千物語「赤」 

千物語「赤」 


目次

【『 』(スペース)】

・宇宙人に身体をのっとられた友人をさしおき、幼馴染とイチャイチャする男の話。


【セカンドキラー】 27

復讐代行業を営む女のもとへいき、人生がぐにゃりと曲がる依頼人の話。


【テキス〈ト〉ラベラー】

・友人のいない「ぼく」は彼女と出会い、救われるが、恩を仇で返してしまう話。



【『 』(スペース)】



      ・ピロローグじみたピロローン・『とある少年の変態』


      ★畳★

 気づいたら宇宙船のなかにいた。

 数秒前までぼくは、自室のベッドに寝そべり股間をマッサージしていた。

 目をつむり、絶世の美少女との甘美なハレンチを妄想しつつ、いよいよホワイトビックバンへと到達しようとしたとき、ぼくは見知らぬ空間にぽつんと投げ出されていた。

 ぼくはそう、まるで知らない場所に空間転移しており、なぜだか美少女に抱き締められていた。妄想していた以上の美少女が現実と化し、ぼくの目のまえに存在していたのだった。

 このコはなんだ。ここはどこだ。

 夢かと思った。

 そうか、これは夢だ。

 ホワイトビッグバンを迎えたぼくは、その拍子にブラックアウトしてしまったにちがいない。

 自分を殴ると痛かった。

 なるほど、夢じゃない。

 なぜこの空間が宇宙船内であるのかとの判断をつけられたかといえば、空間を仕切っている壁一面が、モニターじみたガラス張り(窓)になっているからである。本来ぼくのいるべき場所である青い星――地球が映っている。もっともだからこれはバカでかい液晶ディスプレイを想定してもよいところではあるのだけれども、そう断ずるに潔しとしない事情がぼくの眼下には、遠慮会釈もなく浩然とひろがっているのだった。この看過するにはいささか過剰すぎる諸問題事項について、ぼくは声高らかに説明してみせようと思う。

 モニターじみた全面ガラス張りには、びっしり、と得たいのしれない、うねうねの生き物が、これでもかと言わんばかりに、つぎからつぎへと、のべつ幕なしに、べちゃべちゃ、と張りつきつづけている。むろん、それだけならばやはり、これもまたよくできたCGの類として、「やあ、すごいなあ」と感嘆をあげるにやぶさかではないものの、残念なことに、このモニター然とした全面ガラス張りには、びきびき、とヒビが縦横無尽に走り、広がりつつあるのだった。

 あ――っ。

 ――割れる。

 宇宙が真空にちかい空間であることは、万年無学のぼくであってもなんとかギリギリで知っている情報であり、たとえば、空気で満たされているこの空間に孔が空いて真空状態の空間と繋がったあかつきにはどういった状態になってしまうかといったことを、ぼくはきちんと想像することができた。想像した矢先に現実のものとなる。

 窓が砕け、轟々と空気が渦を巻いている。

 風圧がたしかな感触を伴っている。

 ぼくに抱きつく少女――緑色の瞳をした美少女は怯えていた。縋りつくみたいにして、ぎゅう、とぼくに抱きついている。

 このときになってぼくは気がついた。彼女はそう、すっぽんぽんだったのだ。彼女だけではない。ぼくもまたなぜか、一糸まとわぬハレンチな姿になっている。

 基本的に、全裸の人間には、掴むべき起伏が圧倒的に足りない。服飾をまとっていれば、それこそどこを掴もうとも、縋りつくに充分な摩擦抵抗をもたらしてくれるものだが、全裸の人間に、かような摩擦抵抗の高い起伏はあまりみられない。掴むに足る体毛も頭髪に限られるだろう。残念なことにぼくは短髪だ。

 暴風は一向に衰えをみせない。おそらく、室内の空気がカラになるまで止まることはない。宇宙船に空いた孔は掃除機のごとく、ぼくたちを吸いこもうとする。

 床から生える、細長い円柱に片手でつかまり、ぼくはもういっぽうの手で彼女を捕まえている。彼女も彼女で、こちらの身体にしがみついてはいるものの徐々に、ずるずると抜けていく。彼女のずりさがる感触がぼくの身体を適度に刺激し、本来は起伏としての機能を、まこと謙虚にちぢめているぼくの相棒が、ムクムクとそそり立ってしまった。

 そこに掴まればあるいは、彼女が吸い込まれてしまうことはないのかもしれない。耐えられるかもしれない。そんなことは断じてないというのに、しかし、ここはぼくの分身を握ってみてほしいな、とそんな愚考を巡らせる。

 ――さあ、つかまるんだ!

 ぼくは、くいくい、と相棒を動かした(健全な男性諸君なら分かっていただけると思うのだけれど、基本的に、充血しきって、ぱっつんぱっつん、となった【男の子の象徴】は、わずかにではあるにせよ、頭を上下させることが可能なのである)。

 窮地を利用して、万年コミュニケーション不足の相棒に、美少女のぬくもりを触れさせてやろうと企んでいるぼくがいた。

 彼女は、いやいや、と首を振った。そんな卑猥なもの、さわりたくありません、と彼女の澄んだ瞳が訴えている。

 ――そんな駄々をこねている場合などではないのです!

 けんめいに紳士ぶりながらぼくはさらに相棒を、くいくいと動かす。

 少女は哀しそうな顔をした。そうして、するりと手を放すのだった。

 ゆっくりと、彼女が遠ざかっていく。

 つぎの瞬間には、ごおおおおおぉ、と狂騒じみた風の渦へと吸い込まれていった。

 うそみたいに、すー、ときれいに沈んでいった。地球の浮かぶ暗闇へと。

 ――うそでしょ!

 ぼくは彼女を追って、真っ暗やみの空間へ飛び込んでいた。考えたわけではない。身体がかってに動いていた。

 ついさきほどまで蔓延っていた生き物――うねうねの奇妙な生物はどこにも見当たらない。ひょっとしたら、暴風におどろいて退散したのかもしれない。いや、そもそも宇宙空間は真空にちかいから、音などはないのだったな。などとぼくは冷静に考える。

 ひどくゆっくりに感じる。

 視界が。

 体感が。

 ぼくにながれる時間の経過がとてものろく感じられた。

 死ぬ瞬間って、こういうものなのだろうか。

 おそろしくはなかった。

 あの少女を助けなくっちゃ。あの子のそばにいなくっちゃ。ぼくはただ、そう思った。

 真っ暗やみの空間に浮かぶ、いくつものガラクタを足蹴にしながらぼくは、少女のもとへ進んだ。気を失っているみたいに脱力しきった彼女の矮躯を抱きよせる。

 やわらかくて、あたたかい。

 反対に、ぼくの身体は凍てついていく。

 胸が苦しくって、弾けちゃいそうで。

 ああ、死ぬって、くるしいんだな。

 そんなふうにかなしく思った。

 少女を抱き寄せて、

 最期にぼくは、こう望んだんだ。

 

 このコには、こんな気持ちになってほしくないなって。 




   『仮初の馴れ初め』


      #抹茶#

 背中を思いきり叩かれた。「ねえねえ、まっちゃん。あれ聞いたー?」

 わざわざ振り向かずとも判った。となりのクラスの隈ノ木(くまのき)胡桃(くるみ)だ。幼馴染と言ってしまうには紙やすりでは足りないくらいの抵抗を覚えるほどの腐れ縁だ。

 クルミは、十七年前、この世に生を享けてから、一時間も経たぬ間に、はからずも同じ日に産まれたオレへ向け、しょんべんを喰らわせたという逸話の持ち主だ。オレにとっては汚名以上のなにものでもないし、最悪の出会いとしか言いようがない。その際の記憶がないことが唯一の救いだと言っていいのだが、失われし記憶を未だに笑いの種にするえげつない生物がオレの親だという認めがたい事実は、この際、声を大にして、「悪夢だ!」と叫んでしまいたい。だが叫ばないオレは偉い。

 そういうわけで、オレとクルミはだから、いくら断ち切ろうとも絶ち切れない、性質のわるい、そんな腐ってドロドロになってしまった、どうしようもなく淀んだ仲なのだ。十七年間、ほぼ毎日、顔を合わせつづけてきた仲でもある。出会いがしらに、背中へモミジ饅頭を刻みこんでくるクルミの生態は未だなぞに包まれている。暴く予定は今のところない。

 いってーよバカ。

 声に出さずに毒づきつつ、

「聞いたって、なにをだよ」と訊きかえす。机の中から教科書やノートを取りだし、カバンに詰めこむ。

「なにをって、決まってるでしょ。自念岳にUFOが墜ちたって話だよー。んでさ、今から観に行くんだけど、まっちゃんも、いっしょに来るよね」

「行かない。オレ、今日は予定があるんだ」

「んだよ、ケチ」でもまあ、しゃあないか、とつぶやき満面の笑みでクルミは、「じゃあ、今日はまっちゃんに付きあってやりますか」といかにも妥協してあげましたみたいな調子で言った。

 今日はオレにつきあってくれるのだそうだ。

「いや、いいです」

「へ、なに?」

「だから連れてかないし」

 告げると、クルミは声を張りあげた。「はあぁぁぁぁぁあああ? まっちゃんとあたしが一緒じゃないって、そんなのって、あれだよ! タコの入ってないタイ焼きだよッ」

 普通のタイ焼きだった。

「ダメったらダメだ。あすならいくらでも付き合ってやる」

 カバンを肩にかけ、じゃあな、と告げる。

 クルミは、うう、と項垂れた。

 今日はずいぶんと、あっさり、引き下がってくれたな、と安堵したのも束の間、

「オンナでしょ」クルミが唸った。

「はい?」歩を止める。

「オンナができたんでしょッ」

 そうなんでしょ、とクルミはなんだかとっても、むっつりとした表情で睨み据えてくるではないか。この上目遣いは基本的に、クルミが本気で怒っているときの表情だ。こういったとき、たいてい彼女は大いなる誤解を大義にして横車を押し通そうとしてくる。

「オンナって、彼女ってことか?」と確認する。

「恋人でも奥さんでも愛人でもセフレでもなんでもいいッ! オンナができたんでしょっ! そうなんだろ! そうなんだよ!」

「バッ!」なんて卑猥な台詞を喚くんだ、この熱血ハヤトチリばかアホまぬけは。慌てて詰め寄りながら、「ちがう、ちがう!」と口を塞ぎにかかる。

 だが必死の抵抗も虚しく、ひょいひょい、とかわしながらクルミは、

「なら、オトコかッ! オトコができたんだ!」

 どうしてそうなる。オレは辟易した。

「たしかに男と会う予定だ。だがざんねんなことに、クルミが考えているようなことではないのだよ」

 断じてないのだよ、と否定する。

「なんなの、まっちゃんは! あたしの心が読めるわけ!?」

「読めねーよ」

「だったらやっぱりオトコなんでしょ!」

 だったら、ってなんだ。脈絡がないにも程度がある。

「そうじゃない」オレは反論する。クルミへ向けてというよりかは、「え。マサくんってホモだったの!?」と両手で口を覆っているクラスの女子たちへ向けての弁解だ。

「そうじゃないんだって。男ってのは、あれだ。あいつだよ」

「どこの馬の骨よ!」さっさと白状してっ、とクルミが足蹴にしてくる。

 どかどか蹴りすぎた。これでは骨折してしまう。堪らずオレは名を明かす。

「八条だよ。八条(はちじょう)畳(たたみ)。クルミも知ってんだろ。あいつだ」

「オンナじゃん!」

「ちげーよ」だれと勘違いしてんだ。「ほら、いただろ、小学校のときに」

「知ってるもん。タタミっちでしょ? あの背がちっこくて、やたらと男の子みたいだった」 

「男の子みたいだったっていうか……」れっきとした男だよ、と指摘する。「ああそっか。クルミ、あいつと話したことないんだっけ」

「あるよ。『なんであんた男子トイレに入るの』って訊いたことあるもん」

 そうだった。それが原因で、こいつと八条は大喧嘩したのだ。

 三つ子の魂百まで。クルミは、むかしっから、最初に思いこんだことを頑なに曲げない性格だ。間違っていることを間違っていたと認めない。頑固と表するにはいささか病的な融通のきかなさがある。

 いったい何がそこまで病的なのかというと、仮にどうしても間違いを認めざるを得ない状況になった場合、こいつは記憶を失くしてしまう、というその記憶改竄が病的だった。

【誤った記憶】をいったんリセットすることで、新たに正しく情報を認識し直す。以前、クルミのおやじさんは、こいつのこの性質のことを、「一種のインプリンティングなんだよ」と説明した。

 刷り込み。刻印づけ。そういった学習能力であるそうだ。

 逆説的に、クルミはだから、一瞬で特定のキーワードを刻銘に印象づけることが可能だという。クルミの琴線に触れたものであれば、その認識の真偽に拘わらず、彼女はその記憶をそのままに保ちつづける。だからクルミには、「思い出」というものがない。

 思い出というのは、記憶が風化する過程で編集され、形づくられるものだ。つまり、自分なりに歪めてしまった記憶が思い出となる。だが、クルミは、いちど記憶した印象を、その当時のまま保ちつづけてしまう。そのために、クルミには思い出がない。彼女にあるのは、入力したままの情報――キーワードだけなのだそうだ。

 それがどのような障害で、日常的にどれくらい不便なのかをオレは知らないままでいる。この十七年、ほとんど毎日顔を合わせてきたクルミだけど、だからこそ、毎日見つづけてきてしまったからこそ、オレにはクルミの苦悩が分からない。自分がどれほど不幸なのかをオレが知らないように。オレにはクルミがどれほど辛いのかを知ることができない。オレとまったく変わらない日常を過ごしてきたふうにしか見えないのだ。オレにとってクルミは、多少融通の利かない、わがままなオコチャマにすぎない。

 いずれにせよ。クルミにとって、八条畳は女の子として認識されている。ここでオレがつよく「八条はオトコだ」と言い張り、説明してみせたところで、クルミの認識が覆ることはない。仮に覆ることがあるとすれば、八条のやつに、クルミの目のまえで、男の勲章であるところの「おぴんぴん」を見せてもらうしかあるまい。

 むろん、そこまでの労力をかけようとは思わない。だからオレは自分の主張を不承不承ながらも曲げた。

「そうだったっけな。八条は女のコだ。忘れてたよ」

「ほらみろ。まっちゃんはオンナったらしなんだ!」

 この、うわぎりもの!  とクルミは怒鳴った。裏切り者と浮気者がまざっている。

「たしかに八条は女だ。でもあいつ、男に興味はないらしいからな」

 多少の潤色を織り交ぜつつオレは、だから、と強調する。「だから、クルミの考えているようなことにはならない。断じてだ」

「……じゃあ別に、付いて行ってもいいじゃんか」やはり食い下がるか。ああ面倒だ。「わかった。付いてきていい。ただし、あいつに何されても知らねーからな」

「どういう意味よそれ」

「言っただろ」

 吐き捨てオレは教室を後にする。うしろからクルミが追ってくる。よこに並び、「ねえ、どういう意味」とローキックを放ってくる。いてぇよ。睨み据えるが、ふたたびローキック。やめて、折れちゃう。致し方ない。地面に零すようにオレはこう言った。「あいつ、根っからの女好きなんだよ」


      ★畳★

 目覚めたときぼくは、「ああ、夢だったのか」と冗談みたいにホっとした。ああなんだ、生きているじゃないか、と。つぎに、「なんか変だな」と思った。

 自分の胸に違和を感じる。

 これは……なんだ。

 ふくよかで、やわらかで、ふにふに、としたものがある。指と指とのあいだにまで沈みこむような柔らかさ、適度に押しかえす弾力。容易に手のひらへ納まる程度のささやかなるサイズはけれど、つつましいと称するのが妥当に思われるほどの高尚な、触り心地と揉み心地だった。いい。すごくいい。揉んでいる手も揉まれているおムネもすごくいい感じに火照ってきた。手のひらの一か所にだけ感じられるクリクリの、いかにもつまみたくなる触感が次第に固く尖ってくる。

 覚醒しはじめたぼくはさらなる違和を感じていた。

 場所がまたしても変わっている。

 宇宙船のなかではなく、今度は薄暗い山のなかだ。

 これだけ薄暗いというのに、ぼくはハッキリと風景を見ることができた。

 自分の身体を見下ろす。

「やっぱり」

 ここでようやく確信する。この肉体は、ぼくのものではない。

 まず、ぼくの髪はこんなに長くないし、すらりと伸びる両の脚は、頬ずりしたくなるほど華奢華奢しており、太ももに至ってはかぶり付きたくなるほどムチムチで、ちんちくりなチビスケだったぼくとは思えない姿だ。また、なぜかこのとおり、小ぶりのおっぱいまでくっ付いている。しかも二つも。

 ぼくはもしやと思い、右手で股間をまさぐった。

 なんということだ。

 ぼくの股間には、なぜかぼくの分身がくっついたままだった。そんなのってないよ。そこはなくなっているのが筋でしょう! 責任者はどこか。訴えてやる!

 ところで、この肉体がぼくのものではないのであれば、いったい誰の肉体であるのかを疑問すべきでところではあったが、ぼくにはその見当がついていた。宇宙船のなかにいた美少女のものに相違ない。

 そう言えば宇宙船はどこにいったのだろう。

 辺りを見回してみると、遠くのほうに山の頂が見えており、今まさにそこへ墜落せんとする宇宙船の光を見た。線香花火のような一瞬の燃焼を見せ宇宙船は爆発した。辺りはまっしろな光につつまれ、次点で衝撃波が地表を伝う。

 ――夢ではなかったようだ。

 僕はふたたび自分のものではない肉体をまさぐる。

 肉体があの美少女のものであるならば、本来なら、この股間には、ふにふにとした肉厚と、一筋の割れ目があって然るべきだ。にも拘わらずそこには、ぼくの分身がぶらさがっている。ぼくに残された肉体というのはだから、このちいちゃきオチンチンだけなのだ。

 もしかしたら残されたぼくの肉体がどこかに転がっているかもしれない、と見渡してみるものの、見える範囲にはそれらしき痕跡はない。

 墜落した宇宙船が燃えているからだろうか、辺りは明るい。墜落現場はここから二キロ圏内といったところだ。

 それにしても、しずかだ。

 さきほどまで聞こえていた森林のさざめきや、墜落した宇宙船の轟々と燃え盛る音。また、車道を走る車のエンジン音などふもとから吹き込んでくる街の寝息も、今はひっそりと沈んでしまっている。

 いや、沈んでいるのは音ではない。

 沈んでいるのは…………ぼくの意識だ。

 眠気にちかい。けれどこれは睡眠とは違った停滞なのだと察することができた。薄れいく視界と思考――すなわち世界が霞んでいくこの希薄さが、おだやかで、それでいて、とてつもなくおそろしかった。

 ぼくは死んでしまうのだろうか。

 限りなく希薄になっていくぼくという存在を感じつつぼくは、このまま死んでしまってもいいかな、とこの身に訪れつつある死の気配を甘受した。きっと、訪れる死によって顕現するぼくの遺志が、幸いにも明確に示されたからだろうと、今になって理解した。

 ぼくはあのとき……死んでしまったのだ。

 それと同時に、このコは生き永らえることができたのだ。

 それはとっても得がたきことで、在りがたいことで。

 これまで歩んできたぼくという人生が、その消失をもって最期に遺せた意義であり、意地だった。

 ぼくはそう、満足している。

 ただひとつ、目のまえに現れた【バケモノ】を除いて。

 うごうごと蠕動する、身の丈三メートルを超すかと思しき、巨大な【ウネウネ】が、今まさに目のまえにいる。


      #抹茶#

 なぜクルミを連れていきたくなかったかを敢えて説明する気にはならないし、オレ自身なぜだろうと深く考えるまで気づかなかったくらいなのだが、無自覚な独占欲ほど恥ずかしいものってないよな。

「いったん、帰宅してから集合にしよう」下校の道中。オレは提案した。

「いやだ」間髪いれずに却下される。「ここで別れたら、まっちゃん、ひとりで行っちゃうんでしょ」

 置いてくつもりなんでしょ、と図星をついてくる。

「……そんなことはない」

「ふうん」クルミは目をほそめる。「だったら、いいけど」

 話題を変えるつもりも兼ねて、「徒歩だからな。遠いぞ」と念を押しておく。あとになってウダウダ不平を並べられるのはごめんだ。

「そういえばさ。待ち合わせって、どこなの?」

「えっと、あそこだ。首なし地蔵があった場所」

 奇しくも、八条の指定した場所は自念岳の一画。クルミが教室で話題に出した、UFO墜落現場とされる周辺だった。ただし、現場とは対極に位置しているので、道のりは雲泥の差だ。案の定クルミは、「ええ~」と不服そうに、「めっちゃ、遠いじゃん!」と言った。

 だったら付いてこなくてもいいぞ。

 毒づく間もなくクルミはメディア端末を取りだした。耳元にあてがいもせずに、

「自念岳まで行くから。車、寄こして」

 ぞんざいに述べてからふたたび仕舞った。呆気にとられているこちらへ向けクルミは無邪気にほほ笑んだ。「五分くらいで来ると思う」

「なにが?」

「なにって」そこで彼女は相好をくずし、オレの肩をど突くようにした。「なにって、おにいちゃんに決まってんじゃん。あたしの」

      #

 五分――。これは、車であっても一般車道を走れば、五キロと走れない距離だろう。少なくともクルミの家であるところの、隈ノ木総合生物研究所は、直線距離で十キロ以上も離れた場所に位置している。山を挟んでの、十キロ先だ。道を辿れば倍はある。そこから五分で来るなど、たとえヘリを遣っても不可能にちかい。連絡があり、乗りこみ、マシンを起動さる。それだけでゆうに五分はかかるだろう。

 にも拘らず、なぜにこのひとはほんとうに五分で来てしまえるのだろう。

 毎度のことながらふしぎでならない。

「やあ。マサくん。今日もクルミと仲がいいね」

 私はキミがうらやましいよ、と真実こころの底からうらやましそうに福助さんは言った。

 実のところオレは未だに福助さんの本名を知らない。知り合った当時から、彼はまわりのおとなから、「ほら、福助くん、これをお食べ」「こら、福助っ! ありがとうは?」と、いっぽうでは甘やかされ、またいっぽうでは叱られていたりした。それをオレは、さわらぬ神に祟りなしの根性で、遠巻きに眺めていた。簡素に表現するなら、福助さんはクルミの世話係けん護衛だった。クルミは、血のつながりのない福助さんのことを、本当の兄だと思いこんでいる。この話をすれば大概のおとなは、「血の繋がりなんて関係ない」と主張したくなるところだとは思うが、クルミの場合は、事情が異なる。「血の繋がりが関係ない」という主張に高尚な意味が生じるのは、血が繋がっていないと自覚している場合に限る。クルミはそのかぎりではないのだ。血が繋がっていないのに、血が繋がっていると信じている。信じているどころか、疑うことを知らない。もちろん、クルミ以外のオレたちは、クルミと福助さんに血縁などないことを知っているわけで、だから、こうしてクルミが発育具合の芳しい、初々しい小娘になりやがったこの時分、そんなクルミのすぐそばに、ロリータ嗜好の青年を置いておくことを危惧しないおとなたちではなかった。

 そうだとも。

 福助さんはあろうことか、妹萌えなのだ。それを世間は十把一絡げに、ロリコンと呼ぶ。福助さんいわく、「心外だなあ。私は義妹萌えだよ。そこのところを誤解してほしくはないなあ」とのことだが、誤解が解けた瞬間に彼の社会的地位は地獄の底にまで落ちるので、誤解しておくのが親切だ。

 さっそく車に乗り込むと、後部座席から身を乗り出してクルミは、「さあ、おにいちゃん、飛ばしてちょーだいっ」とフロントガラスの向こうをゆびさした。

「えっとぉ、どこへ?」

「めざせ、自念岳! れっつだごぅー」

 幼稚園児のピクニックだってもっと冷静だというのに、クルミはまったくそれに恥じない、はしゃぎっぷりを発揮中だ。こうして無邪気にウキウキしているクルミを眺めていると、「まったく恥じない」というのは、まさにその通りで、元来的に、クルミには「恥じ」という性質が備わっていない。

 忸怩だとか恥辱だとかそういった言葉は知っているようだが、その言の葉につまっているだろう概念がなんであるのかを理解できないらしい。「はて、恥じとはなんぞよ」といった具合だ。

 以前のことだ。

 街中で、「だったらここで全裸になれるのか」と十割冗談のつもりで問いただしてみたことがあった。そのときは、「なんだそのくらい」とほんとうに全裸になりそうないきおいで、「だれだってなれるでしょ」と言い放たれた。それが本音であるか否かは措いといて、そこでオレが追及してしまうと、ほんとうに脱ぎだしてしまいそうだったので、「だよな。そうだよな」と調子を合わせておいた。

 車窓ごしにぼんやりと景色の移ろいを眺めながらオレはそんなことを回想した。思い出にならないような記憶を、つれづれと連想ゲームみたいに当てもなく思いだしてみるというのは、ひまつぶしには程度のいい手段のひとつだ。

 砂利を踏みしめる音を立てながら車体がいっしゅんの加重を感じさせ、止まった。

「着いたよ」

 福助さんが告げるよりもさきにクルミはドアを開け放つ。下車したクルミは、「まっちゃん! はやく、はやく!」とこちらに向けて手を振りまわす。

 なんだかさびしそうな表情の福助さんだったので、「……わざわざ、ありがとうございます」と述べてから、「いっしょに行きませんか」と控えめに誘う。

「ありがとう」うすく口元をゆるめてから、でも、と福助さんは言った。「でも、それはマサくんから聞きたいセリフではないんだよね。しょうじきなところ、今回、私はおじゃまらしい」

 彼の口にした「今回」という単語が、やけに哀しく強調されて聞こえた。今回どころか、毎回じゃないですか、と指摘しておきたかったが今日のところはやめておく。情けはひとのためならず。オレは無言で車を降りた。

「なにやってんの! こっちだってば」

 はやくきてー、とクルミが小石を投げつけてくる。

「あぶないって」

 ここでみたびクルミについての生態講座だ。彼女、隈之木胡桃は手加減というものを知らないわけでもないのに、手加減してくれない。だからこうして、「はやく来てよ」と願望を押しつけてくる片手間に割と本気で石つぶてを投擲してくる。当たれば痛いで済まされない勢いがある。

 こわがるオレに気づいたクルミは、途中から趣旨を変えたらしく、的当てゲームのノリで小石を投げはじめた。さながら浜辺で戯れる、睦まじい男女を彷彿とさせるはしゃぎ具合ではあるが、敢えてオレは自虐的に主張しよう――オレは海辺に打ち上げられた息も絶え絶えの海ガメだ。浦島太郎の登場を希望する。

      #

 自念岳は標高一二七〇メートルと比較的低い山だ。すり鉢状の地形であるためか、中腹から麓にかけて森林が広がっている。

 福助さんには森の入り口まで送ってもらった。ほんとうならもっと奥、山頂付近まで車で行けるのだが、どうやらこれ以上うえへは行けないらしい。「進入禁止」の看板が道を塞いでいる。

 UFOが墜落した話は大げさにしろ、隕石か何かがここ自念岳に落下したことは確からしい。隕石落下騒動があったのはつい昨日のことだ。まだ二四時間も経っていない。きっと落下現場付近ともなれば報道陣や研究機関などがケーキに群がる蟻のごとくに集まっているに相違ない。クルミの実家であるところの隈之木研究所もご多聞に漏れず、行政からの指示で現場へ向け数人の研究員を派遣しているはずだ。

「さーさ案内したまえ、まっちゃん」小石を投擲する手をとめてクルミが寄ってくる。なんかどきどきしてきちゃった、とくすぐったそうに笑って彼女は、「いよいよ、タタミっちとの再会だね! 何年振りだろー」

 山道へ足を踏み入れた。

 さんざんオレをいじめて満足したクルミはすでに当初に抱いていた自分の目的を忘れているらしかった。さて、ここでまたもやクルミの生態講座だ。クルミは超が付くほど拘りが強い。いっぽうで、赤子なみに興味の対象をころころ変えたりもする。あたかも分かれ道に差しかかるたびにサイコロを転がすみたいな行き当たりばったりな転換であり、或いは、あと数段で最上階だというのになぜか窓から飛び降りた、といった脈絡のない行動をとったりする。かと思えば、どんな鉄壁が立ちはだかろうともそれを打ち壊さずにはいられないといった勢いで猛進をやめない拘泥を見せることもあるので、一言でいえばやはり、わがままなのだ。

 そんなわがままなクルミの目的は、すでにUFO墜落現場を観に行くことではなくなっているらしく、オレ自身、なんでこんな鬱蒼と木々が群生している場所に来たのかを忘れかけていたが、ここへは八条畳に逢いに来たのだった。

 獣道然とした山道を進んでいるオレは、このさきにある神社を目指しつつ、八条畳のことを思いだしていた。

 あいつと最後に逢ったのはたしか二年ほど前のことになる。偶然地下鉄の車内で乗り合わせた。八条のやつも行き先が繁華街だったので、駅を出るまでけっこう話していられた。連絡先を交換し、それ以降たまに連絡をとりあっていた。連絡といっても、たわいもない雑談を交わしていただけだ。それなりに親しい仲とも呼べるし、また、それほど交流のない仲とも呼べる。オレたちはなんとも現代的なフレンドだった。

 オレにしては稀なことに、八条にはクルミにも話せないような(むしろクルミだから話せないような)相談ごとをしていたりした。向こうも向こうで、心中をさらけ出すような猥談を、頼みもしないのに語ってくれたりした。気が置けない仲と言えばそうとも言えるが、オレは言いたくない。ただ、少なくともオレにとって八条は、信頼はできないが、警戒せずに済む相手だった。オアシスではなく、自分ん家のトイレ。そんな感覚。

 八条から連絡を受けたのは今朝がただった。いや、気づいたのが今朝がたというだけのことで、実際に着信していた時刻は深夜だった。

 ――助けてほしい。自念神社にいます。明日いっぱい待ってるから。

 音声連絡ではなく字面だけの、味もそっけもないメッセージだった。

 いきなりこんなことを言われても、どうしようもない。八条の性格上、イタズラである可能性も考えられたが放置するのもどうかと思い、まずは説明を聞こうと返信した。そのときに送ったメッセージが「あて先不明エラー」となって送信できなかったからこそ、オレはこうして面倒くさい事態に陥りそうになっている。

 そうだとも。この事態はすでに異常なのだ。

 オレは直感している。またトンデモない事態に巻き込まれるだろうことを。

 思い起こしてみればこれまで随分と異常な事態を切り抜けてきたものだ。クルミのそばにいた、というただそれだけのためにオレは、通常、人が体験せずに済むはずの非日常という名の平凡ならざる日常を感受してきた。

 オレは達観した。

 避けられない運命なのだなと。

 諦念じみた悟りを拓いたのだ。

 クルミといっしょにいるかぎり、これは避けられない。ひるがえっては、クルミのそばから離れさえすれば、人災とも呼べる奇禍に遭わずに済む、ということになる。

 だがそんな選択はありえない。――オレにとってクルミは何者でもない。

 かけがえのない、とかそんなことを言うつもりは毛頭ない。そばにいたいとか、いなくちゃいけないとか、そんなこともない。

 ただ単純に、オレはクルミを放っておけない。嫌いだからこそ放っておけないし、憎々しいからこそ、今さら見過ごすわけにはいかない。この世に生を享けてからすぐにクルミからしょんべんをかけられてしまったオレである。かけられたしょんべんの塩分ですっかりさびついてしまっている縁がある。

 腐りかけの、年季の入った、腐れ縁だ。

 ちなみに愚痴っておくと、オレはこれまで六度、死にかけたことがある。ぜんぶがぜんぶクルミのせいだ。直接に関係なかったとしても、クルミのせいにしてしまえるとオレは思う。

 どんな場合であってもクルミだけは無傷であり、なんら損害を被らない。どころか、なにがあったのかを理解せぬままに危機を脱している。その分、オレがひどい目にあっている。クルミはそれすら知らずに、「たのしかったねー」とのほほんとしやがる。だからこの際、すべてクルミのせいにさせてもらう。そうでないと割に合わない。これくらいの当てつけは許されて然るべきだと主張したい。

 こと細かくこれまでにあった非日常という名の日常を挙げつらねていくのも一興ではあるが、しごくざんねんなことに、そんな時間はないようだ。

 そうこうしている間に、もうすぐ自念神社に到着する。

      #

「着いたーっと」

 オレから十数メートルさきを独走していたクルミが意気揚々と階段を上りきった。

 到着した彼女はなぜか、「うっひゃー」と感嘆していた。

 なにがあるのだろう。

 気になる。

 階段を上りきらないと境内を見ることは叶わない。

 ここまで来るのにオレたちはふたりして急勾配の石づくりの階段を、えっちらほっちら、となんだか「わたしはエッチだ」と唱えるみたいにして上っていた。オレが格闘さながらにあくせくとしているというのに、クルミは意気揚々と二段飛ばしで跳ねていく。

 自念神社は名もない神社だ。いつの時代の誰が建築したのかも不明だという。名がないというのは不便なもので、だからこの名もなき神社は、自念岳にあることから「自念神社」と安直に呼ばれている。

 建造物としての歴史が明確でないために、神社そのものの修繕工事もまた、おざなりになっているのが現状だ。歴史的価値が定かではないボロ神社ごときに、この田舎町は貴重な財を擲つわけにはいかないらしい。そのため、歴史をというよりも強烈な風化を感じさせるこの自念神社は、神社の体を残してはいるが、すでに神社としては機能していなかった。つまり、人里離れたこんな山のなかにまで参拝に訪れる好事家など皆無だ。

 自念神社の神殿は割とでかい。コンビニエンスストアくらいの大きさがある。境内も、一般的な神社からすれば広いほうだ。一見するとお寺に見えなくもない。でも神殿には仏壇が添えられているわけでもないし、そういった跡もない。狛犬の像やキツネの像はないが、鳥居が階段のよこに転がっている。とっくのむかしに朽ちて倒れたようだ。だからでもないが、ここに漂う雰囲気は、ほかの神社に引けを取らないどころか、数段増しくらいに不気味であるので、心霊スポットとしては有名だ。ひと気はないが、人気はある。ただしそれは夏場に限定される人気であり、今はその旬を過ぎている。

 周囲の木々に、葉はついていない。ここへ辿りつくまでに通ってきた山道が異様にもふもふしていたのは、それこそ腐葉土ならぬ落葉土だったからにほかならない。

「なにボケっとしてんの」

 クルミの声が急かすみたいに境内のほうから届く。

 今いきますよ、と階段を上りきると視界が拓けた。

 夕焼けを思わせる一面の紅色。

 鮮やかなモミジが咲き乱れていた。

 ――おかしい。

 オレは思った。

 そこだけ、ひと月前から時間が止まっているような光景だ。

 枯れ葉が舞う。風のながれが見てとれた。地面の落ち葉は多く、そのほとんどがモミジの葉だ。それでも神木は燃えるような色をしたモミジを重たそうに揺蕩たせている。

「ね、きれいでしょ!」

 クルミが神木に触れていた。こちらを向いて、にっ、と破顔する。「なんだか、うそみたい!」

 あー、とオレは思った。

 まずいな、とさらに思う。

 まず説明しておかねばならないことが三つある。

 一つ目、神木はこの境内に二本生えている。神社の両側に一本ずつ。さながら狛犬のごとき位置だ。

 二つ目、うち一本の神木は真っ赤に紅葉している。だがもう片方は紅葉していない。周囲の木々と同じく、すっかり落葉しきっている。

 最後になるが、クルミの触れているのは紅葉していないほうの神木だ。だのにクルミは見上げるようにし、あたかも丸裸な神木にあざやかな紅色が、ブロッコリー然として茂っているような視線を注いでいる。

「すっごいねー! 満開だよ」

 どうやら葉ではなく、花であったらしい。

 はぁ、すてきだなぁ、などと感嘆を漏らしている。

 またか。オレは思った。

 来たか。さらに思った。

 現実逃避がてらに、ここでみたびクルミ生態講座をひらいておこう。隈之木(くまのき)胡桃(くるみ)十七歳は、ときおりこうして奇怪な行動をとる。どうやらその理解しがたい行動を誘起させている因子というのは、幻覚であるらしい。以前にクルミのおやじさんはこう説明してくれた。

「突拍子もなくふいに現れるのだよ。我々には見えないが、あのコにはなにがしらの造形が視えているようだ。それに関して外部の我々が如何ように言及しようとも、あのコにはこちらの言動のほうが奇異に映ってしまう。考えてもみたまえ。こうしてキミは私と話してはいるが、もしも『そこには誰も存在しないよ』などと他人から指摘されたところで信じられないだろ? それと同等のレベルであのコには【なにかしら】が視えているのだよ。こんなことを頼むのは不条理ではあると分かってはいるが、それでもマサくんにだけはこうしてお願いをしてしまう私の未熟さを許してほしい。どうかあのコを否定しないであげてほしい。キミに見えていなくとも、あのコはなにかを視てしまう。間違った風景であることを教えようなどと思わないでほしい。あのコが視ているものは総じてあのコという存在を形づくる重要なピースとなるからだ。否定せずにあのコのそのままを受け入れてほしい。酷なお願いだとは重々承知だよ。でも、こんなことを頼める他人はマサくん、キミしかないんだ。あのコにとって、キミだけが【唯一絶対の他人】なのだから」

 オレには見えない。クルミの感受している世界が、風景が、心象が。

 クルミに限ったことではなく、どんな他人であろうとも例外なくそういうものなのだろうとすら思う。

 自分の世界から脱して世界を見ることは叶わない。誰もが違った世界を生きている。まったく別ということはないけれど、まったく同じということもない。

「ああ、きれいだ」神木に見蕩れるクルミを眺めながらオレは見えもしない幻想に詠嘆する。おやじさんに言われたからじゃない。否定しないことでオレもまた否定されない権利を有そうとしている。「ほんとうにきれいだ。来てよかったな」

「うん!」クルミは神木に抱きついた。

      #

「おそいよ、遅すぎるよ」

 どこからともなく野次が飛んできたかと思うや否や神社の扉が、勢いよく開かれた。

「あれあれ、なんで制服。え、なに。もしかして学校とか行っちゃったわけ。その帰りに寄っちゃってくれちゃったわけ。『来てください』『助けてください』ってメールしたのって昨日の夜だよね。それまでぼくってば、独りこんな淋ちい場所で待ち惚けだったってこと!? こちとら死にかけていたってぇのにまったくどうしてアンッポタンなのだろうなぁきみは」

 すごい剣幕で捲し立てられ、オレはたじたじだ。

 ――が、申しわけないことにまずはこう言わせてもらうことにする。

「あの……どちらさまですか?」

 神社から颯爽と飛びだしてきたのは見たこともない絶世の美少女だった。澄んだ水面にしずむマリモのごとくに緑色をした瞳。お尻まで届く長髪は、触れてみたくなるほどに艶やかで、こちらの漏らした嘆息にさえ舞いあがりそうなくらいにふんわりとしなやかに映る。小柄で華奢な体躯は、無条件に身を挺して庇護してあげたくなる以前に、抱きしめたいくらいの――蠱惑とも妖艶とも異なる――性的な要素をいっさい度外視した魅力に溢れている。愛嬌にちかいが、もっと精神の底がわをなぞられるような引力がある。ともすれば圧倒されそうなほどの、近寄りがたいほどの、それでいて容易に懐に入り包容され、或いは抱擁してしまえそうな親しみまで感じられる――そんな矛盾を超越するほどの美少女がそこにいた。

 服装は至って前衛的で、神殿の内部に奉納されていただろうと思われる着物を、強引に着つけている。一歩間違えれば派手な柄のバスタオルを身体に巻きつけているだけに見えなくもない。

「どちらさまって……それはあれかね。ぼくが誰であるのかの判断がつかない、ってそういうことなのかね」

 うわー。口調がまるで八条だよ。オレはげんなりした。せっかくこんなに眉目秀麗で可愛らしい容姿なのに、中身が八条に似ているなんて悲惨だ。

 天は二物を与えないとは言うが、余計な荷物を与えている。

「マサなら判ってくれるって信じていたというのに」

 神殿から飛び降りてくるとその美少女はかるく助走をつけ、

「くそったれだな、きみは」

 こちらに体当たりをしてくるではないか。

 ――が、申しわけないことにまったく微動だにしない。

 こうして間近に見て再確認する。このコ、かなり小さい。こちらの腰骨くらいまでしか背丈がない。ということはだ、現状、彼女は今オレの股間に顔を押しつけているわけで、オレの股間はぐいぐいと圧撃を加えられているわけで、究極的にはちょっとした快楽を伴う刺激がオレの股間に押し寄せているわけで、つまるところこりゃたまらん。オレは引き離すのも忘れ、

「あう、おう、いやん」

 気色悪い声を発した。

「やいやい。どうだね、これで判ったかね。ぼくが誰だか思いだしたかね」

 叫びながら美少女が頭をぐりぐり振る。

 これ以上はちょっと無理! タンマ! いやん、おまたこわれちゃう!

「ちょっと! あんた誰よ!」

 神木からクルミが駆けてくる。オレの腕をむんずと掴むとヌイグルミを奪い取るような乱暴な所作で、ぐいと引きぬいた。助かった。オレは前屈みになって礼を言う。「クルミ。ナイスだ」

「マっちゃんのスケベッ」

「なっ!」

 心外だ。

「誤解だって」と弁解を試みる。

「ふうん。ならいいけど」クルミは眼光を鋭くさせ、美少女のほうを見遣る。「ウチのマサになにすんのかなッ。あんた小学校のころからぜんッぜん変わってないッ」

 え? との疑問符は、美少女とオレ、双方から同時に発せられた。「どういうこと?」

「はぁ? どういうことって、だから」

 クルミは美少女を指差し、

「このコが八条タタミでしょ!」

 非難するみたいに指摘するのだった。

「クルミ、知ってるか。寝言は寝てから言うものなんだぞ」

「あれ、もしかしてクルミちゃん?」こちらの皮肉はざんねん系美少女の驚嘆にかき消された。「うっそ。まあまあこんなに可愛くなっちゃって。おいおいマサくんや。いったいこれはどういうことだね。きみの話ではたしか、クルミちゃん、顔面偏差値五十ないくらいの頭のイターイ残念なお嬢さまって話だったではないか」

 ようやくここではっとする。

「すまん……間違っていたら申しわけないんだが」

 前置きしてからオレは言った。「もしかして八条……なのか?」

「今さら!?」

 瞳をうるるさせながら美少女は声高らかにこう告げた。「いかにもぼくが八条だいっ」

      #

「やっぱりオンナじゃん! しかもビッチじゃん! サノバビッチじゃん!」クルミがやいのやいの喚きはじめた。「まっちゃんはあたしんだかんね、渡さないんだから!」

 うるさいことこの上ない。が、クルミを宥めている余裕はない。情けないことにオレは美少女を目の当たりにして当惑しきっていた。

 ――このコが、八条?

 ばかを言っちゃいけない。オレの知る八条はたしかにちっこくて中性的で、かわいらしい男の子だったが、ここまで美少女と言えるほどの美貌を兼ね備えてはいなかった。ましてやオレの股間がうずくなど起こり得ない。にも拘らず、現状、オレの股間は反応している。八条とは二年前に会ったきりで、電波や手紙を介して、たわいもない下世話を(ほとんどオレが一方的に愚痴っていただけとも言えるが)やりとりしていた。だから二年の間で八条が、整形手術だとか脳移植だとか、宇宙人に身体を乗っとられただとか、そういったトンデモな事情および奇禍を経て美少女化した、と言われても、「まあ、世の中なにがあるか分からないしね」と納得するにやぶさかではない。

 八条は自身の存在証明のために、オレが八条だけに話して聞かせていた、あれやこれやの、思春期真っただ中である青年が思い描くだろう一般的な煩悩的欲求を、一言一句的確にそらんじてみせた。

 美少女の成りをした自称八条が真顔で、「あー、×××してえ」だとか、「純情無垢な少女を×××したい」「そのうえで×××したい」「さらに一辺倒の調教を施してから××××××してえ」だとか、「手足を拘束された状態で美女姉妹に×××されてえ」だとかを、オレの口真似をしつつ述べている。クルミがハテナ?といった顔をしている。この時ばかりは素直にクルミの無知に感謝した。

「わかった。わかったって。信じるよ。きみは八条だ」潔く認めながら、「でもなんでそんな可愛らしい姿に?」

「いやね」八条は答えた。以前にも増して舌っ足らずの幼い声で、「昨晩のことなんだ。急に、このコ――」言いながら胸を揉む。「――この宇宙人ちゃんに拉致られてしまってね」

「拉致られたって」

「それはいいとして、実はだね」これっぽっちもよくねえよ、とのオレのつっこみは八条の告白に妨げられた。「ぼく、死んじゃったみたいなのだよ」

「は?」

 死んだ?

 だれが?

 八条が?

「おいおい。いよいよ話が見えねえぞ。じゃあ、おまえはだれなんだ」

「まずは誤謬を正しておこうか。さきほどからマサはぼくのことを美少女、美少女、興奮気味に連呼してくれているようではあるけれど――ほら、触ってもみたまえ」

 八条がオレの手を掴み、自らの股間へと導くではないか。抵抗も虚しく、うにうに、とした物体が手のひらに押しつけられる。日々のなかで触り慣れている気がするいっぽうで、やけに激しい抵抗(ともすれば嫌悪)が湧きあがる。自分のそれは可愛いが、他人のそれは気色わるいといった感覚。というよりもコレは正に、男の子が男の子足り得るアレではないか。

「ちょッと! なにしくさってんの! ハレンチッ」

 クルミが食ってかかるが、寸前でオレが羽交締めにしてやったので罵倒を飛ばすのがせいぜいだ。

 意に介さず八条はしたり顔で、

「どうだね。コレ――つまりはオチンチンがあってはマサも認めざるを得ないだろ」

 頼むから超絶に可愛らしい顔をして『オ○ンチ○』とか口にしないでくれ。ざんねんなことにオレの祈りは届かなかった。八条は自らの股間をむんずと掴み、心底忌々しそうに、

「このオチンチンがぼくであり、ぼくの本体なのだよ」と肩を落とした。「だからこのオチンチンがぼくのものであるにせよ、この肉体は美少女――宇宙人ちゃんの肉体なのだ」

「つまりどういうことだよ」

「ぼくはそう、宇宙人の身体に寄生しているのだ」

 淡々と言ってのけた八条の説明を信じる限りにおいて、宇宙人に身体を乗っとられたわけではなく、八条のほうが寄生させてもらっているのだそうだ。美少女の成りをした宇宙人の肉体に。

 なるほど、中々どうしてうらやましい話ではないか。口に出したら殴られた。

「まっちゃんのスケベ! いんきん! たまむし!」

「なってねえよ」これっぽっちも痒くねえよ。話の腰を折るんじゃありません。注意すると、クルミはぷりぷり拗ねてしまわれる。「まっちゃんのバカぁ!」

 いじけたクルミは神木のほうへと駆けていく。――が、途中でUターンよろしく踵を返してくると、

「まっちゃんになんかしたら三代先まで祟ってやる」

 八条へ吐き捨て、みたび神木のほうへと駆けていった。いわゆるこれは、「顔も見たくないモード」だ。数分もすれば元に戻る。というよりも、こちらのことが気になって、「なに話してんのっ」と唇を尖らせ割って入ってくるのだ。

「かわいいなぁ」

 クルミのほうを眺めるようにし八条がつぶやいた。オレは呆れかえる。なにを悠長なことを。美少女の姿になっても女好きは変わらないらしい。

「身体が別人ってのは、まあ、信じられないこともないが――」

 断ってから意見する。「そのコが宇宙人ってのはどうもな」

「信じられないかい?」

「まぁうん……そうな」

「仕方ないよね。それがふつうだ」八条はずいぶんとあっさり引き下がった。らしくないな、と思い首をひねると、自然、見下ろすかたちになる。八条もまたこちらを見上げた。深いエメラルドグリーンの瞳がきれいだ。吸いこまれそうになる。

「マサを呼んだのはほかでもない」八条が口火を切った。「ぼくたち、命を狙われているみたいなんだ。無茶なお願いだとは思うのだけれど、頼むよ。助けてはくれないか」

「命を……なんだって?」

 命を狙われているのさ、と八条は繰りかえした。「もっとも、ぼくたちというよりかは、このコなのだけれどね」

 言って、みたび八条は胸を揉むのだった。やめなさいよ、と頭をはたいてやりたかったが、その肉体が八条のものでないとするならば、無闇に手は出せない。「あんまり卑猥なことをするな」

「うらやましいくせに」

「否定はせん」

 言ってから、

「命、だれに狙われてんだよ」

 話を進めた。八畳の話を鵜呑みにしたわけではないが、これまで体験して(巻き込まれて)きた幾多の事件や事故やトンデモ現象と比べれば、こんなのはまだまだ序の口、許容し得る範疇にある。なんせ相手は宇宙人だ。不幸にも、宇宙人の知り合いがいないオレではない(三年前、オレは宇宙人に拉致され、一生拭えぬ傷を負った。夢を見ただけとも限らないが、悪夢であったとしても傷心を負った事実は覆らない)。挨拶程度の感覚で地球人を拉致するのはどこの宇宙人であっても共通しているらしい。ともすれば、昆虫を見つけた子どもみたいな感覚なのかもしれない。

 過去の体験でオレの学んだことの一つに、「宇宙人との交流に常識を当てはめてはいけない」というものがある。これは宇宙人だけでなく、異質な文化を有する相手であれば、すべからく念頭に置いておくべき訓戒だ。常識なんてものはひどく局所的な偏見にすぎない。『どんな社会であれ、偏見の共有によってその秩序は形成されているのだよ』とは、クルミのおやじさんのお言葉だ。

「そう、『だれに命を狙われているのか』これが非常に重要なのだ」八条は儼乎たる口調で言った。「その前に、いいかな。マサは疑問に思わないのかい? この肉体がぼくのものでなく、宇宙人ちゃんのものであるのだとしたら――」

「ああそっか。その宇宙人ちゃんの意識はどこにいったんだ?」

「イエス。それが問題であり、ぼくがマサを呼んだ理由でもあるのだ」

「どういう意味だよ」

「うん」八条はずり下がった着物を、おいしょ、と肩に掛けなおす。「バケモノが現れたとき、ぼくは意識を失ってしまうみたいなのだ」

 告げられると同時に、それは現れた。

      #

 神木と反対側。

 境内と森との境界に、うごうごと蠢く巨大な影が見えた。

 一瞬、霧が引くように消えたつぎの瞬間には、周囲にある草木が見る間に色褪せ枯れていく。その一帯が空間ごと淀んだように見えたのを皮切りに、勃然とそれは姿を現した。

 ――ばけもの。

 まさにこの表現がしっくりくる。貧困な語彙を総動員させて強いて喩えるならば、「世界中のフルーツをぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、どろっどろにした一見すれば色鮮やかなようでいてその実、真っ黒でしかない、ピクピクと脈打ち、うねうねと蠕動する不定形の卑猥な塊」となる。

 先日、クルミの借りてきたアニメ映画に出てきた怪物にちかいかもしれない。「我が名はアシタカ」と名乗りたくもなる。

「手短に言う」

 バケモノから目を離さぬままに八条はひと息に捲し立てる。「今からぼくの意識は〝また〟途切れてしまうはずだ。そのあいだになにが起きているのかをあとで教えてくれないか。おそらくぼくの推察では、そのあいだに宇宙人ちゃんが目覚めているはずなのだ。意思の疎通ができたならば、いろいろ訊いておいてほしい」

 ぼくも事情がわからなくって困っているのだ、と八条は結んだ。

 オレは相槌を打つのも忘れ、すっかり竦みあがっていた。

 バケモノが破竹の勢いで猛進してくる。

      #

 さて。

 困ったことになった。

 見たい。

 だが見てはいけない。

 でも見たい。

 しかし目を逸らすべきだろう、いち紳士として。

 葛藤しながらもオレはやはり目を逸らせずにいた。

 足元には、さきほどまで八条がお粗末に包まっていた着物が落ちている。

 バケモノが迫ってきてもオレは無事だった。

 着物を颯爽と脱ぎ捨てた八条が――いや、美少女が――猛然と駆けだし、バケモノへと挑んでくれたからだ。裸体であることの恥辱など微塵も見受けられないのは、それが八条ではない別の人格であるからなのだろう。先刻まで八条は、着つけの仕方も分からない着物をバスタオルみたいにして身に付け、宝玉の肌を一か所たりとも露出させまい、と抗っていた。つまるところ、美少女の肉体(たからもの)をオレに見せたくなかったわけだ。

 得体の知れない巨大なバケモノと死闘を繰りひろげている美少女は、一糸まとわぬ姿であり、ふしぎなことにオ○ンチ○が付いていない。

 八条いわくその美少女の肉体は「宇宙人」のものであるという。ならば、本来あるべき人格が宿ったと同時に、本来あってはならぬオ○ンチ○が引っこんでしまうのは無理からぬことだ。

 すらり、と伸びた脚。

 むちむちとした腿。

 おしりは、思わず掴みたくなるほど張りがあり、ぷるんと丸みを帯びている。引き締まったくびれは手で触れて撫でてみたいくらいの滑らかな弧を描き、胸には手で包みこめるくらいの小ぶりな、しかし、豊潤な肉質を感じさせる乳房が垂れることなくツンと上向きに張っている。

 オレは見蕩れた。

 いやいや、見蕩れてなどはいない。

 これは分析だ。

 窮地から脱するために必要な、戦術的状況分析だ。

 だから、バケモノの突進を避けるたびに揺れる美少女の乳房に釘づけになっていようが、美少女の鋭い蹴りがバケモノを分断するたびにあらわになる足の付け根――股間にある「禁断の花弁」をこの目に焼きつけようと、まぶたをひん剥いて凝視していようが、これらはすべて戦術的慧眼の賜物であって、卑しい下心からくる覗き見ではない。断じてない。美少女の肉体を、目を皿にして愛でているのは十割不可抗力であると主張したい。そう、主張したいだけだ。

 さいわいにも、クルミは裸体に関する恥辱というものにたいへん疎いため、オレが美少女の肉体美を、眼光炯炯と観察していても、糾弾される心配はない。加えて僥倖なことに、バケモノは一心不乱に美少女へ襲いかかっている。神木の根元で「きゃー、すごーい」と無邪気にはしゃいでいるクルミを歯牙にもかけていない。 

 美少女の繰りだす、打撃、蹴撃、手刀、圧撃――ことごとくの攻撃は、バケモノを確実に分断し、解体し、削ぎ落し、すり潰し、じゅぐじゅぐとした醜悪の終末へと導いていく。

 美少女が動くたびにその軌跡は線となり、美少女が攻撃を放つたびに、バケモノが動きを止め、びくびく、と痙攣する。

 寒天ゼリーをナイフで寸断していくがごとくの情景だ。

 やがて美少女は、不定であったバケモノの姿を、単純な汚泥へと変えてしまった。べちょべちょの残骸だけが、境内の一面を覆い尽くしている。もはやバケモノだったものは、ぴくりとも脈打たない。

 あれだけ派手に暴れまわったというのに、美少女の裸体には、いっさいの汚れがない。醜悪に彩られた大地のうえで、美は美として神々しく映えていた。

 ――そのもの、黒き魔物を破いて、漆黒の野に降り立つべし。

 先日、クルミの借りてきたアニメ映画の台詞が、歪曲した形で、脳裡をよぎる。「ユパさまっ」と駆けより、抱きしめたくもなる。

「えっとぉ……だいじょうぶ、ですか」

 声を張り、美少女へ呼びかける。足の踏み場がないので近寄ろうにも近寄れない。

 彼女は振り向く。

「あの、言葉、分かるかな? ハロー? いや、ちがうか」

 小首を傾げた彼女は瞬間、空高く舞い上がり、バケモノの血の海を一息に飛び越えてきた。音もなくオレのまえに着地すると、こちらを見上げ、にっこりとほほ笑む。純粋に単純に一抹の歪みもない、うつくしい裸体というものは、欲情するにも気が引けてしまうことをオレは知った。美少女は柔和にほほ笑んだまま、ふわり、と風になびく髪を手で押さえ、なにごとかを口にした。

 舌っ足らずなのは八条のときと同じで、だから、「あむ、ひとまん」と聞こえた。

 自己紹介だろうか。

「へえ。なんとかミンちゃんって言うんだ。長いし言いにくいから、ミンちゃんでいいかな」

 わけがわかりません、といったふうに美少女は首をかしげる。

「タタミちゃんったらすごいかもー!」

 バケモノの残骸を避けながら、ケンケンをするようにクルミが駆けてくる。

 その声に反応して、美少女が振り向く。

 身体ごと、振りかえる。

 こちらに背を向け、静止する。

 クルミのことを正視する。

 途端。

 鋭い圧迫感がオレの全身を貫いた。

 美少女ことミンちゃんの背中からそれは発せられている。

 殺意だろうか。

 心臓を鷲掴みにされたような、物理的な圧迫感を感じる。

 まずい。

 オレは焦った。

「来るなッ」

 クルミへ叫ぶが、声にならない。息ができないほど、圧迫感が増している。

「見なおしちゃったよ、たーたみん」

 クルミが無防備な様で美少女に抱きついたころには、ふしぎと全身を貫いていた殺意の矛はすっかり抜けていた。圧迫感は消えたが、すぐには動けない。

「んー? まっちゃん、どうったの?」

 心配そうに声をかけてくるが、こちらはクルミのほうこそ心配だ。

 そいつに抱きついてだいじょうぶなのか。

 こうしている間にも、クルミの身体があのバケモノと同じように切り刻まれるのではないか、と気が気ではない。が、それも間もなく杞憂だと判明する。

「クルミ……そいつから離れろ」

「ん? なーに? なんでえ?」あははくすぐったいよ、とクルミがみじろぐ。

「いいから。すぐに離れなさい」

「いいけどさー。へんなのぉー」

 ぶつくさ溢しながらクルミはしぶしぶといった様子で美少女から身を離した。オレはすかさず美少女に着物を投げつける。「はやく着ろ。へんたいめ」

「余計なことをしないでくれよ」

 クルミの胸に顔を埋め、尻を揉んでいたそいつは、不服とばかりに叫ぶのだ。

 今度ばかりは躊躇なく頭を叩く。肉体が誰のものだろうが関係ない。

「いたい!」八条タタミは悲鳴した。

      #

 八条の意識が回復すると同時に、バケモノを細切れにした人格は消えたようだ。バケモノをやっつけたのが八畳ではないべつの人格――おそらくは肉体の主たる美少女(宇宙人)本人であったことを伝え、ほかにも言葉が通じなさそうだったことや、どこか危うい雰囲気があったことなどを包み隠さず八条に伝えた。

「うむ。やはりそうなのか」

 八条は着物を身体に巻きつけ、意味深長に唸った。「ぼくもそうだと思っていたのだ」

「思っていたとは?」

「マサが来てくれるまでのあいだ、あのバケモノが二匹ほどぼくに襲いかかってきたんだよ。というよりかは、マサに助けを求めようと思い立ったきっかけが、バケモノに襲われて、気づいたときには、バケモノだったものが辺り一面にちらばっていたのを目の当たりにしたからだ。これはひょっとするとひょっとするな、と思ってマサを呼びだした――と、そういうわけなんだ」

 八条の話を聞くかぎりにおいて、バケモノは一体だけではないらしい。大きさにはばらつきがあるようだが、基本的にはうねうねと不定形な成りをしているとのことだった。たった今、退治されたバケモノと同種だという。しかも、バケモノが現れた途端に、八条は意識を失ってしまうので、客観的に状況を把握するためには自分以外の目が必要だった。だから八条はオレを呼びだした。ここまでは納得がいく。だが、それが果たされた今、オレにしてやれることはなにもない。恐縮なふうを醸しつつオレは、

「ごめん。そういうわけだから。あとはがんばれ」

 告げて、なにがなんだかわからないよぉ、といった渋面のクルミをせっつくようにしてその場から撤退しようと歩を進める。背後から、「ははっ、またまたー。冗談きっついですな、マサくんは」と八条の陽気な声が聞こえてきたが、境内を脱し、足早に階段を下りはじめた段になると、

「いやいや! ありえない!」

 必死にこちらを引きとめようとする。それでもこちらが意に介さず歩を進めると、

「待ってよ、おねがい」

 こちらの腕にからみつき、全身で踏ん張るようにした。「ちょっと待ってよ、親友見捨てて帰っちゃうってどういうこと」

「親友とは聞き捨てならねえな」

 反駁しつつも、オレは八条ごと引きずって階段を下りようとする。が、どういうわけかびくともしなかった。

「あははっ。まっちゃん、あせってる、あせってる」クルミがひとり暢気に笑っている。

「わかったよ。わかったから頼むよ。今日だけぼくを独りにしないでくれ。こわいんだ」

 急に手を放すものだから、あやうく階段を転げ落ちそうになった。

「しょーがねえな。じゃあ、ウチに泊めてやるからいっしょにこい」

「それはできない」

「わがまま言える立場かてめえ」

 凄んでみせるが、八条は眉をしかめ、つぶらな瞳を潤ませる。

「あのバケモノはぼくたちを――このコを狙っているのだよ」八条はやさしく胸に手を置いた。揉むわけではなく労わるよう触れる。「ぼくが街に下りたら、それだけで惨事になることは目に見えている。ぼくはここにいるべきだ。そうじゃないか」

 八畳にしてはもっともな意見だ。

「わかった。じゃあ、オレもここに泊ってやるよ」

「いいのか」

「自分で引きとめておいてそれはないだろ」

「でも……」

「その顔、やめろ」

 美少女の姿でなければ神木にでも縛りつけて帰っているところだが、こうもいたいけな顔をされたのでは弱ってしまう。

「あ、じゃあさ」クルミが言った。「再会の記念に、三人で記念写真とろっか」

 なにがどのような脈絡を辿っての、「じゃあさ」なのかがオレにはとんと分からない。それどころじゃないんだよ、と説得しようとしたところで、

「ここでいいかな?」

 八畳が神木のまえで飛び跳ねていた。

「おまえな……」

「まあまあ、いいじゃないか記念写真くらい」

 クルミが八畳のよこに立ち、まっちゃんもはやくー、と急かしてくる。

「……というか、だれが撮るんだよ、この状態で」

 三人が雁首そろえて並んでしまっては撮影のしようがない。タイマー機能を設定するにしても、三脚がないのだからいかんともしがたい。

「じゃあ、まっちゃん撮って」クルミが言った。

「じゃあってなんだよ、じゃあって。ふつうジャンケンとかだろ」

「合図は、是非とも【はいチーズ】でお願いしたいね」八条までクルミに加担しやがる。「イチ足すイチは、でもOKだ」

「ちんこの分際で生意気なんだよ」

「なんだって?」

「うるせぇ。撮ってやるから、ひっつくなよ。ぜったいにひっつくなよ」

 しつこく八条に言い聞かせオレはクルミからメディア端末を受けとり、距離を置く。神木の幹で寄り添うふたりをフレームに納める。「――ってだからひっつくなってーの!」

 はやく撮ってよぉ、とクルミにせつかれてオレは不承不承シャッターを押した。

 風が吹く。

 ピロリロリン。

 撮影完了。

 端末のディスプレイには美少女がふたり並んで映っている。胸の高鳴るような嗜好品であるはずが、片方の中身が八条と判明している現時点において、忌々しい気持ちが湧いてくる。

「ほらよ」

 端末を返すと、どれどれと八条がクルミのよこに立つので、いそぎ引き離す。クルミに頼んでオレの端末に画像を転送してもらい、「おまえはこっちで見ろ」と八条に手渡す。

 八条は不服そうだったが、画像を見ると、

「なかなかじゃないか」と満悦気に言った。「花より団子とは言うけれど、花と姫が揃えば団子など目に入る隙間さえないものだね」

 一瞬、なにを言っているのか解らなかった。

 画像には無邪気なクルミとやや緊張した面持ちの美少女が映っているだけだ。

 背景には、神木があるが、そちらは紅葉していないほうの神木だ。団子どころか花さえない。

「なにを言ってんだ。団子が食いたくなったのか? そういや腹減ったな。飯とかどうする? いったん下山して調達してこようか」

 提案しつつも、下山してふたたび戻ってくるのは勘弁だな、と思う。

「ああ。それには及ばないよ」言いながら端末を返してくる。八条は神木を見上げると、「この花、食べられるんだ。意外にも、美味しいのだよ」

 おかしなことを言うのだった。神木の枝はまるはだか。花など咲いていない。オレが怪訝な表情を浮かべたからだろう、八条は、「いいから食ってみたまえ」と宙に視線を漂わせ、空をつまむようにした。あたかもなにかが、ひらひらと舞い落ちているかのような素ぶりだ。

「ほら。食ってみそ」

「…………いやいや」

 なにもねえじゃん、とつづくはずだったオレの指摘は、クルミの声に遮られた。「ほんとだー! おいしい!」

 むしゃむしゃ。

 クルミがなにかを咀嚼している。

 ごっこん、と喉を鳴らすと、目を輝かせ、「えいっ、えいっ」と飛び跳ねはじめる。柿木から柿をとろうとする狐を思わせる仕草だ。それを繰りかえす。

「ほらね。おいしいのだよ」

 頬張るように口元に手を運ぶ八畳だが、むろんそこにはなにもない。

      #

 むかし、クルミのおやじさんからクルミの体質を聞かされたとき、だからなに、とオレは思った。

 クルミはクルミだ。どんな体質だろうと関係ない。

 オレはそう思いこもうとした。

 だってそうだろ。

 そうでなきゃ、クルミがオレを慕っているのも、オレから離れようとしないのも、すべてがすべてクルミの体質――刷り込みのせいだって結論になってしまう。

 クルミと初めて出会ったのは、オレが〈オレ〉としての自我を獲得する前の話――この世に産まれ出て、保育器に入れられ、同じくらい自我のなかったクルミにしょんべんをかけられたあのとき――あの瞬間に、クルミはオレを、初めて見た異性として認識した。

 だからだ。

 ただそれだけの偶然で、クルミはオレを意識し、想い、慕いつづけてくれている。

 オレでなくたって良かったんだ。

 最初に見た異性。

 ただそれだけのこと。

 ただそれしきの役柄。

 たったそれだけの幸運がオレに巡ってきただけのことで、オレが〈オレ〉であるのはクルミのお陰なのに、クルミが〈クルミ〉である来歴にとってオレという存在は、代替のきくちいさな歯車でしかなかったなんて――そんなこと、オレはどうしたって認めるわけにはいかなかった。

 だから自分に言い聞かせたんだ。

 そんなの関係ない。クルミはクルミなんだって。

 だが、実際は関係大ありだ。

 八条と再会してオレは、はっきりと認識した。

 ――オレにはクルミを理解することができない。

 クルミに視えている世界を、これっぽっちも理解なんてしていない。できるわけがないのだ。

 八条には、神木に咲き乱れる【花】が視えている。クルミと同じ風景を――共有し得ている。

 オレが許容することしかできなかった〈世界〉を、八条はいっさいの自覚もなくそれが当然であるかのように共有している。

 視えない。

 オレにはこれっぽっちも視えやしない。

 そこにはすっかり落葉して寒々とした神木が、風になびくこともなく屹立しているだけだ。

 だがクルミたちには視えている。幻想でしかないはずの世界を現実として見做し、実際に腹まで満たしている。

 コウモリの感じている超音波を人間が聞き取れないように、蛇の視ている熱の世界を視られないように、ひょっとしたら大勢の人間が感じられないというだけで、見るための感覚器官が欠如しているというだけで、本当はクルミのほうがより多くの世界を感受しているのではないか。

「まっちゃん、どうしたの」

 クルミが不安げに声をかけてくる。

「……なんでもない」

 八条もまた、一向に【花】を食さないこちらを怪訝そうに見つめている。

「わるい。食欲ないんだ」

 うそだ。

 食べようにも食べられないだけだ。

 陽が傾き、木々の影が長く伸びている。伸びた影はやがて、大地を覆い尽くし、地面をべちゃべちゃと穢すバケモノの残骸に同化する。

 夜が、これからやってくる。

 

【『 』(スペース)】END




【セカンドキラー】


     ・ピロローグ・「セカンド・キラーの述懐」

 

 宇宙の寿命からすれば、人間の寿命なんてあってもなくてもどっちだっていいくらいの、あってもなくてもバタフライ効果さえ生じないほどの、そんな呆気ない、塵のなかの塵みたいなものなんだって、いつかお父さんが言っていた。ぼくはそのとき、お父さんがとてもにこにことしていたものだから、その語りの内容の、残酷さと限りなく切ない虚無を感じることができなくって、それから数日経ったあの日――お父さんが、お母さんを追いかけるみたいにして死んでしまったその夜に、「ああ。お父さんが言っていたことって、こういうことなんだな」って胸のなかを、がりがり、と蝕む傷を受けたんだ。

 もしもあのとき、お父さんの仮面みたいなあのにこにこ顔に惑わされずに、お父さんの言葉をきちんと受け止めて、「だからなんなの」ってちょっとわるい子っぽく言い返していたら、もしかしたらお父さんは死ななかったのかもしれない。

 ――あいつに、殺されなかったのかもしれない。

 十一年経った今でも、未だに考えてしまうんだ。

 ぼくの好きな漫画にあった台詞なんだけど、「たら、れば、の話をしても意味はないよ」っていうのがあって、その通りだな、って感心しちゃった。そうだよね、意味なんてないんだ。

 ぼくがいくら後悔したってお父さんは生き返らないし、ぼくがいくらお母さんの病気を呪ったって、けっきょくお母さんは苦しそうに死んだんだもの。

 過去だとか現在だとか、もうすでにここにあるもの、消え去ったものには、いっさい関われない。ぼくがどんなに望んだって、叫んだって、恨んだって、過去もこの現在すら、なにも変わらない。

 変わらずに、変わりつづける。ぼくの意思にかかわらず。

 だからぼくは、なんとしてでも未来だけは、ってそう考えたんだ。

「たら、れば、」がダメだっていうのならぼくは、「したい、やりたい」を叶えようと思った。

 そうしてぼくは、人を殺す何者かになった。

 ――人を殺す人を、ぼくは殺す。

 この世に息衝くことごとくの殺人者に対してぼくは、殺意を向けたまま、生きている。

 宇宙の寿命からしたら人間の一生なんて、あってもなくてもどうだっていい、時間という量的指数にも満たない瑣末そのものだとしても、ぼくの一生からしてみれば、お父さんの一生も、お母さんの一生も――ほんとうならぼくが抱けていたはずの記憶――家族で、笑ったり、叱られたり、けんかしたり、泣いたり、よろこんだり、する経験――そうしたものは、宇宙の寿命なんかとくらべられないほどに、大切なものになるはずだったんだ。

 それをこのさき、ぼくが死ぬまで、ぼくの一生が途絶えるまで、触れることすらできなくなってしまった。ぼくはだから、このくだらない、宇宙の寿命からすれば瑣末にも成り得ないほどの、かぎりなく無に等しいこのぼくという存在を、おなじくらいくだらない存在であるはずの殺人者どもを殺すためだけに費やそうと。

 ぼくはあのとき、そう願ったんだ。


      『死のタリオ』

 

      ***

 ネクタイを締め直しがてら気も引き締めて私はそのビルへと足を踏み入れた。

 エレベータのまえ。地下へのボタンなんてどこを見渡してもない。ただし、箱の内部には、そとの表示にはなかった「うえの階」へのボタンが備わっていた。

 ――非常階。

 あたかも、非常階段の「段」が擦れて見えなくなっておりますよ、といった雰囲気の中途半端なボタンが、屋上行きのさらにうえのほうに、申しわけ程度にボヤけた光を放っていた。背伸びをしなくては届かないような位置だ。

 それを押す。

 ボタンの位置的には、上昇するはずだ。にも拘らず、ふわり、と軽く感じられる重力変化はこの箱の下降を示していた。

 間もなく。わずかな重力の増加を感じる。

 箱は止まった。

 ちんちーん、とふざけた音をひびかせて扉が開く。

 通路だった。ガラクタが、壁を覆い尽くさんとばかりに積みあげられている。

 雑貨置き場といった殺伐とした雰囲気だが、ここにあるマネキンが仮に遺体であっても、驚かずにすむくらいの陰湿さがある。

 ひと気はない。薄暗い通路は、けれど、奥の、突きあたりのほうが仄かに明るく見えている。

 突きあたりがT字路になっている。ここからでは、通路がどこへどこまで繋がっているのか、その全貌をたしかめることはできない。さきに進まなければ話も進まないし、そもそもここへ来た意味すらない。

 だのにここに来て私は、二の足を踏んでいた。

 そんな怖気づいている自分を私は指弾した。

「……そんなんだからモニカが」

 ふつふつ、と灼熱の凍てついた衝動が胸のうちに沸いた。逡巡などしていない、と言い聞かせるみたいにして私は通路へ足を踏み下ろす。数歩すすむと、ちんちーん、とまた間抜けな音がひびきわたった。

 反射的に振りかえる。エレベータの扉が閉まっていた。

 臆病な自分にほとほと嫌気がさす。

      *** 

 その扉には、「代行専門業者を専門にお取り扱い致しております」とちいさくプレートが張り付けられていた。ほかに看板らしい表札はない。ほんとうにここでいいのだろうか、と迷ってしまう。

 すでにこの通路で散々迷ってしまった私であるから、今さら迷うことに抵抗などはない。またいっぽうでは、迷うことにうんざりしてもいる。T字路で右に折れたのがいけなかったのか。いちど歩を進めた手まえ、踵を返すのにもそれなりの決意ときっかけが必要だった。そのために、さっさと、来た道を戻ればよかったものを、けっきょく数百メートルさきの行き止まりにぶちあたるまで通路を無駄に突き進んでしまった。それだけならまだしも、行きは直線だと思われたこの通路、ガラクタの壁に混じっていくつかの分岐点があったらしく、こうして引き返してくるあいだに、どの道を進むべきかで頭を悩ませてしまった。来たときはまっすぐまっすぐ進んでいたつもりであったのだけれど、こうして二手に別れている通路をまえにすると、どうしても両方曲がって見えてしまう。悩んでもしかたがない、行き当たりばったりでなにがわるい、とばかりに私は、「えいや!」とわざわざ発する必要のない掛け声で、入れる必要のない勇気を無駄に奮い立たせた。

 そうこうして、やっとこさ辿りついたのが、ここ、「代行専門業者を専門にお取り扱い致しております」のプレートの張り付いている扉だ。

「どーぞ」

 と扉の向こうから声がした。くぐもった声であったので、私へ向けられた声なのかの判断がつかなかった。するともういちど、

「用がないなら帰ってちょーだい」と聞こえた。

 扉を挟んだ部屋のなかからの声だ。女性の声だと判る。

 明らかに私へ向けられていた。それでもまだドアノブにさえ触れられないでいると、

「どっちでもいいや」

 うちがわから扉が開け放たれ、

「客じゃなくてもいいから入りなさいな」

 現れた女性は強引に私を部屋のなかへと引きずりこんだ。

 頭にカラフルなターバンを巻いた女性だった。ターバンに収まりきらない長髪が、彼女の胸元まで垂れている。その胸は豊満だ。白衣を羽織って、首から聴診器を垂れ下げているところを鑑みると、お医者さまかなにかだろうか、と推測してみるものの、その白衣のしたがタンクトップ一枚という妙に艶美な格好であったから、もしかしたらただのコスプレかもしれないぞ、とおよそ一秒で結論付けた。

 部屋の奥にはデスクが一式ある。社長室にでもあればその豪勢な作りも活きただろうに、と同情したくなるほどにこの部屋にはそぐわないデスクだ。椅子に彼女が腰かけた。

「暇だったんだよねぇ。ちょっくら、はなし相手になってちょ」

 かわいらしく言っているものの、それを口にしている女性が、やたらと大人びているから、違和感がある。

「きみも食べゆ?」

 彼女はペロペロキャンディを差し出してくる。私はただただ肩身狭く突っ立ったまま首をよこに振るほかなかった。

 

 かぷかぷ、とペロペロキャンディをはみながら女性がなにやら語りはじめた。

「二カ月だよ」

 彼女が語っているあいだに私は部屋をこっそり見渡した。

「きみが二カ月ぶりのお客さんだ。つってもきみがなにも仕事を依頼してくれないというのなら、今月もまた収入なしさね」

「はあ」と相槌を打ちつつも、あそこに置いてある刀は本物だろうか、とそわそわしてしまう。

「まあ言っても、半年に一度くらいでちょうどいいのかもしれんね。こんな仕事はさ」

 自分の仕事を「こんな」呼ばわりとはなんと矜持のうすい女性だろう。それに、半年に一度でいいとは、一回の仕事で得る収入がそれほど高いものなのか、と気が滅入ってしまう。彼女の収入が高いということはすなわち、私が彼女に支払わねばならない代金が高いということにほかならない。ある程度の出費は覚悟していたとはいえ、私に用意できる金額というのは、一般的なサラリーマンの域を出ない。

「聞いてくれよ。それなのにさ、あたしがこんなに謙虚だっていうのにさ」と彼女はその無軌道そうな性格を、「あたしほど謙虚な人間はいないよ」と強調して、「あのコがねえ、うるさくってねえ。ほんとにまいっちゃうよ」

 困った顔をするのだった。 

 私としては、彼女がいったいなんの話をしているのかがさっぱりであるから、「はあ、そうなんですか」たいへんですね、と心のこもらない同情を示すほかない。

「それで、どうなの。きみは依頼してくれるの。してくれないの」

 つい今しがたまで、仕事なんてどうでもいい、と主張をしていたというのに今度は一転して、依頼してくんなきゃいやだよ、といった眼差しをそそいでくる。この女性、ちょっとわがまますぎやしないだろうか。

 私はそらとぼけてみた。「ちなみに、どんなお仕事をされているんですか」

「知っててきたんじゃないのかにゃ?」

 ものっそいバカにされてしまった。だからでもないけれど、あたかも指弾するみたいに、「人殺しを代行してくれるって聞いて来たんですが」

 はっきり告げてやった。

「へえ」と彼女はここにきて初めてしごく冷たい表情を浮かべた。口元だけをゆるめて、「そこまで知ってて、よくもまあ、ひとりでこられたものだね」

 褒めるような揶揄を吐くのだった。

 私がカッチンとかたまってしまったからか、

「まあいいよ」

 彼女はあごを振って、デスクのまえのソファを示した。「そこ座って。まずは、はなしを聞こうじゃないか」

 情けないことに、今にも足のちからが抜けそうだったので、私は唯々諾々と体重すべてを預けるようにして、ソファにこしを埋めた。

 さきほど発した彼女の言葉。――そこまで知っていて、よくもまあ、こられたもんだね。

 それはあたかも、人を殺してほしいだなんてそんなおそろしいことをよくぬけぬけと頼みにこられたものだな、と嘲笑されたようで。嘲笑されていながらに糾弾されたようで。名指しで罪を宣告されたようで。またしても私は怖気づいてしまったのだ。無意識のうちにネクタイを緩めようとしていた手に気づき、ぐい、と逆に締め直す。

 ここまで来て、なにを今さら――。私は弱気な自分を戒める。

      ***

 女性の名前は、野茂石(のもいし)さや、というらしい。ひょい、と投げて寄こされた名刺にそうあった。

 肩書きはなぜか、調教師、とある。住所もでたらめな番地がかかれていた。ということは、この電話番号にかけてみてもきっとこの事務所には繋がらないのだろう。野茂石さや、彼女のこの掴みどころ満載の性格からすれば、どっかの中華飯店にでも通じてしまいそうだ。

 素朴な疑問を装って私は、

「この住所ちがいますよ」と指摘した。

 ああそれね、と彼女はしれっと応じた。

「客ごとくに変えてるんだよ、名刺。住所からなにから、全部ちがう。情報が洩れたとして、どこのどいつから洩れたのか、そうしとけばわかるっしょ? 間違っても落すなよー。過失だろうとなんだろうと、落しまえはつけさせてもらうからさ」

 がりがり、とペロペロキャンディを齧りつつ彼女は、しごくおだやかにそう述べた。

 もらった名刺を私は、厳重に財布のなかへ忍ばせた。ぜったいに落しませんように、と念じながら。

      ***

 ばりぼりと海苔の巻かれたせんべいを頬張りながら野茂石さやは、ふうん、と唸った。

「かんたんに言っちゃうと、意趣返しをしてくれってことね」

 ずいぶんとあっさり要約されてしまった。私がここを訪れるに至るまでの経緯を、自己紹介などを挟みつつおよそ一時間、みっちり、とかけて話したというのに。

 ――意趣返し。

 私のしようとしていることは彼女の言ったように、たった四文字に収斂してしまえるほどに陳腐なものだったのだ。きっと言葉というのは、こうして現実のことごとくを「陳腐」という箱に押しこめてできあがっているのかもしれない。それとも、言の葉に仕舞いこまれたものが陳腐だから、その言の葉そのものが陳腐色に染められてしまうのだろうか。

「そう、ですね」ひとまず首肯する。

「いやあ、多いんだよねえ、意趣返しっての」

 定番だよね、と彼女はなぜかうれしそうにした。「いいよいいよ。二カ月記念に、特別料金にしたげる」

 言いながらごそごそとデスクを漁ると彼女は電卓を取りだして、たくたく、と打ちはじめた。

「ん、んー?」

 じょじょに電卓をはじくゆびに力が入っていく。しまいには、

「あーくっそ、わけわからんっ!」

 壁に投げつけた。たーん、と大きな音を立てて電卓は砕けた。ゆかに散らばる。

「これでいいっしょ」と野茂石さやは、むんず、とこちらに平手を向けてくる。五本のゆびがひろげられている。ちんまり、と小指にリングが光っていた。子どもっぽい、ビーズでできたリングだ。

 五十万円……ではないだろう。この業種の特異性を鑑みれば、五百万円かもしれないし、五千万円でも妥当に思われる。が、ここでしょうじきに応えてしまっていては交渉の余地をみすみす潰してしまうようなものだ。仮にここで、「いいや五千万円だよ」と訂正されても、こちらは五十万円が妥当なのだと認識しているのだと装うことで、互いの価値観の齟齬を埋めるという意味も兼ねて、ここは五十万円ですか、と訊きかえすべきだろう。訊きかえし交渉の余地を生むべきだ。狡猾にも私はそんなことを考えていた。私はなにも、お金を惜しんでいるわけではない。五千万円だと提示されれば、それを支払うくらいの臍はすでに固めてある。もっとも、だからといって足元を見られたくはない。それはだからとどのつまりが、私は、彼女になめられたくないのだ。

 私が憎むべき殺人者――モニカを殺したやつと同じ行為をしている彼女に、なめられたくはない。

「おっかない顔ぉ」こちらを覗きこむみたいにして野茂石さやが顔をしかめていた。海苔巻きせんべいをひょいと差しだしてくると、「言ってくれりゃいいのに。食べたかったんならさ」と相好をくずした。

 見当違いもはなはだしい彼女のその好意に私はしょうじきたじろいでしまう。ひとを小馬鹿にしているような彼女のその所作が、けっして私をなめているわけではないのだとなんの根拠もなくそうと感じられてしまうから。

 野茂石さやと名乗るこの女性(名刺に記載されている情報はすべて間違っていると言っていたからには、きっとこの名前も偽名なのだろうけれど)、彼女は無邪気だ。

 その無邪気さが、彼女の演技だとしても、演技でこれほどまでに無邪気を醸せる人間というのは、無邪気がどのような状態をいうのかを知っている人間でなくてはならない。それは逆説的に、彼女は、他人にある無邪気さに共感できる人間であるということで、それは究極のところ、彼女が他人に対して同情心を抱けるということになるのだろう。

 私の知っている限り、連続して殺人を犯せる人間は、他人に対して同情することができない。しないのではなく、できないのだ。

 命の尊さを知っている者は、どうしたって自制が働いてしまうからだ。

 命なんてものが、掃いて捨てられるほどに瑣末なものとして認識している者でないと、何度も何度も殺人を繰りかえし犯せないし、亡霊にとり憑かれることなく幾人もの屍をその手で量産することなんてできやしない。

 呵責の念がないかぎり、人は亡霊にとり憑かれることはないという。

 だから、無念を抱き漂っているだろう無数の亡霊に悩むこともなく、平然とこの日常に身を置いていられる殺人者というのは、それだけ他人への関心を抱けない、無味乾燥とした人間なのだろうと私は思ってしまう。

 それに比べて、この野茂石さやという女性はどうだろう。私の敵愾然とした内心が滲んでしまった表情に対して、お門違いではあるにせよ、おやつが食べたいのだろうな、といった心遣いをまわした。それはとても幼稚な気遣いであるにせよ、私からしてみれば胸が、ほっこり、となる類のやさしさに思われた。

 差しだされた海苔巻きせんべいを私は受けとった。ひと口かじる。がりがりっ、と頭蓋がしびれた。

 彼女、野茂石やさが私の蛇蝎視する人種であるか否か。その問題はひと先ず措いとくとして、とりあえずまずは交渉、とばかりに私はそら惚ぼけてみた。

「料金って、五十万円なんですか?」

「五十万っ円っ!?」

 とんでもない、とでも抗議するみたいにやはり彼女ははげしく瞠目した。けれど続いた言葉は私の予想に反していた。

「なに言ってんのさ、そんな大金、もらえるわけないでしょ」

 こんな仕事ごときで、とまたしても彼女は矜持のかけらもないことを言う。

「きみね、これっていったら」と彼女はこれでもかと言わんばかりにみたび五本指を、じゃーん、とひらいて、「五百円に決まってるじゃないかっ! 五十万円って、ばっかじゃないのかね、きみ!」

 なぜか怒られてしまった。

 だからでもないが、五百円はきっと言い間違えたんだろうな、と解釈した。

「はあ、ですよね。五百万円ですよね」と復誦してみる。

「か、からかっとるのかねきみ!」彼女はさらに語気を荒らげて、ついでに身をのりだしてデスクを、ばんばん、と両手ではたきつけるようにした。「あいつら殺すだけで五百万っ? ばかも休み休みイエイ!」

 ちゃめっけたっぷりの満面の笑みで親指を突きたてられてしまった私は、だから、

「い、いえい」とつられて返してしまう。

「いやん、どうしよう。もしもきみが五百万円だなんて大金を払ってくれるってんなら、あたしに拒む理由なんて皆目ござらんよ。そこんところ、どうなのかな。ん、ん? 払ってくれちゃったりするのかな」

 ちらちらっ、と窺うように流し目をそそいでくる彼女は、デスクから立ち上がり、今はこの狭い室内をちょこまかと落ち着きなく歩き回っている。

 五十万円なら、と私は交渉してみた。「五十万なら現金で今すぐにでもお支払いできますけど」

「ふとっぱらっ!?」

「え、いいんですか? お引き受けいただけるんですか、この金額で?」

「ごちそうさまです」

 即決だった。交渉する気であったのに逆に交渉されてしまった。へんに奸知を働かせなければ五百円だったというものを。なんて惜しいことをしてしまったのだろう、と人殺しを依頼しているくせに私はなんだかセールス品を高値で購入してしまったときみたいな気持ちになった。

「じゃあ、いちおう、契約書にサインしてちょーだい」

 ひょいひょい、と用紙とペンを渡される。用紙には、代行依頼書、とある。

 ――代行させちゃいますか。

 ――やっぱり、やめますか。

 ふたつの文章が印刷されている。

「どっちかに丸書いて。やっぱりやめよっかなって思うんだったら、そっちに丸」ぞんざいにあごを振って、あいまいに指示してくる。「あとは適当に、すみのほうにサインおねがいね」

「あの、どうしてですか」と私は尋ねていた。どうして依頼を思いとどまった場合にも記入が必要なのだろう、と単純に疑問した。もちろん私は代行してもらうつもりでいる。けれど、もしも殺人代行を思いとどまったひとがいたとすれば、そのひとはこんな契約書にサインする必要すらなく、この部屋を出て、もといた生活に戻ればいいだけの話ではなかろうか。

「なんでって」だって、と野茂石さやはターバン越しにぼりぼりとうなじを掻いた。「だって、この場所しられて、はいそうですかって、帰せないっしょ」

 いろいろあるのよ、事後処理ってやつがね、といたずらっこみたいに笑窪を空けた彼女の言葉はけれど、その無垢な解顔からはかけ離れた、怪しい険を伴って私には聞こえた。あたかも、「知られたからには生きて帰さん」とでも言われてしまったような畏怖がある。

「具体的には」どのようなことを、と臆病な質問が勝手に口を衝いていた。

「企業ちみつ」

 くちびるにひとさしゆびをあてて彼女は色っぽくささやいた。


      ***フラッシュバック***

 報道されている情報を鵜呑みにすれば、最初の被害者が出たのはおよそ半年前。それから一日に一度の頻度で犠牲者が、まるで駅伝みたいに、地方から都心へと一人、また一人、と増えていった。

 最初の犠牲者は北海道のOLだった。二人目の犠牲者は長崎県の短大生の男。三人目は秋田県の主婦。四人目は大分県の会社員男性。まるで北と南を交互に飛び跳ねるようにして――また、男女を交互に殺めるようにして――被害者の出た県は都心まで近付いていった。

 都心で終わりかとも期待されたものの、見事に裏切られた。

 この場合、裏切られたのは世間で、裏切ったのは殺人鬼だ。

 そのころ、ゆいいつ被害者の出ていなかった沖縄県から、フリーターの女の子が一連の事件の餌食になったとの報道がなされた。それからはまた同じように、北と南、交互に被害者が出つづけた。

 だからもしかしたら、一往復目の最初の被害者は、北海道ではなく、沖縄県にいたのかもしれない、と誰もが想像していたが、そうした安っぽい想像にたいした意味はなかった。

 なぜなら、すぐに被害者が発見されるとも限らないからだ。

 あとになってから遺体が発見されることもある。そうしたときには、その遺体が一連の被害者であるのかを特定するために、皮肉にも、殺人鬼の性癖とも呼べる特性――列島反復殺人の法則が大いに参考となったようだ。被害者が出ずに虫喰い状態となっている県にもかならず被害者がいる。順番的には被害者が出るだろう当日に、該当する遺体が発見されなくとも、後日、無残な姿となった遺体が発見されたとなれば、死亡推定時刻などから類推されて、「ああ、これがきっと今回の被害者だな」と判断されるようになっていった。

 なぜそうした類推が可能かといえば、一連の被害者のことごとくが、遺体の心臓を抉りとられていたからである。それも、極めて淡麗に。

 そのため、一連の事件を模倣した殺人が蔓延ることもなかった。心臓の摘出された遺体は、その胸部の傷口を見れば、誰の犯行かは一目瞭然であったからだ。

 

 被害者は未だに出つづけている。今は五往復目に突入してしまっているくらいで、いったいいつまでつづくのか、と多くの者たちは他人事として傍観していた。私もまた例外ではなかった。

 マスメディアのお祭り騒ぎは奔騰を極めている。殺人鬼の足取りすら掴めていない行政へのバッシングはすでに大方やりつくされ、今はそれと並行して、毎晩のように独自に見繕った犯人のプロファイリングが報道されている。複数犯説からはじまり、宗教的な儀式説や、集団自殺説、果ては某国の洗脳プログラムによる虐殺予行演習である、といった陰謀論までしごくまじめに報じられるようになった。視聴者をバカにしているとしか思えない番組ばかりだ。辟易としながらも、お祭りに弱い国民性なのか、視聴率は各局共に軒並み好調であるという。

 そういったTVの向こうがわの話題だったはずの現実が私の日常を侵したのは、一連の事件、通称「列島反復殺人」が三往復目に入ったころ、つまりいまから二カ月前の七月のことになる。

 葉一(はいち)モニカ――私の大切なひとが殺された。

 その日は、私たちが暮らしている県(この雑貨ビルのある都心ではなく、東北地方の、それこそ十数分、車を走らせただけで山並みが望めてしまうほどの田舎なのだけれど、その県)に、被害者が出る予定の日であった。列島反復殺人事件の周期的にはほぼ間違いなく、その日、殺人鬼がやってくるとされていた。それなのに私は飽くまでも他人事なのだと気を揉むこともなく、嵐の夜みたいに、ぜったい的に安全な場所で危険をやり過ごす、一種のアトラクションじみた昂揚を抱いてすらいた。

 私自身には、なにごともなに者も訪れることなく、その日は普段通りに、平穏に、退屈に、暮れていった。

 その四日後だ。葉一モニカ、彼女の見るに堪えない凄惨な遺体を目の当たりにしたのは。

 真夏の気候は、免疫系の停止した肉体を内側から腐敗させ、よりはやく分解させる。死の直後にどんなにきれいな遺体であっても常温であれば、そのおよそ二十四時間後には肉体の表層に死斑が浮かびあがり、目に見える様で腐りはじめる。

 体内の細菌のほかにも、腐敗を助長する生物はある。体外から寄ってくるハエが代表的だろう。ハエに蛆を生みつけられた遺体はその外観をかぎりなくおぞましいものへと変遷させられてしまう。そうした遺体は、およそ四日でおおよその細胞組織が液化する。

 皮膚などの表層組織は、臓器などと比べると死後もなお、比較的ながく死滅せずに活動していられる。二日から三日程度は腐らずに保たれる。もっとも、内臓などを構成している細胞は一時間以内に死滅しはじめ、夏場であれば、半日で悪臭を発するまでに腐敗が進行する。

 そう、だから私の目にした彼女の姿は、蛆のうごうごと躍動する、けっして動くはずのない、けれど微動しているみたいに感じられるドロドロべちょべちょとした残骸だった。そこには生前の面影などはなく、今もなお、あれが彼女であることを私は認知しきれずにいる。認めたくない。それ以上に、認められるはずもなかった。あれほど可愛らしく、可憐で、それこそ天使みたいだったモニカが、果たしてあれほど醜くおぞましくなるものなのだろうか。甚だ疑問だった。それでも、あれが「死ぬ」ということなのだろう。

 情報としてでしか知らなかった現実を私は、モニカの死によって知ってしまった。

 脳裡に焼きつく彼女の醜悪な残骸と、鼻腔を突いたあの刺激臭。

 そうだとも、私はあの日、モニカのアパートを訪ね、発見した。

 モニカに訪れた死をこの身に焼きつけた。記憶という傷跡として。

 モニカの醜いその屍を見た私は、悲愴だとか哀悼だとか、そういった高尚な感情を抱く以前に――悪心や嫌悪すらをも抱く以前に――そのどこか甘い香りのする刺激臭に、昼食として食べたばかりのハンバーグ定食を一も二もなく、べちょべちょ、と吐きだしていた。

 人間が嘔吐する場合、唇をきつく締めた程度のちからごときでは、胃の逆噴射然とした勢いにはとうてい抗えない。両手で口を覆ったとしても、封じこめられるものでもなかった。

 愛しいひとの死を目の当たりにして私は――嗚咽する前に、嘔吐していた。

 そんな自分を私は許せないでいる。

      ***

「代行させちゃいます」に丸を書いた私は、はい、とその用紙を手渡した。

 受けとると野茂石さやは、うむ、と唸って元いた椅子に腰をおろした。ようやくこの狭い室内をうろうろするのに飽きてくれたようだ。

「代行の内容は、そのコを殺したやからの息の根を止めるってことでOK?」

 なんて直截的な確認だろう、とどぎまぎしつつも、

「……はい」と首肯する。

「オプションはどうしますー。今なら五十円プラスで付けたげるけど」

 オプション?

「付けると、なにが、どうなるんですか」と訊いてみた。

「えっとね。たとえば、だからさ、きみがしたいのは復讐なわけでしょう? 殺すのは簡単なんだけど、ほんとうにそれだけでいいのかなって。よりざんこくに殺してほしいとかさ、そういうなに? 希望とか、ないのかなってね」

「ざんこくに……ですか」

「そ。惨酷に」

 ウチは得意だよ、そういうの、と彼女はしごく柔和にほころびた。

 考えてもみなかったことだ。いや、考えないようにしていただけかもしれない。私はとにかく、モニカをあんな悲惨な姿にしてしまった相手を、彼女と同じような目に合わせてやりたいだけで――この世から葬り去りたいだけのことで――ようするにだから、単純に死んでもらいたいだけなのだ。生から死へのプロセスなんて、関係ない。とりあえず早急に、息の根ごと、おひきとり願いたいだけ。死んでほしいだけ。ただそれだけだった。

 モニカを殺しただろう一連の殺人鬼に、よりむごたらしく、苦しみ、悶えぬいて、死んでほしい、などとは考えもしなかった。

 そもそも私には、モニカがいったいどれほど苦しんで死んだのか、これっぽっちも分からないのだ。私の知っていることは、モニカが生きていたあいだのうちの、いっしょに過ごしていたあの瞬間瞬間、時の狭間、人生の断片――おなじ時間を共有していられた、あのほわほわとした夢心地だけだから。

 モニカがどうして殺されなきゃいけなかったのか、どうやってモニカは殺されてしまったのか。どれほど苦しんで、どれほどの恐怖を味わって、どれほどの恥辱を与えられて死んでしまったのか。どれほどの未練を残して死んでしまったのか。それすら私は知り得なかった。それすら遺すこともなくモニカは殺されてしまったから。

「いえ、いいです」と断っていた。断っていながらに私は、「あっけなく殺しちゃってください」

 ただ殺してください、と注文した。

 りょうかい、と野茂石さやはカップを口もとへ運んで、ずずぅ、と黒い液体をすすった。あまったるい香りがしている。きっとココアだ。今に至って気づいたことなのだけれど、とかく彼女は間食を絶やさない。甘い物を食べたらしょっぱい物を食べて、つぎに甘いものを飲みながらまたぞや食べる物を、なにかないか、なにかないか、とドラえもんよろしく漁っている。この一時間、ずっとそうして、もぐもぐ、がりがり、ごくごく、と口を満たしている。これだけ食べても、その出るところは出ている華奢なプロポーションなのだから、神さまってやつがいたとすれば、とんでもなく理不尽なお方だ。

「これはべつに必須事項じゃないから答えたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ」と前置きしてから彼女は、がりごり、とカリン糖を頬張った。「その殺されたってコ――ってのはあれかな? きみの恋人?」

 ごくり、とのどを鳴らしてしまう。なぜそう考えたのだろう。モニカについて話をしたとき、私はきちんと、友人だ、と説明していたはずだ。聞いていなかったわけではあるまい。だとすればどうしてそんな詮索を向けてくるのかが不穏だった。

 私が怪訝に表情をかたくしたからだろう、

「まあ、訊いてみただけだから」と彼女は肩をすくめた。「いやあね、ともだちのためにこんなことはしないよなー、ってちょいと思ってね。まあ、それが恋人であってもおなじなんだけどさ。おなじじゃないのは、関係性というよりも、生きているほうが相手のことをどう思っていたかって、主観的な心象なんだよね、けっきょくさ」

 独り言ちるようにぼやいてから彼女は、

 ちょっと待ってて、とこちらに背を向けた。メディア端末を取りだす。ディスプレイを操作している。耳元に当てて、

「今いい?」と誰かと通話しはじめた。「すぐに来てほしんだけどさ。いい話があってね」「えっ」「ばか、ちがうって」「ああいや、お菓子はお菓子でほしいけど、おつかいじゃないってば」「そ。お仕事」「ん。まあ、そうな」「うん」「うん」「あい、りょうかい」「じゃあ、三十分ね」「りょうかい」「はい」「はい」「ではでは、よろしくー」

 こちらに向き直り、

「担当の子が来るまで、三十分くらいかかるんだけど、待っててもらえる?」

「へっ……それはどういう」

 野茂石さや、彼女が殺人代行者ではなかったのか。疑問に思ったのでそう訊いた。

「ちがうって」あたしはほら、と彼女は散らかり放題のデスクのうえに、ちょこん、と置かれていた名札をあごで示して、「あたしはほら、この『セカンド・キラー』の社長けん会長サマぜよ」

 おどけたふうに胸を張るのだった。

 彼女一人だけかと思っていた。まさかほかにも業務員がいたとは。

 いや、ここに来るまでは当然、組織的に運営されているものとして想像していた。強引にこの部屋へひっぱりこまれてからその認識を改めた。

 なにせこの部屋、四畳半くらいしかないのだ。

 もっともそれは、歩き回れるスペースが、ということであって、本質的なこの部屋の体積は、小学校の教室くらいはあると思われる。それがこうして種種雑多なガラクタに場所を取られ、囲われ、狭められているために、やたらと窮屈な空間となってしまっている。

 こんな狭っちい場所で、複数の人間が作業することなんてできないだろうし、こうしてたった二人きりでいるだけでも息がつまりそうなほどの圧迫感を覚えてしまうくらいなのだから、きっと彼女一人で切り盛りしているのだろうな、と勝手に結論していた。

 それがどうやら見当ちがいだったらしく、これから私の依頼した仕事を熟す者がやってくるらしい。

 すなわち、殺人代行者。

 人を殺す人を、殺す人。

 その殺人者を待っているあいだ。私は緊張のあまり、「どんな方なんですか」と口を衝いてしまった。こんな質問をしてしまったのでは、びくびく、と臆している私の小心翼々具合があからさまではないか。

「どんなって、ルクちゃんのこと?」あのコはだねえ、と野茂石さやは暢気そのものの口調で、「ぶきっちょで、ぶっちょう面で、不作法な子だわな。あとブサイクそろってたらビンゴなんだけど、天は二物を与えないって、あれホントだよねー」

 これがまたお人形さんみたいな子なんだわ――と、口にした彼女が、「ぐほっ」とおそろしいほど愉快な声をあげて背中をへそのほうに折り曲げた。

 おなかを押さえて、床にひざをつく野茂石さや。彼女のまえには、たった今しがた、疾風のごとく私のよこを、ひゅるり、と駆けぬけたちいさな影が佇んでいる。ひざを折った野茂石さやと同じくらいの背丈だ。その子は、自身の上半身ほどの紙包みを、ひょい、と片手にバランスよく載っけている。

「る、ルクちゃんね」あのさ、と野茂石さやがくるしそうに片ひざを立ててその子を見下ろす。「いきなりこの仕打ちはちょいとひどかないかい」

「ねえ、サヤ。ひとがせっかくこうして十分短縮で駆けつけてやったっていうのに、そのぼくに対して、『お人形さんみたい』って形容は、サヤのいうところの『ちょいとひどかないか』ってやつには当てはまらないのかな」

「言動に対して暴力ってのはいただけないよー。そもそもあたしはワル口で言ったわけじゃないもの」

「暴力に対して言説で応じるって、そっちのほうがどうかしてるとぼくは思うよ」

「くっそー。ルクちゃんの言うとおりだ!」

 悔しがっている野茂石さやにはわるいけれど、その子の反駁は大仰に的を外していると思うのは私だけだろうか。暴力に対して言葉での説得をはかるというのは、褒められてしかるべき対処ではなかろうか。もしかしてここは私がツッコミを入れておくべき場面だったのだろうか、などと逡巡していると、くるり、とその子がこちらを向いた。かぶっていた帽子を脱いで、

「依頼人ってあなたさまですか?」

 両手をひざに添えて、ぺこり、と腰を折った。頭をあげると、

「はじめまして、故々網(ここあみ)ルクと申します」

 にっこり微笑んでくれた。天使の微笑、と名付けて売りだしたいほどに希少価値の高そうな笑みだ。

 な、なんて礼儀ただしい子なのだろう!

 私は感激した。きりりとした目鼻立ち。肩までとどく黒髪。まんまるい瞳は、うんと澄んでいる。きっとブラックホールはこんな具合だ。こんなにかわいい子が私の弟だったらどんなにうれしいだろう、といっしゅん恥知らずな妄想を抱いてしまった。すぐさま、「私はショタコンではないよ。ロリコンかもしれないけれど」と誰にともなく言い訳を念じつつ、いそいでその妄念を振り払った。

「篠田(しのた)理央(りお)です」と名乗り、片手を差しだして、「こちらこそおねがいしますね」と握手を交わす。

「え、あれ?」と野茂石さやがすっとんきょうに目をまんまるくした。「あたしに名乗ってくれた名前とちがくない?」

 だってさっきは、と一時間ほど前に私が詐称した名を口にした。ああしまった、と自分の犯した幼稚な失態を戒めつつ私はすなおに、「あれは偽名ですから」と答えた。

 隠していても仕方がない。今さら隠すような情報とも思われない。

 そもそもここは、私が社会法によって罰せられないようにするための代行業者ではないか。すくなくともプロの違法業者というものは、まっとうな合法企業よりも信用を大事にすると聞いている。むろんその信用というのは、企業と顧客との信用ではなく、企業が属している裏社会での信用だ。つまり、企業評価だ。

 代行業者を名乗っていながらに、その客が逮捕されたとなれば、それだけでその企業の信用は地に落ちたも同然だ。それだけにとどまらず、自らの会社そのものも行政に裁かれかねなくなってしまうのだから、ボロを出した企業は、裏社会そのものから切って捨てられてしまう運命にあるそうだ。

 トカゲのしっぽ切り。

 腐った手足は切り捨てておくのが道理の社会だ。

 そのボロというのがたとえ依頼された枠外の出来事での逮捕・起訴であっても切り捨てられかねないとくれば、どうあっても顧客には潔白のまま過ごしてもらわねばならなくなるだろう。

 それはつまり、裏社会に息衝く者たちというものは、まこと皮肉なことに、表社会の正規企業よりもよほどシビアなルールのなかで生きているらしいということ。

 なぜにそこまでして、死を待つだけの牢獄じみた社会に自ら身を置くのかは私の理解のおよぶ範ちゅうではない。いずれにせよこの店が、殺人代行業を営んでいる以上は、こちらの身の潔白は保証されることになるだろう。個人情報を逆手にとって脅迫してくることもないだろうし、そもそもそんな陳家なことをしでかしてしまう輩は、表と裏、どちらの社会であってもやっていけないだろう。

 すでに規定された基盤のうえでゲームをする場合、裏切らないことが結果的によりよい収益を生むことに繋がる。それがインディビジュアリストとである人類の構築してきた社会における鉄則なのだ。

 いっぽうでは、まだこの店が裏社会の一端を成している以上、裏社会の庇護がこの店にも依然として齎されていると見做してもとくに差し支えないはずだ。

 野茂石さや、彼女だって最低限の道理くらいは弁えているだろう。私の個人情報くらい一滴洩らさず遵守しなければ、いずれ裏社会から見捨てられ、弾かれてしまうことくらい心得ているはずだ。

 そうでなくては、こんな場所でこんな商売、営んでいられるはずもない。どこまでも掴みどころ満載でひとをおちょくったような性格の野茂石さやではあるが、飽くまで彼女もまた、裏社会に息衝くプロなのだ。この緩みきった人格も、油断を誘う擬態かもしれない。

 そうだとも、現に私はこうして目のまえの彼女へ、「害はなさそうだな」などと無害の評価を与えてしまっているではないか。かんぜんに気を抜いていた。今いちど締めなおす。

「偽名だったのかあ」と野茂石さやがおっとりとぼやく。「まあ、名前なんてしょせん記号だしね。だからこの際、あだ名で呼び合うことにしようか」

「え、あだ名?」

「イエース。そうだな。じゃあとりあえず、あたしのことは『サヤぶー』と呼んでくれ」

 いいのか、そんなふざけたあだ名で。

「んでもって」と野茂石さや改め、サヤぶーは、私に肩を抱かれているこの子を見下ろし、「その子はルクぶーと呼んで」とここまで口にした途端にふたたびその場にひざまずいた。「ごふっ!」

 私の目には映らなかったが、またぞろ腹に拳がめり込んだ様子だ。。

「勝手にへんなあだ名つけないで」と叱声を放つこの子を見上げて野茂石さやは控えめに、じゃあ、と訂正した。「じゃあ、ルークでどうよ」

「……それなら、まあ」

 まんざらでもない顔でその子はあだ名を受けいれた。

 このしゅんかん、私はその子を「ルークちゃん」と呼ぶことになった。

 まずいぞ、と私は動揺した。せっかく締めた気が、また綻びはじめてしまっているではないか。なに、初めてサークルに顔を出した新入生みたいな感じで、のほほーん、と悠長に談話なんかしてくさってんだ。

 ここへは殺人を依頼しにきたっていうのに。

 やはり野茂石さやを『サヤぶー』だなんてふざけたあだ名で呼ぶのはやめることにした。

「データは?」とルークちゃんが高圧的に野茂石さやへ手を差しだした。まだ床にお尻をつけている彼女は、ルークちゃんのその手に掴まろうとしたものの、すぐに払われてしまう。ルークちゃんは冷たく見下ろしたまま、

「データは?」

 ちいさく繰りかえした。

 野茂石さやは、よぼよぼ、と立ちあがってメディア端末を取りだした。操作してから、「はい」と差しだす。ルークちゃんもまた自身のメディア端末を取りだして、彼女の端末に近づけた。

 ディスプレイを眺めるとルークちゃんがちいさく声をあげた。「あっ。いま話題の」

 どうやら野茂石さやは、私の話して聞かせた情報をメディア端末にまとめていたようだ。そんな素ぶりなど微塵も窺わせていなかったから、私としては自分がなにか余計なことを口走ってはいなかったか、と不安を抱いてしまう。もっとも、これでハッキリとした。野茂石さや、彼女はやはりプロなのだ。

 ひと通り一読したのか、ふうん、とルークちゃんがかるく唸った。

「まあ、むつかしくはないよね」

「そうだね」と野茂石さやが首肯した。

「これでいくら?」

 へへ、と得意げに彼女が告げた。「五十万円」

「ええっ!?」とルークちゃんが飛び跳ねた。「ごじゅうまんっえんっ!」

 瞠目したままこちらに向きなおって、「そんなにたくさんっ、いいんですか」

 声を弾ませるのだった。

 責められる、と思っていた私はあっけにとられた。きらきら、と瞳をかがやかせているルークちゃん。骨付きカルビをもらえるとしった子犬みたいな表情だ。

「こちらこそ……ほんとうに五十万円でいいんですか?」と畏まってしまう。

「悪党殺してこんなにもらえるんなら、誰だって文句いわないですよ!」ルークちゃんは嬉々として捲くしたてる。「死刑執行する看守さんだって、特別手当は二万円そこらなんですよ、それが五十万円っていったら……えっと……うわあ、二十五倍だぁ」

「ね? いい話だったでしょ」

 ルークちゃんがくやしそうに、「うん」とうなずいた。

 どうしよう。こんなになごなごとした雰囲気なのに、こんなにほほ笑ましい光景なのに、私たちが今話している内容は殺人を代行する値段についてなのだ。なんてさもしい会話なのだろう。この、ふわふわ、としたどこかぬくもりすら感じられる光景はいたって牧歌的であるはずなのに。

 まったく現実味がなかった。そもそも私はこれっぽっちも驚いていないではないか。

 野茂石さやが紹介してくれないからはっきりそうだとは断言できないにしろ、ほぼ間違いないのだろう。この、すこしマセているちいさなルークちゃんが、私の依頼した殺人を、私の代わりに実行してくれるのだ。

 たしかに子どもからすれば高額であるだろう五十万円に、それこそほんとうにただ無邪気なだけの子どもみたいにルークちゃんは目を輝かせて、はしゃいでいる。それがまた私から、殺人の依頼という呵責を取り払いつつある。いや、現に私はこうして自身に言い聞かせていないと、すぐにでも忘れてしまいそうなのだ。

 ――高い買い物をしたなあ。

 その程度の認識に変わってしまいそうだった。

 それがたまらなく許しがたいと思うじぶんがいる。私は私の意思でもって報復をしたい。けれど、私なんかでは報復なんてできるはずもない。相手はただの人間ではない。警察機関をことごとく出しぬいて、毎日殺人を繰りかえしている凶悪犯なのだ。こうして裏社会のプロを雇うことのほかに、私に報復などできるはずもなかった。

 だからこの殺人代行依頼というのは、私の保身のための依頼ではない。

 私はべつに罪を背負いたくないわけではないのだ。殺人鬼に死んでもらえさえすれば、私はこのさきどうなってもいいと思っている。それこそ、私にはもう、生きていく目的がなくなってしまったのだから。私の幸せを――私たちの幸せを――どこぞの馬の骨がすべて奪ってしまったから。

 だからどうしても私はモニカを殺したやつに死んでもらわなければならないのだ。そうでなくては、私は死ぬこともできないから。

 モニカのもとへ行くことも。

 逢いに行くことすらもできないのだから。

「じゃあ、行こっか」

 ふいに手を引かれた。ルークちゃんの手だ。ちいさな、ぬくい、やわらかな手。

「ど、どこへ」

 私は背後にいる野茂石さやを見遣りながらそう問うた。彼女は無責任にもこちらに向けて、ばいばい、と手を振った。「というか、なんで私も?」

 なぜ私まで同行せねばならぬのか、と抗議するいとまもなく事務所(と呼ぶにも抵抗のある、狭っちい空間)を後にした。

 エレベータはこの階に下りたままだった。きっとルークちゃんがここまで来るのに乗ってきたからだろう。そういえばこの雑貨ビル、うえの階はからっぽのテナントだったっけ、と思いだす。不況の余波の痕跡といったふうに、この近辺のビルは、こうして空き部屋が目立っている。それでも見栄えだけはそのままで、夜になれば目にドクドクしいネオンが街を彩っている。

 外へ出るとすでにとっぷりと陽が暮れていた。

 ネオンがやはり目にいたい。

 地上に出てようやくルークちゃんが手を離してくれた。エレベータのなかでもずっと握られっぱなしだった。

「あの……どうして私まで?」とがった口調にならないように気をつけた。

「どうしてって、だって依頼してくれたんですよね? ぼくたちに?」眉をしかめて不安そうに、あれぇ間違ってたらごめんなさい、とルークちゃんがあごを上げて見詰めてくる。

 くっそお、かわええなこの子。

 同性だからか、余計に際立って見えてしまう。子どもの持つ若さは、性別関係なく妖美なのだ。

 児童愛好者ではない私は、抱きしめてあげたいこの衝動を寸前で押しとどめた。

 単純な愛情と倒錯した性欲。

 その差は俯瞰的に観測した場合、区別がつかない。目に入れてもいたくないくらい可愛い、と、食べちゃいたいほどに可愛い。その差はあってなきがごとくだろう。どちらも異常であることに変わりはない。

 愛情を表現するために、目に入れてはいけない。

 性欲を満たしたいからといって、食べてはいけない。

 けれど、大人同士ではそれらが認められるのはなぜなのだろう、と思わないわけではない。

 それでも、それらが許されるのは愛しあっていると合意している男女間でなくてはいけないし、その男女間にしても不特定多数の相手に対して愛情や性欲を向けるのは好ましくないとされている。

 ふしぎなものだな、と思わないわけではない。

 愛は尊いものだと教えられて育った私たちは。

 愛をはぐくむための相手を絶やさぬようにと、性欲が備わっていることを知りえて。

 その性欲は愛情とワンセットで相手にそそぐものなのだよ、と諭され大人になった。

 それはどこまでほんとうなのだろう。

 男から女へと。

 女から男へと。

 母親から赤子へと。

 赤子から異性へと。

 そうして人類は存続できる。それはたしかだ。

 ただそれは、私の教えられた慈愛や敬愛とはちがったものに感じられてならない。

 はたして人類のために私たちは愛しあうのだろうか。

 結果的にそうなるのだとしても、それが目的ではないはずだ。そうでなくては、誰かれ構わず、遺伝子の求めたように、相手を蹂躙して子を産ませても構わなくなってしまう。そんなのは、社会の謳っている「愛」ではない。

 慈しみを持って、相手のために、と望みながら抱く好意こそが「愛」なのだと私はそう解釈している。

 にも拘わらず、この社会は自身で謳っておきながら、その「愛」をことごとく否定している。

 他人に情けをかけなさい、と嘯きながら社会は容赦なく、「知らない人は信じるな」と疑うことを勧めるし、愛しあうことはすばらしいことだ、と称揚しながらも、「同性での恋愛はすべきではない」といった風潮を肯定している。それらの矛盾が、ケースバイケースから派生した例外的な警鐘であると判ってはいるものの、多くの者たちがすでにそれらを、例外的警鐘ではなく、普遍的な常識であると認識してしまっている。

 だからこそ、見知らぬ子どもに愛情を向けてはいけないし、女は男を愛さなければならない。

 赤の他人の善意には裏があると疑い、そうして純粋に向けられた慈愛を蔑にされた者はひどく傷つき、抱いている慈愛を行動へあらわそうとしなくなる。

 究極のところ、この悪循環の根源というものは、裏社会に息衝くような者たちの狡猾で下賤な所業によるものなのだろう。

 誰かが誰かを理不尽に、騙し、傷つけ、突き落し、そうしてこの例外的警鐘を社会に蔓延させはじめた。

 とどのつまり、私がこの可愛らしいルークちゃんを抱きしめようとしないのは、例外的警鐘を鳴らさせているその元凶こそがこの子なのだと、心の片隅では憎々しく思っているからにほかならない。

 庇護してあげたい子どもを抱き寄せることもできない社会をつくったのは、私が抱きしめてあげたいと希求しているこの子そのものにあるのだから。それはだから、この子が私に抱きしめられないのは、この子の自業自得なのだ。ざまあみなさい、と私はむなしく声にださずに毒づいてみせる。ほんとうに、なんてむなしい。

「私が自宅でのほほんとしているあいだに、あなたたちが代行してくれるんじゃなかったのかな」

 素朴な疑問をたしかめるみたいに、これはタンポポでしたっけ、と尋ねるみたいな調子でそう言った。

「……あれ?」

 それはタンポポではなくてスミレだと思ってました、といったような表情を浮かべてルークちゃんは、「復讐ですよね? 見なくていいんですか」

 そいつが死ぬところを、とほわほわと口にするのだった。

 がつん、と殴られたみたいに思考がゆらいだ。今さら言を俟つことなく私がしたいのは報復であって、その決心は確実なことであったというのに、こうして鑑みてみると結局のところそれの意味するものというのは、モニカを殺した殺人鬼の「死」を求めていただけにすぎなくって、報復が完了するまでの過程については、私の意識のなかではからっきしだったのだ。

 それどころか私は、殺人鬼が、苦しみ、もがき、死にいく、情景など見たくなどなかった。そんなもの、見たくなどはないのだと、今こうして具体的に問われたことで自覚した。

 ――見たく、ない。

 けれどその拒絶というのは究極のところ、私の復讐心が、とんでもなく軟弱な決意だったというなによりの証に思われて。そんなふうに突きつけられたくなくって、だから私は「殺したい相手の死に様を見たくない」という意思そのものを見ないことにした。私にとって現在もっとも受け入れがたいものは、私の抱いている最後の願望が、叶えるに値しない薄弱なものであるという、限りなく正しい現実だったから。

 そしてなによりも、私にとってもっとも見たくない光景というものを、私はすでにこの目に焼き付けてしまっている。

 最愛のひとの凄惨な死後を。

 だから今さら、どれほど見たくない情景であろうとも私は受け入れなければならない、受け入れられなくてはおかしい、とそう思った。受け入れたくないと思ってしまっている自分を受け入れるくらいなら私は、受け入れたくないと思っているそんな私を拒絶して、受け入れたくない情景を受けいれることにしよう、とそう思った。

 とどのつまり、報復が遂げられるしゅんかんを、その過程を。姿も、名すら知らぬ殺人鬼の死に様を、私はこの目で見届けよう、とそう望むことにした。

「そうだね。それでいいよ」

 ――見せてくれるかな、きみの仕事ぶりを。

 私はそう頼んだ。同情を抱くべきではない、この世の諸悪の根源、元凶であるところのルークちゃんへ向けて。私はむずがるように響く胸中の渦を押しとどめながら。気づかぬ振りをしようと努めて明るくこう告げた。

「あっけなく殺してみせて」

      ***

 殺人代行の依頼を本日したのには理由がある。

 今日なのだ。

 この都心で、被害者が出るとされている日付が。

 この街に一連の殺人鬼があらわれる予定日が、今日だった。

 できるだけはやく死んでもらいたいと思い、できるだけはやくモニカのもとへ行きたいと思った。逢えるかは判らないけれど、すくなくとも死んでみれば、それが解る。ほんとうに、もう、二度と、モニカには逢えないのだということを。死にさえすれば判るのだ。だから私はなるだけはやくモニカを殺した相手に死んでもらいたかった。私がモニカのもとへ行けるか行けないかを、できるだけはやく、完全に、この身の破滅をとおして確かめたかったから。

 そのために、殺人代行者ができるだけ行動しやすいようにと思慮して、依頼日を今日にした。

 期せずして、私の選んだ代行者は今回の仕事を、楽だ、と評してくれた。きっと殺してくれるのだ。

 今日中に。

 あっけなく。

 モニカを殺した、殺人鬼を。

      ***

 裏社会においてなぜに信用が大切かといえば、裏社会に張り巡っているネットワークが、表社会の比にならないくらいにきめ細かく、深層であるからだという。

 壁に耳あり、障子に目あり。

 どれほど厳重にセュリティを施されたデータであろうとも、裏社会ではその情報が、値段を付加されたうえで流通してしまう。この漏洩の要因としては、ハッキングのプロが跋扈している以上に、セキュリティを構築するプログラマーが、自身のセキュリティの穴を利用して情報を覗いていることのほうが大きいようだ。

 ともあれ、裏社会では、その値段に等しい利益を上納することで、たやすく情報を得ることができるらしい。その上納する利益というのが、貨幣でなくともよい点が、裏社会の特徴のひとつだろう。

 ひたいに銃を突きつけた状態から解放してやる、といった交換条件もルール内の取引と見做される。もっとも、そういった手っとり早い取引というものは、二度とおなじ相手との取引ができないという点で、裏社会においても敬遠されている手段であると聞く。

 そうしてまた、こういった網の目の細かいネットワークがあるからこそ、それらの情報を統括している裏社会という複合体は、表社会に対して優位に立脚していられるのだという。

 つまり、けっして開示されないような表社会の極秘情報も裏社会には多く統合されている。表社会の権力者たちにとって、裏社会の崩壊は、そのままパンドラの箱の解放とおなじことを意味しているのだろう。

 表と裏は密接に相互依存している。

 表は裏が崩壊せぬように。

 裏は表が瓦解せぬように。

 どちらも、現行の体制がゆがむことを恐れている。

 それゆえに、第四次産業、すなわち裏社会の代行業が表社会の行政に裁かれることがない。それ以前に、取り沙汰されることもないという。ともすれば、第四次産業そのものが、表社会の隠蔽しようとしている情報そのものなのかもしれない。いずれにせよ、表社会の権力者たちは、裏社会の住人たちの行う所業のいっさいを隠蔽しようと援助している。

 にも拘らず今回、裏社会の犯行と思しき事件が、表だって報道されている。

 ――列島反復殺人。

 一日ごとに列島を縦断するには、移動手段に、それなりの速度と移動距離が必要となるだろう。なんども乗り継ぎなどしていられないだろうし、なんども停車されては迅速な移動がままならない。となれば、殺人鬼は長距離をスムーズに移動できる交通機関を利用しているはずだ。

 もっとも、単独犯とは限らない。しかしながら、遺体に残されている傷口からすると、どうも同一人物による犯行と考えられることから、複数犯説は否定されている。とはいえ、この否定説そのものが、裏と表、双方の社会による情報操作とも考えられるものの、だとすれば、なぜそもそもこうして事件が表だって騒がれてしまっているかの説明がつかない。即座に報道規制を敷くほうが、そんな迂遠な情報攪乱を工作するよりもよほど容易く、効果的だろう。

 そういった、異質とも呼べる連続殺人について私は漠然とした疑問を抱いている。

 この疑問は、ルークちゃんの解説によってまたたくまに氷解した。

「噂にはなってたんですよね。ぼくら以外の人間が、ちゃっかりリバースを騙って代行業をしているって話。あ、リバースっていうのは、ぼくらのルールが通用する社会。いわゆる、社会の裏にあるシステムのことですね。基本的にぼくらは、社会的には生きていないんですよ。たとえばの話ですけど、亡霊に殺された人間がいたとして、そんな殺人事件が、殺人事件として扱われますか? 話題にはなるかもしれませんけど、報道はされませんよね。それとおなじことなんです。社会的に存在しない存在が罪を犯したって、それは犯罪ではないんです。不慮の事故として扱われておしまいです。そういった理不尽な事象を生みだす影みたいな存在がぼくたちです」

 せかせか、と私のまえを歩くルークちゃんは、ときおりこちらを振りかえり、にこり、と微笑みかけてくれる。そのたびに私は、どきり、としてから、ほんわか、となった。

 まえに向きなおってからルークちゃんは、

「光じゃ、影を殺せないんです」

 ぼそり、とつぶやくのだった。

 かぼそい声だった。身体の内部が、からっぽ、になってしまったくらいにせつない声。私はだから、これ以上からっぽにならないように、ぎゅう、と背後から抱きしめてあげたくなった。でも、してあげない。

 その代わり、「どういう意味だろう」と咀嚼する。ふむふむ。なるほど、よくわからん、と私が咀嚼しているあいだにルークちゃんはさらに続けた。

「そんな亡霊じみたぼくたちなんですけど、それはぼくらが、リバースの一員だからなんです。リバースの一員だから、亡霊として存続していられるんです。一員、とはいうものの、組織ではないですよ。『理不尽な事象』を『合理的な事象』として合意できる者たちの複合体――無秩序が形成する秩序――そういった社会ならざる社会に息衝く烏合の衆なんです。ですから、通常、組織というものは、機能にみあったシステムをになっていますよね。三権分立をはじめとして、政治や医療や教育などの機関。そういったシステム同士が、根強く繋がっています。でも、ぼくらリバースはちがうんです。どこがいつどのように欠けたって、問題ないんです。それはぼくらリバースが組織ではなく、単なる複合体だからです。安直に言ってしまえば、リオさんがたの身を置いている社会が人間の身体だとすれば、ぼくたちは増殖型単細胞――すなわちガン細胞なんです。おなじ種が、増殖しているだけですから、最後の一個体になっても機能しますし、また増殖すれば済んでしまうんです」

「それで? えっとぉ、それが?」

「ですから、リオさんが依頼された案件ですよ。連続殺人の犯人、それっていうのが、リバースではないのに、リバースのふりをして、大量殺人を実行しているんです。もちろん、リバースではないですから、リバースの庇護――つまり、報道規制などの大規模な隠ぺい工作は発動しません。でも、いっぽうでは、こんな大規模な殺人ができているってことは、どこかしらの権力機構に援助されているとも考えられます。そこから推測されるもっとも妥当な結論ですけど――きっと、リバースではない代行業者かぶれに、ご自分の手を汚せないどなたかが騙されて依頼してしまったのでしょうね」

「騙された?」

「はい。ぼくのもってる情報からするとですね。……えっとぉ」ちょっと待ってくださいね、とルークちゃんはメディア端末を覗いた。「えっとぉ、あった、あった。そうそう、まずですね。リバースに属する代行者というのは、社会的には存在しません。そういうことになっているんです。ただそれには主に二種類ありまして、フェイスからの援助のもとに戸籍を抹消してもらっている者と、もとから社会的に存在しない、根っからのリバースの者がいるんです。もっとも、例外的に、試行錯誤して自分で死んだことにしてリバースに属している者もいます。まあ、例外ですね」

「あの、フェイスっていうのは……?」

「あ、すみません。リオさんたちの身を置いている社会、それがフェイスです。いわゆる、表の社会ですね。言ってもぼくからすれば、フェイスのほうが裏って感じがしますけど」

 そういうものなのかな、とルークちゃんたちの視点で私の社会を考えてみた。表があるから裏が生じるのか、それとも裏があるから表が生じるのか。私には判らない。すくなくとも言えることは、影は光があるから生じるわけではないということだ。

 世界はもともと暗いのだ。

 明けない夜はないというが、そもそも宇宙はまっくらだ。

 それでですね、とルークちゃんは本題へ戻った。「それで、リバースはそうした、社会的に存在しない個人の複合体でして、そういった存在しない存在だからこそ、フェイスにおける権力者さん――つまりぼくらの優良顧客ってことになるんですが――その人たちがぼくたちの存在を援助したり匿ってくれたりするわけなんですよ。それは、どこの経済を見ても有り触れた構図ですよね。需要と供給の関係は、一心同体なんですよ。供給されるシステムがあるから需要が生まれて、また逆に、需要がなければさらなる供給はいらないわけです。ここまではわかりますか」

「それは、まあ」と首肯する。

 企業が経営していられるのは、国民に購買力があるからだ。それが不況などの影響で購買力が落ちれば、必然的に、企業の利益も落ち込んでしまう。もっとも近代では、そこに株価という魔法のシステムが介入されているために、そういった利益の下落も、結果的に高利益を得るための布石に成り得るところが巧妙なのだ。私が負けじとこのように講釈振りまくと、「まあ、そちら側から見れば、それくらい簡略化してしまえるのかもしれませんね」と嘲笑されてしまった。ぷっ、と小馬鹿にしたような含み笑いもまた天使みたいだから、私としては抗議しようにもできずに、「くっそー、かわええな」と泣き寝いるほかない。

「ともあれ、そういった相互依存――というよりも、相互援助といった感じなんでしょうけど――そういったシステムがあるので、ぼくたちは暗躍的に代行業を営めるわけなんですよ。ただですね、そのぼくたちリバースの性質を利用しようとして、リバースでもないのに代行業を騙るやからが出てきているらしいんです。ここ数年の話ですね」

「それが、今回の殺人鬼ってこと?」

「でしょうね。ぼくたちリバースのほうでは、そんな任務、誰も承っていないってことくらいは把握していますから。それでも、部分的とはいえ、フェイスから援助を受けているってことは、やっぱり、依頼主さんがニセモノに騙されて依頼してしまったってことでしょうね」そこでルークちゃんは小首を傾げた。「ただ解せないのは、どうしてそのニセモノさんは、お金だけもらって逃げないのかってことです。騙した目的が分からないんですよね。というよりも、騙った目的が分からない。どうしてリバースを騙ったりしたのか。あきらかに不利益しかありませんからね」

 たしかにその通りだ。裏社会の人材を偽っていれば、遠からずそのツケが回ってくるはずだ。単純に殺されるだけならまだマシかもしれない。親族共々皆殺しかもしれないし、拷問のすえに生きたまま解体されるかもしれない。そういった反動(ツケ)を自覚できない者が、表社会の権力者を欺けるとはとうてい思えない。だとすれば、そのニセモノにもなにかしらの目的があるはずだ。身の危険を省みても成し遂げたい目的が。

 ふと、そこで私は、腹のそこから湧きあがる悪寒に、ぞくぞく、と戦慄いた。いっしゅん、脳裡によぎった光景を、脳裡に定着しないうちに振りはらった。私はなにも気づかなかった、と思いこむみたいにして。

 歩きながらルークちゃんがちらりとこちらを振りかえった。どことなく憂え顔に映った。

「ん? なに?」どうしたの、と水を向ける。

「いえ……その、いちおうの確認なんですけど」と言い淀むルークちゃん。言おうかな、黙ってようかな、といった感じだ。歩く速度もゆるんでいる。

「気になるなー、言ってよ」と飽くまでも気さくなふうを装った。そのじつ内心は、いったいなにを問尋されるのだろうか、とびくびくとしている。

「リオさんのお知り合いっていうのは――あっ、殺されたひとのことですよ」

「うん」モニカがどうしたのだろう。

「そのかたって、なにか殺されるまえにいつもと変わったことをしていたり、されていたりしていませんでしたか」

 うーん、そうだねぇ、と冷静を醸しつつ沈思する。すぐに思い当たることがあった。「そういえばね」と私は話して聞かせている。

 葉一(はいち)モニカこと私の大切なひとは、仕事について悩んでいた節があった。もっとも化粧品販売の仕事だと聞いていたので、陰湿なイジメにあっているのかな、と敢えて詮索することもせずにモニカが打ち明けてくるのを待っていた。友人関係や親族関係の愚痴は互いに零しあっていたものの、職場の愚痴はなぜかいっさい聞かなかった。モニカが話さないのだから、と私のほうも職場の愚痴は呑みこんでいた。

 それが、モニカと最後にあった夜のこと、彼女が殺される四日前だ。

「そろそろ仕事、やめようと思って」

 そう、しんみりと零された。

 それまで、できる予定もない子供の名前について、あはは、おほほ、となごなごと話していたものだから私はすぐに二の句が継げなかった。

「いいんじゃない。やめなよ」しばらく考えてから、そう応えた。「けっこんは、まあ、できないだろうけどさ。子供が欲しくなったら養子でももらってさ。三人で、暮らそう。私が養うから」

 ――私のそばに、ずっといればいいじゃん。

 プロポーズのつもりもなく、プロポーズしていた。

 そのときのモニカの泣き顔が、果たして悦びのほころびなのかを私は、未だに確信できないでいる。あのときのモニカは、なぜか儚かった。それがうんときれいだった。きれいで、あまりにもきれいで、そのまま消えてしまいそうなほど、うすく、うすく、せつなかった。

 帰る段になって、モニカが玄関まで見送りに出てくれた。

「仕事、やめてくるね。そしたら、いっしょにいようね」

 四日後に向かいに来て。

 そしたらずっといっしょだよ。

 ずっと、ずぅーっと、いっしょだよ。

 止まりかけた涙の玉をまたほっぺたに転がして、モニカはそう約束しくれた。この翌日、私は婚約指輪を購入した。その三日後、たくさんの蛆と、耐えがたい悪臭に、まみれて、モニカはひとり、腐っていた。

 語り終えた私は身体をななめにして前方を歩くルークちゃんの横顔を、こっそり、と覗きみた。なぜか暗い顔をして、眉根に「うーん」と苦渋のしわを寄せている。

「どうしたの?」

「いえ」

 軽くそれだけ言ってルークちゃんはまた、せかせか、と歩くスピードをあげた。まるで結末を急ぐみたいに。結末にすべての裁断を任せるみたいにして。

      ***

 その男の名は、陶善之(とうぜんの)ムクイといった。国立大の医学部を卒業したのちに、政治家秘書を務めていたらしい。それほどの経歴を持ちながらも、最愛の妻を亡くしたことで癒えることなき傷を心に負い、怨恨の鬼と化した男である。

 こいつに関しての情報を、ルークちゃんは淡々と教えてくれた。私の抱いたこの同情はだから、こいつに対して抱いたものではなく、こいつの境涯に対しての同情にすぎない。

 こいつの妻は、弁護士だった。とある製薬会社が、国に認可されていない原料を用いて、化粧品を精製していたことを糾明していたのだという。

 違法性を証明するための資料を収集していた彼女は、突如として失踪してしまった。訴訟へと移行するのに、あと一歩というところまでの傍証資料が整った矢先の失踪であったという。妻の異常事態をいちはやく察知した男は、すぐさま捜索願いを出した。自身が献身していた政治家にも協力を仰いでみたという。だが奇しくも男は妻の失踪を境に、秘書を解雇されてしまった。名義上は、懲戒免職。その政治家そのものもまた、収賄の嫌疑によって、世論から糾弾されてしまったのである。

 罪に問われなかったものの、男は妻だけでなく社会的地位も、職すらなくなってしまった。

 そんなおりに、東京湾で、腐乱した水死体があがったとの報道がなされた。遺体を確認せずともなんとなしに理解できた。妻は殺されたのだと。事実、遺体は妻のものだった。

 このとき、もしも男が職を失わずに、ただただ無力な自分に苛立っていただけなら、男はその後に殺戮を思い描くことなどなかっただろう。あまつさえ、実行に移すこともなかっただろう。

 しかし男の陥っていた状況は、目に見えぬ恣意的な悪意、の介在を如実に感じさせた。動機なき、妻の失踪。身の覚えのない理不尽な処分。凄惨な水死体。

 妻が味合わされた恐怖を思うと、そのときに抱いた恥辱を、苦痛を、絶望を思うと、やりきれない思いばかりが募った。

 なぜ妻が殺されなくてはならなかったのか。誰が妻を殺したのか。考えるまでもなかった。

 報復をしたかったわけではない。警告をしたかった。

 男は、妻が遺した資料のバックアップを元に、標的を定めた。

 全国的な企業である。子会社も多く抱えている。

 政治的権力は甚大だ。

 それらの権力とわがままに対して、男は明確で的確な警告を発した。

 殺意ある警告を。

 男の妻に、訴訟の準備および調査を依頼していたのは、製薬会社の製品によって体調に異常をきたした全国の個人だった。そして、男を援助していたのもまた、そんな彼らだった。

 依頼主などはいなかった。

 ニセモノなどではなかった。

 裏社会も表社会も関係がなかった。

 男とその妻と、彼女たちを援助する個人の共同体。

 彼らが、とある権力と、とある無秩序を、敵にまわすことなく敵にまわし、警告に値する殺人を繰りかえしていただけのことだったのだ。

 きっと列島反復殺人事件の被害者たちは、製薬会社の違法行為に深く関わっていた者たちだったのだろう。自社の違法行為を知っていながらに――自分の行いが多くの人たちを苦しめているのだと知っていながらに――看過していた者たちを、男はその手で日々殺した。製薬会社の違法行為に、心臓を痛めてしまっていた協力者たちを模して、殺傷後に、遺体の心臓をかならず摘出し、そうすることで警告を誇示した。

 全国にいる多くの協力者の援助のもとで――列島反復殺人を犯しつづけた。

 すべては妻のため。

 妻の、遺志のため。

 死んでも死にきれないだろう妻への慰めと、権力者からの償いを求めて。

「書類を通さない依頼の変更って、ほんとうは禁止されてるんですけど」ルークちゃんはナイフをその男に突き付けたままで、「どうしますか?」

 こちらを向かずにしずかに唱えた。私へ向けて、指示を仰いだ。

 このまま殺すか。やはりやめるか。

 あっけなく殺すか。無慈悲に殺すか。

 男の顔を窺った。

 死への恐怖など微塵もない。濁った眼光には、感情と呼べるゆらぎはなかった。

「あんた、遺族ですか」

 不躾なようで親しみのある口調で男が言った。私は緘黙したまま男を睨んだ。

「僕の殺した誰かの遺族だっていうのなら、文句はないよ」

 そこで男はなぜか、ふふ、と笑みを漏らした。男のまなこに寸毫のゆらぎが宿った。

「僕はただ、返してほしかっただけなんだ」

 ぎりぎり、と。ぐりぐり、と。私の胸があつくよじれた。叫びたい衝動を、私はぐっと堪えていた。こいつに訴えたところでどうしようもない。こいつに訴える言葉など、ありはしない。せめて、うちに湧きあがるこの衝動だけは、こいつに奪われたくはなかった。そとへ晒したくなどなかった。

「こうして、初めて見ましたよ。僕は、こんな人間になっていたんですね」

 男は、じぃ、と私を見詰める。私の瞳に映る、自分を見据えるみたいに。私に映る、自分を憐れむように。

「どうしますか」

 ルークちゃんの声に、はっ、と我にかえる。私はなんだか、私がいったい誰なのかが解らなくなってしまった。私はいったい、誰のために、なんのために、この男に死んでももらいたいと望んでいたのだろう。

 ――ごめん、わからない。

 呟きかけた私の声は、

 ……あいしてたよ、アイ。

 男の懺悔にさえぎられた。

 愛していたよ――。その過去形に、いったいどんな意味が籠められているのか、私には判るような気がした。私が彼を殺すことを、ちょっとでも躊躇ってしまっていた理由が、そこにはあったから。

 男はナイフを取りだして、逆手に握った。そのまま刃先を、ぐい、と胸へ引き寄せた。

 ――自殺。

 だが、その男の身勝手な行為は、ルークちゃんの手によって遮られた。

「いやいや、それはこまるよ」ぼくがこまるよ、とルークちゃんがこちらを振りかえる。「自殺じゃダメなんですよね」

 私はちいさくうなずく。

「依頼内容は、あっけなく殺して。それでよかったんですよね?」

 問われるがままにあごを引く。

「変更は、なし、でいいですね」

 こくこく、と続けて首肯――してから、はた、と気づいた。

「い」

 や、待って。

 手を伸ばしてルークちゃんを制そうとした。

 次のしゅんかんには、男の握っていたナイフは、ルークちゃんの手のうちにあり、なぜだか男は身体の姿勢をそのままに、くたん、と頭をもたげ、男の首はそのまま、がつ、と床に落下して、ごろごろ、と音を立て転がった。

 とろとろと血が切断された首から、のそのそと、どろどろと、ゆっくりとひろがっていく。遅れて、首なき身体が支えをなくしたようによこにくずれた。転がる首の垂らした血だまりを塗りつぶすように、血だまりがさらに膨らむ。

「あっけない?」

 ルークちゃんの屈託のないその声に身体が跳ねた。ルークちゃんはもういちど、

「あっけないって、こんな感じでどうですか?」と言った。「これ以上あっけなく殺すのって、ぼく、どうやっていいのか判らなくって」

 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。

「……なにも、感じないの」

「殺すときにってことですか?」

 沈黙を置くことで肯定を示した。

「そりゃあ、感じないってことはないですけど、とくべつな感情はないですよ。ご飯たべるときとか、おしっこするときとか、そういったのと同じだと思いますけど」

「……殺意とか、も」ないのだろうか。ないのだろう。そうだとも、今のルークちゃんには、人を殺そうとする意思すら感じられなかった。

 自分のナイフを仕舞い、男のナイフだけをその場に投げ棄ててから、ルークちゃんは口にした。こちらの内心に応じるみたいに、ないですよ、と。

「ええ、ないですよ。だってあのひとがぼくに対してなにかしたわけじゃないじゃないですか。抱く理由も、必要すらないですよ」

 だったらどうして、という疑問を私は呑みこんだ。

 関係ないのだろう。殺す理由も動機も関係ないのだ。

 殺人者だから殺す。殺せと命じられたから殺す。それが仕事だから。

 はじめてルークちゃんのことを――この殺人者のことを、気持ちわるい、と思った。人を簡単に殺してしまうからといった嫌悪ではない。

 もしかしたらこのコだったのかもしれないのだ。

 だって、モニカを殺すのは誰だってよかったのだ。

 たった今、死に至ったこの、陶善之ムクイという男。

 この男が自ら行動しなくとも、殺人を代行してくれる者はいるのだから。

 それこそこの男は、私と同じように、このコに依頼していても、まったくおかしくはなかったのだから。

 自分自身の手で実行しなくとも。代行者としてこのコを雇っていれば。私がこうして彼を殺してくれと頼んだように、この男が自身の手ではなくて、このコに依頼していれば。モニカはこのコに殺されていたかもしれないのだ。

 その可能性が、私をしずかな畏怖の底に沈めていく。からっぽの、虚無の底へと。

 私にあったはずの衝動は、このしゅんかん、男の死といっしょに、しずかな傷の底に定着し、結晶した。あたかも、傷が塞がることを阻む楔のように。まっくらなはずの水底で、きらきら、と存在感だけを発している。

      ***

「疲れましたよね、今日のところはいちどご帰宅いただいてけっこうですよ。後日、またウチに支払いに来てください。現金払いだ、って聞いてますけど、そんなふとっぱらでなくともいいですので。ともあれ、待ってます。できれば来週中には来てくださいね」

 ルークちゃんのその申し出に甘えて、足取り覚束なく家へと戻り、くずれるみたいに寝床に就いた。

 死んだように眠った。それこそ、朦朧とした思考で、ああそういえばモニカは仰向けで腐っていたっけな、と思いだし、寝がえりを打った。夢のなかでは、モニカの儚い泣き笑いの顔が、なにかを訴えるみたいにいつまでも、ゆらふら、と浮上したり霞んだりを繰りかえしていた。

 起きたのは正午すぎだった。どんよりとした曇天は、なぜか私の気持ちを落ち着かせた。

 夢だったのだろうか、などとベタなことを考えたが、それから三日経っても、一連の被害者が出たという報道は成されなかった。そもそも最初から、列島反復殺人という一連の情報は歪曲されていたのだ。被害者たちの情報だけが。権力者たちによって。民衆に、被害者たちにある共通点を悟られないために。もちろん、馘首された男の遺体が発見されたという報道もなかった。

 夢ではなかった。なにもかも、夢ではなかった。

 私が夢のなかで、呵責の念に苛んでいたモニカを、ゆらゆら、見続けていたことまでも、夢ではなく、ましてや幻などでもなく、真実に私が目にした、現実であった。

 あの雑貨ビルをふたたび訪れたのが期日ギリギリになってしまったのは、ルークちゃんを恐れていたからでも、あの薄暗い迷路然とした地下通路を忌避していたからでもない。

 単純に、五十万円を支払うのがバカらしくなったからだ。

 かといって、そんなことを正直に言ってしまっては私が殺されてしまいかねない。もっとも今さら死ぬのがいやだとも思わない。ただ、私はなんとなく、ほんとうになんとなく、ふと、疑問に思ったのだ。

 どうして、モニカを殺していたかもしれないあの殺人者には――ルークちゃんには、死んでほしい、と望めないのだろうか、と。

 なににも増して、私はどうしてあの男を、いっしゅんでも赦してしまいそうになったのだろうかと。

 ふしぎでたまらなかった。

 人はいずれかならず死に至る。

 人はいつでも死んでしまう。

 人はいつでも死を抱ける。

 ならば、知ってからでも遅くはない。

 すくなくとも、この疑問を抱いたままでは、モニカに合わせる顔がない。

 息を吸いこみ、吐きだしながら、私はふたたび雑貨ビルへと踏みこんだ。棺に納まるみたいにしてエレベータのなかに入る。「非常階」のボタンを押す。

 人を殺す人を、殺すひと。

 〝彼女たち〟のいる、あの狭き部屋へ。

 私は自ら扉を開け放つ。

「たのもうっ!」 




      ・アフタービート・

 

      ***野茂石さや***

 最初はあたしもさ、びくりしたよね。今にも泣きだしそうな蒼白な女が迷いこんできたぞ、と思ったら、ここが代行業者専用の始末屋だって、知ってるじゃないか。よくもまあ、こんな物騒な場所にひとりできたもんだよね、ってね。感心しちゃったよ。

 そんでその一週間後には、「たのもうっ!」だなんて道場破りよろしく突入してくるんだもんな。

 しかもだよ。

 支払いをしぶるどころか、あたしたちに問題があるだなんてイチャモンつけてきてさ。こりゃ、いよいよ頭のおかしいコじゃないかってね、かわいそうになっちゃった。

 え? ああそうそう。ウチの執行内容が、依頼した意向に合ってなかったらしいんだよね。いや、完全にイチャモンだよ。

 ていうかさ、目のまえで殺人現場みせられて、そんでもってその当事者であるところのあたしらんところに、「おまえらがわるいから、ここで働かせてちょ」だなんて言える?

 ふつうの神経じゃないよ。たとえ思っちゃったとしても、そんなふざけた台詞、ぜったいに言えない。

 あんな狂った逸材、リバースでだって、滅多にお目にかかれないよ。

 まあ、そういう経緯もあってねえ。雇ってみることにしてみたんさ。

 うん、そうね。

 そりゃ、あたしも、「はいそうですか」とはいかないよ。けじめってものはあるでしょ。こちらもプロですからね。舐められたらおしまいだ。もちろんあのコには、こんかいの依頼分の給料はタダ働きしてもらうし、問答無用でお使い係だね。

 そうそう、お使い係専用に雇うんだって言ったら、散々反対してたルクちゃんも承諾してくれたんだっけ。

 まあ、新人だし、あんなんだけどさ。れっきとしたウチの従業員さまなわけですよ。文句があるならお聞きいたしましょ。むしろ、あのコにセクハラしようとした勘違い野郎をブチのめしてやってもいいんだけどね。へへ。あたしはいっこうに構わないんさ。そこんところ、理解しておいてほしいのよ。

 ん? 依頼主にそんな横暴はゆるされない?

 ばかだねおまえさん。依頼主ってのは、ウチが依頼を受け入れるまではただの肉だ。くせえ息吐いて糞垂れ流すだけの腐ったお肉だよ。あまつさえじぶんの手を汚さずに他人を損ないたいってぇクズどもさね。

 それらを駆逐するために、あたしはこの仕事を選んでんだ。

 あたしが気にいらねぇやつは、たとえ神でも依頼主にすらなれねぇよ。

 だからな、今日おまえさんをここに呼びだしたのは、ほかでもない。

 はっきり言わせてもらいますわ。

 つぎに誰か殺そうとしたら、あたしがてめぇの息の根、狩らせていただきます。

 ケツの穴から除草剤つっこんで、それこそ、その肥えたお肉ごと枯らしてやってもいいよ。

 はっは。その笑い方、豚みたい。

 でもね、冗談ではないのよ。あたしはかなり本気だよ。

 えんりょはいらねーよ。どうぞ好きなだけ笑えよ。今みたくさ。

 なあ。わらえよ。

 わらってみせろよ。

 わらえねーのなら、まあいいや。無理して笑ったって、そんなもん、笑ったって言わないもんな。

 さて、と。

 しんみり、としたところであたしが最後の助言ってやつをしてあげる。

 なあ、そこのクズ。

 死なねえつもりで、人、殺そうだなんて――つごう良すぎですよ。

 んでもって、死んでもいいってんなら、ひとりで死ねよ。

 勝手に死ねよ。

 とめやしねーさ。

 あたしはとめねえ。

 むしろおまえの息の根、とめてーからさ。

 そろそろ、自制、きかなくなってきてんだよね。

 さっさとこっから出てってくんない。

 なっ?

 お、に、い、さん。


      ***故々網ルク***

 今からぼくが言うのは、ぜんぶ愚痴ですから。そのすべてがすべて、彼女、シノタ・リオへの不満ですから。

 べつにおこってるわけじゃないんですよ。ただですね、あのひとが来てから、ぼくの仕事、ぜんぶ失敗してるんです。もちろん、殺人代行ですよ。

 うん。そうですね。

 たしかにいままでのは、サヤが依頼を拒絶していたので、もともと依頼を遂行する必要はなかったんですけど。そもそもサヤがちゃんとリオにも知らせておかないから、毎回毎回ぼくがあのひとに振りまわされちゃうんです。それが今回、めずらしくサヤが引き受けた依頼だったんです。もちろん、完了させましたよ。たしかにぼくは依頼にあった標的を殺したんですよ。なのに……リオが余計なことして。

 ああもう!

 思い出したらむしゃくしゃしてきちゃったじゃないですかっ!

 はあ? なんでそうなるんですか?

 今回の一件を教えてくれって? いやですよ。どうしてぼくが、ぼくの失態を話さなきゃならないんですか。

 サヤじゃないんですからね、ぼくは。自虐の趣味なんて持ちあわせてないですけど。

 なに言ってるんですか、酔ってないですよ。

 麦茶で酔うって、バカじゃないですか。バカにしないでください。

 あっ、というかなんでぼくだけ麦茶なんですか!? 子ども扱いしないでくださいって言ってるのに!

 どいつもこいつも、いっつもこうだ。ぼくの背がひくいからって、子ども扱いして。そうやっていじわるするんです。いいですよ。そうやっていじわるするほうが子どもなんです。まったくもって、どいつもこいつも子どもなんですよ。

 ええ、ええ、いいですよ。ぼくは、あなたとはちがうんです。こんなことでひねくれたりしませんもん。

 ええ、いいですよ。そんなに聞きたいっていうなら、ほんとうは言いたくないけど、ぼくは大人ですからね、わがままな子どものあなたに免じて、しょうがなく語ってあげますよ。大人ですからね、ぼくは。

 だからこれはべつに愚痴じゃないですよ。さいしょは愚痴しか話さないつもりでしたけど、でも、これは愚痴じゃないですから。

 だって、どうしてもあなたが聞きたいって。

 そうです。わかればいいんです。

 そうですね、今回は、なかなかに強敵でしたよ。ひさしぶりに、ぼく、両手つかっちゃいましたし。もちろん、きちんと最後は殺したんですけどね。

 殺したんですけど……あのあほリオが。

 ああ、もう!

 はらたつなあッ!

 はいはい、わかりましたよ。ちゃんと話せばいいんですね。さいしょからですか? わがままなひとですねぇ、あなたも。

 めんどうくさーいですけど、ぼくは子どもじゃないですからね。しかたなーく、さいしょから、ちゃんと説明してさしあげますよ。

 そうですね、あれは、リオがサヤのお使いから帰ってきたときでした。あのアホがいっしょに連れ帰ってきた男の子がほったんだったんです……。

 

 【セカンドキラー】END




【テキス〈ト〉ラベラー】


      『ラベル』

「修学」の二文字が付いていながら、それに参加せずとも卒業できてしまえるというのだから、修学旅行というものは、学習という観点から言って、あまり重宝されている行事ではないのだろうな。ぼくはそう思うことにして、さびしい気持ちを打ち消そうと試みているわけであるが、こうしてウジウジと自己肯定の言い訳をこねくり回している時点で、「それ、失敗に終わってるよ」と言われでもしたら、ぐうの音も出ない。

 修学旅行。ぼくはそれに行かない。

 行けないのではなく、行かないのだ。

 断るまでもなく、ぼく以外の二年生は全員行く予定だ。

 ぼくだけが行かない。

 なぜか。

 これを説明するには、修学旅行という行事がほかの行事に類を見ない金額の用意が必須であることを抜きにすれば、要するに、要する必要もないくらいのあからさまな理由によってぼくは修学旅行に行きたくない。端的に、ぼくは仲間外れにされたのだ。

 自由行動をする際のグループ分け。好きな人同士、気の合う者同士、勝手気ままに班を作って良いとされた。ぼくはそこで、体育の時間と同じように、最後まで残ってしまった。ただ、幸いというべきか、余計なお節介とでも非難すべきか、これまた体育の時間と同じように、先生はこう言った。

「おーい。だれかシグレも入れてやれ」

 教師は仲間外れを許さない。だからぼくは毎度のように漏れなく、最後まで取り残されていながらに、いつだって最後には誰かと組み、または、どこかのグループに属することができていた。ぼくは、「先生……!」と声高だかに叫びたかった。「なんて……なんて余計なお節介ッ!」

 どれだけそれが惨めなのかを、どうして教師という人種は察してくれないのだろう。いや、察してくれてはいるが、それくらいの試練は乗り越えられて当然、と思っているのだ。

 教師という生物は、どうしようもなく無慈悲だ。いつまでも分かち合えない別種の生物だと言ってしまいたいけれど、言ってしまうと怒られそうなので、思うだけに留めておく。

 ともあれぼくは、配慮もなにもあったもんじゃない教師の放つ鶴の一声によって、幾つかのグループの牽制と駆け引きの末に、不幸にも、クラスで中心的なグループに入れてもらうことになってしまった。

「よろしくお願いします」

 ぼくは心底ていねいに、それでいて、へりくだって言った。

「まあ、うん」奴らは顔を見合わせて、言葉を濁すだけだった。それからの授業時間は、自由行動の際に辿るルート決めに費やされた。むろん、ぼくの意見など通るはずもないし、そもそも誰もぼくに意見を求めてくれなかった。

 ただ最後に、グループのリーダになった奴(この場合のリーダは、どちらかというとパシリに使われるような、身分的に下っ端の奴なのだけれど、そいつに)、「シグレくんのアドレス、教えてよ」とメディア端末片手に声を掛けられた。

 入学してからはや一年と五カ月。初めて交わされた赤外線通信。ぼくは家族以外の連絡先をこのときになってようやく手に入れた。――が、せっかく獲得した宝物のような連絡先を、悔しさに歯を食いしばりながらすぐに消すはめになろうなどとは、このときの浮かれたぼくが知る由もない。

 件のメールはその日のよるに送られてきた。ディスプレイには昼間学校で登録したばかりの「リーダ」の文字。

 ぼくはひとっつ深呼吸をしてから、ゆるむ頬を引き締められないままで、意気揚々とメールを開いた。

『悪いんだけど、他のグループに移ってくれない』

 文面はこれだけ。メディア端末を持つ手が震えていることに気づいたときにはすでにぼくは返信を打っていた。

 ――わかりました。だいじょうぶです。

 ――今日だけでも、入れてくれてありがとうでした。

 強情を張っていた。無意識のうちからの虚栄だった。自己防衛と言い換えれば妥当かもしれない。ぼくは危うく瀕死の傷心を負うところだったのだ。ぼくは精いっぱいの虚栄を文面に載せることで、間一髪、それを回避した。

 彼(というよりも彼ら)は、明らかにぼくを省こうとしている。ただし、そのことに少しばかりの引け目を感じているふうでもある。その証拠に、こうしてメールという間接的な方法でもって、しかも迂遠な文面で(やんわりとではないものの)ぼくに宣告してきている。

 おまえと一緒なのは嫌だから、ほかをあたってくれ――と。

 しかたないと思う。高校生活での一大イベントである修学旅行くらい、異分子を交えないで純粋に、親しい者同士だけで思い出をつくりたいだろうし、精いっぱい気兼ねなく楽しみたいだろう。それが分からなくなるほどぼくはまだ孤独に馴染みきってはいない。

 できるだけぼくも、彼らに対して真摯に接してあげたいと思った。引け目なんて感じなくていいんだよ。キミたちはキミたちだけで楽しむのが一番だとぼくも思うよ。ぼくはそうやって彼らの意思を酌んで、尊重してあげたいと思った。

 だから、ぼくの賢明の自己防衛がふんだんにちりばめられた決死の返信文が、宛先エラーとなって返ってきたのには、しょうじき、視界が真っ暗になるくらいの、衝撃とも愕然ともつかない戸惑いを受けた。

 ――着信拒否。

 滅多に他人とメールのやり取りをしないぼくであっても、それが、デジタルコミュニケートにおける強制排除、全面拒絶の意思を具現化したシステムであることを知らないわけではなかった。

 ぼくは大きな勘違いをしていた。相手には、こちらに対する引け目など、これっぱかしもなかったのだ。根源からの拒絶の意思をはっきりと反映できるという利点があるからメールを用いただけだったのだ。

 この時点でぼくはもう、「修学旅行になど、死んでも行ってあげない!」という気分になっていた。行ったとしても惨めになるだけだと確定されたこの瞬間において、「だったら同じように惨めでも、お金が掛からないだけ、行かないほうがましだ」と思わないほうが不自然だ。

 ぼくは至ってふつうの結論を導いただけだ。この結論に異論を唱えるやつがいたら、ぼくはそいつを人間だと見做さない。おそらくそいつは教師と同等のレベルで種族の異なる生物だと言ってしまいたい――が、言ってしまうと怒られそうなので、ここでも思うだけに留めておく。

「お母さん。ぼく、修学旅行に行かないことにした」

 メールが届いた三日後、ぼくは母親にそう告げた。三日という時間的猶予を挟んだ理由をいくつか挙げつらねることは可能だが、そのうちでもっとも他人に知られたくない理由としては、思いのほかぼくの負った傷が大きかったからにほかならない。

「どうして行かないの」

 食器を洗いながら母はそうとだけ訊きかえした。こちらを振り向かずに淡々と受け答えした母の背中はどこまでも穏やかだった。ぼくの突飛な宣言に平常を乱すようなことはなかった。

「行きたくないから……じゃ、ダメかな」ぼくは漠然と答えた。それでも母は、食器洗いの手を止めることなく、「後悔しない?」とだけ確認した。

「しないよ」間髪容れずに母の背中に投げ返した。修学旅行になんか死んでも行きたくないんだよ、と強い決意を滲ませるようにして。

「なら、行かない理由、ちゃんと考えておきなさいね」

 どこか冗談めかした口調で母は言った。付け加えるようにして、「そろそろあの箱も処分するならするで、はっきりしてくださいね」部屋が狭いでしょ、と茶化すのだった。ぼくの部屋に置いてある、本の仕舞われている箱のことだ。まだ捨てないよ、とぼくはちいさく返した。

 修学旅行に行かない場合、学校に対して、「不参加申請書」が必要なことを母はきちんと知っていた。修学旅行では、多くの生徒が一つの団体として予約するために、欠席というのは、基本的に認められない。認められたとしても、それまで積み立てられていた修学旅費の全額は返ってこない。キャンセル料を取られるのだ。だから、当初ぼくが見繕っていた、「行って惨めになるくらいなら、行かないで惨めになったほうが、お金を無駄にせずに済む」という自己弁護は、大きく的を外していると指弾されでもしたら、ぼくには反論する余地もない。修学旅行に行けば、それがどれほど惨めな旅路になろうとも、旅費として活用されることになる。でも、ぼくが行かないことで、その旅費の幾らかは、キャンセル料として、なに物に代替されることなく消え失せるのだ。それこそ、ドブに捨てるようなものだ。

 母さんはそれを承知でぼくのわがままを聞きいれてくれた。ぼくには母のこの無頓着とも鷹揚ともとれる寛大さがちょっとふしぎだった。

 学校のほうには、「コンテストが近いので」という名目を用意した。ぼくは趣味で絵を描いていて、去年と今年の夏、二つのコンテストで入賞を果たしている。今年の秋にも大きなコンテストがあって、そこに応募する作品づくりに集中するため、修学旅行にはいけない、という理由をでっちあげた。もっとも、修学旅行に行かないくらいで完成しないようじゃ、そもそもその程度の作品でしかない、とも言える。ただ、修学旅行に参加してしまうと、四日分の作成時間を削られるというのも事実だった。

 修学旅行には行かない、と母に告げてからさらに三日後。学校から提出するようにと渡されていた不参加申請書を先生に差しだした。先生は納得いかない様子で、

「本当にいいのか? 親御さんとはちゃんと話しあったのか?」

 煮え切らない言葉を繰りかえし、なかなか受理してくれなかった。それでもこうして親の許可を得ている以上、教師のほうに行事参加を強制する権力などはないわけで、最後はしぶしぶ折れてくれた。

「先生、シグレと京都まわるの楽しみにしてたんだけどな」

 なんて厭味な捨て台詞を吐いてくれるのだろう。これだからお節介焼きがやさしいことだと誤解している人種は厄介なのだ。

 ――ぼくは楽しみじゃないです、ぜんぜん。

 言いかえしてやりたかったけれど、そこまでぼくはこの先生のことが嫌いではなかったし、むしろお節介を焼いてくれるだけ、ぼくに関心を寄せてくれているということでもあるのだから、少なくともぼくはこの先生に感謝すべきなのだろうと思いなおして、「ありがとうございます」とだけ口にした。先生はうなじをぽりぽりと掻いた。

      ◎

 修学旅行に参加せずとも、その期間は出席すべき日であることに変わりはなく、だからぼくは皆が京都で思い出づくりに勤しんでいる一方で、出席日数を確保すべく、独り虚しい登校を余儀なくされた。

 ぼくは学校に残ったゆいいつの二年生として図書室で過ごすことになった。二年生のいない校舎はひと際しずかだ。特にこれといった課題は出されなかったけれど、日中のほとんどを自習時間とされるというのも、なかなかに辛いものがある。家に帰っても許されるというなら、絵画の制作に着手できるというのに、こうして校舎に軟禁されてしまっては、それこそ手も足も出ない。汚れたり破れたりなどしたら目も当てられないので、画材や、作品の書きこまれた大切なカンバスを学校へ運ぶなんてことはできない。

 修学旅行の日程は、四泊五日。通常授業のまるまる一週間分を関西で過ごす。去年の先輩方は沖縄だったけれど、今年はアンケートの結果、旅行先は関西となった。皆、「大自然」だとか「より遠くの土地」だとかへの興味は薄く、でき得る限り煌びやかな都会で、でき得る限りお洒落な場所で思い出をつくりたがっていた。ぼくには同意し兼ねる主張だった。そういったところでもぼくは、「やっぱりみんなとは、分かち合えないのだな」「人種が違うのだな」とナルシシズムにどっぷりつかっている厭世家みたいに内心で嘆いていた。

      ◎

 二年生を受けもつ教員のほとんどが修学旅行の付き添いで校舎から消えてしまっていたので、ぼくの出席確認をするのは図書室の司書さんの役目となった。

「あら。ほんとに行かなかったの?」

 司書さんは臆面もなくぼくに言った。「そっかぁ。せっかくだったのにね。まあ、これも良い思い出なのかな」

 良い思い出なわけがなかった。そもそもぼくは図書室が苦手なのだ。いや、図書室が、というよりも、本が苦手だ、と言ったほうがしっくりくる。こうしてたくさんの本たちに囲まれていると、居たたまれないきもちになってくる。

 ことのほか司書さんが飄々と接してくれたのには、しょうじき、救われた思いがあった。曇りっぱなしの空に、からりと渇いた風が吹いて、太陽の光が雲間からこぼれるようにして差しこんだような、どこか晴れやかな心持ちだ。もしかしたらぼくはどこかで、自分の選んだこの修学旅行不参加という選択に、後ろめたい所感を抱いていたのかもしれない。

 ――後悔しない?

 母の言葉が耳に残っている。

      ◎

 司書さんの人物像はなぞに包まれている。隠しているわけでもないのに、彼女の本名を知っている生徒はごく少数で、年齢も不詳だ。とにかく若々しい。数年前にこの高校を卒業した教育実習生が、司書さんを見かけて、「え、まだいたの!?」と目を剥いていた(むしろ再会に感動していた)という話を鑑みるに、おそらく三十歳は越えているはずだ。いっぽうで見た目はどう窺っても二十歳そこらのお姉さまなのだから、その類まれなる美貌は、世の男どもをさぞかしたぶらかしておられるのだろう、と下賤な想像を掻き立てられるのも詮無きことだとぼくは思う。ふしぎなことに、司書さんにはそういった浮いた話がなにひとつ囁かれなかった。

 生徒たちからの人気は高いほうではあったけれど、それは、精神カウンセラーだとか、保健室の先生だとかが慕われるような、そういった心の安らぎを得られるという意味合いでの評価だった。本気で司書さんに恋慕の念を募らせている男子生徒は、ぼくの知る限り、一人もいない。ゆえに、女子生徒たちからの陰湿な嫉妬を買うこともないわけで、司書さんは男女分け隔てなく、全学年の生徒たちから慕われている。一種、愛嬌のあるペットとして見做されている感じがしないでもなかった。

「あ、今日の二時間目ね、三年生の子たちが来て、ここ使うみたいなの。でも、気にしないで、いていいからね」

 初日に交わした司書さんとの会話は、およそこんなものだった。三年生たちが調べ物をするために、図書室に来るというもので、気にするな、と言われて気にしないで済むのなら、この世から恥じという感情は概ね撲滅できるだろう。ぼくは大いに気を揉んだ。

 上履きや、名札の色を見れば、それが何年生であるのかを認識するのに不足はない。図書室に足を踏み入れた三年生たちは、あまねくこう思うことだろう。

 ――どうしてここに二年生が?

 本来いるべきはずのない生徒、修学旅行真っただ中の二年生がなぜこんなひっそりとした図書室で、こっそりと生息しているのか。ぼくだって聞きたい。どうしてぼくはこんな場所で青春の無駄遣いをしているのですか、と。

 一時間目終了の予鈴が鳴るまでのあいだ、ぼくは、「火の鳥」を片手に、青春とは何ぞや、といった哲学的なようでいてべつに深くもなんともないことを、ほげー、と口を半開きにして考えていた。

 二時間目の予鈴が鳴るころになると、ぽつり、ぽつり、と三年生がやってきた。どうやら、調べ物をしたいひとだけが図書室に移動してよい、と指示されているらしい。二時間目を過ぎても、三年生の往来は止まらなかった。

 この学校の図書室は、無駄に広い。部屋を割くようにして無数の本棚が迷路のように設置されている。部屋の真ん中が読書スペースだ。長テーブルが並べられているだけの、質素な座席で、ぼくはだから三年生たちの邪魔にならないようにと、端っこのほうに移動していた。ただ、どこにいようとも目立ってしまうようで、ひそひそ然とした三年生たちの好奇心旺盛な会話は、「静粛」が合言葉の図書室においては、井戸端会議なみに甲高く響いて、聞こえてくる。

「なんでいんの?」「さあ。行かなかったんじゃない」

「いじめ?」「あー、そうかも」

「可哀想じゃね」「可哀想だね」

「声、かけてやんなよ」「は? あたしが? なんで? というか、なんて?」

「んー。なんてだろ? むつかちいね」「ふむ。むつかちいね」

 泣きたくなるからやめてほしい。そろそろ聞こえない振りをするのも至難になってきた。

「おしゃべりするなら、閉めだしちゃいますよ」司書さんが腕に山盛りたくさん本を抱いて、ひょっこり、本棚の奥から顔を覗かせた。「ここは図書室です。しずかにしましょーね」

 はーい、と聞き分けよく三年生女子たちは返事をした。ぼくは司書さんの叱声に感謝しつつも、司書さんの人望と、三年生女子たちの会話に、遅まきながら、ほっこりとした。彼女たちはぼくを心配してくれている。ぼくはそう思い直すことができた。

      ◎

 ぼくが彼女に声を掛けられたのは、二日目の昼休みのことだった。三年生が占拠する食堂の売店から、辛うじてカツ丼を確保すると、そのまま誰もない二年生フロア、じぶんの教室へと向かった。

 がらんどうの教室に独りぽつねんと座っているという構図は、それを俯瞰的に眺められないぼくであっても、幾分かさびしく感じられてしまって、だからぼくはいそいそと教室から出て、今しがた上ってきたばかりの階段の端っこに腰かけた。

 普段は、反対校舎にある、誰も通らないような階段で昼食をとっていたぼくなのだけれど、このフロアには現状ぼくしかいないわけで、わざわざ移動せずとも通行人の妨げになることはない。場所は違えども、階段のうえというだけでしっくりくる。

 三年生たちの多くはエレベータを使用するので、この階より上にあるフロアに行くのに、この階段を使うことはない。

 だから本来ここを通る者はいないはずだった。

「シグレくん、だっけ? 今週ずっと図書室通い?」

 ひざのうえに載せられたカツ丼を覗きこむような格好で、彼女はぼくの背後に立っていた。「おいしいの、それ?」

 質問が飛んだ。ぼくはいったいどちらの問いに答えればよいのだろう。

 ――そもそもこのコはだれなんだ。

 ふつうの人間はそうやって思考するらしいのだけれど、万年へたれのぼくは、無様に赤面した顔を伏せ、

「そ、そうです……図書室通いで、おいしいです」

 もごもごと反射的に応じた。

 くふふ、と喉を鳴らして彼女は、断りもなくぼくの隣に腰をおろした。両の手のひらにあごを載せ、頬杖をつき、こちらを覗きこんでくる。ぼくは彼女の視線をじりじりと頬に感じながらも、情けないことに、彼女へ顔を向けることができなかった。

「そっか、そっか。ふうん」

 やけに人懐っこく彼女はふかぶか頷いた。意味深長にすぎる。そもそもだから、彼女はいったいだれなのだ。遅れること数十秒。ぼくはようやく一般的な疑問を思い浮かべた。

 彼女は制服ではなかった。くるぶしまで届くワンピースの上からベストを羽織っている。この学校には私服登校の許可という、市内でも珍しい校風があった。ただし、制服がないわけではなく、多くの生徒は制服で過ごしている。制服はひとつのトレンドである、ステータスである、という若者たちの共通思想が根強いのだ。また、私服に配る気や、費やすお金などを考慮すればこその制服、という意見も少なくないようだった。男子生徒の多くがそれを理由に制服を選んでいると言っていいくらいで、ぼくもそのうちの一人だ。

 私服の生徒がいないというわけでもないけれど、目立つ存在であることは間違いない。そう、だからこうして彼女が私服であることは不自然ではないにしろ、彼女に見覚えがないというのは多少なりともひっかかるものがある。ただそれも、学年が違うから、というだけのことかもしれないし、これまでは制服で、今日たまたま私服を着てきただけかもしれない。そういう生徒も希にいる。衣替えの時期などは、クリーニングの関係で、特に多い。そして今がその時期だった。夏服から冬服への移行期間。季節は秋。修学旅行真っただ中の季節。みんなは京都で八ツ橋をたらふく頬張っているにちがいない。悔しいことにぼくは八ツ橋が大好きだ。あの甘くておいしい皮が好きなのだ。

 同級生たちへの妬みでイライラしてきたぼくは、無理やり思考を曲げることにした。

 こっそり彼女を睥睨する。

 盗み見るようにして観察した。

 肩まで伸びる髪の毛は、一本一本がとても細くて、液体みたいな滑らかさがある。染めているわけでもなさそうなのに、この薄暗い階段であっても、微かに光沢が浮かんで見える。前髪も長いようで、おでこの真ん中でサイドに分けられている。雰囲気はお姉さんっぽいのに、顔は童顔だ。おめめがぱっちりしているからかもしれない。ほっぺたも下膨れみたいにぷっくりしていて、思わず指で突つきたくなる。いったい彼女は何年生なのだろう。ぼくはそれを、純粋な好奇心として抱いた。

 まず二年生ではないだろう。ぼくのほかに修学旅行を辞退した生徒はいない。だとすれば、三年生か一年生ということになるのだが、一年生にしては、いささか礼儀に欠ける。とは言え、ぼくごときにかける礼儀など、どんな人間であっても持つべきではないし、もっと言ってしまえば本来、きょうここに二年生がいるはずもないのだから、彼女がぼくのことを同学年の生徒だと思いこんでしまっていたとしてもふしぎではない。ただ、二年生がいなくとも三年生はいるわけで、そこから考えられ得る推測としては、彼女が三年生である可能性と、彼女が一年生で、けれどぼくのこともまた一年生だと思いこんでしまったという可能性。傷つくことを覚悟して白状すれば、おそらくぼくの外見というのは一見して、三年生ではないと分かるくらいに覇気のない、みすぼらしい容姿である。ともすると、万年下級生……、百年経っても上級生になれないくらいの未熟者であるのかもしれない。そうだとも。「修学」を謳う一大イベントである旅行などに、万年下級生である未熟者のぼくが参加してよいはずもない。ましてや、参加を許されることなどありえないのだ。したがってぼくは修学旅行に行けなかったのだ。ああ……。認めたい事実が忽然と目のまえに突きつけられた敗北感がある。ぼくは修学旅行に参加しなかったのではない。行きたくとも、行けなかったのだ。

 はは。ふざけるな。

 ぼくは立ち上がる。急激に奔騰した怒りを理不尽に彼女へ向けた。

「修学旅行にも行けないハブかれ者、それがぼくだいっ!」

 なにか文句あるか、と続けて叫びたかった。

 だが叫べないぼくがいた。文句ならたんまりとあった。自分自身への文句がたんまりと。

 泣きたい。ぼくは無性に泣きたかった。

「よしよし。さびしかったんだね」彼女はぼくの頭を撫でた。「泣くといいさ。うんとたくさん、泣くといいさ」

 背伸びをしている彼女のつま先に、ぱつん、としずくが弾けるのをぼくは見た。それはぼくの目元から連続して、とたん、とたん、と垂直落下していた。情けないことにぼくは、見も知らぬ、初対面の女の子に慰められ、無様に嗚咽していた。堪えられなかった。ほこりを払うようなやさしい手つきでぼくの頭に触れてくれる彼女の、そのやさしさが。

 ぼくにある懊悩のいっさいに同情しようともせずに彼女はぼくを、ただ無条件に受け入れてくれている、認めてくれている。そんな彼女のぬくもりが如実に感じられた。

 彼女はぼくの味方だった。拒絶せず、否定せず、ぼくがぼくであるというただそれだけの理由で包容してくれる、その無責任なほどのやさしさに、ぼくは、ぼくを〈ぼく〉として支えていたそれまでの矜持や虚栄を――自己肯定を、こっぱみじんに打ち砕かれた。むしろ途中からは、自らかなぐり捨てていた。

「そんなにくるしかったのなら、そうやって叫んじゃえばよかったのに」

 彼女はおかしそうに、それでいて少し呆れたように言うのだった。虚仮にするでもなく、嘲笑するでもなく、「どうしてそうしなかったのかなぁ、もう」と一種不貞腐れているような柔らかさがあった。

 ぼくからしてみれば、ずいぶんと簡単に言ってくれる、と思ってしまう。彼女の朗らかさと明るさに心地よさを感じつつもぼくは言いかえしたかった。

 ぼくは苦しかったのだ。みんなから興味を注いでもらえなくって、みんなから蔑ろにされて、ついには修学旅行のグループにもハブかれて。ぼくはすごく傷ついたし、とても悲しかった。それというのは彼女の言うように、苦しみの伴う孤独だった。

 でも、どうしたって苦しみたくないぼくは、そんなのは苦しくないんだよ、と自分に言い聞かすしかなかった。そうして思いこむこと以外にぼくは、自分に同情しないで済む方法を知らなかった。知らなかったぼくはだから、必死に自分を肯定した。必死に自分の境遇を肯定した。

 これは自分で選んだ道なんだ。ぼくは孤独が好きなんだ。ぼくはみんなとは違う生き物だから、人種が違うから、分かち合うことなんてできないから、ぼくはぼくのために、勇んで孤高を突き進んだ。そう信じこまないとぼくは、そうやって自らを肯定しないとぼくは、すぐにでも理不尽な憎悪に押しつぶされてしまいそうだったから。

 ぼくはみんなが嫌いだった。ぼくはみんなが憎らしかった。

 でもほんとうはみんなと仲良くしたかったし、みんなが笑い合う輪のなかに加わりたかった。

「そっか。えらかったね。がんばったね」

 彼女はまるでぼくの過去を知っているかのように、ぼくの葛藤を共有するみたいに、ささやいた。

「シグレはさ。きみは、みんなのことが好きなんだね。好きだから傷ついたし、好きだから悲しかった。そうなんだよね」

 目頭が熱くなる。やめてほしい。胸の奥が、内側へ向かって、ぎゅう、ぎゅう、と縮こまる。じんわり、と滲む視界はまるでぼくを覆っていた殻に、細かいヒビが縦横無尽に走ったようだった。ぼくは涙も鼻水もじゅるじゅると垂れ流したままで、拭いもせず、すすりもせずに、「うん、うん」と頷いていた。

 彼女はぼくが泣きやむまで、ぼくの頭を撫でつづけた。つま先立ちの背伸びを維持したままで。無防備になってすっかり崩れてしまいそうになっていたぼくのあたまを抱え込むようにして、そのちいさな身体で、ずっと支えてくれていた。

 これがぼくの憶えている、彼女との出会い。

 ぼくのことを一方的に知っていた、ツヅリとの出会いだった。

      ◎

「わたし、ツヅリ。呼び捨てでいいからね」

 去り際に彼女は、なんてことないような調子で名乗った。「あとは、そうだな。いろいろ話したいこととかあったけど、うーん。まあ、おいおいでいっか」

 じゃーね、とツヅリが手を振りながら爽やかに去ったのと同時に、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。ぼくは階段から彼女のうしろ姿を眺めていた。ツヅリが制服であったなら、この角度的にパンツが見えただろうな、とそんなことを考えていたぼくを誰が責められるだろうか。否、誰も責められはしない。

 閑話休題。

 ツヅリはいつも突然ぼくの背後に現れた。突然に現れ、そして忽然と姿を眩ませた。

 登校してからのぼくの行動は規則的かつ限定的で、昼食をとるとき以外は図書室の片隅で、漫画を読んだり、デッサンを描き連ねたり、次回以降の絵画コンテスト用図案を考えたりしていた。

 ツヅリの出没にはいくつか規則性らしきものがあった。まず、登校してからすぐに会いに来てくれることはない。だいたいが、昼休みちかくに現れる。

 ツヅリと出会った翌日のこと。恒例のごとく人通りのない階段でぼくはカツ丼を頬張っていた。

「いいなぁ。おいしそう」

 よだれを、じゅるり、と啜ってツヅリがぼくの背中にのしかかってきた。背中に押しつけられるほど、彼女の肉体的発育具合は芳しくないとはいえ、女の子にこうして身体を密着されるというのは、万年へたれ、ひとの温もりを常に渇望しているぼくにとって、いささか過剰すぎる刺激だった。

「やめろよ」ぼくは心にもないことを言う。

 恥じらいと、焦りと、動揺がぼくにかような自家撞着に満ちた発言をさせるのだ。

「なにさ。やめてほしくないくせに」ほんとうはうれしいくせに、とツヅリは歯を剥いた。「いーだ。シグレのあまのじゃく!」

 強引にぼくのカツ丼を奪うと、ぺろり、と平らげてしまった。不平を鳴らす暇さえない。

「なにすんだよ、それ、ぼくの!」

「知ってるよ! こんなおいちいの、独り占めなんてズルイ!」

「自分で買って食べればいいだろ」

「それができたら苦労しないよ!」

 目に涙を溜めてツヅリはぼくのほっぺたをつねってくる。「わたしに食べられたくなかったら、明日からはわたしの分まで買ってくることだね」

 ふん、となぜか勝ち誇った表情を浮かべてツヅリは去っていった。昨日出会ったばかりの女の子になにゆえこのような辱めを受けなくてはならぬのか。どうしてぼくは彼女の分の昼食まで買わねばならぬのか。つねられたほっぺをスリスリ撫でつけてぼくは、おてんばと言うにはちょいと破天荒すぎる彼女の性格に、すっかり面喰っていた。

 ツヅリの主張にはいっさいの合理性などはなかった。論理性だってない。そんな理不尽極まりない彼女の言うことなど聞き入れる必要はぼくにはこれっぱかしもない。

 だのにぼくは翌日も、同じ場所でカツ丼を食していた。ぼくのよこには、もうひとつ、お代わり用のカツ丼が置いてある。

 今日はちょっとお腹が空いていただけだし。たまたま二つ買ってみただけだし。

 自分に対してぼくは言い訳がましく言い聞かせる。

「うわー、これ、わたしの?」

 目を輝かせたツヅリが、勢いよく背中に飛び乗ってくる。振り向いた瞬間の容赦ない突進だった。ここが階段の上部であることをもう少し弁えてほしい。突き落されていてもおかしくはなかった。それでもぼくが無事なのは、ツヅリの体躯が一般的な高校生よりもはるかに小さいためだ。小さいとは言っても、幼い、というのとはちょいと違う。ツヅリはどこか、小人のようだった。スモールライトで人間を一回り小さくしたような、小柄さだった。体重も、おどろくほど軽い。彼女の突進など、それこそ、ティンカーベルが体当たりしてきたようなものだ。

「食べたいの?」白々しくぼくは投げかける。「なら、お裾分けしてくれませんでしょうか、くらい言おうよ」

「いいじゃんか。二つもあるんだし」

 ひょい、と奪い取ると彼女はやはり、ぺろり、と平らげた。なぜか彼女の食したカツ丼は、ぼくの食べかけのほうだった。

 せっかくきみの分も用意してきたのに、とここでも彼女の奇行に当惑してしまう。お礼の言葉もないことに不満を抱くことも忘れていた。

「ふう。うまい」うしろに手をついて、ふひゃー、と彼女は姿勢を崩した。こちらに視線を向け、「ノド渇いちったなぁ。いしし」

 なんでしょう。その物欲しそうな顔は。

「ないよ」彼女から乞われる前にぼくは、「飲み物なんて、ないよ」

「なんでないのさ!」それでもおまえは人間か、と彼女は喚いた。「カツ丼のあとは、お茶で一服だろ。なんでそんなことも知らないの!」

 知らないし、分からない。自分ルールを一般化できてしまえるひとの神経のほうがぼくには分からなかった。うるさいなぁ、と仰々しく耳をふさぐ。「だいたい、きみね、なんなのさ」

「なんなのさ、とは、なんなのさ」

「どうしてぼくに付き纏うの。もしかして、罰ゲームかなにか? だったらもういいでしょ。充分きみは罰を受けてる。戻って友達に報告してきなよ。すごく不気味で、すごく不快でしたって」

 拗ねた口調にならないように気を張ってぼくは言った。それでも我知らず、彼女の顔から目を逸らしている。

「罰ゲーム? ん、ん? よくわからないけど。あのね、わたしがシグレに構うのは、ちょっち頼みごとがあったからだよ」

「頼みごと? なんでぼく? というよりも、どんな内容?」冷静を意識して、ややシニカルな口調になっているぼくではあるけれど、実を言えば、彼女がぼくに嫌々会いに来ていたわけではないと知れて安堵しているぼくである。「頼みごとなんてされても、期待に応えられないかもよ」

 ふふん、とツヅリは頬を緩めた。ぐい、とひとさしゆびを突きつけて、「それは」と詰め寄り、「やってみれば」と床に置いてあるもうひとつのカツ丼を手に取って、「わかることです」とそそくさと蓋を空けた。

 かんぜんに気圧されていたぼくは、彼女がすっかり食べきってしまうまで、彼女の見事な食べっぷりをただただ呆然自失と眺めていた。

「ぷぅ。ごちそうさまでした」

 満足そうなツヅリが一息ついたところでぼくはようやく我に返った。

「なんで食べちゃうんだよ!」

「なんでって、だってこれ」とふしぎそうな顔で彼女は、「わたしんために用意してくれたやつでしょ?」

「そうだけど!」ぼくはとってもじれったい。「そうだけど、でも、きみはさっき食べたじゃないかっ」

「意味わかんない」

 なぜそこで膨れ面をする。憎たらしいほど可愛らしい。昨日だってぼくは昼食抜きだったのだ。それがどうだ、今日は彼女の分まで――しかも言われた通り――カツ丼を用意してあげていたというのに、またしてもぼくは昼食抜きではないか。ぼくは半べそを掻きつつ、そう非難した。

「そんなにぼくをイジメて楽しいかっ」

「イジメてないよ? なに言ってんの」

「イジメだよ! これはどっからどう見たってイジメだよ!」

「じゃあ、イジメかも」

 笑う彼女は無邪気だった。ぼくは折れた。なにを言っても暖簾に腕押し、ぬかに釘。ぼくひとりだけがいきり立っている。そんなの虚しいだけじゃないか。

 ツヅリはこうしてぼくをおちょくるみたいに、最初の三日間は、お昼時に現れた。ぼくはだから、この修学旅行の期間だけは、孤独に食事をとることなく、ひと際騒がしく、それでいて、腹立たしく――つまりはだから、

 ――お昼ごはんを食べられなかった。

 そうだとも、ぼくはツヅリのせいで、二日間、昼食抜きだったのだ。

 幽霊にとりつかれた人間はげっそりと痩せこけてしまうというが、食いしん坊の少女に纏わりつかれてもげっそり痩せこけてしまうのだとぼくは学んだ。

      ◎

 四日目にして初めて、昼休みの時間帯に、階段を通るひとがいた。

「あらあら、こんなところでお食事?」

 司書さんだった。ビニール袋を携えている。売店で購入した菓子パンが山盛りたくさん透けて見えている。

「そんなに食べるんですか」ぼくは驚きのあまり訊ねていた。司書さんのすらっとした体型からは、とてもではないが、そんな量を必要とする大食らいには見えなかった。

「ふふ。あなただって」司書さんはぼくのよこに腰をおろした。「二杯も食べるの? カツ丼」

 その日はまだツヅリは現れていなかった。司書さんの言葉に不意を突かれてぼくは言い淀んでしまう。「これは、その……」

「あら。もしかして」司書さんはからかうような口調で、「彼女さんと待ち合わせだったかしら」と腰をあげた。やけに察しよいが、ざんねんなことに彼女ではない。むしろ、ざんねんでもない。

「そっか、いっしょに食べようかと思ってたんだけど、うーん。ざんねん」

 それこそぼくがざんねんだった。引きとめればよかったものの、万年へたれのぼくにそんな、超高等テクニックの応用編みたいな真似ができるはずもなく、また、司書さんを引きとどめる権利だってなかった。

 可愛らしく笑窪を空けた司書さんは、まるでぼくと同年代の無垢な少女にしか見えなかった。こんなに間近で司書さんの笑顔を拝めただけでぼくはしあわせだ。ほんとうに何歳なのだろう。ふしぎな人だな、とぼくはあらためて司書さんにほっこりした。

 司書さんが階段を上っていく。愉快な心地で司書さんを下から眺めている、万年思春期のぼく。

 司書さんの服装は、長めのスカートだったので、またしてもぼくは、学生時代の司書さんを想像しては、制服だったらパンツが見えていたのにな、と司書さんのうしろ姿を名残惜しく見届けるのだった。

      ◎

「見えなかったねぇ、パンツ」

 呆れたような表情で頬杖をしているのはだれであろう、ツヅリであった。いつの間にやら一段したに腰かけている。

「な、なんだよ」

 あたかもぼくの心を見透かしたようなことをおっしゃるではないか。「というかきみのせいで、司書さん行っちゃったじゃないか。せっかくお昼いっしょに食べられそうだったのに」ツヅリを横目で見てから、「……待ってたせいで、司書さんに誤解されちゃうし」

「ふうん。待っててくれたんだ。うれしい」

 あどけなくよろこんだツヅリを見てぼくは照れた。不器用に。

「というか、あのさ」強引に話題を変える。「そうやって忍び寄るの、やめてほしんだけど。びっくりする」

 神出鬼没と書いてツヅリと読めてしまうくらいに彼女は気配なく、唐突に現れる。まるで幽霊だ。

「忍び寄る?」なにそれ、と彼女はけらけらと肩を揺らした。ずりあがって、ぼくの隣に腰かける。「忍者じゃないんだから」

 たしかに女の子なら忍者ではなく、「くノ一」だ。

「そういう問題じゃないよ」またしても彼女は肩を弾ませた。くふふ、とまえ屈みになる。両手で頬杖をつき、「でも、くノ一好きだからいいけどさ。かっちょいいし」

 なんともはや、おだやかな、それでいて幼い言葉を返すのだろう。

 だのにぼくは、ぞっとした。

 なぜ彼女はそんなことを口にする。ぼくはまだ――、くノ一の「ク」の字も声に出していない。

 まさかな、と思いつつも、

(カツ丼、今日はいらないの)

 声に出さずに問いかける。

「いるいる!」目を輝かせて食いついた彼女は、万年へたれのぼくから見てもあからさまに異常だった。生唾を呑みこむ。放心していたぼくに痺れを切らしたようで、ツヅリは、置いてあったカツ丼を勝手に掴み取った。割り箸を唇に咥えて、ぱしん、と二本に割く。いただきまーす、と啄みはじめた。

「訊いても、いいかな」カツ丼にがっついている彼女をぼくは見詰める。ツヅリは口に詰めこんでいたご飯を急いで咀嚼した。呑みこんでから、「なにさ、改まっちゃって」

 ちょっぴり不安そうな顔を浮かべた。なにか聞かれてはまずい秘密を持っているのかもしれない、と思う反面、この反応はあまりにもリアルすぎるな、とぼくは少しだけ安堵する。どう見たってツヅリには実態がある。幻覚だなんて思えない。彼女はぼくの創りだした空想(脳内キャラクラ)ではなく、そこにきちんと実態を伴って存在している女の子だ。

 だとすれば彼女は、幽霊でもなく、幻覚でもなく、それでいて人の心が読める存在ということになる。

 いや、偶然ということも考えられる。ただたんに、彼女がくノ一の話題を脈略なく口にしたということもありえるだろう。いや、ありえるか? ぼくは段々こんがらがってきた。そもそも心が読めるなら、「訊いてもいいかな」と投げかけた時点で、その質問の内容だって解っているはずではないのか。いや、解っていたからこそ、こうして動揺したとも考えられる。んにゃ、んにゃ、ぼくにはもう、自分でもなにを考えているのやら、なにを考えればよいのやら、ぼくはだれで、ここはどこだ? なんてウソみたいに混乱してしまった。

 だいいち、ぼくが彼女とこうして仲良くとは言えなくとも、まるで友人みたいに昼食をいっしょにとっていること自体がおかしいのだ。ツヅリはぼくの引け目を抜きにしたって可愛らしい容姿をしている。妖精みたいな女の子がこんなちかくにいるというのに、ぼくは今の今までまったくたじろぎもせずに、ふつうに接していた。こんなの万年へたれのぼくらしくない。やはりこれはどうしたっておかしい。

「きみは、その」言葉を濁しながらもぼくは言ってやった。「ちょっと、ふつうじゃない」

「ちょっとだけ? ならいいんじゃんか、べつにさ」

 唇を尖らせた彼女は絵に描いたように拗ねていた。

 なんだよちくしょう。かわいいじゃないか。

「もしも言いたくないならいいんだけどさ」ぼくは言った。「教えてくれるっていうのなら、教えてほしい。どうしてぼくに構うの。昨日言ってたよね、頼みごとってなに? そもそも何年生なの。図書室に来てた三年生のなかにはいなかったよね。一年生なの? でも、新入生で私服登校なんて、そんな度胸ある子がいたら、いくらなんでもぼくだって知ってるよ。なのに、ぼくは昨日の今日まできみのこと、知らなかった」

 ねえ、きみはだれなの――口にしようとぼくがツヅリに顔を向けたとき、そこにツヅリの姿はすでになかった。がらんどうの階段があるばかりだ。老朽化した壁面に小さなヒビが入っている。紙パックジュースに付いているシールが手すりに貼りついている。ツヅリの代わりに、無機質な風景だけがぼくを無視するみたいに平然と広がっており、ぼくの脇には空っぽになったカツ丼の容器が置かれている。

 今さら気づいたが、通路をながれる空気が冷たい。すっかりもう秋なのだ。

 身体をぞわぞわと舐める悪寒を、ぼくはひざを抱えて抑えつけた。

「……また、かってに」

 予冷がさびしげに響き渡り、昼休みの終わりを告げた。

 これじゃまるで、あの童話みたいじゃないか。

 ぼくは無性に叫びたかった。

 せめて、ガラスのクツくらい置いていけ。

      ◎

 センチメンタルな気分に浸っているときほど、現実というやつは感傷的なぼくたちを虚仮にする。

 修学旅行期間、四日目にしてぼくは、一日に二度ツヅリと会うという快挙を達成した。

 四時間目を図書室で過ごしていたぼくは、あまりの静けさにふと不安になった。今日の四時間目には三年生たちが来ないらしいことをぼくは司書さんから聞いていたのだが、その司書さんの気配がなくなっていることに、ぼくは思いだしたように気が付いたのだ。

 司書さんが図書室のそとへ作業をしに出ていくことはこれまでにも幾度かあった。この三日間でも、数えられないほどだったけれど数分後には必ず戻ってきて、貸出カウンターの奥にある司書室で、なにやらガサゴソお仕事をされていた。たまにこちらへ出てきては、本棚の奥へとこれまた引っこみ、そうして書物を音を立てて漁るように整理していた。ぼくは司書さんの立てる物音、屋根裏をスズメが飛び跳ねるような雑音が好きだった。だから今、ひっそりとした図書室がなにやら異空間にでも飛ばされてしまったみたいな空疎として、感じられている。

 ハイヒールが廊下を叩く音もしない。司書さんの足音は特徴的で、近くにいるとまったく気づかないのに、遠くを歩いているときには、おどろくほどよく響いて聞こえてくる。わたしはここにいますよ、とぼくたちを安心させるかのようなシグナルを発しているようだ。だが今はその足音もない。司書さんが近くにも、遠くにもいない、物寂しい静けさがある。

 首を伸ばして、廊下のほうを眺めるも、扉に嵌まっているガラス越しに見える範囲は狭く、廊下に並ぶ窓が見えるだけだ。ここは二階だので窓の奥には曇り空が広がっている。そういえば今日は一段と冷えこんでいたっけな、とこちらの心まで暗くさせる曇天をぼくは、ぼう、と眺めた。

 と、そこで、

「なに読んでんの?」

 弾むような声が聞こえた。

 耳元でささやかれたようで、吐息があたってこちょばゆく、意表を突かれてぼくは小さく飛び跳ねた。

 こちらの手元を覗きこんでいる奴がいた。頭髪からはいい匂いがした。

「はは。どうしたの。へんてこな顔して」

 あなたの匂いにうっとりしていました、などと白状できるはずもない。

「え!? ニオイっ」

「……あのさあ」

 神出鬼没と書いてツヅリと読ませるそいつがそこにいた。

「やは」彼女は満面の笑みを浮かべた。「なまえ、初めて呼んでくれたね」

 ぼくは照れた。不器用に。

「だからさ」語気を荒らげる。「そうやって忍び寄るの、やめてよって言ったじゃん」

「くノ一だもん、しょうがない」

 にんにん、と彼女はひとさしゆびを握って忍者のポーズをつくった。

 じょうだんになっていない。この気配のなさはまさに忍者じゃないか。だいいち、ぼくは今の今まで、図書室の出入り口であるドアを眺めていたのだ。入室してきた人間がいたのなら、どうしたって視界に入ってしまう。だのにぼくはツヅリの姿をこうして、不意を衝かれるまで気づかなかった。

 どうやって、いったいどこから入ってきたのだろう。いや、すでに図書室内にいたということも考えられる。この図書室には、数万冊単位での蔵書が、段々に組まれた本棚に納まっている。部屋の中央に長テーブルが三つ、なんの工夫もなく、三列に並べられている。あとは窓際にソファが置いてあるだけだ。

 部屋の大部分は本棚で埋まっていると言っても言い過ぎではないような空間だ。隠れているだけなら、造作もない。

 とはいえ問題は、今が授業中だということだ。ぼくがここにいるのは今さら言を俟つこともないだろうけれど、なぜにツヅリはここにいるのだ。サボタージュするような娘には見えない――というわけでもないから、十中八九サボりだろう。でも、ふしぎなのは、昼休みにあの階段にいたということは、四時間目が始まってから図書室に入ったということで、だとすればそこで司書さんと顔を合わせているはずだ。

 司書さんはやさしいひとだけれど、サボりだとか喫煙だとか喧嘩だとか、そういった風紀を乱す行いを潔しとしなかった。怒るというのとは少しちがうのだけれど、悲しそうな顔で、説教をされてしまう。司書さんにそんな顔をされなどしたら、ぼくたち生徒などひとたまりもない。まるで子犬を蹴飛ばしていじめているような呵責の念に押しつぶされてしまうだろう。

 そんな司書さんがこの図書室には洞窟に潜むドラゴンのようにおわしているのだ。授業の始まった時間帯に、教師の指示以外で入室しようものなら、司書さんの秘儀「かなしいな、わたし」がさく裂する。とてもではないが図書室でサボタージュなどできはしない。

 ただ、前述したとおり、司書さんは頻繁に図書室のそとへ出る。すぐに戻ってくるとはいえ、タイミングさえ見計らえば、図書室への侵入はそう難しいものではないだろう。本棚の影に隠れてしまえば、司書さんと鉢合わせしないかぎり、潜んでいられる。

 でも、ここでまた疑問だ。

 なにゆえツヅリは、図書室に忍びこみ、あまつさえ隠れていたのだろうか。

 サボるだけならわざわざそんな苦労をせずとも良いはずだし、せっかく隠れていたのに、なぜこうして姿を見せるのだろう。ひょっとして、ぼくに会うためにわざわざこんなことを?――と、そんな思いこみ甚だしい推測が浮かんできたところでぼくは意識的に沈思を断ちきった。

 ツヅリはぼくが読んでいた本の紙面に視線を当てている。古典小説だ。うさぎを追いかけて、異国へと迷いこんでしまう女の子の物語。

「へぇ。こういうのも読むんだね」

 以外だと言うみたいにツヅリは顔をあげた。続けて、腹ばいに圧しかかっていたテーブルからも身体を起こし、両手をうしろに組んで、ふふん、となぜか得意げな顔を浮かべる。

 その小説はおさないころ、アニメで見たことがあり、テキストとして物語を感じるのは今日が初めてだ。図書室にある漫画は昨日までの三日間で大方読み終えてしまっていたので、そろそろちゃんとした文学というものを読んでみようと思い立ったぼくだったのだけれど、開いた拍子にめまいの起こりそうな本ばかりで、思案のすえ、本棚をずらーと見渡してみて、ふと目にとまった厚みのないこの童話をぼくは手にしたのだった。ツヅリのつぶやきはまるで、この数日間、ぼくが漫画しか読んでいなかったのを知っているかのような口振りで、だからでもないけれどぼくは、売り言葉に買い言葉、

「こう見えてもね、読書家なんだ」と咄嗟に大嘘を吐いた。

 中毒のように読書をしていた時期ははるかむかし、小学校低学年までの話になる。クラスメイトたちから、根暗だ、と囃されるようになってからは、読書もメガネも、生活のなかから極力排してきたぼくだった。あの時期、ぼくは大人が読むような大衆文学を好んで読み漁っていた。今にして思えば同年代の子たちと分かち合うことのできない娯楽だったと言えたかもしれないし、内側に閉じた遊びだったということでもあるのかもしれず、それゆえに当時のぼくには友達と呼べる相手がいなかったのだと振り返ることができる。

 当時のぼくは、いまのぼくと比べるまでもなく素直で可愛げのある子どもで、言ってしまえばぼくは友達がほしかった。だからぼくは自分のほうで変わろうと思った。読書という娯楽を捨てて、みんなとの輪の中――外側へと広がるような遊びを受け入れようとした。けれど、遅かった。ぼくがどれほど努めて、みんなとの協調性を求めようとも、みんなのほうがぼくをひどく拒んでいた。あたかもそれは、読書をぼくが見放したのと同じようで、とりもなおさず、ぼくが読書を生活のなかから排してしまったのと同じことで。同級生たちはぼくを生活のなかから切り離した存在として扱っていた。果たしてぼくがそれを非難することができるだろうか。できるわけもなかった。

 あの当時、ぼくにとって、たくさんの本たちは――そこに描かれたたくさんのキャラクタたちは――否定する余地もないくらいにかけがえのない、ともだちだった。それをぼくは、ぼくの都合で、ぼくのわがままで、造作もなく、躊躇もなく、幼子が瞬間瞬間に興味の対象を移していくのと同じような感覚で、見捨てたのだ。ぼくにとって本は、ゆいいつぼくを裏切らない存在だった。ぼくを見限ることなく、見放すことなく、いつもそばにいてくれる存在で、そんな本たちにぼくは甘えていた。

 ぼくは同級生たちから爪弾きにされて、自分が本たちにしてしまったことを、間接的に痛感してしまった。ぼくは苦しかった。同級生たちからされた仕打ちがことのほか、そう、とても、辛かったから。ぼくは自分が本たちにしてしまったことを、つよく後悔した。どうしてそんなぼくがふたたび本たちに甘えることができようか。

 ぼくはあの時期を境に、本を読むことはなくなった。

 あれから八年ばかりの月日が経過している。当時の、純粋な傷心など、万年へたれのぼくに残っているはずもない。ぼくはこうして、居たたまれない気持ちになってしまう一方で、図書室にいても気持ちわるくなることはなくなったし、漫画だって、中学校へあがってからは、なんの呵責もなく読み漁るようになった。

 本は、しょせん本にすぎない。ともだちではないし、ぼくみたいに傷つくこともない。

 おさなさがゆえの過ち。

 未熟さゆえのやさしさ。

 だのにぼくはこうして、あの当時に読むことのなかった本を手にしている。あの当時、ともだちだと大切にしていた本たちではなく。ぼくの読むことのなかった児童文学を。

「ねえ、シグレ。シグレが大切に思っていたのと同じだけ、あのコたちもきみのことを想ってたんだよ。それは信じてあげてほしいな」

 口を閉ざしてしまったぼくに、ツヅリがそっとささやきかけた。これまでの彼女とはちがい、真剣な眼差しをしており、ぼくはそんな彼女の瞳から目を逸らせずにいた。

「本に感情がないなんて、それこそ大きな過ち。本は感情そのものだもの。その感情っていうのは、作者の感情でもあるし、読者の感情でもあるんだよ。子供が生まれるのに、お父さんとお母さんが必要なのと同じで、本だって、作者と読者、ふたつの〝りょうしん〟が必要なの。そうでないと、本は物語として機能できない。そこに感情は宿らない。シグレが大切にしてくれていたあの時期、あの本たちにはたしかに、感情があったの。シグレが苦しかったのと同じだけ、あの本たちだって苦しかったんだよ。ううん、苦しいのとはちがうね。悲しかったし、同時に、うれしかったんだと思う。自分たちのために、シグレが苦しんでくれていると感じられたから」

 ふだんのぼくならここで彼女を、「かわいそうな子なんだな」と憐れんでいたと思う。なにを頭の痛いことをぬかしているのだろうと思いながらも、彼女の言葉を否定せずに、大人びた対応を醸して、話半分に聞き流していたと思う。少なくともツヅリはぼくをからかおうとしているのではなく、本気で口にしているとこちらに伝わっている。ふだんのぼくならここで、「そうだね。そうかもしれない」なんて受け答えしていたはずだった。

 それがどうだろう。

 ぼくは彼女の言葉が胸に染みすぎて、痛いくらいに染みすぎて、無様に目がしらを熱くしているではないか。

「ほんと、かな」

 なにを本気にしているんだ、と自分を嘲笑いながらもぼくの口からは、身体の奥底のほうから湧きあがる言葉が漏れていた。

「だってぼくは……ともだちを」ここまで口にしたらもう、抑えきれなくなってしまった。堰をきったように視界は歪み、濁りだす。「ともだちを、見捨てちゃったんだよ」

「なにを言ってるの」ツヅリはまるで司書さんみたいに、やたらと大人びた口調で、「シグレは、見捨ててなんかいないじゃない」と言った。「だって、ずっと大切に仕舞ってあるじゃない。きれいな箱に入れて、押し入れにも閉じこめないで、ずっと目に見える場所、部屋のすみに置いてくれているじゃない。目にしたら気持ちわるくなっちゃうのに、それでもずっとそばに置いててくれたよね。シグレは見捨ててなんかいないよ。あのコたちだってうれしがってるよ」

 そんなことはない。ぼくはだって、あれから一度もあの本たちを箱から出してあげたことなんてなかったのだから。まっくらな箱のなかで、あの本たちは、だれに読まれることもなく、しずかに、永劫とも感じられる八年という時間をすごしてきてしまったのだ。うれしいはずもない。ゆるしてくれているはずもない。

「そうだね。できるなら、またシグレに読んでほしいと思っていると思う。でも、それはまた別なんだよ。だって、あのコたちはすでに読んでもらっているんだもの、きみにね。そのときの、シグレの楽しそうな顔。真剣な顔。はらはらした鼓動や、手に滲んだ汗――きみの感動があの本たちにはたくさん刻まれているの。あのコたちはそれを覚えているし、それに感謝している。読んでくれてありがとうって。わたしたちに命を吹きこんでくれてありがとうって」

「なんだよ、それ」小馬鹿にしたように言ったつもりだったのに、どうしてだか、語気が弾んだ。「本はしょせん、本じゃないか」

 ツヅリは椅子を引き、ぼくのとなりに腰かけた。目線が揃う。「そうだよ。人間だってしょせんは人間じゃない。おなじだよ。本は本だし、人間は人間だよ」

 ぼくはぼくだし、ツヅリはツヅリ。きっと彼女はそう言いたいにちがいない。心が通うというのはこういうことを言うのかもしれない。彼女の思考がまっすぐとぼくの心に届いた。

「ちょっと、読まないでよぅ」ムスリとしてツヅリが言った。「わたしの心はわたしのものなの」

「きみが言うのかなそれを」

「なんで。なにがわるいの」

 なにもわるくなんてない。ただ、じぶんを棚にあげて、真顔でいいことを言えてしまう人間というのはおそろしいなと思っただけだよ。

「感じわるいなーもう」言いながらもツヅリの頬には笑窪が空いていた。

 本が本で、人間が人間なら、本と人間を、異なる個として付き合うことのなにがおかしいだろう。ぼくとツヅリが異なる個として、互いに関わりあっているのと何がそんなに違うだろう。ぼくはそんなことを考えている。本をともだちとして見做すことを「恥ずかしい」だなんて思ってはいないけれど、ぼくは今までそれを「おかしいこと」なのだと認めていた。おかしい子だと思われたくなくて、仲間外れにされることをおそれていて、だからぼくは大切なものを大切だと思うことから目を逸らしつづけてしまった。

 そのけっか、ぼくが手にしたものなど、なにもなかった。

 ぼくは大切なものを手放したことで、多くのものもまた同時に手放してしまっていた。

 現在、大衆文学は、ぼくたち同級生たちが嗜む娯楽として、定着している。みんなが楽しそうに語り合っている傍らで、ぼくはその話題に入れずに、もやもやとじれったく感じていた。

「その本なら、ぼくも小学生のときに読んだことあるよ」「その本、なんか面白そう。今度貸して」「わかるわかる。あのキャラクタ、いいよね」

 会話の糸口が頭の中で、幾通りも素通りしていく。ややもすれば読書を続けていれば、あの輪のなかにぼくも加わっていたのかもしれない。そう考えるとますます以って自己嫌悪に陥った。あの輪に入りたくて読書を棄てたぼくが、今度はあの輪に入りたくて読書を始めようとしている。なんたる下劣な人間だろう。

 ただ、そうして自己嫌悪に苛んでいるあいだにも、ぼくは確固たるひとつの答を自分のなかに見出していた。

 ――ともだちの友達もまた、ともだちなのだ。

 拳を見詰めていたぼくは、ふと、我に返った。司書さんの足音が遠くに聞こえている。やっと戻ってきたのだ。思ったつぎの瞬間にはツヅリのことを案じていた。このままではツヅリが司書さんと鉢合わせしてしまう。

 ――ほら、隠れなきゃだよ。

 ツヅリへ投げかけるまえに、ツヅリへ視線を向けたぼくは、そこにいるはずの彼女の姿がない現実を目の当たりにしても、目を剥くことなく、おどろくほどすんなり受け入れていた。まったく衝撃を受けなかったし、彼女が消えてしまったことに、ふしぎだという所感を抱くことさえしなかった。なんとなく、また消えているような気がしていたからだ。

 ふしぎな女の子は、ふしぎなことがふつうなのだから。

「あら。だれかいたの?」司書さんは戻ってきてそうそう、ぼくの様子を見に来て、そう言った。「まさか、サボりの子? だめだからね。そういうのは」

「だれもいないですけど」どきり、としたのと同時に、なぜかほっとしているぼくがいた。そうだとも、ここにはツヅリがいたのだ。でも、どうして司書さんに気取られたのだろう。そう思い、なぜそんなことを言うのですか、と訊きかえした。「どうしてですか」

 司書さんはぼくのとなりに視線を当てて、

「だれか座ってたみたいだから」

 引かれた椅子を強調した。ほかの椅子はどれも背もたれがテーブルのふちにくっついている。

「すみません。ちょっとよこになってました」さも椅子を並べてベッド代わりにしていたというように取り繕った。不自然にならないように気を付けながら、「どこに行ってたんですか、司書さん?」と話題を振る。「遅かったみたいですけどずいぶんと」

「うん、ちょっとね。お客さまがいらしてて」どことなく司書さんの口は重かった。続けて、なにか困ったことはなかった、と訊かれたので、「なにもないです」と返した。司書さんは両手に数冊のファイルを抱えていた。あまりに大事そうに抱えていたので、「それ、なんですか」と興味本位で水を向けた。

「ああ、うん。これね」なんでもないように肩のちからを抜いた司書さんは、けれどすぐにまたファイルを抱きなおして、「お客さまからのプレゼント、かな」

 お茶を濁すのだった。司書さんはほころびているのに、その表情がぼくには切なそうに映った。野暮だったかな、とぼくは軽くしょげた。

 司書さんは図書室を見渡した。特に穿鑿するふうでもなく、ふう、とかわいらしく溜息を吐くと、「なにかあったら言ってちょうだいね」

 言い残して、カウンターの奥、司書室へ入っていった。

 図書室に、ふたたびの静寂が満ちる。 




      『トラベル』


      ◎

 修学旅行の五日目。ぼくは相も変わらず、ただひとりの二年生として登校した。階段を上って図書室へと直行する。

 同級生のみんなは今頃、清水寺だとか、金閣寺だとか、八ツ橋だとかを堪能しているのだ。しょうじきなところ、うらやましい。

 五日目にしてぼくは、認めつつあった。

 ぼくはそう、ただたんに逃げただけなのだ。孤独が堪えられなくって、孤立することがこわくって、逃げただけだった。引け目を感じている半面、踏ん切りの付かないもどかしさが胸につっかえて、くすぶってもいる。言ってしまえば、逃げることのなにがわるいだろう、という思いがある。逃げて、逃げて、逃げ続けて、逃げきれたならそれは立派に闘ったことになるのではないのか。そんな言い訳をぼくは本気で考えてしまっている。

 昼休み。カツ丼を携えていつもの階段に向かった。案の定ツヅリはいなかった。昼間だというのに薄暗い空間だ。

 ツヅリなら答えを教えてくれるのではないか、とぼくは期待していた。

 逃げることのなにがそんなにわるいのか。

 戦うことでいったいなにを得られるのか。

 戦うことで得られた勝利をみんなはなぜ、そんなによろこべるのだろう。

 勝者は多くの敗者によってのみ存在できる。勝ち続ける者がいるいっぽうでは、負け続ける者がいる。互いに求めあって、戦っているなら解らないでもない。そこには切磋琢磨、相手を尊重する気持ちが生まれているはずだからだ。

 他方で、期せずして戦わざるを得なくなった場合、多くは、戦いを好む者がほかの者を虐げて、上へ上へと昇り詰めていく。さも、他者の背中を足場にして、足蹴にして、踏みにじって、上へと昇る者がいる傍らで、彼らに蹴り落とされている者たちがいる。

 ぼくはどうしても思ってしまう。

 なにがそんなに間違っているだろう、と。

 理不尽な世界から逃げることの、なにがそんなに。

 ツヅリならなんと答えてくれるだろう、と期待していたぼくは、まるでおとぎ話を信じている子どもみたいに無垢だった。この階段に来れば無条件にツヅリが現れてくれると信じていたのだから。

「うわー。そのプリン、おいしそう」

 物欲しげな顔でプリンに手を伸ばす彼女は、やはり今日もいつの間にやらぼくのとなりに腰かけている。

 ツヅリはこうして、ぼくの期待を裏切ることなく、きちんと現れてくれる。明けないよるはないのと同じくらい確かなことだった。けれど、ぼくは知らなかった。そもそも世界は真っ暗なのだという、d規模での理を。

 プリンは一個しかなかったけれど、もともとそれはツヅリに食べてもらいたくって買っていた品だった。いいよ、食べても、と許可する前にツヅリは透明のプラスチックスプーンですくっていた。

「うん。うまい!」感極まったように唸ったツヅリは、ほっぺたがおちちゃいそう、とでも言わんばかりに右手を頬に添えている。途中まで食べてから、ふと手を止めた。ちいさなスプーンを口に咥えたまま、「ねえ。シグレのぶんは?」

 素朴に問うてきた。どうしてたべないの、と訝しんでいる様子だ。

「甘いの好きじゃないから」と格好つける。

「なら、どうして買ったの」と返ってきた。

 そんなの決まっているじゃないかとぼくはむつけた。不器用に。

「間違って買っただけだし」

「わたしのため?」うれしい、とツヅリはプリンをひざのうえに置いた。「じゃあ、いよいよ次回は飲み物だね。それができたらシグレはもう立派だよ。立派にわたしの相棒だよ」

「ざんねんでした」ぼくは得意げに、「飲み物も購入済みでした」

 脇に隠しておいたペットボトルのお茶を取りだす。彼女を出しぬけたことが愉快だった。

 突きだされたお茶を、きょとんと見詰めるとツヅリは、ゆっくりと視軸をぼくへ合わせた。お日さまが昇るくらいに緩慢な動きだった。

「だいすきっ」

 ツヅリが急に叫んだ。ぼくはおどろきのあまり壁に頭をぶつけてしまう。「いッて。おどかすなって」

「シグレ」

 ツヅリが満面の笑みで、

「――だいすき」

 飛びついてくる。ぼくは受けとめる。小柄なツヅリは、見た目よりもはるかに軽かった。ぼくのひざのあいだにすっぽり納まって、こちらを見上げている。カツ丼とプリンと、ペットボトルのお茶。たったこれだけでこんなによろこんでもらえるなんて。ぼくは照れた。不器用に。

「おおげさなんだよ、ツヅリは」

「だって、うれしんだもん」すぐにそう言いかえせてしまえるツヅリの顔をぼくは直視できなかった。逆にぼくのほうが恥ずかしくなる始末だ。声にだせなかったけれど、よかった、とぼくも伏せたままの顔をほころばす。ツヅリがうれしいなら、ぼくもうれしい。恋愛感情がないと言えば(自分でもよく分かっていないのだけれど)うそになると思う。でも、この想いはどこか、異性へ向けてしまう感情ではなくて、ツヅリだから抱ける穏やかであたたかな心地だった。

 プリンの残りを一瞬でやっつけるツヅリ。今度はカツ丼を、「あーむ」としあわせそうに頬張った。合間合間にお茶を口に含み、ひと息に平らげてしまう。最後はペットボトルに半分ほど残っていたお茶を、んくんく、とかわいらしく喉を鳴らせて飲み干した。

「ぷへー。ごちそうさまでした」

 てへへ、となぜかそこで照れるツヅリはかわいらしい。ぼくはこのときになってようやく、万年へたれらしく、たじたじになった。顔が上気して、身体がカッカしてくる。身体中からじんわりと汗が滲みだして、動機が激しく飛び跳ねる。またたく間に平常心が乱れていく。

 へんに意識するんじゃない、とぼくは自分を叱咤した。せっかくこれまで自然体でいられたのに、とかなしくなる。自分の不甲斐なさがかなしいのだ。

 辺りをしばらく静寂が満たした。遠くから、楽しげな笑い声や叫び声が、そよかぜみたいに運ばれてくる。三年生たちが中庭で青春の残滓を謳歌している声だ。一年生たちがスズメみたいに鬼ごっこをしている声もある。これまでこれらのBGMは、ぼくにとっては静寂を引きたて、孤独を強調する呪文のようなものだった。それがどうであろう、よこにツヅリがいてくれるだけで、こんなにも安らかなひと時を奏でてくれる音楽になる。

      ◎

「あのさ」

 ぼくは自分から口火を切った。言葉だけをツヅリへ向ける。「頼みごとって、なに?」

 ぼくに頼みたいことがある。ツヅリは一昨日、そう言った。そのために会いに来ているのだとそう言っていた。だったらぼくはツヅリの頼みごとを聞いてあげたい。できることだったら、なんだってしてあげたいと望んでいる。

「うん。いつ言いだそうかなって、まよってた」ツヅリは気まずそうにひざを抱きかかえる。蹲るような格好でつぶやいた。「今日のよる……図書室に来てほしいな」

「よる?」少し考えてから、「図書室? 学校の!?」

 うん、とツヅリは縋るような視線を向けてくる。

「無理だよ。見つかったら停学だよ。この学校、古いけどセキュリティだけはしっかりしてるんだから」

 今年の一年生は知らない情報かもしれないが、去年の夏休みに、学校に侵入しようとした上級生が数人停学になるといった小さな事件があった。

 セキュリティ強化そのものの発端は数年前にまで遡る。中庭に設置されていた自動販売機が破壊されて、小銭が盗まれたという事件が発生したのだ。それ以来、この学校のセキュリティは一新された。これもまた、知る人ぞ知る情報だ。近所のお兄さんがここの卒業生で、ぼくはそのお兄さんと仲良くしてもらっていたから、知っている。そのお兄さんは今はたしか、海外を飛び回る売れっ子のDJだって話だ。

 ともかくとして、夜中に、一介の生徒ごときが忍びこめるほど、この学校のセキュリティは甘くない。侵入しようものなら、即座に警備会社に通報がいき届き、付近を巡回中のパトロール隊が駆けつける。学校の敷地を囲うように防犯ネットに覆われている。敷地から脱するにはどう足掻いたって正面門か裏門をよじ登る以外に道はない。校内に鳴り響いた警報に度肝をぬかれて逃げだしたとしても、正面門と裏門、双方に待ちかまえている警備会社の人に、お縄をちょうだいされるのがオチなのだ。

 ここでぼくが辞退したとしても、ツヅリの性格からしたら、ぼくなしでも侵入しそうな気配がある。なんとかして諦めさせようと説明を試みる。

 昼休みは四十五分。すでに三十分が過ぎている。残り十五分。決して充分とは言えない時間だが、ここで見過ごしてしまったら、恩を仇で返してしまうようなわだかまりだけが残ってしまいそうな予感があった。

 そうだとも。ツヅリには恩がある。情けないくらいに、甘っちょろくて、わがままで、とてもではないけれど、正しいなんて思えない、そんな恩が。

 けっきょくのところぼくは、ツヅリのやさしさに甘えているだけなのだ。こちらを包みこむようなツヅリの無邪気さに。彼女の寛容な心根に。ぼくは寄りそらせてもらっているだけなのだ。それが正しいか否かで言えば、おそらく正しくはない。わるいことではないにしろ、善いことでもないのだろう。ともすればぼくはツヅリのやわらかな心に付け入っているだけなのかもしれない。利用しているだけなのかもしれない。

 でも、そんな卑怯で脆弱なぼくごと、ツヅリは受け入れてくれるのだから。味方でいてくれると実感できてしまうのだから。ひどく弱りきっていたぼくなどが、そんなぬくぬくとした居心地のよさをどうして手放すことができようか。できるわけもないのだった。

 だからぼくは構わないのだ。ツヅリが不良娘だとしても、世間一般に問題児の烙印を押されていたとしても、たとえ悪魔の手先だったとしたって、そんなこと、関係なかった。

 ――ぼくはツヅリの役に立ちたい。

 それが彼女の本意でなくとも、ぼくはツヅリの為に行動したかった。

「よるでなくたっていいんじゃないかな。ほら、今からだってだいじょうぶだよ。まだ休み時間は終わってない。走っていけば間に合うし、それでなくたって、またサボればいいじゃない。今がダメなら四時間目の休み時間だって、放課後だっていいよ。もっと言っちゃえば、明日の昼休みだって――これからいくらでも図書室なんか行けるじゃないか」

 どうしてよりにもよって、今日のよるなのさ、とぼくは訴えた。図書室でなくちゃいけない理由もまだ分からないけれど、とりあえず優先すべきは、今夜ツヅリが学校に侵入しないように予防線を張っておくこと。昼休みが終わって、ツヅリと別れてしまったら、ぼくのほうから彼女に会いに行くのは至難だ。ぼくはツヅリが何年生で何組なのかも知らない。彼女の名字だって知らないままなのだ。

「ね? それでいいでしょ」ぼくはちいさな子どもに言い聞かすように言った。「よるじゃなきゃ、いくらでも付き合えるんだからさ」

 ここまで言ってもツヅリは首を縦に振らなかった。顔を伏せたままで階段に腰かけている。下唇を噛みしめているふうでもあった。なんだか泣きだしそうな気配さえ漂っている。ぼくは困った。こんなつもりではなかった。

 なんとか折れずに済む道を模索しつつも、ツヅリの依頼から降りたくもないぼくは、途方に暮れていた。このままでは折れざるを得ない。

「……夜中じゃなきゃダメなの」どうしてもダメなの、とぼくは訊ねる。

 ツヅリはあごを引いた。ししおどしがゆっくりと傾くような仕草だ。

 いじらしかった。これまでの底ぬけの明るさがうそのような塞ぎこみようだった。

「わかった」ぼくは言った。すっかり開きなおって承諾した。「今日のよる。図書室でいいんでしょ」

 ぴくっ、とツヅリの肩がちいさく跳ねる。けれどまだ、ひざを抱えて蹲ったままだ。

 ダメ押しとばかりにぼくは、「ぜったい行くから」と約束した。「今日の零時。裏門のほうに公園あるでしょ。あそこに集合。それでいい?」

 ツヅリはようやく顔をあげてくれた。こちらをまっすぐと射ぬく。ぷっくりとした唇を細く伸ばして、にかり、と歯を覗かせた。「うん。待ってる」

 ずるいんだから、まったく。ぼくは敢えてツヅリから目を逸らした。

 ちょうどよく、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響いた。

      ◎

 修学旅行のよるの定番と言えばまくら投げ。なんてことを言うのは、修学旅行に行ったことのない人間か、よほどまくら投げを愛好している人間か、もしくは小学生のいずれかだ。

 ぼくの知るかぎり、修学旅行の一大イベントと言えば、異性の部屋への侵入だ。高校生はもとより、中学生だって、修学旅行のよるに逢引を企むのだ。さいきんのガキんちょはこれだから、とぼくは嘆きたいけれど、嘆くと途端に、「おまえだって充分にガキんちょだろうが」と怒られそうなので、思うだけに留めておく。

 ひとつ断っておきたいのは、ぼくがそのよるにした待ち合わせは、そういったガキんちょの企む逢引とは一線を画したミッションだったということだ。ぼくはまったくワクワク心躍らせてなんてなかったし、男の象徴がムズムズするような期待も抱いていなかった――と言うと、うそになってしまい兼ねないので、断じることはしないけれど、なんにせよぼくはどちらかと言うと、これから人生を棒に振るかもしれないといった緊張の面持ちで、いちどは着替えたパジャマから外着へと着替えた。

 根っからの小心者のぼくなどが、夜中の学校に侵入するなど、死刑を覚悟するくらいの気概が必要だった。ぼくたちが仕出かそうとしている所業は不法侵入なのだ。大罪じゃないか。見つかったらお説教じゃ済まされない。停学は確実。場合によっては退学のうえ書類送検されてもおかしくはない。

 ぼくは腹をくくっていた。

 両親は早寝なので、よるの九時には就寝してしまう。こっそり抜け出す必要はないのだけれど、念のためにこっそり抜け出した。

 万が一にでも逃走することもあるやもしれないと配慮して、自転車ではなく、徒歩で向かった。自転車は目立つし、脇道に逃げこんだりすれば、お荷物にもなる。学校の登録ステッカーが貼ってあるので、乗り捨てていくこともできないとくれば、最初から乗っていかないのが吉と思う。

 徒歩だと学校まで一時間ちかくかかる。気持ち駆け足でぼくは向かった。天上はすっかり秋の空だ。高く澄んだ群青色に、星が儚く埋もれている。うすく延びた雲が月明かりを仄かにやわらげている。

 夜空を眺めながら、街灯を辿るようにして向かった。公園に到着したときにはなぜか、胸につっかえていた重さが消えていた。

 約束の時刻、零時の三十分前。案の定、ツヅリの姿はなかった。

 焦ることはない。ぼくはブランコに腰かける。地面に足を着けたままで、ちいさく漕いだ。次第に楽しくなってくる。足を振りあげ、思い切り漕ぎだしている。空気を切り裂きぼくはいっとき風になる。夜中の公園でたったひとり。ぼくはブランコに熱中した。

 しばらくして飽きてしまう。足を止める。地面には降ろさず、徐々に身体にぶつかる風が弱まっていくさまを感じていた。

 ブランコの揺れが収まってきたころ。

「待った?」ツヅリは音もなく現れた。ひょい、ととなりのブランコに飛び乗り、ギーコ、と鎖を軋ませた。なぜかその音に安心しながらぼくは言った。「すこしね」

「なってないなぁ」ツヅリはブランコから飛び降りた。せわしない。両手を背中に回すようにして組み、こちらの顔を覗きこむようにして、「そういうときは、『ぜんぜん。今来たとこ』って言わなきゃ」

「だって、本当にすこし待ったんだもの」

 言い訳するとツヅリはくすぐったそうに笑い、

「すこし? 三十分も待ってたくせに」

 茶化すのだった。ぼくは恥じた。不器用に。

「ぼくの中では三十分はすこしなんだよ」

「ならいいんだけどね」ツヅリはぼくの手をとった。「じゃ、行こっか」

 小柄なツヅリらしからぬ力強さで、ぐい、と立たせられてしまう。「ちょっと待ってよ。逃走経路とか、もしもの場合に備えてミーティングとか」

「ミーティング? 逃走経路? そんなのなくたってだいじょうぶだよ。だって逃げるようなことにはならないもの」

 その自信に根拠があるようにはとうてい見えなかった。同時に、なにを言っても無駄だろうな、という意固持さも垣間見えている。「じゃあ、もしものときは、ぼくに従ってよ。はぐれないで、しっかりついてきてよ」

「やだなーもう。子どもあつかい」

「おどけたってダメ。わかった?」

「いいよ。もしものときはシグレに従う。そのときはシグレの命令がぜったい。それでいいんでしょ?」

 ぜったい、というわけではなかったけれど、まあ、そのほうが都合はいい。「そう。それでおねがいします」

「やだもう。シグレのえっち」

 なにを勘違いしたのやら、ツヅリはぼくをスケベ呼ばわりした。

 付き合っていられない。

「じゃあ、行くよ」

 今度はぼくがツヅリの手を握った。ツヅリの手はちいさくて、ひんやりとし、そしてやわらかく徐々にぬくもりを帯びていく。

      ◎

 中庭まで回りこんだ。

 今日の放課後、ぼくは、前もって侵入口を確保していた。中庭に面しているトイレの窓の鍵を、ロックしたように見せかけて、解いておいた。

 ここからが正念場だ。ひとつの失態が即座に命とりになる。

 ひとまず、ツヅリに侵入経路を指示しよう。

 思い、こっちだよ、とぼくが手招きしようとした矢先、

「ここでいいや」

 ツヅリが飄々と教室の窓を開け放った。むろんぼくがこっそり開錠しておいた窓ではない。

 ――ばかな。

 すんなりと開いたことにも驚いたが、扉を開けても鳴らない警報のほうがふしぎだった。

 校舎にある窓や扉にはあまねく、開いた途端に警報の鳴りひびく仕掛けが施されている。現に、それっぽい機構が窓の上部にくっついている。

 校舎のセキュリティはほかにも、天井に設置されている赤外線センサなどがある。教室や廊下を歩く者がいると感知して、警報を鳴らすのだ。窓のセキュリティにしろ、赤外線センサにしろ、警報が鳴ったと同時に警備会社へと通報がいくシステムで、警報を鳴らせてしまった時点で、ぼくたちの停学は確定する。

 天井にある赤外線センサは、実のところ、床付近を動くものには反応しない。這って進めば警報は鳴らないのだ(これは、猫やネズミなどの小動物にまで反応していては、警備会社のほうも大変だから、という理由が考えられる)。そのためぼくは、這って図書室まで行くことを想定していた。

 だが、いざ侵入する段になってみればどうであろう。ツヅリは、せっかくぼくの確保しておいた侵入口ではなく、中庭に面した教室の窓を、「ここでいっか」と軽々しく開け放ち、あろうことか飄々と校舎内に侵入するとあらゆるセキュリティに注意をそそぐことなく、悠然と、それこそ大胆不敵に歩きだしたではないか。ツヅリの後先考えない無鉄砲さにはひやりとしたけれど、しかしなぜかセキュリティが発動することはなく、ひとまず杞憂におわったらしいぞと、胸を撫でおろし、ぼくも彼女のあとにつづいた。

「故障してるのかな」

「故障じゃないよ」ツヅリはぼくの一歩手前を歩いている。こちらを振り返り、「止めてあるの。警報だっけ? あれうるさいでしょ。わたし、きらいなんだ。びっくりしちゃうし」

 あたかも「わたしが止めました」とでも言わんばかりのぼやきようだ。追及してもよかったけれどめんどうなので適当に話を合わせておく。「そうだね。ぼくもあれ、きらいだ」

「うっわー。やな感じ」ツヅリはちいさく拗ねた。

 おもしろい。

「ごめんごめん」

「ますますやな感じ」ツヅリは歩く速度をあげた。ぼくを置き去りにし、そそくさと階段を上っていく。踊り場まで駆けあがると、「おばけが出たって助けてあげないんだから」

 捨て台詞を叫んで、さらに駆けあがっていくのだった。

 今さらオバケなんてこわくないよ。大声を出すかわりにつよく念じ、ツヅリのあとを追った。

      ◎

 図書室のまえでツヅリは待ってくれていた。あれだけ我が物顔で校舎を突き進んでいたのだから、もちろん図書室の扉だって造作もなく開け放ってしまうのだろうとぼくは思っていた。意に反してツヅリは、ぼくが合流しても、図書室の扉を開けようとはしなかった。

「入らないの?」いつまでも扉に手を掛けようとしないツヅリをぼくは見下ろす。「やっぱり、やめる?」

 ここで引き返すのもひとつの選択としてぼくのなかでは有効だった。ツヅリが図書室でなにをしようと企んでいるのかをぼくは未だに知らない。ツヅリが教えてくれないからだし、ツヅリがなにを仕出かそうとしていても、頼まれればぼくはそれを手伝ってあげようとすでに決意しているからだ。

 ツヅリは扉を見据えたまま、固まっている。やがて、手だけをこちらへ差し伸べてきた。

 握って、ということだろう。迷いなくぼくはその手を握った。

 扉に触れる寸前、ツヅリがなにかをつぶやいたように感じた。唇が動いていたように見えたのだ。この瞬間だけ、ツヅリはどこか、緊張しているふうだった。握り返してくれているそのちいさな手が、まるで怯えた子どもみたいに、ちからづよかった。

      ◎

 図書室は薄暗く、昼間あれだけ居座っていた図書室とは思えないほど奇妙な雰囲気が漂っている。不気味というよりも、神秘的と言ったほうがしっくりくる。窓から差しこむ月明かりの影響かもしれない。図書室を覆い尽くすように本棚の影が浮かび上がっている。底なし沼のように影の部分だけ穴が開いているような錯覚を抱き、思わず踏むのを躊躇してしまう。というよりもぼくは踏まないように、避けて歩んだ。小心者のきみらしい、とツヅリは笑った。

「ところでそろそろ教えてくれないかな」ぼくはしびれを切らして言った。「どうしてぼくらはこうして忍びこんでいるのだろう。深夜の、それも、図書室に」

「いい質問だね」ツヅリは窓際に立ち、おどけた調子で振りかえった。窓を背にした彼女は、月明かりの逆光で、輪郭だけがはっきりと浮かんでいる。完全なるシルエットだ。ぼくもまた、彼女から見たら、濃い影として形だけの存在に映っているはずだ。ぼくたちはこの図書室に入った瞬間から、空間に散在するあらゆる影のひとつとして同化している。

「いい質問もなにも、当然の疑問じゃないか」ぼくは憤然として言った。「ツヅリのせいだからね。ぼくはもともと、こんなふうに、深夜の学校に不法侵入するような不良じゃないんだ。だのにこうしてノコノコ、不法侵入の肩棒を担いでる。ぜんぶツヅリのせいだ」

「またまたぁ」

 ツヅリはご機嫌にひらひらと回転し、「おおげさー」と部屋の中央まで歩を進める。彼女の姿がひときわ濃く浮かびあがる。

「おおげさじゃないよ。ぼくはきみに毒されてるんだもの。なにをしに来たのかを知る権利がある」

 とはいえ、ここに来た理由をぼくはすでに知っている。ツヅリの頼みごとを叶えるために連れて来られたのだ。ぼくが知りたいのは、ツヅリがいったいぼくになにをさせたいかという頼みごとの内容だ。

「あれ。まだ言ってなかったっけ」

 すっとんきょうなことを言われ、ぼくは肩の力が抜けた。「言ってないよ。ぜんぜんこれっぽっちだって教えてもらってないよ」

「なら、どうして付いてきてくれたの。わたしなら行かないよ。こわいもん」

 至極ごもっともな意見だ。ふつうなら、知り合って間もない女の子の頼みごとなど聞かない。よほどの下心がない限りは目的も分からず、深夜の学校へいっしょに侵入するなどしたりしないだろう。だが、ぼくはけっして下心があったわけではない。単純にこれは、恩返しなのだ。ぼくが勝手に抱いた恩をぼくはどうしても彼女に返したい。そう、ぼくはツヅリの為に、なにかしてあげたかった。ツヅリの笑顔を見たいし、ツヅリのよろこぶ姿を見たい。できれば、それを、ぼくのちからで実現したかった。

「そんな理由で付いてきてくれたの? うれしい」

 ぼくはなにも口にしていないにも拘わらずツヅリはちいさく叫ぶようにし、ぼくに向かって飛びこんできた。ぼくは受けとめる。ちいさなツヅリの身体ごと抱きしめるように。まるでぼくが大きくなったような錯覚がある。ツヅリは丸まった子ネコみたいな態勢で、「だいじょうぶ、シグレならできるから」

 シグレじゃなきゃダメだから――とよく分からない、けれどうれしい言葉をささやいてくれた。ぼくの胸のなかで。ぼくの耳元に。すこしばかり、こしょばゆく。

      ◎

「本を読んでほしいの」とツヅリは言った。

 部屋のすみ、本棚の迷路の奥のほうにぼくたちは立っている。月明かりも、街灯の余韻も、本棚に遮られてここまでは及ばない。天井の赤外線センサのぼんやりと霞んだ光が、かろうじてぼくとツヅリに輪郭を与えている。闇と同化しそうなくらいに微かな、輪郭を。

 んっ、とツヅリが背伸びをした。本棚のうえのほうに手を伸ばしている。二度ばかり跳ねてから、恥ずかしそうに、

「……とって」と言った。

「どれを取ればいいの」ぼくは身を乗りだす。ツヅリの立っていた場所に移動して、ツヅリのゆび差した本を手にしようとする。けれど、最上段の本で、ぼくの背丈でも手が届かなかった。いったん、カウンターまで行き、三段ほどの脚立をとってくる。ふだんは図書委員や司書さんが脚立を管理しており、彼女たちの許可なく使用することはできない。とりもなおさず、本棚の最上部の本を手にすることができないということでもある。

 脚立にのぼって、ようやく指定された本を手に取る。ずっしりとした重さがある。

 慎重に脚立から降り、待ちわびたようなツヅリに、はい、と手渡す。

 暗くてよく確認できなかったけれど、表紙は小難しそうな辞書だった。受けとったツヅリは機械的に表紙のカバーをはぎ取った。すると、カバーの下からさらにちがう本の表紙が現れた。ぼくは目を瞠る。カモフラージュと頭に文字が浮かんだ。

「シグレには、この本を読んでほしいの」

 大切そうに本を両手で抱えるように持っているツヅリは、中身を確認することをせずに、ぼくにそっと表紙を向けた。

 薄暗くても、そこにはゴツゴツとした装丁の起伏が見てとれた。表題らしき文字だ。なんと描いてあるのだろう。目を凝らす。表紙には刺繍のような挿し絵も載っている。

 子どもが炎のような膜を纏っている。その周囲には、幾人かの人間の影がある。子どもは男の子だろうか。いや、女の子のようにも見える。この暗さもさることながら、表紙絵もだいぶん抽象的だ。

 さきほど持った感触から推し量るに、かなり古い本だ。風化しているだとか、埃をかぶっていただとか、そういったことではなく、本の紙質が、ぼくの慣れ親しんでいる類のものではなかった。皮製なのかもしれない。いかにも時代がちがう、といった触感があった。

 そんな古い本を読むとなると、万年へたれのぼくは途端に気が重くなってしまう。それこそその本は重量級だ。ツヅリの「読んでほしい」の意味が、「目を通してほしい」ではなく「読解してほしい」であるとすると、かなり大変な作業になりそうだ。

「ちょっとひどい!」とツヅリがごねた。「さっきのはなんだったの! わたしのためになにかしたいって思ってくれてたんじゃないの」

「そうだけど……」もはやぼくは、ツヅリの読心術に違和を感じることもなくなっていた。ツヅリがあまりに自然なさまでぼくの声なき独白に反応するものだから、これがぼくにとっての「普通」になりつつあった。ツヅリがさらに大きな声で不平を鳴らしだしたので、ぼくは慌てて、「ごめん」と訂正した。「わかった、わかったってば。大声出さないで。読むよ、読むからさ」

「じゃあ、読んで」

 ツヅリはすかさず本を押しつけるようにした。機嫌を直したのか彼女は、「この本の著者はね」と説明する。「〈ガユシン=レパセザリー〉っていって、ビブリオマニアのあいだでは伝説級の作家なの。めったに手に入らないんだよ。稀覯本なの」

「へえ、そうなんだ」

 相槌を打ちつつ本を受けとる。やはり腕にずしりとくる。

「こうして学校の図書室に置いてあるような本じゃないんだよ。たとえ復刻版だとしてもだよ」

「なら、どうしてここに」

 そんな希少な本がどうして学校の図書室などにあるのだろう、と疑問する。

「推測にすぎないけど、あの司書さんがビブリオマニアなんだろうね。木を隠すなら森っていうでしょ。昼間留守にしている自分の家に隠しておくのが不安だから、ここに隠してるんだと思う」

「司書さんの私物ってこと?」ぼくがそう確認すると、「私物どうかは分からないけど」とはぐらかされてしまう。こちらの手元を覗きこむツヅリは表紙に視線を落とし、説明を再開させる。「この著者の本は、もっとも古い時代のもので、紀元前まで遡るの」

 どういうことだろう、と訝しむ。だってこの本は、どれだけ古く見積もっても、百年前がせいぜいだ。紀元前に書かれた本の、復刻版――レプリカ、ということだろうか。いや、ツヅリの言い方はそういったニュアンスではなかった。もっとも古い時代のもので、とツヅリは言った。それはつまり――。

「うん、そうなの。ただ古いだけなら古文書としての価値しかないんだけど、この著者の本は、未だに新作が発表されつづけているの」

「紀元前から? ずっと?」そんなばかなと苦笑う。

「もちろん、同じ人物が何千年も生き続けているなんて考えている人はいないよ。でも、文章のルールだとか思想的な部分――世界観が、どれも同じなの。あ、もちろん文章のルールって言っても、普通に読んでたらぜったいに気づけないような、法則――えっと、ある種の暗合みたいなものなんだけどね。でも、だからこそ、それがずっと引き継がれているっていうのは、ほんとうにひとりの人物が延々と物語を紡ぎつづけている可能性が高いってことを示唆しているとも考えられるの」

「でも、ありえないでしょ」

「そう、ありえない。でも、この本を綴ったひとは明らかに、〈ガユシン=レパセザリー〉と同調していると言えちゃう。それくらい、これまでに紡がれてきた物語と合致するの。とても自然に。違和感なく。あたかも、〈ガユシン=レパセザリー〉の頭のなかを覗いているみたいに。まるで、〈ガユシン=レパセザリー〉なる人物が不死者であるかのように」

「まあ……それは分かったけど、それで、ぼくにどうしろと。そんなたいそうな作者が書いた本がこれだってのは判ったけど」言いながらぼくは、はた、とひらめく。「まさか、盗み出すなんて言わないよね」

 仮にこの本が学校の所持品だったなら、窃盗の肩棒を担ぐのもやぶさかではなかった。ただ、この本の持ち主が司書さんかもしれないと知ってしまった今、司書さんに無断で持ち出すなんてことは、どうしたって気が引けてしまう。ぼくは司書さんを困らせたくない。

「盗む必要なんてないよ。用があるのは、この本ではなくて、この本の中身――ここに綴られている物語のほうだから」

「どういう意味?」

「だからね、シグレに読んでほしいの。この本の扉を開けてほしいの」

 おねがい、とツヅリはぼくの手ごと本を握った。両手でがっしりと。

「読むって言っても……ねえ」

 この本は日本語ではない。装丁からしても、中身が晦渋な文章のてんこもりであると予感される。表題が英語らしき文字で綴られているとかろうじて判る程度のぼくが、どうしてこの本を読み解けようか。読み解けるわけがない。

 ただ、一度ならず二度もぼくはツヅリに、「読む」と約束したのだ。意地でも読んでみせる。

「わかったよ。必ず読むから」とぼくは誓う。そのうえで、でも、と断った。「でも、今すぐにはムリだよ。ぼくにはこの本は難しすぎる。時間をくれないかな。ぜったいに読んでみせるから」

 こちらの心を覗けるというのなら、このとき、ぼくがどれほど固い決意を秘めているのか、ツヅリには伝わっていたはずだ。だのに暗がりに塗れたツヅリの影(シルエット)からは、たぷん、たぷん、と今にも溢れだしそうなそうなほどに不安定な、「不服」の二文字が漂って感じられた。ここで泣かれるのは本望ではない。だが現状、これがぼくのせいいっぱいの誠意だったし、応えだった。

「もうしわけないんだけど」と畏まるしかない。もういちど、今度ははっきりとこう告げた。「今すぐは……ムリだよ」

「そんなことない」ツヅリはうつむいたまま、ちいさく抗議した。沸騰しかけの水面に、気泡が浮きあがるような、しずかな、けれど奔騰を予感させるちからづよさがあった。いちど下唇をかみしめてからツヅリはさらに、「今じゃなきゃダメなの」と語気をつよめる。「おねがい、わたしを連れてって」

 連れていく?

「どこに?」

「この本が示す世界に」

 ツヅリはぼくの抱えている本に、ふたたび両手を添えた。ぐい、と縋るように顎をあげて、ぼくを見詰めるようにした。

 やれやれ。ぼくは痛くなりつつある頭を揺さぶる。ぼくはツヅリを信用しているし、これからだって信用してあげたい。でも、なんでもかでも無条件に信じたりはしない。それは盲信であって、信用ではないからだ。

「いくらなんでも、そんな無茶なおねがい、ぼくなんかじゃとてもじゃないけど」

 むりだよ、と口にするまえに、悲痛な声に遮られてしまう。

「できるの。シグレにはできるんだもん」ぐすん、と鼻をすするツヅリはとてもけなげだ。ああ、ついに泣かせてしまったと申しわけなく思ったのも束の間、「泣いてないもん」と彼女は強情を張った。俯いたツヅリの頭に手を載せる。「わかった。やれるだけやってみる。それでダメだっったら、司書さんに頼んでみよう。司書さんなら、日本語じゃなくても読めると思うし」なんたって、ツヅリの推測がただしければ、この本の持ち主なのだから。「ね? それでいいでしょ」

 こちらがこれだけ譲歩すれば、ツヅリだって折れてくれる。それでなくたって、妥協くらいはしてくれるだろうと期待した。だが甘かった。

「シグレじゃなきゃダメなの。ダメなんだもん」

 かんぜんに駄々っ子と化していた。

 目をつむっても、瞼を開いていても、ほとんど差異の生じないほどの暗がりの中にあってもツヅリの瞳は、うるうると揺れて見えた。

「わかったよ。ツヅリが満足するまで、付き合うから」

 ――だからもう、泣かないで。

 初めてツヅリと出会った日のことを思いだす。ぼくはこのコに、慰められた。ずっと殻に閉じ込めていた心を見抜かれて、どうしてそんな重い殻をまとっているの、と素っ裸にされた。その殻がなくては凍えてしまうのに、それでもツヅリは、だったらわたしが暖めてあげるとでも誓ってくれるみたいに、ずっとぼくの頭を撫でてくれていた。それが正しいことなのか、わるいことなのかなんて、分からない。それでもぼくはツヅリにそうしてもらえたことで救われた。肯定され、認めてもらえたことで、救われた。それだけが確かなことなのだと、ぼくは少し不安に、けれど、ほっこりとあたたかく、ありがたく、思っている。

 今はその逆で、ぼくがツヅリの頭を撫でている。

 しょうがない。きみのわがままに付き合うよ。

      ◎

 ツヅリ、と名乗ったこの少女のことをぼくはなにも知らないままだ。彼女の名字だって知らないし、彼女の年齢や、学年クラス、生まれはどこで、どこに住んでいるのか、そもそもぼくに名乗ってくれた「ツヅリ」という名が真実に彼女の本名であるのかさえぼくは確かめられなかった。

 ぼくは別に、それでもいい、と思っていた。ツヅリが何者で、どこの誰だか知らなくたって、ぼくにとって彼女は〈ツヅリ〉以外のなにものでもなかったし、それがゆいいつぜったいに譲れない、ぼくの現実だったから。だから逆にぼくの知らないツヅリの側面を知ることを、ほんとうはぼく自身、おそれていたのかもしれない。ぼくが彼女の素性を知らないということは、とりもなおさず、彼女がこの学校の生徒ではない可能性もあるということだし、どこぞの精神病院から逃げだしてきた精神異常者だという可能性だって否定しきれない。ましてや実体を持たない幽霊だとか、頭の狂ったぼくの空想上のキャラクタだったとしても、それはそれでありえそうな妖しさがツヅリからはいつだって滲み出ていた。

 ツヅリには他人の思考が読める。少なからず、ぼくの思考を読むことのできる人物であることは、これまでの短い付き合いでも容易に窺い知れた。加えて彼女は、通常人間にでき得る運動をはるかに逸脱した動きができる。それもまた、この四日間という短い期間内でぼくの知ることのできた〈ツヅリ〉の性質だ。

 ツヅリは瞬間的に空間を移動できるような術を持っている。それは直線的な移動ではなく、どこか空間転移的な、点と点を、飛び移るような移動だった。仮に、どんなに早く移動できる人間であろうとも、まったく空気を動かさずに移動するなんてことはできない。だが、ツヅリはいつも、風ひとつ生じさえずに、ぼくのとなりへ出現し、または消失した。

 明らかに常軌を逸した出没ぶりだった。

 ただ、ぼくにとってそんな彼女の特異な性質は、彼女の破天荒な人格からすれば、個性にもなり得ないくらいの、特徴にすぎなかった。彼女がエスパーだろうと、ぼくの妄想の産物だろうと、実在だろうと仮称だろうと、そんなことは関係ない。

 ぼくにはツヅリが視えていた。

 それがぼくにとっての現実で。

 これがぼくにとっての真実だ。

      ◎

「本は扉にすぎないの」とツヅリは語った。「シグレは知らないだろうけど、文字にはね、『言霊』が宿っているの。文字という〈形〉たちにはね、『力』が宿っているんだよ。『力』っていうのは、循環なの。この世界にあるあらゆる『力』は、いろんな循環が織りなすたくさんの循環系の産物。分かるでしょ? 原子は、電子や陽子核からできていて、細胞は、タンパク質やミトコンドリアでできていて、この肉体は、たくさんの臓器や筋肉、骨格、血液からできている。そうした肉体が『私たち』という人類をつくりあげていて、人類はこの自然界を大きく変質させている。その自然界だって、地球という星屑の一面でしかなくって、この地球ですら、広大な宇宙を構成するドットのひとつでしかない。循環系はひとつの円であり、点でもあるの。それらたくさんの円は、さらに大きな循環系を生みだすための点となって、そうして『力』は、最終的な一点――ゆいいつの『力』へと向けて、変質と変遷を繰りかえし、循環しつづけるの」

 なんの話をしているのかは分からなかったけれど、その話がツヅリにとって大切な、胸に秘めていた重要な話であることはぼくにも判った。ツヅリはぼくの相槌を俟つことなく、さらに続けた。

「文字っていうのはね、そういった《世界》にながれる『力』を、恣意的に循環させる〈枷〉なの。文字に沿って、《世界》の循環系を――点を――円を――その〈形〉に限定させるための、〈枷〉。それが『言霊』の意味であり、意義なの。本来、文字には、《世界》を制御する『力』が宿ってた。でも、いつの時代からか、『言霊』もまた、言語のように、情報伝達手段のひとつとして人類に使われだしてしまった。それ以来、この世界から、『言霊』は消滅してしまったの。たくさんの言語と、たくさんの単語に埋もれて」

 ツヅリがぼくの胸に視線を注いだ。ぼくは腕のちからを抜き、抱きかかえていた本を見下ろす。ツヅリはたぶん、こう言いたいのだ。この本には、失われた『言霊』が宿っていると。

「はんぶん正解かな」と呼応するツヅリ。「精確には、その本をつむいだ人物、〈ガユシン・レパセザリー〉って人が、『言霊』を操れたってことが重要なの。この本そのものには、五十年くらい前のイングリッシュが印刷されているだけだよ。でも、さっきも言ったけど、わたしにとって大切なのは、この本そのものじゃなくって、この本の中身。ここにある物語なの。〈ガユシン・レパセザリー〉は、自身の著書に、『言霊』を忍ばせているんだよ。巧妙に。歯車を組み合せて精巧な機械仕掛けをつくりあげるみたいに」

「どういうこと?」この本そのものがひとつの『言霊』ということだろうか。ここに綴られているたくさんの文字ではなく、『物語』がひとつで一単位、すなわち『言霊』なのだろうか。

「そうだよ」どことなく切なげにツヅリはうなずいた。「この本がひとつで、ひとつの『言霊』なの。さっきわたし、言ったよね。『力』は循環することで生まれてるって。『言霊』はね、《世界》を構成している循環系を、『言霊』という〈形〉に、変換させちゃう性質があるの。強制的にね。さも、川の水が、掘った溝に沿ってながれを変えるみたいに」

「それって、世界を、その『言霊』に見合った世界に変えちゃえるってこと?」

「そこまで強力な『言霊』があれば、それも可能だと思う」ツヅリは曖昧に応じた。一呼吸ほどの思案の間が空く。すぐに、「でも」と補足する。「でも、基本的には、まだこの《世界》は、ひとつの循環系として完成していないから。たくさんの循環系――円――点で、構成されているでしょ。だから、この《世界》そのものを、ひとつの循環系として捉えられない以上は、『言霊』だけのちからで変えることは、まだ、難しいの」

 なるほど、と一応は納得を示しておく。

「それで、話はなんとなく分かったけど」と前置きし、やんわりと指摘する。「さっき最初にツヅリ、言ってたよね? 『この本は扉にすぎない』って。それってのは、どういうこと?」

 話が脱線してきたように感じていたぼくは、そう言って話を戻そうと試みた。ツヅリは、うん、と脈絡を正してくれた。

「その本は『言霊』だって話は今したでしょ。『言霊』の作用にも、それぞれに違いがあって、たくさんの性質があるんだけど――」

 言ってツヅリはみたびぼくの胸ごと本を見遣った。「その『言霊』に宿る『力』っていうのが、扉なの」

 どこに通ずる扉なのだろう、というこちらの疑問にツヅリは応じてくれなかった。声に出していないのだから当然なのだけれど、これまでのツヅリの反応からすれば若干の違和がある。ぼくが完全に訝しむまえに、ツヅリはさらりと話を繋いだ。

「扉を開けるには、鍵が必要なの。扉にしっかり同調できる鍵が」

 なるほど鍵か、とぼくは混乱しかけの頭で考えた。「だったら、その鍵を探さなきゃ」

「もう見つけたの。鍵って言っても、物じゃなくってね」

「物じゃ、ない?」ぼくはもう、てんてこまいだ。「物じゃない鍵って、なに? 暗証番号とか?」

「そうじゃない、そうじゃないの。この本を読み解くことのできるひと。それが鍵」

「にんげんが鍵ってこと!?」ぼくの驚嘆には反応せずにツヅリは述懐をはじめた。「苦労したんだ。何年かかったか分からない。ううん。この本をマイナが手に入れてくれてたって知ったのが、六年前。だから、そうだなぁ。かれこれ、六年かぁ。長かったような、短いような。うん。三十年以内で、扉と鍵、両方見つけられたってことは、幸運なんだよね」

「三十年? ごめん、話が見えなくなってきた」最初から滞りなく呑みこめる話だとは思っていなかったけれど、せめてぼくは理解したかった。ツヅリの話してくれることだから、理解してあげたかった。それがたとえ、誇大妄想だろうと、非現実的な絵空事だろうと、そんなのは瑣末な問題だ。

 とはいえ、もう少しぼくにも解るように話してもらえないと、理解のしようがないのも事実だった。

 暗がりに目が慣れてきたからか、ツヅリの姿がやけに鮮明な像となって見えている。ふしぎなくらいにはっきりと。まるで存在が浮きあがっているかのように。

 いや。

 ぼくは自分をとりまく違和に気が付いた。ぼくの身体は、この暗がりに同化したままだ。というよりも、この暗がり――さっきよりも深まっている。

 天井の赤外線センサからそそぐ紅色カーテンも、本棚の間隙から届く月明かりや、部屋全体を仄かに照らしていた街灯の余韻も、いっさいがっさいが途絶えている。すぐそば、よこにあったはずの本棚も目に映らない。いつの間にかぼくは、すっぽりと闇に包まれていた。

 闇を意識した途端に、ぐらり、と平衡感覚を失いかける。咄嗟に本棚を掴もうと腕を伸ばした。けれど、ぼくの腕は宙を掻いただけだった。そうしてぼくがバランスを崩すのを見越していたかのように、ツヅリはぼくの身体を支えた。彼女からたちのぼる花の香りが、ぼくを落ち着かせてくれる。

「うごいちゃダメ。ここは今、不安定な〈世界〉なんだから」

「ふざけないでよ」

 おどけた調子で抗議すると、

「ふざけてないよ」

 トゲのある声が返ってくる。

 心外だ、とでも叫びたそうなツヅリの剣幕は、たしかに真剣そのもので、ふざけているとは思えない。ただ、彼女の口にした語りはすべて、ふざけている。中二病患者だってもっとまともな設定を語りそうなものだ。

 なにが扉だ。なにが言霊だ。

 いくらぼくが対人スキルゼロレベルの人間だからってなんでもかでも頭から信じ込んだりなんかしないんだぞ。語る相手をいくら好きだからって、好いていたって、黙って騙されてやるほどぼくは優しくはない。

 やさしくはないんだ、と怒鳴る内なる声を押しのけるようにぼくは闇にまみれたツヅリの身体を――ぼくを支えてくれている彼女の身体をそっと抱き寄せる。

 ふたりの身体で本を挟むようにした。

「ほんとうにぼくに読めるの?」

「じぶんを信じて」ツヅリは言った。「じぶんだけを信じるの」

 まるで酷なことを言うかのように息苦しそうに、それでいて切実なひびきを伴っていた。

 じぶんだけを信じる。

 ツヅリを助けたいと望む、じぶんを。

 ぼくは信じようと思った。

 ツヅリの肩を抱いていたと思っていた手には本が掴まれており、ぼくはなんの疑問もなくそれを開いた。まばゆい光がぼくの身体だけを青白く浮かびあがらせる。


      ◎◎◎

 文字の海にぼくは浮かんでいる。文字と文字は連なり、一本の線となり、うねり、絡み、面となり、沈み、嵩み、層となり、そうしてぼくを包みこむ。

 一つ一つの文字を見てもそれが何を意味するのかは解らない。けれどぼくが触れると文字の群れはにわかに崩れ、貝が口を開けるように隙間を広げていく。隙間からは芳醇な「印象」の香りがほとばしる。

 嗅覚を刺激するそれらはしかし同時にぼやけた像となり、ドミノが倒れるようにつぎつぎとほどけては飛びだしていく。文字たちの香りとまじわって一つの色彩を帯びていく。

 文字の海にたゆたっているぼくはいつの間にか草原に立っており、遠くには空が、森が、山脈がぼくという存在のちいささを示すように広がり、風や音がないためか、まるで巨大な箱に閉じ込められたようなイビツな感覚を抱かせる。

 地球上のどこかにはありそうな自然だ。けれどぼくの抱いている圧倒感は、ここが地上のどこにもない世界なのだと判らせるに充分な質感を伴っている。

 そう、質感だ。

 風や音がないけれど、この自然はたしかに存在し、ぼくの見ている夢ではないことを歴然と示していると同時に、本来ぼくのいるべき場所ではないのだと実感させるに充分な違和感をも引き連れている。

 肌触りがちがう。拒まれていると言うべきか。

 ふと息が苦しくなり、呼吸を止めていることに気づく。

 息を吸うと、まるで壁に唇をつけ巨大なストローで以って数キロ先から空気を吸うような抵抗感があった。

 周囲を漂っていた文字の海はすでになく、異世界というべき風景が細長い風となり、紐のような筋となってするするとソーメンを啜る感覚で、呼吸をすべく開けたぼくの口のなかへと雪崩れこんでくる。

 ぼくのお腹はそれでも膨れることはなく、底なし沼を地で描くようにソーメンのように流れ込んでくるそれらをひたすらに呑みこんでいく。やがてぼくの周囲を中心に風景にはシワが刻まれていく。真っ白いシーツをより集めるような調子で、段々と遠くの風景までもがたぐり寄せられていく。歪んだ景色はすでにそこに何が描かれていたのかの判別がつかず、間もなく空や森や山脈までもがぼくのなかへと吸い込まれていく。

 あとに残ったのは、白銀の世界。いや、真っ黒であり、真っ白であり、色というよりもぼくだけがここにいるのだと思わせる希薄さだけが残った。もしブラックホールがあらゆる星々を吸い込んだあとに一人取り残されたとすればこんな気持ちになっただろう。そう思わせるような寂しさがぼくを希薄にしていく。やがてそれは周囲の希薄さを越え、ひたすらにぼくという存在をちっぽけな存在に仕立て上げていく。ふしぎと胸には家に帰るような安心感が湧き、ぼくは気泡のようにどこへともなく浮上していく――浮上していると知れたのは白か黒か、白銀か、まるで解らないただただ希薄だった世界が、どんどん雑多な色彩を帯び、やがて肌寒さを感じ、間もなくあたたかい場所へ近づいているのだと判ったからだ。

 ふと懐かしい匂いを嗅いだ。

 なんの匂いだっけと記憶を撹拌し、あれでもないこれでもないと淀んだ意識がはっきりしはじめてきたころ、ああそうだ本の匂いだと思い到った。

 到ったとき、ぼくは図書室のゆかに倒れていた。スズメの鳴き声がかしましく聞こえている。視界を縁どるように屹立する本棚を辿り、まっすぐと視線を伸ばすとそこには天井がぼやけていた。図書室の天井ってこんなだっけとまじまじと観察していると、ひょっこりよこから顔が覗いた。

 ここでようやくぼくは日差しの余波が辺りをぼんやりと薄暗く照らしていることに気づき、いつの間にか夜が明けていたことを知った。

 ツヅリ。

 視軸が定まらないためか目のまえの人物の顔がぼやけて映る。ぼくはもちろんそれがツヅリなのだと何の疑いもなく思ったのだけれど、こちらの呼び声になぜかその人物は臆したように身を強張らせ、それから意を決したように、

「だいじょうぶ?」

 ぼくを抱き起すようにした。

 舌っ足らずなツヅリの声とは対照的に落ち着き払った声音だった。

 視界が明瞭になっていく。今まで水に潜っていたかのようなモヤが晴れた。

「司書さん?」

「ほんとうは叱らなきゃいけないんだろうけど」司書さんは困ったように眉を八の字に寄せ、「ひとまず、きみが無事でよかったです」とよくわからないことを言った。

「あの、すみませんでした」

 夜中に忍び込んだことを謝罪してからぼくは周囲を見渡した。ツヅリの姿はない。司書さんが正座の体勢でこちらを見据えている。ぼくは構わず立ち上がり、よろけながら本棚の迷路を抜ける。テーブルが並ぶひらけた場所まできてようやくぼくはこの場にツヅリがいないことを察した。

「誰を探しているの」

 振り向くと司書さんが立っていた。

「あの……」

 ぼくだけですか、と訊ねようとしたけれど、途中で呑みこんだ。訊いてみたところで答えはたぶん決まっている。

 ぼくはここで一人で倒れていて、司書さんが起こしてくれた。

 きっとツヅリは満足したのだろう。だから消えたのだ。ぼくは十全に役割をこなすことができた。だから一人、取り残された。用済みになったと考えたら少しさびしい気もするけれど、ツヅリが「鍵」となる誰かを探しつづける悪夢から抜けだせたと思えば、それもよしと思えた。

 ぼくは役に立てたのだ。

 そうでしょ、ツヅリ。

 窓から差しこむ日差しにささやくようにしてぼくは目を細める。

 きょうのところは家に帰ってゆっくり休みなさい。

 司書さんはぼくを校門のところまで案内するように歩き、

 つぎに登校したとき、放課後に図書室に来くること。

 言いつけるとそそくさと内側から校門の柵を閉めた。ぼくは締め出され、帰宅の途に就く。てっきりお昼くらいになっているのかと思ったけれど、夜が明けたばかりらしく、スズメがまだ鳴いている。ぼくはトボトボと歩きながら、なぜ司書さんはこんな朝早くから学校にいたのだろう、とどうもでいいことを考えた。

 大きな欠伸を一つする。


      ◎

 その日は学校を休んだ。あまりに眠かったのと、修学旅行に行っていた同級生たちが帰ってくる日だったのとで気分が優れず、ズル休みをした。次の日は土日で、けっきょく司書さんのもとを訪れたのはあれから三日後のことだった。

「しつれいします。司書さんはいますか」

 司書室では、図書委員の生徒たちが談笑していた。めいわくそうにこちらを向き、どっか行ったー、と軽い口調で答えた。

 図書室で待っていようと思い、なんとなしに窓際の席に座った。窓のそとを眺めていると司書さんの姿を見つけた。校庭のほうへと歩いていく。そちらには旧校舎がある。来年撤去されるらしく、立ち入り禁止とされている。

 考える前にぼくはあとを追っている。

 鍵がかかっているはずの正面玄関が開いており、司書さんがなかに入ったのだと思った。カラスの鳴き声がし、ぼくは瞬時に心細くなった。出てくるのを待とうと思ったけれど、なんのこれしきイクジなし、と変な自尊心が働き、おばけなんてないさ、と心のなかで口ずさみながら旧校舎へと足を踏み入れている。

 ホコリの積もった廊下にははっきりと司書さんらしき人物の足跡が残っていた。辿っていくと図書室に辿り着いた。扉を開けると、いちだんと濃いカビの匂いが鼻を突いた。

「あら、見つかっちゃった」

 司書さんはゆかに屈んでいた。なにをしているのだろう。ぼくは思い、そう訊ねた。

「ちょっとむかしのことを思いだしちゃってね」

 教育実習に来たときもこの学校だったの、と司書さんは語った。そのころに司書さんは一人の少女と出会ったそうだ。

「なかなか魅力的なコでね。困ってるって言うから、助けになってあげようと思ったんだけど」

 当時、親友と仲違いしてしまった司書さんはどこかでその償いというべきか、良心の呵責の釣り合いを測ろうとしていたそうだ。だからなのかな、と目を伏せながら、目のまえで困っている少女を放っておけなかったのだ、と司書さんは心苦しそうに語った。

 司書さんとその少女とのあいだには何か忘れがたい事件があったのだろうとぼくは瞬時に見抜いた。しかし司書さんにはそれを話すつもりはないようで、いろいろあってね、とお茶を濁した。

「いろいろあって、それでけっきょくそのコともお別れしちゃったの」

 未練があるのだろうか。

「そのコのこと、心残りなんですか」とぼくは訊いた。

「心残り、とはちがうんのかなぁ。なんだろう。もっとはっきりそれじゃダメなんだよって突き離してあげるべきだったんじゃないかって。ずっと引っかかってて」

 司書さんは胸を押さえるようにした。

「そのコはね、とある本を探していたの」

「本、ですか」

「そう。ただの本なんだけどね。今じゃなかなか手に入らない貴重な本で」

「どうして」とぼくは話の腰を折らないように、けれど確認しておきたいことを訊いた。「そのコは司書さんに助けを求めたんでしょう」

「わたしが持っていたの。その本をだよ。たぶん最初からそれを知っていてあのコはわたしに近づいたんだと思う」

「どうして司書さんはその本をそのコに渡してあげなかったんですか」話の脈絡からすれば司書さんはそのコの頼みを聞かなかったということになる。

「そうね。どうしてだろう。最初はそのコのためならって乗り気だったんだけど」

 話しながらも司書さんはゆかにしゃがんだ姿勢を維持し、ゆかをゆか足らしめている板を剥ぎ取るようにゆびに力を籠めている。そうしてウンウン四苦八苦しながら、なんとなくかな、と言った。

「ほんとうにただなんとなく、そのコのしようとしていることがそのコのためにならないんじゃないかって思っちゃって」

 説明できるほど明確な理由はないんだけど、と司書さんが体重をうしろに傾けるようにすると、弾けるようにしてゆかをゆか足らしめている板が外れた。

「オイテテ」

 でんぐりがえしをするように転がった司書さんは上半身を起こし、あたまを手で押さえるようにした。たんこぶができていないかと確かめるようにしながらこちらを見、あーびっくりした、と目を白黒させる。

「なにがしたいんですか」ぼくはたまらず司書さんのもとに駆け寄り、だいじょうぶですか、と助け起こす。司書さんは衣服についたホコリを払い、「ここにね」と言った。「隠しておいたの」

 ぽっかり穴の開いたゆかの中に一冊の本がおさまっていた。

「ひょっとしてそれって」

「うん。そのコの欲しがってた本」

 司書さんは本を両手で掴み、顔のまえに掲げるようにした。数年ぶりに再会したペットを抱き上げるようなさわやかな表情を浮かべている。いっぽうでぼくは気が気ではなかった。

「だってじゃあ、あの本は――」

 ツヅリの手にした本は何だったのだろう。

 司書さんがかつて繋がりをもった少女がツヅリなのだとぼくはすでに何の疑いもなく結び付けて考えている。ツヅリは知らなかったのだろう。そして司書さんは知っていたのだ。自分の周囲にふたたびツヅリが現れ、本の在り処を探っていると。だからハメるような真似をしてツヅリを出し抜いた。

「あれもいちおう、本物ではあるんだよ」と司書さんはぼくを憐れむように見た。「ただ、あのコの求めていた世界への扉にはなり得ない」

「じゃあツヅリは……」

 つぶやくと司書さんはそこで息を呑むようにし、それから眉根を寄せたまま口元だけをほころばせた。「そっか。あのコ、わたしのあげた名前、まだ使ってくれてたんだ」

「司書さんがこんなひどいひとだなんて、ぼく……」

「思ってなかった? でもしょうがないんだよ。あのコにとっては不本意でも、わたしはこれがあのコのためだと思っているから」

「でもツヅリはずっと」

「そう。一人で、目的のためにがんばってた。わたしだって協力してあげたかった。でも、わたしにはどうしてもできなかったの」

「どうして」

「うまく言えないんだけど、たとえばね」司書さんは前置きし、「たとえば家出したコがいたとして」と語った。「きみはそのコが遠い国に旅に出たいと言いだしたとして、それを叶えてあげることがそのコのしあわせになると思う?」

「しあわせかどうかは解りません。でも、家出したいと思うような家に帰らせたくはないです」

「うん。わたしもそう思った。でもそのコは、遠い国に行って、戸籍を変えて、それでまったくの別人となって、武器も手に入れて、それでかつての家にいつの日にか仕返しに行こうとしていた。それでもきみはそのコの願いを叶えようと、遠い異国への旅立ちを肯定できる?」

「それは……」

「あのコの事情はもっと複雑そうだった。でも、かんたんに言っちゃえばそういうことなの。あのコはしあわせになりたくて【扉】を探していたわけじゃなかった。それを知ったからわたしはあのコに諦めてもらおうと、コレを隠したの。あのコには売り払ったと嘘を吐いたけど、もちろんいつかは真相に気づくだろうって」

「だから偽物を用意して、そのいつかが来る日に備えていたってことですか」

「まさかわたし以外に【鍵】となる人物があらわれるとは思ってなかったんだけどね」

 司書さんは言って、本を胸に抱いたまま歩きだす。ぼくへの話はこれでお終いのようだ。

「ツヅリはどこに消えたんですか」ぼくは司書さんの背に投げかける。

「さあ。どこだろう」

「そんな」ぼくは怒鳴っている。「無責任じゃないですか」

「うん。わたし、とっても無責任なの」

 言葉を失くす。

「わたしは、わたし以外がどうなってもいいと思っている。でも、わたしがしあわせでいるあいだはほかのひとたちにもしあわせであってほしいとも思っている」

「今、あなたはしあわせじゃないんですか」

「わたし? わたしは、そうだなぁ」

 司書さんは図書室の扉をくぐり、廊下に立ってから、

「まあまあかな」

 言って抱えた本を振った。表紙をがっしり掴んだゆびには、指輪が光っている。

 ぼくはそこでなぜか、ぼくが思っていたよりもツヅリはわるい環境にいるわけではないのだと思うことができた。きっと今ごろ頬を膨らまし、ふて腐れているにちがいない。

 想うとなぜか胸の奥がくすぐったくなった。まるで小人が内側でジタバタ暴れているようなこそばゆさがある。

 窓のそとを見遣ると、旧校舎から出てくる司書さんの姿が見えた。彼女の姿が校舎の影に消えたところで、ぼくも旧校舎をあとにした。

 校庭では修学旅行を終えた同級生たちが現役最後の試合を目前にし、汗水垂らし、それこそ練習に精をだしている。ぼくもぼくでコンテストの締め切りが刻一刻と迫ってきているのを意識せずにはいられない。

 カバンをとりに教室に戻ると、ぼくを仲間外れにしたグループが談笑していた。こちらの姿を認めるや否や、気まずそうに会話を中断させる。いったいなにをそんなに意識しているのだろう。ぼくはまるで意に介さず、カバンを手にとり、彼らのよこを通って教室をあとにした。さよならの挨拶をしてもよかったけれど、彼らは最後までこちらに視線を向けなかった。へんなの。

 自転車に乗り、通い慣れた道を下っていく。

 ぼくは一人なのに、なぜか今は二人分の淋しさが胸のうちにある。それらは絡みあうことなく、一つの意思を練り上げていく。

 司書さんはああ言っていたけれど、ぼくはぼくの目で、耳で、確かめなければならない。いつの日にか直接、ツヅリを問い詰めようとぼくは胸のうちに、確固たる意志を、炎を宿すのだった。

 アツい、アツいってばぁ。

 どこかで彼女のめいわくそうな声が聞こえた気がする。



   END【テキス〈ト〉ラベラー】  




千物語「赤」おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る