひと息に捲し立てた。
各界の重鎮などが出席するパーティで、ミタラシと名乗る男に話しかけられたという。意気投合し、場所を移動して一緒に酒を飲んだ。その折に、消えてほしい奴がいる、と愚痴を並べた。するとミタラシが、「殺人代行者を紹介してやる」と言ってきた。最初は嘘だと思ったが、「邪魔な奴の名を試しに教えてみろ」とミタラシがそそのかすものだから、減るもんじゃなしにとばかりに名を口にした。裁判で執拗に指弾してきていた裁判員の名だ。三日後、そいつが失踪したと騒ぎになった。次の週にミタラシから連絡が入った。連絡先など交換していなかったにも拘わらずである。怪しいとも感じたが、そのとき男は窮地だった。縋れるものなら藁にも悪魔にも縋りたかった。けっきょく、ミタラシの仲介で男は『鬼族』と呼ばれる殺し屋を雇った。請求された金額は法外だったが、男に支払えない額ではなかった。殺人が殺人であると露呈しない形で殺害を実行してくれるとも説明されたが、男は敢えて派手に殺人の痕跡を残させた。
この男は自分でそうと明かしはしなかったが、おそらく警告としての見せしめだったのだろう。もしもワタシを失脚させるようなことをすれば、こうなるぞ、と。おまえだけでなく、おまえの家族もろとも、こうなるぞ、と。
男の奸知は功を奏し、男は現在まで政治家としての権力を保持できている。
語り終えると男は、もういいだろ、助けてくれ、病院に行かせてくれ、とせがんだ。
男の胸倉を掴みあげ、奈々は、
「最初に言ったはずだ。二つ訊きたいことがあると。まだ一つ残ってる」
「な、なんでも訊いてくれ」
「おまえはその事実を公的に明言し、法的に罰せられるつもりがあるか」
自白するつもりはあるか、と問う。男は固まった。だらしなく開いていた口をいちど閉じ、ごくりと喉を鳴らす。ぎょろぎょろ、と目を泳がせてから歪んだ相好を阿諛に染め、
「あ、ああ。助けてくれたら、そうしよう」
奈々は男を解放する。ちからなく男はその場に尻もちをついた。「か、かんしゃするよ」
「礼には及ばない」
言って奈々は足を高く振りあげる。縦に百八十度、コンパスのように開脚し、
「謝罪もなにもいらないよ」
一息に振りおろす。
音速を超えたときに生じる衝撃波が、爆音として室内に轟く。
足が床に触れないようにしたので、陥没はしていない。
衝撃波で男の胴体が壁まで吹き飛んだ。そこに男の頭部はない。床には、のぺーと男の頭部だったものが、溢したペンキのように薄く延びている。風圧で、肉塊や体液は飛沫しない。床に張り付くように、すべてが薄く拡がっている。
スイカを蹴り潰した程度の僅かな感触があったものの、靴には血痕すら付着しない。ただし、軸足の靴は汚れてしまった。かかと落としではなく、普通に蹴り飛ばしてやればよかった。戦闘の必要がないと判断し、着替えを用意してこなかった。失敗した。
汚れたのは片方の靴だけだので、途中で買い替えればいいかと結論する。
どうせ、家で待っているズンは気づきもしない。
男がもしも、「そうしよう」ではなく、「そうさせてもらう」とわずかにでも悔恨の念を示していたならば、殺さずにおくこともやぶさかではなかった。が、奴は自分可愛さのために仕方なく罪を背負おうと口にしたにすぎない。この場を切り抜けたらおそらく奴はその宣誓を反故にし、海外にでも逃亡していたことだろう。
男の死体をそのままに、奈々は部屋を後にする。
エレベータに乗りこみ、鍵を差しこむ。ふと、鍵穴の上部に目がいった。金色の刻印がある。ゆびで撫でるようにすると、ちいさく『LAVIN‐RACY.DOB』と彫られていた。
***ずんだ餅***
奈々を尾行したあたしは、見てしまった。
奈々が立ち去ったホテルの一室で息絶えている男の遺体を。
部屋は散らかっていた。室内で竜巻が起こったような具合で、遺体には首がなかった。どこにあるのかと室内を見渡すと、床にある奇妙な紋様に目がいった。
巨大な押し花みたいに液体が拡がっている。渇きはじめているものの、まだ湿っぽい。部屋が異様に生臭いのはこれのせいか、と合点する。
男の頭部だと推しはかる。ミキサーにでもかけられたみたいに液化しており、まるでペンキをぶち撒けたみたいだ。どれだけの威力で吹き飛ばされればこうなるのか。
即死だったのが幸いだったなと同情してやるが、すぐに遺体の四肢があらぬ方向へ曲がっている様を目にし、拷問されたうえで殺されたのだと察する。
奈々はこの部屋にいたはずだ。
エレベータの表示を確認していたからそうと判る。
ならばこれは奈々の仕業ということになる。
やっぱりな、とあたしは思った。
やっぱり奈々はあたしにちかしい人間だった。
あたしのもっとも嫌悪する人種――唾棄すべき外道――人ならざる。
けだもの。
つまり、あたしだ。
あたしはあたしが、いっちゃん嫌いで、いっちゃん憎たらしい、許しがたい存在なんだ。そんなあたしに奈々は似ている。あたしと同じけだものになりかけている。すくなくともまだ奈々は人間だ。人間らしい感情がある。あたしを拾ってくれたし、あたしにやさしくしてくれる。あたしを認めてくれるし、あたしを好きだって言ってくれる。うそでもうれしかった。うそがよかった。あたしは誰からも好かれちゃいけないし、しあわせにだってなっちゃいけない。それだけのことをしてきたんだ。それだけのことをしちゃったんだ。
あたしは信じたくない現実を知って、このままじゃ駄目だと思って。
奈々とはこれっきり会わないほうがいいなって。
いっしょに暮さないほうがいいなって。
このとき、あたしはそう思ったんだ。
一階に止まったままのエレベータまでひと息に飛び降り、途中で壁の突起に掴まって勢いを殺す。着地してから、通路内の壁の鉄板をひっぺがし、天井の穴を塞いだ。
エレベータから出ようと思い、ふと、視界の端にひっかかりを覚えた。
おや、と思う。
鍵穴を見遣る。
文字が刻まれている。
――LAVIN‐RACY(ラヴィン・レイシィ)。
続けて、
――DOB(Destruction Of Battle )と綴られている。
全身が総毛立った。
ラヴィン・レイシィ。
あたしはそいつを知っている。
戦闘による破壊を信念に掲げた男だ。
かつて鬼神と呼ばれ、暴力による暴力のための暴力による支配を望んだ兇人。
この世に蔓延る、正論という名の暴力に、純粋な暴力でもって抗おうとした哀しき亡者。
あたしを育て、あたしを生かしてくれたひと。
あたしがこの手で殺した、けだもの。
【鬼族】
――〝十年前まであたしが所属していた組織〟。
あたしが家族だと思っていたもの。
そこにはレイシィがいて――クルミがいて――あたしたちがいた。
鬼族のほかにも危ない奴らがたくさんいたけど、あたしはいつもレイシィとクルミのそばにいたから安心だった。あたしたちは家族だった。そう思っていた。でも、突然クルミが言いだした。
「ごめんなさい。もう人を傷つけて生きたくないの」
大切なひとたちが――家族が、できたの。
裏切られたと思った。あたしらは家族じゃないのかよ。クルミにとってあたしは大切な家族ってやつじゃなかったのかよ。あたしなら捨ててもいいのかよ。傷つけても平気なのかよ。あたしはクルミが憎くなった。それと同じだけ自分自身も憎かった。クルミに拒絶されたとつよく思い、それと同じだけあたしはクルミを手放したくなかった。
鬼族を抜けるにはふたつの術しかない。
死ぬか、滅ぼすかだ。
だが、レイシィはクルミに言った。聞いたこともないやさしい声で、
「いいよ。行ってらっしゃい」
クルミを無傷で送りだすのだった。
当然、族内では反発もあがった。その際に反発した奴らをレイシィは慈悲のかけらもなく片っ端からぶっ殺していった。「俺を盲信できないやつぁ、死で目をつむれ」
あたしも危うかった。すぐそばにいたからレイシィの殺気に気づけた。そうでなかったらあたしも、「どうしてクルミを行かせたの!?」と怒鳴っていたかもしれない。クルミの送別会が開かれた。あたしは拗ねていたのと、泣いちゃいそうだったのとで、倉庫の奥、ドラム缶のなかに身を忍ばせていた。
「いっしょにこない?」
ドラム缶の向こうで声がした。クルミだ。覗こうとしてドラム缶の蓋を持ち上げようとするものの、びくともしない。クルミのくすぐったそうな笑い声が聞こえる。うえに乗っているのだ。閉じこめられた。というか、隠れていることを見抜かれていたことに瞬間的に顔があつくなった。
ドラム缶が、カツカツと響く。腰かけたクルミが足をぶらつかせているのだ。
「あのね、ズン」クルミのささめきが心地いい。「いっしょにこない? 子どもたちも喜ぶとおもうの」
「え。いいの」あたしは思わず聞きかえした。
「もちろん」
クルミが足を振るたびにカツカツとドラム缶が響く。耳障りだ。
やめてよ、と怒るとクルミはやはりくすぐったそうに声を立てた。
クルミには夫がいて子どもがいる。でもそれは仮初だったはずだ。
偽りの身分を偽りでなくするための手段。きちんと戸籍をもった人間と結婚すること。あたしたちみたいに社会に存在しない存在はそうやって自らの存在証明を得なくては、社会という恩恵を受けられない。
けれどいつしかクルミにとって、その仮初の家族は、仮初ではなく、現実の、真実の、家族となってしまったようだ。
ずるいよ。
あたしはやっぱり拗ねていた。だからクルミが誘ってくれてすごくうれしかった。
と、急に静かになる。
「何をしている」
レイシィの声だ。クルミは間髪容れずに、「ズンを探してたんだけど、あのコ、どこいったんだろ」
とぼけるのだった。クルミらしいジョークだと受けとってあたしも気配を殺し、いないふりをした。むかしっからかくれんぼをすればあたしは無敵だった。
「あいつはおまえに懐いていたからな。さびしんだろ。察してやれ」レイシィはらしくもなく気遣うようなことを言った。「そろそろ行ったほうがいい。ズンのやつ、もしかしたら怒って暴れるかもしれんぞ」
そんなことするもんか、とあたしは憤ったけど、かくれんぼの最中であるので、ぐっと堪えた。
「でも……さいごにちゃんとお別れ、したいし」
「なに言ってんだ。逢いたかったらいつでも逢いにくればいい」
「……いいの」
「駄目な理由があるのか? むろん、俺らがおまえを訪ねることはない。安心しろ」
「なんかレイくん、変わったね」
「人は変わる。変わらずに変わりつづける。そういうものだろ」
「そう……ね。そうかもしれない」
クルミが飛び降りた。日向が陰ったように寂しくなる。鉄に囲まれているというのに、クルミのぬくもりが離れたのだと如実に感じられた。
「また来るね」
「待ってるよ」
レイシィが応えたが、クルミはあたしへ言っていた。その言葉をあたしは信じた。
四年だ。あたしは四年も待った。その間、クルミはいちどもあたしのまえに姿を現さなかった。いちどだって逢いに来てくれなかった。「捨てられたんだ、あたし」いつしかそう考えるようになった。もしかしたら善からぬ災いが起き、だからクルミは逢いに来てくれないんじゃないか、迎えに来てくれないんじゃないか。心配でもあったから、あたしはクルミを探しがてら、クルミの家族ってやつを見にいった。レイシィには固く禁じられていたからこれまでは逢いにいけなかったけど、そうだよ、あたしのほうから逢いにいけばいいじゃん。心躍らせて、でもやっぱり不安があって、すごく緊張していたのを覚えている。
クルミは幸せそうだった。子どもたちとも仲が良くて。夫と愛しあっていて。そこにはたしかに確かな家族があった。あたしの憧れた、あたしの欲していた、あたしが手に入れるはずだった、クルミの家族がそこにいた。
クルミは適当なことを抜かしてあたしを騙したんだ。あたしが暴れると思ったから、だからああして「いっしょに暮らそう」「家族をしよう」だなんて抜かしやがったんだ。あたしは四年目にして絶望した。クルミに対して失望した。クルミなんか家族じゃない。そう断じた瞬間、腹のそこがじんじんと熱を帯びた。堪えれば堪えるほど、雑巾をしぼったみたいにこみあげてくるそのどろどろとしたなにかは、澄んだしずくとなって、あたしの目からこぼれ落ちた。あたしは声を殺して嗚咽した。
「クルミを処分する」レイシィがそう告げたのは、あたしがクルミに失望してからひと月後のことだった。聞けば、クルミは密かに暗部として仕事を熟していたという。さらにはあたしら鬼族のメンバーをその手にかけていたそうだ。にわかには信じられないけど、現にその時期、あたしらの仲間は殺されていた。全身をバラバラにされて。
下手人は不明のままだった。
言われてみれば、殺されたシンジたちの遺体は異常な寸断の仕方をされていた。クルミに殺されたのであれば、たしかにああいった遺体ができあがる。クルミの体術は絶品だ。音速を超えて繰りだされるその足技は「かまいたち」の異名を誇った。筋力というよりも、頑丈な肉体があってこその技術(スキル)だ。
人を傷つけたくないからと言ってあたしらのもとを去ったクルミが、暗部として雇われている。あまつさえ、あたしらに牙を向けたとくれば、許せるはずもなかった。
同時に考えたくもなかった。クルミが敵となる現実も。クルミを殺さなきゃいけない現実も。クルミがあたしを捨てて去ったこともすべて。
――考えたくなどなかった。
その結果なんだと思う。あたしはクルミ討伐の任を受けた。それこそ、引き受けたんだ。あたしがクルミを殺してやる。あたしを育てて、あたしを〈あたし〉として認めてくれたクルミを、あたしはこの手で殺してやる。
月光のまぶしい夜だった。あたしとレイシィのふたりだけで、クルミの家まで足を運んだ。ほかのメンバーにこんな大役任せられない。これは儀式なんだ。弱っちくておこちゃまのあたしをふっ切るための、これは儀式なんだ。いつまでも乳離れできないあたしを、あたしはこの手で引き裂かなくっちゃいけない。
――断ち切らなきゃいけないんだ。
意気込んでいたのと同じだけ、怖気づいてもいた。
「クルミだけだよね?」
レイシィに確認する。「クルミの子どもは殺さないよね」
「ああ。そのつもりだ」
あたしは何度も確認した。あたしはクルミを殺すけど、クルミの家族は殺さない。
あたしはクルミの家族じゃないから。クルミなんて関係ないから。あたしは別に怨んじゃいないし、傷ついてもいない。そうと自分に示すためにあたしはクルミだけを殺すんだ。これまで手にかけてきた奴らと同じように。殺せと依頼されたから殺すだけの、ただの獲物。あたしは自分に言い聞かせた。言い聞かせていないと途端にあたしは狂いそうだった。
クルミの大切なものを、残らず、すべて、毀したい。
思いとどまっていたのはひとえに、あたしがクルミを憎んでいたからで、言いかえれば、単純に、あたしはクルミに嫌われたくなかった。クルミがあたしを捨て、あたしを忘れ、幸せになっているというのなら、いっそのことあたしも〈あたし〉を捨て、忘れ、裏切ったクルミごとこの手で葬り去りたかった。あたしを思いだす機会すら与えずに、あっけなく。そうすれば、あたしのなかには、あのころの、あたしたちが家族だったころの、あたしだけのクルミだけが残る。あたしは捨てられたのでもなく、忘れられたのでもなく、裏切られたのでもなく――鬼族を抜けたあのときすでにクルミは死んでしまったのだと、そう思うことができる。
家にクルミたち家族の姿はなかった。気取られて逃げられた、とも焦ったけどそうじゃなかった。息子の文字だろう。カレンダーに大きく「ピクニック」と描かれていた。暢気なものだなと視界が霞んだ。腹の底から、あっついなにかがこみあげる。歯を食いしばってあたしは堪えた。ひたすらに耐えた。ひと月もまえに出しきったはずの涙が、断ち切ったはずの想いが、あたしにはまだこんなに残っていたのだと悔しくなった。情けなかった。
あたしだって行きたかった。クルミといっしょにピクニックってやつに行ってみたかった。あたしは無性に腹がたった。ころしてやる。ぜったいにあたしはクルミを殺してやる。息子のまえで殺してやるんだ。クルミのガキどもに癒えぬ傷を与えてやる。消えぬ記憶を刻んでやる。あたしはクルミの家族に嫉妬した。それは同時に、あたしがクルミを心底欲していたことの裏返しで、それでも手に入れられないことへの単なる当てつけだった。仲間の意趣返しだとか、仕事の依頼だとか、そんな動機はこれっぱかしも関係なかった。
「帰って来たぞ」
レイシィがカーテンの隙間から庭を覗いている。耳を澄ますとかすかな車のエンジン音と、きしきしと砂利を踏みならすタイヤの音が聞こえた。ライトがカーテンを横切る。エンジン音が止まる。
「僕はさきにヨモギを寝かせてくるから」
男の、おだやかな声が届く。「荷物は置いといていいよ。あとで運んでおくよ。ママもナっちゃんもつかれたでしょ」
「またそんなこと言って」これは娘だろうか。芯の通った声がクルミに似ている。@「ママを甘やかさないで」
「ナっちゃん、ひどいわ。ママだってちゃんとお手伝いしますよ」ああクルミだ。クルミの声だ。胸が締めつけられる。憎い。あたしはクルミが憎い。「じゃあ、ナっちゃんは、パパのお荷物お願いね。ママはヨモくんの持つから」
ええぇ、と不服そうな娘の声を聞くかぎり、重量に相当の差があるのだろう。こういう幼いところは相変らずのようだ。歯をどぎつく噛みしめながらもあたしは胸がほっこりしていく自分のふがいなさを憎む。今からあたしはクルミを殺すんだ。夫や息子や娘のまえで殺してやるんだぞ。
「行くぞ」レイシィの声があたしを後押しする。いつも通りなんだね、レイシィは。さすがだよ。さすがはあたしの家族だよ。レイシィのあとに続こうとあたしはリビングを抜ける。そのとき、ふと、目に触れた置物があった。ぬいぐるみだ。ずんだ餅に扮した子グマのぬいぐるみ。鮮やかな緑色をした子グマがぶっきら棒な表情を浮かべている。手作りなのは一目瞭然だった。名前が縫われていたからだ。胸のところにおっきく、〈ズンちゃん〉と。あたしのなまえだ。これは、あたしだ。小生意気な目をしてやがる。がるるる、と唸ってでもいるのだろう。@口をへの字に曲げている様は、けれど、ちいさいナリのおかげで滑稽に見える。
ぬいぐるみはひとつだけではなかった。いくつも置いてある。四年間、作りつづけていたのだろう。思うと、うれしいきもちが胸に湧いた熱を穏やかなひだまりのぬくもりに変えていく。クルミはあたしを忘れてやしなかった。
でも、だったらどうして迎えにきてくれなかったんだ。
「なにをしている」
レイシィが背後に立っていた。レイシィからは殺気が洩れている。隠そうとしても隠しきれないあたしへの殺意が。
いや……。
あたしは察した。これは、クルミへの憎悪か。
あたしはようやくレイシィの真意を汲み取った。あたしには理解できた。レイシィの憎悪が。クルミが離反したいと言いだしたとき、そのときレイシィはすでにクルミへの制裁を決めていた。ただ殺すのではなく、より惨酷に、より深い絶望を抱けるようにと。四年という月日をクルミへ与えた。至福の絶頂から、奈落の底へと突き落とすために。
クルミはあたしを本当に家族として迎え入れようとしてくれていた。それを阻んでいたのは――レイシィ、おまえか?
「ただいまぁ」
玄関が開いた。
クルミの夫が息子を背負って入ってくる。あたしは完全に状況を見失っていた。あたしはここへなにをしにきたのか。目的がすっかり定まらなくなっていた。見失っていたのか、それともクルミを殺すことへの反感を、完全に肯定できずにいたのか。殺さなくたっていいんだ。そう決断するには、あまりに時間が足りなかった。動顛していたんだろうと思う。歓喜と絶望と瞋怒。あたしはレイシィに裏切られた。クルミとの仲を引き裂かれながら、さらに利用されていた。クルミを取り戻したと思ったと同時にあたしはレイシィを失った。それはまるで、クルミとレイシィのふたりをいっぺんに失ったみたいな虚無感があった。あたしにとって、家族ってのは、レイシィとクルミの三人がそろっていることだった。あたしはてっきり、この四年間、レイシィもまたクルミのことを待っているんだとばかり思っていた。だってレイシィは言ったんだ。また来るね、とのクルミの言葉に、待ってるよ、と返していた。
信じていたのに。
あたしはやっぱり裏切られていたんだ。
気づいたときには遅かった。レイシィは玄関でクルミの夫を殺していた。
ちょうどクルミが玄関のまえにいた。荷物を落したのはショックだったからではなく、戦闘態勢をとろうとしからだろう。だが暗闇であったことに加え、こちらは最初から殺意を抱いていたのだ。さきに構えていたレイシィがクルミを束縛するなんてのは朝飯前、当然の帰結だった。ワインを開けるのにコークスクリューを持っているか、いないか、くらいの差がある。あたしはここにきてようやく自分がとんでもなく間違ったことを仕出かそうとしているのではないか、と臆しはじめていた。クルミは殺さなくたっていいんじゃないの? クルミがあたしらの仲間を殺した? クルミが暗部として雇われている? こうして間近に見て、それもウソであったことをあたしは悟る。クルミは不抜けていた。平和ボケというやつかもしれない。戦闘態勢を取るまえにいったん距離を空けるのが鉄則だ。あたしだったら手に持っていた荷物は落さずに、相手へ投げつけた。そんな基本的なこともクルミはしなかった。できなかったからだ。四年という至福のなかに身を置いていたクルミは、刺客としての素質をすっかり錆びつかせていた。
クルミのうしろに娘が立った。
まずい、と直感した。
「なんでッ」と叫んでいた。「なんで殺したッ」
あたしはレイシィに突きつけた。これはおまえの復讐じゃないのか。あたしはそのために利用されていただけじゃないのかよ。否定してほしくもあり、考え直してほしくもあった。
レイシィがあたしを連れてきた理由はふたつあったんだと思う。あたしがいればクルミは本気で戦わない。人質としてではなく、保険として有効だった。敵に情を抱いた兵士ほど役に立たないものはない。逆に、守るべき者を人質に取られた兵士ほど厄介なものもない。だからレイシィは家族をさきに殺した。愛しいひとの死を目の当たりにして逆上してしまうほどクルミが人間ではないことを知っているから。そして、レイシィはきっと、あたしの手でクルミを殺させるつもりだったのだ。現にあたしはこの手で殺してやる、と意気込んでいた。あたしが自分でクルミを殺してしまえば、いつか真相に気づいたとしても、レイシィの許から離れることはない。あたしにはレイシィしかいないから。あたしはレイシィを理解しているから。あたしがこの手でクルミを殺す――ただそれだけのことで、あたしとレイシィは、たがいに盲信しあえる仲となる。
あたしが取り乱したからだろう。レイシィはすぐに自分で、クルミの首を跳ねた。レイシィに拘束されていたクルミに成す術などあろうはずもない。あたしは反射的にレイシィに掴みかかっていた。人間ではない、けだものであるあたしが、クルミの死を目の当たりにして逆上していた。だがそれもすぐに醒めやむ。
「逃げるぞ」
蹲っていたクルミの娘をその場から連れ去った。
あたしはレイシィを裏切り、そしてクルミを裏切っていたことを知った。
あたしが家族を裏切ったにすぎないんだ。
信じたつもりでいて、けっきょくなにも信じてあげられていなかったのはあたしのほうだった。あたしはクルミの娘を街中に置き去りにした。
――このコを殺させはしない。
あたしはレイシィを、レイシィの魂を、鬼族を――あたしの仲間たちを殲滅させることを誓った。もう二度と家族をうしないたくなんて、なかったから。
***
あたしはあたしの誓いどおりに鬼族をみなごろしにした。レイシィもこの手で殺してやった。こんなに弱かったっけ、と思うほどあっさり殺せてしまった。
あたしから成長と老化を奪ったままで――あいつは、しずかに息を引き取った。
だのに、どうして。
どうしてレイシィの名がここに?
ホテルのエレベータ内部にある鍵穴にレイシィの名が刻まれている。
レイシィの信念(DOB)(Destruction Of Battle)と共に。
ここは裏街だ。行政や立法に介入されにくい領域で、牛耳っているのも正当な組織ではない。たとえば、繁華街に本社を構えている人材派遣会社「ボディ・カーニバル」とか。
だとすれば、レイシィの名を騙っている何者かがそこにいるかもしれない。あたしが殺し損ねた鬼族が。もしかしたらレイシィが生きている可能性も否定しきれない。十年ちかくも前のことだ。たしかに殺したと思っていても、無意識のうちで手加減していたかもしれない。レイシィの体質を鑑みれば、あの状態から蘇生していたとしてもふしぎではないような気もしてくる。
考えだすといくらでも可能性を挙げつらねることができた。
レイシィが生きている?
うれしい反面、気分は沈む。
ついさっき、奈々のもとを去ろうと決意しておきながら、あたしは奈々の家へと歩を向けていた。おかえりなさい、と彼女を出迎えるために。
※※※三年前※※※
『調査のほうはこれで』
メディア端末越しに告げられた。コインロッカーの中には薄っぺらい封筒だけが入っており、中には数行の文面を載せた用紙が一枚入っていた。
「こら待て。何よこれ。どういうこと。料金分はきっちり働いてもらわないと困るんだけど」
情報屋に依頼した仕事は、とある一家が何者かに惨殺された事件について。
さらには、なぜあれだけの事件が表だって騒がれなかったのか、といった不審な点から、どういった奴らが犯人であるのか、といった事件の全貌までをも穿鑿させた。
これまで貯めてきた金のすべてを投資した。その対価がこの、うすっぺらい封筒一枚きり。
たったのこれだけ?
メディア端末を握る手にしぜんと力がこもる。目のまえにいたら、首を絞めてでも問い詰めているところだ。
「こんな言い方はしたかないけど、これは詐欺よね。このままトンずらこくってんなら、落しまえはつけさせてもらうよ」
『やめてくださいよ。これでもプロですからね。あなたでしょ? 最近、噂されてる〈共喰い〉って? 刺客を消す刺客なんて物騒すぎますよ。ぼくだって命は惜しいですからね。仕事は本気でしましたよ』
「その集大成がこれなわけ」ふざけんな、と腹から湧きたつものがある。「電波ごしじゃ、まともに話もできないよ。まずは会わない。どうせいるんでしょ? ちかくに」
言って見渡す。駅前の広場では雑踏が渦を巻いている。
『勘弁してくださいよ。そんなに殺気ムンムンじゃ、出ていくにも出ていけませんって』
「おまえ、家族はいるか?」
『ちょっと』情報屋が失笑する。『やめてくださいって。まずは話を聞いてくださいよ。それで納得できないんでしたら、仕方ありません。ぼくも全力で遁走させていただきますよ』
舌を打つ。情報屋を相手どっての鬼ごっこ? 勝てるわけがない。
メディア端末の録音ボタンを押し、「手短に話せ」と促す。
情報屋はことのあらましを語ってくれた。
数十年前から、犯人不明の惨殺体が数多く出はじめた。それらのなかには遺体同士に共通点の見られるものがあったらしい。つまり、同一犯である可能性が高かった。しかし県警はそういった見解での捜査をしてこなかった。いかにも怪しい。
データベース上を洗ってみると案の定だったという。そもそも、どういった遺体であったのか、被害者に関する資料にまで、改竄および削除された形跡があったとのことだ。行政機関が事件そのものの全貌を隠蔽しようとしているのは明白であるそうだ。しかし、根拠がない。断言できないことは報告しないのが情報屋としての鉄則であるという。
ただ、調べているうちに一つ、興味深い共通項を見つけたのだそうだ。ある時期に、複数の惨殺体が発見された。身元を調べてみると、彼らの親族のなかに、とある政治家の裁判に関係する者がいたらしい。脅迫か、或いは報復か。
「なるほど」
首肯しつつも、どうしてそれをレポートにして渡してくれなかった、と咎める。
『必要最低限の情報以外はメディアに残すなってのがぼくらの信条でしてね。なのでこの記録も、消させてもらいますね』
メディア端末から耳鳴りに似た、金属の擦れるような音が響く。思わず耳元から離す。慌てて録音を再生させてみるが、メモリのどこにもデータは残っていなかった。強制削除されたようだ。
「くっそ!」
件の政治家の名を教えろ、とせがむが、情報屋は頑なに口を噤む。
「なんでよッ。いい加減にしなさいよ。マジでころすぞ、てめぇ!」
『そんなこと言われましても……。ぼくが話したのは飽くまで憶測なんですよ。なんの根拠もないデタラメです。情報屋が遺体を洗えばそりゃ、共通項の一つや二つ見出すくらい、わけないですよ。いわばさっきの話は、サービスにもならない世間話です』
「だったらサービスしてよ」こちとら大枚はたいてんだぞ、と本音が出る。
『それを言うなら、まさにそれですよ。今回の依頼はいかんせんシビアです。あんな金では足りないんですよ』
「金があればなんとかなるのか」
『ええ。遺体の共通項――その根拠を見つけ出すくらいは』
いくら追加すればいい、と問うと、情報屋は、今回支払った額の三倍の値を言いやがった。『ぼくはどこよりも良心的ですよ。ほかの情報屋じゃ、こんな危ない橋、いくら積まれても引き受けないですからね』
不平を鳴らすまえに釘を打たれる。
「払ったら、その政治家の情報、教えてくれるんだろうな」
『もちろんですよ。なんでしたら、一日のオナニー回数だって調べますよ』
そこまではしなくていい。
「分かった。金は用意する。だが、もう少し待ってくれ」
「どれくらいですか」
「五年はかかるかもしれない」
「いやぁ、そこまではさすがに」
「なんとか頼むよ」神妙な声で、「それまで消されないように注意してね」と案じてみせる。
『……と、申しますと?』
心当たりがあるのか情報屋の声から覇気が消えた。食い付いた鯛を逃さぬようにすかさず提案する。「情報屋の寿命はとくに短い。もしも料金を負けてくれるってんなら、護衛してやってもいい。あんたのバックに私がいるって情報を流せばそれだけでもきみは安泰。ちがうか?」
情報屋の息を呑む気配が伝わる。
『……あの。ちょっと考えさせてください』
「ああ。よく考えるんだな」
意気阻喪したように通話を切った情報屋からふたたびの連絡が入ったのは数日後のことである。さらにその一年後。彼女は政治家の仔細な情報を得る。
***ずんだ餅***
過去の記憶を顧みていると、奈々が帰ってきた。
今日は泊りのはずだったのに。ふしぎに思いながら、おかえりなさいと出迎える。
「ズンちゃん、聞いておくれよ」ブーツを脱ぎ捨てながら奈々が、「すっぽかしやがったんだよ、あいつ。信じられる?」とぶつくさ不平を鳴らす。「私だよ。この私との約束をすっぽかしたのよ。これはあれよね。お灸をすえなきゃだね。せっかくネクタイプレゼントしてやろうと思ったのに」
「会うのって女の子とじゃなかったの?」
出掛ける前はそう言っていたはずだ。ネクタイのプレゼントとは聞き捨てならない。
「そうだよ。女の子。噂好きの、ボーイッシュなコ。かれこれ四年の付き合いになるかな」
女かよ、といちどは安堵したものの、四年の付き合いか、と気分は浮かない。
「あれあれ。ズンちゃん、もしかして嫉妬してくれちゃってんの?」
「んなわけないじゃん」
戦況がわるい。話題を変えることにする。「そういえば、奈々ってタバコ吸わないよね。なんでライター持ってんの?」
火を点けて掲げてみせる。
去年、奈々からもらった品物だ。
あたしを拾った一周年記念だと。
年季のはいった洒落たライターだ。
「あーそれね。私の青春を犠牲にしてやっと手に入れた、とってもありがたいものだから。せいぜい大切になさい」
「ふうん」
どうせどっかで拾ってきた物だろう、とひねくれて考える。
ついでのように、これからのことも考える。
ボディ・カーニバル。
仮にレイシィの遺志を踏襲した者がそこにいるとすれば、いずれ必ずあたしへの報復を実行に移すはずだ。鬼族とはそういった集団だ。
ホテルで奈々の行った所業を垣間見たあの日。あたしはここを去るべきだった。奈々を巻きこまずに済むように。あたしとレイシィの因縁に奈々を関わらせないように。
でも、奈々を放っておくこともできない。
ボディ・カーニバルとの縁を繋いだままの奈々を置いて、あたしだけ自由になるわけにはいかない。
それに、きっと奈々は気づいてない。
でも、あたしはもう、気づいている。
「ねえ」あたしは奈々を見詰める。「どうしてあたしを拾ってくれたの」
「どうしてって。捨て猫拾うのに理由なんていらないでしょ」
しれっと嘯き、奈々は笑った。
あたしは知っている。
彼女が雨にさらされた野良猫を放っておけないやさしいひとであるのだと。
手先が器用じゃないくせに、そのじつ、緑色のした得体の知れないぬいぐるみを、いくつも繕ってくれるくらいに心やさしいひとなのだと。
奈々のつくった緑色のぬいぐるみをあたしはやさしく抱きあげて、
「きみは、いつ見ても、ぶさいくだなー」とぼやくようにする。
「なんだと、こら」
奈々が笑う。「今回のはうまくいったんだ。褒めなさいよ」
言って別室から新しいぬいぐるみを持ってくる。どうよ、と投げつけてくる。しっかりキャッチして、ご対面。これはなんだろう。ずんだというより納豆だ。子グマというより小悪魔だ。
奈々がソファのうしろから覗いてくる。吐息が耳元に当たってくすぐったい。
「どう? 上出来でしょ」
「うん。奈々らしい」
「褒めてんの?」
「もちろん」
言って、そっと、ちいさく抱きしめる。
本多奈々。あたしの――最愛の、最愛。
【棚からずんだ餅】END
【ディスク・クール・ロージャ】
◇「十二年前・フロント」◇
放課後。
いつもみたいに私は、キジとサルの三人で、廃部になった新聞部の部室でぐだぐだと談話しながら、徒然なるままに日暮し――その日の太陽が沈み、夜が訪れるまで――ただひたすらに時間と空間を共有するだけのいわゆる「青春」というものをやっていた。むろん当時はそれがまさか噂に名高い、かの「青春」だったとはつゆ知らず、怠惰な毎日を過ごしているなあ、と暢気に欠伸を噛みしめながらも、漠然とした将来への不安から目を逸らしていた。
その日は数週間ぶりの雨が降っていた。
夕方には雷も瞬きはじめた。
閃光が走り、数秒遅れで大気を揺るがす雷鳴。
私の身体ごと轟かす。
高鳴る胸の動悸を私は楽しんでいた。
雷や地震や台風は、いつだって安全な環境に身を置いている私からしてみれば、気紛れな自然が与えてくれるアトラクションだった。
閃光が瞬く。
遅れて届く、小気味好い大気の躍動。
「重大な発表がふたつあります」
唐突に宣言してからサルが立ち上がった。いつだってサルは突然だ。
「へえ、楽しみだな」キジが巨体をゆすって朗らかに笑った。
私もまた、楽しみだ、と視線を窓から外し、サルへ向ける。
サルは食指を立て、ひとつ目、と言った。
私とキジは劇の観客のようにしずかに見守る。
実は、とサルが声を張る。子どもみたいに甲高い声だ。「実は、レズビアンなんだ」
キジと私は顔を見合わせる。サルへと視線を戻し、
「だれが?」
誰がレズなんだ、と問う。
毅然とした態度のままサルは、わたし、と指で自分の喉元を示す。
「いやいや」
キジがやんわりと異議を唱え、
だって、と私が指摘した。「だってサル、男じゃん」
ふたつ目、とサルは指を二本にし、若干の間を空けたのちにこう告げた。
「わたし、女なんだ」
◇「現在・インサイド」◇
質問はあるか、というリーダの問いかけに、「対象の詳細をお願いします」との要望があがった。これまでの任務は通常であれば、余計な感情を誘起し兼ねない情報である、といった配慮があって、対象の詳細は敢えて隊員には伝えてこなかった。しかし今回ばかりは異例の経歴を持った対象であったために、リーダは簡潔に答えた。
「対象は一名。サポータから保持者へと昇華しておきながら、その申告を虚偽し、あまつさえ数年の期間、その事実を機関へ隠匿していた。発覚後、これまでの実績の数々を考慮し、特例の処置として厳罰は下されなかったが、それからの態度が問題だった。対象は、機関からの通達――『学び舎』への召喚をことごとく拒否。ひと月前に最終勧告を言い渡されていたようだが、与えられていた猶予期間は本日の明朝を以って終了している。にも拘らず対象は応じぬまま、むこうの社会で暮らしている。それだけでなく対象は現在、【波紋】を多重に〝糊塗〟し、失踪中である。これは機関への重大な反逆だ。先にも説明した通り、今回の我々の任務は、潜伏していると思われる対象を保護することである。だが、保持者になったばかりの対象が【波紋】を複雑に〝糊塗〟できることや、サポータ時代の実績などを鑑みれば、対象のパーソナリティ値は我々にちかしいものだと認識しておくべきだろう」
「それは、その……『暴走』の危険も顧慮しておいたほうがよいということでありますか」
うむ、とリーダは頷いた。「そうだ。『処分』の執行も充分にあり得る、とそういうことだ」
一瞬にして隊員たちを取り巻く空気が張り詰めた。
「判明してはるんやろか。対象の『特質』は」普段は滅多に口を開かない隊員が質問した。
「不明だ。ほかにはあるか」
リーダは隊員たちをゆっくりと見渡す。
みな、一流の狩人の面構えをしていた。
「久しぶりに手ごたえのある任務だろう」リーダは語気を上げる。「だがいつだって我々が負けることはない。なぜなら我々は追う側であり、如何なる場合も、追われる側ではないからだ。これまでの任務で相手にしてきたやつらは迷子の子猫のようなもの」
退屈だっただろう、すまない、と軽く頭を下げると隊員たちが声をたてて笑った。
しかし、とリーダは口調を一転させる。「しかし今回のターゲットは牙の生えた獣だ。あなどるな」
隊員たちから喉を鳴らす音が聞こえた。
「だが獣とは言っても、所詮は牙の生えたウサギにすぎん」リーダは堅い口調のまま、「久々の狩りだ」
存分に楽しめ、と結んだ。
◇「現在・アウトサイド」◇
振り返ればすぐ先日だったような気がする高校時代も、時に換算すればすでに、十年の月日がながれた。今日は当時仲の良かった変人二人――ではなく友人二人と、私を含めた計三人で久しぶりに顔を合わせようということで、馴染みの居酒屋に私は足を運んでいた。
高校を卒業してからの進路は当りまえのように三人とも別々で、けれど私たちはある程度の繋がりを維持しつづけていた。
私たちは本名で呼び合うことはなかった。初めて互いを呼称しはじめたときからそうであり、いまさら変えることも憚れるので、私たちはいい歳をして未だに仇名で呼び合っている。
私たちは同級生であり、同い年だった。その中でもキジは、いつも険難な目つきをしていて、私たち以外の同級生たちから、あからさまにおそれられていた。いや、同級生どころか、先輩や後輩、果ては他校の生徒たち、さらには先生たちからも敬遠されていた。もっとも、いちど彼と会話をしてみれば、それが如何に不当な判断であるのか、如何に不毛な評価であるのか、といった事実に気づかされるのである。
キジは、私の出会った誰よりも優しかった。三十路を目前にしたいまでもそれは変わらない。キジの優しさが変わらないという意味であり、私がキジに対して抱く印象が変わらない、という意味でもある。
『虫も殺さない』といった言葉は、彼に限っては決して誇張された表現ではなかった。キジは頭脳明晰、絵に描いたような品行方正な男だった。これもまた、容貌からは想像できないほどの特化した性質であっただろう。見た目で判断するなとは彼のような者のためにある言葉だ、と常々思っていたくらいだ。とは言え、学生当時、偶然キジから話しかけられなければ私もまた、お近づきになりたくない人間だな、とキジのことを疎んじていたからして、高校三年間を通して彼と親しくすることはなかっただろう。
だから私は、あの日、財布を失くして本当によかったと心底思うのだ。その年のお年玉、五万数千円と引き換えに、キジとの出会いが齎されたのであれば、あまりに安すぎる対価だ、と私は五万円という金額を目にする度にいつも思う。十余年という月日が経過した今になって、自分自身でお金を稼ぐ身になった現在の私が、単純に五万円の百倍の五〇〇万円という金額を払わなければキジとの出会いはなかったものとして人生が再構築されるだろう、と言われたところで、私はほとんど動じないだろう。五〇〇万円なんてお金が、キジとの出会いに匹敵するわけがない。むしろ、五〇〇万円などという金額を提示した相手に憤りすら抱きかねない。しかしそれも、現在の私にとって五〇〇万円という金額が決して死活問題となり得ない程度の――現状の生活に差支えない程度の――金額であることはたしかに否定できない。ただしどんな場合も、得た経緯に関係なく、お金はお金でしかないのだから、五〇〇万円という金額には五〇〇万円以上の価値はなく、在るべきではない、とすら私は思う。
ともかくとして、私が言いたかったことは、キジとの出会いは、私にとって価値の象徴的存在である「お金」とは比較できないくらいに得難い出会いであった、ということだ。
さて、キジが私にとって品行方正な紳士的友人であることは今述べた通りであるが、もう一人、私には腐れ縁とも呼べる友人がいた。キジをスモールライトで四回りも小さくしたような矮躯の友人、その名もサルである。
サルは仇名とは裏腹に、極めておとなしく、いつまでも少年のような男だった。そう、男だったのだ。私の認識していた限り、高校を卒業してからしばらく経つまでサルは男だった。しかしそれは飽くまで私の主観的な認識であり、いつ如何なる場合も、主観と現実とのあいだに広がる隔たりは思いのほか大きい。しかし無限の距離を空けているわけでもないわけで、私の主観が認識していたサルの性別は、おおよそ半分が正しく、また半分が誤りであったと言える。
短大へ進学後サルは、去勢手術を経て、完全に女性として生きることを決めたのだ。性同一性障害、というものだったらしい。
サルの特異なところはしかし、この性別のことではない。(実際、性同一性障害や身体的性転換のこともかなり突出した、目を見張る性質ではあったのだが、)さらに私を驚かせた性質がサルにはあった。それは、サルがレズビアンである、という事実だ。サルは心が女性であり、体を男性から女性へと変化させたにも拘らず、恋愛対象かつ性的対象が、女性なのである。「だったら男のままでよいのではないか」という疑問も、性同一性障害のまえには成り立たないのであるからして、そのままのサルを、私とキジは受け入れざるを得なかった。というよりも、サルが性同一性障害である事実も、同性愛者である事実も、私たちにとってはさほど重要な問題とはならなかった。なぜかと問われれば、キジは迷わずこう答えるだろう。
だって友達じゃないか――と。
むろん私も同感だ。
互いに直して欲しいと希求する、人格的な性質は多々あるし、それを指摘しあって喧嘩もした。それでも私たちは、その、自分からしたら欠点である相手の性格も含めて相手を受け入れたいと望み、真実受け入れていた。半ば呆れたように諦観していただけかもしれないが、いつだって重要なのは、私たちの縁がいまもなお継続されているという事実だけである。
ところで――。
そもそもサルは、元々が小柄で華奢な容貌をしていたので、身体を変化させなくとも、充分に女性で通ったと私は思っている。ゆえに、雑談の合間に面と向かってさらりとサルから、「実はわたし、女なんだ」と聞いたところで私はさほど驚かなかっただろう、と今になってはそう思う。
けれど、高校を卒業して二年目の夏。久方ぶりの会合の、待ち合わせ場所でのことだ。遅れて私は到着し、遠巻きにキジたちを確認した。サルはまだ来てなかったようだが、なんと、キジがモデルのような彼女を連れてきていた。そのことに私は少なからず嫉妬を覚え、「嫌みの一つでも言ってやろうかな」と邪な考えを抱きつつ合流した。
遅刻したことを恒例行事のごとく、言い訳がましく謝罪し終えると、キジは「じゃあ行こうか」と言って、そそくさと歩き出した。
「おいおい、サルを待たないのか」私は憤りを覚え、語調を強めて言った。私を待っていたのにサルを待たない道理はない、とそう思ったからだ。彼女を紹介してくれもしないなんて、とやり場のないとまどいもあった。キジらしからぬ、その行動に対して裏切られた感を覚えたほどだ。君はそんな男ではないだろ、と。彼女ができた途端に、周囲への配慮を怠るような、そんなつまらない男ではないだろう、と。
キジは眉を顰め、うしろの彼女を振り返り、「な、ヌイだって気付けていないだろ? これが普通の反応だ」と弁解気味に言った。
その時になって私はようやく合点した。キジの彼女だと思っていたその気恥ずかしそうにうつむいているロリータチックな女性が実は、お化粧を施し、可愛らしい服飾に身を包ませたサルだったのだと。この時の衝撃は、今のところ私の人生の内で、抜きん出て一番である。化粧の差されたサルは、それはそれはみごとに乙女チックメルヘンであった。
私たちは月に一度の頻度で、大学や就職先でため込んだ愚痴をこぼし合い、互いに置かれている環境の違いを分かち合い、慰め合い、同情し、そして活を入れあった。しかしそれも私が大学を卒業して製薬会社に勤めてからは、しだいに、二カ月に一回、三カ月に一回、半年に一回、と回を重ねるごとに集いの間隔が広がっていった。
学生のあいだは、私が二人の都合に合わせ、何とか集うことができていたのだが、私が就職してからは、空いている時間がそれぞれ区々で、どうしても三人一緒に、という条件を満たすことができずに、無常にも時間だけが浪費されていった。
それでも私たちは、半年に一回は必ず顔を合わせることができていた。三人ともこの習慣を守ろうと、意気地になっているところが少なからずあったのだと思う。
だからでもないが、五年ほど前から、半年に一回という暗黙の了解で、私たちはどんなに忙しくても、時間が割けそうになくとも、約束の日に来られない、といった「『社会人として絶対に犯してはならない常識』なのにも拘わらず、どうしてだか私的な約束に関してはこの常識が適用されない」という理不尽な習慣に対し、その日においては頑ななまでに抗っていた。役職という肩書が私たちに付加されはじめた、ということもこの場合、大いに関係しているだろうことはいまさら言を俟つこともない。
◇
今日は馴染みのお店ということで、待ち合わせではなく現地集合――居酒屋「こうちゃん」に直接行くことになっていた。私がお店を訪れたときにはもう、キジとサルはさきに飲みはじめていた。
恐縮して合流するものの、顔を合わせた途端、半年の隔たりや遅刻の引け目なんてものはすぐに取り払われ、旧友のような、親友のような、打ち解けすぎていっそ気持ちわるいくらいに穏やかな空気に満たされる。この瞬間、私はいつも、凍結されていた時間が溶解したような感慨を覚えるのである。
酔いがほどよく身体に染みわたりはじめたころ。
「暴露話をしよう」
サルがこれ見よがしに相好を崩した。禁断の果実を可愛らしくもずうずうしく齧ってしまうような、女性特有の笑みである。
「暴露って」キジが可笑しそうに噴きだし、「僕達はすでに人生最大の暴露を君から聞かされているからね」と冗談めかし言った。「それに見合う暴露なんか、この世には存在しないと思うけど」
「なら、尚のことやるべきじゃない? 貴方たちには暴露話を話す義務が課せられたってことになるんだから」
対価としてさ、とサルは焼き鳥を上品に串からはずす。箸で摘まんで口に運ぶ。サルは、がっつく、という食べ方を高校時代からしなかったが、やはり当時と比べれば、幾分も淑女に似つかわしい仕草をするようになっている。こちらが作法を気にして、固くなってしまうほどだ。もっとも、いまさら彼女のまえで改まる、なんてことはしないけれど。
「ヌイたちの私生活上の暴露話を聞いたところで、楽しくなんてないからさ」サルは迂遠に、「仕事上のタブーを聞かせてくれると嬉しいかも」とねだった。
「それはちょとな」私は顔をしかめる。
しかし内心は、語って聴かせたい衝動に駆られていた。
「僕は構わないよ」キジは乗り気のようだ。「暴露なんてものはさ、要するに、一般的に話したら嘘のような話が大半だ。僕の持ちネタもさ、実際信じられないような幼稚で荒唐無稽な話だしね。例えばだけど、仮にだよ、今になって地球は実は平らでしたって話が事実だとして、一体誰が信じるかな? きっと誰も信じないだろうね。動画や画像で見せたって、『どうせCGなんでしょ』の一言で否定されちゃうんだ」巨躯を揺すり、宙に浮かぶリンゴを潰すように両手を叩く。「平らだよ、平ら」と強調する。
「たしかにそれは信じないなぁ」私とサルは首肯する。
「だから、多分何を言ったって、誰も信じないだろうさ。こんな居酒屋で暴露したって暴露になんてなりっこない」。
むかしからキジはサルの肩を持つ傾向があった。それは私も同じなので、責めることはできないのだが。
「自社の不利益になるような話はできないけれど……うんまあ、暴露と言っても遜色ない話はいくつかあるかな」言いつつ私は、どこまでなら話してもよいだろうか、と考えをまとめる。
「お、ならそのまえに僕から話そうかな。とっておきは最後にしなきゃ」キジはいつにも増して冗舌だ。
「ハードルを上げないでほしいな」
「さて、どれを話そうかな」キジは視線を宙に漂わせる。「よし、じゃあこれはどうだろう。僕の勤め先は言うまでもないから、単刀直入に概要だけ話しちゃうけど、いいかな」
キジは国家公務員だ。財団などを束ねる役所の人間で、この若さにして官僚補佐でもある。
「うん。簡単に話してくれ」
「そうして」サルも同意する。
「道路にはさ、必ずと言っていいほど木が生えているだろ。街路樹がさ」キジはここからは見えないのに、外を指さす。
「ああ、あるね。外観を整えるためだろ」私はビールを口に運びながら、もっともらしく言う。
「それに、空気を浄化させるのも一つ」とサルも付け足す。
「うん、たしかにそれもあるんだけれど、一番の理由はそうじゃない」キジは私たちのほうへ身体を乗り出し、声を静めながら、「木の根がさ、道路下まで伸びてきて、道をデコボコにいているってこと、あるだろ?」
「あるねえ。さっさと直してほしいよね、アレ。いったい行政は何をしているのだろう」私はからかうように口にする。
「その通り。そのために植えられているのさ」キジは言い、乗り出していた身体を引っ込めた。
私とサルは次の言葉を待ったがキジは、これで終わりだ、と言わんばかりに肩をすくめた。
「どういうこと。ちゃんと説明して」サルが迫る。
「う~ん、僕に最後まで言わせる気なのかい」キジは困った顔を返し、私に期待を込めた視線を送ってくる。ここまで言ったらわかるだろ、とそんな悪戯な笑みを浮かべている。
「えとさ、つまり、こういうことか」断ってから私はキジの言いたかったことを想像で補ってみる。「道路を周期的に補強する名分が欲しいがために、街路樹は道路に植えられている。それは要するに、その工事が行われることによって利益を得る組織が存在する、ということなんだろう。新手の談合のようなものかな? 街路樹が道路をデコボコにしてしまって危険です、工事をしてください、という風に短期間内の工事が確実に保証されている――と、こういうことでいいのかな?」言って私はキジに同意を求める。「道路に時限爆弾を仕掛けているようなものなのだろ」
「なるほど、面白い意見だ」キジはそれだけ言うと、莞爾とした笑みを維持したまま黙した。
ははあん。こうすればキジは直接暴露したことにはならないのか。私はキジの意図を読み取ったつもりでいたが、実際のところキジは責任逃れのために言葉を濁しているというよりかは、純粋に私たちをからかって楽しんでいるだけのようにも見えた。
「ふうん。そんな背景があったんだ」サルは飄々と、「告発してみよっかなあ」
どこまで本気かは分からない言葉を吐いた。この三人の内で一番ポーカーフェイスなのはサルである。いつだって彼女の内心を私は推し量れない。キジにとってもそれは同じなようで、私たちにとってサルはいつまで経っても特別に理解し難い人間であった。もちろん、だからこそ一緒にいて楽しいのだろうし、サルのことを理解しようという努力を保持しつづけられるのだろう。
理解できないから楽しいのか、楽しいから理解しようと努めるのか――どちらが先であるかはこの際問題ではない。このままずっと三人が友人であり続けること。それが私にとってのささやかな願いであり、その願いのみが私にとってのすべてとも言える。
「ほかには何かないのか」
私はキジに追加注文したが、
「もっと聞きたいけど、今日はこれでじゅうぶん」サルが言った。「キジからもっと聞いてしまったら、わたしまで何か話さなければならなくなりそうだし。はい、今のでキジからの対価は支払われた、ということで。キジくんおめでとう」おどけるようにサルは言って、キジへビールを注ぐ。注ぎつつも、「じゃ次はいよいよヌイさまのとっておき」と私へ、少女のような眼差しを向けてくる。
あと二年で三十路を迎える女性にはとても見えない。
「まいったな」私はジョッキに残ったビールを飲み干し、「これは事実だから、笑わないでくれよ」と前置きする。
「すでに笑いそうなんだけど」サルが目じりを下げ、
「笑わないよ」キジが真面目に首肯する。
満足して私は、あのさ、と口火を切る。
「殺虫剤ってあるでしょ? あれは文字通り、虫を殺すための薬剤なんだけど、そうじゃない仕組みの虫除けもあるわけ。で、それが問題なんだけど、どうやって虫を除けているか解る?」
「虫の嫌いな匂いとか、毒とか、そういうことじゃなくて?」サルが答える。
「まあ、それも根本的には殺虫と同じだよね。近寄るとダメージを負うから近寄らないってことだから」
「ふうん。なら、近付かないでくださいってお願いするんだなきっと」キジが素っ頓狂に横槍を入れた。「きび団子みたいなのを差しだしてさ。心底下手にでてお願いするんだ」本人は茶化したつもりなのだろうが、私は素直に感心した。
「流石だねキジ。その通りだ」
キジが固まった。
サルも固まった。
私の言葉を咀嚼するように、サルとキジは瞬き二回分の間を空け、しかるのちに二人同時して、「どの通り」と聞き返した。
「まさかヌイんところの会社は、虫たちと契約でもしているのかい」
「そうなんだ」私は努めて真面目に応じた。知っていて言っているのではないか、と疑いたくなるほど、キジは的を射ったことを言う。
こちらのキジへの感心をよそに、突如サルが噴き出した。淑女らしからぬ、豪快な笑いだ。
笑わそうとしていた訳でもないのでこの場合、私は、笑われていることになるのだろう。しかし笑われているにも拘わらず、私は微塵の不快感も抱かなかった。それほど彼女の笑いが、純粋で無垢なものに感じられたからだ。
私は彼女の哄笑が治まるのをキジと共に、待つ。
涙を拭いながらサルは弁解気味に言った。「ごめん、つぼった」
「それはなによりだ」言って私は、彼女の笑っていた間にまとめていた話を続ける。「昆虫はさ、宇宙人なんだよ」
途端。
サルがふたたび悶絶する。
腹が捩れるとはこのことを言うのか、と私は冷静にサルの状態を分析した。
三十路を目前に控えた独身の人間が、それもそれなりの社会的地位に就いている者が、大のおとな二人をまえに、大真面目に宇宙人の話をしはじめたのだから、気持ちは解らないでもない。けれどサル、君は少し笑いすぎだ。キジを見習ってほしいものだなぁ、と視線を外し、キジを見遣ると、顔を両手で覆ってはいるものの、キジもまたしゃくりを上げていた。
私は彼らに「笑わないでくれよ」と念を押し、キジに至っては了解していたのに。なんて友人たちだろう。ただまあ、考えてもみれば、それだけ私らしからぬ言動だった、ということでもあるのだし、言い換えれば、友人たちからの評価が思いのほか高かったことを逆説的に示しているわけで、この場面はもしかしたら喜ぶべき状況なのかもしれない。いや、たとえそうでないとしても、そう思わなくてはやっていられない状況である。
「いいさ、いいさ。気の済むまで笑ってくれ」私は投げやりに、「とりあえず勝手に話を進めさせてもらうから」と唇を湿らせた。
「ごめんってば」サルは謝りながらも、陽気を堪えきれていない。目に涙まで浮かべている。
ここだけ見れば、私が何か酷いことを言って泣かせたみたいだ。
「いやいやサル」とキジが言った。「僕の話よりも随分と荒唐無稽な絵空事のような話だけどさ、それでもこれはきっと真実なんだよ」
そうなんだろ、と私に柔和な一瞥をくれる。
概ね正しいが、冗句のような口調は余計だ。
まあ、いい。信仰はいつだって自由だ。それは宗教だけでなく、科学や超常現象の存在に至るまで、信じるという行為全般に該当する権利なのだから。それを押し付けなければよいだけの話で。
「昆虫はさ、一匹一匹がひとつの生命体の細胞みたいなものなんだ」私は説明を開始する。「私たちの身体だって、身体という器に拘束されているということ以外は、昆虫たちと一緒――つまり宇宙人たちと同じなんだよ。私たちの意思とは関係なしに、細胞は個々に働いているだろ。赤血球然り、白血球然り。免疫細胞なんかは、それぞれが個々の役割をもって人間が働くように機能している。マクロファージだとかキラーT細胞とか耳にしたことがあるだろ。細胞は、それぞれに与えられた仕事をこなすのさ」
エイズの話で良く耳にするね、とキジが呟く。
「うん。それでね、宇宙人達は私たち人類とは違って、自身の細胞を広域に分散することができる。それぞれの細胞に意思の断片を付加したままでね。だから彼等は、昆虫という最小単位に分裂しながらに、一個体としての意思統合を持ち得ているんだ。細かく分身できる、と言い換えれば分かりやすいかな」
「ヌイってば相変わらず説明が下手」サルが悪態を吐く。「要するに、『なぜ知能と呼べる思考形態を持たない昆虫たちが、ああも統率を保ちつつ、秩序を築きあげることができているのか』って疑問に答えることができる――そういうことでしょ」
キジと私は顔を見合わせる。
「全然要されてないでしょ、それ」私はやんわり指摘する。「でも、まあ、サルがそう言うのだから、私の言いたかったことは、そういうことなのかもしれないね」
「かもしれないじゃなく、そうなの。自覚がないって、それじゃ駄目」
サルはかなり酔ってきたようだ。この説教癖が出はじめたら、要注意だ。
私は、アルコールとフラダンスしていた理性を至急呼び戻し身構えるものの、時すでに遅し、理性はすでに千鳥足だ。
「でもさ、その話だと、本体と呼べるものが個体として存在していないわけだから、交渉するにも交渉の仕様がなくないか? 大体さ、意思疎通はどうやって行うんだい?」キジは揶揄するようでもなく真剣に疑問をぶつけてくる。
ジグソーパズルのピースだけでは絵柄が判断できないように、昆虫類という宇宙人の意思は、全体を一個として見做せなければ知ることができない。ならばどうやって人類は宇宙人と交渉しているのか。キジの疑問はそういうことだ。
「それがさ、びっくりしないでよ」笑わないでよ、との要求はもはや諦めているので、こう念を押す。
「勿体ぶらないで」
実はね、と私は食指を立て、
「我々人間も、ひとつの生命体における分散された細胞なんだ」と言った。
言うや否や、この場が凍りつく。
しらけた、とかそういった意味合いではなく、まさしく時が止まったかと思った。
キジもサルもフリーズしている。
時が動きだすと同時に、サルは爆笑し、キジに至っては、「やれやれ」と憎たらしく首を振った。いつになくシニカルな態度だ。キジにしては珍しい。
キジの意外な側面を見られたことに私は満足する。満足しつつも、「それほど私の話している内容が、幼稚に聞こえているのだろうな」と何だか今になって私も可笑しくなってきた。きっと、私の理性が酔っぱらっているせいだ。
「まあだから、私の勤める会社が昆虫達に交渉するというよりは、私たち人類という巨大な生命体が、昆虫たちと交渉している、と言ったほうがしっくりくるかな。これをあげるから、近寄らないでくれ、とそうやって人類が交渉しているんだ。取り置き型の殺虫剤なんかは、大方がこれだね。『蟻が巣に持ち帰って全滅』なんて建前上は説明しているけれど、あの餌みたいな毒はさ、実際は昆虫達からしたら本当に高級な食材なんだ。あれ一粒で向こう一年間の餌が必要なくなるくらいのね」
「話が壮大なくせに、交渉の内容が随分と陳腐」サルが毒づく。きっと、「ここまで来たらもっと夢のある話に仕立てなさいよ」と不満が湧きたったのかもしれない。
「うーん、でもそんなものじゃない?」私は言った。「戦争だってやっていることは壮大な癖に、戦争が引き起こった理由なんてものは案外に矮小だったりするだろ。それに、私の勤め先の製薬会社は、人類という一個体の大いなる意思の一端を担っているだけで、ほかの企業だって同ように昆虫達と何かしらの利害関係を築いているし。たとえそれが無自覚だったとしてもね。いや、企業だけじゃなくって、個人個人が、そうやって〝人類〟という大いなる意思を担っているはずなんだ。むしろ私の勤め先の製薬会社がその意思を反映し理解することができているのは、特例中の特例、例外中の例外なんだと思うよ」
これについては〈共鳴者〉と呼ばれる者の育成機関が、国家の補助の元、極秘裏に形成されているからこそ成り立っている特例中の例外なのだが、流石にこのことは他言できない。相手が大切な友たちなら、尚更である。私は一呼吸空けて続ける。
「実際問題さ、昆虫達との共存関係っていうのは、私たち人間社会と密接に関わっているんだよ。例えばだけど、街灯ってあるでしょ? こんな場所にまでこんなに沢山設置しなくたっていいだろ、って思ったことはないかな。あれはね、昆虫たちが夜でも体温を維持するために設けられている、昆虫専用の暖房機の役割があるんだ。言ってみればまあ、昆虫達にとっては仲間の集う、行きつけの喫茶店のようなものなのかもしれない。その代わり昆虫達には特定の植物を繁殖させないようにって、人間ではなく植物に近付かないことを約束させていたりする。受粉を助長させないためにね。ほかにもさ、コンビニの入り口付近に設置されている虫を寄せ付けて焼き殺す機構。青い光を放っていてさ、虫が寄りつくと、バチバチって焼き殺しているだろ? あれも実際は、特定の昆虫を駆除してくれっていう要求に応えた結果なんだ。ようするに、治療してくれってことだね。ほかにもね、殺虫とかいいつつも実際は抗体を付けて、より強い昆虫をつくりだしたりもしている。それはつまり、昆虫という宇宙人の細胞を強化しているわけで、それが目的で、製薬会社は殺虫剤を研究し、生成し、市販しているくらいなんだ」
「ふうん。殺虫剤は抗体ってわけか」サルが唇を窄める。
「そういうことだね」
「理屈は解った。話の内容も理解できる。でも同意はできない。納得できないもの」サルが枝豆を摘まみながら抗議した。キジも朗らかに頷いている。サルはそれに満足すると、続けて私に向かい、「それって結局、わたしたちが操られているってことにならない? その人類という巨大な生命体とやらに」とひどく真面目に言い放つ。
「うん。そうなんだ」私は首肯する。「基本的には自由意志は働いているけれど、例えば私たちの場合、血中の単球は普段は血中を自由に流れているけれど、いったん体内に病原菌などが侵入した際には、条件反射のように撃退に向かうだろ? それと同ように、与えられた役割が我々人間には個々に備わっていて、ある条件が満たされた場合は、意思とは無関係に行動してしまうんだ。さっきのキジの話しじゃないけど時限爆弾のようなものだね。それは無意識とか、運命とか、奇行とか、精神病だとか、いろいろな言い方で呼ばれるような現象として顕在化しているし、ニュースとか歴史なんかを思い返してみればさ、なんとなく思い当たる節はあるだろ? どうしてこんなことを人類は繰り返してしまうのだろうか、って」
「あぁうん……人類って学習しないな、って思ったことはあるにはあるけど」サルは腑に落ちない様子だ。
「学習しないんじゃなくって、抗えないんだよ。巨大な意思にね」
「それって神の存在を信じるか否か、という議題かい」横からキジが困ったように訊いてきた。
「いや、違うよ。神なんてものじゃない。少なくとも、神は誰かを救う存在のことだろ。誰も救わない神は神じゃないし、人を傷つける神を神だなんて言えないよね。この場合、人類という巨大な生命体は、私たちひとりひとりのことなんて、これっぽっちも気にかけてやしないんだ。私たちが自身の細胞のひとつひとつを気にかけてないのと同じようにね。ただ、昆虫という巨大な生命体との共存のために、『互いに一定の距離を置きましょう、過度の干渉は控えましょう』といった契約のようなものなんだよきっと」
「妥協と固執のバランスを互いに保つための手段ってことか」キジは唸りながらも、咀嚼しようと努めてくれている。
「うんまあ、そういうことなのかな」
何事にも譲れないものというのはある。しかし、あれもこれも譲れない、ではいずれ敵対することになる。そうなったとき、またはそうならないために、妥協は必要なのだ。お互いのために。
「ほかにも、認められていないものの、それなりに支持されている仮説もあるんだけど」
「へえ。まだあるのか」ネクタイを緩めながらキジは言った。「面白そうだ、聞かせてくれよ」
「現在一般的にはさ、心っていうのは、脳内物質の化学変化による電気信号の統合された情報だとされているだろ」
「そうだね」キジが頷く。「唯物論が一般的には受け入れられているよね」
「うん。で、私たち人類や、宇宙人――つまり昆虫たちのことだけれど――それら全ての生物が、一つの広大で荘厳な意思を形成するために動いている、脳内物質のようなものではないか、と主張している学者もいるんだ。私の努めている研究所にね」
壮大だなぁ、とキジはこめかみを掻いた。「それこそさっきの話じゃないが、神の存在を信じるか否か、という議題になりそうじゃないか」
「うん。神――と呼ぶかどうかは定かではないけれど、それでも何かしらの統合された一つの意思を生みだすために、我々はこの世界を脳内物質のように駆け回っているのではないか、ということなんだ。昆虫も人類もひっくるめてね。ただ、唯物論の一つの問題でもあるのだけれど、先に脳内物質が動くことによって後から意思が生まれるのか、それとも意思が初めにあって、だから脳内物質の変質が引き起こるのか。化学反応が先か、意思発生が先か――この問題がとても重要になってくる。何に対して重要かと言えば、私たち人類が自由意思を持った生命体であるのか、それともただ風が吹いて木の葉が舞いあがるように、宇宙の物質の循環のみせる一瞬の現象に過ぎないのか、といった私たちの尊厳に関わる問題に及ぶ、ということ。私たちは自分で生きているのか、それとも生きている、とただ錯誤しているだけで、ほかの多くの物質と同じように宇宙の循環によってただ流されているだけなのか。風によって木の葉が舞いあがるように、風のような視えない作用によって気付かぬ内に操られているだけではないのか、といった問題に行きつくんだ」
「それは解るけれど……それとさっきの、僕らが巨大な意思を生みだすための脳内物質に過ぎない、って話はどう繋がるんだ」
酔った僕の拙い説明でキジは私の言いたかったことを概ね理解してくれたようだ。流石である。私は続けてキジの質問に応じる。
「つまり、唯物論からすれば私たちには自由意思がない、という結論に至ってしまうわけなのだけれど、それならどうして私たちは自我を持ち、さも自由意思を持っているかのように活動するのか、といった問題に答えられないんだ。でも、さっきの学者の仮説を用いれば、私たちによって巨大な意思が生まれ、その巨大な意思を生むために私たちは存在し、活動している、という答えが出せるわけ」
「ん? 良く解らないな。つまりこういうことか? 巨大な意思を生むために僕たちは生きていて、巨大な意思は、己が存在するために、僕らを存在させ、活動させている。相互関係に補完し合っているわけだ?」
「そんな感じだね」
曖昧に頷いておく。「で、たとえば唯物論の逆、つまり意思が先にあって、だから脳内物質が循環する、という理屈であっても、この仮説で説明できるみたいなんだ」
ちょっと待ってね、とキジは考え込む。それからすぐに、「ああなるほどね」と食指を振った。「意思が先に作用することで脳内物資が循環するとした場合――問題は、心によって物理的作用が及ぼされてしまうと結論せざるを得ない点。意思によって脳内変化が引き起こるわけだから――即ち、僕たち人類は、意識するだけで物理世界に干渉できてしまえるということになる。超能力みたいなトンデモな現象を認めることになってしまう。でも、さっきの仮説でいえば、その脳内物質を循環させる意思というのは、そのまま巨大な意思の断片でもあるわけで、つまり、超能力を肯定せずとも〝意思〟が先に働き、だから脳内物質が循環する、という理屈が成り立つわけだ」
「まあ、超能力よりもトンデモな【なんちゃって神さま】を先に仮定している時点で私はあまり指示してないんだけれどね。ただ、ほらさ、面白と思わない?」
「うん。面白い。高校時代を思いだすな。放課後、宇宙とか自我について語っててさ、僕たちだけで白熱しちゃって。それでサルだけ蚊帳の外」
「そうそう」
手を叩き私は笑った。いい加減にしろ、とサルが拗ねていたのが印象深い。「でも、今の話はまあ、与太話、私の会社でも誰も支持してないけどね」
「今の話は――ね」意味ありげに唇を歪めながらキジはこめかみを掻いた。「どっちにしろヌイの話はやっぱり神の存在を肯定しているね。いや、たとえ神じゃないとしても、僕らは自分以外の意思によって動かされ、決まった人生をおくるようになっているってことだろ。それってつまり、運命には抗えない、って言っているようなものじゃないのか」
「今の話はそうだけど――でも、最初に私が語った話は、そうじゃないよ。普段は自由意思を持って、自分の意思によって生きている。でも、たまに、ある特定の条件下に置かれた場合のみ、私たちは自分に課せられている役割を無意識に行ってしまう。人類という種から与えられた役割をね。それには絶対的に抗うことはできない」
「どちらにしても、僕らの個としての尊厳は蔑にされるわけだ。仮に本当だったとしても、僕は嫌だね」わるいとは言わない、でも嫌だね、と朗らかな口調のままでキジは言った。
「そうだね。嫌ならとことん抗えばいい」私は残ったビールを一気に飲み干すと、なあ覚えているか、とキジへ訊いた。
「なんだ」
「卒業式のときの西島先生の言葉」
「ああ、あれな」キジは目尻を下げる。少しだけ険難な目付きが穏やかになった。「自分の身を呈してでも抗うべきことだと思うのなら、」
納得するまで抗うべきだ――と私も途中からキジに加わって一緒に唱える。
当時それを聞いた私はひどくやる瀬なく思った。私たちの門出である卒業式の最後の言葉が――それも担任だった西島先生からの言葉が――なんて子ども染みた言葉なのだろう、と憤った。
けれどこうして十年も経ってから思い返してみると、西島先生がどんな意味を込めてその言葉を私たちへ送ったのかを、なんとなく肯定的に受け取ることができるようになった。
――納得するまで抗うべきだ。
それはなにかを拒否するという意味でも、否定するという意味でもなく、ましてや自分の意思に固執するということでもない。
納得すべき選択を、己の人生をかけて模索しなさい。そういう意味だったのかもしれない。今はそう思う。きっと十年後の私はまた違う意味をこの言葉に見出しているに違いない。
「何に抗うべきか、それに気付けるといいよね」
言いながら私は不安げにサルを見遣る。
随分静かだったので、心配だった。またぞろ説教が飛んでくるのでは、と身構えていたのだが、サルはテーブルに突っ伏し、しずかに寝息を立てていた。
「ちょっとばかし退屈な話だったかな」苦笑するよりない。
「そんなことはないさ。サルだってほら、満足そうな寝顔じゃないか」キジは娘を見る父親のような眼差しでサルのことを見詰めた。
「そうだったらいいね」
「でもさ、僕らが未だにこうやって付き合いつづけていられるのはさ、誰の意思でもなく、僕らの意思だよな」
もちろん、と力強く頷き、
「それが私の一番の願いだからね」
酒くさい台詞を吐いてみる。アルコールで赤く染まった顔がさらに赤らいでくのが自分でもわかる。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」キジは愉快気に言った。
いつもなら気付いても微笑むだけで済ましてくれるのに、今日のキジはサディズム属性のようだ。私をからかって楽しんでいる。そして今日の私はマゾヒズム属性のようだ。キジとサルに弄られて、なぜかうれしい自分がいる。
◇「リバース・サイド」◇
――どういうことだ。
部隊から距離を置いて指令を出していたリーダは底の見えない不安を募らせる。
これだけの保持者を動員しているにも拘わらず、対象の波紋どころか、メノフェノン鱗状痕さえ発見できない。メノフェノン鱗状痕を感知するには専用の探査機が必要であるが、それを今回は全隊員に支給してある。
探査機の適用範囲は、機器の感度を高めて使用したとしても半径二百メートルはある。もちろん上下左右へ放射線状に感知可能であるために、ビルディングに潜伏していたとしても詮索できる。
だのに感知されるメノフェノン鱗状痕の多くは、すでに登録されているサポータや、こちらの社会で暗躍している保持者たちのものだ。ほかには〝魔害物〟の小動物などがうろついているようだが、今はそれらに構っていられる状況ではない。
――認識が甘かった。
対象はすでにこの街から遁走していると考えるのがこの場合もっとも論理的な見解である。しかし、リーダはそう考えなかった。
――奴はこの街にいる。
直感などと、そんな根拠のない妄言で断じているわけではない。
まだサポータだったころの対象が熟してきた任務の数々についての情報は閲覧できたが、なぜか仔細を知ることはできなかった。リーダの手元には今、バイタル通信を介して送られてきたそれらの添付ファイルが開かれている。今回の指令を受けた際に念の為にと機関の総括部へ申請しておいたものだ。それが今ごろ届いた。いや、それが送られて来た今の今まで、リーダ自身、そのことを失念していた。
任務における対象の履歴など、任務それ自体には関係がない。
しかしファイルに目を通してリーダは、自身の詰めの甘さ――ともすれば驕り――に対し腹の底のほうに熱いものが湧いた。
対象の名は、百々乃津(とどのつ)マリハ。
名前から推測するに女性であるが、性別の明記はない。
サポータ歴は長く、齢十二のころから機関の教育を受けていたとある。機関にとってより重要な任務を課せられるようになり、対象はそれらのことごとくを十全に果たしていたようだ。
無数にある任務の中で、リーダが特に目を引いた項目があった。目を引いたどころか、瞳目し、刮目したほどである。
――SIXTEEN・BEAT。
そう呼ばれる超特務扱いの任務がある。
〝あの事件〟のことを知る者は、機関内でも総括部に身を置いているごく一部の保持者だけである。リーダもまた、この部隊「コーネラノ」通称:「野良猫」を総括している身として、当時、情報の閲覧を許可されていた。
今回、リーダは任務の難易度を大きく見誤った。
対象はあの事件に遭遇していてなお、生存しているだけでなく、現存しているのだ。
その事実が示唆する要点はただひとつ、対象はサポータ時代からすでに、並の保持者以上の〝何か〟を有していたということである。
――あの事件。
――SIXTEEN・BEATの末路。
任務の概要は、端的に表せば、〈オリジナル・セオリィ〉と呼ばれる古文書の奪還だ。
より精確には、古文書の原本にあたる八つの草稿――それらのほかに存在したとされる〈第零章〉俗称:〈ディスク〉に該当する草稿の発見と保護である。
機関は長らく、〈ディスク〉の存在を巷説の類だと見做し、穿鑿を見送ってきた。当時はリーダを含め、多くの者たちが、「たかだか本の一冊になにを大袈裟な」と嘲笑していた。しかし現実は、そのたかだか「一冊の本」によって、全世界に息衝いている生命のことごとくが息絶えてしまいそうになる危機に直面させられた。むろん当時、危機に気付けていたものは、「SIXTEEN・BEAT」に与した当事者たちと、それらの経過をただ指をくわえて見守っていた総括部の面々だけである。
〈ディスク〉を所有していたとされる族の名を『シヴァ』という。
当時、裏社会において「一撃」や「鬼族」と並ぶほどのアウトロー集団であった。
機関を離反した保持者の数名が所属していたようである。
今回、捕獲の対象となった元サポータは、その『シヴァ』から単独で〈ディスク〉を回収し、さらに未曾有の危機から人類を救った。
リーダはようやく決断した。
我々には荷が重すぎる。
リーダは総括部へ連絡をとることにした。
――緊急を要する、今すぐに寄こしてくれ。
――アークティクス・ラバーの応援を。
◇「現在・イン」◇
ふいに寝ていたサルが身体を起こし、テーブルが跳ねた。
「どうして……」サルは呟いた。
一瞬、まったくの別人と認識しかけたくらい逼迫した表情を浮かべていた。
店内であるにも拘わらずサルは、遠くを見渡すようにした。
それから早口で、
「ヌイ、さっきの話で、あなた達からわたしへの対価は支払われた」と言った。「もうわたしに、あなた達二人を拘束する力はない。契約は解かれた、もう自由だから」
酔っているとも寝起きとも付かない、とてもハッキリとした口調だ。それから続けて、ごめんなさい、と言った。
私とキジは唖然とするほかない。
急に、演劇の舞台上へ投げ出されたかのような戸惑いがある。
「たのしかった。ほんとうに今まで、たのしかった」
ありがとう――とサルは床に溢すのだ。
「でも、それも今日でお終いみたい。あのとき、わたしが性同一性障害でしかもレズビアンだって話したとき、キジとヌイにわたし、一方的な枷を強いていたの。ごめんさい。でも――怖かった。とてもこわかったの。本当のわたしを知って、離れていってしまうんじゃないかって、こわかった。だからずっと三人一緒に居られますようにって、この関係が途切れませんようにって、ふたりに……わたし………………」
サルは泣いていた。
それはついさきほどまで笑いながら溢していた涙と変わらないものに思えた。
「ヌイがうそを話していると思って、ちょっとキツくあたってしまったけど、さっきの話、嘘じゃなかったんだ……。信じられないけど、でも、契約が破棄されたってことは。本当なんだよね。そうだよね、ヌイがわたし達に嘘をつくなんて、そんなこと今までいちどだってなかったのに」
畳みが、涙をはじく音を響かせる。
「言いたいことはもっといっぱいあるし、まだまだたくさん話したかった。これからだって、ずっと――」
でも、もう無理なんだよね。
サルは頬を引き攣らせながら笑うようにした。
「なあサル」
私は訊ねる。「これは、なんの冗談だ」
キジも何か言ってやれよ、と視線を向けるが、彼は一切を受け入れているかのように、じっとサルを見詰めている。
ねぇ、とサルが言う。こちらへ向け、微笑みかけるようにし、涙を流しながら、
「好きだよ」
声を震わせた。
サルは女性で、同性愛者で、だから私のことを好きだという。
私が女だから。
男ではないから。
いや、そんなことは関係ないのだろう。
彼女はずっと前から私のことを好いていて、私も彼女のことを好いていて。
でも、この想いは男であるキジにも向けられる感情で、だから私のこの想いは友情で。
けれどサルの「好き」は、たぶん私の気づいているものとは違っていて、特別で、だからこそ彼女はずっとその想いを秘めていて。
ではなぜ今になってそんなことを言うのだろう。
これではまるで本当のお別れみたいじゃないか。
とつぜんのことばかりで面食らってしまい、私は返事をできずにいた。
こちらがそうして逡巡している間に、サルはていねいにお辞儀をし、そのままの体勢で、水のように薄まって、掠れて、消えてしまった。
霧が晴れるような静かな消失だった。
私は視ていた。
髪が垂れて顕わになった、サルのうなじに刻まれたタトゥの文字を。
――一撃。
特殊な加工だと一目で判った。
どうして彼女が、とそのことばかりを考えている。
目のまえから忽然と人が消えたのに。
それも私にとってとても大切な人が。
「なあ、キジ。これは現実か」
「わからない。でも、夢ではないことは確かだよ」
「どうしてそんなことが判る」
「サルが君に告白したからだ。死んでも言えない、と泣きながら相談してきたあのサルが。あの頑固で一途なサルがだぞ。それを現実と言わずして、なにが現実だい。こんなこと、夢でだって起こらない」
違うかな、とその巨躯に似つかわしくないか弱い声で、キジは言った。
「違わない」私は自身に言い聞かせるようにつぶやく。
またしてもサルは、私の内でのワールドレコードを塗り替えていった。きっとこの先、何が起ころうとも私は、ここまで驚くことはないだろう。こんなにも狼狽し、困惑し、動揺するなんてことは、二度とない。
サル――君は、私たちの知らないところで一体なにをしていて、なにに苦しんでいたんだ。
私はなにも知らず、なにも知ろうともせずに、世界の在り方を熟知した気でいて、その実、なにもわかっちゃいなかった。
自分にとって一番大切なことを、なに一つとしてわかっちゃいなかったのだ。
「なあ、キジ。私は最低か」
「わからない。でも、少なくとも、僕らは同罪だ」
「どうしてそんなことが判る」
「サルが悲しく泣いていたからだ。彼女はいつだって泣いていたのに、僕らは気付いてやれなかった。気が付けなかった僕たちは、大馬鹿野郎だよ」
違うかな、とキジは自嘲気味に言った。
「違わないよ」
キジの言うとおりだ。
私は頬を両手で挟むように叩いた。「どこ行ったんだろうな、サル」
キジはしばらくサルのいた席を眺めていたが、やがて思い立ちあがり、
「さがしてみるか」と言った
「うん、みる」私は即答する。「時間はあるのか」
「時間はいつだってあるさ」誰にだって平等にね、とキジは重要だと言わんばかりに強調した。
「同一ではないにしろ、か?」
「そうだ」
懐かしいやり取りだ。
「私に当てがあるんだが」と提案してみる。「今から行けるか」
「今から行かなくて、いつ行く気なんだ」
キジは立ち上がり、上着を羽織った。
「少し、世間離れしている場所で、ちょっと危ないかもしれないが、だいじょうぶか?」
「うそを言うな」サルの置いていったバックを拾いキジは、「少しで、ちょっとな訳がないだろ」と見透かしたようなことを言った。
「そのとおりだ」私は言い直す。「めちゃくちゃ世間離れしていて、ハチャメチャに危険なところだ」
え、そんなにか、とキジがうろたえるものだから、私は思わず噴き出した。
かってにいなくなるなよ、サル。
きみの想いに、私はまだ、応えていない。
◇
店を出ると夜が明けはじめていた。薄らと霧がかかっている。
「よし、行くか」
私の車にキジが乗り込む。多少窮屈そうだが、この際仕様がない。この車でなければ、目的地には辿りつけないのだから。
私は、アクセルを踏む。
車はエンジンを鼓動のように震わせた。
二十代最後のひと暴れ。
こうして私たちは、大きな道へと繰り出した。
――途端。
前方に浮かびあがる人影。
ブレーキを私は踏まない。
影は一つではない。
ぽつぽつと。
ぱらぱらと。
次第に。
隙間を埋めていくようにして。
群をなしていく。
ひとの影。
ひとの壁。
アクセルは全開にしているはずなのに。
どうしてだろう。
車は前進しない。
どころか。
街並みが下降していく。
いや。
私たちが上昇している。
車が宙に浮かんでいる。
キジが何か叫んでいる。
それでも私だけが冷静に。
奴らの中で、ひと際、明るい波紋と、睨み合っていた。
彼は言った。「百々乃津マリハだな」
空気を伝播した声ではない。
断片的に波紋を糊塗しないことで、私に波紋を読ませている。
その高度な技術だけで相当の保持者であると知れた。
相当のパーソナリティを有している保持者なのだと。
彼はなおも私へ語りかけている。自分の言葉を伝えてくる。
「我々はオマエを向かえに来た。我々に付いてこい」
彼は言葉と共に、明確な意志を私へ伝える。
「逆らえば殺す。抵抗すれば殺す。従順であること以外を選択すれば殺す。即刻殺す」
――オマエをではない。
その言葉が私を、深く、冷たく、静かにさせる。
私の裡にある〈ディスク〉が、回りはじめる。
流れる曲で。
私はまた。
踊ってしまうのだろうか。
――いやだな。
静かに、冷たく、そう思った。
くるくると目のまえの木の葉が舞う。
もうすぐ秋も、
終わろうとしている。
【ディスク・クール・ロージャ】END
千物語「黄」おわり。
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