千物語「緑」

千物語「緑」


目次

【16ビートのゆくえ】

【おしっこに行ってきます】

【シフト⇒ガイド】



【16ビートのゆくえ】



      第一章『思い、傅(かしず)く。』


      ***

 好きじゃないんです、あたし。

 あなたのこと、と端的に言ってあげたのは、それこそ好きではなかったからだ。目のまえの男は冗談を言われたみたいに、へらへら、と軽薄な笑みを浮かべたあとで、虚を衝かれたように目を剥いた。「え、ダメってこと? なんで? だって、え?」

 まるであたしが恋人になることが前提だったみたいなたじろぎ具合だ。男ってこれだからイヤになる。ちょっと愛想良くして、二、三回寝てやったくらいで図に乗るんだ。

「そっか、そうだよね。最初からそう言ってあげてたらよかったんだよね」

 勘違いさせてごめんね、と申しわけなさを醸しつつ、最大限にプライドを傷つける台詞を投げかけてやるあたしは善い人だ。だってこうしておけば綺麗さっぱり吹っ切れるだろ。あたしのことも。あたしへの想いも。

 あんたはただのお財布代わりだったんだよ。そうと教えてやるほどあたしは良い子じゃないけど、でも、あんたの見ているあたしは幻想なんだよ、って教えてやるくらいには人間ができているつもりなんだ、これでもさ。

 あと腐れってやつも残さないようにしたいし。男って、面倒な生き物だし。単純なようでいて妙に粘着質だし。とりもなおさず、鼻っ柱だけは頑丈だから。それをぽっきり折っておかないことには、納豆よりも腐って、しつっこいんだ。だからこうして最大限に猫をかぶったままであたしは、最小限の毒を吐く。「あれ、このコこんなこと言うコだったんだ」と思わせて、純情な娘ではなかったことをそれとなく示唆してあげる。

 男って生き物は存外に、気遣われていることに傷つく生き物だから。気遣われていることが弱いことだって勘違いする生き物だから。あまつさえそれが、自分で守っていたつもりの、か弱い女の子から掛けられた気遣いであるのなら、それこそ不意打ちなみの傷心を負っちゃう軟弱な生き物だから。

「ごめんなさい、これから彼氏と待ち合わせなの。またね」

 居もしない彼氏をでっちあげその場を去る。またね、とは言ったものの、もう二度とこちらからは連絡なんてしないし、向こうだって連絡してこない。これで連絡してくるような獣じみた男は最初から相手にしていない。事実上、これが最後の挨拶になる。

 用なしの男に、浅く、鋭い、傷心を負わせることができたらあたしは、つぎの宿り木を目指して飛び立つんだ。立つ鳥、跡を濁さず。そんな感じ。

 夜の繁華街は、昼間よりもまばゆい。たくさんの光が、強烈に自己主張するみたいに点滅している。だから太陽よりも明るくないくせに、まぶしく感じられる。

 雑踏を縫うように歩きながらメディア端末を開く。ディスプレイを操作して、コールする。相手は幼馴染の「八千(やっち)舞奈(まいな)」十八歳。あたしんほうが一つ歳上だけど、舞奈のほうが大人びていたりする。見た目ではなく精神面での話だ。なにかと世話を焼きたがるのが玉に瑕ではあるものの、あたしのゆいいつ認める、できたコだ。

「はい。もしもし」舞奈の声が鼓膜に染みる。いつまで経っても少女みたいな声は、やはりいつまでも未成熟に幼稚な体型の賜物かもしれない。舞奈はきっと三十路を過ぎてもきれいなままだ。むしろ老けるほどきれいになっていくにちがいない。

「おーす」と第一声。単刀直入に、「今から逢えない?」

「あ、シズちゃん?」確認してくるあたり、未だに番号を登録してくれていないらしい。舞奈のメモリには誰の番号も入っていない。バイト先とか、学校の事務だとか、実家とか、そういった個人以外の連絡先が登録されているだけだ。――なぜか。自分から相手に掛けることがないからだ。舞奈はいつも受信する側だ。それでも友人が多いのは、ひとえに舞奈の人柄の良さに起因している。

「今から? だってもう夜だよ」

「知ってるけど」夜だから逢いたいんだよ、とどやしてやりたい。「やっぱり、だめ?」

「だめっていうか」舞奈の煮え切らないお返事。おおかた大学のレポートでもしているのだろう。これだから真面目っ子は、と呆れてしまう。「せっかくの夏休みじゃん、たまには夜遊びのひとつやふたつしとこうよ」

「でも……今日はちょっと」

「ふうん。そ。ならいいや」口調が尖らないようにしたつもりだったけど、すこし険しくなったかも。なるたけ柔和に、「じゃあさ、いつなら都合つく?」とくじけず誘う。

「いつだろう。いつがいいの?」

「今からはだめなんでしょ。だったら明日の朝は」

「朝って何時ごろ」

 できるだけ早く、と駄々をこねる。

「うーん。じゃあ、お日さま昇ってからなら」

「え、ほんと? そんな早くていいの?」

 なにそれ、と舞奈がころころ笑った。「シズちゃんができるだけ早くって言ったから」

「ごめん。ありがと。じゃあ、六時にいつもの公園で。あ、それとも家まで迎えに行こうか」約束すっぽかされるのいやだし、と声に出さずに付け足す。舞奈は実家住まいだ。あたしのマンションから割と近い。今いるこの繁華街からだと電車で十駅ほど離れている。「どうする? 迎えに行くくらい、わけないけど」迎えに行くと言っても徒歩だから、厳密には「押しかける」のほうが正しい。

「六時は早いと思うなぁ。うーん、でも、そうだなぁ。朝食はお家で済ませたいし。来てくれるならうれしいかも」

「じゃあ、七時に舞奈ん家ね。起こしてあげるから寝てていいよ」

「七時なら起きてる。ダイジョブ」

「あ……そう」

 あたしは起こしたいんだよ、と食い下がりたかったが、我慢する。よくよく考えたらそんな時間に伺ったとして、鍵が開いているとも限らない。舞奈に開けてもらわなければおそらくあたしはそとで待ち惚けだ。舞奈がひとり暮らしだったら、合鍵ほしいな、とわがままを言えたのに。そう腐ってみたけどすぐに、いや、言えないな、と思いなおす。

「なら、七時ね。待ってる」

 言って舞奈は、おやすみなさい、と囁いてくれた。包みこむようなその声があたしの脳髄を痺れさせる。

 

 通話完了の文字と共にディスプレイには、舞奈とのツーショット画像が浮かびあがる。小学生のころの写真だ。引っ込み思案だったあたしを舞奈が強引にそとへ連れだしたときのもの。写真を撮ってくれたのは、あたしたちを動物園まで連れていってくれた舞奈のお兄さん――マツタさん。だからこのディスプレイにはマツタさんは映っていない。屈託なく笑う妖精みたいな舞奈と、舞奈に抱きつかれて動けなくなっている暗い女の子――精いっぱいに笑おうとして顔を引きつかせている戸惑いがちの、幼いあたし。

 舞奈に振りまわされて辟易していた当時のあたしに、マツタさんはいつもこっそり、「シズクちゃん、ごめんね」と謝ってくれた。そのあと、付け加えるようにして、でもね、と必ずこう言った。

「でもね、これだけは分かってほしいんだ。舞奈はね、シズクちゃんがだいすきなんだよ」

 囁かれるたびにあたしはうつむいてしまう。言われるまでもなくそんなことは分かっていたからだ。けど、でも、どうして舞奈がこんなにもあたしを慕ってくれるのかが解らなかった。こわかった。舞奈の無邪気な好意を受け入れた瞬間、あたしも舞奈のことを心底好きになってしまうって予感が、如実に感じられていたから。そのころから舞奈は純粋で無垢すぎた。成長するごとにあとは汚れていくだけだと思っていた。そうなったら舞奈はあたしのことなんか嫌いになっちゃう。あたしはこれからずっと舞奈に嫌われつづけていくだけの存在なんだ。そんなふうに腐っていた。嫌われることも、失うことも、未だにあたしはこわいんだ。でもそれは、未だに舞奈が純粋で無垢なままだってことの裏返しでもあって、だからあたしはいつまでも、この、のっぺりと身体の裡側にこびりついた不安を抱きつづけていることを望んでいる。舞奈は今もまだ、あたしのことを慕ってくれている。あのころほどの強引さは消えてしまったけど。

「シズクちゃんは舞奈のこと、嫌いかな?」

 マツタさんはいつも最後にそう質問した。困った顔のあたしに見兼ねて、というよりも、むしろいじわるにあたしを困らせているふうだった。

「……きらいじゃないです」

 ここで、好きです、と言えなかった理由は、舞奈よりも好きなひとが目のまえにいたからだ。舞奈のことも好きだったけど、それ以上に、あたしはマツタさんのことが好きだった。初恋ってやつだったんだと思う。そのときはまだ、あたし自身、自分の想いには気づけていなかった。ただ、マツタさんをまえにすれば、その瞬間だけ、全世界の人間は、「嫌い」か「嫌いじゃない」か、に分類された。好き、はマツタさんだけのものだった。マツタさんだけに向けられた想いだった。

「舞奈ちゃんは、とても善いコだと、思います」言葉を選び選び、口にした。

「よかった」ふんわり、とほころびてくれるマツタさんはあたしの頭を撫でてくれる。

 マツタさんは舞奈の十歳上のお兄さんだった。舞奈とあたしは、集団登下校のグループでいっしょだった。そのときに、舞奈が異様にあたしに懐いてしまった。それが小学校二年生のときで、舞奈は小学一年生だった。舞奈があたしに構いだすようになって、押しかけるみたいにあたしん家まで来たのが、その年の夏休み。マツタさんとは、そこで出逢った。その期を境に、あたしは舞奈に引きずられるようにして外出するようになった。マツタさんがあたしたちの保護者代わりで、公園やプールや、ボール遊びのできる体育館へ連れていってくれた。そのころマツタさんは夜な夜な、駅前(ストリート)でダンスをしていた。学校では不良みたいだからということで部活として認定してもらえなかったらしい。舞奈にせがまれると渋々ながらもマツタさんはダンスを見せてくれた。初めて間近にダンスというものを目の当たりにし、あたしはひどく心踊らされた。影でこっそりマツタさんの真似をして踊っていたことは、未だにないしょ。舞奈にも言っていない。

 三人でのお出かけは、マツタさんがバイトをするようになると、途端に減ってしまった。その代わり、お給料が入るたびに、マツタさんはあたしたちを遊園地や動物園に連れていってくれるようになった。それが小学校四年生くらい。舞奈はまだ小学三年生で、マツタさんは十八歳、高校三年生だった。

 小学校五年生の夏休み。しょぼくれた舞奈から、「お兄ちゃんに彼女ができた」と聞いた。そのころ、マツタさんのメディア端末は、しょっちゅう着信音を鳴り響かせていた。『アンパンマンのマーチ』。以前からずっとその着信音だった。マツタさんといえば、「愛と勇気だけがトモダチのさびしい人」というイメージができあがっていたほどで、舞奈がそうからかうと、マツタさんはいつも笑ってこう言った。「ということは、舞奈が愛で、シズクちゃんが勇気だね」

 頻繁に鳴るようになったマツタさんのメディア端末。それが、彼女さんからのメールや電話だと知って、あたしはひどく傷ついた。ひどく傷ついて、ようやくあたしはマツタさんのことがだいすきなんだって気づくことができた。

 あたしはマツタさんに告白しようと思った。このままじゃいやだった。ダメだとさえ思った。

 その日、あたしはひとりで動物園まで出かけた。マツタさんを呼び出して、そこで想いのうちを告げようと思っていた。振られてもよかった。あたしの想いを知ってもらいたかった。ただそれだけだった。マツタさんはきっと、あたしが告白してもいままでどおりに接してくれる。あたしさえマツタさんを避けなければ、きっとこれまで以上にあたしたちは仲良くなれる。告白さえしてしまえば――あたしが失恋してしまえば――あたしはマツタさんに面と向かって、「舞奈のことがだいすきです」「あなたが大切に思っている妹さんのことが、あたしはだいすきです」――そう言ってあげることができるから。マツタさんがあたしに求めている応えは、きっとそれだから。それ以上でも、それ以下でもなく――たったのそれだけなのだから。

 だからあたしはあの日、舞奈にないしょで動物園まで足を運んだ。ひとりぼっちの動物園は、驚くくらい心細かった。それでもあたしは、あたしの本当にだいすきなひとを待っていた。夕方になってもマツタさんは来てくれなかった。嫌みなほどに夕陽が鮮やかだったのを憶えている。あたしはぐちゃぐちゃに泣きながら帰路についた。

 あたしがそうして自分のことに悲しんでいたあいだに、マツタさんは。

 あたしたちが大好きだったあのひとは、車に轢かれて死んでしまった。

 動物園まで来る道中の交差点だった。マツタさんを轢いた車はそのまま逃走した。後日、乗り捨てられた車だけが県境の山中で発見された。犯人は今もなお捕まっていない。

 あれ以来、舞奈が純粋に笑うことはなくなった。マツタさんが死んだことを受け入れていない舞奈は、だからいまもまだ、マツタさんの死を乗り越えることができないままでいる。舞奈の心はあの日を境に、完全とまではいかないまでも、閉じてしまった。

 胸が、しゅるり、と苦しくなる。マツタさんの映らない、けれどマツタさんの撮ってくれたこの写真を見るたびに。胸の奥へ奥へと、ぎゅう、ぎゅう、と圧縮されるみたいな嫌悪が湧く。でも、今もまだ苦しくなれるんだと実感するたびにあたしは、ほっとする。あたしはまだ、あのときのことを忘れてなんかいないんだって。マツタさんのことも。屈託なく笑う舞奈の姿も。あたしはまだ、忘れちゃいない。忘れてはいけない。これからさきもずっと。ぜったい。

      ***

 朝まで閑だったから、クラブで時間をつぶした。ちょうど好きなダンサーのショー・ケースだったこともあり、けっこう楽しめた。

「お、シズクじゃん。きょう、踊んの?」

 ショー・ケースの合間に、知り合いのDJから声を掛けられた。身体にひびく重低音で、大声を張りあげなきゃ会話もままならない。DJのはからいで、特別にVIPルームに入れてもらう。

「いんや。今日は見てるだけ」

「そっか、ざんねん」DJは眉を顰めつつも口元をほころばした。唇のピアスがきらめく。性懲りもなくまた空けたらしい。痛くないのかな、と心配しちゃう。今はちがう人がターンテーブルを回しているようだ。

 頼みもしないのにDJは勝手に、最近のクラブ事情だとか、新しく発掘した熱い曲について聞かせてくる。気前よくカクテルを驕ってもらった手前、聞き流しながらも相槌は打っていた。

「最近は、ケネティックが熱いな」

「ああ。あの仮面かぶってた奴ら」

「いや、仮面とったんだよ。したら顔が良くってよ。んで、一気にファンが増えた」

「アイドルじゃないんだから」ぼやきつつも、たしかにあのパフォーマンスの完成度でビジュアルまで良かったら言うことないな、と思わないでもない。前にいちど、彼らのショーケースを舞奈と観たことがあった。そのときはまだダンスを辞めていなかったから、ケネティックのパフォーマンスには正直、面食らった感が拭えなかった。悔しいとすら思った。今日出演する予定の「JET・KINGZ」と比べても引けをとらないくらいに胸を焦がされた。「JET・KINGZ」はプロダンサーで、あたしたちの憧れだった。そう、憧れだった。しんみりしそうになって、あたしは鼻を啜る。ぜんぜん引きずってなんかないもんね、と自分に言い聞かすみたいに。

「あ、そうだ!」

 良いこと思いついた、みたいにDJが唐突に声を張った。「つぎのDJタイムに熱いのスピンしてやるからさ、ちょっきし踊ってくれよ。今日の客、なんか冷めてるっていうか、乗りきれてないっつうか。シズクが踊ればフロアも沸くからさ。な、いいっしょ?」

「いやだ」即答する。言い訳がましく、「今日、ハイヒールだし」

「うわ、まじかよ」ありえねぇ、と渋面をされてしまう。「そういや、なんかお嬢さんっぽいな、その服。デートの帰りか」

「そんな感じ」と濁す。「踊んないけど、でも、熱い曲は聴きたい」と注文。「ビート利いてて、でも、ゆったりめのメローな感じがいいな。バラードとか」

「うーん」DJは唇をとがらせた。「客、シラけそうだな、それだと」

「ならいいや」

「いや、まかしとけ。やっばい、切ないの回してやるからよ。だからさ、今度またショーケース出てくれよ。みんなもさ、『シズクまでダンス辞めやがった』って心配してるし。なにより、もったいないって」

「うん、ありがと」考えとく、と適当にあしらっておく。するとDJが珍しく神妙な顔をつくって、「舞奈ちゃんか」と詰問するような、責め立てるような、不愉快極まりない口調で迫ってきた。「あのコが辞めたからって、なんでおまえまで辞めんだよ。シゲさんたちからも『チームに入らないか』って誘ってもらったんだろ? なんで断んだよ。まじ意味わかんねぇって」

 さすがに癪に障った。あたしは顔を逸らす。唸るようにして、

「好きじゃないんだよ、ダンス」

 ちいさく吐き捨てる。

「え、なに? 聞こえなかった」

 なんでもない、と手を振って示す。DJに向きなおらないままで、バイバイ、と手の振り方を変えてやる。VIPルームのそとに出ると、ちょうどステージからMCが現れたところだった。ふんだんに、韻を踏んだ軽妙なリズムで、前口上を捲し立てている。

「――それでは、本日とっておきの真打登場ッ、紹介しましょう、JETッ、KINGZ!」

 クルーの名前が叫ばれる。歓声がビリビリと鼓膜をつんざく。照明がステージのみを浮き彫りにさせる。ミュージックが大音量で流れだす。身体の芯まで揺さぶる重低音が、この空間全体を強制的に躍動させていく。悲鳴じみた歓声もミュージックに呑みこまれ、それであたかもひとつの音楽となっているみたいだ。

 ダンサーたちの華麗で楽しげな踊りを眺めていると、急速に胸の裡が、熱く滾っていく。身体がリズムを刻みだす。心臓がばくばく鳴っている。

 でも、あたしは踊らない。踊ってはいけない。踊る理由はもう、どこにもない。

      ***

 始発でマンションまで戻る。まずはなにを措いてもシャワーを浴びたい。煙草くさくなった身体を清めなくては。あたしは煙草が苦手だ。密閉された空間なんだから、クラブさんには、もっとこまめに換気してほしいものだ、と常々思っている。地下だから難しいのかもしんないけど。

 シャワー室から出ると、そとはすっかり朝だった。

 徹夜明けだというのに、ふしぎとまだ眠くはない。

 もしかしたら遠足を控えた子どもみたいに興奮しているのかもしれない。だとしたら舞奈ん家はさしずめ私だけの夢の国だ。

 他出の準備をする。化粧はファンデを薄めにするだけにした。ラインもツケまつ毛も口紅も付けない。あんまり化粧を濃くすると舞奈があたしを認識してくれなくなる。「どなたさまですか」なんて真面目な顔で言っちゃってくれるから、できるだけ素のままを心がけなくてはならない。でもあたしは思うんだ。化粧をしないままでもきれいな舞奈だからそんなふうに言えるんだよ、って。舞奈は善いコなんだけど、その辺、ちょっと自覚が足りてない。自分を中心にして考えているわけじゃないんだ。でも、もっと自分が特別な女の子だってことは認識したほうがいい。舞奈はちょっとそういうところが鈍感だから気づいてない。でも、舞奈の無垢でやさしい気遣いを逆恨みする人間も少なくはない。荒んだ人間にとっては、自分よりも恵まれているというそれだけで、その人を憎むことができるのだ。そういうことは知っておいたほうがいい。舞奈自身のために。そして、あたしのために。

 とはいえ、舞奈はそんな荒んだ人間に傷つけられることはない。きっとこの先もないはずだ。舞奈は麻痺しているから。水に水を足したって小さな波紋が生じるだけ。大きな変化はない。だから舞奈は気づかない。傷ついていることに気づけない。癒えない、消えない、傷跡が――舞奈の裡にはすでにぽっかりと空いている。

 鏡の中のあたしは浮かない、暗い顔をしている。むかしから変わらないあたしは、見かけだけを彩って、ぴかぴか着飾って、すっかり曇ってしまった太陽を照らしてあげたいんだ。豆電球みたいなちっぽけな光かもしれないけど、あたしはもういちどあのコに笑ってほしい。

 ジーンズにぴっちりめのTシャツに着替える。かなり地味な格好だけど、身体にフィットしているから、それなりに男どもを惹きつけられる格好だ。小腹が減っていたけど、我慢する。朝食をとらずに家を出る。マンションから出るときにいちど、ぐぅ、と腹が鳴った。あたしの分の朝食も作ってくれるかな。淡いようで甘い期待を胸に、あたしは舞奈の家へと歩を向ける。清々しい朝だった。さんさんとした陽射し。風もからっと涼しく、あたしの火照った頬を冷ましてくれる。

 ふぁーあ。

 あたしはひとっつ、大きな欠伸をする。

      ***

 地下鉄の駅を下りると、哀愁漂う小さな商店街が出迎える。シャッターの閉まったままの店を横目に、道なりにまっすぐ抜けていくと、ひっそりとした住宅街に出る。そこに舞奈の家は埋もれるようにして建っている。駐車場も庭もあるから敷地は大きいけど、どこにでも有り触れている一軒家だ。

 車がない。どうやらおじさんもおばさんもすでに出勤したらしい。朝早いのは八千家の習性だ。真面目なんだ、舞奈の家族は。

 呼び鈴は鳴らさずにメディア端末で、到着の一報を打った。『着いたよー』

 間もなく扉が開く。舞奈の顔が覗いた。寝巻姿だった。寝癖が立っている。これだけ隙のある舞奈はひさしぶりだ。

「おはよう」と舞奈。

「来ちゃった」

「来るの、はやい気がする」

「そ?」あたしはそらとぼける。「ほら、五分前行動ってやつ」

「……五分? 七時まであと四十分もあるんだよ」

「あ、そう? 気づかなかった」あたしはしれっとうそを吐く。それから、はやいって言えばさ、とすかさず話題を逸らす。「はやいって言えば、おじさんもおばさんも、もう出かけたんだ。相変わらずだね」

「帰ってきてないだけだよ」そっけなく言って舞奈は、どうぞ、と家のなかへ招く。「シズちゃんも食べるでしょ?」

「朝ごはん? いるいる」

「まだできてないの。座ってて」

 リビングに通される。いつ来てもこの家はきれいだ。いつだって散らかっているあたしの部屋とは大違い。

 テーブルの上にはお皿が並べられていた。あたしの分まである。最初からご馳走してくれるつもりだったのだ。なんだかんだ言って、舞奈はあたしのことを思ってくれている。

「ホットケーキでいい? それともお魚とか、おみそ汁とか、そっちのほうがよかった?」

「ううん。ホットケーキがいい」ということは、いっしょにコーンスープも出てくるはずだ。案の定、数分後にはファミレスで出てくるみたいに美味そうなホットケーキ・セット(サラダ付き)が目のまえに置かれた。

「いただきまーす」

 舞奈がナイフとフォークを使って上品にホットケーキを切り分ける。ひと口大にしてから、口に運んだ。舞奈が、もぐもぐ、としたのを見届けてからあたしもフォークをホットケーキに突き刺す。ずさんに切り分けて、ぱっくんと頬張る。「うっめえ」

「おおげさ」舞奈がほっぺに笑窪を空ける。「コーンスープ、ちょっと牛乳入れすぎたかも。味、うすくない?」

「ぜんっぜん」すごく美味しいよ、と皿を持ち上げて口元に付ける。ずずぅ、とお行儀わるくひと息に啜った。ホットケーキで口ん中が渇いていたから、あっという間に飲み干してしまう。「ぷはっ」息継ぎをしてからずうずうしく、「おかわりってある?」と首を伸ばしてキッチンを覗く。

「あるよ」舞奈はこちらに手を伸ばして、

「はい。貸して」

 あたしはからっぽになったお皿を手渡した。

 席を立つと舞奈はキッチンへと入っていった。

 くすぐったい陽気が、腹のそこから胸元を通って、口元まで湧きあがる。どうにも堪え切れずに、にへらにんにん、と頬がだらしなくゆるんでしまう。舞奈が戻ってくる前に、口を、いー、と噛みしめて顔を引き締めにかかる。

「どうしたの、まじめな顔しちゃって」

 戻ってきた舞奈が、ちいさく噴きだした。その拍子にコーンスープが零れてしまう。テーブルのクロスに、ぽつり、ぽつり、と染みができる。台布巾で拭いながら舞奈が、

「あーあ。シズちゃんのせいだ」

 柔和な声で責めてくる。からかうみたいに。歌うみたいに。

 途端に、胸の奥が、ぎゅぅ、と縮んだ。締めつけられるみたいに。縛られたみたいに。

 急に視界が濁ってしまう。溺れたみたいに、歪んでしまう。

 あたしはどぎつく歯を食いしばる。――そうだよね、あたしのせいだよね。

「ふふっ」舞奈が目じりを下げて無邪気に揶揄する。「シズちゃん、へんてこな顔してる」

「うっさい」あたしはそっぽを向く。「生まれつきだい」

 欠伸の真似をしてから、そっと袖で目元を拭った。

 お腹がいっぱいになったからだろうか、なんだかほんとうに眠くなってきた。

      ***

 舞奈の部屋は八年前から変わらない。ぬいぐるみがそこかしこに飾ってあって、壁紙が小さな花柄の、ピンク色をしている。カーテンは可愛らしい装飾の施されているフリルで、ここに男が住んでいたらどん引きすること請け合いの、そんな部屋だ。八年前から変わった点といえば、学習机がなくなったことくらいで、減ることのないぬいぐるみの数は、もちろん、増えることもない。

 部屋の真ん中にちゃぶ台があり、そのわきに腰を下ろす。うしろにベッドがあるから、背もたれ代わりに寄りかかる。

「どこか行く?」

 訊かれてから、ああそっか、今日は遊ぶ予定だったんだ、と思いだす。「どうしよう。なんかもう、ここでのんびりしたいかも」

「だと思った」

 舞奈がクッションを手渡してくる。あたし専用のクッションだ。ちょっと古臭い匂いがするのは、あたしのヨダレのせいではない。眠そうなペンギンを模してあるこれは、動物園でマツタさんが買ってくれたものだ。

「ねえ、シズちゃん」

「ん」

「ダンス、なんで辞めたの?」

 舞奈が遠慮がちに投げかけてくる。いつかされるだろうな、と思っていた質問であるので、あたしは至極冷静に、「なんでもなにも」と答えている。

「なんでもなにも、あたし、ダンス好きじゃないんだよね」

「だったらどうして踊ってたの? わたしに付き合ってくれてたってこと?」

 そういう解釈されちゃうのか、とたじろぐ。「ちがうよ」と急いで否定する。「あたしはダンスやりたかった。それは本当。でも、なんか、疲れちゃったんだよね。したら、舞奈が辞めるって言いだして、だったら丁度いいなって」

「……ほんとう?」

「なんで? もしかして、舞奈に合わせてあたしまで辞めたとか思ってる?」

「うん。ちょっとだけ」舞奈は下唇を噛んではにかんだ。「……思ってたかも」

「自意識過剰だって」

「そうだよね」舞奈は照れくさそうにクッションを抱かえた。「ごめんなさい、へんなこと言っちゃって」

「謝るこたないよ。変なコが変なこと言うのは変じゃないんだから」

「どういう意味かなあ、それ」

「どうもこうもないよ。変人」

 からかうと、舞奈は口を一文字に結んで、

「わたしが変人だったら、シズちゃんは怪人だよ」

 下唇をつきだし、むすっとした。

 怪人かぁ、と想像する、自分がバケモノを手下に、市民を恐怖に陥れている姿は、なかなかどうして絵になっている。だとして、あたしを倒してくれるヒーローはどこにいるのだろう。

      ***

 耳慣れたメロディを耳にとめ、あたしはぎょっとした。舞奈のカバンの中から漏れて聞こえる。メディア端末の着信音なのだと判った

 ――アンパンマンのマーチ。

 舞奈……それ、とあたしが疑問を口にする前に、

「ちょっと、気分転換にね。変えてみたの。なつかしいでしょ?」

 舞奈はカバンから端末を取りだし、ディスプレイを確認する間もなく着信を切った。

 たとえ胸の傷が痛んでも――ちょうどそこで曲は途切れた。

 禁忌だったはずだ。この曲は。あたしたちにとって、すくなくとも舞奈にとっては耳にしたくない、けれど忘れることのできない、傷跡、そのものだったはず。それが……どうして。

 よろこぶべきことなんだと思う。でも、素直によろこべないあたしがいた。不安だった。どうして急に着信音を変えたりしたのだろう。立ち直ってくれたというのなら、それほどうれしいことはない。

 訝しんでいると、タイミングよく、また、着信音が鳴った。今度は、味気ないベル音で、舞奈らしい着信音だ。

 舞奈の顔がいっしゅんだけ曇った。幼いころ、ときおり見せた表情だ。うそがバレたときや、イタズラをしかけて予想外にあたしが怒ったとき、舞奈はよくこういった表情を浮かべた。

 あたしは直感的に見抜く。

 このコは今、なにか隠している。

「ごめん、バイト先みたい」

 断って舞奈は腰を浮かせ、ベランダへと出た。電波先の誰かと会話している。

 眺めながらあたしは考えていた。舞奈が着信音を変えた理由を。どうして変えたはずの着信音がすぐにまたこれまでのような味気ないベル音となって鳴ったのか。そんなのは簡単だ。舞奈は特定の相手のみに、あの歌を、着信音として設定している。だからバイト先からの連絡ではこれまでどおり、ただのベル音として鳴り響いた。

 だとしたら、あの無頓着な舞奈が着信音を特別に設定している相手というのは、舞奈にとって、相当に特別な人物ということになる。そもそも、着信音を設定するにはまず、メモリに登録しなくてはならない。あたしの番号や家族の番号すら登録していない舞奈が、個人の番号を登録するなんて、それ自体が特別だと言える。

 ――そいつ、だれなんだ。

 まっさきに脳裡に浮かんだのは、男の存在。つまり恋人の可能性だ。

 こういう言い方をすると舞奈は怒るが、既成事実として言ってしまえば、舞奈はかなりモテる。むかしっからそうだった。いまでこそ、女の子たちからも憧憬の眼差しを向けられるようになった舞奈であるけれど、義務教育を終えるまでは、その魅力のせいで、ずいぶんとたくさん孤独に苛んでいたんだと思う。

 それはたぶん、あたしと出逢う前、幼稚園のころにはなかったものだ。それが、小学校に上がってからの舞奈は、女の子同士に特有の陰湿な嫉妬と、男の子たちから向けられるてれ隠しという名のイタズラに、とても傷ついていた。集団登下校の際に、舞奈があたしに懐いてくれたのにはそういった背景があるのだとあたしは睨んでいる。

 あたしはグループの最後尾で、みんなの楽しそうに揺れるランドセルをぽつねんと眺めていた。輪のなかに入れないだけならまだ、そこまでつらくない。でも、登下校の際にはかならずグループで行動しなくちゃいけない。あたしは、つらいだけの孤独を毎日、毎日、無理やりに受けとめなければならなかった。それが苦痛だったあたしは、そのうち遅刻するようになった。それでも学校には必ず行っていた。登校拒否するには、うちの親はあまりに厳しい人たちだったから。遅刻していたことがバレたとき、こっぴどく叱られ、責められ、貶された。おまえはそんなんだからダメなんだと。将来あんたはダメになるんだって。おまえは病気なんだって。あたしはそうして催眠術でもかけられているみたいに、頭ごなしにねちっこい呪文を浴びせられた。それがちょうど、二年生に昇級する節目の時期のことだった。

 久しぶりのグループには、あたし以外にも異分子が数名交じっていた。初々しい新入生たちだ。これまで注意されるだけだったあたしの同級生たちは、ここぞとばかりにお姉さんぶって、一年生たちを先導していた。だれに言われたわけでもないけど、あたしは最後尾で、見張り役に徹した。道草を食うコがいれば、「何してるの?」ととなりに屈んで、いっしょになって道草を食った。高学年のコたちはもう慣れっこで、グループで登下校することに重大な意味がないことに気づいているから、すっかり自由気ままにトモダチとのおしゃべりに夢中だった。集団登下校なんてかたちだけで、そこに責任感なんてものはない。中学年のコたちも、高学年のコたちから注意を受けないかぎりは、最後尾にいるあたしに「お守り」をすっかり任せている感じだった。社会の縮図は、こんなにちいさいころから、刷りこみのように顕現されている。

 数日すると、道草を食うコが限定されていることに気がついた。毎回おなじなのだ。またこのコか、と思うまでになっていた。

 いつも決まった場所でそのコはしゃがみこむ。道端を見つめている。あたしは訊かない。どうしたの、と。そこに潰れたカエルがあることを、もうすでに知っているから。あたしはいっしょになって、潰れたカエルがミイラになって、土へ還っていく様を、登校するときと下校するとき、毎日二回、かならず観察した。なんでそのコがそんなことをしていたのかは解らない。もしかしたらみんなと群がって登下校するのが嫌だっただけかもしれない。ほかのみんなも、「そこでなにをしているのか」「なにを見ているのか」といちどは気になって様子を見に来るのだけど、そこにあるのが潰れたカエルであると判ると、「うっわ。きもちわる」と蔑むでもなく率直な感想をもらして離れていく。だれも潰れたカエルなどに興味はなかった。あたしだってそんなものに興味はなかった。ただ、そのコのそばに付き添っているという大義を得ることで、集団から脱せられる。そんな狡猾な思慮があっただけで。

 土日を挟んだ八日目にして、カエルはすっかり土へと還った。そのあいだ雨が降らなかったことも関係しているだろう。カエルは、すこしずつすこしずつ、欠けるように、融けるようにして消えていった。ちいさな蟻たちが無数に群がり、列を成して、からからに干からびたカエルの肉体を分解していく過程は、数日を通して眺めていると、たしかに奇妙な感じがしないでもなかった。なんだかとんでもなく奇跡的なものを見届けたような感覚にちかいといえば、そうだった気もする。興味のなかったあたしであっても、カエルの肉体がすっかり見えなくなってしまったことにはしょうじき、くらくらと世界が揺らいだような感動を覚えた。

「消えちゃったね」あたしはそのコに、そっと投げかけてみた。

 そのコはこちらを見上げて小首をかしげた。「消えてないよ?」

 初めて成立した会話だ。

 あたしとそのコの縁がまじわった瞬間。

 こんなものだ。

 あたしがそのコに懐かれるきっかけなんて。さびしいくらいに素朴だった。

 八千舞奈・六歳と、あたしこと重伊花(おもいか)シズク・七歳は、そうして出逢った。

 あれから十二年。マツタさんの死から、はやくも八年が経つ。

 舞奈はあたし以外に、親しい人間関係をつくろうとはしなかった。

 舞奈はあたし以上に、親しい友好関係をきずこうとはしなかった。

 臆病だったわけではない。億劫だっただけ。ただそれだけだった。

 人と関わるのが面倒くさくって。気持ちを通わせるのが気持ちわるくって。

 ダンスをはじめたのはそれが関係していたのかもしれない。言葉を用いずに、感情の、在るが儘、思うが儘、身体を通して、音楽を燃料に、あたしたちは表現した。哀しいことや、苦しいことをやっつけるみたいに、地面を踏みしめ、空気を掻きまわし、あたしたちは踊りで自分を表現した。

 マツタさんがあたしたちに見せてくれたように。

 マツタさんが生き生きと踊ってくれたみたいに。

 けっきょく、あたしも舞奈も、マツタさんを忘れることができなくって、いなくなってしまったなんて信じられなくって、いつまでもいつまでも、胸の奥に、脳裡の底に、くすぶっているマツタさんへの想いを――マツタさんの姿を――踊ることで重ね見ていただけにすぎなかった。

 大学受験を間近に控えた去年の冬、舞奈は突然にダンスを辞めると言いだした。秋のダンスコンテストで優勝を逃していたこともあって、突発的な自棄なのかな、と思わないでもなかった。でもそんなのはあまりに舞奈らしくない。案の定、舞奈は本気でダンスから身を引いた。

「シズちゃんはつづけてよ、ダンス。『あたしの分までがんばって』なんてことは言わない。でも、シズちゃんならもっと上に行けると思う」

 わたしがいなくてもだいじょうぶでしょ。

 舞奈はそう言って受験勉強に専念した。元から勤勉なコだったから、第一志望の大学に、難なく合格した。それこそダンスを辞めなくたって合格していたくらいに楽勝だったはずだ。

 あれから六カ月。はやいものだ。ダンスという共通項をなくしてから以降、舞奈とあたしは接点までもなくしたみたいに疎遠になりつつある。たぶん、舞奈はあたしを解放しようとしている。

 ベランダにいる舞奈は、あたしの知らない顔をしている。バイト用の笑顔だ。あたしに向けるよりも幾分も明るい調子でしゃべっている。

 ふだん、舞奈は無理をしている。あたしのまえでだけ、その虚栄を、防護を、拭い去る。あたしはそれがうれしい。同時に、舞奈の素顔があたしにちかいことが哀しくなる。舞奈、あんたはもっと笑えるコだよ。あんたの本質はひまわりにちかいんだよ。

 ひまわりを枯らせてしまったのは、まちがいなく、あたしだ。マツタさんの死であり、つまり、あたしなんだ。あのときマツタさんを呼び出さなければ、マツタさんに告白なんてしようと思わなければ、それ以上に、あたしがマツタさんのことを好きになんてならなければ、マツタさんは死なずに済んだはずだし、舞奈もずっと太陽に照らされ満面に花を咲かせていられたんだ。

 あたしは後悔している。ずっとずっと後悔している。舞奈に黙って告白を決意したことを。相談しなかったことを。あまつさえ、舞奈にあのときのことを言っていないこのどうしようもなく卑劣なあたし自身を――あたしはゆるせない。でも、言えないんだ。あたしがマツタさんを好きだったことも。あたしのせいでマツタさんが死んでしまったことも。舞奈に言えるわけがないんだ。

 放したくないんだよ、離れたくなんてないんだよ。

 もう二度とあたしは、だいすきなひとを、うしないたくなんてないんだ。

 舞奈がだれと付き合おうと、それは舞奈の選んだひとであるのだから、あたしがとやかく言える筋合いではないってことくらい分かっているつもりだ。でもさ、どうしてあたしにないしょにするの。どうしてあたしに紹介してくれないの。

 舞奈には彼氏ができたんだ。すくなくとも、彼氏にしたいと思えるような、自分の時間を犠牲にしてでも寄り添いたいと思える相手ができたんだ。

 憶測にすぎないけど、でも、なんか妙に腑に落ちた。最近の舞奈は、とくにダンスを辞めてからの舞奈は、ちょっと浮かれているというか、幸せそうだった。まるであたしがいなくても、いっしょに傷を分かち合わなくとも、舐め合わなくとも、だいじょうぶになってしまったみたいに。

 あたしの役割は終わったのかもしれない。舞奈にとってあたしはもう、必要なくなってしまったのかもしれない。ほんとうなら、あたしはここで深く傷つくべきなんだと思う。だのにすこしほっとしているあたしがいる。

 呪縛から解放されたような、安堵がある。それと同時に、やっぱり、ざっくり傷ついてしまう。

 舞奈は聡いコだから、たぶん、なんとなく勘付いているはずだ。あたしが言わなくたって、あたしがなにかを隠していて、それがマツタさんの死に関係していることを。

 それでもなにも訊いてこないのは、舞奈がやさしいコだからだ。舞奈はやさしいコだから、あたしを解き放とうとしてくれている。そう考えてしまうのは、都合のいいあたしの解釈だろうか

 でもさ、舞奈。あたしはやっぱり、捨てられたと思っちゃうんだ。あんたがあたしから離れていっちゃうなら、あたしはきっとあんたを憎むよ。

 舞奈がベランダから戻ってくる。メディア端末をカバンに仕舞い直すと、申し訳なさそうな顔をする。

「ごめん、シズちゃん。急にシフト換わってくれって頼まれちゃって」

「ああ。店長だったの?」

「そう。断ろうと思ったんだけど、もうみんなに断られちゃったんだって」

「それで、引き受けたの?」責める口調にならないように気をつける。「いいんじゃない。どうせ閑だったんだし」

「そういう言い方ってないと思うな」こちらのむつけた心情を見透かしたみたいに舞奈は言った。「バイトとシズちゃんだったら、シズちゃんのほうがぜんぜん大事だよ」

 だったら断ってくれればよかったのに、と思う。

「でも、店長さん、すっごく困ってたから……つい」

「引き受けちゃったんだ?」

「ごめんなさい」

 謝ることではない。あたしは勢いよく鼻から息を漏らして、「しょうがないなぁ」とぼやいてみせる。「ほら、行ってきなさい。あたしのことはいいから」

「うん。ごめんね」下唇を噛んで舞奈はお出かけの準備をはじめた。着替えをして、かるく化粧をする。五分くらいで完了する。その間あたしは舞奈のいそいそとした様を眺めていた。うすくではあるものの、口紅を付けるようになったのには、目を剥いた。ほぼ確定だ。舞奈は恋をしている。それがいい意味での成長であることを祈りつつも、いまさらのように嫉妬心が芽生える。

「ねえ、舞奈」呼びかけてから返事を待たずに、「彼氏、できた?」

 直球で投げかける。

 がさごそ、と手元にあるものをカバンに詰めこみながら、「なんで?」と舞奈が応じる。まったく動じてないようにみえるけど、舞奈が詰めこんだそれはどう見てもあたしの荷物だ。

「おいこら、どろぼう」

「あ、間違えちゃった」舞奈はしれっとごまかした。

「変わってないなぁ、舞奈は」あたしはもうどうでもいいや、と投げやりに、「どうしてあたしに隠すの」と責める。

「え、なにが?」

 まだ白を切るつもりか。隠しごとをしているのが常であるあたしが言うのもなんだけど、往生際がわるすぎる。「彼氏、できたんでしょ? なんで教えてくれないの」

「か、彼氏じゃないもん」

「じゃないもん、ってあんた」大学生にもなってどうなのよ、その言葉づかい。「じゃあ、好きなひとはできたんだ」

「……なんで」舞奈はおこったふうに目を伏せた。「なんでシズちゃんにそんなことまで言わなくっちゃいけないの」

 シズちゃんの許可がなかったら恋愛しちゃいけないの、と舞奈が上目遣いに睨んでくる。この膨れ面があたしは好きだ。言い換えれば、その顔にあたしはよわい。

「わるくないよ。でもさ、相談してくれてもいいじゃない」

 親友でしょ、とあたしは言いたかった。でも言えなかった。あたしと舞奈の関係はたぶん、親友とはちがう。

「困ってないもん」舞奈はカバンを手にとって、「だからまだ、相談しなくてもいいの」

 ちいさく地団太を踏んだ。まだしない、ということはいずれしてくれるということだと思いなおしてあたしは、「そっか。なら待ってる。いつでも相談してね」

 行ってらっしゃい、と手を振った。

「……行ってきます」不貞腐れたみたいに、舞奈は部屋を出ていった。

 ふう、と溜息を吐く。やれやれ、と肩を揉んでいると、バタン、とふたたび扉が開く。気まずそうな顔の舞奈が仁王立ちしていた。

「どったの?」

「あのね、シズちゃん。――ここ、わたしの部屋」

      ***

 ここで待ってる、と言い張ってもけっきょく追い出されてしまった。あたしも閑だったし、なんだか妙に頭が冴えてしまって眠くもないから、舞奈のバイト先であるカフェまで同行した。そのカフェは雑貨ビルの二階に納まっている。昨今、すっかり廃れてしまったメイド喫茶とかではない。あたしとかが入るには多少の勇気のいる、お高くとまったカフェだ。

「このまま待っててあげようか。バイト終わるまで。カフェに居座って」

 冗談半分に提案すると、「やめてよ」ときつく拒まれた。舞奈らしくない。もしや、とあたしは当たりを付けた。

「もしかして、ここにいるの? すきなひと?」

 しぃーーッ、と口を塞がれてしまう。これほどまでに舞奈が感情を露わにして、慌てふためいている様は、数年振りかもしれない。動物園でゾウがうんちをしている様子を目の当たりにしたときは、幻滅と興奮が入り混じった騒ぎ方をしたし、マツタさんが死んでしまってからは、ダンスの全国大会で音源を忘れてきてしまったとき以来だ。その音源は、DJに頼んで編集してもらったものだった。応援に来てくれているはずのDJを客席から捜し出して、メディア端末に入っているだろう編集済みの曲を、急ぎ、ダビングしてもらった。舞奈はもちろんDJの番号を登録していないし、あたしも電池切れで、端末で呼び出すことができなかった。客を掻き分けて、ほんとうに死ぬ気でDJを捜した。知り合いにも声をかけて、協力してもらって、ようやく出番までに間に合った。そのときにはもうすでに満身創痍で、くたくただったけど、逆境とか窮地とか、そういうので興奮しちゃって、いつも以上に、大胆なパフォーマンスができた。優勝はできなかったけど、あのときのあの踊りが、あたしたちにとってのベスト・ダンスだ。舞奈もきっとそう思っているはず。なによりも、あんなに焦って、あんなに必死で、あんなにはしゃいで、あんなに楽しかったことって、なかったから。もしかしたら、このさきも、もう二度とあんなふうに自分を解放する機会なんてないのかもしれない。

 いずれにせよ、あのときと同じ、とまではいかないにしても、舞奈がここまで必死になるってことは、それだけ夢中になれる相手だってことだ。それさえ判れば、あたしの出る幕はない。あたしは舞奈と離れたくないし、放したくない。でも、何にも増してあたしはこれ以上、舞奈を不幸にしたくはないんだ。

 あたしの我がままで舞奈から大切なひとを奪いたくはない。

 舞奈にとってあたしが不要な存在だっていうのなら、あたしにそれを拒絶する権利なんてない。

「じゃあ、がんばってね」

 潔さを醸しつつ、せいいっぱいに明るく見送った。

「あさって。時間あるから、うちで映画でも観よ」誘ってくれた舞奈は、あたしが返事をする前に駆けていった。ビルの奥へと姿を消す。

「はてさて」

 ああは言ったものの、舞奈を射とめた馬の骨がどんな男か、見定めなくてはならないだろう。あたしには舞奈の想いを否定する権利はないけど、舞奈の幸せを見届ける義務がある。こうみえて、男を見る目だけは冴えている。これまであたしが男の本性を見抜けなかったことはいちどもない、と自負している。これだけ男をお財布代わりにしているのに火傷をしていないのがその根拠だ。

 なんだか興奮して、すっかり覚醒してしまっている。眠くなるまではカフェを見張っていようかな、と暇人であるあたしはなんの臆面もなく、ビル向かいの漫画喫茶に入った。壁がガラス張りのそこは、図書館みたいにソファに座って、眼下の通行人たちを眺めていられる。舞奈のバイト先を出入りしている人間をあたしは漫画本を片手に見張ることにした。

      ***

 幾人かの客と思しき男が、数十分おきに、ぽつぽつ、とビルの中へと入っていった。もちろん入ったからには出てくるわけで、あたしは二度ずつ見定めることができた。男以外の客は(すなわち女は)、最初から度外視していた。舞奈に同性愛の気はない。それはあたしが断言できることの一つだ。

 どいつもこいつも舞奈が好くような男には見えなかった。

 だから、

 バイトが終わる時刻、舞奈がその男と肩を並べて出てきたのにはしょうじき、目を疑った。

 歳のころは二十代半ばとそれほど老けた感じではない。背は高い。体躯の幼い舞奈がよこにいるから余計に際立って見える。体つきも逞しそうだ。でも、そのナリはいくらなんでも許容範囲外だろう。季節は初夏、ここは都心であるから、昼間ともなれば体感温度は三十度ちかくなる。それがどうだろう、あの男はロングTシャツだ。それも、アニメのキャラがプリントされているもの。数十メートル離れたここからでもはっきりと「萌えキャラ」と判別つくような柄シャツだ。ありえない。

 たしかに最近のダンサーたちのあいだでは、アニメオタクが増えている。そのため、舞奈もあたしも、いくらかの耐性はついている。それは否めない事実だ。けども、いくらなんでもあそこまでオープンにオタクをアピールしている男はさすがに論外だろう。

 舞奈ちゃん、あんたいったいどうしちゃったのさ。

 あたしは気が気ではなかった。むろん、舞奈とあの男が仲良く連れだって歩いているからといって、舞奈の想い人がそいつであるとは限らない。そうでないことをあたしは祈る。でも、舞奈があんなにご機嫌な足取りで歩くところなんて、ここ半年、見たことがない。あたしといっしょのときだってあんなふうに浮足立ったことはないのに。ここからでは見えないけど、おそらく舞奈は屈託なく笑顔を咲かせている。舞奈はあの男に夢中だ。傍から見ているからこそ、一目瞭然だった。

 なんであんな男と。

 よりによって、そんなイケてない男と。

 猛烈に湧きあがった嫉妬は、舞奈への怒りへと変わりつつあった。あんたにはもっとお似合いの相手がいるはずでしょ。そんな男のどこがいいの。そんなんだったらあたしンほうが幾分もマシじゃないか。

 おこがましいと自覚してはいる。けど、あたしには舞奈の至福を望む義務がある。あたしには舞奈をこれ以上、不幸にしてはいけないって責任がある。

 放っておけない。舞奈にはわるいけど、あたしはその男の本性を暴いて、舞奈の目を覚ましてやろうと思った。方法はいくらでもある。男なんて、短所の塊だ。幻滅する要素に事欠くことはない。そうでなくとも、手っとりばやくその男の、獣じみた本性を暴く方法がある。

 たとえば、あたしがそいつを誘惑するとか。

 もっともこれは、もろ刃のつるぎだ。下手を打てばあたしが舞奈に幻滅され兼ねない。まずはこの目で、直に、そいつの本性を見極める必要がある。あたしの慧眼を駆使すれば、男の本性なんて滑稽なほどにスケスケだ。

 持っていた漫画を本棚へと戻し、あたしは漫画喫茶を後にした。ビルの階段を駆け降りる。眠くはない。ただ、すこし、視界が歪んでいる。 



      第二章『みなまで言うな。』


      ***

 八千(やっち)舞奈(まいな)、十八歳。十歳のころに愛してやまないお兄さんを亡くしてしまったかわいそうなコだ。

 善いコなんだ。純粋で、無垢で、器用そうでほんとうはぜんぜん不器用で。そのくせ、自分のことは二の次で、いっつも他人のことを考えている。そんな舞奈の人生を蝕むような他人のうちでいっちばん醜悪なのが、あたしだ。あたしが舞奈から奪っている。舞奈の幸せを、舞奈の人生を。蝕んでいるあたしは、疫病神だ。ひまわりみたいな舞奈を枯らせてしまった、ひまわりみたいなあのコから、たいようを消し去ってしまった、わるもの。

 枯れた生き物は、植物も動物も関係なく、ちいさな生き物たちの餌食になる。分解され、吸収され、排出されて、土へと還る。幼かったあたしたちが、見届けた、あのカエルみたいに。

 舞奈は恋をしている。応援してあげるべきなんだと思う。祝福すべきことなんだと思う。それでもあたしはまだ、手放しでよろこべない。あのコは今、その相手と手を繋ぎ、歩いている。

      ***

 時刻は午後六時。舞奈はそいつとおしゃれなハンバーグ店に入っていった。どうしようか迷ったあげく、あたしも入ることにする。小腹も減っていたし、ちょっとさすがに疲れた。かれこれ二八時間は起きている。でもこんなのはあたしの日常だ。問題ない。

 さいわい、店内は薄暗く、座席同士が壁で区切られている。鉢合わせしないかぎりは、舞奈に見つかることはなさそうだったが、あたしとしては鉢合わせしてもよかった。ここで見つかっても、偶然を装えば、いっしょの席になれる。単刀直入にふたりの仲を確認するというのも一つの策だ。とは言え、できることなれば舞奈にはまだ、あたしが穿鑿していることを知られたくはない。

 こっそり入店したはよいけれど、どこに舞奈たちがいるのか分からない。入り口の見える席に陣取り、あたしは舞奈たちが食事を終えるのを待った。

 二時間後。午後八時。うつらうつらしている視界に、舞奈の後ろ姿がくすぶった。あとを追うようにして、そとに出る。会計は三千四百円。二時間分の食事で、余計な出費をしてしまった。寝ぼけた思考であたしはへこむ。

 夜の街は人工的な明かりで昼間を演出している。

 舞奈とそいつは駅前のほうへと歩いて行く。地下道へ降りないのは、デートの雰囲気を最後まで味わいたいからかもしれない。駅前は、仕事帰りや、嵌めを外した学生たちでごった返している。見失わないようにするのに苦労した。

 いやな予感はしていた。見たくないものを見てしまう予感だ。

 舞奈とそいつは駅のホームで向かい合っている。互いに見詰め合って、ふたりだけの空間に浸っている。通行人たちが川となって、岩と化した舞奈たちを、渦を巻くように避けていく。

 ……ぁあ。

 あたしは目を逸らせなかった。

 舞奈は背伸びをし、そいつは背を丸め、ふたりはくちびるを重ねている。

 そんな、はしたない真似をするようなコではなかった。舞奈はもっと節度ある娘だ。ひとさまが行きかう公共の場で、キスなんてするようなコではなかった。舞奈はあたしの知らないところで変わってしまっていた。幻滅のようで、失望に似たこの感情は、舞奈へ向かうよりもさきに、舞奈を変えてしまっただろう張本人であるところの、男へと向かった。アニメのキャラクタのプリントTシャツを着た、ふざけたその男に。

 うしろから刺し殺してやろうかとも思ったけど、あたしはそこまで親切ではないから、舞奈にこっぴどく嫌われるように仕向けてやることにした。それがそいつにとってどれだけの手負いになるかは知らないし、知りたくもないけれど、すくなくともあたしにとって、舞奈に見放されることは、死ぬよりつらい。

      ***

 あたしは男を尾行した。繁華街から離れ、住宅街へと向かう。国道沿いの道は、街のネオンの明かりも届かず、薄暗い。そのまま帰宅する気なのだろう、男は、ポケットに手を突っこんだまま、てくてく歩いている。

「あの、すみません」背後から呼び止める。

 ぎょっ、としたように男が振りかえる。思っていたのと印象がだいぶんちがった。案外にかっこうよく見える。アニメヲタクにしては、という意味だけど。目の彫が深いからかもしれない。鼻筋も通っていて、ちょっいと日本人離れしている。ハーフと言われれば納得してしまうくらいの顔立ちだ。歳も思っていたほど若くはなさそうだ。

 目が合う。そいつは、あたしの姿がか弱そうな女の子だと知ってか、強張らせていた顔を、穏やかそうに崩した。「はい、なにか?」

「いえ……あの」もじもじと言い淀んでみせるのは、ウブな娘に見せるための演技だ。「舞奈さんとは、どういったご関係なんでしょうか……」

「ああ、八千さんのお知り合いの方ですか?」

「あ、そうです……。さっき、あの、いっしょにいるところを見かけて、それで……突然すみません」あたしは頭を下げる。

「いえ、あの」

 ここで狼狽するところを鑑みるに、女の扱いにはあまり慣れていないとみえる。あたしはここぞとばかりに畳みかける。そいつの目をしかと見据えて、「あたし、舞奈さんの幼馴染で、重伊花(おもいか)です。さいきん、舞奈の様子がおかしかったので、心配で……その」

 この場合、言葉を濁したほうが有効だ。相手が勝手にこちらの心情を解釈してくれる。

「そうなんですか」そいつは苦笑し、「それで、ぼくはどうすれば?」

 不思議の国に迷いこんだ少女みたいに、戸惑いの表情を浮かべた。

 声の硬さで、まだ警戒は解けないか、と察する。恐縮しきった調子を醸しつつあたしは、

「すこし、お話を聞かせてくれませんか」とけなげな女の子を演じる。

「まあ、ええ。そうですね。すこしなら」

 思いのほか素直に男は承諾した。きっと、あたしが女だからというそれだけの理由だ。万が一にでも自分が危害を加えられる側ではないとの自負が男にはある。襲うことはあっても、襲われることはない、襲われたとしても、力でねじ伏せることが可能だと判断している。その余裕がしょうじき、気に食わない。けど、その余裕が命とりだってことを男どもは知らない。すごく滑稽だ。

「なら、そこで」とあたしはファミレスに視線を向ける。出費は痛いが、パフェぐらいは驕ってやるつもりだった。ここで誠意を見せておくのがコツなんだ。「そこで、お話を聞いてもらえますか」

「いいですよ」男は肩を竦め、あたしを先導するように歩を進めた。あたしも無言であとに続く。ファミレスの駐車場のところで男は、ぴた、と立ち止まる。こちらを振りかえり、

「そうだ、言い忘れてました」

 にっこり破顔した。「ぼく、水迄(みなまで)と言います。よろしくです」

      ***

「八千さんとは、前のバイト先で知り合いまして」

 珈琲をちびりちびり啜りながら、水迄は語った。

 コンビニのバイトをしていたとき、理不尽なクレームを付けてきた客がいたそうだ。ほかの客がいるまえで怒鳴り散らし、「店長を呼べ」「責任者を出せ」「誠意を見せろ」と喚いたのだという。きっかけはほんとうに些細なことだったそうだ。あまりに些細すぎて、いったいどんなことが気に障ったのか、いまではもう思いだせないんですよ、と水迄は苦笑した。

「まさかその客が舞奈だったなんて言わないですよね」おどけたふうな口調を意識しているものの、あたしは苛立っている。その話がどう転んで舞奈との出会いに繋がるかがさっぱり見えないからだ。

「ちがいますよ」かれは噴きだした。「そのお客さん、強面のおじさんで、その、情けないんですが、ぼく、すっかり委縮してしまって」

 手も足も出なかったそうだ。どんな対応をしても、逆効果。火に油をそそいだみたいに客は激昂する。もうこれしかない、と土下座を覚悟したとき、割って入ってくる女性がいたそうだ。

「それが、舞奈……ですか?」

「はい。天使かと思いました」

 冗談めかすことなく水迄は口にした。あまりに幼稚な感想に思わず笑ってしまう。「そうですね、舞奈は天使みたいです」

 聞けば舞奈はそのとき、強面のオヤジ相手に面と向かってこう言ったのだという。

「あとが閊えてます、はやくお会計、済ませてくれませんか」

 どこまでも穏やかな声に、店内はいっとき、静寂に満ちたそうだ。激昂していた客も、いっしゅんだけ、「おう、そうか。これじゃ邪魔だよな」とでも言わんばかりに恐縮したという。

「でも、さんざん怒鳴り散らしていたので、『はいそうですか』とは引き下がれなかったんでしょうね」水迄は懐かしそうに、それでいて困ったふうに眉をしかめた。「そのお客さん、こんどは八千さんに怒鳴ったんです」

 こいつら、客をバカにしてやがんだ!

 オヤジはいちゃもんを再開させたらしい。そこですかさず舞奈は、「そうなんですか?」と水迄に確認してきたそうだ。かれは、めっそうもございません、と首を振った。

 オヤジに向きなおると舞奈は、「そんなつもりはないようですよ」とかわいらしく微笑んだという。するとオヤジは、

「客は神様だろうがッ」

 だったらもっとへりくだれ、媚びて諂い、おれを崇めろ、とおかしなことを息巻きはじめた。

「で、舞奈はどうしたんだ?」あたしは水迄のくすぐったそうな表情で、舞奈がその場を丸く収めたことを確信していた。だから訊いた。舞奈はどうやってそのオヤジを黙らせたのか、と。

「ええ。そのとき八千さん、お客さんの言葉を否定しなかったんですよね。お客さまは神さまです、って認めちゃうんですよ」

 そのうえで舞奈はこう切り返したのだそうだ。

「お客さまは神さまです。ですからこんなことで腹を立てたりはしないんです。ところであなたは神さまですか?」

 オヤジは閉口したそうだ。返す言葉もないとはまさにこのことです、と水迄はまるで自分が言いくるめられたみたいに、しかし誇らしげに話した。意表を衝かれたのはオヤジだけでなく、水迄もいっしょだったようだ。

「八千さん、そのお客さんを押しのけて、レジに置くんですよ。食パンとかお菓子を」

 かれの背中を押すように舞奈は、「はい、これ。おねがいします」と会計を迫ったのだそうだ。そのよこで顔面を真っ赤にさせていたオヤジに、水迄は言ってしまったらしい。

「ほかの神さまもこうおっしゃられておりますし。御用がないようでしたら、これで」

 そそくさと舞奈の会計を済ませてしまった。

 後日、そのオヤジのクレームを理由に、かれはバイトを馘になった。

「調子に乗ってしまったんですね。なんだか、ほんとうに神さまを味方につけたような感じがしてしまって」

 言ったかれの顔は、清々しく、爽やかだった。聞いていて、あたしもすかっとした。実に舞奈らしい。自然と頬がゆるむ。同時に、あのコはまたあたしの知らないところで危ないことをして、と舞奈の向う見ずな対応に呆れてしまう。自分がか弱いってことをあのコはもっと自覚すべきだ。

「ぼく、そのときにお礼を言うのをすっかり忘れてしまっていて。言い訳になるかもしれないですが、後にもお客さんが詰まっていたので、その、どうしてもお礼が後回しになってしまって。それで、レジを対応しているうちに八千さん、帰ってしまわれて」

 それはそうだ。では、どうしてこの男と舞奈はこんなにも親しげな仲になっている。あたしの疑問を見透かしたように水迄は続けた。

「そのコンビニを馘になって、すぐにカフェでバイトを始めたんです。それが、去年の冬ですね。しばらくして、新しいバイトのコが入ってきたんですけど」そこでかれは照れくさそうにこめかみを掻いた。「こう言うと、はずかしんですが、運命だと思いました」

「その新人が舞奈だったの?」うそくせぇ、とあたしはつっこんでやりたくなった。同時に、自分の口調が素に戻っていることに気づき、あわてて猫をかぶりなおす。「そういえば、そのくらいでしたね。舞奈があそこでバイトを始めたのも」

 推薦入学を蹴って一般入試に変えた舞奈は、合格発表を待たずにバイトを始めた。それが二月のこと。時期的にみて、うそではなさそうだ。

「こんなことを訊くのは失礼だとは思うんですけど」と断ってから、「水迄さん、いくつなんですか」

 かれの見た目は、それほど若そうには見えない。老けているとかではなく、強いて言えば、大人びている。落ち着いている雰囲気は、好感を持ってやるにやぶさかではない。ただ、舞奈の同年代ではないだろうことは、こうして向かい合っているだけではっきりした。二十代後半の男が職に就かずにバイト生活。フリーターをわるく言うつもりはないけど、できることなら、舞奈には安定した収入を期待できる相手と付き合ってほしい。

「今年で二十八になります」かれは伏し目がちに答えた。「はずかしながら、まだ学生でして。バイトで学費を稼ぎつつの生活ですね」

 何年浪人したのだこいつは、と意外だった。まだ学生だったとは。詳しい話を聞こうと思い、接ぎ穂を考えていると、「これもびっくりなんですが」と水迄はうれしそうに顔をほころばせた。

「八千さん、ぼくの後輩なんですよ」

「はい?」

「大学もいっしょなんです」

「まぢでかッ!?」

「はい。まじです」

 あたしは舞奈の通う大学の名前を口にする。

「そうです。そこですね。ぼくが二年で、舞奈さんが一年生で」あ、知ってますよね、と水迄が伏せていた顔をあげる。「ということは、重伊花さんも?」

 あたしもそこの大学生か、という質問だと判断する。口調が尖らないように気を付けながら、「ちがいます。あたしは学生でもないのにフリーターです」

 自虐的になってしまったのはこの際、致し方ない。あたしは今年の春に大学を中退した。舞奈が志望校を変えたからだ。あたしの入学した大学ではなく、もっと偏差値の低い大学を舞奈は選んだ。楽しみにしていたのに。舞奈といっしょのキャンパス・ライフ。それが目前で崩れ去った。それがどうだろう、この男は偶然にも、あたしが欲しかったキャンパス・ライフどころか、あたしの舞奈ごと手に入れようとしている。

 うしろから刺してやらないだけ、感謝してほしい。

「関係ないですよ」なにを思ったのか、水迄はあたしの言葉を一蹴した。あたしの自虐に対して幼稚に、けれど真摯に反論してくる。「職業で人間の価値は決まらないです。なにを成したかなんてのも関係ないんですよ。ともだちのことを心配して、こうして見ず知らずの男に話を聞きにくるなんて、すごいです」

「はぁ」かれの勢いに気圧される。「すごいか?」

「すごいですよ。ぼく、ちいさいころから身体が弱くって――心臓を患ってしまってたんですね。それで、ずっと病院生活だったんです。この歳で学生なのもそれが影響していて。ここだけの話、二十歳まで生きられないって宣告されてました。だから、どんな職業であれ、社会に貢献している人が輝いて見えるんです。それと同じだけ、自分がみじめで。だってぼくは、ただ生きていくだけでせいいっぱいだったんです。みんなの介護なしでは生きていけなくって。けど、ぼくを介護してくれるみんなを支えているのは、それこそ、この社会なんですよね。ぼくはただただ、この社会に生かされている。農家だとか、そういったひとたちが、社会を底から支えていて、フリーターのひとが社会の歯車の円滑剤となって、正社員たちが形づくる企業が社会を機能させている。政治家たちは、その機能する社会の指針を示して、社会が氷山にぶつかって沈まないようにしてくれている。ぼくはその船にただで便乗しているだけだったんです」

 はぁそうだったんですか、とお間抜けに相槌を打ってしまうのは、かれがなにを言わんとしているのかがさっぱりだったからだ。かれは火がついたように熱く語った。

「もしも人間の価値がなにかを成したことでしか決まらないというのなら、あのときのぼくにはなんの価値もなかったってことになっちゃんですよ。もしかしたら、ほんとうに生きている価値もない人間なのかもしれないですけど、すくなくともぼくは、あのときの自分にも、人間としての尊厳があって、生きている価値だってあったと思いたいし、思っています。だから、ぼくなんかよりもよっぽどすてきな重伊花さんは、立派です。だれがなんと言おうと、立派なんです」

 あんまり自分を卑下しないでください――と最後はなぜか怒られてしまう。ただ、ふしぎとイヤな気はしない。

「キャラクタTシャツの男に言われたくないんだけど」

 あたしは毒づいてみせる。「あんたに生きてる価値がどうとか諭される謂れだってないし」

「あ……ですよね」

 悪態吐かれてすぐさま意気消沈するこの男は、もしかしたらあたしが思うほどわるいひとではないのかもしれない。舞奈にふさわしい男でないのは変わらないけど。

 しばらくお互い、沈黙を過ごした。店内に流れるおちゃらけた音楽が、気まずい空気をなごませてくれる。

 さきに水迄が口を開いた。

「そろそろ終電なくなっちゃいますが、だいじょうぶですか?」

「そうですね。そろそろお暇します」請求書を取って立ちあがる。ぼくが払います、と制するかれの手を止めて、「あたしが誘ったんですし、こんな遅くまでお時間いただいちゃって」

「べつにかまいませんよ。楽しかったですし」

「なら、また別の機会にお会いできますか?」

「ええもちろん。八千さんも誘って、三人で」

「できれば、その……」

 ここで俯き、気恥かしそうに上目づかいをするあたしは女優になれる。「ふたりきりがいいんです」

 かれは見るからに動揺した。ここに至ってあたしは確信する。こいつは、あたしがこれまでカモにしてきた奴らと同じ類の人間だ。女に対して甘っちょろい幻想を持っていて、ちょっとやさしくしただけでころっと騙されるような、情けない男だ。やはり舞奈にはそぐわない。

 返事に窮している水迄から強引に連絡先を聞きだす。メディア端末でデータを飛ばしてもらう。

「また連絡します」

 強引に告げて、ファミレスのそとで別れる。ばいばい、と手を振るとかれも応じてくれた。しばらくしてから振りかってみると、あの男はまだこちらを見送っていた。振り向いたことに気づき、大きく手を振ってくる。

 なんて恥ずかしい男だろう。

 顔が熱くなる。

 あたしは無視してさきを急ぐ。終電を逃すわけにはいかない。今日こそはぐっすりと眠るんだ。

      ***

「お客さん、お客さん」

 身体を揺さぶられて目を覚ます。忌々しそうに眉間にしわを寄せる駅員さんの顔が目のまえにあった。

「閉めますよ、お客さん。出てください」

「閉めるって、どこを……」

「どこって、ここ以外にどこがあるんですか。酔ってます? タクシー呼びましょうか?」

「いや、お金ないし」 

 というか電車で帰るし。

 言うと、駅員さんはむつかしい顔をつくって、「はやくしてくださいね」と言い残し、去っていった。閑散としたプラットホームには、風だけが出入りしている。

 終電を待っているあいだに眠ってしまったあたしは、だから、終電を逃してしまった。

 ――ばっかじゃなかろうか。

 今日はなんだかずいぶんと追い出される機会に恵まれた気がする。駅を出ると、タクシーが寄って来たが、あたしは無視し、歩きはじめる。見知らぬ駅はひと気がなく、地球最後の日みたいで、あたしはどうしようもなく悲劇のヒロインだった。

「さいあく」

 今日はもう出費が嵩みすぎて、タクシーを拾うわけにもいかない。使い勝手のいい男は昨日、袖にしたばかりだ。無意識にメディア端末を開き、この窮地を打開してくれそうな都合のいい相手を探す。

 DJはダメだ。あいつは納豆みたいにしつっこく腐ってしまうタイプの男だ。

 元、ダンサー仲間も、論外だ。ダンスを辞めてからは気まずくっていけない。

 あとはどいつもこいつも獣じみている男どもだから、ひと晩泊めて、なんて言ったら、おあとが面倒になること請け合いだ。こんな性格のあたしだから、ダンス以外での女のコたちとはなかなか良好な関係を築けていない。要するに、あたしは友達がすくない。自業自得だし、別に気にはしてない。こういうとき、ちょっぴり不便なだけだ。

 中途半端に眠ってしまったからか、身体が休息状態に入ったまま。かなりだるい。しばらくの断食を覚悟でタクシーを使おっかな、とせめぎあいの葛藤が繰りひろげられる。そのうち、ふらふら、と路肩のブロックにへたりこんでしまう。眠い、眠いよぉ。ダメだ。地面がひんやりしていて気持ちがいい。このまま死んだらどうなるんだろう、と考える。いつか見たカエルのミイラを思った。融けてなくなったあたしは、名前も知らない雑草になるんだ。その辺に生えている、背の低い、ぺんぺん草っぽいやつ。

「どうされたんですか」

 だいじょうぶですか、とやさしい声が聞こえる。

 男のひとの声だ。聞き覚えがある。

 ああそっか。

 ――マツタさん。

 声にならない声でつぶやくと、途端にあのひとの姿が遠のいた。色褪せたみたいに、すぅ、と霞んで見えなくなる。代わりに、朦朧とした意識が鮮明になってくる。

「あれ、重伊花さん?」

 心配そうに覗きこんでいる影が、あたしの名前を口にした。寝起きで視力が落ちているからか、像がぼやけている。ただ、そいつの胸元に、おめめぱっちりの美少女が描かれているのだけは、不愉快なほど、はっきりと見えた。

「なんでこんなところで寝ているんですか」

 おかしそうに言いながら、安堵したように、さっき別れたばかりの水迄が、あたしをおっかなびっくり抱き起こしている。

「ここから近いんですよ、ぼくの家。もしよろしかったら、休んでいってください」

 下心のいっさいないと判る、十割、気遣いからできている声音だった。心身ともにクタクタだったあたしはおとなしく、「すまんね」と甘えることにする。ほんとうはいろんな考えを巡らせ、甘えるべきか、甘えざるべきか、を入念に調べ、秤に載せ、斟酌せねばならない状況だったが、あたしは放棄した。

 肩に腕をまわし、担がれるように道を歩く。しばらくすると意識だけでなく、身体のほうも覚醒しだした。自力で歩けるまでに回復する。

「ごめん、もうだいじょうぶ。ひとりで歩けるから」

「あ、すみません」水迄がうでを離す。傷ついたようなかれの顔を見て、自分がきつい言い方をしたのだと気づいた。

「ごめん、そうじゃなくて。なんか、体調わるくって」

「それはいけませんね」

 言うや否や、水迄はいくつかの質問をしてきた。痛いところはないか、熱いところはないか、または麻痺しているところはないか。動悸がはげしくないか、息苦しくないか。手足はきちんと動かせるか、視界が霞んだりしていないか。めまいはないか、頭痛はないか、へんな汗を掻いたりしていないか。そういった言葉の応酬をしながら、かれはあたしの手を取って、脈をとっている。これではまるで往診だ。

「お医者さんみたい」

 言うと、水迄の顔が赤くなった。あたしの手を離し、ぎこちなく距離を置く。「す、すみません」

 謝るのが癖の男はモテないことをあたしは知っているので、からかいついでに教えてやる。「わるくないのに謝るのはよしなよ。却って感じわるいから」

「そうですね」しょげてから、「すいません」と口にしてしまうあたり、すっかり身に染みついている癖らしい。「ほら、また」と指摘すると、「あ、すいま……あっ」

 ふざけているわけではなく、大真面目に繰りかえすものだから、あたしは堪えかねて噴きだした。「もういいよ。わかった。挨拶のようなもんなんだもんね、水迄さんにとっちゃさ。謝罪がさ」

「そういうわけでは」困ったふうに笑うその顔が、いっしゅん、マツタさんとダブって見えた。あたしが急に息を呑んだからだろう、かれはお門違いに励ました。「だいじょうぶですよ。おそらく、疲労からくる、貧血だと思いますので。水分を摂ってゆっくり休めばすぐ元気になります」

 とりあえず、水でも飲みましょう、とかれはふたたび歩を進める。あたしはその場に佇んで、かれの背中を眺めている。

 かれとマツタさんは似ても似つかない。顔だって、体格だって、ぜんぜんちがう。マツタさんはこいつみたいにむさっくるしくなかった。モデルみたいな体型で、濃い顔でもなく、もっとかわいい顔をしていた。お化粧をすれば、舞奈のお姉さんと言っても、通ったくらいにすてきなひとだった。

 いちどでもこの男の姿に、マツタさんを重ねて見てしまったことに、あたしはショックを受けていた。

 こちらが立ち止まっていることに気づいて、水迄は踵を返してくる。申しわけ程度にあたしの手をとって、「すみません、もうすこし歩きます。無理にとは言わないですけど、できれば休んでいってください。放っておけないですから」

 やさしい言葉をかけてくれる。ふしぎでしかたなかった。あたしはどうして泣いているのだろう。マツタさんではないのに。あたしにはなんでだか、かれの一挙手一投足が、胸にひびく。かれがあたしにやさしくしてくれるたびに、マツタさんとの思い出が誘起される。

「…………マツタさん」

 かれの背中にあたしはつぶやいていた。聞こえなかったわけではないだろうが、かれはこちらを振り向かなかった。あたしが泣いていることを知っているから。あたしがそれを見られたくないことを理解してくれているから。やっぱりそのやさしさは、あたしのよく知る、マツタさんだった。

     ***

 昨夜、舞奈があたしの誘いを断ったのは、この男と会っていたからなのだろう。

「昨日の夜、舞奈がいっしょだったひとって、水迄さんですか?」お得意の誘導尋問で確かめる。

「そうですよ。終電前には別れましたけど」かれは冷蔵庫を漁りながら答えた。

 かれのアパートは、狭っちかった。昭和の匂いがするような佇まいで、古風で趣があると言えばそうかもしれないし、歴史が感じられると言っても間違いではないけれど、どちらかと言えばやはり、古っちくて汚い。

 こんな壁の薄い部屋に女の子を連れこむなんて、あたしなら考えられない。すくなくともこんな部屋で〝事〟に及ぶなんてこと、ぜったいにできない。そのことにかれが気を揉んでいる気配はなく、だからきっと、そういった機会がこれまでなかったんだろうなぁ、と推測する。おそらくこの男はまだ童貞だ。そうと結論して安堵する。それはそのまま、舞奈もまだであることを示唆しているから。

「ごめんね、散らかってて」

「いや、ぜんぜん」

 これが散らかっているというのなら、あたしの部屋はゴミ屋敷になってしまう。そうと認めるわけにはいかないので、「きれいですよ」とあたしは言う。

 ミネラルウォータとお茶とアップルジュースがちゃぶ台に置かれる。どれも封は切られていなかった。「好きなの飲んでください。なにがいいか分からなかったので」

 カップも置いてくれる。あたしはアップルジュースを手に取った。カップに注いでひと口啜る。口を潤すだけのつもりだったのに、ひと息に飲み干してしまう。よほど喉が渇いていたらしい。

「ぷぅ。ごちそうさまでした」

 そのままごろんと横になる。ごめん、と断ってから、

「今日、泊っていい?」

 水迄はわかりやすいほどたじろいだ。「いえ」だとか、「えぇ」だとか、「それはちょっと」だとか、まずいですよ、といったニュアンスの言葉を羅列した。

「だめならそう言って。出てくから」

「泊るあて、あるんですか?」

「野宿」

 答えると、

「いけません」

 叱られてしまう。あたしは脹れる。「んだよ、ケチ」

「親御さんに向かいに来てもらったほうがいいんじゃないですか?」

 水迄が真面目な表情であたしの顔を覗きこんでくる。

「あたしの親御さんは」と短く返す。「放任主義だから」

 放任主義だから、迎えになんてこないよ、と言ったつもりだ。通じたのか、通じなかったのか、水迄は、「そうですか」とあっさり引き下がった。

      ***

 深夜だというのに水迄は外出の用意を始めた。少しでかけてきます、とリュックに荷物を詰め込んでいる。

「すみません、客用の布団とかないんです。シーツは新しくしておきましたので、よかったら使ってください」

 ベッドには清潔そうなバスタオルも畳まれている。

「シャワーを浴びるなら、ぼくが留守のあいだにどうぞ」

 至れり尽くせりだ。拒む理由もないので、甘えさせてもらうことにする。「あんがと」

「出かけたりしますか?」

「いや、いると思うけど」

「なら鍵、掛けていきますね。おやすみなさい」

 留守番を頼むでもなく、数時間前に会ったばかりのあたしをひとり残して、水迄は出ていった。アニメキャラクタのロングTシャツのまま、リュックを背負って。危機感が足りないんじゃないか、と心配してしまう。お人好しもここまでくると不気味だ。舞奈に通じるところがある。とりもなおさず、マツタさんに似ているということかもしれない。

 床に寝そべって目をつむる。すこししてから、やっぱりこっちがいいや、とベッドによじ登る。男のひとの匂いがした。加齢臭とかではなく、ホットケーキの種に似た匂いでもなく、やさしく包みこんでくれるような、安心する香りだ。おどろくほど抵抗なく、あたしはしずかに眠りに落ちた。

      ***

 がちゃり。

 鍵の回る音がする。わずかに意識が浮上する。うとうとしつつも物音に意識を差し向ける。扉の開く音がし、音を立てないようにと慎重に動く気配がある。

 ぬき足、さし足、忍び足。

 あいつが帰ってきたんだ、と緊張が解ける。

 あたしはふたたび眠りに落ちていく。眠りの底へと落ちていく。

 シャワーの音がする。滴がゆかを叩く音が心地いい。

 ドアの開く音が、ちいさく響く。

 ひたひた、と素足がゆかを転がる。あたしを起こさないようにと注意してくれている。

 こそばゆい気持ちがする。

 これが夢なのか、現実なのか、を確かめるようと、あたしは重たい瞼を持ちあげる。ぼんやりと薄暗いのは、明かりが灯っていないからで、それでも真っ暗じゃないのは、夜が明けはじめているからで。差しこむほど昇っていない朝日は、夜空から星を消し去り、この部屋に大小さまざまな陰影を与えている。

 背中が見える。男の背中だ。服を着ていないのは、浴室から上がったばかりだからか。タオルを頭にかぶっている。髪を拭いている。タンスのまえに立っている。着替えを取り出している。

 かれの身体は傷だらけだった。――傷跡だらけだった。痛そうだな、と思う。かわいそうだな、と思う。だいじょうぶかな、と心配になる。でも、だいじょうなんだよね、と笑いたくなる。あれは、そう、手術の跡だから。身体を治すために負った勲章だから。だからそんなにたくましい身体をしているんだね。まるで鋼の身体だね。

 触れてみたいな、とあたしは思った。そう思いながら、今度こそ、深い、深い、眠りに落ちた。

      ***

 起きると時刻は正午だった。むくんでいると分かるくらいに顔がつっぱっている。髪の毛もぼさぼさだ。シャワーを浴びずに寝てしまったからだ。

 おや、と思う。しずかだ。部屋を見渡す。水迄の姿がない。ちゃぶ台のうえには書き置きがあった。

 ――講義があるので、さきに出ます。

 ――もしよかったら食べてください。

 ――鍵は今度でいいです。水迄。

 菓子パンのどっさりと詰まったレジ袋が置かれている。メモには鍵が添えられている。これで戸締りをしておいてくれ、ということなんだろうけど、やはり危機感が足りないのではないか、と不安になる。ひとを信用しすぎだ。

 なんだか無性にイタズラしてやりたくなった。もういちど部屋を見渡す。今度は物色するつもりで。

 書物が多い。難しそうな本だ。ちゃぶ台以外に、座卓がある。そのうえに古い型のPCが載せられている。TVはない。いかにも貧乏学生の部屋です、といった感じだ。ラジカセが二つもある。クラシックなデザインで魅力的だ。欲しいかも、と思い、そう思ったことを自覚して胸が痛む。

「もう使わないじゃん。ラジカセなんて」

 押入れを開くと、手のひらサイズの人形がたくさん並べられていた。あたまでっかちの人形だ。二身頭くらいしかない。アニメだとか漫画だとか、そういったキャラクタであることは一目瞭然で、あいにくと、あたしが見ても可愛いと思える代物だった。ぬいぐるみを部屋に飾っている舞奈に幻滅させる小道具にはなりそうにもない。ちぇっ。ちいさく舌を打つ。

「お?」座卓のしたに、ディスクの山があった。もしや、と顔がにやける。中身は推して知れるというもの。アニメヲタクが隠し持っているディスクと言えば相場は決まっている。エッチなアニメだ。それも、ちいさな女の子が主人公の、間違ってもガールフレンドに見せてはいけないようなヤツ。いくら聖母のような舞奈だって、幻滅すること山の如しだ。さっそく中身を検めさせてもらうことにする。

 PCを起動させる。セキュリティは掛けられてない。ディスクを挿入し、再生する。

 あたしは息を呑んだ。

「ダンサーかよ……あいつ」

 クラブイベントの映像だった。ダンスのショー・ケースだ。踊っているそのクルーをあたしは知っていた。

 ――ケネティック。

 去年、ダンスを辞める前に舞奈といっしょに観たことがある。かれらのパフォーマンスには悔しくなるくらいの衝撃を受けた。その動画が、ディスクに焼かれている。あたしの観たことのないショー・ケースがいくつも納まっていた。それこそ、仮面をかぶっていた時期から、取り去った現在のものまで、すべてのショーが。本番だけではない。構成を確認するために、幾度も撮り溜めた練習風景が何枚ものディスクに納まっていた。

 ――水迄はメンバーだったんだ。ケネティックの。

 ともすれば昨夜は、ダンスの練習に行くために出かけたのかもしれない。

 水迄が、舞奈と意気投合できた理由もなんとなく腑に落ちた。舞奈は知っていたんだ。あいつがあのケネティックのメンバーだってことを。あれだけのスキルを持ったダンサーなら、心惹かれるのも頷ける。

 そこまで考えてから、「――いや」と引っかかりを覚えた。舞奈はダンスを辞めたんだ。もしも水迄のダンスに心奪われたというのなら、自らダンスを辞めたりするだろうか。ダンスが好きで、かれのダンスに魅了されたというのなら、いっしょになって踊りたくなるのが筋なような気がする。

 そもそも、ちょっと偶然が重なりすぎてやいないか。

 偶然コンビニで出逢って、偶然バイト先が同じになって、偶然大学も同じで、偶然お互いダンサーだった。どう考えても不自然だ。あたしは本格的に部屋を穿鑿することにした。

      ***

 引っ掻きまわして分かったことは、あいつのフルネームが「水迄(みなまで)優那(ゆうな)」だってことだけだった。女みたいな名前で可愛らしいが、笑ってしまう。あの巨躯ではあまりに似つかわしくない。

 あとは、医学書が多いのが気になった。むかし持病で入院生活をしていたような話をしていたから、看護系の仕事に就きたいと志しているのかもしれない。やっぱりあたしよりか、何倍も立派じゃん、といじけたくなる。

 ひと晩、世話になってから、あいつへの評価は激変しつつあった。あたしのなかで、認めがたい感情が芽生えはじめている。水迄は、舞奈にふさわしい男ではないのか、という思いだ。いや、それだけではない。よく分からないけれど、すこぶる気持ちわるい感情が身体の奥底のほうで、ごねごね、とうねっている。自己嫌悪に似ているが、嫉妬かもしれず、もっと抑えようのない狂気と呼んだほうが幾分もしっくりきそうなざわめきだった。あたしのなかで暴走する準備をはじめるように、その名もなきざわめきは、したたかな存在感を放っている。その感情の名をあたしは、見たくないし、知りたくもなかった。

 あたしは逃げるようにかれの部屋を後にした。

 銀行に立ち寄る。ATMで口座を確認すると、今月の生活費が振りこまれていた。あたしの親はきちんとあたしの面倒を看てくれる。ただし、あたしを育ててはくれない。顧みてくれない。そのことに不満はない。楽だし、快適だし、すごく自由で、せいせいする。

 今週分のお金を引き出し、帰宅することにした。

 水迄から連絡があったのは、日が暮れてからのことだった。今から会えませんか、と掛けてきた。夕飯時で、お腹が減っていたので、「今度は驕ってくれるんだっけ?」といじわるを言ってみる。

「ファミレスで構いませんか」

「ファミレス最高。すぐ行く」

 切ってから、すっかり素をさらけ出していたことに、遅まきながら気がついた。ウチの猫は行方知らず、かぶろうにもかぶれない、とそんな感じだ。そのことをいっさい指摘してこないあたり、あの男もなかなかどうして胆が据わっている。たいてい、あたしのギャップを目の当たりにした者は、どん引きするか、嫌悪を顕わにするかのどちらかだと相場は決まっている。稀に、「やっぱりな」と丸ごとあたしを受け入れてくれるひとたちもいる。かれらとは良き仲間となれた。言葉だとか、見栄だとか、保身だとか、そういった触媒を挟まずに、踊りだけで繋がりあえた仲間だった。踊りを辞めたいま、それはもう、むかしの話だ。

 待ち合わせ場所は昨日のファミレスで、時間ちょうどに向かう。水迄がすでに席をとっていた。

「ほい、鍵。あんがとね」座ると同時にまずは昨夜の礼を述べる。「かなり助かった」

「体調、よくなった?」

 おかげさまで、と肩を竦める。それから親切心で、「水迄さんね」と忠告してあげる。「あなた、ひとを信用しすぎだよ」

「いえ、そんなことは……。ぼくくらい疑り深い人間はそうそうお目にかかれないですよ」

「よく言うよ」

「それに、ぼくはただ、重伊花さんを信用しただけなので」

「呆れた」

 臭いことをよくまぁ、真顔で言えるものだ。「そんなんじゃ、痛い目みるよ、そのうち」

「だいじょうぶです。ぼく、裏切られても後悔しないと思える相手以外、信用しないことにしているので」

 言ってから水迄の顔がみるみる上気していく。

 恥ずかしいなら言うなよな。あたしまで恥ずかしいだろ。気まずくなって顔を逸らす。変な汗を掻く。赤くなってないだろうな。窓ガラスに映る自分の顔を眺め、こっそり確認する。

      ***

「それで、どうしたの?」ウェイトレスの運んできた水に口をつけ、あたしはさっそく本題に入る。「舞奈となにかあった?」

「それがですね」言いにくそうに水迄は鼻の頭を掻く。「今日、学校でそれとなく訊いてみたんですよ。舞奈さんに」

「なにを?」

「重伊花さんのこと」

「それで?」こうなるだろうことは予想していた。ふつうの神経をしていたら、あたしが本当に舞奈の友達であるのか、真偽のほどを確かめるだろう。あたしは敢えて口止めせずにいた。解せなかったからだ。あたしが名乗ったとき、かれはまったく反応を示さなかった。舞奈と親しいのなら、あたしの名前くらい知っていそうなものなのに。その真相を確かめたかった。成り行きに任せるつもりで口止めをせず、こういう展開になることを期待した。

「親友とかいますか、と訊いてみたんです。そしたら舞奈さん、幼染みがいるって言ってました」

「なんて名前だった」

「重伊花シズクさん」

「あたしの名前だよ」誇らしげにあたしは自分のあごにひとさしゆびを置く。

「……だとすると、やっぱり話しておくべきだと思うんです」なぜか水迄は暗かった。後ろめたそうに言い淀むと、「あ、もちろん」とわざとらしく話を脱線させる。「もちろん、重伊花さんがこうしてぼくのこと調べてるってことは言ってません。それは、その、安心してください」

「へえ。言わなかったんだ」それがほんとうだとしたら、しょうじきほっとする。

「知られたくないだろうな、と思ったので」余計な配慮でしたかね、とかれは呼びだしボタンを押す。ウェートレスがやってくる。「好きなものをどうぞ」とかれから許可を得ていたので、ハンバーグセットとパフェを注文する。ダイエットとは無縁の人生を送ってきたあたしであるので、たらふく食う。

 舞奈とのむかし話をかれにせがまれ、料理が運ばれてくるまであたしは水迄に語って聞かせた。マツタさんが死んでしまったことも隠さずに教えてあげたけど、どうしてマツタさんが死んでしまったのか、その経緯ときっかけは話さなかった。話せるわけもない。舞奈にだって言えないのに。

 料理が運ばれてきてからは、しばらく無言になった。食後のパフェを啄みはじめたころ、水迄が覚悟を決めたように口火を切った。

「すみません、不躾なことを訊きます」舞奈さんが言っていたんですけど、と前置きし、「その、すごく言いにくいのですが」

「なに」

「重伊花さんがお兄さんを殺してしまったというのは、どういう意味なんですか?」

 問われた瞬間、悪寒が身体を突きぬけた。視界が明滅し、大げさでなく世界から色が消え、灰色になった。かれの口にした言葉を反芻する。身体が拒絶して飲みこめない毒を懸命に呑みこむみたいに、あたしはかれの言葉を咀嚼する。

 あたしがマツタさんを、殺した。

「……舞奈が、そう言ったんですか」

「はい。笑いながら。ですから、冗談だとは思うんです。ただ、舞奈さんって、あんまりジョークとか言わないひとなので、なんというか、気になってしまって」

 息が詰まる。心臓の音がうるさい。こめかみの脈打つ感触が頭蓋にひびき、集中できない。意識が散漫になる。

「あの」

 水迄が控えめに覗きこんでくる。「だいじょうぶですか、まっさおですけど」

 伏せていた顔を上げてあたしはかれを見詰める。なんでそんなこと言うの、あたしに、と責めるように。知りたくなんてなかった。あたしはずっと舞奈に怨まれていたの? そんなこと、知りたくなんかなかった。目が乾き、視界が歪む。潤んだ目元からこぼれ落ちる涙をあたしは拭わない。当てつけのようにあたしはかれを睨んでいる。あんたのせいだ。あんたのせいであたしは――そんなことはないと判ってはいても、かれを責めずにはいられなかった。舞奈は知っていたんだ。あたしがないしょでマツタさんを呼び出したことを。そのせいでマツタさんが事故に遭ってしまったことも、あたしがそのことをずっとひた隠しにしていたこともぜんぶ、ぜんぶ、舞奈はとっくに気づいていたんだ。舞奈、ごめん。……ごめんなさい。ここにいない舞奈にあたしはゆるしを乞う。なんてぶざま、なんてかっこわるい。でも、あたしはこの場を去ることもできずに、テーブルにつっぷし、顔を隠し、声を殺し、嗚咽に謝罪の念を乗せて、どぎつく歯をくいしばっている。舞奈との思い出が走馬灯みたいによみがえる。舞奈はあたしのまえでは笑わなかった。マツタさんといっしょだった日々に見せていたあの無垢な笑顔を見せることはなかった。でもそれは、あたしがそばにいたからだ。あたしのまえでだけ、舞奈は笑えなかっただけなんだ。舞奈はやさしいコだから。すごく善いコだから。あたしのことが憎くて、憎くて、大嫌いになっても、見捨てることもできずに、そばにいてくれた。あたしはようやく思い知った。舞奈を支えているつもりになっていたあたしは、その実、あれからずっと舞奈に支えられていたのだと。悔恨と自責と後ろめたさの日々のなかで償いを果たそうとしていたあたしを、舞奈は、拒まずに受け入れてくれていた。

 間抜けな自分をあたしはあたまのなかで、いくども、いくども、殺してやった。瞼のうらに浮かぶふざけた自分を、あたしは残さずぜんぶ消し去りたかった。

      ***

 呆然自失と、すっかり口を閉ざしてしまったあたしに見兼ねたのか、水迄があたしをファミレスのそとに連れ出した。自分がなにかとんでもないことを言ってしまったのだと引け目を感じているのかもしれない。気遣うようにあたしの手を引いて、ぼろアパートまで導いた。座布団だかクッションだか分からないモフモフに座らせられる。またぞろお茶だとかミネラレルウォータだとかを出してくれる。

「落ち着いた?」

 泣きやんではいるものの、あたしはダンマリを決め込んだままだ。というよりも、なにも考えられなかった。考えたくなんてなかった。あたし、これからどんな面して舞奈に逢えばいいの。どんなことをすれば舞奈はゆるしてくれるの。この八年間、さんざん引き延ばしにしてきた問題が、ここにきてあたしを押しつぶす。

「よくわからないんだけど、ごめん。立ち入ったこと、訊いちゃって」

 かれが今さらなことを言ってくる。もう遅いよ。笑いたくなってしまう。だのに涙が頬を伝う。やめてほしい。あんたまで善い人に見えちゃうじゃん。そしたら、あたしだけがひどいやつで、なんの価値もない人間で、死んだほうがいい気がしてきちゃうじゃん。もういいよ。わかったよ。あんたはやさしくって、親切で、頼もしくって、マツタさんみたいで……あたしたちを包みこんでくれるあたたかさがある。認めてやるよ。あんたは舞奈にお似合いだ。

「帰る」つぶやいて立ちあがる。

「あ、駅まで送ります」ちゃぶ台に置いた財布だとかメディア端末をもういちどポケットに仕舞いなおすと水迄は玄関まで移動した。断る理由がなかったし、断るほどの気力もあたしにはなかった。黙って靴を履き、部屋を出る。

「あ、月がきれいですね」国道沿いを歩いていると、かれが夜空をゆびさした。沈黙に耐えられなかったのだろう。それにしても幼稚な話題だ。無視しようかとも思ったけど、反射的にのどを伸ばし、かれがゆび差したさきへ視線を向ける。まんまるいお月さまが浮かんでいた。まぶしいくらいの明るさで、周囲の星まで見えなくなっている。

「あれ? シズクちゃん?」

 よこから声を掛けられた。すこし離れた場所にコンビニがある。買い物を終えて車のドアを開けている男がいた。見覚えのある顔だ。すぐに、おととい袖にした男だと思いだす。あたしたちが知り合いだと察して、水迄が歩を止めた。背中に道を塞がれる。

「こんばんは」そいつはあたしではなく、水迄に会釈した。「彼氏さんですか、シズクちゃんの?」

「あ、どうも」柔和に会釈し返すと水迄は、「ちがいますよ。ともだちです」と応じた。

「そうですか。あ、オレ、シズクちゃんファンクラブ会員兼、惨敗者の会のNO.8です」そいつは悪意がないと分かる口振りでふざけた自己紹介をした。そのうえでさらにおどけたふうに、「もしもシズクちゃんに振られた際には、惨敗者の会にどうぞ」と抜かした。「そうだ、オレからアドバイスです。簡単に告白したらダメですよ。彼女、だれに対してもやさしいので」

 耳を疑った。なに言ってんだこいつ。あたしはおまえを利用した女だぞ。そいつは厭みではなく本気で水迄に忠告していた。さも、あなたは早とちりしないでくださいね、と励ますみたいに。へらへら、と自虐的に述べるそいつの顔は、どこかふっきれていた。恥ずかしい失敗談を笑いの種にするような道化のような物言いで、

「無防備なんですよ、彼女。まだ付き合ってもいないのに、落ちこんでたオレこと心配して、部屋に泊まりに来ちゃうくらいに。あ、もちろん疾しいことはなにも。それだけオレのこと信用してくれてたってことなんでしょうね。でも、オレ、誤解しちゃって。このあいだ告白したら振られちゃいました」

 そうなんだ。こいつみたいなタイプの男は、二、三度いっしょに寝てやっただけで、女に惚れてしまうような腑抜けなんだ。でも、だからってあたしはぜんぜん信用なんてしていない。だから、ぐーすか、寝息を立てている男のよこに添い寝しつつも、ひと晩中、起きている。あたしは自分の慧眼を信じているけど、男って生き物は、たとえ誠実な人格であっても、突如として獣になってしまうことのある不可解な生物でもあるから。いざというときのために、あたしが熟睡をすることはない。

「聞けば、オレの周辺でもけっこういるんですよ。シズクちゃんに告って玉砕したやつ」シズクちゃん、モテるから、とそいつは勝手にぺちゃくちゃ捲し立てている。そんなんだからおまえはモテないんだ、と教えてあげなかったあたしにも責任の一端はあるのかもしれない。そいつは最後にこう結んだ。「シズクちゃん、ちゃんとした彼氏いるみたいなので、気を付けてくださいね」

「はぁ。気を付けます」水迄は生半可な相槌を打ち、あたしに視線を送ってくる。そいつにあたしを任せるべきか、測り兼ねている様子だ。お伺いを立てるほど、あたしとそいつが親しげに映っているのだろうか。あほらしい。腹を立てるほどの気力も湧かない。どうでもよかった。あたしがかれにどう思われようと、どうでもよかったはずなのに、あたしは水迄の手を引いてその場をいそいそと立ち去っていた。

「じゃあ、またね」

 ちいさく、男のさびしそうな声が背中にとどく。利用されていたことにまだ気づいていないなんて。あたしはさらに泣きたくなった。 




      第三章『やっちまいな。』


      ***

 終電がちかいこともあり、駅前は混みあっていた。水迄が切符を買ってきてくれる。

 なんだ。知っていたのか。あたしが舞奈と同じ地区に住んでいることを。きっとすでに舞奈から聞いていたのだ。そのとき舞奈が言ったのだ。あたしのことを。

 兄を殺した、人殺しだと。

 奪い取るように切符を受けとってからも、あたしはその場を離れることができずにいた。舞奈のいるあの町に帰りたくなかった。帰れるわけもなかった。

「あの、もしかしたら勘違いさせてしまってるかもしれないので、ちゃんと言っておきますね」

 水迄の声はやさしい。子どもをあやすみたいな、心地よさがある。

「舞奈さん、言ってたんです。シズちゃんがいたから、希望を持てたって。お兄さんは死んでしまったけど、消えてしまったわけじゃなんだって。それを信じてこられたのは、ずっといっしょにいてくれたシズちゃんのおかげだって。舞奈さん、笑ってました。感謝してるって、そう言ってましたよ」

 うそだと思った。あたしを慰めるために吐いたうそだと思った。だのにかれの言葉が胸に、抵抗なく沁みこんでくる。まるでほんとうに舞奈がそう言ってくれていたような気になってしまう。

 泣き崩れたかった。うれしいのと。くるしいのと。ゆるしてもらえると思った途端に。ゆるしてもらえていたのだと思えた途端に。あたしはちゃんと舞奈にあやまらなきゃいけないんだって。ずるい自分がだいきらいで。だからこれ以上、ひきょうになんてなりたくなかったから。心配なんてされたくなかったから。

 だからあたしは、せいいっぱいにつよがってみせた。

「……シズちゃん、言うな」

      ***

 電車は繁華街を離れ、郊外へと向かう。満員だった乗客も、波が引いたように少なくなっていく。

 あたしは砂時計を連想した。

 最後まで残った砂塵のひとつぶのことを考える。

 さいごのさいごにひとりぼっちで落下する気分はどんなだろう。

 ほかの砂粒たちのうえに乗っかって、なす術なくさらさらと落ちいくみんなを眺めているというのは、どんな心境だろう。想像できそうで、あたしにはできそうもなかった。

 気づくと車内には、あたしと数人の客だけが残されていた。独りになるまえに電車を降りた。深夜二時まで営業中のスーパーに寄る。さんざん悩んだあげく、けっきょくカップ麺を数個だけ買った。疲れたからか、しょっぱい物が食べたかった。

      ***

 星がきれいだった。都会とちがってこの町では夜空が澄んで見える。

 そらを仰ぎながら歩く。街灯の照らす道には誰もいない。昼も夜も情けないくらいにこの町は静かだ。

 くたびれた商店街を抜けて閑静な住宅街へ抜ける。あみだくじみたいな小路を進んでいく。

 マンションまでは十分ほどの距離だ。あたしはてんで動かない星々をみあげながら、水迄との会話を思いだしていた。

 駅まえでの別れ際、あたしはかれに訊いた。

「ダンス始めたのって、いつ?」

「やぶからぼうですね。なんですか急に」笑いながら水迄は答えた。「手術が終わってからすぐですね。リハビリがてらにはじめたんです。元から音楽が好きで、聞いていたら無性に踊りたくなってしまって。そんなこと今までなかったんですけど」

 やっぱり体調良くなると暴れたくなるんですよね。男の性分だと思います、とかれは無邪気に語った。

「手術って、なんの」

「心臓のです」ここですこしかれの表情が曇った。「移植手術をしました。心臓の」

「何年前のことなの」

 かれは天上を仰ぎ、「かれこれ七、八年になりますね。術後の経過は、良好も良好。医師が舌を巻くほどの回復具合だったらしいです。ぼく自身、あまり実感はなかったんですけど」

「そのこと、舞奈は知ってるの」

「手術のことなら知ってますよ。話しましたから」

「そっちじゃなくって、ダンスのこと」

「と、言いますと?」水迄は訝しがったが、あたしは構わず、「術後にダンスの才能が開花したって話」

「知らないと思いますよ。言ってないですから」

 話す理由もないですし、とでも言いたげだった。

 けど、舞奈はきっと知っている。かれがダンスを始めたきっかけが、術後であることを。さらには、かれの手術が臓器移植であったことまでもすべて、舞奈はきっと知っている。

「移植する以外に助かる術はないって告げられていました。運がよかったんです。ちょうどぼくと適合するドナーのかたが見つかって。拒絶反応もなく、すっかりこのとおりです」

 ぼくはこのひとのおかげで、こうして生きていられる。

 労わるようにかれは胸をさすった。

      ***

 月がない。星ばかり見ていて気づかなかった。いつの間にか沈んでしまったらしい。せっかくきれいな満月だったのに。

 片手にコンビニの袋をかっさげ、自分の影を追うように歩く。踏みだすたびに、カップラーメンがカサコソ鳴った。

 マンションの駐輪場に入ると、見慣れぬ置き物が目に止まった。

 目を凝らす。なんだろう。

 銅像ではないと知れる。小さくうずくまった人影だ。

 不気味に思い、迂回して遠巻きに通りすぎようとし、はた、と気づく。

 おそるおそる近づいていくと、人影は、ひざに埋めていた顔をあげた。

「おかえり。シズちゃん」

 舞奈だった。

「どうしたの」あたしは平静を装う。「連絡くれればすぐ帰ってきたのに」

「連絡してもよかったの?」

 握られたように心臓が跳ねた。「だめなわけないじゃん」

「そ? なら連絡すればよかった」舞奈は、縮めていた足を伸ばし、ちいさなカエルのように跳びはね、立ちあがる。服を払って、マンションの入口へ歩いていく。「ほらはやく。まさか、帰れ、なんて言わないよね」

「あ、うん」小走りで駆け寄る。暗証番号を入力してドアのロックを解除する。エレベータに乗りこむ。あたしは控えめに舞奈の顔を窺った。

「ん? どうしたの」小首をかしげた舞奈と目が合う。

「ううん」慌てて顔を逸らす。「なんでもない」

 エレベータを降り、部屋のまえまで来る。「散らかってるけど、おこらないでね」

「散らかってるだけならね」

「……ごめん。散らかってて、汚いです」

「じゃあ、おこるかも」

「じゃあ入れたくない」

「うそ。おこらないよ。ほら、はやく」

 促されて解錠する。扉を開ける。さきに中に入り、廊下の電気を点ける。どうぞ、と招く。

「鍵、閉めたほうがいい?」

「うん。おねがい」

 靴を脱ぐ所作ひとつとっても上品なのがうらやましい。

 リビングの電気を点けると、うしろから、「うわぁ」と舞奈の幼い詠嘆があがった。「すごいね」

「なにが」

「すごい」舞奈は笑って、「ちたない」

「ごめんなさい」そそくさとキッチンに逃げ込む。やかんに水を注ぐ。お湯を沸かす。カップ麺は数個購入していたので、舞奈にも、「たべる?」とカップ麺を振ってみせる。

「やった。いただきます」

「ミソとしお。どっち?」

「じゃあ、おミソ」

「うん。おミソね」

 大した作業もないのにあたしはキッチンから出ずにいる。お湯が沸くまでじっとしている。リビングのほうから舞奈の気配が伝わってくる。部屋を見渡して、「やれやれだな」のため息を吐いている。あたしが中々戻ってこないと察すると、いそいそと掃除を始めた。とくに見られてまずいものはないけれど、さすがに脱ぎっぱなしの下着とか、数日間そのままの飲みかけのコーラだとか、どこかしら不潔っぽいものを舞奈にいじってほしくはなかった。あんたはそんなばっちぃものに触れたらあかんよ。あたしは葛藤の末、お湯が沸ききる前にキッチンから脱した。

「こらこら。なに勝手に漁ってんの。えっち」

「ひどい。お掃除してあげようと思ったのに」

 脱ぎ捨てられたブラを片手に舞奈は膨れた。睨み合うこと数秒。舞奈は堪えかねたように噴きだし、ほっぺをしぼませる。

 釣られてあたしも笑ってしまうあたり、優柔不断にもほどがある。いくつになっても舞奈には敵わない。

「今日、さっきまで水迄さんといたんだ」あたしは白状した。「ごめん。舞奈の好きなひとがどんな野郎か、知りたくなって。勝手に審査してた」

「そっか」

「おこらないの」予想外に、舞奈の反応は素っ気ない。

「だって、わたしのためにしてくれたんでしょ? 怒るとすれば、わたしに内緒にしてたってことくらいかな。相談してくれればよかったのに」

「だって、言ったら舞奈、ぜったい反対するし」

「それも含めて相談してほしかったな」

 謝るしかない。あたしは分かりやすくしょげてみせる。舞奈は「しょうがないな」のため息を吐く。それから、で? と水を向けてくる。

「どうだった?」

「ん?」

「優那くん。シズちゃんの目からみて、どう映りましたか」先生みたいな口調の舞奈。これは舞奈があたしに対して精いっぱいにおどけてみせてくれているときの物言いだ。逆説的にそれは、舞奈があたしに対してかなり気遣ってくれていることを示してもいる。

 舞奈はたぶん、気づいている。あたしが気づいていることに、気づいている。

「ああうん」

 どうしても言葉を濁してしまう。すこし考えてから、

「いいやつだったよ」

 素直な感想だけを報告する。

「それだけ?」

 舞奈は不服そうだ。あたしのブラを手に持ったまま口元をすぼませている。「シズちゃんなら解ってくれると思ってたんだけどなぁ」

「ステキなひとだったよ」あたしは素っ気なさを醸しつつ告げる。「なんだかそう、マツタさんみたいだった」

 足元には靴下が無造作に落ちている。蛇の抜け殻みたいだな、なんていっしゅんの思考逃避をするけど、どんな反応が返ってこようと、あたしは受けとめるつもりだった。

「うれしい」

 だのに舞奈ときたら、まるで宝物を共有できたみたいによろこぶんだ。

「なんで……」

 どうしてうれしいの。

 太陽みたいにほころぶ舞奈をあたしは直視できない。よこを向いて目を逸らす。姿見に映るあたしは、なんで、どうして、と泣き笑いの顔を浮かべている。

「だって、やっぱり解ってくれたんだもん。シズちゃんはやっぱり、お兄ちゃんを忘れていなかった」

 舞奈が、お兄ちゃん、と口にした。

 マツタさんが亡くなってからずっと、けっして口にしなくなったその言葉を、舞奈はなんの屈託もなく自然な様で口にした。

「シズちゃんだって気づいてるんでしょ?」

「気づいてるって、なにを……」

 やめて。聞きたくない。

 訊ねておきながらあたしは頭のなかで耳を塞ぐ。

「だって、シズちゃんはお兄ちゃんを忘れてないんだもん。だったら、ね? 判っちゃうよね」

 言わないで。

 身体が麻痺したみたいに動かない。舞奈はあたしの反応を楽しむみたいに、優那くんは、と口ずさむ。

「優那くんはね。あたしの、お兄ちゃんなの」

      ***

 胸が張り裂けそうになった。

 憐れだ、と思った。

 愛おしい、とさえ思えた。

 マツタさんは亡くなったんだよ舞奈。

 言い聞かせてやりたかった。目を覚まさせてあげたかった。

 あたしが呼びだした所為で舞奈のお兄さんは、マツタさんは。

 あたしが好きになってしまったあのひとは。

 車に轢かれて死んじゃった。

 葬式に出席し、あたしもこの目で遺体を見た。おぼつかない記憶だけれど、淡々と進行するお葬式はまるで学芸会みたいな、つくりものじみた印象がした。

 あたしは泣くこともできず、ずっと放心したまま、顔を伏せて足元だけを見詰めていた。泣きじゃくる舞奈の声と、悪夢みたいな後悔と、そして途方もない罪悪感だけが、あたしの未熟な躯を満たしていた。

 マツタさんはもういない。どれだけ喚いたって揺るがないこれが現実で、惨酷な世界があたしたちに課した桎梏だった。

 それなのに舞奈は言うのだ。

 ――あのひとは、お兄ちゃんなんだよ。

 水迄優那がマツタさんなのだと、舞奈はうれしそうに語る。

 マツタさんの代わりなどいるはずもないのに。

 あのひとはね、舞奈。

 死んだんだよ。

 もうどこにもいないし、逢えないんだよ。

 だって、あたしが殺しちゃったんだもん。

 言い聞かせるべきだし、告げるべきだったし、謝るべきだった。

 でも、できなかった。

 この期に及んであたしは舞奈に明かすことを躊躇っている。

 こわいんだ。

 卑怯なんだ。

 罪をさらけ出してしまうことで、あたしの罪が、マツタさんの死と同じように揺るがぬ現実として、あたしたちのあいだに決定的な楔を打ち込むことが。

 あたしはひどく、こわかった。

 嫌われたっていい。

 絶交されたって、激昂されたって、

 あたしには文句を言う資格はない。

 でも、と思うわがままな自分が拭えない。

 あたしは不幸にしたらいけないんだ。

 もう二度とあたしは。

 舞奈を――。

      ***

 カタカタと蓋が揺れている。やかんから蒸気が噴きあげている。

 はやく火をとめなきゃ。

 火にかけたままのやかんに意識を移す。この場から逃げだしたい思いが募る。舞奈はそのあいだもこちらを見詰めているし、あたしも視線を受けとめている。

 うごけない。

 あの日、と舞奈は口ずさむように言った。作り物みたいにやわらかな笑みを張りつけたまま、「お兄ちゃんが車に轢かれたあの日」と語りはじめる。

「シズちゃんはお兄ちゃんを呼びだしたんだよね。わたし、知ってたよ。どこに行くのか訊ねてもお兄ちゃんは教えてくれなかったけど、でもね、わたし、知ってた。シズちゃんに呼びだされて、お兄ちゃんがそれで出掛けるんだってこと。知ってて、止めなかったし、知ってて、付いてかなかったんだよ」

 あたしは当惑する。なんの話をしてるの、舞奈。

 舞奈があたしの罪を知っていたように、あたしも今では舞奈がそうしてあたしの罪を知っていたことを、知っている。でも、舞奈の口振りはまるで、あたしがマツタさんに告白しようとしていたことまでをも見抜いていたような響きがある。

「シズちゃんを責めようとは思わないよ」不安そうな顔をあたしが浮かべていたからだろう、舞奈は、「シズちゃんがわるいなんて考えたこともないんだよ」と慈しむような言葉を紡ぐ。「でもね、シズちゃん、わたしはね、シズちゃんが自分を責めているってことに気づいていても、それでもシズちゃんを慰めることも、否定してあげることもせずに、ずっとそばにいたんだよ。ひどいよね。わたし、ひどいコだと思う。じぶんでもいやになっちゃう。でもね、わたしはね」

 腕をうしろ手に組んで、舞奈がくるりと反転する。こちらに背を向け、窓のそとを眺めるようにしながら、「わたしにはね、傷を舐めあえる相手がひつようだったの」

「舞奈?」

 首だけ捻って、いっしゅんだけこちらに顔を向ける彼女は、すぐさま窓へ視線を戻す。奥にはがらんどうの闇が広がっている。

「シズちゃんはさ。どうして告白しようなんて思ったの?」 

 どうしてって……。

「自分が告白しなかったら、お兄ちゃんは死なずに済んだ。そうやって責めてるんだよね、自分を、シズちゃんは」俯く舞奈は足元に転がる空のペットボトルを、ちょんと足さきで小突く。ペットボトルはコロコロと回転し、積まれた本の山にぶつかった。「シズちゃんがそうやって呵責に耐えていたのと同じでね。わたしも自分を責めてたんだよ」

 なんの話、とあたしは訊けない。

「シズちゃんは憶えてるかな。憶えているよね」舞奈が顔を伏したままで儚く笑う。「わたしが言ったんだよ。お兄ちゃんに彼女ができたみたいだって。あのころ、よく電話がかかってきててね。ううん。お兄ちゃんが出たところは見たことなかったから、メールだったのかもしれないんだけど、ただ、あのころお兄ちゃんは、何か忙しそうだった」

 そうだよね、と同意を求めるみたいに舞奈がこちらを振りかえる。

 虚ろな思考で思いだす。

 あたしがマツタさんを呼び出した理由。告白しようとしたわけ。

 ――マツタさんに彼女ができた。

 しょぼくれた舞奈からあたしはそう聞いた。

 そうだ。あたしはそのとき気がついた。

 あたしはマツタさんが好きなんだって。

 会える頻度が少なくなっていたあの時期、あたしたちはマツタさんに構ってもらえなくなっていた。

 不満だったし、さびしかった。その寂寥の要因が、あたしたち以外の女にあったと知ったあたしは、ひどく落ち込んだ。

 ひどく落ち込んで、傷ついたんだ。

 顔も知らない女にマツタさんを、とられた。

 そう思ったら無性に悔しくなった。悔しくて、くるしくて、いてもたってもいられなくなった。

「シズちゃんは知らないままなんだよね」

 お兄ちゃんはさ、と舞奈は、平然と告げた。「お兄ちゃんは、シズちゃんが好きだったんだよ」

 唖然とする。マツタさんが、あたしを……?

 マツタさんは宇宙人だったんだよ、と言われたほうがまだ信じられた。

「そういう冗談、やめて」胃が鋭く痛む。頭がぐわんぐわん鳴る。頭のなかでミミズがのたうち回っている。

「冗談じゃないよ。お兄ちゃんはシズちゃんが好きだった。ただ、それが恋愛感情だったのかまではわたしもしょうじき、判らなかった。でもね、それで充分だったの。お兄ちゃんが、わたし以外の女の子に好意を寄せている。その事実だけが判っていれば、それで充分だった」

「舞奈?」なんの話をしているの。あたしは予感していた。あたしたちは今、引き返せないところに立っている。

「お兄ちゃんはわたしだけじゃなくって、シズちゃんのこともたいせつだと思うようになってたんだよ。わたしはそう、いちばんじゃなくなってた」

「そんなこと……」そんなこと、ない。あたしは否定したかった。マツタさんは舞奈のことを一番たいせつに思っていた。舞奈のことを一番に考えて、舞奈のことを一番に思っていて、だからマツタさんは、あたしにも心から好きになってほしかった。舞奈のことを。自分ではなく。

 マツタさんの望みを叶えるためにあたしは、

 舞奈をほんとうに好きになるためにあたしは、

 大好きだったマツタさんに振られることで、舞奈のことを一番にしようと思った。

 それはぜんぶマツタさんのためで――とどのつまりが、あたし自身のためだった。

 だのに舞奈は、あたしの思いを否定する。

 マツタさんが、あたしのこともたいせつに想ってくれていた?

 そんなのうそだよ。

 だったらあたしは、なんのために――。

「いちばんじゃなくなったわたしは、でもね。やっぱりお兄ちゃんがいちばん好きだった。シズちゃんの想いは否定しないし、シズちゃんのお兄ちゃんへの想いは、わたしにしてみても、うれしかったよ。ううん、ちがうかも、どっちかって言ったら、ほこらしかった。やっぱりお兄ちゃんは、みんなから好かれるんだって。わたしだけのいちばんじゃなくって、シズちゃんにとってのいちばんでもあるんだって。でもね、それはわたしが、お兄ちゃんにとってのいちばんだって自覚があったから抱けた優越感でしかなくって。なのにお兄ちゃんときたら、わたしだけじゃなくって、シズちゃんまで好きになっちゃうんだもん。わたしはもう、あのときにはすでにお兄ちゃんにとってのいちばんじゃなくなってた」

 全身が沫立った。普段どおりの舞奈であるのに、彼女に透けて視える彼女の〝想い〟が、あたしに重くのしかかる。

      ***

「嫉妬、なのかなぁ」舞奈は数歩よこへずれ、ソファのうえに腰を落とした。舞奈が沈むと、無造作に置かれた衣服が、わけもなく弾んだ。「最初はね、ただシズちゃんに諦めてもらおうと思っただけなの。お兄ちゃんのことだよ? あのころシズちゃん、すごくお兄ちゃんを意識してた。わたしでも判ったくらいだもん。きっとお兄ちゃんだって気づいてたよ」

 それはいつのことだろう、と想像する。あたしが気づくまえから、きっと舞奈は見抜いていたのだ。あたしがマツタさんを好いていたことを、だいすきだってことを。

「お兄ちゃんはさ。べつにロリコンではなかったと思うの。でもお兄ちゃんは、自分よりも年下の女の子――妹と、わたしと同じくらいの歳をした、幼い女の子のことを愛おしいと思うような、ちょっと変わったひとだった。ううん、ちがうよね。きっとお兄ちゃんは素直だったんだと思う。世間体とか、常識とか、そういった枠組みで『愛』を語ったりしないひとだった。ただ、お兄ちゃんには人一倍の正義感とか良心があったから、きっとシズちゃんが告白しても、あのころのシズちゃんを受け入れたりはしないだろうって、わたし、確信してた。だから」

「だから、あたしに告白させた?」さきを読んで口にする。

「順番はちがうけど、結果的にはそういうことになっちゃうんだろうね」舞奈は認めた。前屈みになり、片手で頭を支え、「最初はただ」と苦笑まじりに述懐する。「シズちゃんにお兄ちゃんのことを諦めてもらおうと思って、あんなことを言ったの」

 あんなこと。

 ――お兄ちゃんに、彼女ができたみたい。

 舞奈はだから、あたしに〝ウソ〟を吹きこんだ。

「でも、シズちゃんは諦めなかった。ううん。諦めようとしてくれたからこそ、告白っていう手段を選んだんだよね」

 完全に見透かされている。いや、八年前のあのときからすでに、このコはあたしの想いと思考を読み取っていた。

「悩んだんだよ、わたし。シズちゃんが悲しむところ、見たくなかったし」

 舞奈があたしに〝ウソ〟を告げたとき、あたしはこの世の終わりみたいな顔をしたらしい。

「お兄ちゃんは、きっとシズちゃんを振る。シズちゃんを好きだからこそ、たいせつだからこそ、お兄ちゃんはぜったいにシズちゃんの想いを受け入れたりしない。わたしはね、そこまで考えて、確信して、あの日――お兄ちゃんを一人で行かせたの」

 舞奈の足元に、雫が落ちた。

「シズちゃんは、自分のせいでお兄ちゃんを殺しちゃったって思ってるんでしょ?」

 おかしいよね、と舞奈は笑う。

「だって、わたしのせいで死んじゃったのに」

 ほんとうはさ、と顔を両手で覆い、

「お兄ちゃんを殺しちゃったのは、ほんとうは、わたしなのに」

 お葬式のときみたいに泣いている。舞奈が悲鳴をあげている。

 わたしは舞奈の嗚咽だけを耳にしていた。

 あのときもこうしてこのコは、自分を責めていたのだろうか。

 悲しみよりも、後悔を。

 別れよりも、罪悪を。

 自分の罪を、

 責めていたのだろうか。

「シズちゃんに、言おうと、わたし、なんども」

 しゃくりを挟み挟み、舞奈は片言を紡ぐ。「でも、言えなくって。言いだせなくって」

 おんなじだ、と思った。舞奈のくるしみは、あたしのよく知る孤独とおんなじだ。

「そっか」

 つらかったよね、とは言えない。掛けるべき言葉なんてどこにもない。ただ、そうだったんだね、って受けとめてあげることしかあたしにはできない。舞奈もきっと同情なんて求めていない。あたしたちはどうしようもなく似た者同士で、どうしようもなく欠落者で、欠けた箇所を埋め合うように、負った傷を舐め合うように、足りない脚を支え合うようにして、互いに相手を必要としていた。

「謝らなくっていいよ」あたしは突き放つように言う。「今さら舞奈がなにを言ったところで、あたしの罪は無くならない。舞奈も舞奈で、あたしが何を言ったって、その呵責からは逃れられない。だったら、もう、何も言わなくっていいよ。わかったから」

「でも」

「ただね」遮って続ける。「ただ、マツタさんは死んだんだ。マツタさんの代わりなんていないんだよ舞奈。そこだけは譲れない。たしかに水迄はいいやつだよ、それは認める。あいつをマツタさんの代わりとして見做すのも構わない。それは舞奈の勝手だよ。でもね、それをあたしにまで理解させようなんて考えているんだったら、あたしは舞奈をゆるさない」

「ちがうの」立ちあがって舞奈は、「シズちゃん、ちがうの。そうじゃなくって」

「もうやめてよ」あたしの声は弱々しい。「もうやめようよ」

「でもね、優那くんは」

「マツタさんじゃないんだよ」なんで解らないんだこの分からず屋。あたしは叫んでいた。「舞奈がそんな動機であいつを好きになったってんなら、あいつがかわいそうだろ。あいつに惚れたきっかけだけならそれでいいよ。今はちゃんと、水迄優那っていうひとりの人間として好きになってるっていうなら、それでもいいんだよ。けどさ、舞奈は、あいつを――水迄優那って男のことを、マツタさんの代わりにしてるだけじゃん。あたしだって、あいつにマツタさんの面影が視えるよ。ダブって視えちゃうんだ。けど、やっぱりあいつはあいつだし、マツタさんはマツタさんだよ。どれだけ似ているところを探したって、マツタさんは生き返らないし、水迄優那は、水迄優那だ。お願いだよ舞奈。ちゃんとあいつと向き合ってよ」

 ちゃんとマツタさんの死と向き合ってよ。

 自分でも何を言いたいのか分からなかったし、どう言えばいいのかなんて考えられなくなっていた。

 きっと舞奈は気づいている。いつどの時点で、どうやって気づいたのかなんて知らないけど、舞奈は水迄優那というひとりの男に、マツタさんのぬくもりを見出している。

 舞奈はちゃんと見抜いている。だからこそ、あたしと同じように、水迄優那って男に惚れちまったんだ。

 くやしいよね、あんな男に。

 あいつはマツタさんじゃないのに。

 けど、あたしはちゃんと、あいつのことが好きになったよ。

 舞奈、あんたはどうなのさ。ちゃんと水迄優那を好きなの。

 返答次第では、あたしは舞奈を裏切ることになる。

 けど、それがあたしにできる最善だから。

 最善の、最悪だから。

 舞奈の言葉をあたしは待った。

「シズちゃんはさ」舞奈はつぶやき、下唇を噛んだ。「シズちゃんは、どうしてそんなことが言えるの」

 気づいているんでしょ、と上目に睨みつけてくる。

 痛い。このコの視線は直接あたしの胸を貫くんだ。

「優那くんは、お兄ちゃんなんだよ」

「まだ言うの」

「だってそうなんだもん」駄々っ子みたいに強情を張る舞奈は、まるであのころのようだ。マツタさんにからかわれて拗ねたときや、いたずらをして予想外に怒られたとき。そんなつもりはなかったのに、悪意なんてなかったのに、と舞奈はこうして身体を強張らせ、小鹿みたいに震えた。

「優那くんの身体にはね」

「やめて」

「あのひとの身体にはね」

「やめて」

 聞きたくない。

 あたしは舞奈に縋りつく。

「あのひとの心臓はね」構わず舞奈は口にした。あたしにも、痛みと希望を植え付けるかのように。「お兄ちゃんのものなんだよ」

      ***

 心臓。

 かつて心は脳ではなく、心臓に宿ると信じられていた。時代を経て、心は頭脳の働きによる現象と解釈されるようになった。

 けど、心臓に「記憶」が宿らないと否定されたわけではない。

 記憶とまで言わずとも、そのひとの「性質」が刻まれていたとして、なんのふしぎがあるだろう。

 舞奈の去ったあと。あたしは放心したまま、カーペットの紋様を眺めていた。

「シズちゃんだって、うれしいでしょ」舞奈は気遣うような口調で言い、「今日はもう、帰るね」

 しずかに部屋から出て行った。

 ――ほんとうはうれしいくせに。

 そう責められた気がした。立ちあがるとよろめき、崩れるようにソファに座る。

 両目を押さえ、頭を抱える。

 真っ暗だ。

 しだいにチカチカと明滅しだし、それがまるであたしの心中を暗喩しているようで癪に障る。

 マツタさんが生きている。

 マツタさんの一部が、生きている。

 水迄優那という別人の肉体に移植され、水迄優那という男のなかで生きている。証拠なんてどこにもない。根拠なんてなにもない。

 でも、かれは言っていた。

 幼い頃から病弱で、心臓を患っていたと。

 臓器移植の手術を経てから、すっかり元気になったとも話していた。

 それが今から七、八年前のこと。ちょうどマツタさんが亡くなった時期と重なる。

 けど、その話を聞く前からなんとなく感じていた。まるでマツタさんなんだもの。

 舞奈にいたってはきっと出会ったその瞬間に直感したんだ。

 水迄優那は、あたしたちの最愛のひと――マツタさんの心臓を受け継いでいると。

      ***

 カエルのミイラを憶いだす。

 舞奈と出会うきっかけになった両生類の死骸だ。

 なんの変哲もない、どこにでも転がっていそうな、ぺっちゃんこの、生き物だったモノ。

 あたしと舞奈の縁は、そんな卑近な事象で結ばれた。

 死んだらどうなるんだろう。それを考えなかったわけではない。マツタさんが死ぬまでもなく、あたしたちはきっと、カエルの死骸を観察しながらそんな途方もない現象について考えを巡らせていた。

 無になるわけではない。

 ちいさな生き物たちに喰われ、細菌に分解され、ときに風に混ざることもあれば、ふたたび生物に取り込まれ肉体の一部になったりする。

 あたしたちを構成する肉体は、生きているあいだだって、そうしてのべつ幕なしに分解と構成と、瓦解と分散を繰りかえしている。その循環が、ひとつの肉体に留まっているか、それとも自然という大きな循環に取り込まれてしまうのか。そのちがいがあるだけで。

 統合と分裂と。

 構築と崩壊と。

 世界はそうしてできあがっている。そのながれこそが、世界なのだ。

 じゃあ、そのながれが、一部でも生きていたら?

 そうしたら、ひとはいつまでも生きつづけるの?

 肉体そのものではなく、ひととしての性質が。

 個としての枠組み。システム。ながれ。

 そうしたものが、死後もなお存続しつづけていたとすれば。

 それは生きていると言えるんじゃ……。

 そこまで考えて、ひざに頭を打ちつける。

 バッカじゃないの、あたし。

 マツタさんは死んだんだよ。

 車に轢かれて死んじゃった。

 あたしが殺しちゃったんだ。

 死んだらおしまいだ。もう逢えないんだよ。

 故人はあたしたちの記憶のなかで生きつづける、だなんて妄言を聞くこともあるけれど、そんなのは自己満足にすぎない。故人に対する冒涜ですらある。

 マツタさんがあたしの記憶のなかで生きている?

 じゃあ、死んだマツタさんはどうなるの?

 淋しいから、悲しみたくないから、だからあたしが、あたしのなかでだけマツタさんを生きている者として扱って、それでほんとうにマツタさんは生きていることになるの?

 なるわけない。

 主観を客観になんて昇華できっこない。

 主観を現実に反映させることなんて、神さまだってできっこないんだよ。

 それは、水迄優那にも言えることだ。

 仮にかれがマツタさんの性質を――記憶を――個性を受け継いでいたからといって、かれがマツタさんになったわけではない。かれの肉体のなかでマツタさんの心臓が動いているからって、かれのなかにマツタさんが生きているわけでもない。

 水迄優那は水迄優那だ。たとえマツタさんの影響を受けていたって、かれはマツタさんではない。

 だのに舞奈は認めない。かれのなかでマツタさんが生きている。

 そうと信じて疑わない。

 舞奈はそれでしあわせなのかもしれない。

 けど、でも、ほんとうにそれでいいの?

 あたしは呻くことしかできない。あたしは舞奈からまたしあわせを奪わなきゃいけないの。せっかく手にした舞奈のしあわせを、マツタさんを、あたしはまた、殺さなくっちゃいけないの。

 それがほんとうに、舞奈のためになるのかな。

 マツタさんが真実に死んでいる、と思っているのなら、こんなことで悩むことさえないのに、それでもあたしはくよくよと頭を抱え、ちぢこまっている。

 本当は、信じているくせに。だからこんなことでいつまでも、苦しんでいる。

 生きている人間だって、常に変化しつづけている。十年前のあたしと、現在のあたしはもう、別人だと呼べるくらいに変化している。なら、マツタさんだって、水迄優那という器に移り、彼の精神を拠り所に今もまだ生きている、と考えることは、妄言のひとことで片づけられるほど、非・現実的なことだろうか。

 いや、ちがう、でも、だったら……。

 舞奈みたいに艶っぽく嗚咽することもできずにあたしは、けものみたいに呻くことしかできない。

 ついでのように、お腹が、ぐぅと鳴る。

 どれだけ悩ましくたって、どれだけ哀しくたって、それでも生きているかぎり、ひとはお腹がすくんだね。神さまはとことんあたしがお嫌いらしい。悲劇のヒロインにもなれやしない。

 カップラーメンはとっくに冷めていた。伸びきった麺は死んだドジョウを啜っているようで気色わるく、食欲を減退させる。お腹を膨らませるだけなら都合がよいと考え、あたしは呻きながら、湧きあがる悪心を堪え、死んだドジョウを掻きこんでいく。




                   「16ビートのゆくえ」END




【おしっこに行ってきます】


  『集団無視と台風は似ている。

        中心たる核はおそろしく静かであり、

            猛烈に吹き荒れているのはその周囲である』 


       +++かれ+++

 いくら考えてみてもきっかけが思いだせない。眠った瞬間を意識できないのと同じ感覚だった。極々自然に好きになっていた。しかしこれもまた、ひと目惚れの類なのだ、とかれは思っている。彼女を見た瞬間、たしかに目を奪われた。そのときは、かわいらしいコだな、との所感を抱いたにとどまった。そこからいかにして恋慕の念を募らせたかはやはり詳らかではない。明確なきっかけなど端からないのかもしれない。

 ストーカーなる存在がいかような行為をして、「ストーカー」足り得るのかを、かれはよく知らない。たとえば恋人でもないのに、恋人のように接すると、ストーカーと呼ばれるのだろうか。それとも相手から拒絶され、それでもなお相手に干渉した瞬間にストーカーとなるのだろうか。だとすれば、相手に好かれないかぎり、恋が成就すると確定的でないかぎりは、どうあっても「ストーカー」となってしまうのではないか。成就すると確定されなければ、恋愛をしてはいけないということか。

 かれは彼女が好きである。ほかの男と仲良くしている様を見れば、胸のうちが、すぅと薄くなるほど切ない嫉妬を抱いてしまう。悲しい気持ちに似ているし、絶望と言えばそれにちかい。じぶんのような人間が彼女に触れることは許されない。どころか、言葉さえ交えてはいけないという現実は、常に、じぶんの存在意義を根底から否定され、拒絶され、こなごなに打ち砕かれるような辛苦が付き纏う。

 彼女は慈悲深く、かれのような人間にも相応に接してくれるだろう。だが、周囲の人間がそれをゆるさない。

 かれは孤独だった。孤独のなかでも、「孤立」と呼ばれる、特にさびしい孤独である。心休まるような孤独ではなく、じぶんでは選ぶことのできない劣悪。強いられる孤独。退避という名の強制。反発という名の一方的な干渉。じりじりと焼け爛れる灼熱のようなもの。

 そんな学園生活のなかであっても、かれは登校を拒否することはなかった。毎日くじけずに通いつづけた。ひとえに彼女がいたからだ。クラスが同じだった。学校に行けば彼女と同じ空間に身を置くことができる。彼女の姿を目にするためだけに、ただそれだけのためにかれは無理強いされる孤独を甘受した。

 とはいえ、彼女がこちらを見てくれることはない。彼女もまたかれを避けていた。それに気づかないほど鈍くはない。だが、それでも良かった。避けられるということは、少なくとも彼女がこちらの存在を気に掛けてくれているということでもあるのだから。

 かれは日に日に、彼女への想いを、たしかな愛情へと昇華させていった。一途に、熱く、滔々と。それでいて、誰にもこの想いを気取られぬように。

      + + +

 おはよう、と元気に挨拶をしたのはもう何年も前のことになる。小学校低学年のときまで遡らなくてはならないほどのむかしだ。

 人生のうちで一定の期間、他人から無視される経験は、存外に少なくないものだ。これまで一度たりとも他人から無視をされたことのない人間はそう多くはない。いっぽうで、集団無視という非常にひろい範囲での無視を強いられた者は珍しいだろう。なぜなら、集団無視においては大多数の人間があまねく無視をする側であるからだ。

 集団無視を強いられた者であれば、大概、無視の本質を知ることとなる。無視の本質は不干渉ではない。常に強制的な限定を強いられる過酷な枷だ。こちらからどのように意思を伝えようとも、手応えがない。逆に、向こうからはこちらへ意図せざる体を装っての悪口雑言を放てるのであるから、この一方通行的で理不尽な干渉を、強いて喩えるとするならば、「自然災害と酷似しているよね」と言わざるを得ない。

 かれは中学校からすでに集団無視の餌食となっていた。小学校ではまだ同世代と友好で円満な関係を築けていたものの、異性への意識が芽生え始めた時分――思春期へと差しかかった途端に、かれの周囲のことごとくが、かれを避けはじめた。

 不幸なことにかれの容姿は端的に、「異形」のそれである。かれに近寄ろうとする者は中学校への入学を期にほぼ皆無となった。中学校を卒業後、高校へ進学してからもそれが変わることはなかった。

 かれには友達がいなかった。いつもひとりぼっちでの学園生活を余儀なくされた。昼飯は常に独り。この学園に入学してから半月ほど経過したころになるとかれは、二時間目の休み時間に昼食を済ますようになった。昼休み、ほかの生徒たちが、わいわい、がやがや、と賑やかに食事をしているよこで、ぽつねんと孤独に弁当をついばむのは苦痛以外のなにものでもなかった。早弁をしておけば昼休みになったと同時に教室を後にして、誰もいない体育館で身体を動かした。あたかも、早弁をしているのは昼休みに運動するためであって孤食の淋しさに耐えられないからではないんだよ、と示すように。

 この学園へ入学してから、かれはすぐに恋をした。同じクラスの可愛らしい娘だった。淡い恋心でしかなかったはずの情念は、日に日にかれの未熟な精神を蝕むように膨れていった。

 一度でいいから言葉を交わしてみたい。一度でいいからその肌に触れてみたい。

 天使の微笑。赤子のおしりみたいな頬。

 さぞかし、すべすべ、と滑らかだろう。どれだけ、ぷにぷに、と柔らかだろう。

 かよわい仔猫のような声はけれど、鈴の音のように遠くまで、よく透きとおる。

 長い頭髪は墨のごとく漆黒であるにも拘らず、陽射しの下では白銀に光沢する。

 肩に届くその絹と見紛う髪の毛先は、いつも鎖骨のあたりでくすぐったそうに揺れている。

 自分でも呆れてしまうくらいに彼女のことをよく観察している。だが決して気取られぬようにと注意を怠ったことはない。これ以上、ひとに避けられるような要因をつくるわけにはいかなかった。

 クラスにはいくつものグループができている。むろん、かれはどこのグループにも属していない。受け入れてくれないからであるし、こちらが輪のなかに加わっただけでたちどころにその輪は、無機質な音を立て、地に落ちてしまうからだ。それまで滞りなく巡っていた会話は途絶え、輪としての機能を保てなくなる。

 経験上、そうなることが自明であったので、かれも自ら勇んで友好を築こうとはしなかった。お互い、気まずく重たい空気を過ごすこととなる。

 かれは浮いた存在だ。教室にいるだけで、周囲の空気はよそよそしさに満ち溢れた。誰もがこちらに関心を向けていないふりをしながら、その実、じりじりと焦げるような意識の余波を注いでくる。見てはいけないもの、触れてはならないもの、そういった避けるべき対象からすぐにでも回避するために、彼らはこちらを常に意識し、窺っている。

 そう、無視とは、空気と異なる。

 死神のようにいついかなる場であれども、意識され、避けられる存在。そういった“不透明人間”となることを意味している。

 クラスには中心的グループがあった。ほかのグループの視線を気にすることなく、気ままに振る舞うことの許される集団。やけに響く声で会話をし、猛烈な自己主張を発している者たち。彼らは一様に輝いている。クラスのなかで、ひと際、目立つ存在だ。容姿が端正であり、成績も上位。他人の失敗を笑っても、それが皮肉になることはない。むしろ彼らに笑われることで、失敗が失敗と見做されなくなる。そういった奇妙な、引力とも魅力ともつかないオーラを纏った者たち。そのなかであっても、格別に異彩を放っている人物がいた。

 ――須堂(すどう)一迦(いちか)。

 彼はクラスだけに納まらず、学年、いや、学園規模での人気者と言っても言い過ぎではなかった。成績は常に学年二位。教師からの評価は高い。スポーツも万能で、同級生のみならず、一年生という身分でありながら、先輩たちからの注目も集めている。

 むろん、女子生徒からの熱狂ぶりは目を見張るものがあった。

 毎朝、下駄箱にはラブレターが詰まっている。電子メディアが主流の昨今にしては、いささか時代錯誤な愛の告白であるが、手紙という古風な伝達手段を省いてしまうと、残された手段は面と向かっての直談判に限られてしまう。須堂一迦、彼のメディア端末の番号を入手すること、それすなわち、秘宝の地図を手に入れたようなもの。騒ぎになるたびに、彼はアドレスや番号を変えていたようだ。

 須堂一迦の人気に火が点いたのは、入学式を終えた一週間後のことであった。血の気の多い先輩に目を付けられ、大衆の面前で火花を散らすことになった。だが展開はことのほかあっけなく収束した。須堂一迦は、無骨な先輩たちの暴力をことごとくかわし、それでいて反撃をせずに、言葉でその場を丸く収めた。学園内で暴力を振るうことがいかほどに損益であるのかをひと通り諭したあとで、相手を立てるような台詞を交え、さらに、不利な立場であることを指摘した。そのうえで、須堂一迦は、最後にこう結んだ。

「ここまで言っても分かっていただけないようでしたら、停学覚悟でおれも反撃させてもらいます。手加減しませんよ。言葉の通じない相手には」

 この台詞が出るころにはすっかり野次馬がサークルを成し、観客然と化していた。須堂一迦の歯の浮くような台詞はしかし、彼にはしごくぴったりと似合っていた。多くの女子生徒を射とめた瞬間である。須堂一迦なる色男の噂は、女子生徒の情報網を地震のごとく伝播した。一躍、須堂一迦の名は、学園全土に膾炙した。(そうなるに至るまでに費やした時間が、一学期の始業から一週間というのは、須堂一迦の人物像からすれば、遅すぎるくらいであったが、それはそれで、致し方なかったと言える。なぜなら、須堂一迦以上の、類稀なる美貌を兼ね備えた生徒が、一人、この学園に入学していたからである。学園中の生徒という生徒は、その人物に注目しきりだった)

 そんな途方もない人物がクラスメイトだったとあっては、常に他人の目を気にする生活を強いられていたかれにとって、気が気ではなかった。満月に消される星屑のように、教室のなかで目立たぬようにしていようと努めて影に徹した。もしも須堂一迦に粗相を仕出かしでもしたら、それこそ学園そのものが一個の生物のように牙を剥く。そういった危惧に怯えていた。だが、その苦慮も虚しく、かれは須堂一迦、直々に目を付けられてしまう。それこそ、目の敵のように。

      + + +

 須堂一迦に声を掛けられたのは、昼休み、ひっそりと静まりかえっている体育館で、黙々と逆立ちをしていたときのことだった。

「なんでいつも独りなんだ。トモダチいないのかよ」

 中間考査を間近に控えた、六月半ば。教師と、食堂のおばちゃんたち以外では、入学してから初めて投げかけられた言葉だった。

「なんでっていうか……どうしてなんでしょう」

 訊かれても困る。むしろこちらが訊きたいくらいだった。どうしてみんなはぼくのことを避けるのですか、と。ただ、そんな愚痴じみた疑問を返せるわけもなかった。

 おまえさ、と須堂一迦はこちらを見ずに、校舎のほうを眺めている。「おまえさ、レイさんのこと、好きだろ」

 だしぬけにそんなことを言ってくる。図星だった。が、この学園であれば、彼女の名前を出しさえすれば大方の男子生徒の意中の人を言い当てることになる。この学園の男どもにとって、彼女は憧れ以外の何者でもなかった。好きと言うにも憚られる存在。端的に、学園のアイドル。

 彼女の名は、「毘木衆レイ」といった。彼女もまた、クラスメイトだった。かれがこの集団無視という劣悪な環境であっても登校拒否をせずに、学園に通いつづけている理由こそが彼女であり、かれにとってのゆいいつの救いでもある。

「どうしてですか」かれは訊き返していた。なぜそんなことを質問するのですか、と動揺を悟られないように取り繕った。この学園の生徒である以上、彼女を好きになることは半ば通過儀礼のようなもの。別段、隠すべきことでも、恥ずべきことでもない。しかし、かれの場合、ほかのみんなとは事情が異なる。自分のような人間に好かれたと知れれば、それだけで彼女の迷惑になり兼ねない。一度そうと考えてしまえば、もう、ここは隠し通すべきだろう、と反射的に結論していた。「ぼくは、べつに……好きというほどでは」

「なら、なにか。好きじゃないってことか」須堂一迦は責めるように、「おまえはレイさんを好きではないと、そういうことか」

 泣きたくなるほどの剣幕があった。いかに返答すれば須堂一迦の機嫌を損ねずに済むのかを考える。こちらがそんな狡猾な思索を巡らせているあいだにも、須堂一迦は要領の得ない質問を投げかけてくる。

「おまえは、クラスで浮いている。いや、この学園そのものから浮いている。そんなおまえに好かれることの重大さを、おまえは理解しているか」

 理解しているつもりだった。ぼくのような人間に好かれていると知れ渡れば、それだけでその相手というのは、こちらと同じように無視の対象とされてしまう。かれはすでにそのことを学んでいる。これまでだってそうだった。

 中学校で、親切に接してくれていた女の子がいた。彼女は男子生徒からも、女子生徒からも人気者の女の子だった。そんな彼女はけれど、自身の地位に慢心せず、いつだって心優しくあろうとする女の子だった。それが裏目に出たのは、彼女がこちらに同情し、献身的に接するようになってしまってからのことだ。あれだけ彼女のことを好いていた周囲の人間たちが、あからさまに彼女のことを蔑視するようになった。汚物に触れてしまったために、汚物と同等に見做されるたかのごとくの有様だった。

 むろん、彼女を好いていた男子生徒は、学年関係なく存在し、間もなく、明確な敵意をこちらに向けてくるようになった。おまえなどが彼女と仲良くしていいともで思っているのか、と訴えるかのような熱い視線だった。それはかれだけでなく、彼女にまで向けられた。おそらく男どもは勝手に、裏切られた、とでも思ったのだろう。

 このままではいけないと思ったかれは、彼女を避け、自ら孤独の道を選んだ。自己保身ではない。十割、彼女のためを慮っての苦渋の決断、苦肉の策だった。

 彼女はまだ手遅れではない。ここで自分が彼女から離れ、接点を帳消しにすれば、彼女ならまたすぐに学校内の人気者になれる。事実、かれがふたたび孤立に陥ると、身体に付着した汚物が取り払われたように、彼女への蔑視はきれいさっぱり消え失せた。むしろ、以前にも増して女子生徒からの人望が集まるようになった節さえあった。汚物にやさしくするなんて、さすが○○さんね。そんな評価が付加されたのかもしれない。または、あんなやつに懐かれて散々だったね、と同情しているようでもあった。

 かれの初恋は、そうして終わった。

 だからこそ、同じ轍を踏むわけにはいかなかった。

「おまえはもっと自分の存在がどれだけ異常かを自覚すべきだ」歯ぎしりまじりに須堂一迦は吐き捨てた。

 なぜ彼がそんなことを言ってくるのか、すこし分かった気がした。彼は毘木衆レイのことが好きなのだ。彼女はやさしい娘であるから、集団無視の餌食となっているぼくのことを庇うような行為に出るかもしれない。――中学校でのあの子みたいに。不安だったのと同じだけ、かれは密かに、毘木衆レイがこちらに手を差し伸べてくれることを期待してもいた。だが、毘木衆レイがそういった行動をとったとき、それを「これ幸い」と思って甘えるようなことを仕出かせば、こちらともども、彼女もまた、集団無視という劣悪な環境に転落してしまうだろう。畢竟するに、須堂一迦は忠告しているのだ。彼女のことが好きならば、道連れにするようなことだけはするな、と。

 迂遠に釘をさされたかれは、しかし、「言われるまでもないですよ」と朗らかに笑ってみせる。

「須堂さんの言う通りです。ぼくはレイさんのことが好きです。だからこそ、ぼくはもう諦めているんです。安心してください。ぼくがレイさんに付き纏うことも、レイさんがぼくを相手にすることもありません。あのひとには、須堂さんのようなひとがお似合いです。ぼくなんかではなく」

 こんなにしゃべったのは久しぶりだった。こんなにこちらの言葉を真剣に聞いてくれるひとも珍しかった。かれはそのとき、須堂一迦へ、感謝にも似た好意を抱いていた。

 だが逆に、須堂一迦はこちらに対し、忌々しい視線を向けていた。

「おまえは……なにも分かっちゃいない」

 唸りに似た須堂一迦の言葉はけれど、ふしぎなほど深く、胸に響いた。それはきっと、須堂一迦がとてもつよく彼女のことを想っているからだと、おどろくほどすんなり理解することができたからだ。

 須堂一迦は恋をしている。毘木衆レイという名の、愛くるしく素敵な女の子に。

 ぼくもまた、切ない恋をしている。毘木衆レイという名の、可憐なる女の子に。

 では、彼女はどうなのだろう。純粋無垢なあのコは、恋をしているのだろうか。

 かれは苛む。想いを伝えることもできないなんて、と。

 かれは祈った。恋をするだけなら許してほしい、と。

 かれは決した。想うだけなら許されるだろう、と。

 それでもかれは悩むのだ。いったい「恋」とは、何だろう――と。



      ❤❤❤わたし❤❤❤

 とある作家は言いました。遺伝的に備わっている強制的なシステムこそが恋の正体であると。

 では、愛とはなんなのでしょう。本能ではなく自分の意思で相手のことを好きになること、または、相手の幸せを無条件に無償で望みたくなること。相手のことを、自分のことのようによろこび、自分のことのようにかなしむこと。仮にそれが愛だとして、愛が遺伝子の強制的なシステムの支配下にないとどうして言いきれるでしょうか。わたしには愛も恋もおんなじに思えてなりません。恋は愛の一形態ではないのかしらん。そう思えてしまうのです。

 だとしても、いったいそれのどこに問題がありますか。わたしにはとんと思いつきません。別にどうだってよいではありませんか。どっちだって構いやしないのです。わたしは彼のことが好きなのです。この想いがたとえ遺伝子からの強制的な命令だったとしても、その遺伝子を含めた複合体こそがわたしなのですから、やっぱりこの想いはわたしの想いなのです。もしも文句をおっしゃる方がおられるようでしたらわたしはその方がきらいです。ちか寄らないでほしいです。こっち見ないでほしいです。あっちいけです。

 桜の開花が例年よりも二週間ほどはやかった春。その日は待ちに待った高校の入学式でした。わたしはあのころ猛烈に女子高生という、大人でもなく子どもでもない、珍妙な魅力に満ちあふれた存在につよく憧れておりました。こちらの社会に移ってきてからすぐに制服が届いておりましたから、わたしは毎日飽きもせずに鏡のまえで中学生でも高校生でもない珍妙なちんちくりんの生物として制服に袖を通し、ひとりファッションショーをしていたほどの熱のあげようでした。こうして現在、女子高生という存在になってしまえば、「なんだ。なにが変わるでもなかったのですね」と期待はずれによる多少の落胆を抱いて日々を生きねばならないことなど、当時のわたしが知る由もありません。そしてまた、期待していた以上のすてきな出会いが待ち受けているなどと、想像だにしていなかったのです。

 うきうきと高鳴るむねの鼓動を抑えきれなかったわたしはそのころ、恋というものを知らないおこちゃまでした。そうです。現在のわたしは恋というものを知っておりますし、また、進行中なのです。成就への上り坂か、破滅への下り坂なのか、まったく定かではありません。それを知れないことが一抹のスリルをスパイスのように効かせ、平穏そのものの日常を僅かながらに刺激的にしてくれているのです。これがいわゆる、恋に恋する乙女心というものなのです。ですが、恋に恋をしていながらも、私はやはり彼への恋心を、純粋に、誠実に、それでいて、したたかに募らせているのです。誰がどのように否定し、ののしり、「そんなのは恋する自分に酔いしれているだけなのですよ」と声高らかに非難されようとも、わたしは彼のことが好きなのです。ということは、もしかしたらこれは、恋でも愛でもないのかもしれません。これがなんであるのかの正体を掴めきれないままにわたしは今日も、彼のことを密かに、想い、慕い、眺めるだけの学園生活を甘んじて受け入れるのです。がんばれ恋する女の子です。

      ❤ ❤ ❤

 入学式では、隊列を成して体育館へ入場する前にいちど、各々のクラスでの待機を言い付けられておりました。わたしもご多分に漏れず、両親に、いっときのお別れを告げなければなりません。心細い気持ちを「なんのこれしき女子校生!」と気合を入れて、ごまかしごまかし、勇んでおりました。

 クラスにはわたしと同じように、今日本日を以って高校生となった、女の子、男の子――身体の大きな子、ちいちゃな子――眼鏡の子、化粧をしている子――目つきのわるい子、おどおどしている子――たくさんのお友だち候補さんが、もじもじ、キリキリ、わくわく、としつつ座席にきちんと着席しています。

 初々しいとも余所余所しいとも違う、なんとも居心地の据わらない、けれど新鮮な空気でした。

 そのころ、父と母は、体育館で姿勢正しくパイプ椅子に腰かけておりました。愛娘であるわたしのことを今か今かと首を長くして待っているのです。いっぽうでわたしは、「知っている子はいないのかしらん」と、いもしない知人を捜し求めて、座席にも着かずに教室のうしろからクラスを眺めていたのです。背伸びをした際に、「ううぅん」と呻ってしまったのは一生の不覚です。

「なにやってるの?」

 くふふ、と失笑されてしまいます。すぐそばの座席です。八重歯の愛くるしい、すてきな女の子でした。

 座席がわからなくって、と咄嗟にうそを吐いてしまいます。「座席、決まっているのですよね」

 あそこに、とその子は黒板を指差して、「貼ってあるよ」と教えてくれました。わたしがお礼を言うと、その子はほっぺたを赤く染めて、「どういたしまして」とはにかむのです。なんと可愛らしい子なのでしょう、たいへんにめんこいです。わたしは是非ともお友だちになりたいな、と密かに思うのでした。ううぅん、と呻ってよかったです。

 黒板には座席表が貼られていました。名簿順のようです。わたしの名字は「毘木衆(びもくしゅう)」ですから教室の真ん中、うしろのほうでした。うれしいことに、さきほど声をかけてくれた子のよこの席です。

「あ、ここだったんだね」

「はい。そうみたいです」うれしいです、とできるだけ明るく口にします。「わたし、レイです。知っているコがいないみたいで、ちょっと緊張しちゃってるかもですけど、仲良くしてください」

「うん、よろしくね」そのコは頬を紅潮させ、快く応じてくれました。「うちは、モナイ。名字嫌いだから、名前で呼んでほしいかも」

「じゃあ、モナちゃんと呼びます」

「うん。それがいいな。ありがと」

 モナちゃんの名字は、箕茂蓋(みもふた)、と言いました。名前と併せると「身も蓋もない」となってしまいます。

「ひどい親よね」とモナちゃんは脹れます。

 自虐的に嘆く、というよりも真実に困っている様子でした。わたしも自分の名前には劣等感を覚えています。彼女の懊悩にはふかく共感できました。

「そうですよね。ひどい親です」

 わたしたちは意気投合し、お互いに、親のわるくちを言い合いました。しばらくするとどうにもそれが、わるくちではなく、いつの間にやら「いかに家族が大切か」といった話題に移ろっているのです。ふしぎなものです。それでもやっぱり名前に関しては、ひどい親です、と息を揃えて唱えてしまうのです。

 何度目かの、ひどい親です、を口にした折に、がらがら、と扉をスライドさせて教師の方が入ってこられました。

「はいはい、ちゃくせーき」

 眼鏡を掛けた若い男の先生です。いっしゅん目が合いました。やさしい眼差しです。いつもならすぐに目を伏せてしまうわたしですが、このときは緊張せずに先生を見つめることができました。筋骨隆々、がっしりしています。けれど威圧的ではありません。気さくそうな雰囲気は、やわらかい笑顔とまん丸い眼鏡のおかげでしょうか。仏頂面のとっつきにくそうな先生だったらいやだなぁ、と不安でしたので、一安心です。

「先生の名前は水迄(みなまで)優那(ゆうな)です」黒板に記すと、「こんな名前だが、れっきとした男です。ちゃかさないように。一年間よろしくー」

 かんたんな自己紹介を済ませます。つづいて、入学式の段取りをひと通り説明してくれました。

「おっと。そうそう、出席とるの忘れてたな」いち段落ついてから先生は付け加えました。「というよりも、気になってたんだが、ひとり来てないやつがいるな。入学式から遅刻とは大したやつだ」

 先生が苦笑するとクラスのみんなも釣られたみたいに頬を緩めました。わたしたちはこのときからすでに先生を中心として一体となりつつあったのです。

 それを妨げたのが、なにを隠そうわたしの想い人、遅刻魔の彼でした。

 ――からから。

 と、

 先生が入ってきたときよりも数段ちいさな音を立てて、教室のうしろからこっそり入室してきたのです。わたしの席もうしろのほうでしたので、彼の姿はこの目でばっちり捕捉できました。

 すらりとした背。それでいて肩幅は広く、腰骨の位置が高いです。やや屈んでいるので判然としませんがおそらく足も長いです。顔はマネキンのように小さく、ただでさえ高そうな背がさらに大きく映えて見えます。ネクタイを緩めることなくきっちりと締め、しゃんと制服を着こなしている様はまるでモデルのようです。髪型は長めです。サイドは耳が覗くくらいに短いいっぽうで、目元が隠れてしまうほど前髪が長いのです。けれど、髪の毛のカーテン越しであっても彼の双眼は、あたかも澄んだ湖のように深く透きとおって輝いているのです。もちろん瞳は黒いのですが、黒眼が大きいからか、つぶらな瞳とはこういうものを言うのだ、とわたしは惚れぼれしたものです。そうなのです、わたしはかれにひと目惚れしてしまったのです。

 ――にゃうっ。

 冗談みたいに心臓が締めつけられました。解けたと同時に、どっきん、と高鳴るのです。顔も火照ってしまって、それはもう、はなぢが出ちゃいそうなくらいでした。

 これが噂に名高い、恋、であると知れたのは、「この奇特な症状はなんにゃのだ」と鼻を押さえながらこっそりと漏らした折に、「それはきっとね」とモナちゃんが親切にも教えてくれたからです。

 口元を両手で覆って、ぷくく、と可愛らしく肩を揺らすとモナちゃんは、

「それはきっとね、恋なんだな」

 照れくさそうに囁くのでした。

 

      ❤ ❤ ❤

 ストーカーという存在がこの世にいるということを、わたしはモナちゃんから教わりました。モナちゃんは物知りです。だのに、毎週火曜日に行われる小テストの結果はあまり芳しくないのです。世の中ふしぎなものですね、とわたしはモナちゃんを通してたくさんのおもちろいことを学びます。

 勉強を教えてあげる見返りに、モナちゃんは多種多様な訓戒を説いてくれます。

「レイちゃん、いい? チミはちょいと美人さんすぎるから、ストーカーには気をつけなきゃいけないよ」

「すとーかーとはなんですか?」

「すごく粘っこい人のことだよ」

「ねばっこい?」

「そ。納豆よりも腐っちゃった人がなっちゃうんだって。うちの兄貴が言ってた」

 モナちゃんのお兄さんは、ダンスの大会やクラブなどで曲を流す「でぃーじぇー」というお仕事をされているのだそうです。ミュージシャンなのですね、かっこいいです、とわたし惚れぼれしたものです。けれど、モナちゃんいわく、「でぃーじぇー」はミュージシャンとはちがうようです。ミュージシャンでもないのに音楽を操るとは、まるで魔法使いです。これほどまでに奥の深そうな職業を知っているなんて、やっぱりモナちゃんは物知りです。わたしは、うひゃー、と感心しております。

 すとーかーさんは納豆よりも腐ってしまった人。モナちゃんはそう言いますが、けれど、納豆は発酵しているのであって、腐っているのとはちがいますよ、とわたしは異議申し立てました。するとモナちゃんは、ぷぷー、と両手で口元を覆うのです。

「レイちゃん、あたしと同じこと言ってる」腕を机に伸ばして、のぺー、と突っ伏すとモナちゃんは、でもね、とかったるそうに補足しました。「でもね、発酵も腐敗も、同じなんだって。うちの兄貴が言ってた」

「そうなんですか?」でぃーじぇーさんが言うのなら、そうなのかもしれません。わたしは、なるほど、と頷いておきます。

「とりあえず、レイちゃんはストーカーには気を付けるべきなのだ、ってあたしは思うわけ。わかっていただけた?」

「でも、納豆はきらいじゃないのですが」むしろ好物なのですが、とわたしは告白します。

「納豆くさくなっちゃうけど、いいの?」

「むむ、いやです。納豆くさいのは」

「ね。気を付けたほうがいいでしょ」

 モナちゃんは満足したように、うんうん、としみじみ頷いてから、ふぁーあ、と大きな欠伸をします。「つぎって、国語だっけ? あーあ。めんどっちーなぁ」

 最近、モナちゃんはこうして乱暴な言葉づかいをしてくれるようになりました。これがいわゆるお友だち言葉であり、親しげなしゃべり方なのです。そういうことも含めて、わたしはモナちゃんを観察して、たくさん学んでいるのです。とっても勉強になります。ですからわたしも、「めんどっちーなぁ」と口真似をして、すこしずつ、すこしずつ、お友だち言葉を会得していくのです。

      ❤ ❤ ❤

 この学園へ入学する前、わたしはとある施設に軟禁されておりました。軟禁、とは言いましても、施設の職員さん方からすれば、わたしたち生徒を守っているつもりだったのでしょうし、わたしたちの両親たちからしても、施設側の規則や対応は、たいせつな子供を預けるにあたって必要な条件だったのです。自分たちの庇護のもとを離れているあいだに、子供たちが酷い目に遭ってしまわないか不安でしょうがない親たちは、そうして自分たちの安心を得るため、娘や息子であるわたしたちに必要以上の防壁を用意するのです。それはあくまでも、親たちの安心を確保するための防壁であって、わたしたち子供からすれば、自由を著しく限定する牢獄と変わりませんでした。

 幼少園、小学園、中学園、高等園、修学園、研修園、研究所。そうしてわたしたちの施設は、一般に辿るような義務教育や高等教育のプロセスを辿らずに、独自の教育課程(カリキュラム)を経て、完璧にプログラムされた人材を、研磨し、矯正し、形成していくのです。わたしはそんな環境にうんざりしておりました。そのうんざりは、反骨的な態度として捉えられ、去年、わたしは「不適合者」としての烙印を押されてしまったのです。

 そのことにわたしの父や母はざんねんそうでした。かといって、わたしに失望することはなく、「どうやらうちの娘はそんじょそこらに溢れている『ふつう』というものを持ち合わせている子だったようだね」とかんたんに認識を改めてくれたのでした。むしろどこかほっとした様子にも見えたのは、もしかしたら父や母も、ほんとうは施設に対する不信感があったのかもしれません。

 父の話によると、わたしは赤子の時分で、「この娘には才がある」と我田引水に診断されたらしいのです。教育費などを含めた生活様式のすべてを負担することを条件に出され、さらに政府の認可および援助を得ている公的な機関であることも説明された父と母に、その話を断る理由などありませんでした。けれど、いちどは断ったのだそうです。ただ、そのとき、ちょうど母の弟さん(会ったことはないのですが、つまりわたしの伯父にあたる方)が闘病生活をなされていたものですから、お金の工面に頭を悩ませていたようです。伯父の医療費や手術の当てなども含めて施設が、全面的に援助してあげますよ、と申し出てくださったのだそうです。

 いかにも怪しい善意だとわたしなどは思ってしまうのですが、父と母は、いつでも退園できるという話と、家族ごと施設内の寮で暮らすことも可能だという話もあってか、熟慮の末、同意したのだそうです。そうして、施設にわたしを入れてしまった両親でしたが、お金のために娘を売ってしまったような背徳感にいつまでも苛んでいたらしいことは、その事実を聞かされたいまになって、わたしはようやく察してあげられるようになりました。いつも苛んでいる両親こそが、わたしにとっての両親だったのですから、わたしがそのことを察してあげられることはできなかったのです。往々にして、初めから歪んでいるものというのは、それが普通になってしまうものなのです。

 中学園から高等園への昇級を待たずして、わたしは施設を退園しました。わたしと両親が話しあった結果に選択した退園でもありますし、同時に、施設側から見限られた、という意味での退園でもありました。わたしに特別な才などはなかったのです。このときにはすでに、伯父はすっかり元気になっているという話でしたから、施設からの援助はもういらないのです。使い捨てのお財布のように利用したみたいでうしろめたい気持ちもあります。ただ、赤子のときにはなかった「意思」が現在のわたしにはあるのです。わたしはもう耐えられませんでした。

「こんな場所、もういやです。そとの社会で暮らしてみたいです」

 えんえん、と大人げなくわたしは泣きじゃくりました。生まれて初めて、こねこね、した駄々でした。

「なら、帰りましょうか」母がまゆをひそめて、父を見つめます。見つめ返して父は言いました。「よし。帰ろう」

 こうしてこの世に生を享けてから、およそ十五年ぶりに、わたしは施設のそとに出たのです。母のつてで、進学する高等学校がとんとん拍子に決まって、わたしは兼ねてより憧れておりました女子高生というものに念願叶ってなれたのです。はぁ、長い道のりでした。

 ここだけの話、わたしがあの施設から脱してそとに出たいとつよく希求するようになったきっかけというのが、そとの社会で優雅に登校する女子高生の映像(すがた)を、社会学科という授業で観せられたからでした。そうなのです。わたしはただただ、女子高生に憧れていただけなのでした。いざ女子高生になってしまうと、「なんだ。こんなものだったのですね」と拍子抜けにも似た、多少の落胆を抱いていることなど、誰に言えるはずもありません。お墓まで持っていこうと決意している、わたしの秘密なのです。思春期の女の子の突発的な衝動とは、すえおそろしいものなのです。

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 この歳にもなって、恋、というものさえ知らなかったわたしは、はからずも恋を知りました。

 彼は遅刻魔です。ほぼ毎日遅刻してきます。それを咎める者は、一部の教員さんを除いてしまえば、だぁれもいません。遅刻というおちゃめな欠点を度外視してしまえば、彼は完璧な方だからです。

 成績の順位は常に学年トップ。運動能力テストでも軒並み、県内記録を更新してしまいます。

 才色兼備とはまさに彼のことを言うのです。彼が出歩けばそれだけで、花は恥じらい、お天道さまも彼の輝きに色褪せてしまうのです。ということは、わたしたち人間風情など、彼のまえでは影も同然。影は常に光の間逆にいなければなりません。近寄ることなど、できるはずもないのです。

 彼は常に学園の中心でした。注目の的というにも憚れるほどです。この学園は、「彼」と「その他大勢」に二分できるほど、彼の影響力もとより魅力というのはすさまじいものがありました。

 ファンクラブの会員は、生徒全体の三分の二を占めておりました。学園の男女比はほぼ半々ですので、男子生徒にも熱狂的なファンがいることになります。もっとも、モナちゃんの解説によれば、女子生徒のあいだでは密かに、「やおい」という文化が風靡しており、その「やおい」という属性を自らに付加することで、間接的に女子生徒からの関心を惹こうとする男子生徒が少なからずいるとのことでした。わたしには分かり兼ねるお話でしたので、ふむふむ、ととりあえず納得したふりをしておきました。

 このころ、モナちゃんはことあるごとにわたしのことを、世間知らずのお嬢ちゃんだ、とからかうようになっていました。

 世間知らずというのはわるくちです。わるくちを言われるほどわたしの見聞は狭くないはずです。あれだけ施設でお勉強をしてきたのですから。

「わたしは世間知らずではありません」

 反論するわたしを、いしし、と嘲笑ってモナちゃんはさらに言うのです。「世間知らずはいつの世もそう宣巻くのだよ、レイちゃん」

「むむ」言い淀んでしまったわたしは、咄嗟に、「わたしだって知っています。『やおい』のなんたるかくらい」とうそを吐いちゃいました。

「ぷぷぷー」モナちゃんは口元を両手で覆っていじわるそうに肩を弾ませます。「なら、レイちゃんは『受け』と『攻め』どっちが好きかね」

「うん?」反射的にわたしは小首を傾げてしまいます。解らないときにはこうして、解りませんけれど、と意思表示する癖がすっかり身に付いてしまっているのです。施設のときに馴染んでしまった条件反射のようなものです。

「おやおや。カップリングのなんたるかも分からないようじゃ、『やおい』を語るなんて十年早いんじゃないかい」

 かんぜんにおばかさん扱いです。わたしは見栄を張って、「もちろん知ってますよ」と想像の赴くままに、「わたしは攻めよりも受けのほうが好きです。感情移入してしまうほどです」

 それらしいことを口にしておきます。受けと攻めというくらいですから、攻守のような関係なのでしょう。施設で受けた戦術学科にもそういった攻守別の講義がありました。攻めるのは好きではありません。どちらかと言えば、守るほうが気は楽です。柔軟に攻撃を受け流すほうがわたしには性に合っているのです。拷問という尋問方法も、二度としたくありません。されているほうが可哀想です。わたしはいつだって、攻めを受けているひとに感情移入してしまうのです。ですから、受けのほうが好きなのです。わたしはそうと繰りかえしました。「わたしは攻めよりも受けのほうが好きです。感情移入してしまうほどです」

「ちょっと、レイちゃん、声っ、大きいってば」あたふた、とモナちゃんがわたしの口を塞ぎにかかります。わたしはモナちゃんの手を、さらり、さらり、とかわします。

「声が大きいのはダメですか? いまはお昼休みですよ」

「声が大きいのはダメくない。でもね」ほら、見て、とでも言うようにモナちゃんは目配せをします。意識をそちらのほうへ向けると、クラスのみんなの視線が感じられました。

「ね? この話題を大声でするのはノーなの。NGってこと。アユ、オケェ?」

「イエス、ボス」わたしは、ぴしり、と胸元に拳を添えて敬礼します。これもまた条件反射です。なかなか抜けなくってこまったものです。ですがモナちゃんはわたしの敬礼を真似て、「よし。わかればよい。以後、気を付けるように」と面白がってくれました。毎度のことながら、モナちゃんのこういった適応性にはおどろかされます。モナちゃんはわたしのたいせつなお友だちであり、よき先生なのです。

 そろそろ予鈴が鳴る時刻です。すると教室のなかの空気が、にわかに硬くなりはじめました。クラスのみんなが緊張しだしているのです。わたしもまた、そわそわ、としてしまいます。手鏡を取り出して、にこりと微笑み、へんてこなお顔になっていないかの確認をします。

 ――からから。

 静かに扉が開きます。予鈴まであと三十秒、という絶妙なタイミングで彼が戻ってきたのです。彼とはすなわち、この学園の中心人物であり、わたしの心臓を、どっきん、どっきん、と暴走させるゆいいつの要因――とどのつまりが、わたしの初恋の相手なのです。

 教室内の空気はこれまでと打って変わって、落ち着きのなさが充満しています。みな一様に、さきほどまでと同じような、各々のグループでの会話を継続させていながら、その実、戻ってきた彼へと意識を差し向けているのです。静かではないのですが、どこか物々しい異様な雰囲気がこうしてできあがっているのです。わたしを含めたみなさんは、平静を装っているのですが、そわそわと落ち着かないのです。

 と、そこへ、もう一人の男子生徒の方が教室に入ってきます。彼と比べると幾分も劣った輝きを纏っています。

「あ、こっち見たよ」

 モナちゃんがこしょこしょ声でわたしに耳打ちします。わたしもその方の視線を感じていたので、ちいさく頷きます。「ちょくちょく見られているのです」

「え、そうなの?」

「うん。そうなの」モナちゃんの口真似をして肯定します。入学式の日に、彼にひと目惚れをしてから以降、わたしの意識は散漫になりがちでした。ですから、最近になるまで気づかなかったのですが、どうやらわたしは多くの男子生徒の方たちから見られているようなのです。そういえば、とわたしは思い出します。こちらの社会に来てからというもの、わたしを取り巻く視線が格段に増えているのです。

 ただ、その男子生徒さんの場合、ほかの方々の比にならないくらいの熱い視線なのです。モナちゃんにも気づかれてしまっているくらいなのですから相当です。じりじりと皮膚を焦がされるような視線です。もちろん比喩ですが、わたしにはそれくらい如実に感じられてしまうのです。こまったものです。

「もしかして、ストーカーだったりして」おどけたふうにモナちゃんが言います。そこに侮蔑のニュアンスは含まれていません。わたしはおまぬけに訊きかえしてしまいます。「あの方が、すとーかーなのですか?」

「いや、知らんけど」

 いしし、とモナちゃんが目を細めたのと同時に、予鈴が鳴りました。中間考査を間近に控えた、清々しい初夏の昼休みのことです。

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 無言電話が掛かってくるようになったのは、中間考査が終わって、わたしたち生徒の緊迫が、ふしゅるるー、と解けた日のことでした。

 帰宅するとすぐに母が、「だいじょうぶだった」とへんてこなことを訊いてくるのです。

「だいじょうぶですよ」わたしはめいいっぱいに、安心させる笑顔を浮かべてみせます。テストの出来栄えがどうだったのかを訊かれたかと思ったのです。わたしは入学式以来、ずっと彼のことばかりを考えてしまって、授業中も気が漫ろになっていました。ですから、通常であれば満点を取れるテストも、九割くらいしか解けなかったのです。母にそんなことを知られたくはありません。恥ずかしいです。

「そう。ならよかった」母はなにやら浮かない表情です。おや、と引っかかります。どうしたのですか、と母の顔を覗き込みながら、お行儀わるくも足だけで靴を脱ぎます。玄関に立ったまま母は、「今日ね」と話してくれました。わたしは母をリビングへ誘導しつつ、相槌を打ちます。「なにかあったのですね」

「そうなの。今日ね、何度も電話が掛かってきたの」

「なるほど。それで?」それがどうしたのでしょう。

「それがね、イタズラだとは思うんだけど、出てもなにも言ってこないのよ」

「無言電話ですか」

「そうなの。気味わるいでしょ。でね、もしかしたら脅迫電話なのかなって」

 わたしが誘拐されたと思ったのですか、と訊ねると母は、「だってぇ」と甘えた声を出しました。

「だってレイちゃん、最近誰かに見られてるって言ってたし」

「それは通行人や学校のみんなからの視線です。だれの視線かは判っているのです」

「そうなの?」

「はい。それに、脅迫電話なら、黙ったままなんて変です。身代金だとか、なにか理不尽な要求をするのがふつうです」

「うーん。でもね、お母さん、思ちゃったのよ。もしかしたらシャイな犯人さんかもしれないなって」

「シャイな犯人にわたしは捕まったりしません」安心してください、とわたしは母の幼稚さに呆れてしまいます。大した話ではないようですね、と判断して、「着替えてきますね」と二階の自室へ向かいました。

 ところが、無言電話はその日を境に、頻繁に掛かってくるようになったのです。昼夜問わずに掛かってきます。対策としてコンセントを抜きました。これでばっちりです、と安堵したのも束の間、今度は母のメディア端末にまで掛かってくるようになりました。これはいよいよ危ういぞ、ということになり、警察のほうへ被害届を出しに行きました。けれど、実害がないとなにもしていただけないそうなのです。その無言電話を録音したものを用意したとしても、厳重注意で終わるでしょう、と言われてしまいました。

「レイちゃん……お母さん、こわいわ」

「だいじょうぶですよ」わたしは励まします。「なにがあっても、ぜったいに護りますから」

「そうじゃないの。お母さんがこわいのは、レイちゃんが手加減できるのかしらってこと」

 心外です。まるでわたしがバケモノのような言い草ではありませんか。「手加減もなにも、わたしは誰も傷つけませんよ」

「ええ。そうなのよね。レイちゃんはやさしい子だから」

 頭を、なでなで、とされてわたしははがゆくなります。うれしいようで、気恥ずかしいのです。身体をゆすって抵抗します。けれど、やめて、と言葉で示さないと母には伝わらないのです。母はわたしを抱きしめ、猫をあやすように撫でつづけるのでした。

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「えぇ!? レイちゃん知らないのッ」

 登校してすぐ、朝のホームルームのはじまる前にモナちゃんがおおげさに目を剥きました。

「レイちゃん、もしかしてTVとか見ないひと?」

「テレビですか」わたしは家ではなるべく父や母との会話に時間を割きたいので、その妨げとなる対象は生活の中から極力排斥しています。それがどうやらモナちゃんには意外だったようです。「ごめんなさい。あんまり見ないんです」

「知らないってことは、ネットとかも見てないってことか」モナちゃんは珍妙な生物を見るような顔つきで、「あのね」と教えてくれました。「昨夜だよ。昨夜から日本中はこの話題でモチキリなんだよ」

 お餅を切る作業をしているモナちゃんの姿を想像しながらわたしは先を促します。

「どの話題ですか」

「だからぁ」モナちゃんは語気をつよめ、「ニヒリズ国立研究所ってあるでしょ。あそこがめちゃくちゃにぶっとんじゃったんだよ」

 耳にした途端、わたしは持っていたカバンを、ぐしゃり、と折りたたんでしまいました。

「あそこが、ですか? どなたに?」

 どこの組織に襲撃されたのだろう、とわたしはすぐにその〝めちゃくちゃ〟の原因が襲撃であると推測しました。〝みんな〟は無事かしら、と心配してしまいます。とはいえ、あそこの〝みんな〟ならおそらく無事でしょう、と楽観視している自分もおりました。ですから、モナちゃんが続けて口にした情報に、わたしは言葉を失ってしまいました。

「研究所もろとも、周辺五キロ圏内は全滅だって。死者一万人、超えるだろうって」

「ぜんめつ……ですか」信じられません。

「そう。全滅だって」モナちゃんはようやく興奮醒めやいだようです。あ、そうだ、とメディア端末を取りだし、ディスプレイを操作しました。こちらに差しだして、「ほら、これ」

 そこには遠方の上空から撮影された画像が映し出されていました。巨大な黒煙がもくもくと積乱雲のように立ち昇っています。わたしの知る景色はそこにはありませんでした。地上はすべて焼き払われ、まるで隕石でも落下したような有様。一面、紙やすりみたいにざらついた景観なのです。夜な夜な施設を抜けだして登った天守閣ビルもそこには映っていませんでした。

 ――ひどい。

 ぽつり、とディスプレイに滴が弾けました。我知らず、なみだが落ちていたのです。

 モナちゃんが戸惑っている気配がします。ですが、どうしても溢れてくるなみだを堪えられません。

 わたしはその被害の中心たる場所を知っています。

 ニヒリズ国立研究所――そこは表向き、次世代エネルギィ供給システムを開発する、研究機関でした。大手企業(慈洞範カンパニーなどの世界的企業)の資金援助や技術援助もあり、国内だけにとどまらず、世界有数の研究施設でもありました。ですがその半面、裏では、国の指示の許、わたしたちのような〝素質〟ある子どもたちを使っての、〝虚無的教育プログラム錬成〟が行われていました。かんたんに言ってしまえば、人間の持つ能力を極限まで高めるには、どのような教育をほどこせば良いのか、という実験です。理論上では、合理主義を極めるためにまず必要なことが、思考するにあたっての視点を、人類ではなく、地球規模――強いては宇宙規模にまで高めることにありました。それを一言に収斂して形容しますと、「虚無的(ニヒリスティック)」となるようです。そうして自己を脱し、俯瞰的に物事を認識することで、人間の知能指数は格段に向上するらしいのです。つまり、自己保存などの生物学的・本能的・遺伝的、枷をとり除き、〈わたし〉という発展ではなく、『人類』という種族の発展を優先的に考える合理主義者を生成する。そのために必要な教育課程(カリキュラム)および洗脳プログラムを構築するのが、施設の発足していたプロジェクト――その名も、「ヒューマン・ニソリズム」計画でした。

 わたしが十五年間育った施設です。けっして居心地の良い場所ではありませんでしたが、わたしにとっての故郷であることに変わりはありません。わたしを〈わたし〉として形づくってくれた多くのものがあそこにはあったのです。それが今はもうないなんて。とても信じられません。

「ねえ、だいじょうぶ? まっさおだよ」モナちゃんが気遣ってくれます。わたしはなんとか笑みをつくって、「ありがとう」と強がってみせます。「少し刺激がつよすぎたかもです……でも、もうだいじょうぶです」

「ほんとに?」ごめんね、とモナちゃんは、さっとメディア端末を仕舞ってくれました。やさしいコです。余計な心労をかけさせまいと、わたしは覚えたての『やおい』について熱く語って聞かせました。モナちゃんは周囲の目を気にして、あたふた、としています。廊下に担任の水迄先生の姿を見つけると、すかさず、「あ、先生だ」と話を断ちきるのでした。消しゴムと鉛筆では、実は鉛筆ではなく消しゴムのほうが攻めではないのかしらん、というわたしの熱弁はそうして尻つぼみに終わってしまうのでした。ざんねんです。

「さっさと席に着けー。出席とるぞー。ったく、あいつはまた遅刻か」

 しょうがねぇなー、と水迄先生はいつものように苦笑するのです。水迄先生は、この学園でゆいいつ彼のことを特別扱いしないひとかもしれません。

 今日も平和に、ホームルームが開かれます。遅刻魔の彼はまだ、姿を現していません。

 ――まただ。心臓がどきどきしてる。

 陽射しが、じりじり、とした熱を帯びはじめた梅雨の終わり。

 わたしはまだ、恋する女子高生を満喫しているのです。 




   『 集団行動とドミノは似ている。

      秩序を築くには邪魔者の入らない環境でなくてはならず、

           最終的にはどうあっても崩される運命にある。

          築かれた秩序が緻密であればある程、止めない限り、

                      崩壊の連鎖は止まらない。 』


      +++かれ+++

 世界的に有名な、ニヒリズ国立研究所が一夜にして吹き飛んだ。半径数キロ県内が一瞬で荒野と成り果てた。原因は不明だ。

 日本はもとより、世界中が度肝を抜かれた。とはいえ、過去にあった福島原発事故のような深刻で甚大な二次災害が引き起きるわけではない、との旨が迅速に政府から発表されたため、世界を震撼させるまでには至らなかった。

 その日、学園はこの事件の話題で持ちきりだった。珍しくみんなの関心がこちらに向いていない。集団無視という劣悪な環境にある身のかれとしては、心休まる日となるはずだった。

 ホームルームがちょうど終わるころを見計らって、かれは登校した。一時間目は体育だったこともあり、大方のクラスメイトたちはすでに着替えを終え、グラウンドに集合している。

 一年生の教室は三階フロアに位置する。エレベータも完備されているが、誰かと相乗りすることになってしまうと途端に気まずくなり、相手に不快な思いをさせてしまい兼ねないとの配慮から、かれは、校舎の上り下りには主に階段を利用した。

 三階のフロアに辿りついたとき、

「おう」

 通路から生徒が飛び出してきた。

「なんだ。おまえか」須堂一迦だった。かれはゆっくりとすれ違うように階段を下りた。「今日ははやいな。体育だからか?」

「……うん」話しかけてくれることがうれしかった。「たいく、もう休めないから」

「ああ」察してくれたような相槌のあと、須堂一迦は立ち止まり、「でもそれって留年だよな。退学ってわけじゃないんだろ?」

 そう、と頷く。このままだと留年しそうだった。出席日数が足りないのだ。

「〝それじゃ困るな〟」

 あの須堂一迦くんが心配してくれている。かれはそう思って、「ありがとう」とはにかんだ。

「礼を言われる筋合いじゃないけどな」須堂一迦は爽やかに笑ってから、でも、と言った。「でも、おまえ、学校好きじゃないんだろ」

 見透かされているようで恥ずかしい。来なくとも良いと言われれば来ないし、体育だって受けたくない。もごもご、とそういったことを口にした。

「なら、素直に礼はもらっておく」

 どういう意味だろう。かれは考えるが、答に結びつく気配はない。そうこうしているうちに、須堂一迦は俊敏な忍者のごとく、数段飛ばしで階段を駆け下りていった。

「かっこいいなぁ」かれはしばし、見蕩れていた。

      + + +

 かれは体育が嫌いだった。理由は明快だ。集団行動を習練する体育において、集団無視の対象であるかれは、いつだって参加できない。いや、厳密には参加せざるを得ない状況であるにも拘わらず、参加するという形態を維持できないことが問題だった。学生である以上、授業を受けるのは義務である。しかし、かれ以外の生徒がかれの参加を認めなった。

 たとえば、二人ひと組にならなければならない場合。ストレッチを行うにしても、かれはいつだって、一人とり残されてしまう。総人数が偶数のときであっても、それは変わらなかった。どういうわけか、教師もまたそれを黙認した。というよりも、人数が偶数の際には教師が率先して、生徒と組みをつくり、全体に教師が加わったことで、総数が奇数となってしまう。奇数の奇数たる、はみ出し者はいつだってかれだった。間もなくかれは、体育を苦としてボイコットするようになった。それも出席日数の関係で、留年の可能性が指摘されてからというもの、どうにも参加せざるを得なくなってきた。

 体育を欠席するわけにはいかない。遅刻をしながらも学校に到着次第、かれはいそいで着替えを済ます。教室には誰もいない。ひっそりとした空間は、廊下から聞こえるほかのクラスの生徒たちの雑談の余韻を仄かに反響させている。

 しずかだ。人のいない孤独というのは、安心する。人の中にある孤独にこそ――孤立にこそ――悲愴が湧く。だからこそかれは遅刻をする。ほかの生徒たちのわらわらと登校するなかを自分もまた列を成して登校したくはなかった。

 遅刻をするよりも、むしろ、誰よりもはやく登校すればよいではないか、と思い立ったこともあったが、いざ実行してみると、誰もいない教室に滾々と生徒が蓄積していく様というのは窮屈だった。それこそ、二番目に入ってきた者は、教室に死神がいたかのような愕然とした表情を浮かべ、硬い動作で机に荷物を置くと、いそいそと出ていってしまう。それが数人つづくと、今度は出ていったクラスメイトたちが群れを成して、教室に入ってくる。みんなで入れば怖くない、の精神だ。

 普段から遅刻魔のかれが、普段いないはずの時間帯に、ちんまりと座席に着いている。こちらの姿を教室のそとで察知すると、どのクラスメイトたちも入室に二の足を踏んだ。しかし、すでに幾人かが教室のなかにいると分かると、ぎこちなく自分の席に荷物を置き、すでにできあがっているクラスメイトの群れに、ささっ、と加わるのだ。さながら主婦に見つかったゴキブリのような俊敏さであった。ホームルームのはじまる時刻までかれはそうして、クラスメイトたちからの拒絶を、ざっくり負った。それ以降、かれが遅刻を正したことはない。

 靴を履いていると、ちょうど、一時限目の予鈴が鳴った。

 季節は夏。水泳帽を被り、水中眼鏡をして挑む水泳の授業は、いくらか集団に溶けこめるだろうとの期待があったが、残念なことに、その期待は早々に打ち砕かれた。

 かれは肉体までもが「異形」だった。醜いとは異なるが、いささか他人を寄せつけない様相である。マラソンに次いで、集団競技となりにくい水泳において、かれはまたしても孤立に陥った。かれが泳ぐ際には、プールに、だれも浸からなかった。誰もかれもが遠慮した。さしずめ、汚物の拡がったプールがごとくの有様だった。かれはひとりさびしく、晒しもののように泳ぐ時間を余儀なく過ごした。

 ――次回からは見学にしよう。

 二日前に、そういった決意を胸に秘めたばかりで、この日も水泳の授業を見学するため、体育着に着替えていた。

 小さな事件は、水泳の授業を終えた、休み時間に発覚した。とある女子生徒の下着が消えたのだ。

 下着といっても、その女子生徒はこの日の水泳を見学していた。体育の授業は基本的に二クラス合同で開かれる。着替えは、各クラス、男子と女子に分配して行われていた。その件の女子生徒は、体育着に着替えるため、プールの更衣室ではなく、普段の体育と同じように、隣のクラスで脱衣していた。消えた下着とは、ニーソックスである。

 そして、そのニーソックスを紛失してしまった女子生徒の名は、

 ――毘木衆レイ。

 かれの想い人であり、端的に、この学園のアイドル。

 アイドルの持ち物を(それも、そのひとが身につけていた下着を)盗みたいと思う男子生徒は、その名を挙げつらねれば枚挙にいとまがない。とはいえ、学園全土を敵に回し兼ねない暴挙であることを認識できないほどの愚鈍な生徒は、この学園に入学さえできていないだろう。たかだかニーソックスごときで人生を棒に振るならば、せめて日を改めて彼女が水泳に着替えた日にパンツを頂戴したいと思うのが、この学園に息衝く男子生徒たちの、揺るぎない総意である。もっとも、パンツを奪うくらいならいっそのこと告白して玉砕したほうがよほど有益であることを判らない男どもではない。ゆえに、彼女のニーソックスが紛失してしまった現状、それが誰かの盗みであると疑う者は少なかった。あまつさえ、大義を用いて、正々堂々と彼女のニーソックスを捜しだし、その手で掴むことができると知った今、学園の男子生徒らが奮闘しないわけがなかった。

 一方で、声には出さなかったが女子生徒たちは、男どものうちの誰かが毘木衆レイなる美少女のニーソックスを盗み取ったとの推察で、概ねの見解を一致させていた。暗黙の合意がそこにはあった。だが、そのことを騒げば、だれがもっとも傷つくかを聡明な女子生徒たちは弁えていた。心優しい、世間知らずな美少女に不快な思いをさせまい、と彼女たちは敢えて声を鎮めていた。

 この小さな、けれど学園全土を巻きこんだ事件は、孤立を強いられていたかれの耳にも届いた。事件現場が隣のクラス、しかも被害者がクラスメイトともなれば、弥が上にも聞こえてくるというものだ。

 ――レイさんの靴下が消えたなんて。

 むろん、かれは即座に、「誰かに盗まれたのではないのか」と考えた。

 恥ずべきことであると判っているため、かれはそのことを決して口にはせず、実行することもないが、仮に、毘木衆レイの脱ぎ捨てたニーソックをなんの罰も偏見も持たれることなくタダでくれる、という状況であったならば、両手に山盛り持って帰りたいと思ってしまうのがかれの着飾らない率直な感想であった。言い換えれば、かれには、彼女のニーソックスを盗んでしまった犯人の気持ちがよく解る。共感さえできてしまえるのだから、そこには一抹どころか山盛りたくさんの同情を抱いてやるにやぶさかではない。ただ、それを実行に移してしまったことは、けっして許されるものではないこともまた、かれはよくよく理解している。同情しつつもかれは、彼女のニーソックスを盗んだ犯人を憎んでもいた。

 だから、

「断じて許されることではないッ」

 と、須堂一迦が糾弾したことには、正直、胸がすっとした思いがあった。溜飲が下がったわけではないが、憎いと思っていた感情がすっかり薄まった。誰かが声に出して代弁してくれた。ただそれだけのことで、かれの裡には、犯人への同情心だけが残った。かれは他人を憎むことを忌んでいる。そこから生まれるものは、自己の破滅だということを、アニメや漫画で学んでいる。憎悪からはなにも生まれない、などと言うつもりはさらさらないが、憎悪から生まれるものは概ね、害悪である、との認識がかれのなかでは決定づけられている。

 学園一の色男、須堂一迦がそう言うのだから、おそらく、犯人とやらがいるのだろう。

 学園の男子生徒たちは一様に認識を改めた。

「ニーソックスは盗まれたのだ!」

 学園の女子生徒たちは、自分たちが胸に秘めていた鬱憤を爽快に晴らしてくれた須堂一迦への評価を、より高く、より輝かしいものへと規定し直した。

 須堂一迦の宣言した、「毘木衆レイ、ニーソックス消失事件」という小さな騒動は、ほどなくして大事件へと繋がった。

 なりふり構っていられなくなった学園生徒たちは、教師からの指示を仰ぐことなく、独自に犯人捜しを開始した。学園の探索が隈なく実施された結果、驚くほどあっさりニーソックスは見つかった。犯人と思しき男子生徒の机から、紛失したニーソックスと思しき代物が出てきたのだ。教室に走った動揺はすさまじく、またたくまに学園全土へ地震のように伝播した。

「どういうことだよ、おまえ」

 発見者たる須堂一迦の声が、教室中に轟く。空気がびりびりと波動したような威圧がある。

「どういうことも……なにも」

 訊かれても困る。実に困る。むしろ、こちらが訊きたいくらいだった。

 どうしてぼくの机からニーソックスが出てくるのですか、と。

 ただ、そんないかにも犯人の吐きそうな言葉を返せるわけもない。

 ――ぼく、犯人扱いされている。

 ニーソックスの発見された机こそが、かれの座席だった。机の上側に貼りつけられるようにして、ニーソックスは隠されていた。登校した際に、カバンをそのままにして着替えたことが裏目に出た。おそらくそのときにはもう、ニーソックスは机のなかに隠されていたのだ。いや、たといカバンの中身を机のなかに移したとしても、上側に貼りつけられたニーソックスに気づけたとは思えない。実際、体育の終わった直後、休み時間に返却されたノートを机のなかに入れたときにも、ニーソックスの存在にはまったく気づかなかった。

 ――どうしたことだろう、これは。

 かれは見えない悪意を感じた。

 彼女の身につけていた下着であるならばたしかに欲しい。喉から手が出るほど、は言いすぎにしても、喉が裂けんばかりに、「是非に欲しいです!」と叫んでしまいたいくらいの欲する思いがある。ただ、そんな欲求を体現してしまえば、途端に周囲の人間たちから、蛇蝎のごとく忌避されることは自明だった。その中核にはもちろん、愛しの彼女がいるはずだ。

 常日頃集団無視を強いられているかれであるが、しかしそれは「忌避」という二文字がちょうどよい塩梅であった。そこへ新たに、「蛇蝎のごとく」の六文字が加わるなどと考えた日には、おちおち昼休みに逆立ちもできなくなってしまう、などと暢気なことを言っている場合ではなく、間違いなく学園を追放されるだろう。

 かれにとって現在もっとも堪えがたいことは、うるわしの彼女、毘木衆レイから、はっきりそれと判る、侮蔑と嫌悪と敵意の、三拍子を向けられることである。

 だからこそ、「愛しいひとのニーソックス」が自身の机から発見されたことには、大いにうろたえた。自業自得ならまだ納得できるが、身に覚えのない罪で彼女から不当に嫌われるのはあまりに不条理だ。

 教室に集まった野次馬の視線が真夏の陽射しよりもつよく、じりじり、と感じられる。それらの視線のなかであっても、彼女の視線だけは別格に感じられた。意識を研ぎ澄ます必要などない。彼女の視線だけが異質だった。彼女だけが特別だった。

 毛穴という毛穴から、汗が噴き出す。全身がカッカしてくる。きっとぼくは今、茹でダコよりも真っ赤になっている。無様な己の姿が容易に想像できた。

 ――せっかく彼女がこちらを向いてくれているというのに。

 こんなときだというのにかれは、そんな理由で泣きたくなった。

 否定したかった。大声で、「ぼくは知りません。ぼくはレイさんのニーソックスを盗んではいません」と叫びたかった。ぼくではないのです。あなたのニーソックスを盗んだのは、ぼくではないのです。

 だが、かれが叫ぶことはなかった。

「おまえ、これがどういうことか判ってんだろうな」凄みのある語調で須堂一迦が唸った。「窃盗は重大な犯罪だ。それも、レイさんの……レイさんの私物を…………おまえというやつはッ」

「ち、ちがいます」

 否定してみるが、須堂一迦の声からすれば幾分もちいさな声でしかない。ちいさな波紋は大きな波紋に呑みこまれるのが世の常だ。

 こちらから視線を外すと須堂一迦は、周囲の大衆に向きなおった。

「みなさん。ご覧のとおりです。こいつは陰鬱なヘンタイだったんです。遅刻を黙認されていることをいいことに、こいつは可憐な女子生徒の私物をその手で収集するようなヘンタイだったんですよ」

 どうですか、目が覚めましたか、とでも言わんばかりな口ぶりに違和感を覚える。が、そう感じたのは、かれだけであったようだ。周囲から向けられる灼熱の眼差しに、なんら変化は見受けられない。

 ――終わった。

 かれは諦めた。そもそも集団無視の対象となっている人間が意識されているこの状況というのは、本来あってはならない異常なのだ。「ここにいてはならない人間」としてこれまで扱われてきたかれが今は、露骨な視線を注がれている。ふだんから常に意識を向けられてはいたが、ここまで露骨に視線を向けられることはなかった。それはつまり、「ここにいてはならない人間」が「ここにいてはならない排すべき人間」となった瞬間にほかならなかった。かれはそうと考え、深い諦念を抱いた。その諦念は、絶望にとてもよく似ていた。

 机の中身をそのままに、かれはカバンに手を伸ばす。が、思いなおして、カバンもその場に残して去ることにした。ここでカバンを手にとって退室すれば、そのカバンにもなにか隠しているのだろ、と余計な嫌疑をかけられ兼ねない。

 ――もう二度とここへくることもないのだろうな。

 あれだけ悪辣な環境だと思っていたというのに、いざ退学の覚悟を持つと、ふしぎと名残惜しく感じた。もちろんそこには、彼女と逢えないことへの悲哀や、このさきの人生についての不安が多分に混じっている。しかし、それらを度外しても、学園というこの環境そのものにも、言い知れぬ愛着があったことに、かれはこのとき気が付いた。

 今さらどうすることもできはしない。かれはよたよたと教室を横断する。モーゼの杖のごとくに野次馬が退き、道が空く。

「……あの」

 いよいよ教室から出ていくというとき。

 事件の被害者たる彼女が、声を発した。

「あの、この靴下。わたしのではありません」

      + + +

 耳鳴りに似た静寂が教室を満たした。誰もが頭上に、「クエスチョンマーク」を浮かべている。そんな中で、彼女の突飛な発言に対し、真っ先に反応した男がいた。

「なにをおっしゃっているのですか」

 須堂一迦のやさしい声音が教室に響く。「これはあなたのニーソックスですよ」

 野に咲く花の名を教えるような穏やかな指摘だったが、彼女は納得を示さない。

「いいえ。これはわたしのではありません」

 頑なに言い張る彼女に、須堂一迦もたじたじのようだ。

「ねぇ、レイちゃん、それってどういうこと?」よこにいた友人が見兼ねたように相の手を入れた。美少女の手にしているニーソックスを視線で示して、「それ、レイちゃんのじゃないの? どうして自分のじゃないって判るの?」

「だって」美少女はおかしそうに笑った。握っていたニーソックスを顔のまえに持ってくると、「ほら」と愛くるしい顔をそのニーソックスに埋めて、「ほらこれ、わたしの匂いじゃないんです」

 すんすん、と鼻をすするのだった。

 いっしゅん、教室内の空気が凝固した。固まった空気に、ぴしり、とヒビが張ったような気配すらある。そんな雰囲気の中で、もっともはやく反応を示せたのは、毘木衆レイがそういったちょっぴり抜けたことを仕出かしてしまう女の子であることをすでに弁えている、彼女の友人である三茂蓋モナイだけだった。

「……あのね、レイちゃん。そういう確認の仕方はふつう、しないんだよ」

「そうなのですか?」美少女は目をぱちくりとさせて、「どうしてですか?」

「どうしてってだって、ああた……それ、もしかしたら自分のじゃないのかも、って思ったんでしょ。だから確認しようと思ったわけなんでしょ?」

「はい。そうですが」美少女はここにきて、周囲が固まっていることに、はたと気づいたようだ。息を呑んでから、「もしかして」と友人に小声で確認する。「もしかしてわたし、またやらかしちゃったんですか」

「やらかしちゃったねぇ」モナイがおかしそうに噴きだした。世間知らずな友人を慮ってか、彼女は慈愛に満ちた口調で説く。「レイちゃん、あのね。美少女は靴下の匂いを嗅いじゃいけないんだよ。それがたとえ自分のものであっても。他人のものなら、なおさらだよ」

「そういうものなのですか」美少女はたおやかに首肯した。首肯した次のしゅんかんには、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。

 ――彼女が恥じるというのは珍しい。

 彼女たちの応酬を教室の扉、出入りぐち付近から眺めていたかれは思った。

 彼女は、己がどれほどうつくしいのかを理解していない。彼女にとって、うつくしいという評価の基準は、この教室にいるただ一人によってのみ規定されている。間近に、自身よりも上の美貌を兼ね備えた人間がいるのだ。

 おそらくその人物は須堂一迦であるだろう、とかれは確信している。

 だがその確信は、概ね、「盲信」と言いかえるべき謬見であることに、かれはまだ、気づいていない。



      ❤❤❤わたし❤❤❤

 お顔が熱いです。彼の見ているまえだというのに、わたしはまたしてもポカをやらかしてしまったみたいなのです。ゴキブリと呼ばれる昆虫を素手で捕まえて逃がしてあげたとき以来の失態です。あのときはモナちゃんがしばらく近寄ってくれなくって、とてもかなしい気持ちになりました。あんなことにならないようにとわたしは気を引き締めて生活していたのですが、ここにきて気を緩めてしまいました。モナちゃんから教わった、「美少女にあるまじき行為」というものを仕出かしてしまったようなのです。それも、うるわしの彼の面前で。

 穴があったら入りたいです。顔から火が出ちゃいそうです。靴下を失くしてしまったうえに、この仕打ちはあんまりです。泣きっ面にハチとは正にこのことです。もしもこの状況に同情してくれない方がいらっしゃるようでしたら、わたしはその方がきらいです。ちか寄らないでほしいです。こっち見ないでほしいです。あっちいけです。

 ところで、わたしの嗅覚はネコ並です。あまり知られていないようですが、ネコの嗅覚というのは実は人間と比べるとはるかに優秀なのです。犬の比ではありませんが、ネコも人間より数段優れた嗅覚を有しています。

 こういう言い方をしてしまうと語弊があるかもしれませんが、わたしの場合、嗅覚に限ったことではありません。わたしの感覚器官は、およそ平均的な人間のそれとは大きく逸脱した能力値を叩きだせるほどの優れものなのです。

 普段は、平均的な性能しか発揮しないのですが、わたしが意識を研ぎ澄ますと、各々の性能が著しく向上します。その覚醒は、ほぼ瞬間的なものであるにせよ、能力値を高く出力するためには、やはり、それなりの段階を要しますので、最大値での性能発揮ともなると、十数秒のロスが生じます。戦闘においては、数秒の遅延や隙が直結して死を招きます。致命的なのです。ですからやはり、わたしのこの体質というのは、欠陥品であり、「ヒューマン・ニソリズム計画」においては不適合者なのです。 

 ともあれ、わたしは発見された靴下を握りしめ、「ほんとうにこれはわたしのなのかしらん」との疑問を氷解させるべく鼻を近づけ、すんすん、と嗅いでみたのでした。(このときは皆さんの視線は彼へと向けられていたので、わたしのこの『お鼻すんすん』はだれにも見られておりません)

 おやおや。わたしは訝しんでしまいます。この匂いはわたしの匂いとは異なるのです。というよりも、人間の体臭らしき匂いがなに一つしないのです。いえ、すこぉしばかりの匂いはあるのですが(きっと、これを手にしたひとたちの匂いなのでしょうけれど)、この靴下からは、香水の匂いがきつぅく染みこんでいるのです。

 どういうことなのでしょう。そうこうしているあいだにも、わたしのまえでは愛しの彼がみなさんの注目をさんさんと浴びているのです。

「みなさん。ご覧のとおりです。こいつは陰鬱なヘンタイだったんです。遅刻を黙認されていることをいいことに、こいつは可憐な女子生徒の私物をその手で収集するようなヘンタイだったんですよ」

 いえいえ、ですからこの靴下はわたしの所有物ではないのです。おそらくですが、わたしの靴下はほかの場所にまだ埋もれているはずです。たとえこの靴下を男子生徒さんが持っていたとしても、ヘンタイのレッテルを貼るには時期尚早なのだと思います。

 おたおたなどせずに、さっさとそう指摘するべきでした。

 彼の顔はとても悲しそうでした。どうして誰も彼のことを庇おうとしないのでしょう。

 そんなことは当たり前でした。

 端から誰も、彼がわたしの靴下を盗った、などと考えていないのです。きっとどこかで拾ったのだとか、そういったふうに解釈しているのです。

 とはいえ、それもまた正しくはありません。そもそもこの靴下はわたしの物ではないのですから。

 そういえば、わたしは彼のことばかりに気を取られていて、これまで、彼の交友関係をろくすっぽ観察していませでした。そうなのです。彼にはこれといったお友達がいないのです。いえいえ、わたしはどこかそのことに安心を見出していたのかもしれません。

 彼こと、枢栖(くるす)焔(ほむら)さんは、学園みんなの憧れです。だれか特定の人間と仲良くしてはいけないのです。いえ、「いけない」ということはないのですが、みんなはどこかホムラさんに近寄ることを避けていました。彼という存在に近寄ること、仲良くなろうとすることに、引け目を感じてしまうのです。それでなくたって、ホムラさんのよこに自分などが並べば、極上のスイーツにらっきょが添えられているような違和感が生まれること請け合いなのです。単純に、不釣り合いなのです。もちろん、友人関係に、不釣り合いもなにもあったものではないと思います。ただ、ホムラさんに関してはどうしても考えてしまうのです。

 わたしなどが彼にお声を掛けてもよろしいのかしらん、と。

 その躊躇にはもちろん、周囲からの反感を買ってしまい兼ねない、という自己保身からくる畏怖もあります。独占するつもりはなくとも、遠巻きからゆびを咥えているわたしたちからすれば、ホムラさんと仲良く接すること――それというのはもう、重大な裏切り行為に映ってしまうのです。この学園では、そういった暗黙の了解ができあがっているのです。わたしだって、特定の女の子がホムラさんと仲良くしていたら、嫉妬のてんこもりを禁じ得ません。

 モナちゃんの話によりますと、ホムラさんは男子生徒たちからも羨望と憧憬の眼差しをまんべんなく注がれる異形の存在なのだそうです。中性的な顔立ちもあってか、「枢栖さんになら掘られてもいい」といった台詞が男子生徒の群れの奥から熱気ムンムンとまことしやかに囁かれて聞こえてくるほどなのです。その台詞の意味するところをモナちゃんに訊ねてみたのですが、「知らんでいい。レイちゃんにはまだはやい」とはぐらかされてしまいました。モナちゃんはそのときもほっぺたを赤く染めていました。乱暴な言葉遣いの割に、もしかしたらモナちゃんはわたしが思っている以上に恥ずかしがり屋さんなのかもしれません。

 ともあれ、この学園で、ホムラさんは、性別関係なく、それでいて年齢も身分も関係なく――純粋に、生徒も教師も関係なく――触れてはならない天使さまのような存在なのです。一介の生徒などが話し掛けるなんて、とんでもありません。

 ですが、ここはその暗黙の了解を破ってでも、是が非でも訂正しておくべきでしょう。

 ――それはわたしの靴下ではありません、と。

 ホムラさんはきっと知らないのです。なぜご自分の机に女子生徒の靴下が入っていたのかを。わたしなどのために、彼が困った顔をされているのです。そんなのは堪えられません。ここは周囲からの反感を買おうとも、モナちゃんから後でこっぴどくお説教をもらおうとも、指摘しておくべきでしょう。

 靴下をかたっく握りしめてわたしは言いました。

「この靴下、わたしのではありません」



      +++かれ+++

 まるで子猫みたい――とかれは思った。

 うるわしの彼女、毘木衆レイが靴下を直に嗅いだ光景を目の当たりにしても、そんな所感しか浮かばなかった。強いて言えば、本当に靴下の匂いで、自分の持ち物か否かの判別がつくのだろうか、という素朴な疑問があるだけだ。

 なぜか皆は彼女が直に鼻を近づけ靴下を嗅いだことに小さくないショックを受けているようだった。その瞬間だけこちらに注いでいた視線が極端に和らいだ。皆、毘木衆レイの奇行に目を奪われている。

 そんな大衆のなかにあっても、須堂一迦だけが彼女に対して瞠目するのではなく、異論を唱えていた。

「レイさん、なにをおっしゃっているのですか。それはあなたのニーソックスですよ。そうでなくてはおかしいじゃないですか」

「なにがですか?」素朴に彼女が言い返している。なにがおかしいのですか、と問われても須堂一迦はひるむことなくこう答えた。「そのニーソックスにはきちんと、くるぶし部分に、ブタのマークが入っているではありませんか」

「えっ!?」

 毘木衆レイがそう声を上げたのと同じタイミングで、彼女の友人こと三茂蓋モナイもまた驚嘆の声を上げていた。口元を両手で覆って、「レイちゃん」とさらに声を高くする。

「レイちゃん、まだあれ履いてたの? 変だからやめましょうね、って言ったよね、あたし」

「ごめんなさいです、モナちゃん。でもね、わたしはあれが好きなのです。かわゆいのです」

「かわいいかぁ? あんなにリアルなブタなのに……いやはや、お嬢さんの感性はわからんね」

「ブタさんをわるく言うのはやめてください。ねえモナちゃん、わたし、とてもかなしいです」

 しゅん、と拗ねた彼女を眺めていると、なんだかもう、こんな茶番はどうでもよくなってきた。かれはすでに理解していた。このニーソックス消失事件の真犯人がだれであるのかを。それでも、なぜ彼がそんなことを仕出かしたのか、それだけがいくら考えてみても解らなかった。

 おそらく、須堂一迦の発言で、毘木衆レイもまた、事の真相に気づいただろう。そうでなくとも、彼の発言に引っかかりを覚えたはず。

 彼女の言うように、ニーソックスのくるぶし部分にはブタのマークが入っている。しかし、それが彼女の所有物でないとすれば、どうして、真実に彼女の所有物であるニーソックスにも同様のマークが入っていると判るだろうか。マークはくるぶし部分にある。上履きに隠れて普段は見えなくなっている箇所だ。彼女がブタのマーク入りニーソックスを身につけていることなど、傍から見て判るはずもない。だとすればどういうことか。

 考えられるとすれば、彼女がニーソックスを脱いだあとで、それを手に取り、マークを目にした人物がいたということ。すなわち、この騒動を起こした張本人以外に、それを知っている者がいないということ。

 その犯人は、毘木衆レイのニーソックを盗んでおきながら、別のニーソックを用意し、こちらの机のなかに忍ばせた。おそらく、真実に彼女の身につけていたニーソックスは、その犯人が隠し持っている。

 だが、かれはここでそのことを指摘できなかった。犯人の名を、明明白白の許にさらけ出すことなどできなかったのである。

 かれは毘木衆レイが好きである。一方で、犯人である相手のことも親しげに思っていた。

 けっして友達ではない。だが、友達になりたいな、と常々望んでいた相手なのだ。そんな相手が真犯人だったなどと判ってしまった現状、かれは戸惑いを禁じ得ない。と同時に、真犯人を糾弾しようという気持ちはすっかりなくなっていた。どうでもいい、という思いがそこにはある。自分が犯人扱いされたままで終わるのも致し方ないかな、との妥協がそこにはあった。

 この大衆の面前で、「あなたが真犯人です」などと名探偵よろしく名指ししようならば、相手の面目丸つぶれは避けられまい。どころか、これまで築かれていたピカピカの地位や身分、名声や栄光が、その大きさの反動を引きつれ――すなわち、これまで密かに蓄えられてきた、妬みや疎み、または純粋な憧れが――そのまま深い失望や蔑視となって返ってきてしまう。

 須堂一迦は人気者だ。この学園の生徒たちの多くが彼を慕い、彼を認めていた。その半面、彼を敵視する者がいたことも事実だった。

 完璧な人間などいない。この学園全土、すべての生徒や教師から好かれている人物などいるはずもない――。かれはそう思っているが、実のところ、この学園に限ってしまえばそういった完璧な人物がいたことを、かれ自身が気づく気配は、今のところまだ、ない。



      ❤❤❤わたし❤❤❤

 わたしは日頃からその方の視線をよくよく、つよく感じておりました。ですから、以前、モナちゃんの口にした、「すとーかーなんじゃないの」という何気ない一言が、今になって猛烈にわたしの裡でくすぶりはじめているのです。

 思いかえしてもみれば、わたしの家に無言電話が掛かってくるようになったのも、モナちゃんと「すとーかー」についておしゃべりしていたあの日に近かったような気がします。要するに、その方が、モナちゃんでも気づいてしまうくらいに熱い視線をわたしへ向けて送りはじめたのが、無言電話の掛かってくるようになった時期と重なるのです。

 わたしはひやりとしてしまいました。

 常日頃わたしに熱い視線を注いでいるその方がさきほど口にしたこと――わたしの靴下にブタさんマークが入っていること。それというのは、わたしの家へ遊びに来て、部屋に干したままだった下着をしみじみと恥じらいもなく目にしたモナちゃん以外に、知っている人はいないのです。それなのに、どうしてその方はわたしの靴下にブタさんマークが――それも、発見されたニセモノの靴下と同じマークが入っていることを知っているのでしょうか。

 考えられる筋書きはいくらかありますが、その中でもっとも腑に落ちる顛末というのが――消失した靴下の捜索をいちはやく指示し、誰もが捜そうとしなかったホムラさんの机を、まるで期を見計らったように穿鑿した生徒――須堂一迦さんが、わたしの靴下を盗み、ホムラさんの机にニセモノの靴下を忍ばせた張本人であるという推測――これがもっとも妥当に思われるのです。

 とはいえ、須堂くんはどうしてそんな真似をしたのでしょう。わたしにはどうしても解りません。言ってくれたのなら、靴下のひと組やふた組、差し上げたのにな、とわたしはふしぎで仕方ありません。もしかしたら須堂くんは、わたしの靴下が欲しいのではなく、ホムラさんを陥れたかったのかもしれません。たかだかわたしの靴下ごときでこれだけの騒動になってしまったのにも、いまいち得心がいかないわたしなのです。

 ただ、ホムラさんを陥れたかったのなら、ニセモノの靴下などではなく、本物の靴下をそのまま忍ばせたほうがよほど効率的なはずです。ということは、須堂くんには、本物の靴下を手放せない理由があったのです。それはどんな理由なのでしょう。わたしは名探偵さながらに両腕を組み、うむむ、と眉間にしわを寄せて考えるのです。

 靴下を盗む際に、怪我をして、血痕が付着してしまったから? いいえ、そんな殺人事件みたいな過失が起こり得るでしょうか。というよりも、血痕が付着してしまったって、こんな騒動のためにDNA鑑定までするはずもないのですから、そんな配慮は不要です。(とは言いましても、犯人が完璧主義者ならば、どんな瑣末な事件であっても、現場に自身の血痕を残すようなことはないのかもしれません)

 だとすれば、ほかに考えられる理由はなんでしょう。盗んだ直後に靴下を失くしてしまったから? 須堂くんはそこまでお間抜けには見えませんし、たとえ失くしてしまったとしても、すぐに換えの靴下を用意できるほど、わたしのブタさん靴下はありふれた品物ではありません。考えてもみれば、換えの靴下(ダミー)を用意しているという時点で、須堂くんは初めから本物の靴下を手放すつもりはなかったのです。(そういう意味で、犯人が完璧主義者であったから、という理由も成り立ちません。いくら完璧主義者とはいえど、すぐにダミーを用意できたり、または不足の事態を考慮してダミーを用意しておく、などということはできないのです。なぜなら、ダミーを用意するにはやはり、わたしの靴下にブタさんマークが入っていることを知っていなければならないのですから。それを確かめたうえで、一度その場を離れ、ダミーを用意してからふたたび機を窺って、または日を改めて、靴下を盗む。少なくとも犯人は二度、わたしの靴下をその手に握ることになるのです。そんな危険を完璧主義者が冒すはずもありません)

 ということは、どういうことでしょう。これまたいくつかの推測が成り立ちますが(たとえば、モナちゃんが真犯人だという可能性ですが、モナちゃんが常にわたしのそばにいて、なおかつわたしよりも遅く登校していることを鑑みますと、ホムラさんの机に靴下を忍ばせる時間はなさそうなのです。そういうわけで)、わたしの中でもっとも腑に落ちる推測は、須堂くんの目的は一つではなく、二つあったという考えです。つまり、須堂くんは、ホムラさんを陥れようとする傍らで、わたしの靴下もまた手に入れようとしていたのです。

 どうしてわたしの靴下など欲しいのでしょうか。

 もしや、須堂くんはほんとうにわたしの、すとーかーさんだったとでも言うのでしょうか。

 すとーかー、というのは納豆よりもねばねばしていて、納豆よりもくちゃいのです。このままではわたしの身体が納豆くちゃくなってしまいます。それだけは避けなくてはなりません。きっと、愛しの彼だって納豆くちゃい女の子は好きではないのです。

 ここは是が非でも、すとーかーさんを「えいや!」と成敗してくれる場面ではないのかしらん。わたしは踏ん切りのつかないまま、けれど、この騒動に決着をつけようと密かに決意の唾液を呑みこむのです。

      ❤ ❤ ❤

 わたしは、ホムラさんのことばかりに気を取られていて、これまであまり、ほかの生徒さん(主に男子生徒さんたち)への関心を注いでおりませんでした。

 けれども、須堂くんのお噂さだけはモナちゃんを通して、ちんまりとではありますが、かねがね存じておりました。お恥ずかしい限りなのですが、わたしはまだ、クラスメイトさんたちの顔と名前が一致していないのです。それもこれも、恋に罹ってしまったがゆえの症状なのです。ホムラさんの輝きがあまりにまぶちいので、わたしたち一般生徒の輝きなど、昼のそらにあるお星さまのようなもの、お星さま同士がよほど寄り添いあっていなければ、互いの存在など雲のように霞んでしまっているのです。

 そんなホムラさんの煌々とした輝きの充ち満ちた教室内であっても、須堂くんだけは別格だったらしいのです。

 モナちゃん曰く、

「須堂くんはね、昼間でもちゃんと見える信号機のような人だね」だそうです。「ホムラさまが完璧だとすれば、須堂くんは完結した人間かな。ひと通りインストール完了しちゃったって感じ。入学試験でも、この間の中間考査でも、週一の小テストでも、いっつも学年二位なんだって。スポーツテストなんかじゃね、上級生の記録もあっさり抜いてて、色んなサークルから引っ張りだこなんだってさ。顔も中々にかっこいいでしょ? だからホムラさまに手が出せなくってもどかしいコたちが、それでも上質な恋愛したくって、須堂くんの争奪戦を繰りひろげてるって話だよ。嘆かわしいよね」

 かんぜんに対岸の火事をぼやくような調子でモナちゃんは、やれやれ、と肩を竦めました。

 ですが、その須堂くんの生態講座というものは逆説的に、ホムラさんの異常さ、特別さ、を余計に際立たせるものでしかありませんでした。須堂くんがいくらがんばったところで、一位の座はいつだってホムラさんなのです。わたしたちのような、取り立てて秀でた性質を有しない生徒たちからすれば、須堂くんもまた次元の異なる天才の類の人種なのだと思います。ですが、そんな須堂くんでさえも遠く及ばない存在がホムラさんである、というふうにしか、わたしには思えないのです。わたしが須堂くんに対して抱いている感情というものは、概ね、「かわいそうだな」という同情なのです。

 きっと須堂くんは一位になりたいはずです。この学園に入るまでは、ずっと一番で在りつづけた人生だったのだと思います。そんな、ちやほや、されてきた須堂くんは、ホムラさんという太陽を目の当たりにして、焼け焦がれるような嫉妬を覚えたはずです。

 不適合者の烙印を押されたことのあるわたしですから、そういった苦い思いが解らないわけではありません。わたしが解らないとすれば、どんなときもわたしたちを見下ろし、照らしつづけている存在である太陽さんのお気持ちくらいなものなのです。

 ――彼のお気持ちが解らない。

 そういう意味では、もしかしたら現状、ホムラさんは困っていないのかもしれません。こうしてわたしたちが勝手に、靴下盗難事件としてお祭り騒ぎを起こしてしまっている中で、やはり彼だけはお独りで浮いておられるのです。仮に、ホムラさんの机から靴下が発見されなければ、この騒動の中心に彼が立っていることもなく、また、この騒動そのものにホムラさんが関わることもなかったでしょう。

 わたしは考えてしまいます。

 ここでわたしの勝手な推測を――けれど極めて真相にちかいだろう推測を――公然と宣言してしまってもよいものでしょうか。

 靴下のひとつやふたつ盗まれたからといって、べつだんわたしはなんとも思いません。むしろ、わたしのこのブタさん靴下をお気に召してくれるなんて、とほっこりうれしくなってしまうくらいなのですから、次回からは是非にひとこと、「靴下をください」と告げていただきたいです。

 わたしが須堂くんに言いたいことは、ただの、それだけなのです。ここでかれを糾明することはわたしの本意ではありませんし、その必要だってないのかもしれません。事実、須堂くんの企みは最初から破綻しているのですから。なぜなら、

 ――この学園でホムラさんを疑う人間など、ひとりもいないのです。

 ということは、この法則に準じていない須堂くんという存在もやはり、特別だと言っていいのだと思います。

「そうですよ」わたしは知らぬ間に声を発していました。「そうですよ。須堂くんは充分特別です。なにをホムラさんと比べる必要があるのですか。ホムラさんはホムラさんで、須堂くんは須堂くんです。ホムラさんがいて、須堂くんがいて、だからふたりとも余計に特別なのです。靴下のひと組みやふた組で崩れ去るような輝きではないのです。ですから須堂くんも、次からは黙ってではなくって、ひとことお願いしますね。ブタさん愛好家の同志をまえにして、靴下のひと組やふた組、惜しむようなわたしではないのです」

 うんうん、とわたしは鼻息を荒くして、となりを見遣り、「どうですか」とモナちゃんに同意を求めます。わたしとしては、須堂くんがブタさん靴下を認めてくれていたことにちょっとした優越感があったので、ブタさん靴下をわるく言ったモナちゃんに、「どうですか」ふふん、としたり顔のひとつでも向けたかったのです。

「……お嬢さん」モナちゃんはわたしの肩に手を置いて、「ちょいと落ち着こうか」

 やさしくほほ笑むのでした。このモナちゃんらしからぬ、はんなりとした微笑は、基本的にわたしがなにか美少女にあるまじき行いを仕出かしてしまった際のサインなのです。

 わたしはモナちゃんに顔を寄せて、

「またですか」

 またやっちゃったのですか、とおそるおそる確認します。

「やっちゃったねぇ」モナちゃんは愉快気に頷くのです。いっそ清々しいくらいの首肯っぷりです。演技かかった口調でさらに、「見たまえよ、お嬢さん」と腕を振るのです。「きみの演説はみんなの心を鷲掴みにしているよ」

 教室に納まりきらないサークルは、わたしと須堂くんを中心にできています。さきほどホムラさんが移動したので、今はフラスコ型に空間が空いています。

 わたしたちを取り囲んでいるみなさんの視線が、じゅくじゅく、とわたしの身体を覆い尽くしているのです。たくさんの視線で編まれた光のようで、それはどこか、ホムラさんの放っている煌々とした輝きと似ているのでした。「おやおや。レイちゃんってあんなコだったけ」と意表を突かれたような、呆気にとられているような、そんな視線です。ただ、須堂くんだけは顔面蒼白でした。目を伏せ、わなわな、と肩を震わせています。きっと次回からは容易くブタさん靴下が手に入ると判ってうれしいのでしょう。たった今しがたまで蒼白だったかんばせも、今や茹でダコのように真っ赤っかです。

 ホムラさんは教室のドア付近に佇んでいます。愛しの彼もまたこちらを見詰め、わたしの身体を、きゅんきゅん、と火照らすのです。入学してからこれまで、ずっと振り向いてくれなかった彼が、眼中になかったわたしのことを今はああして、じっと、見詰めてくれているのです。

 ――はずかちい。

 わたしはいても立ってもいられなくなり、「はい」と勢いよく手を掲げて、

「おしっこに行ってきます」

 宣言してから教室を飛び出しました。その際に、うしろから、「あちゃちゃー」というモナちゃんのぼやき声が聞こえた気もしましたが、確かめる余裕はありません。わたしはまたしても美少女にあるまじき行いを仕出かし、恥を上塗りしてしまったのでしょうか。

 教室を出る間際、ホムラさんのよこを通りぬけました。そのときわたしはちょこっとだけ嗅覚を覚醒させて、ホムラさんの香りをこっそり嗅いだのでした。はぁ、いい匂い。もしかしたらこれというのも美少女にあるまじき行いかもしれないぞ、と思い直して、たった今吸いこんだばかりの息をすぐに吐きだします。もったいないですが、あとでモナちゃんに訊いてみて、「それは美少女でもOKだよ」とお許しを得てからにしようと思ったのです。わたしは彼に嫌われたくありません。

 廊下を、「はっはっ、ふぅ」と駆け抜けながらわたしは、火照った顔を、疾走することで生まれる風で冷ますのです。

 ふと、窓越しに、廊下を駆け抜けている水迄先生のお姿が見えました。中庭を隔てた反対側の廊下です。廊下は走ってはいけないのです。自分のことをさしおいて、わたしは水迄先生の全力疾走を愉快気に眺めるのでした。

      ❤ ❤ ❤

 お手洗い場でお顔を、ぱしゃぱしゃと洗ったわたしは、さっぱりとして廊下に出ました。このまま教室に戻ろうかと思っていたのですが、おや、と学園内の雰囲気が変わっていることに気づきました。

 不気味なほど静かなのです。

 つい今しがたまであれほど、がやがやと喧騒がそよ風のようにひびいていたというのに、これではまるで学園から生徒さんがいなくなってしまったかのようです。とは言いましても、こんな短時間で大勢の人間が消えてしまうなんてことは考えにくいのです。

 ならばこの静寂はどういうわけでしょうか。

 わたしはなにやら不穏な気配をこの静けさに感じるのです。

 一歩、足を踏み出し、

 元いた教室へと踵を返そうとしたわたしは、

 背後から伸びてきた気配なき腕に掴まれ、

 廊下の影――備品室へと引きずり込まれてしまいました。

「騒ぐな」

 押し殺したような、低く、張り詰めた声がわたしのつむじに落とされました。

 この時、臨戦態勢を取れないままにわたしは、廊下の先――階段を下りた位置にある部屋から漂ってくる微かな血の匂いを知覚したのです。

 そこはちょうど、この学園の中核を成している職員室であることを、わたしは直感的に悟ったのでした。

 

  【次回予告】

 突如学園を襲撃した謎の集団。彼らは人質を取り、校外ではなく、校内に対して交渉を迫った。

「毘木衆レイの投降を求める」

 要求はそれだけであった。レイは、集団の魔の手から逃れた仲間に引きとめられながらも、人質を助けるために、策を練る。人質の中にはレイの友人、箕茂蓋モナイの姿もあった。

 刻一刻と迫る、人質殺害の予告時間。

 投降すれば助けられる。しかし、それでほかの生徒たちが解放されるとも限らない。

 相手はまっさきに教員たちを殺害した、冷酷非道な殺人鬼だ。交渉の余地など期待するだけ無駄に思われる。解決の道を模索しながらもレイは、大切なひとたちを護ることを自身に誓う。

 学校を襲ったテロリストたちとの壮絶な戦いが今――幕を上げない!

                      【~~つづかない~~】




【シフト⇒ガイド】


      路坊寺(じぼうじ)清祢(きよね)――悔恨による回顧【前篇】


      (一)

 死んだこともないのに「幽霊」の存在を信じている野郎は、実に阿呆だ。現実に、幽霊の存在証明なんてできるわけがない。証明できない〝あやふや〟こそが幽霊が幽霊たり得る奇特な性質であるのだから。幽霊なんて観念的存在の信仰なんてもんは宇宙の外側をあれこれ妄想するくらいに無意義な盲信にすぎない。

 だが、死んでもなお幽霊の存在を否定するやつは阿呆にもなれない、現実逃避の似非リアリストだ。

 いちど死んでみれば判ることだが、幽霊は実在する。

 現にこうして幽霊になっちまってるんだから、信じるな、と言うほうが無理な話だ。

 ありていに、オレの死因は交通事故だった。トラック事故の巻き添えを食っちまった。

 トラックと自家用車とビルの外壁、それら三つに潰されて見事にぺっしゃんこ。見るも無残な、と言ってみたいが、そもそも見える場所にすらオレの遺体はなかった。

 突如として目のまえに現れた交通事故と、それを遠巻きに眺める野次馬の群れ。オレは野次馬に埋もれるようにして、数分あまりの記憶がすっぽり抜けていることをふしぎに思いながら、悠長にも事故現場を眺めていた。

 テレポーテーションでもしたのかと思った。

 だが違った。

 オレは死んだのだ。この状態は「魂」というやつで、とどのつまりが幽霊だった。

「あ、いたいた」

 気に障るほど屈託なく、待ちあわせのデートに遅れてやってきたガールフレンドみたいなテンションでそいつは現れた。

「どーもー、初めまして。わたくち、『成仏案内人(シフトガイド)』の〈ミヨ・シニガー〉と申します。これからしばく、あなたさまが成仏(シフト)するまでの道のりを、共に歩んだり、たまにはぐれたり、笑ったり泣かされたりながら、勝手きままにご一緒させていただきます。よろしくです。ぺこり」

 遅刻してきた理由を弁解するような調子でそいつは捲くしたてた。背は低く、オレの腰骨らへん。幼女と少女の中間といった体躯だ。頭髪は背中に届くほどの長さで、縮毛パーマをかけたようにサラサラしている。風がないためか、靡かないその髪の毛は、そこだけ空間を切り取ってできた闇のようにぽっかりと漆黒を浮かべていた。反面、顔はひどく白い。だが病弱な感じはしない。ぱっつんと斜めに切りそろえられた前髪は、幼いというよりも凛々しい印象だ。妖艶な形(ナリ)と快活なおしゃべりがそいつの姿を、余計に浮いた存在に仕立てあげている。

「おやおや。聞こえませんでしたか」オレが黙したままで反応を示さなかったからか、そいつはさっきと同じ文面を同じテンションで繰りかえした。「――ということですので、よろしくです。ぺこり」

 効果音を口で言ってはいるが、腰を折っているわけではない。ふざけてやがる。可愛い顔をしているからって無礼講がまかり通ると思っているのなら、大間違いだ。

 オレは至極冷静だった。こんな頭の痛そうな少女に知り合いなどいないし、こんな胡散臭いことを臆面もなく抜かせるガキとお近づきになりたいとも思わなかった。オレはそいつをシカトした。

「あらら。辛辣ですね」ガキは肩を竦めた。その仕草はどこかひょうきんだ。正直なところ、かわいらしいと思ってやるにやぶさかではない。だがくそガキはくそガキだ。ぞんざいにあしらわれるのに慣れているのだろう、「まぁ、いいでしょう」とひとり首肯する。続けて、勢いよく鼻から息を漏らし、「そうですね、しばらくお一人になられて、よくよく現状を把握なさるのも良しですね。お時間はたんまりと有りますので、焦ることもないですし。ぺろり」

 言ってガキは舌を出す。おちゃめを気取るにしてはいささか腹立たしい所作だ。かわいくない。冷たく睨んでやったが、ガキはこちらを見ていない。くるりと反転し、背を向けていた。

 ふらりと現れ、気ままにほざき、ガキはするすると事故現場の野次馬に紛れ、姿を晦ませた。

「ったく。なんだなんだ、あれ」オレはそんなことをぼやいた気がする。まさかあのガキがオレの人生を根本から狂わせるとは思ってもいなかった。とはいえ、このときにはすでにオレの人生など、そよいだ風に吹き消されるロウソクの灯(ともしび)がごとくに呆気なく終わっちまっていたわけなのだから、とんだお笑い草だ。もっとも、そんな外連味の利いた滑稽な境遇に陥っていたなどと、死んだことにも気づいていないこのときのオレが知る由もない。


 事故現場から踵を返し、事務所へ戻った。そもそもが、その帰り道に巻きこまれた事故だった。

 運がわるいことにオレはそれが元で死んじまっていたわけなのだが、弁当が自身を弁当であると認識できないのと同じように、死にたてホカホカのオレが、死にたてホカホカであると認識するにはちょいと無理があった。遺体もなければ、事故の記憶もない。気づいたら目のまえで事故が起こっていて、野次馬に馴染むようにしてオレは突っ立っていた。最近ちょいと疲れていたしな、と数分ばかり記憶が飛んでいることにも、さほど気を揉むこともなかった。

 調査代理人。それがオレの仕事であり、肩書きだ。代理人などと片っくるしい呼称が付加されてはいるが、要するに、便利屋だ。依頼人が満足するような情報を集める地味な仕事。職業と言っていいのかは疑問の余地があるにせよ、ちかい業種としては「探偵」が妥当だろう。情報屋ではないところがミソだ。

 依頼人のほとんどは、身内が家庭のそとでどういった交友関係を築いているのかを知りたがる。依頼人の目的が、浮気の真偽であるならば、調べた通りに報告するし、依頼の目的が対象の潔白証明にあった場合は、できるだけそう見えるように報告した。知らぬが仏だなどと抜かすつもりはさらさらないが、「知らずに済みたい」「安心したい」と求めている相手にまで、馬鹿正直にすべてを晒してしまうというのも野暮だろう。オレの仕事に信用なんて必要ない。これはサービス業だ。テーマパークの着グルミの中では、将来に不安を抱えた若者や中年たちが、熱気ムンムンとさせて汗だくになっている――なんてことをわざわざ客に知らせるテーマパークなど、そうそうあるもんじゃないし、あってはならない。虚偽はご法度であるにせよ、求められているのは、依頼人を満足させることにある。ある程度の演出は許容され得るし、むしろ必要なことですらある。こちらの用意したサービスに満足するか否か、信じるか否かは、十割、客の自由意思に委ねられている。

 この日は、とある資産家の私生活を調査して(暴いて)くれとの依頼だった。斟酌せずに言えば、女関係を穿鑿してくれ、となるだろう。依頼主は対象の内縁者ではなく、対立する実業家の、秘書を名乗る男だった。実業家本人の意思がどれほど依頼に反映されているのかは詳らかではないが、要するに、対象の弱みを握りたい、という魂胆が見え隠れする依頼だった。

 依頼主の憶測通り、対象の資産家は、定期的にとっかえひっかえ女を抱いていた。対象は独身である。倫理的には指弾されても仕方ないとはいえ、不特定多数と肉体関係を持っただけでは社会的地位を脅かすゴシップには残念ながら、なり得ない。とりもなおさず、倫理的に心象がわるいというだけでは、非難するに充分な情報(武器)として機能しない。

 ただ、調べてみるとどうにも、対象が弄んでいた女どものなかには、未成年者が少なくない数、含まれているふうだった。援助交際というよりも、愛人として囲っているようである。わるく言えば、都合のいい性欲のはけ口を飼っている。そう言い換えてもあながち間違いではないだろう。それこそ対象は、金に物言わせて、女子高生だけでなく、女子中学生、果ては小学生までを買っていたのだから。

 大金を私欲に費やせる相手を顧客とする、専門の売春斡旋グループ(おそらくバックには人身売買組織の存在があるのだろうが、そいつら)が、ちかごろ、この街で勢力をふるっているという噂をオレは耳にしていた。どうやら対象もまた、その買春斡旋グループの顧客であるらしい。

 あまり深く首をつっこむとこちらの身が危うくなるような、きな臭さがあった。

 痛い腹を突かれたら誰だって怒るだろう。そうでなくたって、痛い腹を突っつこうとしている輩がいると知れたならば、それなりの対処を講ずるのは至って自然な成り行きだ。なにも特別なことはない。

 このまま調査を続行するのはマズイ。早々に切り上げることにした。別段、無理をしてまで調査を強行する必要はない。得られた現時点での情報をまとめ、依頼人の納得するような報告書として提出すれば済む話だ。

 とは言え、調査を打ち切るうえでひとつ問題があった。

 ――噂が残ってしまっては意味がないのだ。

 オレが手を退いたあとも、オレが嗅ぎまわっていたという事実だけが残り、現在進行形の情報としてこの街を漂いつづけることだけはなんとしてでも避けなくてはならなかった。

 人身売買なんて野蛮なものを生業としている組織に目を付けられるなんて御免だ。ああいった組織には、こちらの道理など微塵も通用しない。利益のまえには、どんな手段だって正当化され得る。痛い腹を突っつこうとしているネズミの噂を聞けば、その真偽を確かめる労力を費やすよりも、ネズミ殺しの猫を飼ったほうが幾分も手間が省ける。猫を飼えば次からはもう、そういったネズミが湧く心配もなくなるのだから、一石二鳥だし、そもそもすでにそういった猫が飼われているのかもしれない。

 なれば、まごまごしている暇などはない。ネズミたるオレは、ビクビクせずに済むように、「ネズミはやめました」と宣伝して回ることにした。

 とどのつまりがこの日、オレは、売春グループについて嗅ぎまわっていた痕跡を断つために出張っていたのだ。これまでに、情報提供を求めた知人たちへ、「頼んでたあの話、もういいから」と断りの挨拶をして回った。

 オレのアジトこと事務所は雑貨ビルの三階にある。テナントのひとつだ。繁華街から数百メートル離れた、路地裏に建っている。商店街まで繋がってはいるものの、ここまで辿りつく前に、たいていの買い物客は踵を返してしまうだろうと思われるほどのくたびれた景観だ。実際、閑散としている。

 事務所とは言っても基本はオレ一人きりで切り盛りしている。こうして依頼が入ったときだけ、アルバイトを雇う。実質、留守番だけの簡単なバイトだ。時給二千円だし、基本的には事務所で、映画だのゲームだのしてりゃいいから、割のいい短期アルバイトだろう。オレはここ数年、決まった若造を好んで雇っている。いつどの時間帯に声を掛けても、二つ返事の即日勤務とくりゃ、依頼主が飛びこんでくるまで毎日休日の、絵に描いたような「不安定」を生業としているオレにとっちゃ、程度のいいお留守番役。招き猫よりも重宝したい逸材だ。

 もっとも、オレが好んで、というよりかは、ユレのやつがすっかり懐いちまったことが大きい。

 ユレとオレに血の繋がりはない。

 以前に請け負った依頼主の捨て子が、ユレだった。オレはまんまと騙されたってわけだ。まだまだ幼かったユレを他人へ押し付けるために、あの母親はオレのところへ依頼者を装い、やってきた。「このコのお守をお願いしたいのです」

 結末だけを見れば、女の言ったことに偽りはなかったわけだが、そんなおためごかしな言い方なんてもんは詐欺師の常套文句とどっこどっこい、同等だ。ここだけの話、そういった詐欺紛いの依頼は少なくない。だが、オレの築き上げてきたネットワークを舐めてもらっちゃ困る。オレを嵌めた人間をあぶり出すなんざ、オレにとっちゃ造作もないことだった。ところが、ユレの母親のときだけは事情が違った。彼女はオレを嵌めたわけではなかった。オレに縋っていたのだ。結末だけを言ってしまえば、あの女は、ユレを護るため、母親であることを辞めた。誰にも迷惑をかけぬようにと問題を払拭するため、たったひとり、死ぬ道を選んだ。その死は自害などという甘ったれたものではなく、地獄へ堕ちたも同然の扱いをされて、ぞんざいに殺されたことを意味する。そんな死を甘受してでも彼女はユレを救いたかったのだろう。オレは彼女に「このコを頼みます」と依頼された。このコのお守をお願いします、と依頼されてしまったのだ。だったらオレは、彼女が満足するように、ユレのお守をするしかないだろう。オレの仕事はサービス業。依頼人を満足させるのが仕事なのだ。

 ユレには母が死んだことを正直に話して聞かせた。黙っている必要性も感じなかった。ユレはまだまだ幼かったが、母ともう会えない色褪せた現実だけはしっかりと理解してくれたようだった。母が永遠の別れを選んだ理由が、深い慈愛からくるものであったこともまた、おそらく理解しているだろう。ユレは年齢にそぐわない聡明な女の子だ。母親に似たのは容姿だけのようだった。オレは未だにあのバカな女に瞋恚の炎を燃やしている。なぜもっとオレを頼らなかったのかと。オレは未だに臍をかむ。

 人見知りぎみのユレだったが、シグレにだけはよく懐いた。シグレというのは、だから、アルバイトの青年だ。幼い女児の子守役として「男」をあてがうのに抵抗がなかったわけではないが、「女」だからと無条件にユレを任せる気にもなれなかった。面接の際にユレを紹介し、そのときのリアクションをオレは注意深く観察した。ロリコンなどを見分けるのは割と容易い。いっぽうで、ペドファイルやチャイルドマレスターなどの、社会に隠れた悪魔を見抜くのはなかなかに至難だ。だがオレには、そういった奴らを見分ける慧眼が備わっている。こういった仕事をしているといやがうえにも身に付くものだ。

 実際、シグレにはロリコンの気があった。他方でそれは、子どもを尊い者として見做すような、庇護や慈愛に属する、欲動であるようにも思われた。ユレの頭を撫でるシグレの表情からは、やわらかい眼差ししか感じられなかった。逆説的にそれは、ユレに対して、それほど興味を抱いていないというシグレの排他的な性格の表れでもある。子ねこを愛でる人間は、「子ねこ」という属性が好きなのであって、子ネコであれば、どれでもいいのだ。

 おそらくユレは、シグレの無機質な本質に、安らぎを覚えたのだろう。

 オレとしては、仕事で他出しているあいだのユレの面倒をみてほしくて雇ったつもりだ。留守番役とはそういう意味だ。にらんだ通り、どうにもシグレは子ども好きらしく、ユレの大人しい性格もさいわいしてか、子守というほど世話のかかる様子ではなかった。ユレの話からすると、普段は、いっしょにゲームだとか映画だとかを観ていることが多いという。オレは当初、シグレにこう言ったはずだ。「ユレに勉強を教えてやってくれ」と。ユレは聡い子だ。小学校の勉強では物足りなそうだったので、自称大学生のシグレに教育係を命じた。それが、いっしょに遊んでいるだけだと聞いて、半ば落胆し、また他方ではうれしく思ってもいた。ユレには友達がいない。少ないのではなく、まったくいないのだ。ユレの精神年齢の高さと、それでいてやはり未熟な子どもである現実。そのアンバランスなユレの気質が、他の子どもたちとのあいだに深い溝を生んでいる。それがどうだろう。いまはこうして、年齢にこそ大きな差があるにしても、シグレと楽しそうに仲良くやっている。そんな様子に、オレはいち保護者として漠然とではあるにせよ、安穏を見出している。

 シグレの持参した履歴書には「大学生」と書いてあった。怪しいもんだ。たとえ深夜であっても(または真昼間であろうとも)、電話を掛ければシグレはツーコール以内に出てくれる。どれだけ暇で、どれだけ不規則な生活をしているのだろう。まるでオレの生活サイクルに同調しているかのようなシグレに、オレはようやく最近になって、便宜以上の親しみを覚えはじめていた。


      (二)


「よお。今帰った。なにか困ったことは?」

 父親のような台詞を投げかける。扉を開けたときも、音を響かせて閉めたときも、シグレとユレのふたりは、こちらをちらりとも向かなかった。無視かよ、と愉快になる。普段から淡泊なユレであるので、これは普段通り、問題がなかったことを示している。シグレもまた、映画だとかゲームだとか、そういった空想世界に夢中になっているときはこちらからの呼び掛けにはいっさい応じなくなる。そこらへんの没頭ぶりは、ちょいと尋常ではないが、問題と見做すほどの欠点ではない。こと、ユレもまた同じような性質を有しているので、似た者同士、仲良くなるのも納得だった。

 ふたり肩を並べてソファに腰かけている。どうやら、新しく配信されたアニメ映画を観賞しているようだ。壁と同化している巨大なディスプレイには、なにやら妖精らしき小型な少女が映し出されている。

 つれないふたりの穏やかなひとときを眺めつつ、オレは意味もなく小さく頷く。

 部屋の奥のデスクに納まり、さっそく依頼人への報告書をまとめることにした。

 どれくらいの時間が経っただろうか。一時間か、二時間か。もしかしたら数十分だったかもしれない。その電話は掛かってきた。

 出たのはシグレだ。仮にもアルバイト、留守番はなにも、主がいないあいだだけの仕事ではない。オレが事務所で作業をしているあいだの留守番もシグレには任されている。主への忠誠や礼儀などはなくていい。オレだってそんなものを求めてはいない。が、最近ちょっと、「おかえりなさい」くらいは言ってほしいな、と思ったりしないでもないオレはかなり軟弱になった。それもこれも、ユレと暮らすようになってからの大きな変化であり、シグレと接するようになってからの顕著な精神のゆらぎでもある。家族がどんなものであるのかを知らずに育ったオレがいまはこうして、家族のようなものに囲われて生きている。それがなんとも奇妙で、なんとも居心地がよかった。

「はい、路坊寺事務所ですが」慣れた調子でシグレが応じる。はい、はい、と愛想わるく相槌を打っているところを鑑みるに、相手もまたにべもない、業務的な口調なのだろう。ユレいわく、シグレは鏡のような青年らしい。相手に合わせてコロコロと表情を変える。さも、人格が変わったように。こちらが笑いかければ、シグレも微笑み、こちらがぶっきらぼうであれば、シグレもまたぶきっちょさんになる。言われてみりゃそうかもしれないな、とオレはユレの分析力もとより卓見を誇らしく思った。

 シグレの口調が当惑に染まったのは、電話に出てから一分も経たぬ間のことだった。見れば血相まで変わっている。声音が暗澹に沈み、同時にシグレらしからぬ真剣味を帯びていた。

 なにかよからぬ事態が起きたのかもしれない。まさかシグレに限って、「オレオレ詐欺」に引っかかったりはしないだろう。

 なにかあればすぐに電話を代わるのがシグレに課せられた最低限のルールであり、数すくないオレと交わした約束ごとだった。しかしなぜかシグレは徹頭徹尾、自分で応答した。シグレの切羽詰まった様子から、ただならぬ雰囲気を察知したオレは、今か今かとシグレから電話を受け取る機会を窺っていたのだが、シグレは終ぞ代わることなく、がちゃん、と受話器を置いてしまった。それどころかオレへの報告よりさきに、ユレのもとへ戻っていく始末だ。

 シグレらしからぬ不可解な行動だ。お粗末な行動ですらある。仕事に関する事態であれば、優先すべきはまずオレへの報告だ。それをしなかったということは逆説的に、それだけシグレが直面した問題が、逼迫した異常な事態であることを示唆してもいる。意図してオレへ報告をしなかったのか、それとも混乱したけっかの過失であったのかは定かではないが、いずれにせよ、舞いこんできたのは十中八九、凶報だろう。

 ――なにかあったのか。

 オレが水を向ける前に、シグレは壁掛けディスプレイの電源を切った。それまで観ていたアニメ映画が中断される。部屋に静寂が満ちる。ユレが不服そうにシグレを睨んでいる。つん、と上げたあご。ツインテールの頭部がやたらとちいさく見えて、まるで人形だな、なんてオレは場違いにほっこりとしてしまう。親バカの気持ちがなんとなく解ってしまうなんて、とそんな自分に呆れるどころか、ふしぎと和んでしまう。

「ユレちゃん。お出かけしなくちゃいけなくなったみたいなんだ」シグレはしゃがんで、ユレと視線を揃える。言い聞かせるように、「付いてきてくれるかな」

 そのシグレらしからぬやさしい口吻は、概ね有無を言わさぬ決定事項の場合に、駄々を捏ねてほしくないから紡がれる相言葉のようなもの、呪文のようなものだった。案の定、ユレは異論を唱えることなく、こっくりと頷いた。

「おい。どこに行く気だよ」含み笑いで問いかけてはいるものの、苛立ちは禁じ得ない。さすがにそろそろ事情を説明してもらわなければならないだろう。シグレがバイトを放棄して勝手にどこかへ消えるのは構わない。オレがこの事務所に帰宅しているのだから、実質シグレに任されている仕事はない。留守番も、ユレの子守だってする必要はないわけだ。しかし、だからといってオレを無視していいということにはならないし、あまつさえユレを連れだすのに保護者たるオレへの許可を仰がないなどとは言語道断。今回ばかりはお灸を据えねばならねぇな、なんてちっとばかし父親面なんかしちまいながらもオレはようやく腰を上げた。「おい。待てって」

 薄手のコートをユレへ羽織らせるとシグレは、いそいそと玄関へ向かっていく。ユレもまた促されるように歩いている。背中にはシグレの手が添えられている。その急かすような仕草が余計に腹立たしい。本気でオレを無視しているようだった。さすがのオレも怒鳴らざるを得ない。

「シグレ、テメッ、このやろ」

 詰め寄ろうと急いでデスクを回る。そこでふと、ユレが歩を止めた。オレははっとしてしまう。なにをユレのまえで怒気を巻き散らしてやがる。こいつまでこわがらせてどうする。オレもまたその場に佇んだ。

「どうしたの、ユレちゃん?」

 シグレがなぜかそう口にした。まるでオレがここにいないかのような台詞だ。どこまでオレをおちょくれば気が済むのか。そこで、はた、と思い至る。これはもしや、と考えを改めた。またぞろオレが、シグレの気に障ることを仕出かしてしまっていたのかもしれないぞ、と閃いたのだ。

 以前オレは、シグレの身辺調査をしたことがあった。迷子のイヌを捜すといった、どうしようもなく暇な依頼が入っており、すこしばかし憂さ晴らしをしたかった。シグレの履歴書が怪しかったこともあり、ほんの興味本位、暇つぶしの感覚でさぐりを入れた。だが、シグレのやつも一筋縄ではいかない野郎で、すぐに気取られてしまった。オレが詮索していると知ったシグレはすっかり拗ねてしまい、ひと月のあいだ、オレは完膚なきまでに無視された。けっきょく迷子のイヌは、保健所で処分されていたし、散々な結果だった。オレにはそういったしょっぱい過去がある。

 今回もまた、シグレの幼稚な仕返し、もとより当てつけかもしれない。それにしても思い当たる節がない。シグレはいったい、オレの何に対して憤っているのか。皆目見当も付かなかった。

 ユレはこちらを数秒のあいだ、じっと見据えていた。それはどこか視線の定まらない、眺めているような、それでいてしっかりと見詰めようとしている、そういった半透明な視線だった。

「ごめんねユレちゃん。急ぐんだ」

 シグレは強引にユレを抱きかかえ、事務所を飛び出そうとする。

「シグレ、てめえ」どういうつもりかは知らねえが、主さまたるオレをトコトン無視しやがるご意向のようだ。おもしれェ。なにが気にくわねえのか皆目全然さっぱりだが、そっちがそのつもりなら、こっちだって黙ってシカト喰らってなんていられねェぞ。オレはシグレの異常な行動を、宣戦布告と見做し、ひとりアホらしくいきり立っていた。

 事務所は土足仕様のため、玄関で靴を脱ぐ手間がない。シグレはユレを抱きかかえたまま事務所を出て行こうとした。そうはさせじ、とオレは鬼ごっこよろしく、シグレの首根っこめがけて掴みかかった。

 ところがどうだ。オレの目測ではたしかにシグレの襟首を掴んだはずだった。意に反して、シグレはオレの手をすり抜けるかのように走り去り、事務所を後にした。

 ぱったん――と、優雅に閉じる扉がオレを虚仮にする。扉の向こうではシグレが機械的に鍵を掛けている。鍵穴に滑りこむ鍵の音がやけに小気味よく響いて聞こえた。続けて、がこん、と鍵の機構が回る音。シグレが階段を下りて行く軽やかな反響音が微かに、けれどはっきりと、静寂に浮きあがっていた。

 オレは呆気にとられ、しばしその場にぽつねんと立ちつくす。

 間もなくして我に返った。

「……しまった」

 跡を追うべく、オレも事務所を飛び出した。

 通路を数メートル駆けてから、「おっと鍵、鍵」

 戸締りを忘れていたことに気づき、踵を返す。

 だが記憶違いだったようで、玄関にはきちんと鍵が掛かっていた。

 どうやら無意識に施錠していたようだ、とオレは都合よく考えた。

 事務所は雑居ビルの三階に納まっている。シグレは日頃からエレベータを使わないやつであるので、たとえユレを抱えていようが、階段を駆け降りたことはほぼ自明である。

 エレベータを待つよりも、階段で追ったほうが早いだろう。そうと判断してオレはひと息に階段を駆け下りた。

 一階フロアに到着したが、シグレの姿はもうなかった。表は裏路地に面している。フロア内から見える範囲、直線上にはいない。だとすれば、シグレは右折し、表通りに向かったことになる。左側もまた通路になってはいるものの、奥へ進めば間もなく、行き止まり。駅前から延びる鉄橋の壁面で塞がっている。

 ひと気のない裏路地とはいえ、ここは繁華街に近い。表通りに出られでもすれば、雑踏に紛れて、決定的に見失ってしまうだろう。

 オレは意固持になっていた。シグレからなんとしてでも理由を聞きださねば気が済まぬ。なぜオレを無視しやがるのか、その理由を。そういった意固持さは、往々にして、焦りを生む。

 けっかとしてオレは、雑貨ビルから飛びだしたその瞬間、出会いがしらに通行人と、がっつんこ――正面衝突してしまった。

「おいててて」その場で尻もちをついた。見遣れば、女が同じく地面に尻をしたたか打ちつけている。やんちゃそうな小娘だ。しまった、と急いで謝罪する。「すいません。お怪我は?」

「イッテー」尻をさすりつつ小娘が腰をあげる。オレも遅ればせながら立ちあがる。砂利ついた尻を手で払いつつ、

「すいません。急いでいたもので」

 もう一度、弁明まじりに謝罪した。相手によっては簡単に謝らないほうがいい場合もあるが、今は、完全にこちらの過失だ。相手もまた注意不足であったように思うが、経験上、相手が女性の場合は素直に誠意を見せておいたほうが、事を大きくしないで済む。これは性差別だし、偏見だ。だが口にしなけりゃ問題ない。そういった狡猾な思慮のうえ、「お怪我はありませんでしたか」とやたら紳士ぶってオレは手を差しだした。

「おせぇよ。もう立ってるっつーの」

 おっしゃるとおり。オレ自身、なんのために差しだした手だか分からない。出した手をひっこめる。

 見たところ怪我はなさそうだ。服もたいして汚れているふうでもない。クリーニング代を出すまでもなさそうだ。オレは小娘を観察した。若い。二十代前半から十代後半といったところだろう。ゆるくカールされた髪の毛は、栗色に染められている。化粧が薄いのは彼女の素材がもともと端正だからだろう。目つきが険難なのは、ぶつかられたことへの憤懣もさることながら、おそらく生まれつきだ。さらに全身に目をやる。細身のジーンズが、吸いつくように彼女の、細く、けれどむっちりとした太ももを強調している。胸は小ぶりだが、輪郭が分かるほど、ツンと張っている。いい乳だ。上はなぜかパンダの描かれたTシャツ一枚だった。季節は秋。とくに今日は、肌寒いと言うにも気が引けるほど風が凍てついている。よくそんな格好で出歩けるな、とオレは怪訝に思った。

「なに見てんだよヘンタイ」あんた痴漢? と小娘は鼻で笑った。真顔のままであるので、怒っているのか、からかっているのか、判断に困る。

「ホントすまんかった。怪我がなさそうで、なによりだ。じゃ」

 言ってその場を立ち去るつもりだった。小娘のよこを通りぬけようとしたところで、がっしり、と腕を掴まれる。

「ちょい待ち、おっさん。今、なんつった?」

「いやだから、ぶつかってすみませんと……」

「そうじゃない。そのあと」

 そのあと?

「怪我がなさそうで、なによりだなと……。もしかしてどこかお怪我を?」

 かすり傷程度でごちゃごちゃ抜かすな、とオレは内心苛立っていた。いちゃもんを覚悟したが、予想外に、彼女はそこでふわりと顔をほころばせた。「ああ。そゆこと」

 なにが、どういうことなのだろう。勝手に納得されても困る。おいてきぼりは、シグレで間に合っている。オレは小娘の不敵な笑みに釣られるようにし、頬を強張らせた。

     ***

「おっさんさ。新人でしょ。ねー、そうなんでしょ?」

 馴れ馴れしくおっさん呼ばわりとは、どうやらこの小娘、礼儀というものを知らないらしい。ぶつかってしまった加害者の立場である手前、説教しようにも気が引ける。そもそも新人ってなんだ? なんの話かさっぱり見えない。むろん、小娘の質問に応える義理なんかない。そのまま無視して振りきろうとするが、どういうわけか小娘はぴたりと背後についてくる。

「おっさんさ。知らないんでしょ。幽霊ってね、傷つかないんだよ?」

 ごちゃごちゃうるせーな、と怒鳴りたい気持ちをぐっと堪える。鼻から息を大きく吸いこんで、深呼吸よろしくひと息に漏らす。

「ったく、なんなんだよ。どうして付いてくる。しただろ謝罪は。それともなにか、当たり屋かなにかか? ちがうってんなら付き纏わないでほしい。オレは今、忙しんだ」

 表通りに出たはよいが、案の定シグレの姿などどこにもない。すっかり見失ってしまった。舌打ちしたくもなるってもんだ。寸前で堪えたのは、小娘に、当てつけだと思われたくなかったからだ。ここで因縁を生じさせては、面倒なことになる。さっさと別れて、シグレの跡を追いたかった。湧いた苛立ちを噛みつぶす。呑みこんでからオレは突き放すように、「それからな」と指摘する。

「それからな、オレはこれでも、二十代だ」おっさんて呼ぶな。

「うっそ!?」驚嘆をあげた小娘は、ぽかーんとその場で佇立した。なんだよ、とオレもまた歩を止める。こちらの身体を上から下まで、ずずー、と見定める小娘。間もなく、腹を抱えて笑いだした。ここが路上でなければ転げまわっていたかもしれない。そんな遠慮のない哄笑だった。

 オレがむっとした面を浮かべていたからだろう、涙目をゆびで拭って小娘はよじれた腹を正した。「あはは。わるいわるい。二十代は、まあ、おっさんじゃないわな。じゃあ、おにいさんでいっか」

 いい加減付いてくるな、という台詞はもう口にするだけ無駄に思われたので、「路坊寺だ。おまえのおじさんでも、おにいさんでもない」

 つっけんどんに言い聞かし、ふたたび歩を進める。

「へいへい。ジボージさんね。で、なにをそんなに急いでるわけ」

「なんで初対面のあんたに教えにゃならん」

「ぶつかっといて、そりゃないんじゃない」

「それとこれとは話が別だろ」そもそも謝罪はさきほどから何度もしている。それで許されないほど理不尽な衝突ではなかったはずだ。そろそろ激突してしまったことへの呵責から解放されて然るべきではなかろうか。オレはやんわりとそう主張した。「というわけで、そろそろ付き纏うのはやめてくれ。それともなにか、オレに用でもあるのかよ」

「用っていうか、なんつーか」小娘の歯切れがわるくなる。視線を泳がせているその様は、心中を悟られまいと取り繕っている仕草そのものだった。

 あやしい。オレはここに来てようやく小娘を警戒した。さきほどの出会いがしらの衝突、もしかしたら小娘の奸知であったのかもしれない。当たり屋でないにしても、誰かから頼まれてオレに接触したのかもしれない。

 危惧していた展開にならぬように祈りつつも、そうなったときの最悪を考える。

 痛い腹を嗅ぎまわっていたネズミを狩りにきた、飼い猫。

 それも、とびっきり上等な、躾の行きとどいた野生の猫。

 この小娘がそうである可能性は低くとも、この小娘の背後を辿れば、眼光を炯炯とさせて舌なめずりをしている猫に行きあたるかもしれない。

 これといった情報を手に入れていないオレに対して、これほど早く暴力の魔の手が忍び寄ろうとは……。常識的に鑑みれば小心翼々にもほどがある推測であるにせよ、相手が非常識な組織とくれば、用心に越したことはない。蜘蛛の巣に触れてしまったならば、あっという間に絡め取られてしまうのだ。オレはそういった人間を少なくない数見届けてきた。ときには依頼人であり、またあるときは、依頼主が持ちこんだ厄介事そのものであったりした。いずれの人間も、死神に誘われるようにして、オレのまえから姿を消した。

 あのな、とオレは小娘に投げかける。単刀直入に、

「用があるなら言ってくれ。こう見えてオレは便利屋だ。依頼になるような悩みがあるなら言うだけ言ってくれないか。依頼として引き受けられるような内容なら、請け負ってやる。格安でだ。力になれるかは保証できないがな」ぶつかった礼だ、とオレは心にもないことを言った。口から出まかせだ。本当は、小娘の狙いを見極めるきっかけを手に入れるための方便にすぎない。裏に、獣の険難な目が光っているようならその時点で保身のための策を練らねばならないし、そうでなく、真実に困っているだけならここで新たな客が手に入る。一石二鳥だ。

「どうだ? 話すことがないってんならここで失礼させてほしいんだが」オレは背後の様子を窺う。

 小娘は思案するような目になった。あごにゆびを当てている。

 間もなく、うーん、と寄せていた眉間が、ぱっ、と弛緩した。

「いいよ。聞いてくれるんでしょ? だったらまずは、あそこで」

 言って小娘はゆびを差す。その先には、ジャンクフードのチェーン店があった。

「ね。あそこで話そうよ」

 いいだろう、と承諾する。この際だ、いったんシグレのことは措いておこう。

 横断歩道で立ち止まる。歩行者用信号機は赤。目のまえを車がながれて行く。

 あそこはな、とオレは自慢げに教えてやった。「オレの行きつけの店なんだ」

「ああ。だからか」まじまじとオレの顔を覗きこんだ小娘は、「不健康そうな顔」

 にべもなく首肯しやがった。

 大きなお世話だ。叫ぶ代わりにオレは強引に歩を進める。信号はすこし遅れて、青になった。


      (三)


 店は割と混んでいた。時刻は夕方。帰宅ラッシュと重なっているためだろう。ホストやギャルたちのほかにも背広姿がちらほらと列に交じっている。列から視線を外し、店内を見渡してみる。割と空席が目立つ。ここで胃に収めず、お持ち帰りの客が多いらしい。混雑しているのはカウンターだけのようだった。

「席、さきに取っといてよ。シノ、適当に持ってくからさ」

 そう言って小娘は列に並んだ。どうやら小娘の名前は「シノ」というらしい。自分の名前で自分のことを呼称する女に性格のいい奴などいたためしがない。ちなみに、自分のことを自分の名で呼称する男はもれなくゲイだ。そして大概いい奴だ。ここだけの話、オレはゲイにモテる。が、あいにくとオレは異性愛者だ。健全な友情しか築いてやれない。すまんな、と内心で唱えつつオレはいつも素っ気なくあしらっている。

 下世話な独白で感傷的になってしまった。なにメルヘン気取ってやがんだか。自分を嘲笑い、オレは奥の席に陣取った。席に着いてから、そういや金を渡してなかったな、と気づいた。小娘としてはここでオレに飯をたかる腹だったのだろう。ご馳走してやるにやぶさかではない。餌付けは効果抜群だ。野良猫だろうが飼いならされた猟犬だろうが、それは変わらない。

 意に反して、小娘ことシノは金を要求しなかった。山盛りたくさんの品物をお盆に載せてトコトコとやってくる。

「いっやー、ここいいね。注文してからものの五分でこの量だよ。この量を用意しちゃってくれちゃったよ。ここの店員、なかなかやるねー」

 しょうじき、注文しすぎだろ、とつっこみたかったが呑みこんだ。慣れ合うつもりなどさらさらない。代わりに、「金はいいのか」と懐から財布を取りだし、大人の余裕を見せつけてやる。「いくらだ? これくらいなら驕るぞ」

 ぽっかーん、と小娘は口を開けて固まった。吠え面ならぬ、呆け面だ。ししおどしの音をBGMにでもあてがえばよほど映えただろうと思うほどの間が空いた。

「おい。なんで黙るんだよ、そこで」

 これまでの小娘の言動からすれば、ここはむしろ、「よろこんで!」と勇んで食いついてくる場面だったろうが。それがどういうわけか、小娘のやろう、オレが常識外れな提案をしたかのような反応をしやがって。どころか、その面はどこか、憐れむような表情ですらある。

 間もなく小娘は、「あー。そゆこと」と二度目の我田引水じみた首肯をみせた。「おにいさん、ぜんっぜん気づいてないんだ? 自分が今どういう状態かってことすら?」

 まるで小馬鹿にした物言いだ。いや、そこには、大人が子どもへ注ぐ類の、「しょうがねえなぁ」といった、憐憫じみた余裕が滲んでいる。小娘のくせにちょこざいな。

「だから勝手に納得すんなよ」オレにもちゃんと説明しろよ、と声に出さずに不平を鳴らす。なんだか無性にばつがわるくなり、テーブルに置かれたハンバーグのひとつを掴みあげる。包装紙をぞんざいに破いて、がっつく。三口ほどで口のなかに詰めこんだ。もぐもぐ、と咀嚼しつつ、いいから、と呑みこみ切れぬままに、「はなしがあるんふぁら、さっさと言ふぇよ」と促した。

 話があるならさっさと言えよ、と迫ったつもりだ。

 ぶへっ、と小娘は噴きだした。誤魔化すように、「ちょっとぉ」と膨れ面をして、「それ、シノのなんだけど」

 言ってからさらに、ぷへっ、と噴きだした。

 耐えるならきちんと耐えてほしい。ったく、いやなヤロウだ。

「驕ってやるんだ、これくらい食わせろよ」言いながらも自分でこの台詞は、傲慢な大人の常套句だな、と自己嫌悪に陥る。大人げなく赤面した顔を、オレは伏せる。

 店内に満ちた喧騒が浮きあがったことで、小娘から噴飯が消えたことを察した。やけに静かになりやがって、と今いちど視線を向けてみる。すると小娘は、じぃ、っとこちらを見詰めていた。視線がかち合う。「な、なんだよ」咄嗟の動揺を禁じ得ない。小娘の目つきは、同情に満ちていた。それを慈愛と言い換えても、この場合、それほど遠くはなかっただろう。

 ――不吉な予感がした。

「な、なんだよ」同じ言葉しかつぶやけなかった。

 小娘は目を伏せた。急にしおらしくなりやがって。なだか異様にこわくなった。怖気づくとはちがう。なにか、オレはとんでもない勘違いをしていたのではないか、という直感が、オレへある種の危機感を抱かせている。

 やがて小娘は緩慢な所作で腕を伸ばし、ファーストフードの山からハンバーガーを掴みあげた。ていねいに包装紙をめくる。逡巡したように手元を見詰め、意を決したようにひとくち頬張った。

 もぐもぐ、と無表情で咀嚼して、んく、と喉を鳴らす。唾液を呑みこむがごとき弱々しさだ。何度か同じように口元へ運んで、咀嚼し、喉を鳴らした。

 手元のハンバーグをすっかり胃へ収めると、「ごちそうさま」と唱えるような調子で小娘は、「あんね、おにいさん」と口にした。こちらをちらり、と上目遣いに睥睨し、

「おたく――。もう、死んでるんだよ?」

     ***

 常識は、十八歳までに身に付けた偏見のことである。どこぞの著名な学者が遺した箴言だそうだ。ならば、十八歳以降に身に付けた偏見は、おそらく「持論」となるだろう。とりもなおさず、持論は常識によって支えられていると言っていいはずだ。そこで、オレの持論――ともすれば常識というやつに鑑みた場合、小娘ことシノの発言はまさに突飛であり、狂言とでも呼ぶべき、常識はずれな痛々しい独白にほかならなかった。

 休み休み言われても困るほどのバカそのものだ。とはいえ、こんな小娘の一挙手一投足に大人げもなく取り乱すこともあるまい。自分の身内ならともかく、この娘は、ついさっき出遭っただけの、赤の他人。説教を投じる筋合いさえない。

「そっか。オレは死んじまったのか」可能なかぎり陰鬱とした表情でうなだれてやった。便利屋たるもの、この程度の演技、さらりと熟なせなくてはならない。オレはさらに、「じゃあ、なにか」と問いかける。自然、鼻で笑いつつ、「おまえさんは、霊感のある特別な人間ってことか」

「いんや」小娘はしれっと嘯いた。「おにいさんと同じだよ。シノたち、とっくに死んじゃってんだよ?」

 オレは感心した。小娘の幼稚さに。よくもまあ、つぎからつぎへと出てくるものだ。ついさっきレジに並んでファーストフードを山盛りたくさん購入してきた人間の吐くような台詞ではなかった。が、小娘は続けて語りだした。

 至極真面目くさった表情で、

「なんか可哀想になってきちゃったから、言っちゃうけど。おにいさん、死んだことにも気づいてないよね? シノ、最初はさ、おにいさんがこっちの常識知らないっぽかったから、新人さんなのかなぁ、って思ってたんだ。まさか死んでることにも気づいてないとはねえ。んで、いろいろ教えてあげよっかなってここまで付いて来たわけなんだけど――というか正直な話、ちょこっとウソ吹きこんで利用しようとか思ってたんだけど」

「ガキに騙されるほど不抜けちゃいねえよ」ついつい口を挟んでしまう。

「あ、信じてない。まあ、いいけどね。自覚していないひとってみんな最初はそうなんだ。シノ、こう見えて結構に長いこと居座ってるからさ。こっちの世界にだよ。まあ、なかなか成仏(シフト)しない劣等生みたいな感じかな。――ん。てことはおにいさん、まだあのコたちに会ってないってことか。成仏案内人(シフトガイド)って名乗る、ちっこい女の子たちなんだけどね。おにいさん、会ってない?」

 成仏案内人(シフトガイド)――。はて。どこかで聞いたような、と記憶を辿るまでもなくすぐに、昼間、事故現場で出食わした、頭の痛いオコチャマが脳裡に浮かんだ。なんだ、こいつら知り合いかよ、となにやらここにきて予想外な方向でのきな臭さが漂って感じられた。言い換えればこれというのは、オレの危惧していた展開になりそうもないことを示唆してもいる。あんなガキとつるんでいる小娘なんぞ、オレの敵ではない。我知れず安堵する。どうやら自分でも気づかぬうちにかなり気負っていたらしい。

 気が緩んだオレは、ご機嫌に、しかし不平を鳴らすような調子で溢していた。

「んだよ。おまえら、グルか」

「あれ、その様子じゃ、すでに会ってる? あ、もしかしておにいさんの担当、ミヨだったんじゃない?」

「ミヨ?」

「日本人形みたいな、きれいな髪の毛したコでさ」小娘は敬礼するみたいに手を額へあてがうと、「こんなふうに前髪がななめにパッツンってなってるコなんさ」

 言われて見れば、なるほど。たしかに日本人形に似ていた。

「あ、やっぱりか。あのコちょっと抜けてるっていうか、怠けてるっつうか。放任主義的な感じなんだよね。そっか、そっか。これで納得。おにいさんもたいへんだね」

 ここにきて小娘の口調がいくぶんも親しげになっていることに気づく。向こうさんは完全にオレに気を許しているようだ。頬杖をついて姿勢を楽にしている様や、やわらかくなった物腰からも、そうと判る。年相応にあどけない笑顔まで浮かべでいるではないか。舐められているのか、懐かれているのか、判断に困る。

 勝手に腑に落ち、勝手に打ち解けた気になりやがって。

 こちとら、慣れ合うつもりなど、さらさらねえんだよ。

 内心で毒づいてみせるものの、裏腹に、オレは自分に苛立ちを覚えた。

 出逢ったばかりの赤の他人へ、すんなりと心を開くような、人の良い小娘。ちくしょう。放っておけなくなってきた。そんなお節介焼きの自分に腹が立ったのだ。

 騙された人間がわるい――それが社会の常識だ。人懐っこい小娘なんぞは、いちど痛い目を見なけりゃそれが分からないのだ。警戒心ってものを身につけさせるには、自分自身の傷の痛みを知るしかない。

 むろん、頼られたならひと肌脱ぐのも辞さない構えがオレにはある。それがオレの仕事だからだ。

 ただ、小娘の話を聞くかぎりでは、オレの出る幕ではなさそうだった。

 そうだとも。こんなガキの夢物語なんぞに興味はない。オレの不安が杞憂に終わったと結論された今、ここに居座っている謂れもない。当初の目的は遂行された。さっさとお暇させてもらおう。これ以上いっしょにいると、情が移ってしまう。

 すでに移りつつあったオレはだから、無理やりにでも立ち去ることにした。

 まだまだ山盛りになっているファーストフード。ぞんざいにハンバーガーをひとつ掴みとる。ひと息に平らげてから、

「ちょっとトイレ行ってくる。これでデザートでも頼みな」

 財布から紙幣を数枚抜きとり、テーブルに置いた。オレの財布にゃ万札はない。どれを抜いても老けたお嬢さんがすかし面をしておられる。

 小娘は眉根を寄せて、こちらを見上げた。ずいぶんとまあ、訝しげな面だなあ、おい。ここで「逃げねえよ」と言ってしまっては、今からとんずらこきます、と自白したようなものだ。代わりに、「なんだよ。足らねーのか?」とすっと惚けてやった。

「いらないよ。お金なんか」必要ないんだよ、と小娘は鼻から息を漏らした。聞きわけのない子どもをまえにしたような、やけに大人びた溜息だった。「シノたちは幽霊なんだ。全部が無料、タダなんだよ」

 幽霊ならタダ。まあ、理屈としては分かる。お金なんぞ払う必要はない。そもそも幽霊ならお金なんぞ持っていないのだから当然だ。それは逆説的に、お金をこうして持ち合わせているオレという存在が幽霊ではないという事実を歴然と示してもいる。ここでかように反駁することは造作もないが、そこまでの面倒を見てやるつもりはない。夢を見ているなら勝手に見てりゃいい。いずれ目が覚めるときがくるってものだ。

 こちらが黙ってやっているのをいいことに、小娘はなおも宣巻いた。

「このお金だって」とテーブル上の紙幣をゆび差し、「これだって、ほんとうはここには存在してないんだ。これはおにいさんの記憶――思念が顕現してるだけ。その姿だって、シノのこの身体だって、生前の記憶からつむがれた仮初でしかないんだから」

「へいへい」オレは真に受けない。小娘はむっとした。あからさまに怒気を含んで、「いい加減に気づけよな」と腕を振った。となりではカップルが仲睦まじく談笑している。そう言えば、さっきからずっとこんな調子だった。こちらが声を荒らげあっているというのに、周囲の客たちは平然としているのだ。さも、オレたちがここに存在していないかのように。

 ここでオレは初めて、臓物をわしづかみにされたような戸惑いを抱いた。ぞっとしたのだ。が、すぐに薄れる。

 幽霊なんぞ存在しない。すくなくともオレは幽霊ではない。こうしてきちんと存在しているのだから。オレは自身に言い聞かす。なにを動揺してやがる、と鼻で笑う感じで。

 だがそれも、小娘が振った腕がカップルどもの胴体をすり抜けたことで、愕然とした驚きへと急転した。

 すり抜けた?

 いや見間違えただけだ。

 いやいや、こんな至近距離で?

 というかそれ以前にこいつら――この店のやつらみんな、まったくオレらに気づいていない。そこでオレはふとシグレを思いだす。まるでオレのことなど眼中になかった。こいつらと同じ。オレがここにいないがごとくの反応。そうだとも。考えてもみれば、シグレがそういった態度をとっていたとして、ユレまでそれに付き合うというのは妙ではないか。

 あのときオレがムキになったのは、おそらく、ユレまでオレをシカトしていたから――幼稚な言い方をすれば、ユレがシグレの味方をしていたから――だからオレは柄にもなく本気で苛立ってしまったのだ。だがその実、シグレもユレも、オレの姿に気づいていなかったとしたら……。

「どう? 分かった? シノたちはここに存在してるけど、それはこの世界であって、あっちではないの。シノたちはね、幽霊なの。別物なの。死者はね、もうあっちの世界の人間とは接触できないんだよ」

 別物なの――そう叫んだ小娘の言葉はなぜかオレの脳裡で、化物なの、と歪曲してこだました。

 現実味が薄らいでいく。オレが呆然自失として、立ちつくしているあいだにも、小娘はカップルたちの身体に、ほらほら、と腕をつっこんでいた。シカの角に見立てて遊んでいる。それはまるでカップルたちのほうが立体映像だとかそういった虚像であるかのようで、それこそ存在していないのは彼らのほうであるかのようで、オレもまたよろよろと歩み寄り――それでもまったくこちらを顧みないカップルどのも頭を――オレはシグレの頭をどつくような調子で、殴りつけた。

 ごつん……。本来なら拳に伝わるだろうはずの衝撃はなく、感触すらなく、オレの拳は虚しく宙を掻いた。それこそ正に、すり抜けた。

 カップルたちは、手もとのジャンクフードを口元へ運んでいる。時折メディア端末をいじり、明確な物理的雑音を奏でている。そうしてなにごともなく――何者もいないかのごとく――雑談を交わしつづけている。

「あーもう。ほら。そうやって哀しそうな顔しない」小娘が髪を掻きあげる。「だからやなんだよ、無自覚な新人って」

 それでも放っておけないんだよなぁ、と小言を漏らす小娘はやたらと大人びて見えた。まるでオレのほうがガキではないか。くそ忌々しい。弱々しくオレはもういちど、目のまえのカップルを殴りつけた。

 やはり拳は虚しく空を掻く。オレはたしかに、希薄だった。 




      路坊寺(じぼうじ)清祢(きよね)――悔恨による回顧【中篇】


     (一)


 居たたまれなくなったオレは、覚束ない足どりでよたよたと店を後にした。店の客も、そとを歩く通行人も、みなオレという存在なんて眼中になかった。意識してみて初めて実感したことだ。異様な光景だ。誰ひとりとしてオレを認識していない。

 自分でもふしぎだ。なぜに、これほどまでに異様な状況に気づけなかったのか。

 周囲を観察してみれば、なるほど。容易に察し至った。

 通行人の誰一人としてオレとぶつからない。モーゼの杖のごとくに雑踏が割れる。さながら川に落とされた岩のごとくだ。通行人たちはオレを避けて歩いている。それはつまり、オレの存在は彼らに意識されてはいる、ということの明確な憑拠に思われる。

 だが、いざ彼らに触れてみようと手を突き出してみれば、自分がいかほどに希薄な存在であるのかを突き付けられる。要するに、やはり、触れられないのだ。

 認識されないが、意識はされている。いったいぜんたい、どういうことだ。

 戸惑うばかりだ。オレは道路の真ん中で立ち尽くす。

 オレの思案顔を、悲愴に打ちひしがれている絶望の表情とでも勘違いしたのだろう、「まあ、気持ちは察するけどさ」と背中に声が届く。

「それほど悲観することでもないって」小娘がオレの背後に立っていた。店から追いかけてきたのだろう、ちゃっかりジャンクフードの残りも腕に抱えている。食べ掛けのハンバーガーを口へ運ぶと、「考えてもみなよ」と咀嚼しながら、もごもご、と慰めるようなことを言う。「見方によっちゃ、自由になれたんだ。社会の常識からも、社会のしがらみからも――シノたちは自由になれた」

「……オレはほんとに死んだのか」

「死ななきゃこうはなれないもん」小娘は肩を竦める。すっかり食べきってから、「いいじゃん別に」と親指をぺろりと舐める。「気に病むことないって。ほら、死んだって言ってもさ――まだ、〝ここに〟いるわけだし」

 死んでも“無”になったわけではない。おそらく小娘はそう言いたいのだろう。やけに明るく謳いやがる。無邪気でもなく、無垢でもなく、その崩された相好はまさしく母親がわが子へ向けるような、安心を諭す類のつくり笑顔だった。こんな小娘ごときに同情されるのも癪に障るというのに、こいつときたら食べながら説きやがる。口周りがケチャップで化粧されている。オレの視線に気づいたのか舌で舐め取りやがった。それも、いっちょうまえに気恥かしそうな顔で。

 ――ああ、情けない。

 オレは自分が情けなかった。途端に、無性に、泣きたくなる。

 裡に溜まったわだかまりは、オレの腹を煮るには程度のいい燃料になった。今度は猛烈にむしゃくしゃした。

 オレはこんな、尻の青そうな小娘なんかに慰められるほど脆弱だってのか。

 冗談じゃない。

 歩道にぼさっと突っ立っている街灯をオレは思いきり殴りつけた。なに見下ろしてやがんだ、と理不尽な怒りが噴きこぼれたのだ。街灯は反響するような細かさで振動する。こんなのは効かんよ、と小馬鹿にされているみたいだ。黙れ、動くな、と今度は足蹴にする。

 その瞬間、周囲を流れていた通行人たちが一斉にこちらを向いた。いや、オレを見ているわけではない。視軸はすべて、オレの身体を抜けた先、微振動する街灯へ注がれている。

 街灯を蹴ったことが伝わったのか?

 だが集まった視線はすぐに散った。なにがあるわけでもない、と興味を失ったみたいな引きようだった。雑踏は元通り。淀みなく流れはじめる。

「なにをしても気づかれないよ。シノたちの起こした現象が認識されることはあってもね」小娘は解説口調でそう言った。雑踏に目を向けながら、こいつらはさ、とさらに続ける。「こいつらは――こいつらとシノたちはさ、別の世界に生きてんだ。舞台は同じだけど、世界がちがう。シノたちがなにをしようとも、シノたちのことは認識されない。シノたちの仕出かした〝現象〟が認識されるにしてもね」

 どういう意味だ、と睨むことで解説を促す。百歩譲って、オレが死んだのはいい。人間いつか死ぬものだ。あり得ない話ではない。だがこの不可思議な状態が幽霊だという話はいかんせんにわかには信じがたいものがある。「現状は理解した。だが、それと、オレが死んだって話はイコールではない」

「あちゃー。おにいさんもかたくなだねぇ」言った小娘の口調はどうにも呆れた様子ではあったが、店内での会話の際に見せたような、暗澹な声音ではなかった。陽気とも楽観ともとれる、あっけらかんとした語気だ。それでいて、一安心ともとれる、感情豊かな雰囲気があった。「まあいいさ」と小娘は歩きだす。

「簡単に言っちゃえば、ポルターガイスト現象ってこと。シノたちの引き起こす、いろんなことをあいつらは認識できるけど、それは風が吹いたかだとか、どっかから飛んできた石が当たったからだとか、知らない間に誰かが持ち去っていただとか、そういったこととして解釈されちゃうってこと。誰もが幽霊の存在なんて考えない。日常的にシノたちが干渉していることに気づかない。いや、気づけないんだろうね」

 こうして雑踏に交じって対面している今になってオレはようやく窺知するに至った。小娘もまた、オレと同様に周囲の人間たちからまったくと言っていいほど注視されていない。これだけ通路の邪魔になるだろう位置に突っ立っているというのに――誰もが小娘を避けて通っているというのに――小娘へ視線を、注意を、「邪魔だ、どけよ」といった憤懣さえ向けていない。なぜだ、おかしくないか。

 認識されていないはずなのに――避けられている、という矛盾。なぜだ。

 オレの疑問を見透かしたように小娘は、愉快気につぶやいた。

「幽霊三カ条ってのがあるのさ」

      ***

 小娘いわく。死んだ人間には、生きているあいだとは異なった自然法則が流れているらしい。

「シノ独自に編み出した三カ条だ」小娘は先駆者ぶって嘯いた。「ありがたく聞きなよ」

   ・第一条、原則、生者との接触はできない。

   ・第二条、原則、個人として認識されない。

   ・第三条、原則、死者として見做されない。

「どうよ。なかなか簡素にまとまってるっしょ」

 まとまっているというよりもむしろ省かれすぎている。なにをいわんとしているかがいまひとつぴんとこない。悔しいが、もういちど聞かせてもらわねば理解できそうにない。

「わるい。もういちど頼むわ」

「いっかいで理解してくれろ」

 小娘はぷんすかと、しょうがねーなぁ、のため息を吐いた。それからゆびを振りつつ、慣れた調子でふたたび三カ条を口にする。

 今はブランコに二人並んで腰かけ、きーこきーこ、と揺れている。街中の公園だ。遊具はアスレチックばりに豪勢だ。ただ、見える範囲に人はいないし、子どもの声もしない。敷地を囲むように高層ビルが立ち並んでおり、見上げればここからでも駅前に聳えるビルディングを仰望することができる。ビルの壁面には巨大なディスプレイがある。最近流行りのアニメ映画の、CMが流れている。そういえばユレのやつも観たがっていたな、とオレは一時間ぶりに自分以外の者のことを想った。

 落ち葉がひゅるると踊っている。相手は風だ。

 公園にひと気がないのは、ここが場違いに開いた穴のような空間であるから、とういうだけでなく、木枯らしがぴゅーぴゅーとやかましいからでもあるだろう。老若男女関係なく、こんな日には屋内でぬくぬくとしていたいものだ。それにしてもふしぎなことに、オレはいっこうに寒いとは感じなかった。こうして風に舞う落ち葉を観察するまで、実感しなかったのだ。ひょっとすると幽霊には体感というものがないのかもしれない。そうと考えてみたが、寒むそうだな、と意識した途端に、寒い気になってきたものだから、なかなかどうして都合のいい知覚じゃないか。自分の肉体を揶揄してやりたくなったが、つぎの瞬間には、「いや」とオレは眉根を寄せていた。

 ――その肉体が、オレにはないのだ。

 手のひらを、ぐーぱー、させてみる。実体としてあるように感じられてはいるものの、ここにオレの肉体はすでにない――のかもしれない。

 小娘の戯言を真に受けたわけではないにしろ、それでもやはりオレのこの状態は異常であって、幽霊であると結論づけたほうがよほど現実味のありそうな事態であることは否めない。むしろオレはこの時分ですでに、そのことを認めつつあった。

「ねえちょっと。聞いてんの」

 肩をど突かれ、顔をあげる。

 三カ条を唱え終えた小娘が、「どうよ」と己顔を浮かべていた。

「ああ、聞いてたよ」もちろん聞いていたともさ、と相槌を打つ。

 じっさいオレは小娘の三カ条をきちんと聞いていた。考え事をしながら、また別の考えごとをする。これもまた、職業柄オレに必要とされるスキルのひとつだ。

 三カ条を二度聞いたことでオレは、「ははーん、なるほどね」とようやく咀嚼することができた。

 印象としては、なかなかどうして矛盾然とした法則ではないか、といったところか。

 オレはひとまず雑念を振り払って、考えをまとめることにする。

 ことの真偽は措いておくとして、小娘の言うことを信じるとすれば――第一条、「生者との接触はできない」という部分はまあ、納得できる。すでに体験した通り、オレは他者に触れられない。いまのところ触れられるのはこの、目のまえでスカしてやがる小娘だけだ。小娘いわくそれはオレたちが幽霊だかららしい。ふざけてやがる。

 ともかくとして第一条は問題ない。というよりも、既成事実として認めざるを得ない。

 問題は、残りの二つだ。個人として認識されず、しかし死者としても見做されないとはどういう意味か。いや、各々を別個に解釈した場合、これはなんのふしぎもない。個人として認識されないというのは文字通り、一個の人間として認識されない――すなわち、無視されるということ。そして、死者として見做されないというのも、同様の意味として解釈できる。たとえば、果物として見做されないならば、リンゴとしても、バナナとしても、見做されることはない。と、こういうことだ。つまり。幽霊であるならば、生者とも死者とも見做されないはずなのだ。認識されないならば、どんな属性も付加されることはない。認識されない存在など、存在していないことと同義なのだ。

 これはだから、第三条というのは第二条に内包され得る条件ではないのだろうか。

 オレはそう主張した。

「意味わかんない。もっと分かりやすく言ってくんない。それともなに? シノのありがたぁい三カ条に文句でもあんの」

 文句はないが疑問があるんだ、と言って聞かせる。暗に、落ちつけよ、と宥める。

「なんで疑問に思うわけ。それって要するに、シノのありがたぁい三カ条がダメってことじゃん」

 どうしてそうなる。幽霊になってまで、こんな至極どぉうでもいい対人関係で悩みたくはない。

 仕方がない、オレは下手に出ることにした。祈るように手を組み、まえ屈みになる。顔を見られないようにして、「あのですね」と不本意な釈明を試みる。「あまりに上手くまとまりすぎていて、逆にちょいとオレには難しすぎることになってんだよ。その三カ条ってやつがな」

 ありがたぁい三カ条ね、と小娘がすかさず訂正したが、オレは聞こえないふりをする。

「んでだな。にさん、質問があるんだ。せっかくご教授いただいた直後でもうしわけないんですがね。よろしいですか先輩」とオレは『せんぱい』の部分を強調する。 

「ほうほう、なんだね後輩」小娘はまんざらでもなさそうに腕を組んだ。できのわるい部下を憐れむような眼差しをくれやがる。つるつるのおでこに、思いきりデコピンを放ちたくなったが、今は我慢のときだ。ひくつくこめかみを感じながら、口角筋の緩みを維持する。

「端的に訊く。あのな、第二条と第三条ってどう違うんだ? オレが『オレ』として認識されない以上、どんな存在としても認識されないんじゃねえのか。死者としてもクソもない。周囲から認識されないんだ、どんな存在としてだって認識されねえだろうが」

「あ、やな感じ。なにおこってんの」

「おこってねえよ」

「そ? ならいいけどさ」

 唇を尖らせたまま小娘は、

「言葉どおりなんだけどなぁ」

 ぶつくさ嘆くのだった。それから神妙な面を浮かべて、

「ひとつおにいさんは勘違いしているよね」

 しれっと話を本筋に戻した。

「いいかな。シノたちはたしかに、『じぶん』って個人として見做されてはいないよ。でもね、それはそれ。ほんとうに認識されてないんだったら、どうしてアイツら生きてるやつらはシノたちのことを避けて歩くのさ」

 あ、と脳裡に閃光が走る。小娘の言う通りだ。オレは通行人たちに避けられていた。彼らはきちんとオレを認識し、たしかに避けて歩いているのだ。

「それだけじゃないよ」小娘は自作の歌のタイトルを口にするような滑らかさで、「シノたちは、生きていたときとおなじように、集団のなかで生活することができる」と人差しゆびを立てた。「個人として見做される必要がない範囲でなら家に住むこともできるし、お店で買い物だってできる。万引きが減らないのは当然だよね。だってシノたちに売っちゃってんだもん。タダで」

「どういうことだ」オレは幽霊ではないのか、と頭がこんがらがる。小娘の主張は一貫しているようで、ところどころ破綻して聞こえる。だがそれでも、なぜだか無下にはできないちからづよさ――揺らがぬ芯があるようにも聞こえるのだから始末がわるい。

「シノたちは認識されてはいるんだ。でもそれは、シノの場合は、『シノ』ってひとりの人間として見做されないってこと。同時に、死んだ者――幽霊としても見做されないってことでもあるんだよ」

 分かるようで解らない。

「あんね。一言でいうとだね――『幽霊は視るもんじゃない、感じるものなのだ!』って感じかな」

「お……おう」余計に分からなくなったぞ。

「まだ腑に落ちない? まあ、最初は誰でもそうなんだよね、気にすることないよ」

 いや、おまえの説明が胡乱なのが原因なんだろうがこのヤロウ、としばきたくなったが、やはりここは我慢のときだろうと判断し、ぐっと堪える。そのうち呑みこんだ不満で胃に穴が空くんじゃなかろうか、と不安になる。愚痴を呑みこんでも腹をくださない、と虚勢を張った荒巻部長は偉大だ。

「気にするな、と言われてもだな」控えめに非難しておく。「話が見えないんじゃ、気にもするだろうが。それで、オレたちはけっきょくどういった存在なんだよ」

 端的な回答を迫ると、小娘は旅行のプランを建てるかのような意気揚々さで、「じゃあねえ、こう言えばどうだろう」と解説する。

「言ってみりゃさ、シノたちは意思ある現象なんだよね。風であったり、雨であったり、隕石だったり、放電だったり――なんでもいいんだけど、個人ではないわけ。もちろんこれは向こうさん、生きている人たちからすればのお話ね。で、逆にシノたちからすれば、生きてる人たちが現象のようなものなのさ。シノたちの社会とは無関係に、ただ流れる風みたいに、ときには嵐になったり、そよ風になったりしながら、シノたちの周囲を過ぎ去っていくもの。彼らとシノたちは、同じ世界に存在していながらにして、互いに干渉し合うことはない。それはだから、嵐がやってきても、人間はなにもできないのに、嵐のほうは勝手に人間たちの生活を脅かすでしょ? そういった一方的な関係性があるだけなの」

「その比喩で言ったら、オレたちはどっちなんだ? 嵐か? 人か?」

 干渉する側か、される側か、どちらなのだろう、とオレは疑問に思った。それは、加害者か、被害者か、という問題にも通じるものがあった。

 だからこそ、なんの臆面もなく、

「もちろん、嵐だね」

 にかっ、と笑い、言いきった小娘に、オレはこのとき初めてぞっとした。


      (二)


 要領の得ない小娘の話を耳にしつつオレは、シグレたちはどうしているだろうか、と考える。死んでしまったという実感はないが、しかしとんでもない事態に陥ってしまったという焦燥感はある。どうすればこのことをシグレたちに――ユレのやつに――報せることができるだろうか。ここに至ってオレはようやくこの先の生活について、強いてはユレの暮らしについて思いを馳せた。

 お別れなんて、まだまだ先だと思っていた。いや、そんなことすら考えたこともなかった。ユレと暮らしはじめ、区切りもけじめもなく独り立ちするまでの面倒を看てやろうとオレはいつの間にか、なし崩し的にユレのことを受け入れていた。日々の生活と、ユレの将来のこと。そのふたつが、このたったふたつだけがオレの視野を占領していた。

 それがどうだ。どこで間違ったのか、どこへ迷いこんでしまったのか。

 オレの日常はあっけなく消え失せた。ユレとの暮らしが崩れちまった。

 オレは柄にもなくセンチメンタルになった。

 思うにセンチメンタルってのは、メンタルが、一センチくらいに縮まっちまうってことなんだろうな。祈るように頭を抱え込んで目を瞑り、オレはそんなつまらないジョークを、現実逃避みたいにつらつらと瞑想する。

 小娘は語りついでに、きーこきーこ、と立ち漕ぎをしはじめた。そのうち、本気で漕ぎだしたものだから、なにを言っているのか聞こえなくなったし、むしろ小娘もブランコに夢中になっていった。

 そんなとき。声がふわりと降ってきた。

「あ、いたいた」

 底ぬけに明るい声だ。

 その声で、鬱屈だったオレの雲間にも似た心境は、滑稽なほど造作もなく霧散した。

「どーもー。まいどお馴染み、わたくちミヨ=シニガーでございます。ごぶさたです。ぺこり」

 ガキがふたたび現れた。昼間、事故現場で声をかけてきた、頭の痛いおこちゃまだ。頭上、ブランコのフレーム部分に、ちょん、とつま先立ちで乗っている。見上げていると、

「あ、こっち見ちゃダメです。パンツ見えちゃいます」

 言って、ひらり、と地上へ舞い降りる。どこまでも人を小馬鹿にしたようなガキだ。両手をうしろに組んで、えへへ、とはにかんでいる。

 パンツなんか見ちゃいねーよ、興味もねぇよ、と意見したかったが、息巻くほどのことでもないやな、と言葉にするのをやめる。それよりも今はもっと有意義な言葉を発するときだろう。なにせこのガキもまた小娘と同様に、〝こっちの世界〟の住人なのだろうから。

「なあ」オレはブランコに夢中の小娘に話しかける。「おまえも空飛べんのか」

「へ? なに?」ブランコの速度を落として小娘は、「空? 飛べるわけないじゃん」あはは、とオレが冗談でも言ったかのような反応を示した。

「そりゃそうだよな」オレは首肯する。飛べるわけがない。飛べる気もしない。たとえ幽霊になろうが、できないものはできない。ならばこの前髪パッツンのガキは、オレたちと同類であり、かつ異形のなにかだということになる。

「どうですかあ?」ガキが声を張り、子ども特有の甲高い声が耳をくすぐる。「そろそろご自身の置かれている変化に――ともすれヴぁ、えっと、状況に?――お気づきになられましたか?」

「気づくもなにも、この通りだよ」

「やは。それはそれは、なによりでございますね」

「それよか何なんだよ、おまえ」空なんか舞いやがって。もはや何を見てもオレは驚かない自信がある。「死神か? それとも天使ちゃんかよ」

「ですからわたくち、成仏案内人(シフトガイド)と申しますです。よろしくです。ぺこり」

「ちょっとミヨ、あんたねぇ」ここで小娘ことシノが、立ち漕ぎしていたブランコから勢いよく飛び降りた。勢いをそのままに背後からガキをはがいじめにする。「仕事はしっかりしなさいよ。あんたってば、放任主義にもほどがあるでしょうに」

「やや、これはこれは、シノさん。こんにちわです。ぺろり」

「相変わらずだこと。でもねミヨ、ひとっつあんたに忠告してあげる。舌なんて卑猥なもの、ひょこひょこかんたんに出しちゃダーメ」

「なぜですか? 減るもんじゃなしによいではありませんか」

「ホントにぃ? いいのかなぁ? ベロチューしちゃうぞぅ」

「ひ、ひわいですっ」

「いやなの? ほんじゃ、ひっこ抜いちゃおっかなぁ、舌?」

「コワイです!」

「んなら、岩手山の麓にある日本最大の民営農場と言えば?」

「こいわいですっ!」

「おい。なんの話してんだよ。おいちゃんはな、ふざけてる場合じゃねえんだよ」オレはしぶしぶツッコミを入れる。

 しゅん、とおとなしくなったガキを尻目に、「おにいさんねえ」と小娘がしらけたように目を細める。「おにいさんねえ。ノリがわるすぎやしないかい? いやね、おにいさんの心境は、うんざりってほど分かるよ。だてにシノは長いこと『不幽霊』やってないからね」

「浮遊霊?」呪縛霊もいるのだろうか。

「ちがうって。字がちがってるよ。浮遊する幽霊じゃなくって、不真面目な幽霊、略して『不幽霊』。幽霊失格ってことだね。成仏しようとしないどころか、すっかり放棄してんだもん。働けるくせして働かなきゃ人間失格だし、成仏できるくせして成仏しないんじゃ、そりゃ、幽霊失格でしょ?」

「シノさんは不幽霊ってよりも、不純系って感じですけど」

「ミヨ、あんた人のこと言えないでしょうが」

「さいでした。ぺろり」

「ほらまた、舌なんか出して」

 むちゅー、と口をすぼめてガキへと迫る小娘。

「やはは、いや、やめて! やめてくださいシノさん! ミヨには心に決めた殿方が!」

「え、いるの!?」

「いませんけど」

 しれっと変化球を放ったガキはそのまま小娘の追撃を避けるように、ふわり、と舞いあがる。

「好きな殿方はおりませんけれど」でも、とガキはブランコにふたたび乗りあげて、「ひわいなことは、おやめください」

 ぺこり、と今度はフレームに腰を下ろした。ぶーらん、ぶーらん、と足を振っている。前屈みになってこちらを覗きこんでいるが、見下ろされるのはあまりよい気分ではない。なにせこちらは見上げているのだ、首が痛い。

 ガキは暢気に、さて、と手を打った。ぺちっ、とふぬけた音が鳴る。

「さて。そろそろわたくち『成仏案内人(シフトガイド)』として、路坊寺さんに、うにゃうにゃ、もろもろ、成仏(シフト)するにあたって必要な、重要事項をお伝えしようかと思うのです。最初に申しあげておきますが、成仏(シフト)するには、〝ある条件を〟熟していただく必要がございますです、はい」

「条件だあ?」お経でもあげろってか。

「ミヨ、黙って。あんた説明下手だからシノが代わりにしてあげる」

「いえいえ、それにはおよびませんですよ。なにせわたくち、成仏案内人(シフトガイド)ですからね。えっへん」

「言うじゃない偉そうに。ならどうなの? これまであんたが説明して、『はいそうですか』ってすんなり成仏したヤツ、いた?」

「それは……」

「なに?」

「……きんそくじこうです」

 いなかったでしょうに、と小娘はやけに威勢よく責め立てる。オレは彼女たちの応酬が落ち着くところに帰着するまで嘴を挟まずに見守ることにする。

 大きく息を吸うと小娘はこれみよがしに、はぁ、と吐き、肩を竦め、余裕のある者がやると言われる幻の、やれやれ、を素でやった。「シノが幽霊やりはじめてからのこの数十年、あんたがきちんと担当幽霊(ゴースト)を案内(ガイド)したところなんか、見たためしがないわよ」

 言いながら、やれやれ、と小娘はもういちど大袈裟にやる。しょうじき憎たらしい。

「そんなことありませんですよ」拗ねたように反駁するガキだが、目があさってのほうを向いている。「そもそもシノさん、四六時中わたくちのことを監視しているわけではありませんよね。あまりミヨのこと、案内人(ガイド)失格、みたいな言い方しないでほしいかも」

「わるいけど、シノには判るんだよねぇ。なんていうの? 同族嫌悪? 失格者どうし、仲良くしようよ」

「わ、わっ! いっしょにしないでほしいかも! ミヨはそんなんじゃないです」

「ちなみにあんた、さっきから自分のこと、『わたくち』じゃなくって『ミヨ』って名前呼びしてるけど」

「ギクっ!」

「そうよねえ。あんた動揺するといっつも素に戻っちゃうんだもんねぇ」

「ギクギクっ!」

「それで? もっかい訊くけど、あんた今回も失敗していいわけ? シノに任してくれたなら、三日以内に成仏(シフト)させてみせるけど」

「三日!? 三日でですか、それはすごいです!」

「すごくないって。余裕だって。なんでこんなかんたんなこと、あんたが熟せないのかがふしぎなくらい」

 ほお。三日で済むことなのか。想像していると、

「実際、やるだけなら一瞬でできるわけじゃない?」小娘が諭すようにガキへ言った。「問題は、それを抵抗なくさせることにあるわけで」

「あのなあ」オレは堪えかねて、「どうでもいいが、その条件ってのをさっさと教えてくれ。というかそもそもな、なんなんだよその『シフト』ってのは。二階級特進で仏さまにでもなれるってのか」

「うーん。シノも実はそれ自体については詳しく知らないんだよね。『成仏(シフト)』する方法は知ってるんだけどね」

 方法を知っている。そのうえ、『シフト』というのはあまり手間の掛からないことらしい。一瞬でできる、と言うくらいだ、よほど容易なのだろう。

 だが。だとすれば小娘。なぜにおまえは。

 ――シフト(それを)しない。

 怪訝というよりも、不穏な感じがした。

 渋面を浮かべていたからだろう、小娘は無邪気な顔をオレへと向けて、

「あ、ミヨに訊いても無駄だよ」

 あたかもオレが、『シフト』するとどうなるのか、について想像を巡らせていたかのように誤解した。それからぞんざいに頭上をゆび差し、「こいつら」と両足を振っているガキを示す。「こいつらだって知らないんだから。シノたちが『成仏(シフト)』するとどこへ逝っちゃうのか、なんてこと」

 小娘がなにげなく口にした、どこかへ行っちゃう、との言葉でオレにも『シフト』した奴らがどうなるのかの見当が、おおよそ付いた。

 ――いなくなるのだろう。

 すくなくとも誰かが小娘のまえから消えたのだ。オレたちと同じこの状態のだれかが。

 このときようやく、『シフト』という言葉が、「成仏」という単語に結びついた。なるほど。幽霊がしなくてはいけないこと、幽霊の義務と言えばそりゃ成仏だよな、とオレは妙に納得した。

「ながいこと不幽霊やってるシノにも分からないことなんだからさ、おにいさんが考えたってしかたないって。それは今は後回し。それに、どうあってもおにいさんは『成仏(シフト)』しなきゃいけないんだよ。死んだんだもん。それは当然なことで、自然なことで、義務なんだよ」

 だって、死んだんだもん、と小娘は繰りかえした。

 自分を差し置いてなんて言い草だろうか。その言葉、そっくりそのままお返ししてやりたい。

 いや待てよ、なるほど、とオレはようやく小娘の意図を理解した。義務を熟さない(シフトしない)からこその「不幽霊」なのか、と。義務(シフト)を放棄する幽霊、とどのつまりが「幽霊失格」だ。

 理解したからといって、とくになにがどうなるわけではない。どうなるわけではないにせよ、オレもその「シフト」というやつよりかは、「不幽霊」のほうが性に合っている気がした。気がした、というよりもむしろ、そちらのほうが望ましいと言える。

 オレはまだ、世界(ここ)から消えるわけにはいかないのだ。

「幽霊になった人間はあまねく『成仏(シフト)』しなくちゃいけないの。なんでかは知らないけど。でも、そういうことになってるみたい。死んだら幽霊になるし、幽霊になったら成仏しなくっちゃいけないんだって。かと言って、成仏しないからって怨霊になるわけじゃないし、成仏しないからってどうなるってわけじゃない。シノがそうだもん。強制ってわけでもないみたいなんだよね。そもそもシノたちからすれば成仏するメリットってのは、具体的にはなにもないんだ。したほうがいいよって勧められるから、ああそうなのかなって。そんな感じでする人たちのほうが多いかも」

「しなくていいのに、どうしてするんだ?」具体的なメリットがないのになぜに成仏などするのだろう。オレはそう主張した。

「したくなるんだよ」と小娘は言った。浮かんだ微笑は儚かった。「長いこと幽霊やってるとね、やっぱり退屈になっちゃうし、うんざりしてくるんだよね。最初は楽しいんだけどさ。他人の私生活なんて覗き放題だし。でもだからこそ、制約がない分イヤなものを目にしちゃうことも多いんだ……そのせいで自暴自棄になっちゃうひとも少なくない。幽霊のくせにさ。そんなときに『成仏』って出口があると、やっぱり出ていきたくなっちゃんだよね。この世界から離れたくなっちゃうの。もちろん率先して成仏する輩もいるし、成仏しちゃうって知らずに条件を満たしちゃって消えちゃうひとらもいる。それでも一番の理由は、やっぱりさ、なんだかんだで催促されちゃうと、ふとした瞬間にしてもいいかな、って思っちゃうんだよね」そこで小娘はちいさく地面を蹴った。ふたたび頭上を仰ぎ見る。ブランコのうえではガキが足をぶらつかせている。視線でガキを強調すると小娘は、「こいつらからするとさ」と続けた。「こいつらからすると、シノたちに『成仏(シフト)』してもらわないと困るみたいなんだよね」

「へえ。そうなのか」とガキに確認してみる。オレが成仏しないと困るのか、と。

「そうなんです」こまるのです、と同意が得られたが、部外者みたいに素っ気ない。

 やる気ゼロかこいつ。

 すっかり小娘に任せる気満々のようだった。なるほど、こりゃガイド失格だわな、とオレは合点する。死んでから納得しきりじゃねえか、と苦々しくも思う。どうやら人間ってやつは死ぬと素直になるらしい。しかも至極どぉでもいいことで。

 いやいや、待てよ路坊寺清祢。オレは自分を叱咤する。

 なにすんなりと受け入れてやがる。オレは死んだのか。

 たしかにこの状況、この状態は異常だ。それは認める。

 しかしだからと言って、オレが死亡したとは限らない。

 そもそも遺体だって見ていない。

 オレはいったいいつ死んだ。どうやって死んで、いつからオレはこの状態に陥った?

 疑いはじめたら途端にすべてが怪しくなった。そういやこんな映画があったっけ、と思いだす。ユレとシグレに誘われてソファに三人串団子んなって観た映画だ。幽霊の視える少女と、突如幽霊が見えるようになった主人公。幽霊に怯えている少女を庇護しようと主人公は共に暮らしはじめる。そういった内容の話だった。映画のオチはどちらかというと切ないものだったが、今のオレも似たような状況と言える。

 幽霊なる異質なものを目にすることができる人間というのは、同様に異質な人間か、もしくは異質なものそれ自体であるか。そのどちらかでしかない。

 オレは死んだのか。オレは幽霊なのか。それを証明するにはやはり、オレがいつどこで、どのようにして死んだのかを明確にしなくてはならない。とりもなおさず、オレが霊魂であるというのなら、肉体――すなわち遺体を目にしなくてはとうてい信じられない。信じられるはずもない。

 いや、信じられないのではない。オレはすでに自分が死んでしまったこと――幽霊であることを半ば認めている。それでもやはり信じられない。信じたくない。それはたとえば、愛しいひとが死んでしまったと報されたとき、それでも愛しいひとの死に顔を拝むまでは到底受け入れられないのと同じ心境なのかもしれない。

 事実としては認められるが、現実としての実感は湧かない。

「なあ。ガキんちょ」オレは呼びかける。死神でも天使でもない、しかし幽霊でもない『成仏案内人(シフトガイド)』だとほざく少女へ向けて。

「オレはどうして死んだんだ?」

「ありゃりゃ。ご存じでない?」ガキはすっとんきょうな声をあげ、オレを見下ろした。どこから取りだしたのか柿の種を頬張っている。「というよりもジボージさん。わたくちをガキんちょ呼ばわりとはいい度胸ですね。ぎろり」

 目を細めているが、それで睨んでいるつもりなのだろうか。残念なことに眩しそうな顔にしか見えない。

「こう見えてもわたくち、ジボージさんの数倍の人生を歩んでおりますですよ。わたくちからすればジボージさんのほうがよほどガキんちょ、いえいえ、むしろ赤子も同然なのです。それをどうかご理解いただきたいですね。えっへん」

 偉そうなことをほざくのはいいが、せめて柿の種を頬張るのをやめてほしい。ぼりぼりうるさいうえに、ぼろぼろこぼしすぎだ。

 オレは雨のように降りそそぐ柿の種を振り払いつつ、「わかったよ。大先輩」とガキの扱い方を変える。タイプとしてはこのガキ、どうやら小娘と同型のようだ。

「だいせんぱい……。いい響きです。えへへ。そうですよ、それでよいのです。では、大先輩であるところのわたくちが、ジボージさんの死がどのようなものであったのかをご説明してさしあげましょう」

「ちょっとミヨ」ここで小娘が声を荒らげた。「あんた、シノに任せてくれるんじゃなかったの!? 任せる気あるんなら余計なこと言わないで」

「余計なことじゃねえだろうが」小娘の言い草に腹が立った。「オレにこの状態を教えてくれたことには感謝してる。ただな、おまえさんの言動はすこしばかり――いや、大いに迂遠だ」

 オレはいちど声を静め、「まずははっきりしてくれ」と迫った。

「成仏するための条件ってなんなんだ」

 小娘が息を呑む。木枯らしが口笛みたいな音を響かせた。

 いっしゅん空いた間を埋めるように、「それは」とガキが口にした。

「それは、人を殺すことですよ」


      (三)


 人を殺すこと。殺人。

 オレが生きていたとき、いや今を以ってしても、犯してはならない罪の名だ。

 耳を疑った。いや、疑う必要すらない。どう訊いても冗談にしか聞こえない。

 成仏する条件が人を殺すことだと。

 そんなバカげた話は、冗談で済ますにはアクが強すぎるし、騙りにしては現実味がなさすぎる。すでに日常という現実が崩れたオレでさえ、ガキの口にした世迷言に現実味を見出すことができなかった。

 笑えないジョークはほどほどにしてくれ。堪忍袋はすでに不満と不安で満杯だ。オレはここで、ふざけるな、と怒鳴るべきだったのだと思う。それでもオレは声を発することができなかった。

「なんで言っちゃうかなぁ」と小娘がその場にへたり込んだからだ。「あーあ」と頭を抱え込み、背を丸めて、「ミヨのバカたれぇ」と嘆く。

「ミヨはバカじゃないです」ガキが唇を尖らせる。「シノさんのお手並みを拝見する前に、まずはわたくち、自分の仕事を最低限こなさなくてはなりません。ですので、ジボージさんへのご報告をいたしますですはい。では、失礼して、ぺこり」

 そこからガキは、オレの死因について語り出した。報告書を読むような淡泊な口調で。それでいて流暢に、オレがいつ、どこで、なぜ、どうして死んだのか。死が決定づけられる過程を、その経緯をオレへ叩きつけた。

「ジボージさんは、十二月二十日、本日の午後二時二十三分三十四秒に、トラックと自動車の衝突の巻き添えをお喰らいになられました。現場は十字路で、トラックが信号を無視しちゃったんでございますね。大学生三名の乗った自家用車によこから、がっしゃーんです。トラックは勢いを失うことなく自動車ごとガードレールを乗り越えちゃいまして、歩道にいたジボージさんを直撃です。そのまま自動車とトラックとビルの外壁、この三つに押しつぶされちゃいまして、ジボージさんは全身を強打。というよりも潰されちゃいましてですね。肉体のほうがぺっしゃんこでございます。現在ジボージさんのお肉体は、病院の慰安室に安置されておりますですよ」

 あの事故か、とオレはようやく昼間の野次馬と、自分のこの状態を結びつけて考えることができた。それにしてもまったく覚えがない。オレは事故に巻き込まれたのか? それで死んじまったってのか?

 そう溢すと、「事故ではありません」とガキは応えた。「あれは故意に引き起こされた衝突でございましたから」

「故意? わざとってことか? 事故ではなく、事件ってことか」

「でございますね。ですがジボージさんがアレを事故とお呼びするのであれば、わたくちもアレを事故とお呼びしましょう。いずれにせよあの〝事故〟は、幽霊となられた今、ジボージさんには関係のないことです」

 関係ないことあるか。その事故が原因で死んだとすればオレにとっては重要事項だ。

「いえいえ。死因なんてものは、死後の世界ではまったく意義のないことでございますよ。どうやって死んだのか、どうして死んでしまったのか。そんな喜劇の幕引きがどこで下りたのか、などという情報はこの世界ではなんの意味ももちません。生前にどれほど波乱万丈な人生を歩んでいたのか、なんてことも関係ないのです。なんせ死んじゃったのですから」

 死んだら終わりだ。たしかにそういう言葉を耳にしたことはある。だがそれは、死後の世界などは無い、死は無である、という前提があってはじめて意味をなす言葉だ。こうして死後もなお自我が保たれ、〈世界〉が人生の余暇のようにつづいていると知ったら、誰もそんなことは言わなくなる。

 だいいち、記憶がないんじゃその「死」それ自体を受け入れようがない。なんども言っているように「自分の死」を認識するには、どうやって死んだのか、なぜ死んだのかを知る必要がある。

「覚えてないんだ」弱々しく訴える。自分でもおどろくほど細々とした声がでた。

「ご記憶がないのも無理はありません。ほぼ即死でしたので。死の直前のご記憶があいまいなのは、これもまためずらしいことではないのですけど、おそらくジボージさんは、そのものをそれが事故であったと認識する前に絶命されたのでしょう」

 なにせ即死でしたから、とガキは繰りかえした。

 事故に遭ったと認識できなければ、その体験は「記憶」として定着しない。目のまえにあるリンゴでさえ、観測でき(視え)なければそこにリンゴは存在しないし、宇宙の果てだって考えてはいけない。ガキの主張はそういうことなのだろう。死んだことを認識しなかったオレはだから、「幽霊」であることにも気づけなかった。これはだから、そういう理屈なのだろう。

「そういうことでしょうね」ガキはまるでオレの心中を見透かしたみたいに相槌を打った。

「話は脱線しますが、現在のジボージさんは『魂』と呼ばれる状態にちかしい存在ではございますが、どちからと申しますと【残留思念】と呼ぶほうがより精確なようにわたくちなんかは思うのであります。

 魂というのは、『もの云う鬼』と書きます。つまり、魂は理性を象徴し、魂の抜かれた肉体は鬼と化すのです。理性を失った人間は野獣以上に野蛮ですからね。ところが幽霊というのは、肉体と対となってはおりません。死んだら魂が幽霊となるわけではないのです。魂は、肉体が滅びるのと同時に消滅してしまいますからね。この場合、魂と人格はほぼイコールです。魂イコール幽霊ではないということです。そしてジボージさん方は幽霊でございます。魂ではないならなんなのか、と申しますと、ですから、残留思念と解釈してみますとわたくちなんかは腑に落ちるのです」

「はあ。腑に落ちますか」だからおまえが腑に落ちてどうすんだよ。ガイドが仔細を知らないってどういうことだ。オレが戸惑っていると、

「なにも知らないんだよ」小娘がむっつり顔で吐き捨てた。あごを振ってガキを示すと、「こいつらも詳しいことは知らないんだ」と責めるような口調で、「だから仕方ないんだよ」と庇うようなことを言う。「解釈するしかないんだ。シノたちはこいつらから情報を得るけど、それは成仏(シフト)するための方法であって、この世界のこと、シノたちがどんな存在か、なんてことは教えてくれない。だから、シノの三カ条はありがたぁいんだ」

 わかったか、と高飛車に同意を求めてくる。オレは応答してやらない。小娘の相手をしない代わりに、ガキへ向けて、「残留思念ってことは、オレはやっぱり観念的な存在だってことか」物体として存在していないのか、と問う。

「人間の生みだした机上の概念を『観念』と呼ぶのでしたら、答えはNOです。なぜならジボージさん方『幽霊』というのは、真実に存在しているからでございます。もちろん物質として存在しているわけではございませんし、なにか得体のしれないエネルギィによって形を保っているのでもありません。ジボージさん方の状態をわたくちどもは便宜上、『幽霊』と呼んでおりますが、それは新規にお亡くなりになられた方々にご説明するのに適しているからというだけの理由でございまして、実際には、ジボージさん方がご想像しているような幽霊ではございません」

 じゃあオレはいったいなんなんだ。幽霊だと諭され、死んだと突きつけられ、そして今度は幽霊ではないと説かれる。もうたくさんだ。はっきりしてくれ、とオレは頭を掻きむしる。

「端的に申しますと、『人格』でございますね。死亡された方が生前に蓄積されたご記憶、感情、思考形態、もろもろ――つまりが『人格』なのでございます。たとえばそれというのは、CDを回すことでそこに刻まれた『音楽』が奏でられるように、現在のジボージさんはこの世界に刻まれた『路坊寺清祢』という人格として顕在されておられるのです」

「人格?」霊魂ではなくて人格とは、「どういうことだ」

「お解りになられませんか? ではこう言えばどうでしょう。人格というものは本来、肉体に備わった頭脳によって形成されております。ですが人間だってこの世界を構築する物質にすぎません。宇宙を視点にして考えてみれば、人間も星屑の断片でございましょう。『路坊寺清祢』という〈個〉が感受した経験、すなわち外部情報というのは、ジボージさんの脳ミチョに刻まれ、蓄積されていたのと同時に、この世界にも刻まれ、蓄積されていたのでございます。肉体がその機能を失いまして屍と化したあとも、世界に刻まれたほうの人格――すなわち『路坊寺清祢』と呼ばれる存在は、『形質固定観念』としてこちらの世界に残ります。そうですね、ですからさきほども申しましたが、いわゆる残留思念とお考えくださればよいのではないかとわたくちなどは思いますですはい」

「……残留思念」

「そうです。現在のジボージさんのそのお姿は、ジボージさんがイメージしていらっしゃるご自身のお姿であり、ですからそれゆえに、おそらく本物の肉体とは異なった外見になってるかと思われます。まあ、そうは申しましてみても、それをジボージさんが確かめる術はないのですけどね」

 現在のこのオレという存在は、本物ではない、とそういうことなのか? オレの肉体が構成していた『人格』のスペアにすぎないとそういうことなのか。

「いえいえ。あなた様は本物でございますよ。ただ、〝あちら〟のジボージさんは、肉体が機能を停止されたのを期に、再生不可となられましたわけでして。もちろん、肉体が再生していた〝あちら〟のジボージさんもまた本物でございますよ。どちらも『路坊寺清祢』であり、どちらも本物でございます」

 煮え切らないオレの様子を察したのか、ガキはさらに「たとえば」と話を掘りさげた。

「たとえば、そうですね。幽体離脱という現象をジボージさん方は、奇怪現象として極々たまーに話題になされますよね。あれというのは、肉体が再生する『人格』と、世界が再生している『人格』――このふたつが、乖離したことで生じる、記憶の断裂現象なんでございますね。まったく同じ楽曲のCDを、まったくの同時に再生させましょう。これが生前のジボージさんの状態だったとお考えください。それなのに、ちょっとしたきっかけでそのタイミングがズレちゃったとします。こういったときに生じた不協和音。それが幽体離脱や、ドッペルゲンガーなどとして他の方々に観測されてしまうのですね」

 わかるようで、わからない。

「肉体が織りなすジボージさんも、世界が織りなすジボージさんも、どちらも『本物』ということでございます。というよりもですね、肉体と世界は別物ではございません。肉体も世界の一部なのですから、強いて言うなら現在、この状態を維持なされているジボージさんのほうがより本質的な存在と言えなくもないですね」

「ミヨの説明はちょっと幼なすぎるよ」小娘がしゃがみこんだまま発言した。「これはシノの解釈だけど、ミヨのよりは解りやすいと思う」断ってから小娘は、地面に「真理」と文字を書いた。「この世に真理があるとする。というよりも、真理は必ずある。この世界――この宇宙――シノたちが認識している世界も、認識できない世界もぜんぶひっくるめての、森羅万象。それを包括する法則、存在。それってのは、物理的存在も観念的存在も、同一なんだ。そこに区別はないし、優劣もない。なんせ、全部をひっくるめての存在なんだから」

「なんの話だ」

「真理の話さ」つまらなそうにつぶやいた小娘は、地面の「真理」を足で踏み消した。それから投げやりに、「シノたちはさ、物体と対をなす観念的存在なんだ」

「シノさんのおっしゃられていることは、たぶん、間違っておりますが」ガキはこれまで幾度も耳にしてきたかのような自然な口振りで小娘の持論を否定する。そこに嫌みはなく、意固持さも窺えなかった。おそらくこれまでにも幾度か、同様の話題で、小娘と口喧嘩じみた議論を繰りかえしてきたのだろう。小娘の主張を否定しておきながらガキは、肩を持つように、「ただ」と続けた。

「ただ、観念的存在であるか否かは措いておくとしてですね、ジボージさん方がお亡くなりになられたあと、つまりこちらの世界でのご容姿というのは、肉体の造形がそのまま引き継がれるわけではございません。主観的な印象にかなり作用されちゃうんですね。たとえばそうですね、生まれつき盲目の方がお亡くなりになられてこちら側に来たとしましょう。その場合、顕現されるお姿というのは、肉体的容姿からかなりかけ離れたお姿となられます。なぜなら盲目の方は、ご自身の身体を鏡越しに見ることができませんからね。その方が思い抱かれているご自身のお姿というものは極めて独創的であり、その独創的な〝印象〟が、死後、こちら側の世界で『容姿』として顕現されるのでございます」

 自分にとっての〈自分〉が姿として形をとる。そういうことなのか。

「そうでございます。死の直前の光景が強烈に印象付いてしまった場合もおなじです。強烈な印象がこちら側でのご容姿として反映されちゃうのです。デロデロの血みどろな姿でウロチョロなされる方が少なくないのもそのせいですね。死の直前に肉体を激しく損傷なされたのを覚えていて、その凄惨な印象が振り払えないのでしょう。いっぽうで、生前にお身体が不自由だった方が五体満足のお姿で顕現することも珍しくありません」

 願望通りの姿になれるというわけではないし、逆につよい憧憬が形となることもあるということか。

「それからですね、生前、ご自身につよい執着を持たれなかった方の場合は、そもそもが〝ぼんやーり〟とした靄のような、形なき存在として顕現いたします。むかしから幽霊が『白や黒の、霧』みたいに描かれるのも、このことに関係があるのだとわたくちなどは思いますですよ。まとめてしまえば、生前と死後とでは、お姿が変わることもございます、というお話です」

 ガキはそこでいったん話を区切り、ちらりと小娘を睥睨すると、

「精神年齢が低い方の場合は、年齢にそぐわないお姿で顕現なされたりとかもしますです」

 意味深長な発言をした。すかさず小娘が息を吸い、応答の構えをみせたが、ガキは素知らぬふりで、「繰りかえしますが」

 と反撃を回避するような敏捷さを窺わせる。「幽霊としてのご容姿の変容具合は千差万別でございます。そのため、たとえば恋人さまと心中なされてごいっしょに幽霊となられましても、こちらに来てからまたいっしょになれる、とは限りません。なにせ、相手のお姿は、ご自身の知っておられる相手であるとは限らないのですから。まあ、今までつらつらと申しあげましたが、『幽霊の容姿』についてのご説明は備考と捉えてもらって構いませんです。現時点では、ジボージさんにはまったく関係のないお話です。参考までにお話しましただけでした。

 ただですね、これだけは覚えていただきたく存じますよ。現在のジボージさんは本来、形なき存在でございますので、たとえばほかの幽霊さまに襲われたとしても、傷つくことはございません。また逆に、傷ついたイメージをジボージさんがつよくお持ちになられた場合は、なんの外部干渉がなくとも、ジボージさんのお姿は、ジボージさんのイメージなされたお姿として反映、顕現いたします。とは申しましても、自在にご容姿を変えることはムリじゃないかなぁとわたくちは思いますですはい。

 はやい話が、幽霊は死にませんし、傷つきません。

 いずれにせよ、現在のジボージさんは、ただの実存です。存在としての存在、或いは存在しない存在でしかありません。本体なんてものはございません。

 それはたとえば、CDは実体として存在しますけれど、CDの奏でる音楽は実体としては存在しませんよね。それと同じことなのございます。音楽は現象であり、ジボージさんも、同等のレベルでの現象なのでございます。

 ここには、路坊寺清祢という『人格』を再生するこの世界があるだけなのです。

 ご説明は以上で終わりです。ご清聴に感謝いたします。ぺこり。

 ご質問があればうけたまわりますが、えっと、なにかごじゃりますか?」 




路坊寺(じぼうじ)清祢(きよね)――悔恨による回顧【後篇】


      (一)


 オレの遺体は今、どこにある。

 質問はあるか、との問いかけにオレはまっさきにその答えを要求した。

 オレはもう、オレがどういった存在であるかなど考えなくなっていた。

 そんなことはどうだっていい。あとから考えれば済むことだし、そうでなくとも、考えたところで得られるのは答えではないことに気が付いた。解釈にすぎないのだ。オレがどんな存在であるかなんて瑣末な事項は、それこそ生きていようが死んでいようが関係なく湧いてくる手に負えない悪夢のようなもので、こんな状態になってしまったからといってわざわざ自問することでもましてや自答することでもなかったのだ。

 オレはオレだ。

 どんな境遇に追いやられようと、どんな状態になろうとも、オレがオレであるその自覚を持ちえたならそれでいい。

 だから。

 現状もっとも思慮すべきことは、死後の世界や幽霊についてではなく。

 現状もっとも危惧しなくてはならないことは、オレ自身のことでもなく。

 現状もっとも案じるべきは、オレと共に暮らしていた、ユレのことだった。

「現在ジボージさんのお肉体はですね、えっとぉ」ガキは上着を漁りだし、ぺたぺたと全身に手を這わせる。あるべき起伏を捜すような仕草だ。いくら捜したところでおまえの胸はぺったんこだけどな。憂さ晴らしに毒を吐いてやろうかとも思ったが、実行に移すまでの気力はなかった。なにを取りだすのか、と眺めていると、古ぼけた手帳――ではなく、最新式のメディア端末を取りだしやがった。最先端か。

 パネルに触れてなにやら操作している。間もなく、「あ、ここですね」とディスプレイをこちらへ向けてくる。「この、坂黒猫(さかくろねこ)病院にジボージさんのお肉体は収納されておりますね。おやおや慰安室ではないですね。あはは。すでに遺体安置所へ格納済みのようですよ」

 ガキいわく。オレの死因は全身強打による、複雑骨折および内臓破裂。

 見られた状態ではないはずだ。さぞかし無残な様だろう。目も当てられないどころか、息も吸いたくないような有様に相違ない。ガキの説明を鵜呑みにすれば、轢死であり、圧迫死であり、即死だったのだろう。十八禁のシールでも張っておく必要があるほど凄惨な遺体に相違ない。

 だがどうにも、事故死ではなかったらしい。

 ガキは言った。

 あの事故が、事故ではなく故意に引き起こされた事件であると。

 オレは。

 巻き込まれたのか。

 それとも。

 巻き込んでしまったのか。

「現場からは、ジボージさんのほかにも、四名のかたがお亡くなりになられました。それぞれ別の成仏(シフト)案内人(ガイド)が担当しておりますね」

 おまえ以外にもガイドがいるのか、と感心したが、いや今はそれも瑣末な問題だ、と頭から振り払う。

 オレはシーソーに腰を下ろす。頼みもしないのに小娘がとぼとぼ付いてき、反対側に座った。肉体のないオレたちでも、シーソーは律儀に傾いた。ギッコンバッタン。ギッコンバッタン。幽霊らしくオレは浮遊感をシーソーで感じる。

 事故現場から見つかった遺体は五つだという。トラックの運転手一名。自動車の大学生三名。そして歩行者であるオレ。合わせて五名。あれが事件であったならば、当然犯人がいるわけで、むろん犯人にはなにかしらの目的があったはずだ。

 オレを殺すためにあの事故は引き起こされたのか、それともなにかほかに目的があり、偶然オレがそれに巻き込まれたのか。重要なのは、オレが巻き込まれたのか、それともオレがほかの死者四名を巻き添えにしちまったのか、という点にある。

 究極的には、オレと暮らしていたユレに危険が及ぶか否か。それが現状もっとも欲しい情報だった。

 オレが死んだならそれはいい。焼けクソだ。

 とにかくオレは、もう金輪際、これまでどおりに暮らすことはできなくなった。あいつらと――ユレとシグレと――接することができなくなった。

 それでも、ユレの暮らしを見守りたいと思えたし、ユレの人生に関わりたいと思った。支えたいだとか、好かれたいだとか、そんなことは思ったことがない。

 オレはただ、あのバカな女が自分勝手にオレに押しつけやがった少女――血の繋がりどころか、いっさいの縁もない少女を放っておけなくなった。ただそれだけだった。

 べつに好きなわけではない。ガキは苦手だ。煩わしいくらいであったし、不満だらけだった。施設へ預けようかと考えたこともあった。一度や二度ではない。窓から投げ捨ててやろうかと思ったこともある。だがユレは、オレなんかよりもよほど賢く、静かで、大人びた子どもだった。小憎らしく、小生意気に映ることもあったが、とにかくユレはまだ、ほんのちいさな子どもなのだ。

 どれだけしっかりしていようと、どれだけ聡かろうと、ユレはまだ一人では生きていけない。独りにしてはいけない。押せば曲がるし、曲げたら歪む。純粋だから柔軟で、柔軟だから軟弱で。濃い色をした毒気に、すぐ中られてしまうような。自己主張の激しい、暴力的で病的な邪悪に呑まれてしまうくらいに潔白な。誰かがまえに立ち、道なき道を先導切って盾となり歩んでやらねば、途端に傷だらけとなり、一度染まってしまったらなかなか落ちない穢れに付かれやすい、子どもという〝ちっぽけ〟な存在なのだ。

 まっさらなんだ。

 失ってしまったものが、もう二度と手に入らない、けれどもう一度その手に抱きたいと望みつづけているもので――だがもう二度と取り戻せない絶望そのものでもあって。そんな情け容赦のない現実の側面を、ユレはあの齢で痛烈に、強烈に、鮮明に、その身に刻みこんでしまっている。

 目頭が熱くなる。オレは、ジュルジュルと勢いよく鼻をすすり、のどを伸ばし、空を仰ぐ。曇天からは、北風が吹きこんでいる。

「おにいさん、だいじょうぶ?」上下に揺れていた視界が定まった。シーソーの対極にいた小娘が、覗きこむように声を掛けてくる。心配してくれるのか。おまえ、いいやつだな。オレは柄にもなく感動した。小娘は、どうしちゃったのさ、とさらに気遣った。「どうしちゃったのさ急に。空なんか見上げちゃって。なんか顔も変だよ。なに? くしゃみしたいの? だったらほら、太陽みなきゃ。太陽は、えっと。あ。出てないや」

「お嬢ちゃんな」オレは顔を伏せる。「すこしでいい。お願いだから黙っててくれないか」

 おいちゃん今な、センチメンタルなんだよ。


      (二)


 あの当時、ユレはまだ小学校にもあがっていなかった。年端もいかないユレに、染み入るような厭らしさで絶望が刻まれた顛末をオレは知っている。夜のように濃い影が、日の沈むようなゆったりさで忍び寄り、まだ少女ですらなかったユレを脅かした。

 そうだ。ユレは怯えていた。きっと今も怯えている。

 当事者でないにしろオレは、浅くはない関わりを持った。これはだから、あのバカ女の腹蔵を見抜けず、そしてユレに消えない絶望と、その絶望との葛藤を植え付けてしまったオレの懺悔であり、贖いなのだ。

 好きだとか、愛おしいだとか、嫌いだとか憎らしいだとか、そういった単純で直線的な感情ではなかった。オレが賢明に手放しまいと抱え込んでいるコレは、あのバカ女からの依頼であり、被害であり、自虐であり、当てつけであり、そしてひとつの幸福のかたちだった。

 しあわせだったのだとオレは知った。

 ユレとバカをやって、くだらないケンカをして、貶しあって、嫌いあって、さらけ出して、どうしようもなくなって……。オレたちはけっきょくお互いに刻み合った傷を舐め合うしかない、ただの餓鬼でしかなかった。

 そうだ、餓鬼でしかなかったのだ。愛に飢えた鬼。魂の抜け殻。

 傷を舐め合うために、寄り添うために、オレたちはささやかな日常のなかで、おだやかな変遷のなかで、とるにたらない言い争いを飽きもせず、諦めもせず、呆れることすらせずに、いつだって真剣に真っ向からぶつかりあってきた。

 大の大人が、いい歳をした男が、はるか年下の少女相手に本気で怒鳴り散らし、こてんぱんに言いくるめられ、ときには諭された。

 それをシグレが傍から眺めて、「滑稽だなぁ」と笑いやがる。

 これがオレのささやかな、けれどたしかな至福だったのだ。オレがオレの人生のなかで見出したたったひとつのしあわせだった。それはまばゆい光なんかではなく、この国のそこら中に溢れているような、なんの変哲もない、路肩に生えた雑草のようなもので。にも拘わらずオレにとってそれは、ある日突然に崩れてしまうような、マッチ棒で組み上げた塔のように歪で、他者に突っつかれたら即座に揺らいでしまうほどに心許ない、けれどだからこそ揺るがせたくのない、忘れたくもない、手放したくのない、ゆいいつだった。

 もしも。

 もしもオレが。

 もしもオレが事故に巻き込まれたのではなく。

 実は、殺されてしまっていたのだとしたら。

 あの事故が、仮初の事故だったとしたら。

 オレを抹殺するために仕掛けられた罠だったのだとしたならば。

 ――飼い馴らされた猫。

 オレはぞっとした。

 自分がもっとも危惧していた展開をすでに踏み越えていたことを想像し、幽霊のくせに背筋を凍らせた。

 オレは狩られてしまったのだろうか。仮にあれがオレを葬り去るための事故だったとして、果たしてそんな大それたことを仕出かす人間などいるだろうか。大掛かりな、単純なゆえに確実な、暗殺を実行する相手など。

 オレ一人を殺すために、ただそれだけのために、四名もの人間を、その命を犠牲にしたとでも言うのだろうか。

 あり得ない。

 しかしあり得ないと思わせてしまうからこそ、やる価値がある。

 まさかオレを殺すためだけに衝突事故などを引き起こす者がいるなどと誰が考えるだろうか。まさかカモフラージュのためだけに四名もの人間を殺すなどと、常識的には考えられない。だが、だからこそ意味がある。

 職業柄オレは知っている。たった一人の人間を殺すために、なんの躊躇もなくマンションごと吹っ飛ばすような人間がいることを。奴らは非情なのではなく誰よりも慈悲深い。だからこそ自らの非情を、善意として、ターゲットになんのゆかりもない女子どもを、弱者も強者も関係なく、その場にいたというだけで、十把一絡げに葬ることができる。殺すことが奴らにとっては救済なのだ。

 その無謀とも無情とも呼べる発想を奴らは、オレたちがバスや電車で席を譲るような感覚でやってのける。一人を殺すために、十人を犠牲にする。奴らにとってそれは、一人を救済するついでに十人を救ってやった、という解釈にすぎない。

 だが奴らは、自分が死ぬことを潔しとしない。なぜなら奴らにとって、生きることが贖いだからだ。奴らにも常識はある。それはオレたちが常識と呼ぶものとほとんど変わらない。奴らにとってみても、殺人は悪だ。しかし必要悪でもあると奴らは考える。悪であるからこそ、必要な殺人を、誰もしようとしない正義を、奴らは他人に代わって執行する。奴らは誰よりも慈悲深い。そして優しい類の人間だ。他人が嫌がることを率先して請け負い、実行する。死んだほうがよい人間を殺し、死にたがっている人間を殺してやる。すべては他人のため、みんなのために奴らは人を殺すのだ。

 だが殺人はしてはいけないことなのだ。いけないことをしたら、罰せられなくてはならない。奴らが死を避けるのには、そういった贖いとしての生への執着がある。自らを罰するために奴らは、誰よりも善行をする。つまり、人を殺しつづける。

 また、自らのルールで自らを律する奴らにとって、社会法によって裁かれる、というのは、よその宗教を信仰するような背徳感が付きまとうらしく、他人によって罰せられることを奴らは潔しとしない。

 奴らが自らの善意を、殺戮という行為を隠蔽しようとする背景には、そういった強い拘り、自分ルールが関わっている。

 繰り返しになるが、奴らは一人を殺すために十人を巻き添えにする。無関係な他人を巻き添えにする。奴らにとってそれは、悪であり、同時に正義なのだ。

 この考えを合理的な方法論として認め、あまつさえ実行に移してしまうような者が社会には紛れている。世知辛い世の中だが、皮肉なことに、そうした社会にしてしまったのは、ねつ造された善意を褒めたたえつづけたこの社会にある。善に潜む悪を見抜けない純粋無垢な子どもたちを量産してしまったこの社会は、今や、ただ穢(利用)されるだけの大人たちで埋め尽くされている。

 人身売買を生業とする組織は、そうした社会の影を、餌のように貪り巨大化した。

 組織を支えるのは、代行屋と呼ばれる違法行為の専門家だ。犯罪と呼ばれるありとあらゆる悪を、依頼者に代わり遂行する。彼らの多くは親を持たない。そうした子どもたちを組織が引き取り、育てている。善意のレッテルで覆われたその下では、代行屋としての教育が行われている。

 脅迫に恫喝、拉致に監禁、薬漬け。売春に美人局、強姦に殺人と請け負わない仕事はないと謳われるほど専門職は幅広い。代行屋は深い闇へとつづいている。

 この社会では仕事にならないことはない。誰もやりたくないこと、誰もやろうとしないことが、仕事として成立する。

 裏社会には二種類の人間がいる。

 力持ちと、金持ちだ。

 金持ちの家を、縁の下から力持ちが支える。この構図があるだけだ。勘違いしてはいけないが、支える側が主軸だ。親が子を支えるのは、どの社会でも同じである。金持ちは、ひとたび力持ちを失えば、即座に家が崩壊し、潰される運命にある。

 弱者と貧乏人は排他されるだけの存在だ。

 ユレの母親のときだってそうだった。

 表からしたら悪だとしても、裏からみればそれは善でしかない。また逆も然り。善が悪になることも往々にしてある。というよりも善と悪は表裏一体。どちらも同じものでしかなく、どちらも同じ表現でしかない。そこには視点と解釈があるだけなのだ。

 オレは嫌な記憶を思いだす。

      ***

 かれこれ六年前だ。春うららかな日だったのを覚えている。ユレはバカ女に抱かれてオレの事務所へやってきた。

「このコを預かってほしいの」女は開口一番そう言った。有無を言わさぬ気迫があり、オレはそれを、傲慢な人間に特有の高圧的態度だと勘違いした。

「いつまでですか」

 訊ねると、彼女は懐から封筒を取りだし、こちらへ向けて放った。「あたしがこのコを迎いに来るまで」

 受けとった封筒は、ぱんぱんだった。中身がすべて万札であったなら、ざっと二百万は入っている。臨時の子守にしては多すぎる額だ。

「まさか数カ月なんてことはないですよね」

 女は肩を竦め、「だから」とつっけんどんに、「あたしがこのコを迎いに来るまで」と繰り返した。

「あのなぁ」オレは呆れた。「今日から預かるのは問題ない。だが期限を決めてもらわにゃ、困るんだ」

「少ないならあとで払うから」

「そういう問題じゃないんだが」代金というものは少なすぎても多すぎてもダメなのだ。そのときは良くとものちのちに、オレの沽件に関わってくる。仮にひと月程度の子守だったなら、この代金では多すぎる。「具体的な期限を教えてもらいたい」

「だぁーかぁーらぁー」女は業を煮やしたように、「あたしが」と語気を荒らげ、「このコを」と足もとに縋りついていたガキを手前に押しだし、「迎いにくるまでだッて」

 駄々っ子のように地団太を踏んだ。

 答えになっていない。指弾するにも憚られる意固持のつよさが垣間見えた。

 そこからはなにをどのように質問しようが、「依頼を受けるの? 受けてくれないの?」どっちなの、と一点張りで、そんな母親を宥めるようにガキはオレのもとへと歩み寄ってきやがる。おかぁさんを責めないで、とねめつけるような眼差しが母親とそっくりだったのを覚えている。くい、と上げた顎は丸みがあって、まだまだ赤ん坊の面影を残していた。

 子守をするだけで長期的に糊口を凌げるとあれば、オレとしても旨い話であるから、できれば引き受けたい依頼ではあった。が、いかんせん依頼主がこう聞き分けがないのであっては引き受けようもない。

 オレはこのとき迷っていた。通常この種の依頼は、とくにこの流れというのは、「親が子を捨てる」という筋書きだと相場は決まっている。それがどうにも女の口にする「あたしが迎えに来るまで」という台詞には、断固とした決意のようなものが滲みでて聞こえた。おそらくウソではないのだろう。母親には迎えに来るつもりがある。ただそれがいつになるかが分からない。自分でも分からないことを、口から出まかせで言うようなことはしたくない。自分のガキがいる前で、ウソなど吐けない。だから女は、約束できる精一杯の条件を口にするしかない。オレは女の心理をそう推測した。

 ひとまずオレは依頼を引き受けることにした。長期の依頼となるなら、そのあいだにこの親子のことを調べてみるのも一興だと考えた。

 たとえ一時とはいえ、けっして短くはない期間を母と離れて暮らさねばならないガキと、そうしなくてはならない女の都合――ともすれば問題を、オレは穿鑿してやろうと思った。どうせ子守なんて面倒なうえに暇なのだ。だったらガキの面倒をみるついでに方々を回ってみればいい。それで厄介事の払拭が可能であるようだったら、改めて問題解決を依頼してもらおうと企んだ。どんなに逼迫した問題であろうとも、子守なんかよりはよほどオレに向いている。

 この女は頑固だ。見るからに、頑固だ。ここで、「おまえの抱えている問題を解決してやるから教えろ」と迫ったところで逆に反感を買うだけだろう。こんな辺鄙な便利屋に娘を預けに来るなど、よほど切羽詰まった状況なはずだのに。

 逆説的にそれは、余裕がないわけではないことを示しているのだろう、とオレは考えた。根拠などはなかったが、女の「絶対に迎えに来る」というつよい思いを信じた。この女がそう思えるほどにはまだ窮地ではないのだろう、と甘っちょろく考えていたのだ。

 なに暢気なことを言ってやがんだバカヤロー。

 結末を知っている現在のオレは、過去の自分をぶん殴りたくなる。

 けっきょく、女は死に、ガキが残った。女が迎えに来ることはなかったのだ。

 女の死は事件になることもなく、有耶無耶なままで社会の闇に埋もれた。掘りかえしてみたところで、出てくるのは真相という名の魍魎だけだ。首を突っこんだが最後、こちらまで引きずり込まれてしまうに相違ない。

 ふしぎなことに、女が死んだ直後、女の背負いこんでいた厄介事は、ぷっつりと途絶えた。オレは女が何者で、どうして死んだのかを知っている。オレがゆいいつユレに吐いているウソである。母が死んだことをオレはユレに教えたが、いっぽうでは母がなぜ死ななくてはならなかったのか、なぜ殺されなくてはならなかったのか。その真相を、その死が如何様に理不尽であったのかを言えずにいる。

「……どうして?」

 母の死を伝えたあの日、母とはもう二度と逢えない現実を諭したあの夜、黙ってオレの言葉を聞いていたユレは最後に一言だけつぶやいた。

 どうしておかあさんは死んでしまったの。

 ユレの瞳はそう訴えていた。

 言えるわけがなかった。おまえを産んでしまったがために、死ななければならなくなった女の話など――母のことなど。どうして言えるだろうか。

 今にして思えば、女があれだけつよく、「あたしが迎いに来るまで」と言い張っていたのは、自分がもう二度と娘に会えないのだと覚悟していたからに相違ない。端からあの女は、迎えにくるつもりなどなかったのだ。どうあってもオレに依頼を受けてもらうためにああ言うほかなかったのだ。一生このコの面倒を看てくれ、とどこの馬の骨とも分からない男に頼みに来たのだ。藁にも縋る思いだったのだろう。必死だったのだろう。

 もしかしたら誰かの紹介でオレのもとへやってきたのかもしれない。もしかしたらオレの素性、もとより前職を知っていたのかもしれない。どれも今になっては闇のなかだ。訊ねるべき人間がいない。

 いない?

 いや――、とオレは閃いた。

 あの女も死んだというのなら、今のオレと同じ状態――すなわち幽霊となっているのではないか。

「なあ」

 オレは面を上げる。

 シーソーのうえに立って、おっとっと、とやじろべいをやっているガキへ向け視線をそそぐ。「死んだ人間がどこにいるのか、分かったりしないか?」

「幽霊リストのご参照ですか? もちろん可能ですよ。ただし、そのときはジボージさんにもリストに載ってもらうことが条件となりますが、よろしいですか?」

「やめといたほうがいいよ」

 小娘が急に立ち上がったものだから、シーソーが傾いて、オレは板ごと尻を打ちつける。

「いてーなこのヤロウ」

「リストに載ると現在地まで常に把握されて、ほかの幽霊たちに筒抜けになっちゃうから」

「その言い方からすると、リスト見れんのは同じくリストに載ってるヤツだけってことか」

「そうだけど、どこの誰が自分のことを盗み見てるかってことまでは解んないんだよ」

「要するに、追われて困るような人間でなければ事実上問題ないわけだ?」

「そういう言い方もできないことはないけど」

「だったら構わねぇ。つーか今はなりふり構ってる場合じゃねぇんだよ」

「どういうこと?」

「おいガキンチョ」

 呼びかけるとガキは、食べ終えた柿の種の袋を逆さにし、残りかすを口のなかへ放り込んでいた。「はいはい。お決まりになられましたか?」

「ほっぺたにカス、ついてんぞ」

「こりゃ失敬」

「リストに載っていい。だからとある女を探してほしい。そいつも死んで、こっちに来てるはずなんだ」

 そこで俺はユレの母親の名を口にした。

「少々お待ちを」

 ガキは宙に舞う蝶を捕まえるような所作で両手を広げた。何もなかった空間に冊子が現れる。和紙だろうか、花柄の表紙で手のひら程度の厚さがある。

「おいくつでお亡くなりになられたかお分かりになられますか?」

 正確な年齢を知らなかったので、記憶にある見た目からだいたいの年齢を口にした。

「あいまいですね」非難するようにつぶやき、ガキは冊子をめくっていく。

 どういうわけか冊子は豪快にめくられても、厚さを変えない。背表紙に行き着くことなくめくられつづける。追いかけても追いかけても辿り着かない陽炎を思わせる。

「いないですね」

 やがてガキは冊子を閉じた。蚊を追い払うように手を振ると冊子は宙に溶けこむように消えた。

「いないってどういうことだ」

 いや、よくよく考えてもみれば、リストに登録した者しか閲覧できないということは、必然、登録されていない者もまた、少なからず存在しているということだ。そもそもリストに載っている者のほうが少ない可能性だってある。半ば詐欺ではないか。オレはそういった旨を、糾弾さながらに訴えた。

「ごもっともなご指摘ですが、ジボージさんの場合はその限りではございません」

「どういう意味だ」

「拝聴いたしましたお名前はたしかにリストに載っております」

「だったら」

「しかしすでにこの世から存在を消している、という意味でございます。いない、というのは文字通り、どこにも存在していない、という意味なのです」

「はぁ? オレたちゃ死人なんだろ? だったらどこに消えたってんだ」

 言いながらオレは、成仏の二文字を思い浮かべた。

 成仏。

 なるほど。

 ここではないどこかに行ってしまったということか。

「この方はすでにシフトされているのです」ガキは言った。「お亡くなりになられてから間もなくのことですね。あいにくとわたくちの担当ではないようなので、仔細をお聞かせすることはできないようですが」

「そうかよ」

 なんだ。

 もういねえのか。

 死んですぐに成仏したということは、オレが依頼を十全にこなしているってことも知らないままなのだ。立派にとまではいかないにしても、ユレをここまで育てあげたオレの六年間をあの女は見届けるどころか、垣間見ることなく死後、すぐにいなくなった。

 泣けてくる。

 なぜあの女がそうした選択をとったのかをオレは推し量ることができた。

 細かい差異を度外視すれば、あの女の陥っていた状況と、オレの陥っている現状はほぼ同じと言っていい。

 あの女は殺され、オレもまた殺された。

 オレたちを殺した何者かは、さらにオレたち周囲にいる者たちにもその魔の手を向けようとしている。

 ユレとシグレが危ない。

 坂黒猫病院にオレの死体は留置されているという。シグレにかかってきた電話は十中八九その病院からだろう。遺体の身元確認をするためシグレはユレを連れ、今まさにその病院内にいるはずだ。

「ちょっと、どこ行くの」

 走りだしたオレの背に、小娘がついてくる。アイススケートを思わせる走り方だ。宙を滑るように、一歩でこちらの十歩ほどの距離を移動する。

「おい、それ、どうやんだ」

 死んでいるのだから息が上がるはずもない。だのにハァハァと呼吸が乱れる。

「生前の癖が抜けないと無理」小娘はけんもほろろに突き放す。「まずは呼吸を忘れるところからはじめないと」

 そんな時間はない。さいわいにも病院の場所は知っている。ユレが小学校にあがる前に健康診断をしに行った病院だ。ここから走って三十分という距離にある。

「一つ、必死なおにぃさんにいいこと教えてあげる」

「なんだ」

「シノたちは幽霊なんだよ。実体がないわけ」

「だからなんだ」

「最短距離って知ってる?」

 なるほど。

 あたまのなかで地図を思い描く。自分の現在地と病院のある場所とを直線で結んだ。

「こっちか」

 保険会社のビルが目前に建っていたが、意に介さず突入する。正面玄関のよこにある壁を突き抜け、さらに壁を突き抜け、そうしてオレは病院までの最短距離を疾走する。

「やるねおにぃさん。ふつう、最初のひとは腰が引けちゃって、なかなか通ることができないんだよ」

 お褒めにあずかり、どうも。

 おじちゃん、ちょっぴりうれしいよ。

 なりふり構わず走っていると、しだいに呼吸が追いつかなくなってくる。知れず呼吸を忘れている。

 疲れ知らずの身体というのもそうわるいものではない。

 オレは初めて死んだことに感謝した。

      ***

 病院に着いたがシグレたちの姿はなかった。遺体安置所にも足を運んだが、じぶんの遺体を見つけることはできない。

「おいガキ、本当にここにオレの遺体があるんだろうな」

 呼びかけるが応答がない。

「置いてきちゃたみたいだね」小娘がひょこひょこと仕舞われている遺体を覗いて回る。「ここにはないっぽいよ。おにぃさんに似てる遺体が一つもないもの」

 すでに業者が遺体を持ち帰ったのかもしれない。

「ああ。お通夜、開かなきゃだもんね」

 それにしては手際が良すぎる。霊柩車をレンタルするにしたってもう少しかかるだろう。病院にしたところで、きょう事故にあった遺体をその日のうちに引き渡すものだろうか。

「おいシノ。あのガキンチョを呼びだせないか」

「名前を呼んでくれたのはうれしいけど、呼び捨て?」

「シノ先輩、あのオコチャマをお呼びする方法はないでしょうか」

「六十点。棒読みってのがなんかなぁ」

「頼む。急いでんだ」

「はいはい」

 ちょいと待っててね、と言い残しシノはこの場を離れた。連れてくる気だろうか。説明してから離れてほしい。

 時間が惜しいので病院内を片っ端から調べていく。ふだんよりも賑わって見える。いったい何人の幽霊がこの中に紛れているのか。壁をすり抜けて歩くが、とくに反応する者はない。

 最悪の事態を考える。こうしている間にもユレの背後に得体の知れない影が忍び寄っているかもしれない。果たしてオレはその影を蹴散らし、ユレを日常に押しとどめておくことができるだろうか。

 手遅れになっていないことを祈る。

 捨て身でユレを護りそうなシグレの頼りない背中を思う。無茶はしてくれるなよ。オレを葬り去るために四人の人間を巻き添えにするような輩だ。シグレもろともオレの身内を始末してもおかしくはない。

 まったくなんて依頼を受けちまったんだ。

 契約破棄の申し入れをする前に死んでしまったじぶんを呪う。まだ依頼主と呼ぶべきだろうか。あの男が資本家の私生活を暴けなどと酔狂な依頼を持ち込まなければこんなことにはならなかったのだ。

 隠し撮りした資本家の顔を思い浮かべ、そこでふと、歩を止めた。

 今ならば堂々とやつの身辺調査をすることが可能だ。

 オレを殺した野郎が、やつの背後にいる人身売買組織と繋がっているならば、こちらから仕掛けることが今の状態のオレには可能なのだ。

 ガキを迎えに行った小娘はまだ戻らない。しかし、今は一刻一秒を争う。

 オレは病院を飛びだした。

 

 手帳を取りだす。オレのこの状態が、世界に刻まれた記録であるならば、オレの記憶とは無関係に手帳にメモが記されているはずだ。案の定、手帳にはオレの調べた資本家の情報が仔細に記されたままになっている。残留思念とは言ったものだ。思念は記憶ではない。考え思うこと、或いは考え思ったことが思念となる。すなわち、オレが〈オレ〉として生きていたあいだにしてきたこと、考えたこと、憶えたことはすべて、思念として【こちら側】に残留している。ガキの言葉を借りれば、オレという音楽がCDに焼き増しされているといったところか。

 資本家の住まうマンションまでは電車で三十分ほどの距離がある。

 改札口を通ろうとすると機械が反応し、通せん坊をした。どうやら機械はオレたちに反応するようだ。

 

 資本家、睦里(むつり)米介(べいすけ)は留守だった。侵入したところまではよかったが、部屋を探しても売春組織に繋がるような証拠品は何も出てこないだろうと思われた。自宅に証拠を残すような愚か者が、資本家になれるほど経済界は甘くない。だが、女を買うからにはそれを使うための部屋が必要なはずだ。オレの調べでは、睦里はビジネスホテルによく宿泊していた。そこで一緒に入っていくのはどれも成人を迎えていそうな女ばかりで、法的に問題となり得るスクープではなかった。おそらくどこかほかの場所で、未成年者を買春し、未熟な肢体に野犬のようにむしゃぶりついているのだろう。生きていたときのオレにはその隠れ家を探し当てることができなかった。

 だが今ならそれも可能に思える。

 据え置き型のメディア端末を見つけ、起動させる。パスワードが必要だったが、市販のメディア端末ならばオレであってもいくらか、施錠を解くことができる。前職で培われたスキルが活きるようで、あまりよい気分はしない。

 端末の中身を漁ると、頻繁にアクセスしているサイトを見つけた。旅行代理店のようだが、聞かない名だ。一見、ただのホームページのように映るが、目ぼしいところにカーソルを揃えると、画面が数秒フリーズする。カーソルを動かすと元に戻るが、フリーズしているあいだにキーボードを叩くと、右上にアルファベットが並んでいく。裏サイトへの隠し扉だと察する。暗号が必要のようだが、このキィボードを使って打ち込まれた以上、その情報はこのメディア端末に記録されている。オレはメディア端末のハードディスクにアクセスし、正規のやり方ではない方法でここ最近でもっとも打ち込まれている単語を検索した。

 いくつかの固有名詞が並ぶなか、十文字程度の無作為なアルファベットと数字の羅列を見つけた。

 ビンゴだ。

 案の定、隠し扉に入力すると裏サイトに入ることができた。会員制のクラブであるということしか分からない。サイトを見ても全容を知られることがないようにとの配慮だろう。当たりを引いたようだ。警戒がつよいということは、それだけ知られては困ることをしているという事実を示唆している。

 十中八九、売春斡旋組織のサイトだ。

 住所など、手掛かりになりそうな情報を探すが、見つからない。サイトのアドレスも時間ごとに変更されるようだ。情報漏洩防止が徹底されている。

 オレはマンションを出て、その足で情報屋の家へ向かった。情報屋の持つメディア端末ならば、サーバにアクセスし、サイトを更新している人物の居場所を特定できるだろうと睨んでの行動だ。

 情報屋はエロサイトを閲覧中だった。無修正の動画で自身の分身を慰めている。オレはそれを見ないようにしながら、五台あるメディア端末のうちの一つを操作した。

 時間はかかったが、目的の情報を得ることができた。どうやら売春斡旋組織は、表向き印刷所を営んでいるようだ。確かに印刷所ならば、大量のメディア端末や、商品となる女たちの画像を大量に扱っていても不自然ではない。それこそ、風俗関係のチラシづくりを装うことも可能だ。

 場所は中心街からそう遠くない。電車を乗り継がずにいける距離だ。

 これ以上ないというくらい安全な立場から相手を追い詰めていくことのなんと気楽なことか。

 相手は、非力な者たちの弱みに付けこみ、背後から首を締め上げるような連中だ。同じく、背後から首を絞められても文句を挟む余地はないだろう。狩られるものの恐怖を、ぞんぶんに味あわせてやる。

 

 意外だったのは、印刷所に勤めている者の多くが女性であり、そして売春斡旋に手を染めている者たちもまた女性が多いという事実だった。

 かつて彼女たちも商品だったのだろうか。下賤な想像を働かせてしまうが、職業柄これは致し方ないことだ。誰へ向けての言い訳なのか分からない言い訳を並べながら、印刷所のなかを練り歩く。

 目当てはただ一つ、売春斡旋の裏にある、巨大な組織――人身売買組織についての手がかりだ。日本人の未成年もいないわけではないだろうが、年齢が低くなればなるほど、商品として手に入れることは難しくなる。だが海外ならば、二束三文の値段で女、子どもが売られている。中国に至っては、一人っ子政策の暗部とも言うべきか、ネットを介して、戸籍を持たない子どもたちが競売にかけられている。東南アジアでは誘拐など珍しくもない。売春宿で生まれた子供をじつの親が幼いころから稼ぎの道具として扱っているなど、ざらにある話だ。

 そうした子どもたちを日本に輸入し、飢えた日本人相手に商売をさせる。現地ではチョコレイト数枚分の値段で売り買いされる少年少女たちも、日本では相場の何百倍もの値段で取引される。

 まさしく金のなる木だ。

 売春組織の裏に人身売買組織があるのは、そうしたカラクリが働いているためだ。

 警察機構がなぜもっと腰を据えて摘発にとりかからないのかとふしぎでならなかった時期もあったが、睦里などの資本家が顧客になっている事実を鑑みれば、政府官僚が人身売買組織の跳梁に一枚噛んでいたとしても、さほど驚きはしない。

 印刷所の敷地に車が入ってくる。ワゴン車だ。幾人かの女たちが化粧を施した姿でワゴンに乗り込んでいく。仕事が終わったので送迎する、というわけでもなさそうだ。

 咄嗟の判断で荷台に潜り込む。ワゴン車はしずかに走りだす。

 車内での会話を耳にした。女たちはこれから客のもとへ送り届けられるようだ。見た感じでは成人した女たちのように映る。だが途中で車はとある養護施設へ入っていった。そこではまだあどけなさの残る少女たちが三人、そとに出て待っていた。誰が指示するでもなく、車に乗り込んでくる。ふたたびワゴン車は、夜の道路をひた走る。

 なるほど。国外から密入国させた孤児を養護施設で匿っているというわけだ。いや、戸籍は用意されているのだろう。国からの補助金で子どもたちを養い、裏では仕事をさせる。成長し施設をでてからは、印刷所の従業員として働かせる。或いは法律に抵触しない性的サービスを行う店に派遣する。権力者に贔屓にされた者はそのまま愛人として囲ってもらってもいいし、AV女優として売り出してもいい。捨てるところのないクジラを思わせるシステムだ。

 街はずれにあるラブホテルに到着した。女たちはワゴン車から降り、裏口からホテルのなかへ入っていく。運転手は残った。車を発進させることなく電話をはじめる。下っ端の構成員かと思ったが、電話の相手に指示をだしているところを鑑みるとどうもそういうわけではないらしい。

「そういうわけで、あとは頼んだ」

 通話が終えるか、という段になって男は、

「そうだ、例のドブ掃除はどうなった」と訊いた。「ああ、昼間の事故がそうか。盛大にやりすぎだと言っとけ。あ? いない? 仕上げって、ネズミは死んだんじゃねえのか。根こそぎ? あんまし派手なことすんなと言っとけ」

 推察するに、オレを殺した相手をこの男は知っているようだ。女たちを追ってホテルに入ろうかと思ったが、こちらの男についていたほうがよさそうだ。ワゴン車が走りだす。

 男は煙草を吹かしながら、ラジオから流れる歌に合わせて鼻歌を奏でている。

 男のメディア端末を手に取る。運転中の男は気づかない。というよりも幽霊であるオレの及ぼす現象は生きている者たちには、そのまま伝わるわけではない。不自然ではない程度の認識しかされない。目のまえで缶コーヒーが宙に浮いたとしても、それを認識することは彼らにはできないのだ。

 さきほど電話をするためにメディア端末を起動させたときの男の手元を見ていた。そのときのゆびの動きを覚えていたので、メディア端末のロックを解除するのは楽だった。

 記録されているログを片端から覗いていく。

 男は数日前に何者かへの依頼を発信している。テキストのなかに【ドブ掃除】というキーワードを見つける。さきほど男がしゃべっていた内容と一致する。ネズミを狩るための指示だ。この依頼を受けた者が事故にみせかけオレを殺したのか。登録名は【死神】とある。

 そして今、オレのたいせいつな者たちまでその死神の毒牙にかかろうとしている。

 オレは試しに電話をかけてみるが、発信音が聞こえた瞬間に途切れてしまう。文章を打って発信しようとしても、なぜか画面に反映されない。幽霊にもできることとできないことがあるらしい。こと生きている人間に関わることについては厳しい制約がかかっているようだ。考えてみればそれも当然だ。肉体がないのだ。音楽はどうがんばっても、演奏者を操ることはできない。風が文字を書けないように、オレの意思はすでに〝あちら側〟とは切り離された場所にある。ここはここであって、ここではない。重なっているだけで、同じ場所ではないのだ。

 メディア端末が着信を知らせた。ディスプレイには新着のメッセージが表示されている。既読マークがつかないことを不思議に思いながら、中身を改める。

『ドブの後始末を頼む。これより二本のパイプを水洗にて片づける』

 メッセージの発信者は、死神だ。男がドブ掃除を依頼した人物と同じである。

 鳴りだしたメディア端末が背後の座席にあることに気づいたようだ。運転席の男はこちらを振り向き、片眉を吊り上げた。

 

 林の中にひっそりと佇む工場がある。ススキが鬱蒼と茂っており、ここまでくるあいだもいくつかの看板が立ち入り禁止を主張していた。廃墟と化しているようだ。

 死神からのメッセージを見た男は、ワゴン車のなかで電話をかけた。相手が出るや否や怒号を飛ばし、好き勝手やりすぎなことを責め、尻ぬぐいは今回までだという意思を表明し、指示に従えないならダルマにしててめぇも豚どものタン壺にするぞ、と脅迫めいた言葉を紡いだ。相手は何も挟んでこないのか、「場所を言え、場所を」と要求する男に何事かを言った。

 男の運転するワゴン車が到着したのが、この廃墟の工場である。中心街から一時間ほどの距離だ。工場の敷地には霊柩車が一台止まっていた。

「どこだ、死神」

 工場に入るなり男は言った。反響する男の声が耳にかゆい。明かりはなく、割れた窓ガラスからかろうじて月光が差しこんでいる。

 返事はない。男は舌を打ち、工場の内部へ足を運んでいく。

 オレはここで男から離れ、独自に工場内を探索した。ユレたちがいるとしたらここだ。そうであってほしい。死神に拉致され、魂を吸われそうになっているユレのことを思い、胸が張り裂けそうになる。

 死んでもひとは幽霊になれる。

 生前と同じようにハンバーガーを頬張り、同族と会話し、ときには生きていたときに感じる煩わしさから解放され、自由気ままに生きることができる。

 解ってはいるが、それでも死んでほしくない、こちら側にきてほしくないと思うのはオレのエゴだろうか。

 これといった害はない。怪我をしなくなり、老いなくなり、やることなすことすべて自由だ。ゆいいつと言っていい欠点は、触れ合える仲間がすくないこと――生きている者たちに触れられないということだけで、社会にうんざりし、孤独を愛してやまない人間にとっては天国のような場所かもしれない。

 だがオレにはどうしてもユレにこちら側に来てほしいとは思えなかった。門をくぐるために払う代償が、あまりに大きく映るからだ。

 オレは一瞬で死んだ。しかしほかの者たちまでそうした死を迎えられるとは限らない。

 こんな暗がりに連れてこられ、いったいどれほど恐ろしい思いをしているか。どれほど理不尽な扱いを受けているのか。それを思うとオレは悪魔にでも何でもなってユレにそんな仕打ちをしている輩を根こそぎぶちのめしてやりたくなる。

 工場は広い。階段を昇り、天井付近から内部を見下ろす。大型の機械にまじって明かりが見えた。工場の先端部分、奥ばった場所に誰かいるようだ。

 ドラム缶に火が焚かれている。近くまで行くとユレが後ろ手に縛られた状態で横たわっていた。

 駆けより抱きあげようとするが、身体はユレをすり抜ける。シグレの姿がないことに気づき、嫌な予感が脳裏をよぎる。

「なんだまだ始末してねぇのかよ」

 男がやってくる。ワゴン車を運転していた男だ。ユレのまえにしゃがみ込み、

「なかなかの上玉じゃねぇか」

 下卑た目でユレを見下ろす。

 それから辺りを見回すようにし、

「ったくどこ行きやがったんだ」

 ユレをここへ連れてきた人間を探している様子だ。

 目を閉じているがユレは気を失っているわけではない。事務所へ帰るとよくこうして寝たふりをしていた。気づかないふりをして頭を撫で、胸に抱いて寝床までよく運んでやったものだ。ユレもユレで、オレがそのことに気づいていたと半ば見抜いていただろう。互いに知らぬ存ぜぬを通していた。

 たいせつな時間だったのだ。

 ユレが薄目を開け、男を視界に捉えた。まだ早い。寝たふりをしていろと忠告したかったが、伝える手段がない。いざというときのためにその辺に転がっている鉄パイプを手に握る。

 男がユレを残し遠ざかっていく。

 ユレは倒していた上半身を起こし、首を伸ばすようにして男の進んだほうを眺めた。

 オレはそのあいだにユレの手を縛っていた縄を解いてやる。しかし足には手錠がされ、支柱に繋がれていた。逃げることはできない。

 ユレはいつの間にか解けた縄をふしぎそうに見た。すぐに頭を切り替えたのか、床に転がっていたブロックを手にした。周辺には窓ガラスの破片が散乱している。月光の明かりを受けて鏡のように輝いている。ユレはブロックを手錠へ叩きつけていく。音が響く。だがユレにそれを気にする素振りはない。

 本物の手錠であるらしい。子どもがブロックを駆使したところで壊れる代物ではない。ユレはしだいに嗚咽を漏らしはじめた。手は止めない。ブロックがぶつかるたびに手錠が跳ね、ユレの足首を傷つけていく。赤擦れた肌からやがて血が流れはじめる。

 もうやめろ。

 止めたかったがオレにその術はない。ユレの必死さからは、この場から逃げ出したいという逃走本能よりもむしろ、今すぐ誰かをぶちのめしに行きたいというような闘争本能が垣間見えた。

 シグレはどこにいるのだろう。

 この場にいないことを不吉に思う。

 オレはいちどユレのもとを離れ、男の消えた方向へ歩を進める。

 

 話し声が聞こえる。聞き覚えのある声で、ワゴン車を運転していた男のものだ。もう一つは女の声だ。

「どういうつもりかは知らねぇが、あのガキはオレがもらっていく。文句は言いっこナシだ。病院からネズミの死体までかっさらってくるなんてどうかしてる。後始末はしてやる。言うことを聞け」

「ダメだ」

「ざけんな。死神は死神らしくただ言われたとおりの人間を殺してりゃいいんだ。余計な真似してんじゃねえ」

「勘違いをしているようだから言っておく。私は何もおまえたちのために仕事をしているわけではない。殺したいから殺している。相手は誰でもいい。金をくれるというのでおまえらの指示する人間を殺しているだけだ」

「あぁ? 何が言いてぇ」

「私に依頼をするのは構わない。だが命令はするな。邪魔ならおまえを殺したっていい」

「舐めたこと抜かしてっと殺すぞ」

「交渉決裂だな」

 言うや否や、男の首から不規則に液体が飛び散った。射精を思わせる勢いで二度、三度、と噴きあげる。男は首を押さえたが、尿漏れのように手の合間から液体がボタボタと滴り落ちる。

 男がその場に膝をつけ、うずくまる。男の背に隠れていた人影が露わになる。

 真上からの月光を受け、その人物はまるで女神のような神々しさでそこに立っていた。真っ白なワンピースのうえからデニムのジャケットを羽織っている。けっして細くはない足は、しかしその長さと相まって細く映えている。長髪がそよ風になびいている。水のようになめらかだ。女の顔は影になっていてよく見えない。

「やれやれ。嫌になる。バカなやつを相手にするとこれだから」

 さほど不満というほどでもなさそうに女はぼやいた。動かなくなった男を蹴って転がす。服を漁り、メディア端末を盗みとると懐に忍ばせた。さらに自分の端末を取りだし、電話を掛けた。

「今から邪魔するぞ」相手がでるや否や要件を告げた。「ちょいと調べてほしいもんがあってな。あ? バカ言うな、客としてに決まってんだろ。情報屋のおまえに会いに行くだけだ。はぁ? なんで謝らなきゃならない。私がわるいのか? おまえが私なんかいなくてもいいとか抜かすから私はこうしておまえの代わりを見つけてだな。あぁ? 当てつけだぁ? 笑かすな、なんで私がおまえごときを見返すためにそんな手間暇かけなきゃならんのよ。んだよ、文句あんなら言ってみろ。ほぅ。ふんふん。う……。ま、まぁ、そうだけど。うるせぇよ。わかった、わかった。確かにおまえが駆除したがってた連中だと知っていながら雇われた。だがそれが何だ? おまえにとって私はもう番犬でもなんでもない。そうだろ? なら私が誰に雇われようが。はぁ? 解雇した憶えはないだぁ? 借金も返さずにって、そりゃそうだけど、だって元はと言やおまえが……。あぁ、はいはい。解りましたよ。言われるまでもねぇ。どうせ根こそぎ駆除しなきゃならなくなったところだ。報酬はたんまり弾んでもらうからな。あいあい、言ってろ」

 一方的に通話を切り、女はメディア端末を仕舞った。

「んだよ、場所知ってんなら最初からそう言え」

 男から奪ったメディア端末を放り捨て、女はため息を吐いた。

「さて。こっちはどうするか」

 女が闇の奥へ目を向ける。

 ここにきてオレは遅まきながらこの空間にうめき声があることに気づいた。

「おまえ、私が戻ってくるまでここで生きてられるか」

 シグレだ。シグレが壁に張りつけられている。ダヴィンチの描いた「人体比例図」のような恰好だ。

「しばらくこのままで我慢してくれ。ちょいと野暮用ができたんで、片づけてくる。おとなしく待っててな」

 まるで恋人に触れるようなやわかな手つきでシグレの頬を撫でると女は、こちらに踵を返し、さらにユレにも同じことを言いつけ、工場のそとへ出て行った。

 シグレがもがいている。手には釘が打ちつけられ、キリストのようだ。身体には鎖が巻かれ、南京錠が嵌められている。釘を抜いてやることはできるが、それ以外の拘束を解くことは至難だ。さいあくの場合、出血死する可能性がある。今はまだ助けてやることができない。

 たとえシグレを自由にできたとしてもユレの手錠はどうすることもできない。

 ユレが歯を食いしばりながら手錠を引きちぎろうと足を真っ赤にさせている。

 オレにできることはないか。工場を彷徨い、斧か何かないかを探すが、目当てのものは見つからない。

 出て行った女があとどれくらいで戻ってくるのかは定かではない。ここで足止めしなかったのにはわけがある。通話を聞いていて察した。女は売春組織に敵対するつもりなのだ。ここで幹部らしき男を手にかけた。彼女の言うように、根こそぎやらなければ自分が消されるだろう。だから女はシグレたちを残し、出て行った。

 戦争をするために。

 時間はあるはずだ。

 すくなくとも数時間やそこらで戻ってくはずがない。戦争ともなれば何らかの結果が出るまでに数日はかかるだろう。ならばそのあいだはここを離れてもユレたちに危険は迫らないはずだ。いちどここを離れ、道具を揃えてこよう。それでユレたちを解放し、ここを脱する。

 それがいい、そうしよう。

 そう結論付けるまでに数刻を要した。

「ホントにここなんスか」

 工場のそとで男たちがワゴン車を囲んでいた。「車はある。GPSもここを示している。なんらかの用があってここに立ち寄ったんだろ」

 若い男が二人に、中年の男が一人。男の仲間だと判った。

 そう言えば、と思いだす。女が男のメディア端末を奪ったあと、それを工場内に捨てていた。端末に組み込まれた発信機を辿って仲間が探しに来たのだと察する。

 さいあくだ。

 いや、不幸中の幸いだとも言える。もしオレがもっと早くにここを離れていれば、ユレたちに迫る危険を知ることなく、最悪の事態を招いていたかもしれない。

 今ならばそれを防ぐことが可能だ。

 男たちは工場内へ踏み入り、そこでユレとシグレ、そして血の池に横たわる男の遺体を発見した。

「誰がこんなことを」

「おいガキ、てめぇがやったのか」

 そんなわけがないのに弱ったユレを男たちは責める。ユレは訥々と自分がここへ連れてこられた経緯を語り、それをしたのが一人の若い女だということを説明した。

「死神だ」中年の男が言った。

「でもなんでおやっさんを」

「あいつは殺し屋なんかじゃねぇ。生粋の殺人鬼よ。筋や道理を期待するほうが間違ってら」

「本部に連絡を」

 若い男の一人が電話を掛けるが、

「繋がんねぇ」

「なんだと」

「本部だけじゃねぇんです。支部も、部下の誰一人応答しないんで」

「まさかやられたわけじゃ」もう一人の若いのが弱音を吐いた。

「バカヤロー。アホ言ってねぇで、【楽園】のほうにも掛けてみろ」

「ダメです。誰も出ません」

「女たちもか」

「……はい」

 おそらく【楽園】とは印刷所のことだろう。もしくは養護施設か。いずれにせよ、そこにはもう生きている人間がいないのだ。

「おいガキ」中年の男がユレの頭を鷲掴みにし、「死神は――おめぇをここに連れてきた女はどこ行きやがった」と詰問した。

 ユレはまっすぐと男の目を見据えながら、野暮用を片づけたら戻ってくると言っていた、と話した。

「ここに戻ってくるってか。何のために」

 しばらく考えるふうに中年の男は黙り、それからユレとシグレの拘束された姿を見た。何かを納得したふうに頷き、「おめぇら」とこんどは若い二人に声を放った。

「道具、持ってきてるか」

「へい」

「死神退治だ。ここで待ち受ける」

「へ、へい」

「それからコイツらだが」

 言って中年の男はユレを見下ろし、

「さきにバラしとくぞ」

 顔から表情を消した。

 

 死神はガキどもを殺すために戻ってくる。ならその楽しみを奪ってやれ。そうすりゃ死神も動揺して隙を見せるだろうよ。

 中年の男はそう語り、できるだけ無残にバラしとけ、と若い二人に命じた。

 へい。

 唯々諾々と男たちは工場のそとへ出て、間もなく工具箱を抱えて戻ってきた。

「あの、若」

「なんだ」中年の男が応じる。

「バラす前に遊んじゃダメですかい」

「緊張感のないやっちゃな」足蹴にするものの、止める気はないようだ。「あんまし無茶すんなよ」

 若い男の一人がユレのまえでズボンのベルトを緩めていく。

 黙って見ていたオレだが、ここにきてようやく臍を固めた。

 こいつらを殺そう。

 死神をこいつらが殺してくれるものかと期待していたが、もはやそれも待てない状況だ。

 こいつらをここで殺し、死神も殺して、一件落着だ。

 簡単なことだ。何も悩むことはない。

 オレは鉄パイプを手に握る。

 パンツをおろし、ユレのまえでグロテスクなキノコをしごきはじめた男の頭を強打した。男はなおもしごきつづける。オレはつづけざまにペドフェリア野郎を袋叩きにするが、一向に男が死ぬ気配はない。

 なぜかは解らないが、オレの振るったパイプは、男の頭にその衝撃を伝えない。まるで薄い膜に護られているように男は平然とこちらからの攻撃を受けつづける。

 シノの言っていた幽霊三カ条を思いだす。

 第一条、原則、生者との接触はできない。

 すなわち、死者は生きている者に物理的攻撃を加えることができない。そういうことになる。ならばどうやって殺せばいいというのか。

 すくなくとも成仏案内人を自称するガキの言うことを信じるならば、死者は幽霊となりそして生きている者を殺すことで成仏するという。言い換えれば、死者は生きている者を殺せるはずなのだ。

 呪い殺せとでも言う気だろうか。試しにつよく呪ってみるが、男はグロテスクなキノコをタケノコへと変貌させ、それをおぞましいものを見るような目つきで見つめるユレの顔へ近づけていく。

 ぶちころすぞコノヤロー。

 殴りかかるが手ごたえはない。掴みかかるが、コケるだけだ。

 ユレの服に男の手がかかる。プレゼンとの包装紙を開けていくような丁寧な手つきだ。だがその目は血走り、口からよだれが垂れている。

 手も足もでないとはこのことだ。オレは吠えた。悔しさのあまり吠えた。じぶんの無力さに吠え、じぶんの愚かさに泣いた。

 神よ。いるならば答えよ。なぜコイツではなくオレを死なせ、ユレではなくオレに苦難を与えない。

 これではあまりに、あんまりだ。

 母を失くし、立ち直りかけた娘に対するそれがあんたのかける慈悲なのか。

 オレはユレに覆いかぶさり、この身をかけて護ろうとする。

 だがオレの身体はユレをすり抜け、そして唾棄すべき男の身体まですり抜ける。

 股を開かれたユレの下着に、男の汚いゆびが触れる。オレはただうめくことしかできない。

「おにいさん、なにしてんの」

 聞き覚えのある声に反射的に振り返る。唾棄すべき男の背後に、小娘の姿があった。

「シノ! おまえ!」

「あは。名前、憶えてくれたんだ」

「教えろ、オレにこいつの殺し方を教えやがれ」

 小娘に掴みかかり、オレは今まさに繰り広げられている悲劇を指差した。

「ありゃりゃ、こりゃなかなかの修羅場だね」

「いいから教えろ!」

「だってさ、ミヨ。出番だよ」

 闇の奥からガキがヒラヒラ現れる。何か口に含んでいるが、暗くてよく見えない。

「ジボージさん、よろしいのですか? 今ここで条件を満たしてしまうと、あとはもう成仏するだけになってしまいますよ」

「それでいい。こいつら始末できりゃあとのことはこいつに任せる」

 言ってオレは小娘を指差す。

「えぇぇ!? シノ? シノがなにするって?」

「わかりました。ぺこり」

 それではこちらをお使いください。

 ガキはくるりと回転し、その姿を巨大なカマに変身させた。まるで死神の使うような、巨大なカマだ。

「今回はこれかぁ」

 小娘のあげる感嘆の声からすると、ほかにも形態があるようだ。が、今は状況を吟味している場合ではない。オレは迷いなくカマを手にする。どういうわけか、説明されなくともそれを振り、相手の首を刎ねるだけで、相手を死に至らしめることができるのだと解った。

 オレはまず、ユレに覆いかぶさった男の首を刎ね、つぎに勢いをそのままに背後で傍観していた中年ともう一人の若い男の首を順々に落としていった。

 彼らの首が胴体から離れ、地面へと落ちる。なぜかは解らないが、彼らの肉体はそれを合図とするかのようにボロボロと崩れはじめた。あとには彼らの身につけていた衣服と、手に持っていた道具が地面に残った。

 オレはカマを手離し、ユレに駆け寄る。しかしこのときすでにオレの身体は、スルスルと解けるように形を崩しはじめていた。あたかも糸がほつれ、毛玉が削れていくように。

「オレはもう消えるのか」

「シフトするまでおよそ一分。言い残したいことがあるなら聞くだけ聞いたげる」

 小娘たちはおそらく、オレの登録した幽霊リストを参照してオレの現在地を知ったのだろう。リストに載ることに抵抗を示していた小娘がまさかオレのためにリストに載ったとは考えづらいが、そうでもなければここにたどり着いた説明はつかない。駆けつけるまでに時間がかかったのは、それこそ徒歩で向かうにはこの場所は人里離れすぎていたからだろう。それでもここまで来てくれたことを思えば、小娘の存外に甘すぎる性根に、胸がほくほくするのを感じた。

「頼む。オレが消えたあと、このコらを助けてやってくれ。向こうに青年が一人囚われてる。重症だ」

「幽霊にもできることとできないことがあるんだけど」

「あとすこし経てばここに殺人鬼が戻ってくる。このままだとコイツらは……」

「シノにそいつを殺せとでも?」

「いや」そこまで図々しいことを言うつもりはない。「それだとおまえが成仏しちまうんだろ」

「だったら」

「もう時間のようだ。頼んだぞ」

 オレは霞みだした視界を小娘から外し、ユレに向き直る。ユレは固く閉じていた瞼を解き、こわごわと目を開けた。

「おわかれだ。元気でな」

 届かぬ思いを言葉に籠めた。

 目のまえから消えた男たちの姿を探しているのか、ユレはしばし周囲に視線を巡らせ、それから何かに気づいたように目のまえに支軸を固定した。

「おじちゃん?」

 眉間にシワを寄せ、そこに見えるはずのない何かに目を凝らそうとする。

 オレは振りかえり、小娘を見遣った。彼女は手にライトを持っており、こちらを照らしている。ガキの姿はない。

「まあ、これくらいはね」

 サービスだと言いたげに小娘は片目をつぶった。

 ユレに向き直るが、すでに彼女に触れるための手は消えていた。

 声は届くだろうか。思いながら、もうそばにいられないこと、何かあったらシグレを頼ること、そしてしっかり前を向いて生きてほしい、というオレの我がままを告げた。

 生命保険には少なくない額入っている。貯蓄だってそれなりの額を残してある。いざとなればユレの面倒はシグレが看てくれるだろう。まっとうに生きていくだけの生活は保障されている。だから安心して生きろ、とオレは言った。聞こえているかは定かではない。

 ユレはこちらを、悩ましげに見つめている。

「ずっとおまえを見守っている」

 最後にオレは嘘を吐いた。母がなぜ死んだのかを黙っていたときのような小さな嘘だ。彼女は軽々と見破るだろう。それでもオレは言いたかった。

 ずっと見守っている。

 消える間際、ユレのそばに転がるガラスの破片に目がいき、そこに映る初老の男の姿を見た。それは驚いたような顔をし、それから何かを察したように頬をほころばせ、やがて首から順に消えていく。

 なるほど。

 ずっとじぶんに重ね見ていたらしい。

 オヤジの姿を。

 オレはずっと追いかけていた。

 ユレの口がゆっくりと動いた。見慣れない口の動きで、オレのことを呼んだ。




  【シフト⇒ガイド】END 



千物語「緑」おわり。

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