千物語「青」

千物語「青」


目次

【オタマジャクシのままでいたい】

・写真好きな女子中学生が殺人事件に巻き込まれて犯人と対峙する話。


【瞬久間弐徳の困憊】

・どんな事件でも三秒で解決する異端の探偵に助手が愛想を尽かす話。


【改悪∞白雪姫】

・あの白雪姫にも「裏」があった!?


【デブに真珠】

・仕事を放っぽりだして冬空のした、現実逃避する男。真夜中のベンチでお菓子をむさぼり食う、規格外にふっくらした超特盛娘。太っ腹なふたりが出会い、傷つき、成長しない物語。

==このデブ、底抜けのかわいさ==



【オタマジャクシのままでいたい】


 モンシロチョウが飛んでいて、あっいいな、って思ったから反射的にスマホのレンズを向けていた。動いている対象物を捉えるのはむつかしい。手ブレしないように綿毛になった気持ちで、シャッターマークをゆびさきで触れる。

 枠の中にモンシロチョウを収めたい。酔っ払いみたいにふらつきながら、あっちにレンズを、こっちにレンズをやっているうちに、数枚、ピントのあった画がとれた。

「やった」

 画面を確認して、いちばんキレイな写真をSNSにアップした。SNSは中学生になってからはじめた。歴で言うとそろそろ三年目に突入だ。

 写真のなかでは、羽を広げたモンシロチョウが川沿いの土手を背景に舞っている。わたしのすぐそばでは、赤ちゃんを乳母車に乗せているお姉さんがいて、しゃぼん玉を飛ばしている。写真のなかでも、透明なマルが点々とつづき、モンシロチョウの軌跡を描いている。

 満足気に歩を進めたら、誰かとぶつかった。

「あ、すみません」

 顔をあげると、強面のお兄さんが立っていた。

「す、すみませんでした」

 丁寧に言い直してみるものの、なぜわたしばかりが謝らなければならないのか。表情筋が死んでいくのがじぶんでも判った。

「今なにか撮ってましたよね、ちょっと見せてもらっていいですか」

「なんでですか」

「すぐ済みます。確認するだけですから」

 パンツを見せろと言われているわけでもないのに、そう言われるのと同じくらいの嫌悪感が湧いた。

「肖像権くらい知ってますよね」

 わたしが渋るからか、お兄さんは言った。「間違って映っていたら嫌なので」

 言われてはっとする。モンシロチョウにばかり気を取られていたが、位置的にお兄さんが映りこんでいてもおかしくはなかった。

「そんなはずないと思うんですけど」

 まずはじぶんで確認してみる。SNSを開き、さきほどアップしたばかりの写真を見た。

 映っていた。

 見切れてはいるものの、はじっこのほうに、シャボン玉と重なるようにしてお兄さんの頭が映っている。

「どうだった」

 お兄さんが顔を寄せてくる。「見せて」

「いやー、ちょっとお待ちください」

 スマホを遠ざけ、時間をかせぐ。

 まちがいなく消される。

 わたしが、ではない。

 せっかく得られた奇跡の一枚が、ナンクセまがいの脅しに屈して消されてしまう。ボサボサの頭のひとつやふたつ、いいではないか。

 思いながらも、わたしだったらイヤだなとそこはすなおに認めたい。

 念のため、SNSにアップしなかったほうの写真を数枚確認してみるも、うち一枚にはがっつしお兄さんが映りこんでいた。全身から顔から、まるっとクッキリだ。仮にお兄さんが失踪してもこの画像さえあれば数日でお縄ちょうだい確実に思えた。

 ちゃっかりお兄さんを犯罪者扱いしつつ、手に汗を握る。わたしは是が非でも写真を死守したい。

 くだんの画像には百件を超えるリツイートがついていた。こんな好機は滅多にない。いまなお拡散の嵐は勢力を増している。

「映ってませんでしたよ」

 わたしは満面の笑みで応じた。お兄さんは微笑みかえした。「わかりやすいコでよかった」

 スマホを取り上げられてしまう。

「あーっ!」

 声を張りあげると、そばにいた赤ちゃん連れのお姉さんがようやくしゃぼん玉を飛ばす手を止め、こちらを向いた。わたしはゆびさきを指揮棒にして振り、お兄さんとじぶんの手を交互に示す。そうしてスマホ盗られたんですけどジェスチャーをしたが、お姉さんにはうまく伝わらなかった。

 困った顔で、うふふと頬に手を添えられてしまう。かわええなくそー。

「返してください」つま先立ちをして、お兄さんの顔のまえに手を伸ばす。

「そうしたいんだけど、んっ、んっ? これどうやって消すの」

「消しちゃ、めー!」

 お兄さんの腕ごとスマホを押さえにかかる。

「わかった、わかったから」

 思いのほか呆気なくお兄さんはスマホを解放してくれた。びっくりしたなぁ、などと頭を掻いている。それから思いだしたように、

「乱暴にしてごめんね」

 謝ってくれたのはよいけれど、

「こっちのはホントにちょっとしか映ってないんです、すっごいイイヤツなんです消すなんてもったいないんです!」

「んー」

「こっちの、こっちのやつは消しますから」

 言って全身バッチリ画像のほうを表示させてから、削除ボタンを浮かべる。画面を差し向け、お兄さんのゆびでそれを押してもらった。

「それで」

 こわごわ顔色を窺う。「やっぱりこっちもですか……」

「まあ、それくらいなら」

「やった」

「変わり身がはやい」

「えへへ、つぎからは気をつけますんで」

「泣き落としが成功してやったぜー、みたいなこともネットに書いちゃダメだからね」

「書きませんよ」

 ホントは書こうと思っていた。絶好のネタが使えないなんて、そんなの無駄でイヤな時間をただ過ごしただけだ。損しかない。

「うーん」

 お兄さんはむつかしい顔をした。それから背負っていたリュックを地面に下ろす。チャックを開け、中から民族っぽい紋様の包みを取りだした。

「こわがらせちゃったから、はい」

「なんですこれ」

「遠慮するよりさきに中身を訊くんだね」

「玉手箱だったらイヤじゃないですか」

「老けてもきみみたいなコなら、かわいいままだからだいじょうぶだよきっと」

「童顔のままってことですか、ヤダー」

「オランダのお菓子でね」

 お兄さんは言った。「美味しいから食べてみて。親御さんにも、どうぞって」

「もらっていいんですか」

「言うことをきいてくれたお利口さんにご褒美」

「ガキンチョあつかい……」

「写真を撮るときはもうすこし周囲に気を払ってね」

「お兄さんはでも、すこし過剰な気がします」

「わけがあるんだよ、ごめんね。じゃ」

 リュックを背負いなおし、お兄さんはわたしのよこを抜け、川沿いをさかのぼっていく。

 わたしはその背にスマホのレンズを重ねる。画面のなかに大きなリュックが映っている。

 旅行帰りなのかな。

 思いながらもけっきょくシャッターボタンは押さなかった。

 家に帰ってから母に、オランダのお菓子を渡した。

「どうしたのこれ」

「知らないひとからもらった」

「へー」

 母が迷いのない手つきでゴミ箱にそれを投げ入れた。

 わたしはぽかーんとする。

 無言でお菓子を救いだしに歩くと、せっかく拾いあげたそれを母はまたもやイチもニもなく、ゴミ箱に捨てた。「なんてことするの!?」

「そんなものをもらってきてはダメよ」

「正論ではあるけれど!」

 せめて中身を見てからにしてほしい。

 中身の無事をたしかめがてらつつみを剥がす。フタを開けると、大小さまざまなクッキーが詰まっていた。

「あら、美味しそう」

 母はひとつ摘まみ、さっそく頬張った。「あら美味しい」

 わたしはフタをし、箱ごとお菓子をとおざける。「もう食べちゃダメ、あげない」

「いいじゃない、毒味、毒味」

「おかあさん!」

「おっきなお声」

 おどけて煙にまかれるのは毎度のことだ。わたしはリビングを出ていこうとする。

「知らないひとってどんな?」

 母の声が聞こえたが、無視した。

 ベッドによこになり、スマホを操作する。知り合いからのLINEがひっきりなしに届いている。主としてSNSでのあの写真についてだ。確認してみると、リツイートが一万件を超えていた。ハートマークはさらに倍ちかい。

「はひゃー」

 脳内麻薬が分泌される音を、耳の奥でどくどく聞いた。

 翌日の学校では、わたしはスターだった。さらに翌日になると誰もわたしの話題を口にしない。ただ日常に戻っただけならよいのだけれど、なぜだか敢えてわたしを目立たせないようにしようとする勢力がクラスどころか学年全土に蔓延していた。

 ぐうぜん撮れた写真ごときで一躍スターになってしまっては、常日頃スターたらんとあくせく努力を積み重ねているがんばり屋さんたちの立つ瀬がない。

 それを面目丸つぶれと言い換えてもいい。

 つぶしたのはわたしだ。

 なるほど。

 まあいい。

 学校でのわたしの立場なぞ、SNS上での奇跡の一枚をあがめる数々の称賛の声に比べれば月とスッポンだ。

「すっぽんってなんだろう」

 気になったのでスマホで検索してみた。「なんだー?」

 卑猥なカメが出てきおった。

 ホントにいるの? こんなのが?

 ほげーと口を開けながら歩きスマホしていたら、下校途中だったこともあり、またぞろ人とぶつかった。

「こら」

 叱られてしまう。

「ごめんなさい、気をつけます」

「このあいだもそう言ってなかった? 反省するのが得意なんだね」

「うお」

 変な声がでた。オランダお菓子のお兄さんが立っていた。強面なのは変わらないが、もはやお菓子の印象がつよすぎる。

「歩きスマホ、よくないよ」

「お兄さんは不審者さんなんですか?」

「えー、そう見える?」

「母が知らないひとからああいうのはもらっちゃダメって」

「あ、怒られちゃった?」

「でも美味しいって言ってましたよ」

 ありがとうございますと腰を折って、ちゃっかり話題を変えてみる。

「親御さんの言うことが正しい。つぎからはそうだね、たとえぼくみたいなのからでも食べ物をもらうのはよくないかもしれない、親から禁じられていますのでって、断ってね。つぎがあったら」

「はい。つぎがあれば」

 しばらくお兄さんはモジモジした。

「あの、まだ何か?」

「あー、いや、ううん、なんでもない。じゃあね、また」

「あ、はい。え?」

 また?

 またってなにさ。

 お兄さんは川をさかのぼる方向、わたしがいましがた来た道に去っていった。

 それからというもの、お兄さんはちょくちょくわたしのまえに姿を現わした。場所は川沿いの一本道で、視界は拓けているはずなのに、なぜかいつも気配なく現れる。わたしからさきにお兄さんを見つけたことはない。

「妖怪だったりしません? 妖怪、トツゼンアラワレール」

「なんだか全身がキレイになりそうな名前だね」

「トツゼン、アライグマにアラワレール」

「もはや飼育員だね」

「お兄さんはきっとトモダチがいないんだね。こんな会話、わたしじゃなきゃついてけないよ」

「まるできみにはトモダチがいるみたいに聞こえる」

「おりますが?」

 お兄さんのあたたかーい眼差しが、なぜかわたしを虚仮にする。

「ちがいます、いるんです、たくさん。いっしょにしないでください」

「はは。早口」

 私は歩く速度を落とす。お兄さんはすこしさきで立ち止まった。「どうしたの?」

「わたしはいましばらくここでこのかわいらしい花をセンスある構図で写真に収める作業に集中します。不審者さんはどうぞおさきに」

「トモダチを置いてはいけないよ」

 しゃがみこんだわたしのよこにお兄さんは立って、こちらの手元を覗きこむようにした。「写真、趣味なんだ?」

「まあ仕事みたいなものですね」わたしは図にのった。

「じつはぼくも写真が好きでね」

「ふうん」

 絶対零度の語調で突き離す。興味ないんですが、の塊だ。

「まあ、うん。今はいっか」

「集中できないので離れてもらっていいですか」

「いいの?」

「はい?」

「まあ、いいならいいんだけど」

 お兄さんが離れる。するとどうだろう、画面のなかで理想的だった構図ががらりとその色合いを変えた。

「ん? ん?」

「足元の小物を撮るときはじぶんの影を利用して光量を調節するといいよ。それから地面に影があったほうがコントラストが強調されて、スマホのレンズだときれいに映る」

「うお、ホントだ」

 お兄さんが元の位置に納まると、画面のなかにはふたたび理想的な構図が浮きあがった。

「もうすこし下に構えてごらん。そう、小人になったつもりで」

 三角形を意識して。

 フレームにぜんぶを収めようとしない。

 見せたいものは敢えて中心に置かないのも一つだよ。

 お兄さんの指示に従うというよりも、画面のなかの理想的な構図を追い求めていくと偶然、お兄さんの指示と合致していく。途中からお兄さんは口を挟まなくなった。花だけでなくわたしは、石や、捨てられた空き缶のなかから顔を覗かせるテントウムシを撮った。

「すごい、すごい。こんなにたくさんイイの撮れちゃった」

「ほくほく顔だね」

「宝物拾ったみたい、うれしい」

 わたしはさっそくSNSに投稿する。一気に放出したかったが、毎日一個ずつ更新したほうがもらえる評価が一作品に集中するので、ストックしておくことにした。

 ふと思い立ち、

「お兄さんは?」

 SNSにアカウントはないのか、と訊いたつもりだ。

「あるけど教えない」

「なんでよ」

「フォローされても困るしね」

「鍵かけてる?」

「かけてるのもあるかな」

「裏アカだ」

「プライベート用のと分けててね」

「ストーカー用の、の間違いではなくて?」

 何気なくからかっただけの言葉に、お兄さんはぎこちなく、

「そういう使い道もあるね」

 冗談めかし、応じた。

 テーマを決めるといいらしい。ネットの記事で、SNSを利用するなら一貫性を持たせた投稿をすると人気がでやすいとあった。写真を投稿するという一貫性だけではなんだか頼りない気がし、だからわたしは撮影場所をあの川沿いの一帯に限定することにした。季節によって風景の色合いががらりと様変わりするし、不法投棄も未だにあとを絶たず、被写体に困ることはない。

「限定しすぎじゃない?」お兄さんにイチャモンをつけられた。「もっといろいろ撮って、今は可能性の幅を広げる時期だと思うよ」

「お兄さん、仕事してるの?」

「なんだい急に」

「可能性の幅を広げたほうがいいのはお兄さんのほうじゃないの」

「これはまた鋭い毒を」

「正論でしょ? どんなことでも選択肢は多く残しておいたほうがいいんだ」

「いいことを言うねぇ」

「いいことしかわたしは言わない」

「でも今の名言はそのままきみにも当てはまるんだけれど、それはいいの? 撮る場所を限定するのは選択肢を狭めることにはならない?」

「しまった」

 わたしはあたまを抱える。「罠だった」

「仕掛けた憶えはないけどね」

「じゃあ、不審者でいていいよ」

 とくべつだよ、と足元の小石を蹴る。

「いやな譲歩だ」

 わたしはそっとスマホのレンズをお兄さんに向けた。お兄さんは川向こうの、うえのほうにある夕焼けを眺めている。

 きれいなあごのラインだなぁ。

 思ったつぎの瞬間にはシャッターボタンを押していた。写真をとりましたよーの音が鳴る。

「あ、こら」

「だいじょうぶだよ、しっかりブレたから」

「なんの言いわけにもなってないよ消して」

「もう消した」

「ホントに? 見せて」

「あ、そう言えば学校でさ」

 わたしはきょう、昼間に先生からされた話をお兄さんにした。「そういうわけで女の子が行方不明なんだって。半年前にもひとりいなくなってて、不審者には気をつけましょうって」

「そうだね」

 お兄さんはまた夕陽のほうに目を逸らした。顔に陰が差し、感情が消えたように映った。「気をつけたほうがいい」

 わたしはぞっとした。ぞっとしてから、お兄さんの顔から消えたのは感情だけではないような気がして、その今にも消えてしまいそうな表情を写真に残したくなった。

 スマホの音はどうやったら消えるだろう。

 わたしはそんなことを考えだし、この日はあまりいい写真が撮れなかったこともあり、早々にお兄さんとバイバイをした。

 お風呂でワキのしたを洗っているときに、はたとひらめいた。

 スマホでないカメラなら音は鳴らない。

 ばたばたと身体を洗い、せかせかと身体を拭っていそぎ母のいるリビングに出向いた。

「お母さーん」

「ダメ」

「まだ何も言ってないですけど」

「十中八九、いまの甘ったるい音程は何かをねだるときのだったね」母はTV画面から顔を逸らすことなく、ソファから手だけを振ってみせた。「音程の高さから言って、値段の張るものをご所望とみた」

 さすがわたしの母である。

 そこはしかしわたしだ、だてに彼女の娘をやっていない。

「半額じぶんでだすからさぁ」

「聞くだけ聞くけど、いくらカンパすればいいわけ」

「んー。デジカメ欲しいんだけどいくらぐらいするかなー」

「ピンキリ」

「じゃあ中くらいのやつ」

「四万くらいのでいいの」

「そんなにすんの!?」

「あんたいくらの買うつもりだったの」

「いやだって、撮るだけだよ写真。一万ちょっとくらいかなぁって」

「あるにはあるけど、だったらスマホでいいじゃない」

「そうなんだけどね」

 煮えきらない態度に見兼ねたのか母はTV画面から目を離し、

「そんなに欲しいわけ?」

 こちらを向く。きたぞきたぞ。期待値の高そうなセリフだ。

「欲しい、欲しい」

「だいじにする?」

「します、します」

「なら買ってあげないでもない」

「やったー、ありがとー」

「その代わり」

 でたよ、とわたしは身構える。世の親たちがこぞってやりたがる交換条件だ。ご褒美をあげるから何かをやらせる――一見教育的だけれども、ご褒美がないと努力できないコンコンチキを量産する仕掛けを伴っている。いつになったらおとなたちはそれに気づくのか。わたしは途端にけだるくなる。

「その代わり、なんでしょう」

「撮った写真、お母さんにも見せること」

「あれ、そんなんでいいの?」わたしは拍子抜けする。

「いいよ。でもちゃんと全部見せること。隠したりはなし。いい?」

「あ、はい」

 なるほど。

 わたしは母がなにを気にしているのかを見抜いてしまった。札束を積まれたってじぶんのヌードなんか撮りやしない。口に出して確認するほど野暮ではなく、だからわたしは、

「ヤダって言っても見せるから」

 作品審査委員長の権限を与えてさしあげた。「ちゃんと感想聞かせてよ」

「はいはい。あらやだ」母はTVの音量を大きくした。

「どうしたの」

「発見されたみたい」

「なにが?」

 わたしは首を伸ばすようにして、ソファに座る母のあたまの向こう側、TV画面を見遣った。

「女の子」

 母は言った。「行方不明になってた」

 翌日、学校では近所の女児が殺された話題でにぎわった。この地区の中学生の半数は、その女児の通っていた小学校の出だ。

「私も知った子でね」

 帰りのホームルームで先生が言った。「むかし受けもった子の妹さん。家庭訪問で会ったことがあって。まだ赤ちゃんだったけど、ハイハイしてて、抱っこさせてもらって」先生の眉間がやわらかくなってから、きゅっと縮まり、深いしわが浮かんだ。「本当に悔しいし、ざんねんだし、こんな思いはもうしたくない。みんなもよく気をつけて、不審者を見かけたら、どんな些細なことでも身近なおとなに報告すること」

 先生は淡々と告げた。不審者はけっして不審なかっこうや、素振りをしているわけではない、信用できそうなおとなであっても知らないひとに付いていってはダメ。ふだんはオチャラケた先生なだけに、わたしたちはみな一様に背筋を伸ばして話を聞いた。

 帰りはできるだけ一人で帰らないこと。

 言いつけられたとおり、途中まではわたしもほかのクラスメイトの子たちといっしょだった。わたしの家は学区と学区の境にある。もし境を越えて向こう側の学区だったら、わたしは今より近い、家を出れば十分で辿り着ける中学校に通えるはずだった。神さまはいじわるだと相場は決まっているので、わたしは毎日四十分もかけて、無駄に遠いほうの学校に通っている。

 チリンチリン。

 自転車のベルが聞こえた。わたしはとっさに道の端に寄る。頬に風がぶつかる。自転車はすこしさきで止まった。

「きょうも一人なの? 学校でなにか言われなかった?」

 不審者のお兄さんだった。

「なにかって?」

「集団下校とか」

「ああ」

「中学校はしないのかなぁ」

 小学校はしていたのに、と見てきたようにお兄さんは言った。「危ないからきょうはぼくが送ってく」

「不審者には付いてったらダメだって先生が」

「きみがぼくに付いてくるんじゃない、ぼくがきみに付いていくんだ」

「ストーカーならいいの?」

「よくないけど、一人は危ない」

「そんなこと言って、うしろからブスリとか」

「しないとは言い切れない」

 お兄さんの神妙な顔つきがおかしかった。

「なら警戒しておこう」手に持っていたカバンをわたしは背中に背負うようにした。

「スマホはある?」お兄さんがとなりに立った。自転車を引いて歩いている。

 どうせなら乗せてくれたらいいのに。

 思いながら、

「あるけど?」

 カバンからスマホを取りだす。

「家のひとに連絡して」

「なんて?」

「不審者の、けれど顔見知りの男に家まで送ってもらってるって」

「え、いいの?」

「それからちゃんと、家に帰ってからも、そのことをちゃんと報告すること。なんだったらぼくもきみの親御さんに挨拶しておきたい」

「お兄さん、捕まっちゃわない?」

 本気で心配してあげたのに、お兄さんときたら無言でわたしの頬をつねった。不平を鳴らすよりさきにわたしはねめつけてみせる。

「忘れないほうがいいと思う。わたしが叫んだらお兄さんの人生は一巻の終わりだってこと」

「せめて五巻までは出したかったなぁ、打ちきりかぁ」

 言いながらお兄さんは辺りを見回すようにした。

   *

 家には誰もいなかった。

 お兄さんには玄関口で帰ってもらった。親がいない旨を伝えたときのお兄さんの顔、緊張した面持ちがゆるゆるとほどけていくさまが、お兄さんの内面、その臆病さ加減を示しているみたいでおかしかった。

 母が帰ってきたのでわたしはさっそくお兄さんの言いつけをまもった。

「というわけで、きょうはオランダのお菓子のひとと帰ってきた」

「だいじょうぶなの、そのひと」

 母は包丁をまな板に叩きつけるのをやめた。

「だいじょうぶじゃなかったら今ここにあなたの娘はいないよね」

「いないね。でも、身元も分からないひとでしょ? やっぱり危ないとお母さんは思う」

「何がわかったら安心する?」

 不審者のレッテルをいつまでも貼り付けているのはさすがにかわいそうに思えた。

「名前は基本だね」

 母はトントンを再開する。「あと、年齢、職業、勤務先。でもいちばん重要なのは、どこに住んでいるのか」

「住所を聞けばいいってこと?」

「それを訊いて、ちゃんと答えてくれて、そしてその答えがちゃんと合ってたら、まあ、信用はできなくとも、不審者扱いはしないであげましょ」

「なんて言いぐさ」

 我が母親ながら人間性がゆがんで映る。

「でもホントにそうだよ。だいじな娘をまもってくれる王子様――そんな風にはぜんぜん思えない」

「王子さまにはそうだね、見えないかなぁ」

「あと、いちばん重要なのはね」

「なに」

「お母さん、男を見る目がないの」

「だから?」

「あなたは誰の娘?」

「おとうさんのですけど?」

「そ。見る目のない女の選んだ男のね」

「なにか勘違いをされている気がする」

 晩ごはんよりさきにわたしはお風呂に入ることにした。きょうはなんだか料理の手伝いをする気にはなれない。居間を出ていこうと、ドアノブを掴んだところで母に名前を呼ばれた。振り返ると髪が鼻をかすめ、そろそろ切りたいな、と思う。

「なに」

「さいきん浮かない顔してるけど、ほんとうにだいじょうぶ?」

「太ったって言いたいの?」

「どうして?」

「プールにも浮かなそうな顔ってことでしょ」

「寒い。三点」

 軽口を叩きあいながらも、母はこちらに何かを測るような目をそそいでいる。気に入らない。

 負けじときゅうりの漬物をつまみ食いすると、行儀がわるいと叱られた。

「だっておいしいんだもん」

「うそ、どれ」

 あん、と開かれた母の口にきゅうりを運ぶ。内心、できた娘だ、と自賛する。

 風呂に浸かりながら、わたしは防水加工したスマホをいじる。

 さいきん浮かない顔してるけど。

 母はそう言った。

 表情にだしまいと思えば思うほど、それはふとした瞬間ににじみ出てしまうものなのだろう。スマホの画面に目を落とす。SNSのわたしのアカウントだ。日々投稿しつづけている写真には平均で数個のリツイートがつく。稀に百件を超すこともある、基本的にはでもこの程度だ。奇跡の一枚から以降、フォロワー数は増えた。いっぽうで、それによりわたしの写真が称賛の嵐に晒されるかというと、そういう傾向はみられない。

「なんじゃい」

 わたしは嘆く。リツイートの低さについてではない。

 さいきんになって、とみに多くなったイチャモンまがいのDMである。いわゆるクソリプだ。ブロックしても同じ人物だろうか、アカウントを消さないとひどいことになるぞと脅してくる。いちどだけ真摯に対応しようと思って返信したことがある。公共の場に適さない写真があれば運営のほうに通報すればいいと、ラチの開かない応酬にうんざりしてそのようにまとめた。わたしがミュート指定するよりさきに相手はほとんど脅迫まがいの言葉を残し、アカウントごと消えた。

 それで終わりではなく、写真を投稿するたびに、ちがうアカウントから脅しまがいの乱暴な言葉が届くようになった。同一人物だろう。

 相手は、わたしを理不尽になじりたいだけなのだ。

 そう思ってからはいっさい触れず、見なかったフリをしつづけてきた。

 けれどきょうの昼休み、食堂でご飯を食べながら気づいた。いつものクソリプに写真が付与されている。当てつけにキレイな写真でも添えてくれたのかな。好意的に解釈しようとしたじぶんを殴ってやりたい、添付された画像を見た瞬間、背筋が凍った。

 学校だ。

 わたしの通っている、まさにそのときそこにいた校舎が映しだされていた。目を疑いたくなるのは、ご丁寧にも写真の端に、きょうの日付けとアカウントの名前が記されたメモがいっしょに映っている点だ。時刻は不明だ。明るさからいって午前中、まさにわたしが学校にいるあいだに、すぐそばにまでそいつはやってきていた。

 一万匹のイモムシが身体を埋め尽くしていく、そんな感覚があった。

 クラスメイトたちは殺された女児の話題で、こわいね、こわいこわい、と身を寄せ合っているのをしり目に、わたしはこの胸に湧いた大量のイモムシを誰にも打ち明けることができなかった。

 アカウントを消してしまおうか。

 写真はべつのアカウントでまた新しく投稿すればいい。今回はすこし場所を限定しすぎた。つぎからは撮る場所も題材も変えよう。色合いとか、その日の星占いのラッキーアイテムとか、なんでもいいから何かしらテーマを決めればおもしろそうだ。

 考えていると、なんだかイモムシたちもどことなく愛嬌のある姿に変わった。ハラペコあおむしとわたしは唱えている。

 冷静になって、なぜわたしの居場所がバレたのかを考える。

 写真を投稿するようになる前はふつうに文字だけの投稿もしていた。履歴をさかのぼれば、写真の投稿者が女子中学生だと特定するのはむつかしい作業ではない。地元の人間なら写真を見ただけで、それがどこで撮られたものかも判るはずだ。

 けれど誰が撮ったかまでは特定しようもない。

 だからこそ、脅しの写真は学校だったのだ。自宅だったらさすがのわたしも親に相談したし、警察にだって通報した。

 でもいまはまだその段階ではない。

 さいきんお肉がついてきたなぁ。

 下腹部のお肉をつまみながら、わたしはそう判断し、湯船からあがった。

 朝起きると母が何やら慌ただしそうにしていた。何かあったのかと訊ねると、行方不明になっていたもう一人の女の子が遺体で発見されたそうだ。

「どうやって発見されたの? このあいだのと同じ?」

「さあ。同一犯の犯行か、なんてTVじゃ言ってるけど」

「連続殺人だ」

「うれしそうにしないの」

「うれしくなんてないよ」

「じゃあなに」

「なにってなにさ」

「まあヤな態度」

 わたしはむっとする。「喧嘩売ってきたのそっちじゃん、ちがうって言ってるのに」

「そうだよね、うれしくないよね、ざんねんだもん。ごめんね」

 うなだれた母を無視しながら、母の用意してくれた目玉焼きをついばんだ。

 わたしは考える。

 殺人者の大半は、その殺人を犯す前は一般人だったはずだ。ちょっとしたきっかけで人生を踏み外してしまった、わたしたちとなんら変わらない人間だったのだ。

 同時に、大部分ではないほうの殺人者たちは、殺人を犯す前からわたしたちとはどうあっても混じりあえない社会の異物なのだ。

 差別的な考えだって判ってる。

 でも、客観的な事実として、わたしたちと彼らとのあいだには一線を画す、常識の質のちがいがある。

 わたしたちにとっての常識が通用しない人たちがいて、わたしたちはその人たちの常識を受け止めきれない。

 善悪を抜きにして考えれば、わたしたちと彼らは本質的に同じであり、性質がたがえているだけであり、水と油のようなものだ。どちらも液体であることに異議はなく、また、熱した油に水を垂らせばたいへんなことになる。逆もまた然りであり、海に油が溢れたらそこの生態系は目も当てられない参事に見舞われる。

 どちらが善で、どちらが悪ではない。どちからすれば都合がよく、どちらからすれば都合がわるい。これはきっとそういう話だ。

 けれど、基盤となっているのは明らかにわたしたちの社会だ。油はそれ単体で液体として自然界には存在しない。水の恵みを得て生きながらえるわたしたちという存在がいてはじめて油は油として抽出され得る。

 だから。

 それゆえに。

 どちらがどちらに依存し、寄生しているのか。

 構図を考えれば、わたしたちは彼らを支えているが、彼らはわたしたちから一方的に平和を奪っている、搾取している、汚染している。

 そう考えても間違いではない。

 わたしは、わたしに送られてきた数々のクソリプを思いだし、

 わたしの平穏はそれにより汚染されたのだ。

 勃然と降って湧いた怒りにわなないた。

「なにぷるぷるしてんの。そんなに美味しかった?」

 母がわたしの目玉焼きを摘まみ、口に放った。「うん。そこまでじゃない」

 目じりにシワの寄る母の顔を見て、わたしのすさんだ思考はたくさんのシャボン玉となって散った。

   *

 しゃぼん玉が散っている。

 学校帰りにいつもとはちがう帰り道を通った。最終的に一人になるわたしを見兼ねてか、集団下校中にほかの面々が言いだしたのだ。

 いつもと同じ道は危ないよ、きょうはちがう道のほうがいいんじゃない。

 言われてみたらそんな気もした。

 言われるがままに、いつもとは反対の道、対岸を歩いた。川を隔てただけで道の伸びる方向は同じだ。平行線でありながら、それでも数十メートルずれただけで見える風景は異世界だ。

 思わず写真を撮りたくなった。

 なったつぎの瞬間にはスマホのカメラを向けている。

 しゃぼん玉が散っている。

 子犬を連れたお姉さんが川に向かってふうとやっていた。お姉さんは、わたしの歩いている道から川沿いの土手へと数メートル下りている。むかしはよく父と、この斜面を利用してソリをして遊んだ。日曜日になると休日のカップルが日向ぼっこをしている。たまに最新式の未確認飛行物体を飛ばしている大学生集団の姿もある。いまは、さきに行きたそうにしている子犬をリードで繋いだまま、お姉さんが煙草を吹かすみたいに、無数の穴ぼこをそらに空けていた。

「好きなんですか」

 写真を撮っていいかの承諾を得るために声をかけた。「しゃぼん玉」

「こんにちは」

 お姉さんは言った。小首をかしげている。スマホの検索欄を擬人化したらきっと同じ顔になる。あなたの欲しいのはこの情報ですか、それともこっちの二千件の候補のうちのどれかですか、といった具合だ。

「まちがってたらすみません、たしか前にもここで」

「あら、あのときの?」

 憶えていたらしい。お姉さんはしゃぼん玉セットをちいさなカバンに仕舞った。子犬を抱きかかえると、

 きょうはお兄さんはいっしょじゃないの。

 言って周囲をきょろきょろした。「きょうだいでしょ?」

 まさか恋人ではないもんね、とお姉さんは本気かジョークか判断に困る言葉を並べた。

「両方ちがいます、他人です」

「でもときどき見かけるよ。いっしょにいるの、同じお兄さんよね」

「あー」

 見られていたのか。

 焦ってから、焦ることはないのでは?

 じぶんに言い聞かし、唾を呑みこむ。

「ときどき会うんです。家が近所なのでそれで」

「ああ」

 子犬の首筋を撫でながらお姉さんは、

「中学生?」

 矢継ぎ早に質問を放つ。なかなか突飛な思考回路をお持ちのようだ。わたしはかろうじてその脈絡のなさに付いていく。

「はい。ことし三年です」

「じゃあ来年は高校生だ」

「どこに受験しようか迷い中です」ホントは今年になって初めて受験と口にした。なんなら産まれて初めてかもしれない。

「この辺は進学校多いもんね」

「中高一貫のところが大半ですからわたしは無縁ですな」

「ですな?」

「無縁です」

 言い直したが、お姉さんは時間差で噴きだした。たんぽぽがパッと綿毛になって散ったような笑みだ。

「ふふ。おもしろいね」

「なにがですか」

「名前、聞いてみてもいい? もしよかったらだけど」

「わるいときがあるんですか?」

 返事がある前にわたしは名乗った。するとお姉さんが口に馴染ませるように繰り返し、いい名前ね、かわいい、と褒めてくれた。

「お姉さんのことはなんて呼べばいいですか」

「私? 私はそのままでいいよ。きょうだいいなくて。私がだよ。妹にお姉ちゃんって呼ばれるのが夢だったの」

「妹なんですかわたし?」

「妹ではないけど、だったらステキだなとは思うよ」

 ホントだよ、と念を押すみたいにお姉さんは眉毛を持ちあげた。イチイチ仕草がきゅーちくるだな、おい。

「そういえばこのあいだの赤ちゃんは」わたしはお姉さんの背後を意味もなく覗き込むようにした。

「置いてきたよ」

「おばぁちゃまに?」

「あ、ちがうちがう」

 手を振ったお姉さんの手に指輪ははまっていなかった。「妹の娘でね。だから姪っ子ってことになるんだけど」

「ああ」

「だから私もヒツゼンテキにおばちゃんになっちゃうんだけど」

 いやだなぁ、と零したお姉さんの言い方がほんとうに嫌そうだったので笑ってしまった。

「あ、そうだ。写真撮らせてほしいなと思って」

 思いだし、わたしは言った。スマホを取りだすと、

「写真?」お姉さんはむつかしい顔をした。「お化粧してないからきょうは、うーん」

「顔は映さないようにしますので」

「あ、しゃぼん玉が撮りたかった?」

「そうです、そうです」

「趣味なの?」

 言いながらお姉さんはカバンからしゃぼん玉セットを引っぱりだす。「あ、そっか。このあいだも写真を撮ってたんだね、あ、それですこし言い合いになってたんだ?」

 なかなか頭の回転のはやいお姉さんだ。わたしは頷きながら、スマホの画面に目を落とす。

「画になるなぁ」わたしはうっとりした。

「やだ、顔はダメだよ」

「お姉さんはちょっぴり自意識さんが過剰くんな気がします」

 からかうとお姉さんは、もう、と言って膨れた。

 思わずその顔を撮ってしまいたくなる。取って食べてしまいたくなる。なんだったらこの顔と交換したいくらいだ。

 だいだい色に焼けたそらに大小さまざまなひと連なりの穴ぼこを空け、お姉さんは終末のラッパを吹く天使みたいにやわらかな髪の毛をなびかせている。

 画になるなぁ。

 もういちどつぶやき、シャッターボタンを押した。

 暗くなる前に家に着いた。母はまだ帰ってきていない。きょうはなんだか食事の用意をしてあげたい気分だった。

 ニンジン、じゃがいも、たまねぎと素材を包丁で切り分けていく。固いやつほどちいさく、やぁかいのほど大きくそろえる。お肉を鍋底でいためながら、えいえいとなんだか弱い者いじめをしている気分になりながら、わたしは帰り際のことを思いだしている。

 向こう岸、いつもの道をお兄さんらしき人影が歩いていた。歩き方だけでそれがお兄さんだと判るくらいの洞察力を身に着けてしまったのだなぁ。やるせなく思いつつ、お兄さんが乳母車を押しているのが気になった。

 お兄さんの子供と考えるにはなんだかすこし腑に落ちなかった。それを気に喰わなかったと言い換えてもそう的は外していないが、なんだかそれを認めるのは癪だった。

 こっち見ないかな。

 立ちどまって眺めていたが、ついぞお兄さんはこちらに気づかなかった。

 母が帰ってきたのでいっしょにご飯を食べた。せっかくつくったシチューを母はチビチビと口元に運んだ。疲れているのか言葉数すくなだった。

「おいしくない?」

「おいしいよ。ありがとう」

 なんかへんだ。わたしはずばり見抜いてしまった。疲れているだけなら、いつもはここで職場の愚痴が用意ドンのかけ声を放ってダッシュする。ゴールテープをこちらで引かないかぎりそれはつづく。こよいはけれど、ピストルの音がいっこうに鳴りひびく気配がない。

「何かあったの?」

「あったよー」

 応答のあとの言葉がない。しばらく待ったが、母はそのまま自分の分の食器を台所に運んだ。食器洗い機にぶちこみ、

 ごめんきょうはもう寝るわ、おやすみー。

 洗面所へと去っていく。化粧を落としたらそのまま寝るみたいだ。引きとめる手もあったけれど、黙って見送った。言いたくないことを聞きだしたいと思えるほどこちらも、こころに余裕のある生活を送っていない。

 TVをつける。ニュースステーションを観た。

 ワイドショーの焼き増しじみた番組で、食器洗い機がわたしの分の食器まできれいにし終えるころには、女児殺害事件の最新情報を流していた。内容は主として番組が独自に調査したもののようだ。この町であった事件なのに、こうしてTVを通すだけで途端に他人事になる。

 たいへんだなぁ、かわいそうに、のそれだ。

 それではつぎにまいりましょう、とキャスターが言ったのを合図に、わたしはリモコンを手に取った。「世界中の珍しい生き物を撮ることで有名なカメラマンの話題です」

 画面が切り替わる前に、電源ボタンを押した。

   *

 クラスの男子どもは割かしワクワクしていたように見受けられた。わたしにはとうてい推し量れない心境だ。どうしてそういうふうに娯楽として見做せるのだろう――この戸惑いはけれど、何かしら特別できれいな感情ではなくて、うまく処理しきれていないだけだ。わたしがひと際おとなじみていることとは関係がない。

 寝床にくるまる。明かりを消したところで、

 あ、そうだ、寝る前につくっとこ。

 新しいアカウントを作成すべくわたしはスマホを操作した。

 以前のアカウントはそのままに別名義で登録する。写真専用のSNSもあるにはあるのだが、そちらは競争相手が多すぎる。雑多な用途に溢れた従来のSNSを引きつづき用いることにした。

 新規のアカウントでは、ふだん物理世界で繋がる学校のひとたちを極力回避した。ネット内の顔も素性もわからない相手、それは軒並みSNS内ではA級のフォロワー数を誇る選ばれしネット戦士たちなのだけれど、彼らを好んでフォローした。

「よしよし」

 手始めにまず、きょうの分の写真を投稿した。フォロワーはまだ十人とすくない。すこしずつ増えていくことを祈ろう。

 わたしはスマホを充電器に置き、ようやく目を閉じた。

 朝、スマホのアラームを止めがてら、SNSを確認した。夜に投稿した写真の反響具合を確かめたかった。片手のゆびで数えられるほどのリツイート数だ。

 まあこんなもんかな。

 リツイートしてくれた人をフォローしておこうと思った。アカウント先に飛び、フォローするのボタンをタップしていく。もちろん危ない人はフォローないし、したくない。どんな文章をつぶやいているのか、確認しながらの作業だ。

「ん?」

 一つのアカウントに目が留まった。フォロー数一人、フォロワー数ゼロだ。登録日もわたしより若く、まだ一言しかつぶやかれていない。

 ――しつこい汚れは根こそぎに。

 写真が添付されていた。胸が苦しくなる。みぞおちの奥にとつぜんボーリングの玉が現れたみたいだ。

「なんで……」

 川沿いの土手を、女子中学生が歩いている。ほかに映っているものはない。手前に川が流れている。反対側の道から盗られたものだと判断ついた。一目瞭然だ、わたしだった。進路方向、それから背後の焼けたそらの具合から、帰宅路であり、それがいつも通るほうの道ではないことが推して知れた。

 めったに通らないほうの道だ。直近では、そう、きのうしか通っていない。

 そこまで考えてからぞっとした。

 いたのだ。

 きのう。

 待ち伏せされていた?

 偶然わたしは反対側の道を歩いた、だから鉢合わせしなかった?

 いや、いつもわたしはお兄さんといっしょだった。たいがい、わたしが独りになるときにお兄さんは現れる。だからここ数日、この写真を撮った人物はわたしに接触できなかった?

 ちがう、そうじゃない。

 わたしはもっとも合理的な考えを浮かべ、しかしそれを頭のなかで振り払った。じっさいにかぶりを振り、いきおいをつけてベッドから飛び降りる。

「ちがう、そんなんじゃない」

 なぜこうまでしてあんな不審者を庇うような考えを巡らすのか。疑ってかかるのが身のためだ。思いつつも、どうしてもわたしには、あのお兄さんがわたしの胸のなかをイモムシのテーマパークにするとは思えないのだった。

 学校に行くと、朝一で集会があった。全校生徒が体育館に移動し、そこで校長先生から長ったらしい話を聞いた。主として、さいきん多発している殺人事件についてだ。

「一つの事件でもたいへん心を痛めてしまうのに、立てつづけに二件目の事件がありました。亡くなった方はみなさんと歳のちかい未来ある子どもたちです。犯人はまだ捕まっていません。不審者の目撃談も聞かれます。校長先生ふくめ、みなさんの安全を守るために、きょうから毎日朝と夕方、みなさんの帰宅路に立ってみなさんの無事を保障しようと思います。こわい事件が多いですが、みなさんは今までと変わらず、好きなことで笑い、つらいことは友達に相談し、困ったことがあったら身近なおとなに打ち明けて、解決の糸口をいっしょに探していきましょう。だいじょうぶです。みなさんの無事は保障します。誰にも傷つけはさせません」

 校長先生はそれから、この週の土曜日と日曜日に緊急の集会を、わたしたちの親向けに開く旨も語った。だいじな子供たちを預かる学校としてでき得るかぎりの安全を確立しようと懸命になっている姿は、なんだかすこしうっとうしく、それでもやっぱり頼もしく映った。

 だから。

 その日のお昼休みに、わたしたち生徒の情報ネットワークに走ったニュースは、学校への不信感を募らせるのには充分だった。

「聞いた? また殺されたんだって」「こんどは若い女の人でしょ」「学生じゃないんだ?」「なんだかそのひとの赤ちゃんも行方不明なんだって」「遺体のそばにいなかったってこと?」「ハイハイで逃げたんじゃないの?」「乳児だって話だったよ」「ハイハイで逃げたって……遺体のそばとかそういうこと言わないでよ」

 こわい、やだ、きゃー。

 口頭、電波、授業中の手紙、媒体の種類のいかんを問わず、動揺は動揺を呼び、男子だけでなくいよいよ女子たちまでもが高揚めいた様相を呈しはじめた。

「わからないわけじゃないんだよね、だってそうやってお祭りごとにしなきゃ不安で押しつぶされそうなんだもん」

「そうかもしれないね」

 放課後、わたしはいつもの帰宅路を通り、いつもの場所でお兄さんと会った。お兄さんはわたしを待っていたようだった。手持ち無沙汰にスマホをいじりながら突っ立っていた。わたしと目があった途端に、まだ距離があるというのに、手をあげて、やあ、と口元をほころばした。

「やあじゃないよ、よく補導されないでいられたもんだ」

「職質は受けたよ、三回」

「三回も? それでどうしてまだ立っていられるの? 警察はなにをしているんだろう、無能なのかなぁ」

「辛辣だなぁ」

 お兄さんは目じりのあたりをゆびでポリポリした。

「お母さんがお兄さんの住所訊いてこいって」わたしはいまさらのように思いだし、告げた。「ウソを言ったり、ごまかしたりしたらもう会うなって」

「正しい選択だ」

「で、どこに住んでるの」

「その前に一つだけ確認していいかな」

「なに」

「どうしてアカウントを変えたんだ」

 わたしたちのよこを小学生の集団がわーと駆けていった。カラスの群れがそらを渡っている。

「変えたってなんのことだろう」

 なんとかそれだけを口にした。口にしてから、へたくそか、となんだか分からないけれど後悔した。最新式の未確認飛行物体だろうか、カラスの群れのした、一つだけ不自然な飛び方をしている物体があった。

「写真を投稿していたろ、どうしてわざわざちがうアカウントにした」

「どうしてお兄さんは怒っているのだろう」

「ごまかさないほうがいい、きみのために言っている」

「なんだかわたし、泣きそうなのだけれども」

「こわがらせてすまない、でも、きみの応答しだいではこのさき、ぼくのすべきことが大きく変わる」

「できれば変わってほしくないのだけれども」

「なぜ変えたんだ、いいから答えてほしい」

「ぐすん」

 泣きまいとすればするほど、胸のなかにイモムシが百匹単位で増えていく。増えたその分、涙が目から押しだされる。

「ぼくの家はそこを下りたところにある。ここじゃなんだし、中で話そう」

 やさしく背に添えられた手が、異様にぶきみで、汚らしいものに感じられた。

 母の忠告をもっとはやくに聞いていればよかった。

 なぜ警戒心をゆるめたりしたのだ。

 叫ぼうとしても声帯を震わせる方法を忘れてしまった。

 声ってどうやったら出るんだっけ。

 問うじぶんの所在がまずグラグラと覚束ない。夢のなかにいるようだ。じぶんの身に起きていることのように思えない。反面、身体からはかつてないほどの汗が噴きだしている。

「こんにちは、きょうはいっしょなんだね」

 背後から声をかけられた。背中からお兄さんの手のぬくもりが消える。わたしたちは住宅街のほうに下りる階段のほうを向いており、背後には川と地続きの土手がある。

 お姉さんはその土手のほうから、このあいだの子犬を抱えて現れた。

「はじめまして、わたしもこのあいだこのコとオトモダチになって」お姉さんは自己紹介もなしにお兄さんへと微笑み、それからわたしを見下ろすようにすると、あら、と目をぱちくりさせた。

「きょうは元気がないの? ひょっとして体調わるい?」

 渡りに船とはこのことか。

 無駄にむつかしい言葉を使って、わたしは脳内で飛び跳ねた。

「そうなんです、じつはアレでして」

「アレ?」

「おんなのこの」

「あー」

 そこでお姉さんはお兄さんのほうへといっしゅん目を遣った。それから何かを心得たような顔つきで、

「ならちょっといっしょにいい?」

 お兄さんとのあいだに割って入り、こちらの背に手を添えた。労わるような手つきが、全身からチカラを吸いとっていく。その場にへなへなと座り込みたくなった気持ちに鞭打ち、わたしは、

「じゃあそういうことなんで」

 お兄さんのほうを見ずに、足を動かした。お兄さんは何かを言ったかもしれないし、何も言わなかったかもしれない。わたしはずっと地面を見て歩いた。

 しばらく道なりに進んだ。川沿いの土手で、どんどん川の幅が広くなっていく。わたしの家はもうずっと後方だ。

 どこまで行くんだろ、そろそろいいんじゃないかな。

 お姉さんが気をきかせてわたしをあの場から連れ去ってくれた旨は理解している。いくどか感謝の言葉と、もうだいじょうだよの言葉を並べたのだけれど、お姉さんはやさしい笑みをくれるだけだった。

 ひょっとして自宅に案内しようとしているのかもしれない。とっさに吐いたわたしの嘘を信じてしまっている可能性もないとは言い切れない。

「あの、ホントにありがとうございました。さっきの生理の話、あれ、ウソなんです。伝わってるとは思うんですけど、あの、それで、えっと」

 助けてくれてありがとうございました。

 わたしは歩を止め、腰を折ろうとした。

 折れなかった。

 お姉さんがわたしの手をぎゅっと掴んで離さない。足を踏ん張るどころの話ではない。

「あの、手、手が痛いです」

 掴まれている腕のところ、ひじのちょと上のあたりが痛かった。二の腕のちょっと下で、お姉さんのゆびが軽々輪を描く。手錠みたいだ。

「お姉さん……?」

 返事がない。今まさに沈もうとしている夕陽の余韻が、お姉さんの横顔を真っ黒に塗りつぶしている。間もなく、周囲はその真っ黒に侵食された。お姉さんから闇が染みでいる、そう感じた。

「こっち」

「もう帰ります、離してください」

「こっちって言った」

 お姉さんの顔は闇の中にあって、それだけが異質だ。ぽっかりと深淵が口を開けている。

「散々したじゃない、ちゅ、ちゅ、忠告」

 どうして言うことを聞かないの、人間のくせに。

 人間のくせに、人間のくせに。

 お姉さんは繰りかえした。

 川に何か投げ込んだように見えた。それが何であるのかの区別はつかなかった。

 あたまの奥がシンと静まりかえっている。混乱のきざしがない、ただ静かだ。

 呼吸を浅くしているじぶんに気づく。息を殺す必要はないはずなのに、呼吸や足音、身体の立てるあらゆる雑音を消し去ろうとしている。まるでそうすることで相手が油断してくれるのだと期待するみたいに。

 そう、わたしはいま期待している。

 何かをすればしただけ何かしらの恩赦を受けられる、無垢な子どもだってさっこん、そんな努力神話を信じない。

 それでも抱かずにはいられない。祈らずには、とそれを言い換えてみてもいい。

 祈るためには負の感情が欠かせない。

 欠けているものが、欠かせない。

 希望がないから期待する。からっぽを埋めようとひとはする。だからわたしは期待する。

 しかし適わないから祈るのだ。

 ならば、祈りはおおむね実現しないと呼べるのでは。

 ラチが明かないし、隙もあかない。

 体格差から言うまでもなく、わたしの身なりでお姉さんを振りほどくのはむつかしい。やってやれないことはないけれど、怪我を負う未来がちょちょいのちょいと想像つく。すれ違うひとがいてくれてもいいようなものを、ひと気のない道を選んでいるのか、野良猫いっぴき見当たらない。

 気づくとわたしは見慣れない住宅街のなかにいた。半ば引きずられるようにして歩いている。犬の散歩みたいだなとじぶんを星の視点から眺めて思い、そこでふとお姉さんが手ぶらなことに気がついた。

 あれ、犬、どこいった?

 そう言えばお姉さん、川に何か投げこんでいたなぁ。

 思いだしては、それとわたしとを天秤にかけ、わたしを選んでくれたお姉さんには何かしら感謝しなければならないのではないかとなぜか感じた。

 一軒家のまえにくる。お姉さんは迷いのない足取りで玄関口に立った。鍵を開ける。和風の家で、よこにスライドさせる型の扉だった。

「入って。そのままでいい」

 靴を脱ごうとしたわたしを制して、お姉さんはようやくわたしを解放してくれた。けれど、解放されたはずの両腕はなぜか背中側に回ったままで、動かせない。

 いつの間にか両の手首を縛られていた。感触からしてプラスチック製の輪っかだと判る。

「奥」

 行けということかな。

 廊下のデンキが点き、わたしはまえに進んだ。突きあたりの戸を開けろと指示があり、言われたとおりにすると、地下につづく階段が現れた。冷気が頬をなで、遅れて臭いの塊が鼻を突く。香水の原液に鼻を浸している気分だ。足元にカラの消臭剤がいくつも転がっている。

 息を止める。

「下りて」

 言われる前に、そうだろうなと思ったのでわたしは一段下りた。明かりはない。四段ほど下りると、背後の戸が閉じられた。暗がりにつつまれる。

「行って」

 足元を明かりが照らした。懐中電灯だ。飛び石みたいに丸く縁どられたライトが暗がりを周囲に押しのけている。

 間もなく、窓のない一室に辿り着いた。鼻が慣れたのか、臭いは、戸を開けたときほどにはきつくない。

 階段はぜんぶで二十四段あった。途中で横に抜ける空間があり、そこがおそらく地下一階で、だとするとどうなるもこうなるもなく、わたしが通されたここは地下二階に位置する。

「ここって自宅ですか」

 臆していないと示したくて、口を衝いていた。

 いや、ウソだ。口を衝いてから、なぜそんなことを口にしたのかと考え、わたしは臆しているのだと気づいた。

 こわい。

 それを誤魔化したい。

 認めた途端にわたしはきっとほんとうの操り人形になってしまうのだとやんわりと自覚できた。

「座って」

 壁際に椅子がある。

 ふつうの椅子ではない。ひと目で判る。壁と同化しているからだ。背もたれが壁だと言い換えたっていい。手作り感あふれるそれは、つくられてまだ日が浅いとうかがえた。

 うしろ手に縛られたまま、こんどは足を椅子に固定される。

 身体の自由を奪われた。泣きたいのに笑みがこぼれる。まな板のうえのコイだってもうすこし身動きがとれそうなものだ。部屋のかべには様々な工具がかけられている。ノコギリからオノからハサミまでよりどりみどりだ。

「気に障ったのなら謝ります、痛いことしないでください」

「痛くないよ。私は」

「そりゃ」

 あなたはそうでしょうよ。

 声もなく叫んだ。

 お姉さんの取りだしたノコギリを目にし、

 あーもうダメだ。

 わたしは来世に期待した。

 お姉さんがなぜそんなに怒っているのかが分からなかった。説明を求めたのに、お姉さんは黙々とビニール製のエプロンを身につけてはマスクをし、

「もういいの過ぎたことだし」

 すべてを水に流すような言葉を並べた。

 場所がここではないどこかで、物騒な服装でなければ泣いてよろこんでいるところだ。

 現実はしかし無情であり、月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人なり。

 わたしの脳内はかつてないほど根深く思考を回している。回してはいるけれど、いくら速く巡らせたところで回っている頭脳(モノ)がお粗末では意味がない。

 万有引力、ルート二、微分積分、邪馬台国、チンギスハーン、ボイジャー二号!

 もっとエジソンでピタゴラスな情報を寄越してほしい。

「それ、どうするんですか」

 お姉さんはポリ袋を三つ重ねて床に置いた。わたしの脱ぎ捨てたスカートみたいに、あるいは餌を欲しがる鯉みたいに口をうえに向けている。今からそこに何かを入れるのだと察せられたけれど、ではいったい何を入れるつもりだろう。お姉さんはみたびノコギリを手にした。

「それ、どうするんですか」

 目をパチクリさせてみせるけれども、聞こえていないのかお姉さんは返事をしない。もういちどわたしは、

「わたし、どうなるんですか」

 ようやくちがうセリフを投げかける。

「どうして知りたいの……これから消えちゃうのに」

 お姉さんはあごにゆびを添えた。心底ふしぎだと言わんばかりに小首をかしげ、わたしを無駄に戸惑わせる。

 かわいい仕草でこわいこと言わないでほしい。思ったのでそう言った。「かわいい顔してこわいこと言わないでほしい」

「うふふ。うれしい。じゃあトクベツに」

「え、なんですか」声が弾んだ。

「手足からにしてあげる。首からだとすぐに死んじゃって見れないでしょ?」

 見れないって、

「なにがですか」

「死ぬところ」

 そんなの見たくない。

 怒鳴りたくなった。ほとんど怒鳴りかけた。

 でもそんなことを言って、じゃあ首からにしてあげるなんて返されたら目もあてられない。きっとお姉さんはわたしがこま切れになっていく姿を見たいのだろう。自分がそうだからトクベツにわたしにもその過程を楽しませてくれようとしている。

 わあ、なんていいひと。

 やけっぱちに褒め称えたくなってしまう。

「じゃあ、右手からね」

 心臓から遠いから。

 トンチンカンな理由でもって、お姉さんはわたしの手首にノコギリの刃を当てた。

「じゃあいくよ」

「待って、待ってください」

 わたしは言い張る。「これだと切られた途端にわたしの腕が自由になっちゃいますよ」

 腕は手首のあたりで縛られている。手首を切られればとりあえずの自由は得られる。

「あら、ホントだわ」

 ノコギリを持ったままお姉さんは口を両手で覆った。「ならやっぱり首からに」

「あー! あー! わたしイイコト思いついたんですけど」

「なあに」

「わたしが逆の手で腕を押さえておくので、そのあいだにお姉さん、わたしの右腕切っちゃってください」

「手伝ってくれるの?」

「はいはい。ですからまずはこっちの左手を自由にしてもらえたらなぁと」

「そうねぇ」

 お姉さんは考えこんだ。

 あれ、ひょっとしていける?

 幼稚な思考爆弾でこうもかんたんに欺けちゃうのかと胸を躍らせた矢先に、

「じゃあ、まずは両足を切っちゃいましょうか」

 これである。

 神さまはとことんいじわるだ。

「あ、あ、でもでも、足を切っちゃったらわたしすぐ死んじゃいますよ、手を切る前に死んじゃいますよぜったい」

「まあしょうがないわよね」

「あ、あ、じゃあじゃあまずはゆびさきから切っていくってのはどうですか、そうしたらほら、たくさん切れてお得かなって」

 そんなことになれば痛い目が万倍どころか満杯だ。死ぬよりはマシだとばかりにわたしはじぶんの窮地にムチを打つ。

「疲れそう」

 お姉さんはげんなりした顔で、もう黙って、とノコギリをゆかに置き、壁からハサミを手に取った。

「え、ホントにゆびからいくんですか」いまさらのように顔から血の気が引いた。

「うるさいから舌、切っちゃおうと思って」

「すいません黙ります!」

「あーうるさい」

 思わず声を張りあげてしまった。じぶんのバカさ加減にうんざりする。

「はい、あーん」

 歯医者さんみたいなやさしい声音で、お姉さんは目と鼻のさきにハサミをつきつける。

 口をすぼめ、顔を背けて抗うも、

「お鼻からいく? それともお耳? あ、おめめの裏がどうなってるのかって知ってる?」

 うれしそうに話すお姉さんの無邪気さに、わたしはついに体内のイモムシたちがサナギを飛び越え羽化したのを感じた。

「じゃあいくね」

 舌根っこを掴まれる。わたしは目をつむることもできずに、

 なぜわたしがこんな目に。

 思ったところでどうしようもないが、思ってしまうのだから仕方がない。

 なぜわたしなのだろう。

 舌切りすずめはなぜおばぁさんに舌をちょんぎられてしまったのだっけ。

 舌を切られたら人って死んでしまうのではなかったっけ。

 たしか、たしか、出血多量よりかは窒息死にちかいのではなかったっけ。

 思えば人間の死でいちばん苦しいのって窒息死ではなかったっけ。

 たくさんの、たっけ、が浮上しては、わたしの冷や汗となって身体中を湿っぽくしていく。なんだったらちょっとチビってしまったのと区別がつかないし、ついたところでお姉さんは気にしないし、わたしだって苦にしない。

 今から死んじゃう人間にとって、いい歳こいた女の子がおしっこちびってしまたってどうでもいいし、なんだったら惨めな命乞いだってしてしまいたい。

 けれどもわたしの舌にはお姉さんのゆびの爪が食いこんでいて、いまさら、あーとかうー以外の言葉を発するのは道理に合わないのだった。

 たといあっても術がない。

 歯をくいしばればじぶんの歯で舌を傷つけるし、開けたままでは口から舌が消えてしまう。

「かわいいベロね」

 うっとりした目で見ないでほしい。今にもかじりつきそうな顔をしながらお姉さんはわたしの舌をハサミで挟んだ。

「血は飲んじゃダメよ、おなか壊しちゃうから」

 どんな心配だ。

 わたしは怒りのあまり破裂しそうだった。

 いっそのこと舌ごとお姉さんの手を噛みちぎってやろうか。やけっぱちに思ったところで、ねめつけた先、お姉さんの背後に立つ人影に、わたしははっと息を呑む。

「ん?」

 振り返ったお姉さんの顔は、ゆかに置いてあった三重のビニール袋に覆われた。すっぽりだ。もがく彼女の手からハサミは投げだされ、それを拾って、わたしの手足の拘束を解いてくれたのは誰であろう、わたしが拒絶し、避けてしまった不審者のお兄さんだった。

「いまのうちに」

 わたしはあたふたした。

「はやく」

 叱責に似た発声に、足はしぜんと動いている。もがくお姉さんの身体を飛びこえ、鍵のかかっていない扉から一目散に階段を駆けあがる。

 家からでるまで、羽化したイモムシたちはぴったり背中に張りついていた。

 ふしぎなことに、一歩そとに足を踏みだし、月明かりを眩しく感じたとき、わたしは現実に帰ってきたのだと安直にも思ってしまった。

「まずは家に。親御さんも心配してるだろうから」

 親御さんも、と彼は言った。わたしは足元を見て歩いた。街灯に差しかかるたびに影は消えたり伸びたりを繰りかえした。わたしはお兄さんの顔を見られなかった。

 家に辿り着くまえにパトカーに呼び止められ、そのまま家まで送ってもらった。娘が帰らないことを母は警察に相談しており、なかなかの騒ぎになっていた。

 無事でよかった、なによりなにより。

 では、済まされない。お兄さんは重用参考人として連行されてしまった。同時に、わたしたちの話から、急きょ、くだんのお姉さんのいる家へと警察官がなだれこんだ。じっさいに目にしたわけではないけれど、後日、立ち入り禁止のテープが張られた物々しい雰囲気の映像が、TVの画面には映しだされていた。

「ホントに無事でよかった」

 母はわたしのとなりで、わたしより格段に怯えた様子で言った。ソファは狭く、母の肩にわたしの肩は触れている。

「仕事休んでよかったの?」

「いいのいいの。こんな日くらいでないと有給使えないんだから」

「わたしをダシにズル休みだ」

「ズルではないよズルでは」

 社会人の正当な権利さね。

 母はわたしの頭をぐっと自分に寄せるようにした。

 過保護すぎる。

 いつもはそう悪態を吐く場面だけれど、わたしもまたきょうくらい、いいのいいのとあっけらかんとしてみようと思った。

「あしたは学校に行くね」

「もうすこし休んだらいいのに」

「これ以上お母さんのズル休みの理由になりたくない」

「だいじょうぶだよ、三日分まとめてとったから」

「ズルい」

「デジカメ」そこで母は話を逸らすように言った。「買ってあげるから、どんなのがいいか選んどいて」

「ネットで見たけどよく分かんない」

「プロのカメラマンとかが使ってるの、探してみたら?」

「おー、頭いい」

「なんたってお母さんですから」

 母はむふーと鼻息を荒くした。「さーて、あしたはどこ行こっかなぁ」

 ウキウキとスマホをいじりだす母を眺め、

 変な買い物しないといいけど。

 浪費癖を心配する。

   *

 お姉さんの行方は不明なままらしい。何度目かの警察からの事情聴取を受けたときにすこしだけ捜査状況を聞いた。

「まだ近所に潜伏しているかもしれない。また狙われる可能性はゼロではないからね。慎重な行動を心掛けるように」

 なんだか責められている気がした。わたしがノコノコとお姉さんに付いていったりしたからそんな目に遭うのだと遠まわしに叱られているのではないか。事件が起こってからでないと動けないのは名探偵だけにしてほしい。わたしは膨れた。

「被害妄想だよ」

「そうは言うけどねお兄さん」学校帰りのわたしの護衛をお兄さんが買ってでた。母も承知のこれは護送だ。「そっちこそ誘拐犯扱いされてゴリップクなんじゃないの」

「きみが言うとなんだかゴリラが怒っているように聞こえるね」

「意味はそう変わらないからいいでしょ」わたしは足元の空き缶を蹴った。砂利道のさきに転がったそれをお兄さんはご丁寧にも拾った。「誤解は解けたんだ、過ぎたことだよ」

 その言葉にわたしはふと、お姉さんの声を思いだした。顔に差す夕陽がまぶしい。

 もういいの過ぎたことだし。

 あのひとはそう言っていた。なんのことだろう。

 すこしためらってから、そのためらいが伝わるようにしながら、わたしは言った。

「お兄さんの妹さんも、あのひとが?」

「ああ、知っていたのか」

 深いため息が聞こえた。「そうかもしれないし、ちがうかもしれない。結論から言うと、警察は今回の事件はこれまでの殺人とは別だと考えているようだね」

「そうなんだ」

「ぼくのことは誰から?」

「お母さんが」

「そっか」

 母は誰から聞いたのだろう。この様子だとお兄さんから聞いたわけではなさそうだ。

「ぼくもむかしはきみと同じ学校に通ってた」

「知ってる。先生が言ってた。家庭訪問で妹さんとも会ったことがあるって」

「まだいたんだね先生」

「ひょっとしてお兄さん、だから戻ってきたの?」

「うん?」

「このごにおよんでまだそらとぼける気だ」

「そういうつもりはないんだけどね。そうだね。あのコが行方不明になってるって聞いて、いてもたってもいられなくなった」

「仕事のほうはよかったの? いまは世界各国で大忙しだって聞いたけど」

「そこまでバレちゃってるのか」

「隠す気があったとは思えないけどね」

「ウソは苦手なんだ」

 デジカメを選ぶために検索したWEBサイトさきで、わたしはとある記事を読んだ。世界中で珍しい生き物を撮るカメラマンの記事で、生き物の生態を写し撮ったような構図がすごいのだとたくさん褒められていた。人間の目ではない、その生物固有の世界を体感するような、写真を越えた写真なのだそうだ。

 いくらなんでも言いすぎだ。

 思って、検索してみたくだんの写真家の作品は、胸に湧いた悪態の数々をしゃぼん玉みたいに消し去ってしまうのに充分な魅力に溢れていた。なによりそれら作品を生みだした写真家の著影には、なぜかお兄さんの顔が載っていた。

「プロだったんだね」

「いちおう、写真でお金を稼げるようにはなってるかな。ぜんぜんまだまだだけど」

「中学生に謙遜してみせてなにか特があるの?」

「ないかもしれない。でも、将来ライバルになりそうな相手にはこれくらいの心理戦は必要かなと思って」

「将来のライバル?」

「センスあると思う。お世辞でなく」

「ふうん」

 わたしは足元の石を蹴る。数歩さきで石は止まった。「今だって充分にライバルのつもりだけどね」

「調子に乗らせてしまった。だから言いたくなかったんだ」

 お兄さんはわたしの蹴った石をなぜか拾った。

 家まで送ってもらったついでにお兄さんを部屋にあげた。母は帰ってきておらず、お兄さんも用事があるわけでもないというので、どうせなら聞けることをいまのうちに聞いておこうと考えた。

「思ってたよりかわいい部屋だね」お兄さんはそわそわしている。ちゃぶ台のよこに立つだけで部屋がちいさく感じられた。おとななのだ、といまさらのような所感が湧く。

「いろいろ聞きいてもいい?」

 カバンを置く。

 制服のままベッドに腰掛けた。お兄さんは立ったままだ。

「なんでも聞いて。そうだ、写真の加工の仕方とか、簡単なの教えようか」

「そういうのも知りたいけど」

 ホントに知りたいのだけれど、「でもそうじゃなくって」

 声のトーンからお兄さんはわたしの胸中を察したみたいだ。ああ、と言って、その場に腰を下ろす。あぐらを掻いた。「妹のことかい」

「お葬式、行かなかったの?」

「手伝いはしたさ。でも、そうだね。じつを言うと覚悟はしていたから。いまさら悼む気持ちにはなれなくて。父や母には冷たいやつだと嫌われてしまったけれどね」

「ふつうの反応だと思う」

「そうだね。人間の社会ではそれがふつうなんだ。でもぼくはずいぶん長いこと【ふつう】ではなく【しぜん】のなかで過ごしてきてしまったから、妹の行方がわからないと聞いたとき、まっさきにもう会うことはないのかなと覚悟してしまった」

「もう生きてないって思ったってこと」

「ありていに言えば」

 ふうん、といちおうの納得を示しておく。それから、どうしてわたしだったの、と問いを重ねる。

「ん?」

「お兄さんはこう考えたんでしょ。犯人はきっとまた同じことを繰りかえす。悲劇は繰り返させないようにしようって、そうやって奮起して狙われそうなコを――わたしを守ろうとしてくれた」

「奮起ね。そうかもしれない」

「妹さん、ざんねんだったね」

「うん。何もしてあげられなかった」

「でもお葬式にはちゃんと出てあげたほうがよかったと思う」

「妹は死んだんだ。何をしても遅いよ」

「でもお父さんとお母さんは生きてるでしょ」

 お兄さんが息を呑んだ様子が伝わった。わたしは言った。「お兄さんだって生きてるんだし。じぶんのためにも妹さんをちゃんとお見送りしてあげたほうがよかったと思う」

「それこそ過ぎたことだよ」

 やわらかい眼差しをそそがれてしまうが、わたしはめげない。

「遅くないと思うけどなぁ」

 言ってから、さすがにこれ以上はおせっかいだなと思い、

「お兄さんがそれでいいならいいんだけどさ」と突き放しておく。

「ありがとう」

 お兄さんは後ろに手をついて天井を見上げるようにした。「犯人がどうして幼い児童を、それこそ女性しかおそわないのか。妹の遺体が発見されたときから考えていたんだ」

「女の子が好きだったんじゃないの、単純に」

「そうかもしれない。でもだったらこの地区に限定しないで、もっと色々なところで犯行を分散すればいい」

「してたのかもしれないよ。まだ発見されていないだけで」

「そうかもしれない。ほかに犠牲者がたくさんいてまだ見つかってない。その可能性はそう低くない確立であるんじゃないかな」

「お兄さんは何が言いたいの」じれったくなって結論をせがんだ。

「遺体にはイタズラされた痕跡がなかったみたいなんだ」

「エッチなことはされなかったってこと?」

「そう。衣服に乱れもなかった。女児を狙う動機の一つにはやっぱりそこは欠かせないと思う。でもそれが今回は欠けていた」

「ほかに動機があったのかもしれないじゃん」

「そうだね。でもそれを思えばこそ、前提が崩れる」

「どういう意味?」

「結論から言ってしまえば、もう解っているとおり、犯人は女性だったわけだ」

「ああそっか。お兄さんは初めから犯人が女の人だって判ってたってことか」

「確信していたわけじゃないんだけどね。ただ期間を空けずに連続して犯行を行っているところから見て、犯人は犯行時にさほどの準備を重ねていなかったように思う。すなわち、女児たちから警戒されるような人物ではなかった」

「同じ地区で犯行を重ねていたのもそれが理由だ」

「それからこれはすごく言いにくいことなのだけれど」

「いいよ言って」

「きみのアカウントをぼくは知っていてね」

「え、いつ?」

「最初に会ったとき。これは単なる偶然で、ぼくの好奇心のようなものなんだけれど、まあ言うとおりに写真を消してくれたのかの確認も含めて、いったいどんなコなのかって気になって」

「妹さんと重なった?」

「いや」

 いちど否定してからお兄さんは、そうかもしれない、と認めた。「ただそれだけじゃなくて、なんだろう、気になったんだきみの写真が」

「写真?」

「さっきも言ったけどセンスがある。ほかにどんな写真を撮っているのか気になった」

「どうやって見つけたの、アカウント」

「あの場所で、同じような構図で同じような写真を撮ってみた。きっときみはあげているだろうなと思ったから」

 画像検索機能を使って、それと似た画像が投稿されていないのかを調べてみたのだという。時間指定さえしてしまえば、似た画像はそうそうあがっているものではない。

「ほかの画像を見て、十中八九きみだって判った」

「だいたいがあそこで撮った写真だからね」

 帰り道、とくにあそこの一本道がひまなのだ。

「ただ、そこで一つ気になる写真があった」お兄さんの顔は曇っている。

「気になるばっかりだね」

「あの日、きみの撮っていた写真だ」

 リツイート数が一万件を越した例の写真だ。

 そりゃ気になるだろうな、いい写真だからな。

 わたしは鼻高々に、

 そうでしょ、そうでしょ。

 うなずいてみせるも、お兄さんは浮かない顔のまま、

「あの写真はあげるべきじゃなかった」

「どうして?」

 そういえば、と思いつく。クソリプがくるようになったのもあの写真をあげてからだ。人気が出たから多くの人目につき、暇を持て余したヘンタイに執着されてしまったのかと思っていた。けれども例のクソリプがあの写真を消してほしい第三者からの脅迫だったとしたらどうだ。アカウントごと消せと言っていたのは、きっと特定の写真にこわだっていると知られたくなかったからだ。

 ではあの写真にはいったい何が映っているのか。

 スマホをとりだし、データを漁る。あの写真を開き、つぶさに目を走らせる。

 モンシロチョウ。夕焼け。シャボン玉。そして端のほうに映る、シャボン玉を吹いている女性。彼女は赤子を連れている。

「いなかったんだよ彼女には」

 お兄さんの言葉にわたしは息を止めた。「じゃあこの赤ちゃんは……」

「連れ去ったんだろうね」

 思えばそうだ、わたしはこのとき初めてあのお姉さんと会ったのだ。

 そのコの母親は、とお兄さんは写真のなかの赤ちゃんを示し、続けた。「三件目の遺体となって発見された女性なんじゃないかな」

 わたしはお兄さんに、SNS上で脅迫されつづけていた過去を話した。今思えばそう、あれはクソリプなどではなく、りっぱな脅迫だ。

 相手の目的がわからないという一点につき、わたしは脅迫文をクソリプと勘違いした。

「やっぱりそうだったんだね」

「やっぱり?」

 しゃべりすぎて喉が渇いた。わたしは電気ポットでお湯を沸かし、紅茶を淹れた。お兄さんの分も用意する。そうして茶葉からおいしい味を抜き出しているあいだにお兄さんは言った。

「きみのアカウントを眺めているあいだにあの脅迫文に気づいてね。へんなやつに執着されてるなと気になってはいたんだ」

「それでわたしのことを待ち伏せてたの?」

「最初はそんなつもりじゃなかった。ただ、きみがアカウントを変えたから放っておけなくなった。何かよからぬことに巻き込まれてるんじゃないかって」

 そんなことを考えていたのか。

 だったら面と向かって訊いてくれればよかったものを。

 そういった不満にも似た旨をぶつけると、お兄さんは、こわかったんだ、と言った。「客観的に見たらぼくのほうが不審者だ。ネットを通じてストーカーまがいのマネをしていたなんて言えないよ」

「自覚はあったんだ」

「しょうじき、妹としゃべっているみたいで楽しかったのは否定できない。単にぼくはきみとしゃべりたかった。気持ちわるい男さ」

「自覚してりゃいいってもんじゃないよ」

「そうだね。きみは賢い」

「妹さんもそうだった?」迷うよりさきに口を衝いていた。お兄さんは、そうだね、と同意してから、いや、と一拍置いて否定した。「きみほど生意気ではなかった」

 わたしはじぶんの分のカップにだけ紅茶をそそぎ、ああおいしい、とすすった。

「ぼくのはないのかな」

「あると思う?」

「生意気なうえにいじわるだ。似ても似つかないよ」

 目を伏せ、お兄さんは笑った。

 まつ毛、ながいな。わたしはそんなところに目がいった。

「あれ、でも」

 わたしは思いだす。SNSを起動させ、そこから最後に届いた脅迫文を表示させる。「じゃあこれは誰が撮ったの?」

 いつもの帰宅路とは反対側を歩いているわたしの写真だ。おそらくこれもあのお姉さんがわたしを脅すために投稿したもののはずだ。けれどあのとき、お姉さんはわたしと同じ側の道にいた。反対側から写真におさめるには時間に余裕がないように思う。わたしはわたしの考えを語って聞かせる。

「それはたぶん」

 お兄さんはこともなげに言った。「ドローンを使ったんじゃないかな」

「ドローン?」

「元々は監視のつもりだったのかもしれない。いい具合にじぶんのアリバイをつくって、無意識のうちからきみからの嫌疑の種を払しょくしておこうと考えたのかもしれない」

「ああ」

 間抜けな相槌がでた。それからあのときの情景を思い起こし、たしかにカラスの群れにまじって人工物らしき飛行物体があったなぁ、と釈然としない気持ちになった。

「その話は警察のひとには言った?」

「まだしてない」

 思いついたのが今しがたなので、言うヒマはなかった。そもそもわたしはお姉さんに襲われる直前まで、お兄さんのことを疑っていたのだ。そこまで思考を巡らせてから、

 そうそう。

 わたしは記憶の再生を一時停止し、

「あのときお兄さんのことも見かけたんだよ」

 脳内映像からお兄さんの姿をピックアップする。川を挟んだ反対側の道をお兄さんは乳母車を引いて歩いていた。

「赤ちゃん連れてたよね。あのコは?」

 いったい誰の子だと問うと、

「親戚のコだよ」

 押されたので出ましたといわんばかりの反射具合だ。「妹の葬式でいろいろ手伝ってもらってて。役に立たないんだからせめて子守でもしててって。半ば追いだされて。赤ちゃんと同じ益体なしってのが周囲のぼくへの評価だよ」

「お兄さんと同じ扱いなんて……赤ちゃんに同情しちゃう」

「その百分の一でいいから、ぼくにもすこしは分けておくれ」

 しょうがないのでお兄さんにも紅茶を分けてあげた。「トクベツだよ」

「ありがとう」

 部屋のした、一階から母の声がした。ただいまー、とけだる気なのはなぜなのか、きょうは休みで一日中遊びほうけていたはずだ。

「帰ってきたみたい」

「あいさつしなきゃ」

 お兄さんがおしりをあげたので、わたしは引きとめた。「いいよそのままで。呼んでくる」

 会わせる前に母に言いわけをしておきたかった。いくら犯人ではなかったとはいえ、お兄さんはそれでもやっぱり母からすれば他人さまだ。かってに家にあげたりしたら大目玉に思える。

 母はわたしの顔を見るなり、口パクで、いるの? と問うた。玄関口にある靴を見て、来客の存在を見抜いたらしい。靴の主がお兄さんである旨も理解しているらしかった。

「来てる。一人だとなんかこわくてあがってもらっちゃった」嘘も方便だとじぶんに言い聞かす。

「どうしよう、お礼の品まだ届いてないんだけど」

 先日の礼にと母は高級黒毛和牛セットを注文していた。

「べつにあとで届ければいいじゃん」

「そうね。あ、そうだ。ご夕飯いっしょにどうだろ、お寿司とるから」

「えぇぇ」

「あんたは食べなくてもいいのよ」

「お兄さんが断ったら?」

「冷蔵庫にたしか納豆あったっけ」

「天と地すぎる」

「月とスッポンね。お月さまに納豆ごはんはあげられないでしょ。スッポンに寿司は上等すぎるし」

「カエルの子はカエルなんだよ、わたしがスッポンだったらお母さんだってスッポンじゃん」

「あら、よく知ってたね、スッポン」

 軽々流される。母は階段をのぼっていき、わたしの部屋に顔をだす。聞いたこともないねこ撫で声だ。お兄さんに挨拶をしている。おしつけがましくないギリギリの言い方で夕飯を誘う技術にはけれど目を瞠るものがある。

「食べてくって」

 母はうれしそうにこぼし、一階に下りてくる。

「断ってもよかったのに」わたしは部屋に戻り、お兄さんの向かいに座った。紅茶を淹れ直す。

「こういうのはけじめをつけておくのもだいじなんだよ。恩は精算しとかないとあとでたいへんだからね」

「そういうもんかねぇ」

「そういうものだねぇ。いつまでもぼくのことを恩人扱いしていたくはないだろ」

「え、お兄さんわたしの恩人だったの?」

「きみの図太さには見習うものがある」

 それからしばらくわたしたちは取り留めのない話、多くはお兄さんの仕事や写真について話した。間もなく、一階から母の、ごはんよー、の声が聞こえる。注文した寿司が届いたようだ。時計を見ると一時間が経過していた。お兄さんは腰をあげた。背伸びをしつつ、「あす、コスタリカのほうに戻ろうと思って」

「仕事?」腰をひねるとポキポキ鳴った。

「妹の四十九日にはまた戻ってくるよ」

「ふうん意外。でもそれがいいと思う。けじめはだいじだよ、恩だけじゃなくってさ」

「その減らず口も聞けなくなるのか」

「しみじみ言いすぎだと思う」

「清々はしないなぁ」

「さびしい?」

「すこしね」お兄さんは窓の向こうを眺めるようにした。カーテンが閉まっていてそとは見えない。「それまでに捕まるといいんだけどね、あのひとが」

 羽化したイモムシが舞い戻ってくるのを感じ、わたしはいそいで振り払うようにした。

「どうしよう、あしたから護衛がいなくなる」

「だいじょうぶだよ、警察のひとたちが言ってた。登下校の時間帯はパトロールを強化するって」

「不安しかない……」

「つぎはノコノコ危ない人に付いていったらダメだからね」

「へぇい」

 お兄さんのあとにつづいて部屋を出る。母の待つリビングへと階段を伝った。

 翌日からお兄さんを見かけることはなくなった。放課後のあの道で会うこともなかった。ネットでお兄さんの記事を漁ってみた。思いのほかすごい人だった。けれど感心の念が積もっていくにつれて、お兄さんへの親近感が薄れていく。と、いうよりも、そもそもがスマホの画面に映るお兄さんの顔をした人物が、果たしてほんとうにお兄さんなのかの判断がつかない。別人だと考えたほうがしっくりくる。

「なぁに、あんた。失恋した女子中学みたいな顔して」

 ソファに寝転んでいると母が野次を飛ばしてきた。「連絡先くらい聞いてるんでしょ? 意地張ってないでかけてみたらいいじゃない」

「なんのことかさっぱりなんですけど」

「妹さんの四十九日には戻ってくるって言ってたし、そんな今生の別れみたいな顔しないの陰気くさい」

「日本語でしゃべってくれません?」

「それともなに? とっくにフラれちゃったとか? あ、ごめんごめんだったらちょっとお母さん配慮に欠けてたわ、傷心の娘になんてことを」

 お口チャックのしぐさをする母にわたしはムキになりかける。浮かした背中をもういちどソファに押しつけ、ここで乗ったら母の思うつぼだとじぶんを諌める。

「怒った? ごめんごめん」

 むっつり黙りこくったわたしに母は、はいコレと箱を手渡した。片手で掴める程度のそれは表面に、中身はデジタルカメラですよー、を示す印刷がなされている。わたしからむっつりが失せたのを目ざとく察したのか、母は、

「プレゼント」と言った。「無事に帰ってきてくれたお礼に」

「イイコにしてた甲斐があった……」わたしは感極まった。

「イイコではないからワンランク下にしました」

「そんなぁ」

 言いつつもわたしは知っている。この機種は中古でも四万円はくだらない。新品で購入すれば倍はする。背筋をしゃんとし、ソファのうえであぐらを掻きながらわたしは箱から本体を取りだす。

「すごーい、うれしー」

「大事にしなさいね」

「はーい」

「こういうときだけお利口さんなんだもの。やんなっちゃう」

 母は腰に手を当て、鼻から息を漏らした。

 夕飯のオムライスを食べていると、引っ越そうか、と母が言いだした。

「なんで」

「だって犯人のひと捕まってないでしょ。逆恨みされてるかもしれないし、なんだか不安じゃん」

「じゃんって」

「お父さんも単身赴任じゃたいへんだろうし、どうせなら三人いっしょに暮らしたいなって」

「たいなって、そんなカンタンな話?」

「お母さんの職場、向こうにも支部があって、聞いてみたら優先して異動させてくれるって。向こうも人不足で大歓迎みたい」

「お母さんはそれでいいだろうけども」

「あらなぁに。あんた心残りになるようなトモダチいたの?」

「いないけれども……」

「じゃあいいじゃない」

「そうなんだけれども」

 引っ越すとなると、それはたんじゅんに考えて、引っ越さないときより労力がかかる。めんどくさい。

「準備、お母さんがぜんぶやってくれるわけじゃないんでしょ」

「荷物の片づけくらいならお母さんがやってもいいよ」

「ならわたしは何をすればいいわけ?」

「何も」

「いいの?」

「ゴミ捨てくらいは頼んじゃうかもだけど」

「ふうん」

「あら意外。反対しないんだ?」

「反対するのもめんどうなだけ」

「さすが私の娘。そうこなくっちゃ」

 母はぺろりと目のまえのオムライスをたいらげた。

 その三日後、学校にいく支度をしていると、犯人と思しきあのお姉さんが遺体で発見されたとニュースでやっていた。

「自殺かなぁ」髪の毛を編み編みにしていく。そろそろ本格的に切らなくては。

「そうなんじゃない」

「でもこれでひと安心だね」

「そうね」

「引っ越し、しなくてもいいんじゃない?」

「もう決めちゃったし」

 今さら異動の話をなかったことにはできないようだ。「まあいいけど」

 母はガラクタを片っ端から段ボールに詰めこんでいる。仕事に行く前に家のゴミをまとめる作業が母の新たな日課となっている。休日になったらそれらガラクタは、近所のゴミ収集所へ運んで焼却する手筈になっている。

 TVのほうへと目を転じる。画面からは、興奮気味なキャスターの声が響いている。お姉さんの遺体が発見された場所からはほかにも複数の遺体が見つかっているらしい。

「自殺なのかなぁ」

「もういいでしょ」

 母はTVを消した。

 夜、母はきょうも帰りが遅い。わたしは母の片づけたガラクタの山を眺める。いつものことだけれど、母はいったい毎日どんな残業をしているのだろう。

 ふと、円形のガラクタが目についた。手で引っ張ってみる。新型の未確認飛行物体だった。コントローラーが見当たらない。本体だけのようだ。カメラが付属されている。そこだけボロボロに壊れている。ハンマーで殴ったってこうはならない。

 お姉さんのことを考える。わたしに脅迫文を送りつけていたのは彼女のはずだ。では、彼女は何を知られたくなくてわたしに写真を消してほしがっていたのか。

 じっさいにお姉さんがしでかしたことを、わたしの知る範囲の出来事で挙げ連ねてみると、それは赤子と子犬の誘拐、そしてわたしの拉致監禁と殺人未遂以外にないのだった。

 ひょっとしたらわたしが思うほどには、あのお姉さんは悪人ではなかったのかもしれない。

 もしかしたらあのお姉さんはわたしを監視しているあいだに、もっと見逃せない何かを垣間見てしまったのかもしれない。

 それはわたし自身が気づくことなく、同時に、わたしの身の回りに有り触れている日常の裏側なのかもしれなかった。

 この新型の未確認飛行物体はいったい何を映しだし、こうしてガラクタに紛れているのだろう。わたしは猛烈にお兄さんに相談したくなった。お兄さんは言っていた。最初から犯人は女性だと考えていたと。

 同時にこの目のまえの新型未確認飛行物体がお兄さんの未来と重なって映り、どうあっても相談するわけにはいかんなぁ。

 わたしは寝間着のえりを掻き合わせるようにした。

「こらこら」

 耳元で吐息がし、身体が跳ねる。「こんなところで何やってる」

 母の陽気な声に思わずほっとし、振り返ると、母はなぜかナイフを手に携え、立っている。リンゴの皮を剥くのにはとうてい向かない、ゴツイ、ナイフだ。

「そっちこそ」

 何してんの、と続く言葉はほそぼそと吐息にまぎれた。そもそもいつ帰ってきたのか。足音はしなかった。

「お腹空いちゃって何かつくろうと思って」

 言ってるわりにキッチンのほうに明かりは点いていない。

「カップ麺でも食べたら」

「太っちゃうじゃない」

「ねぇこれ」

 見なかったフリもできたけれどわたしは訊いた。「このそら飛ぶやつ。どうしたの」

「ああそれ」

 首だけ斜めにし、母はわたしの示した物体に目をやった。「拾ったの。家のまえに落ちてて」

「警察に届け出たほうがいいんじゃない」

「どうして?」

「だって盗撮目的だったら犯罪でしょ」

「でもカメラは壊れてるし、だいじょうぶでしょ」

「そうだけど」

 これを飛ばした人間が生きていたらいくらでも代わりを飛ばして、盗撮をつづけられる。反論しようと思ったけれどやめた。

 知っているのだ。

 母は。

 これの持ち主がもう二度とこれを飛ばせないことを。

「ねぇ」

「なに」

「わたし」

「うん」

「どうすればいい……」

「どうすれば?」

「お母さんの娘でいるのにどうすれば……」

「なぁにこのコはまたヘンなこと言って」

 母はわたしの頬を撫でるようにし、

「スッポンの子はスッポンでしょ。何があったって、いつだって、いつまでだってあんたは私の娘だよ」

 たとえ死んでたってね。

 頬を撫でるそれの冷たさに、羽化したイモムシたちがこぞって死滅し、しゃぼん玉となって散っていく様を、なぜか思い描いた。

 お兄さんとはもう二度と会うことはないのだな。

 予感というよりも決意と呼ぶべきその想いにわたしは、ついぞ名前をつける気にはなれなかった。




   【オタマジャクシのままでいたい】END




【瞬久間(またたくま)弐徳(にとく)の困憊】


   ==鯉仇(こいがたき)恋花(れんか)==

   ***

 先生はどこかおかしい。どこがおかしいのかと問われると困ってしまうのだけれど、ともかく、おかしくないところを探すほうがむつかしいくらいに、おかしいのだ。それだとどこがおかしいのか判らない、という前言が誤りになってしまうので撤回し、訂正しようと思う。

 訂正。

 先生は、おかしい。

 すべてが、ことごとく。

 

 ありふれた住宅街の片隅、県民の森のはずれに位置する崖のうえに先生の事務所は建っている。

 先生は探偵だ。それも「名」が三つほど並ぶ、偉大な探偵だ。先生に解けなかった謎はなく、先生にぎゃふんといわせた事件も未だかつて存在しない。

「せんせー、依頼人がいらっしゃってますけど」

「書類に必要事項を記入させて、さっさと追い払え」

「そういうわけには」

 わたしの背後には強面のおじさんが立っている。その横顔をちらりと窺い、背筋に嫌な汗を掻く。政治家の代理人を名乗るそのおじさんは無言で先生の背中を見つめている。先生はいま、机に向かって新作の小説を書かれている最中だ。仕事にいっしょうけんめい取り組んでいる姿に見えますように。わたしは心のなかで念じる。

「どうしてもお話をしたいとおっしゃられていて、お時間をいただきたいとご所望であられて、その、せんせー……!」

 わたしは声に出さずに悲鳴をあげる。

「きみが困っていることは理解したが、そういうときは素直に助けてくださいと言いたまえ」

 筆を置くと先生はくるりと椅子を回転させ、お医者さまのように振り返った。

「私はいそがしいんだ。用があるなら三十秒で説明しろ」

 名刺を取りだそうとしているおじさんに言い放ち、先生は偉そうにふんぞり返る。強面のおじさんは懐に入れた手を引っ込め、表情一つ変えずに、「昨晩」と話しだす。

「昨晩、ワタシの依頼主である鈴木氏のご友人が殺されました。その犯人を突き止めていただきたい」

「二つ訊こう。私へ依頼する理由は? 具体的に私にはどうしてほしい」

「警察に嗅ぎ回れると困る事情があるのです」たじろぐことなくおじさんは応じる。なかなかの肝っ玉をお持ちのようだ。「依頼主と亡くなられたご友人の関係を洗われる前に、犯人を見つけ、警察に通報することなくワタシに知らせていただきたい」

「なるほど。依頼主と被害者の関係は? 愛人か何かかな」

「友人と言ったはずですが」

 ぴしり、と空気に嫌なヒビが入る。「調査に必要な情報は提供しますが、くれぐれも他言せぬようお願いしたい」

 おじさんは先生にデータの入ったミニカードを手渡した。先生は中身をコピーしてくるようわたしに指示をだし、紙に印刷し直したデータに目を通す。

「これは典型的なハニートラップだね。殺されたご友人は某国のスパイか何かかな?」

「資料に書かれていることがすべてです。余計な詮索はしなさるな」

「余計な詮索をするのが探偵の仕事でね。それがいやならお引き取り願おう」

 強面のおじさんが拳を握ったのが見え、わたしは頭を抱え、ヒエーとその場にしゃがみこむ。

「期限は三日後。それまでに犯人を突き止めてください。無理だった場合にはそれ相応の対応をしてもらうことになりますので」

 脅迫まがいな言葉を残し、おじさんは帰っていく。わたしはおじさんを見送り、部屋に戻ってさっそく言った。「せんせー、だいじょうぶなんですか」

 邪魔者が去ったといわんばかりにふたたび机に向き合い、先生はカリカリ云わせている。紙とペンで現実逃避している場合ではないのでは。

「事件は解いた。期限が迫ったらキミから連絡しておくといい」

「え、え? もうですか!?」

 今さっき依頼を受けたばかりなのに、もう事件を解いたとおっしいますの。わたしはなんだか居たたまれない気持ちになる。

「あんなのは謎でもなんでもない。さきほど来た彼の依頼主は、多額の献金をとある団体から受け取っていてね。それを収賄罪に問おうとする向きが、永田町あたりで蠢いているのだよ。この場合の永田町というのは、政治家たちではなく公安を示すがね」

「初耳です。どこからそんな情報を……」まさかそんな情報をあのおじさんが渡してくれたとは思えない。

「私ほどの探偵にもなると情報なんてじっとしていたって集まってくるのだよ。ともかく殺された被害者はその団体の手により葬り去られたのだ。通り魔という線も捨てがたいが、確率からいえば極めて低い」

「ですが、その団体は政治家さんの味方なわけですよね? どうしてその方のご友人を殺したりなんか」

「だから言っただろう。そのご友人は愛人を装い、政治家から機密情報を聞き出していたのだよ。典型的なハニートラップだ。教科書に載っていてもいいぐらいのな。たいせつな人形に虫がついたら払うだろ? 団体は政治家についた虫を指で弾き飛ばした。かんたんな話だ」

「ですが政治家さんはそのことを知らされていなかったんですよね?」

「きみもにぶいなぁ」先生は苛立たしげに指を振った。「知らないなら嘘を吐かずに済むだろ。警察だってバカじゃないんだ、いやそれなりにバカなんだが、ともかく、いずれその政治家を容疑者として捜査する。被害者と愛人関係にあった人物だからな。容疑者さえ絞られていれば警察の動きはちいさくなる。贈賄がバレていないと思っている団体さんは、味方である政治家を身代わりにし、自らの姿を晦ませようと企んだのだ。かんたんな話だろ?」

「ですが証拠がありませんよ」

「きみはいつもそう言って私を困らせる。いいかい。事件は解いた。あとは警察の仕事だよ。証拠集めなど探偵のすることではない」

 これまで私が間違っていたことがあったかい、と先生は投げやりに言った。

「ありません……」わたしはなんだか喧嘩に負けたような悔しさがあり、そのモヤモヤをため息に載せて吐きだす。「いちどでいいからわたし、せんせーが捜査しているお姿、拝見したいですよ」

「事件の立証をしたくば転職願いをだすんだな」

 冷たく言って、先生はそれっきり小説の世界へと旅立たれた。

   ***

 三秒伝説というのをご存じだろうか。先生が事件を解いたのにかかった時間が、平均で三秒。事件の概要を聞き、依頼人の顔を見ただけで犯人を突き止めてしまうその手腕は巷ではエスパーの異名を誇っている。

 先生は滅多に部屋から出てこられない。依頼がない日はひがな一日、書斎で自作小説を執筆し、依頼がある日もたいてい小説づくりに没頭している。先生の頭のなかには論理などという極めて知的で緻密な文学的近代兵器などはなく、膨大な情報とそれらをシッチャカメッチャカに繋ぎあわせる神業的な閃きがあるだけだ。

「知らないから解らないのだと人は言うが、しかしそれは勘違いだ。何が解らないかを知らないから、見えるものも見えないだけの話でね。私はただ、解らない箇所に、相応のピースを嵌めているだけのことだ。なぜこれしきのことができないのか、そちらのほうが理解に苦しむ」

 先生には推理というものがない。皆無と言っていい。最初に犯人の姿が浮かび、そこに至る筋道が自ずから現れるのだという。

「最初から像は出来上がっているのだ。ただ、障害物があったり、ピースの一部が欠けていたりと、全体像がぼやけてしまっていることに問題がある。嘆かわしいことに、像をさかさまから見て、何が何だか解らないと言いだす愚か者どもの多いこと。私には彼らが、見たくなくて敢えてそうしているふうにしか映らないのだがね、実際のところどうなんだい?」

 真剣に頭を悩ませているわたしたちを尻目に、先生は怪訝そうに眉を顰めるのだった。まったくもって、子どもみたいな嫌がらせを言う男である。わたしはいつか墓穴を掘った先生がわたしに泣きついてくるのではないか、と心の底では期待している。

   ***

 その事件が先生のもとへ依頼として舞い込んできたとき、わたしはちょうど大学の講義に出席し、久しぶりの居眠りを体験しているところだった。

「レンカちゃん、どう? 弐徳(にとく)くんの様子は」

 講義の終わりを告げる鐘が鳴り響き、王子(おうじ)さんが声をかけてきた。

「相変わらずです。予言者みたくピタリと事件を言い当てては、妄想の世界に憑りつかれてます」

「そうだろう、そうだろう。あいつはむかしっからそういうやつだった」

 王子さんは先生の叔父にあたる方で、わたしの通う大学の助教授をされている。わたしが先生の助手を務めるようになったのも、王子さんからの紹介があってのことだ。王子さんはわたしの尊敬する大人の男性の一人だ。もちろん子どもの男性に興味はない。

「お、噂をすればだ」

 王子さんはメディア端末を取りだした。電波の向こうの相手と話しはじめる。相槌の打ち方から、どうやら相手が先生であるのだと判る。王子さんはふだんから柔和な話し方をされるけれど、相手が先生のときにはその柔らかさにさらなる磨きがかかる。ここだけの話、わたしはそれが癪でたまらない。

「ほう、なるほどなぁ。珍しいこともあるもんだねえ。で、引き受けたのかい?」

 こちらをちらりと見遣り王子さんは、駄々をこねた孫の「コレ買ってぇ」攻撃に疲れた祖父がそれでも買い与えたくてたまらない、といった具合に、しょうがない、頼まれてやるか、と満面の笑みを浮かべた。

「なんでしたか?」

「うん」

「今の、せんせーですよね」

 メディア端末を仕舞った王子さんへわたしは詰め寄った。

「そうなんだよ。困ったことにこれから仕事らしくてね。なんでも孤島の屋敷に招待されたらしくて」

「孤島? お屋敷ですか?」

 なんて時代錯誤!

「うん。なんでもクローズドサークルを信仰してやまない連中に勝負を挑まれたらしくてね。いや、この言い方は弐徳くんが言っていたんだけど。とにかく大金を積まれたうえ、断ったら逃げたと見做すと煽られたようでね」

「まさかそれでせんせーが引き受けたのですか?」

 笹の葉をあげるからと言ってシロクマを誘惑するのに成功したような信じがたさだ。パンダじゃあるまいし。

「うーん。ぼくもそこのところは腑に落ちないのだけど、まあ、かれのことだから何かしら思うところがあったのかもしれないね。とにかく今からきみを送り届けるように頼まれてしまってね」

「でも、お忙しいのでは」

「仕方ないさ。弐徳くんの頼みだもの」

「わたしもこれから講義が」

「弐徳くんの頼みだもの。仕方ないよ」

 軽快な足取りで駐車場へと歩いていく王子さんの背を眺め、わたしはいかんともしがたい感情に駆られた。

 先生ばっかりずるい!

   ***

 港のフェリー乗り場で先生は待っていた。王子さんへのお礼の言葉もなしに、到着早々、

「ではまいろうか」

 言ってフェリーに乗り込んだ。豪華客船と見紛うフェリーは言うまでもなく貸切りで、先生はわたしに目的地を告げずに出航の合図を送った。海面をモコモコ泡立ててフェリーは進む。ぐんぐん進むフェリーのうえからわたしは王子さんに手を振った。

 先生はなぜだか冷ややかな目でこちらを一瞥し、船内へ入っていった。

 孤島と聞いていたのでわたしはてっきり断崖絶壁に囲まれた木々の鬱蒼と茂る、アップルパイのような島を想像していた。意に反して上陸した島は、観光地かと見紛う景観で、じっさいに観光客と思しきひとたちでごった返している。

「ここで殺人事件が起こるのですか?」

「何を言っている」

「だってせんせー、挑戦状を叩きつけられたのですよね。ここで起こる連続殺人事件の真相を暴いてみろって」

「王子か? まったくあのひとは人の話を聞かないで、いい加減なことばかり」

 ゆいいつと言っていい理解者に対してその言いぐさはいかがなものか。わたしは先生の足をわざと踏みつけ、フェリーを降りた。

「おい!」

「はい?」

「足! おまえ今、足を」

「わざとですがなにか?」

 正直に告げると、先生はぽかんと口をあけ、それからなぜかうろたえた。

 待っていると目のまえに黒塗りのセダンが止まった。中から女性が下りてくる。彼女は嵌田(はめた)イヨと名乗り、今回のツアーの主催者だと説明した。セダンに乗せられ、屋敷まで運ばれる。

「イヨさん、美人ですね」

「うむ」

 なんてことだ。先生が否定しないなんて。信じがたいことである。運転席と後部座席は透明なプラスチックの板で区切られているので、こちらの会話は聞こえないはずだ。相手への配慮で口にしたのではないと判る。なんだかこれからとんでもないことが起きるのではないか。わたしは気が気ではなくなる。

 到着すると、こちらと入れ違いにゴミ収集車が去っていく。建物は宮殿のような派手な外観だ。

 外観だけでなく内装もすごかった。

「うわー、せんせー見てください。わたし初めて見ましたよシンデレラ」

「シャンデリアと言いたいことは解った」 

 感激していると、バタバタと二階から、奥から、左右から、いずこより人が集まってきた。玄関先の空間にはやがて、わたしたちを含め十三名の人間が集結した。主催者たるイヨさんが一人一人、紹介してくださった。わたしはメモを取り、必死に彼らの顔と名前と素性を憶えようとしたのだけれど、そのよこで先生は興味なさげに欠伸をしていた。

「ちょっとせんせー」

 わたしは先生の脇腹をひじでつつくようにした。先生は、ぐふ、と奇怪な声をあげた。なんとか先生の失礼な態度を改めさせられないかとあれやこれや試行錯誤していると、

「と、いうことですので、まずはお食事でも」

 イヨさんが長々とした口上を終え、奥の部屋へと一同を先導するように歩きだした。

「せんせーのせいで説明、聞き逃しちゃったじゃないですか」

「きみのは自業自得というのだ。私のせいにするな」

 吐き捨てるでもなく冷たく言い放つと先生は、イヨさんのあとを追うみなさんとはべつの方向へ、それこそ二階へとつづく階段を上りだした。

「ああもう」

 どうしてこのひとは。

 ああもう。

 わたしはあちらとこちらを交互に見遣り、うーん、と頭を抱えてから、「待ってくださいせんせー」

 頭痛の種のあとを追った。

   ***

 パーティーホールだろうか。見たこともないほど広い部屋には、腐葉土みたいにふかふかの絨毯がところどころ魔方陣を思わせる紋様を描きながらどこまでもグランドの芝のように床を覆っている。天井もバカみたいに高い。玄関先にあったものよりもさらに巨大なシャンデリアが三つほど、それこそUFOみたいにぶらさがっている。わたしがおーと見とれている合間に先生は部屋のなかにズカズカと踏み入っていく。

「ちょっとせんせー、聞いてますか」

 言いながら膝に手を突き、肩で呼吸する。先生は歩くのが無駄に速くて困る。駆けあがるように階段を上ってきたので、疲れてしまった。

「おそらくここだな」

「なにがですか」

 ようやく追いついた。先生は部屋の真ん中で地団太を踏むように床を蹴っている。

「見てわからないか。第一の殺人はここで起きる」

 殺人?

「起きるんですか、ここで?」

「食事中に幾人かの人間が席を立ち、おそらくそのあいだに第一の殺人が起きる。被害者は席を立ったなかの一人だ。ほかの席を立った者たちにアリバイはなく、一度も食堂から出なかったメンバーには実行不可能な犯行となる。が、この場で起きた殺人を皮切りに、連鎖的に殺人が相次ぐ。一見、連続殺人に見えるがそうじゃない。初めの殺人と、第二、第三、の殺人は別の人物が――そう、それこそ第一の殺人では完璧なアリバイのあった中の誰かが犯人ということになるのだろう」

「いったいせんせーはなんの話をされているのですか?」

「起きていない事件を解決するというのは、ひょっとしたら私の人生のうちでも初めての体験かもしれない。まあ、くだらないのは変わらないがな」

 先生は部屋の中央部でしゃがみこむようにすると、おもむろに絨毯を鷲掴みにし、そしてちからいっぱいに剥ぎ取るようにした。テーブルクロス引きをするような素早い動作に、わたしは制止するのも忘れ、剥ぎ取られた絨毯の下から除く四角く縁どられた床を呆然と目にした。

「まあこんなことだろうと思ったよ」

「なにがですか?」訊きかえすよりないのが悔しい。

「おそらく殺人事件が起きたとき、この空間は密室であり、そして中で死亡している人物は、ちょうどここか、或いはこの周囲数メートルの距離に横たわって死んでいたはずだ」

「なぜそんなことが解るんですか」

「きみはバカなのか? 凶器を目にしておいて、なぜそんな疑問が口をつくのかが解らない」

 先生にも解らないことがおありなんですね、と揶揄すると、きみは皮肉も通じないのか、と返り討ちにあう。

「だって凶器なんてどこにもないじゃないですか」とせめてもの抗議を口にする。

「きみの目は節穴か?」

「そんなセリフを言う人、初めて見ました」

「ナイフを見ているのに、きみはそれでどうやったら人を殺せるんですかと訊ねているようなものだぞ」

 言って先生は、絨毯の下からあらわれた四角く縁どられた場所を蹴って強調し、「これは舞台でいうところの【セリ】だ」と続けた。「せり上がるというだろう。まさにあれと同じで、違う点と言えばこれの場合はどこまでも、それこそ天井とぴったりくっつくほど上昇する点にある」

「はい?」

「バカもここまでくると教え甲斐があるな」

「それが皮肉だってことはわたしにも解ります」

「つまりだ、よくあるだろ。映画などで天井が落ちてきてあわやぺっちゃんこという演出が」

「ありますね」

「あれの局所的バージョンだ」

「規模のちいさいのって意味ですか」

「そうだ」

「ああなるほど」ようやくここでわたしも先生がなにを言わんとしているのかを理解した。「そこに被害者が立った瞬間に、そこだけ足場が持ち上がって、それでどんどん上がっていって、最期には天井に挟まれてぺっちゃんこってことですね」

「だからさきほどからそう言っている」

「でもですよせんせー。だとしたら天井につくまえに下りちゃえばよくないですか?」

「きみはアホだな」

「否定はしませんけど怒りますよ」

「おまえはあそこから飛び降りられるのか?」言って先生は天井を仰ぐようにした。わたしも釣られるようにして上を向く。目がくらみそうなほど高い位置に天井があり、しかしそこはシャンデリアの明かりが逆光となって、はっきりとは見えない。まるで狙い定めたように巨大なシャンデリアが三つ隣接して垂れている。コインを三つ、ほかの二つとくっつくように並べると、ピラミッドのようなカタチとなって真ん中に穴が開く。ちょうどその穴を通るように先生の立っている足場は上昇するようだった。地上から仰ぎ見ていると、とてもではないけれど通れるようには思えないのだけれども、遠近法を排除すれば、おそらくは半径五メートルほどの隙間が空いており、かりにシャンデリアに飛び移ろうとしても、さきほど紹介されたメンバーたちではシャンデリアにたどり着く前にまっさかさまに落ちてしまうだろうなぁと容易に想像を逞しくできた。

「足場がぐらつけば人は無条件にその場にしゃがみこむ。エレベータなみの速度で上昇されたなら、途中で飛び降りようと思った段階で、すでに致命傷になりうる高さまで上がってしまっているだろうから、転落死か圧死か、いずれかを選ぶしかなくなるという寸法だ」

「寸法ですか」わたしはふむふむと納得したふりをしながら、でも、と疑問を呈する。「被害者がわざわざここに立ちますかね?」

「おまえならバナナを落としておくだけでも充分だろ」

「なるほど」

 首肯してから、ちょっと今のは抗議すべきところではなかったかな、と思い直し、「ひどいです」と睨み据えてみせるものの先生はすでにこちらを見ていない。

「鍵を被害者にかけさせ、密室をつくりあげるつもりだったんだろうな。そうさせるための方便はいくらでも考えられるだろう。内緒の話をしたい、さきに行って待っていてくれ、邪魔が入ると困るから内側から鍵をかけておいてくれ。着いたら合図する――とまあこんなところかね。このカラクリはそうだな」先生は足踏みするようにし、「遠隔操作できるようになっているのか、或いは体重を感知して起動するように設定されているのか。今はスイッチがオフになっているようだ」

 いずれにせよ、と先生は歩きだし、部屋のそとへと出て行かれる。わたしもひょこひょこあとにつづく。

「私らが食堂について行かなかった時点でこのトリックは不発に終わったわけだ。そして第一の殺人が起こらないかぎり、第二第三の殺人も起きない。これにて一件落着。さあ、帰ろう」

「えぇぇ!」わたしはたまげた。そして笑った。「せんせー。せめて何か御馳走になってからでも!」

「私はきみの作ってくれるホットケーキで充分だ」

「わたしがホットケーキしかつくれないからってそんないじわるを!」

「そういうつもりで言ったのではない」

 なぜかそこで先生は不機嫌になられた。

 以後、わたしがなにを投げかけてもだんまりを決め込んだままで先生は、イヨさんたちに挨拶もなく、そそくさと屋敷をあとにした。迷子になりそうなので一緒に帰るしかないわたしは、うしろ髪をひかれる思いで、豪勢な屋敷と、そして観光リゾート地を去るのだった。

 遠路はるばる、よもや先生のありがたくもない講釈を聞くためだけに足を運ぶとは思いもよらなかった。

 そして、帰宅したわたしたちの許に、数時間前まで上陸していたリゾート地で発生した集団殺人事件の嫌疑がかかるなんて、このときのわたしたちには想像だにできないのだった。

   


   ==瞬久間(またたくま)弐徳(にとく)==

「せんせーはいいですよ。これまでの実績のおかげで留置所に入らなくてもいいんですから」

「文句を言うな。女性専用の留置所だったのだろ」

「どんなところか知らないからそんな口をきけるんですよ。押入れのほうがまだ心地よいですよ。檻ですよ、檻。もう一睡も寝られませんでした」

「いちど夜中に見に行ったが、盛大ないびき声が入口をくぐった瞬間から聞こえてきたぞ」

「わ、わたしのじゃないですよ」

「そういうことにしておこう」

「わたしじゃないですってば」

「しつこいな。それでいいと言っているだろ」

「せんせー!」

 鯉仇恋花は怒鳴った。彼女は私の助手だ。手錠をかけられ、昨日届けた新品の衣服を着て、面会室の強化ガラス越しに座っている。

「こうしていると動物園を思いだすな」

「そういうことはたとえ思っても言わないでください」恋花は机につっぷすように顔を伏せ、そのままの態勢で、「せんせー」と母親におやつをねだるガキのような声音で、「とっとと事件、解決してくださいよー」と言った。「いつもならものの三秒で解決じゃないですか。いったいいつまで待たせる気ですか」

「腹の立つ言い方だな」

「あ、じつはすでに解決していてわたしを懲らしめようとしているとか」

「解決はしていない」懲らしめるという言い方がおかしかった。

「なんだぁ」と萎れる彼女を眺めているのも愉快である。

「そもそもこうして檻にいれられていないとはいえ、今回は私も被疑者の一人でね」

「はあ」

「ふだんなら黙っていても入ってくる情報が入ってこない」

「えっとぉ、つまり?」

「まだ時間がかかる」

「えぇぇええ」

「きょうはそれを伝えにきた」

「そんなぁ」

「着替えの用意も持ってきた」と風呂敷を掲げてみせる。「しばらくのところはこれらで我慢しろ」

「冗談ですよね?」

「嫌なら自前の服を着つづければいい」

「本気で言ってます?」

「どうせ誰に見られるわけじゃないんだ、贅沢言わず我慢しろ」

「せんせー、わざとしてません?」

「似合ってるぞ」

 言って、恋花の服装をまじまじと見る。「ここが動物園と言われたら私でも騙されそうだ」

「ひどいです! ゆいいつの味方と言ってもいい助手に向かってこんな、こんな扱いってないですよー」

「私はおまえを助手と呼んだ憶えはいちどもない」

「またそうやってヘンな意地ばっかり張って。もう、せんせーなんて知りません」

 トラの尻尾をぷらぷら揺らしながら恋花は付添いの職員に付き添われ、面会室を出ていった。今回の着替えはウサギとカメだが気に入ってくれるだろうか。元気そうな助手の姿にいくぶんか気分がやわらいだ。

 知り合いの刑事ことサル女を呼びだし、捜査状況を聞いた。芳しくない答えばかりが返ってきて辟易する。

「すまんがこれ以上は教えられんぞ」

「容疑が晴れないってだけ判れば充分だ」虚勢ではない。実際、決定的な証拠があがらなければ七十二時間の勾留のあと釈放される。だが容疑者として扱われたままでいたのでは探偵の名折れだ。

「どうする気だ」

「どうするもこうするも身柄を拘束されていたのではどうすることもできん」

「いつもみたいにはいかんのか」

「うちのバカを含め、おまえらはなにか勘違いしている。なにも私は本物のエスパーではない。偶然、ほかの者たちの知らない情報を知っているという優位性と、天才的な閃きがあるだけで、けっきょくのところやっていることはおまえら警察と五十歩百歩だ」

 むしろ証拠を集めず、もっとも確率の高い仮説を披露するだけでよいのだから無責任さは雲泥の差だ。さいわいにもこれまで数多くの事件を暴いてきたが、偶然に私の披露した仮説と真相が合致していただけのことで、しょうじきなところこれくらい私でなくともできるだろうと思っているのだが、案に相違し、私と同じことをする者は現れていない。

「情報が足りないのか?」

「足りないな。そもそも私らを被疑者扱いしているのはなぜだ。たしかに事件のあった当日、我々はあの屋敷に足を運んでいたが、すぐに帰った。あの場にいた人物たちとはほとんど言葉も交わしておらん」

「そのことについてなんだがな」サル女は神妙な面を浮かべ、「瞬久間(またたくま)たちの姿以外によそ者が出入りした様子がないというのは話したよな」と言った。

「監視カメラの映像だろ。しかし死角になっている場所くらい探せばあるだろ」

「それがないんだよ」

「なら屋敷に入らずに殺す方法があるってことだ。ちがうか?」

「当て推量で言われてもな」

「犯人が私らでない以上は消去法から言ってそう考えるよりほかはない。或いは集団自殺かもしれん」

「動機がない」

「からかうのはよせ」

「真面目に言っている。瞬久間――あたしはおまえを信用してはいるが、うえを説得するにはやはり動機から筋を通さなきゃならんのだ。おまえだってそれは解っているだろ」

「その議論に付き合う気はない」突っぱね、それはそうと、と探りを入れる。「被害者たちの死因はなんなんだ」

「だからそれをおまえに教えるわけには」

「毒殺か?」

「犯人しか知りえない情報をそうやすやすと口にするな」

 なるほど毒殺だったわけか。だとすればさきほどの当て推量もあながち的外れではなさそうだ。

「屋敷の外部から食材に毒を盛った輩がいるのかもしれん」と意見するが、それはあり得ない、と間髪を容れずに否定される。

「屋敷への食材は、地元のリゾート地でそれぞれ個別に仕入れられている。ランダムに選ばれた食材に的確に毒を仕込むのは現実的じゃない」

「観光客たちで身体の不調を訴えている者は?」

「探せば一人二人はいるだろうが、毒を飲まされたなら死んでいなければおかしい」

「毒入り食材を食した観光客に解毒剤を飲ませれば、死にはしないんじゃないか」

「どれだけの人間があの島を観光していると思っているんだ」

「どのくらいなんだ?」

 そこでサル女は言葉を詰まらせ、ざっと五千人くらいだ、と口から出まかせとしか思えない答えを言った。

「その半分以下の二千人といったところだな」

「ともかくおまえは容疑者として拘束中だ。余計なことはするなよ」

「家宅捜索は順調か?」着替えを取りに戻ったついでに検分に付き添った。

「いまのところ証拠品とみられる類の発見には至っていない」

「当然だ」

「しかしこのままでは状況証拠からおまえらの犯行として立件されるのも時間の問題だぞ」

「おまえはいったいどうしてほしいんだ。私を犯人に仕立て上げたいのか? それとも汚名を払しょくしてほしいのか? どっちだ」

「そりゃ後者だが」

「だったらせめて協力しろ」

「どうすりゃいい」

「私の目となり、口となれ」

「お断りだ」

 顔を背けるサル女だが、部屋から出ていく素振りはない。ややあってから彼女はあさっての方向を向いたままで、「で、あたしは何をすればいい」と言った。

 

 取り調べを装って情報を横流ししてくれるように頼んだ。事件当日この時間帯にどこでなにをしていた、と訊かれればそれが死亡推定時刻なのだと判ったし、用意された食事に口を付けなかった理由を聞かれれば、被害者たちが一様に毒物を経口摂取していたのだと察することができた。

 被害者たちがみな食堂で息絶えていたという話はニュースでもやっていたので知っている。食事に毒物が混入されていたとすれば、即効性の高い毒物であると考えられる。部屋のそとへ助けを呼びに行った者がいなかったことからも、アルカロイド系の毒物、たとえばアコニチンなどが凶器に使用されたのではないかと想像できる。現場がリゾート地ということもあり山に入ればトリカブトぐらい生えていそうなものだ。猛毒で知られるトリカブトの毒性成分がアコニチンだ。

 まず疑うべきは材料もろもろを仕入れた調本人でもあるコックだが、被害者たちのなかにそのコックが含まれているらしく、警察は早々に容疑者から外している様子だ。私としてはコックが犯人だと考えてもおかしくはないと思うところだが、しかし本来殺害現場となった食堂には私と助手の二人も居合わせている予定であった。果たしてコックが犯人だとして私たちを巻き添えにしてまで死にたくなるような背景があっただろうか。いやいや、そもそも犯人の動機を考えたところで意味がない。納豆が食べたかったから殺したんだと言って殺人を犯した人間を私は知っている。どんなことが犯罪のきっかけになるかはあまり重要ではない。言い換えれば、どんな事柄でもきっかけになり得る。考え出したらキリがない。

 コックによる心中まがいの殺戮と考えるにはやはり無理がありそうだ。

「動機と言えば、屋敷の主人――おまえを呼びだした嵌田イヨは資産家で、中小企業相手に出資しているらしくてな。おまえも彼女から大金を借りていたとかあるんじゃないのか」

 厳しい取り立てが問題となって数年前に行政から指導が入ったのだという情報をサル女は披歴した。が、嵌田イヨが大勢の人間たちから恨まれていたとして、なぜ彼女の取り巻きたちまで殺されなければならないのか。いや、人一人を殺すためならば無関係の人間を巻き添えにしようと考える気持ちが解らないわけではない。目的のまえには多少の犠牲はつきものだと合理的に考えて殺害計画を実行するのはなにもおかしいことではない。しかし警察は、殺されたほかの被害者たちにも殺害されて然るべき背景があったのではないかと踏んでいるらしく、或いはそれは期待しているとも呼べる先入観ではあるのだが、とにかく嵌田イヨを中心として殺害動機をしらみつぶしに調べている様子だ。 

「もうすこし有益な情報はないのか」

「島人たちからは一様に慕われていたらしいがな」そこでサル女は嵌田イヨがいかに地元の復興事業に貢献したかを話した。

「そうじゃない。たとえば生ゴミは調べたのか? 食材の残りから薬物反応が出たりとかはしないのか」

「生ゴミはカラだった。おまえらが来たときにちょうどゴミ収集業者が来てたみたいでな」

 たしかに記憶にある。

「もういいだろ、このへんで」辟易した様子でサル女はぼやいた。「で、どうなんだ。いつもみたいにぱぱっと解決できんのか。なんで今回にかぎってこんなに手間取ってんだよ」

「何度も同じことを言わせるな。まったく全容が見えないからだ」

 言うなればこれまで私の担当してきた事件は、ピースの足りないパズルだった。足りないパーツにそれしかないだろうという推測をあてがうと期せずして真相と合致していた。それが偶然何度も重なっただけのことだ。しかし今回は二、三個のピースだけがあり、ほかの大部分のピースが行方知らず。これでは全容を想像力で補ったところで実物とはかけ離れた像しか結ばれない。そもそも事件の当事者としてピースの一つに含まれてしまっている現状、俯瞰的にパズル全体を眺めるのは至難の業だ。そういった主張をサル女に呈してみせたが、「はいはい」と軽く受け流された。

「だいたいにおいて警察はなにをやっている」と苛立ちついでに指弾する。「いわばこれは島という密室でおきた事件だろ。ならば犯人はあのとき島にいた人間だ。乗客名簿、宿泊名簿、その他もろもろ物量に物言わせて片っ端から調べあげれば嵌田イヨと関わり合いのあった人間、それも恨みを連ねている人間などあっという間に割り出せるだろ」

「言われるまでもない。だがすべてを洗いだすには時間がかかる。しかも思った以上に該当者が多くてな」

「なに?」

「嵌田イヨの高利貸しまがいの商売は、表向き誰でも利用可能だ。むしろ利用していない人間を探すほうがむずかしい。おまえだって銀行のひとつやふたつ利用しているだろ? 元を辿ればあれらも嵌田イヨの息がかかっているようなもんだ」

「減らず口を」

「どこがだ」サル女は卑屈な顔で口元を吊るし、「事件を解決できない探偵なんて」とぼやいた。「犯人を捕まえられない刑事とどっこいどっこいだな」

「まるで私とおまえが同じ人間であるかのような発言に聞こえるが?」

「すまん、忘れてたよ。名探偵さまは人間ではなかったな」

「減らず口を」

「どっちがだ」

 状況が状況なだけにお互いぴりぴりしている。

 喉が渇いた茶を持ってこいと命じると、しぶしぶといった調子でサル女はペットボトルの茶を持って戻ってきた。それから調査報告会があるからと暇を告げ、こちらを勾留所へ案内したあと姿を消した。

 バスの停留所にあるベンチを彷彿とさせるベッドに寝転ぶとホコリが舞い、咳きこんだ。

 助手もこんな劣悪な場所にいるのだろうかと想像すると腹の奥がもぞもぞした。

 考えても無駄だと断じ、目を閉じる。

 さて。

 情報を整理する。

 被害者たちはみな食堂で死に絶えており、監視カメラの映像から、屋敷に出入りしていてなおかつ生存している者は私と助手の二人しかいないと断定されている。被害者たちの死因は毒物であり、経口摂取されていることからも料理に混入していたものとみてまず間違いなさそうだ。屋敷の所有者である嵌田イヨは闇金まがいの高利貸しを営んでおり、多くの者たちから恨みを買っていた。

 毒物の混入していた料理の材料は島で調達されたもので、それを行ったのは被害者の一人であるコックだ。いわば実質的な実行犯はコックなわけだが、彼はコマとして利用されたと考えるべきだろう。つまり客観的に判断するにおいて、真犯人は用意周到な計画のうえで犯行に及んだと考えられる。警察の推測もあながち的外れではなさそうだ。つよい執着、それもドロドロに煮えたつ恨みの渦を感じる。

 せめて嵌田イヨとほかの被害者たちの関係性が判れば突破口も見えてきそうなものなのだが。

 天井に開いた通気口をしばらく眺めていると、「面会ですよ」と警官が言いにきた。

「誰だ?」

「王子さまという方です」

「やっと来たか」

 待ちかねた荷物が届いたような心境で私は重い腰を持ち上げた。

 

「やあやあ。とんだ災難だったね」朗らかな微笑を湛えて王子が椅子に座っている。強化ガラス越しでの会話で、本来であれば身柄確保――言い換えるならば逮捕されてから七十二時間経過していない現状での面会は原則禁止されている。が、彼の場合は捜査協力の名のもとでのいわば取り調べの一環であるので許されている。

「よもやきみの事件にかかわれるだなんて人生捨てたもんじゃないね」

「皮肉はいい。仕入れた情報を寄越せ」

「相変わらずせっかちだなあきみは」

 まんざらでもなさそうな調子で王子は持参したファイルを開いた。メディア端末ではなく未だに紙のメモを利用しているところは好感してやるにやぶさかではない。

「まずはそうだなあ。被害者の嵌田イヨは屋敷の所有者で――」

「それ以外の者の来歴を教えろ。主として嵌田イヨとの関わりを中心にだ」

「解ってるよ。今それを説明しようとしていたんじゃないか」

 不平を唱えるというよりも、それはむしろ卵を割りだした母親に「ぼく目玉焼きより卵焼きがいい」と駄々を捏ねる息子へ、「今そうしようとしていたでしょ」とやさしく諭すような愛しみ溢れた声音に聞こえ、瞬間的に腹が立つ。

 王子はざっと被害者たちの情報を並べ立てていく。

 概要としてはみな嵌田イヨの恩恵を受けている者たちということ以外に繋がりはなく、ある者は古美術商であり、またある者は庭師であり、またある者はミステリー作家であったりした。彼らはみな嵌田イヨの依頼を受け、なにかしらの物品を贈与したり仕事を請け負ったりしていた。嵌田イヨが大勢の経済的弱者たちから巻き上げた金で身を肥やしていた者たちだ。彼らに支払われていた金額は、嵌田イヨから依頼された仕事の対価としては破格としか言えない額であり、ほとんどご褒美にちかいと言ってよい。

「身内びいきもここまで来るといっそ清々しいな」

「仲間内からはとても評判のいい方だったみたいだね」

 王子は淡々と報告を続けた。

 本土と島とを結ぶフェリーは一日に一本しかなく、しかし嵌田イヨの專用クルーザーであればいつでも往来可能だったという。

「弐徳くんたちも行き帰りには彼女の船を利用したんだよね」

「行きだけだ。帰りの船に間に合うように屋敷をあとにしたからな」

「なるほど」

「じらすな。さっさと見せろ」本命を出し渋るところなど、こちらをわざと苛々させているのではないかと思える。「どうなんだ。フェリーの乗客名簿、手に入れたんだろ」

「そんなに見たいのかい?」

「土下座させたいならあとでいくらでもしてやるからさっさと見せろ」

「いっしょに買い物につきあってくれるならいいよ」

「解った解った、いくらでもつきあってやるから」

「よし、契約成立だ」

 メディア端末のボイスレコーダーを起動させていたようで言質をとられた。が、背に腹は代えられない。こいつの場合、妥協しなければ本当にこのまま帰ってしまいかねない。妙なところで子供っぽいのだが、こちらのまえ以外では紳士の仮面を崩さないのがまた一段と気に食わない。

「事件発生前の一週間分の乗客者名簿だよ」

 強化ガラスの隙間から差しいれられたそれをぶんどるように受け取り、片っ端から目を走らせていく。事件発生前に本土からやってきて、事件後に帰った地元の人間以外の客を洗いだしていく。

「集中しているところ申しわけないんだけど、島人たちが犯人だという可能性は考慮しないのかい?」

「考えたが可能性は低い。嵌田イヨは身内には甘いというのはすでに聞いての通りだが、島の連中も彼女の恩恵を受けていた人間たちの一部だ。リゾート地化してから地元経済が潤っただけでなく、それらの費用すべてを嵌田イヨの援助で賄っているときている。直接彼女と交流のあった者はいないそうだからあの島で恨みを持たれるほうが難しいだろう。実際、事件の発覚した翌日から観光客が激減したそうで、島人たちはみな犯人への怒りを募らせているそうだ」

「それはどこの情報だい?」

 知り合いの刑事から仕入れたと言ったらいらぬ嫉妬を受けそうで躊躇われた。「勘だ」とだけ答え、お茶を濁す。

「いくら弐徳くんの勘がよく当たるからって裏付けは必要じゃないかな」

「あなたがしてきてくれるとでも?」

「弐徳くんの頼みなら仕方がないなぁ」

 どうせまた別途要求をしてくるつもりなのだろう。「べつに頼んじゃいないよ」とつっぱねてみるが、遠慮しなくてもいいんだよ、と王子は頼ってほしそうにこちらの顔を覗きこんでくる。餌を欲しがるヤギのようにまとわりつく王子を押しのけるようにし、やっぱりな、と私は確信を掴んだ。

「謎はすべて解いた」

「やっとかい?」

 拍子抜けとはこのことだ。こういう場合は、なんだってぇーと驚愕するのが筋ではないか。三秒伝説なるものが二つ名として膾炙していると事件を解いたところで誰も感心してくれない。名探偵というのも楽じゃない。

 

「事件を解いたって!?」

 王子からの報せを受けたのか、サル女がすっとんできた。

「調査報告会はいいのか?」

「んなもん抜けだしてきたわ!」

「現金なもんだな」

「いいからはやく言え。起訴されてからじゃ遅いんだぞ」

「逮捕しといてどの口が言う」

「御託はいいから犯人を言え」

「ん」

 王子から渡された資料を突きつけてやる。乗客名簿にチェックマークを付けておいた。

「よし。この中に犯人がいるんだな。ん……? にしても多すぎやしないか?」

「バカかおまえは」

「んだと」

「全員だ」

「なに?」

「そいつらすべてが犯人だと言っている」

「なんだって!」

 そう、この反応だ。事件を解決したと知るなりすげなく帰った王子にも見せてやりたい。

「全員ってそんなわけあるか」

「実際、毒を盛ったのはそのなかの数人だろうが、全員が犯行を可能とするために協力していたことは間違いないだろう」

「なんで解る」

 私が名探偵だからだ、では納得してもらえなさそうだ。今回ばかりは説明してやる義理がありそうだ。

「この事件、問題点はただ一つ。毒物の混入経路がはっきりしない点だ。しかし端から食材に毒物が混入していたと判ればなんの疑問も浮かばない」

「島人たちだっているし、ほかの客だっていただろう。仮に毒入りの食材を掴まされてたら被害は無差別に拡大しているはずだ」

「そうならぬようにするためのこの人数だ」

「もっとちゃんと説明しろ!」

「いいか考えてもみろ。リゾート地で働いている人間は誰だ? 多くは島の住民たちで地元の人間だ。彼らの売る品は総じて観光客向けの割高な商品だ。よってそれを購入するのはほぼ島のそとからやってきた観光客にかぎられる」

「だとしてもほかの観光客だっていただろう」

「ああ、いただろうな。しかし彼らはみな事件当日までには離島している」

「なんだって?」

「コレを見ろ」言って王子から仕入れた資料の続きを見せる。「事件後のフェリーの乗客率だ。島から離れる側の乗客はほぼ満杯なのに比べ、本土からの乗客は、島人以外ゼロだ」

「殺人事件があったんだ、キャンセルくらいふつうじゃ」

「予約されていたものの大半だぞ。いくらなんでも多すぎる」

「つまりどういうことだ?」

「フェリーは一日に一本しか行き来しない。そして乗れる人数も限られている。なら組織的に大勢が連日島に流れこんで来たらどうなる? オレンジジュースが並々注がれているカップに毎日すこしずつコーラを注いでいけば数日後には中身がすっかり入れ替わる。つまりだ。犯行があった日にいた観光客のほとんどは、嵌田イヨ一味を殺害するために結託した者たちで溢れかえっていたってことだ」

「いや、だとしてそれがなんだ? 食材に毒物を混入し、それを嵌田イヨ一味がその日に購入していくとはかぎらないだろ」

「だから大勢なのさ」

「ん?」

「私の助手も大概だがきみも相当にぶいな」

「いいから結論を言え、結論を」

「事件翌日の、本土からのフェリーの乗客率がほぼゼロなのは今見せたとおりだ。すなわちその日も本土から嵌田イヨ一味を殺害するためのメンバーが上陸する手はずだったんだよ。一週間もそれを続ければさすがに一度くらいは毒入りの食材を購入するだろう。それこそあそこは島なんだ。食材に限らず物品は地元の卸売から購入するより術はない」

「だが島人に犠牲者がいないのはさすがにおかしくはないか。だったらまだ島人もグルだったと考えるほうが筋が通っている」

「実際に毒を呑んだ者がいたかもしれないが、そうした者には解毒剤を飲ませていたのだろう。観光客すべてに解毒剤を持たせ、気分のわるそうな者には手当たり次第に飲ませていたのかもしれん。自分たちだって毒入りの食材を口にする機会がないとも言いきれないわけだしな。まあその辺の裏付けはおまえら警察の仕事だろ」

「にわかには信じられん」

「だからこそやる価値がある。そうじゃないか?」

 うーむ、とサル女はしばらく唸り、やがて、「乗客名簿にあった人間たちと嵌田イヨとの関係を徹底的に洗い直してみる」と言って面会室から出ていった。

 やれやれ。

 ひとまずはこれで弁護士を雇わずに済みそうだ。

 肩を揉むようにし私は、檻に閉じ込められ、抜け殻のようになっている助手の姿を思い起こし、なんと感謝されてやろうかな、とすこしあとの未来に思いを馳せる。



   ==鯉仇(こいがたき)恋花(れんか)==

   ***

 ちょっとお灸がすぎたかもしれない。わたしは大いに反省すると共に、いやしかしだねきみ、と内なる自意識さんが異議申し立ての札を高々と掲げる様を眺め、まあまあと諌めるに余念がない。

 名探偵の面目躍如ともいうべきか、書類送検される寸前で先生はわたし共々身柄を釈放させるに至らせた。しかしわたしとしてはいかんともしがたい汚名を着せられただけでなく、実際に不名誉極まりないマニアックな洋服もとよりアニマル着ぐるみを着せられたわけなのだから、これはもう、不満も不満、堪忍袋の緒を切らすのは今しかない、というくらいの勢いで、せんせーなんてしりません、とだんまりを決め込んではや二日。

 さすがにそろそろ許してあげてもいいかなー、と三日目にして先生のお屋敷に顔をだしてみると、なんともはや、わたしのせめてもの誠意とも言うべきか持参した「東京バナナ」に目もくれず、こちらの投じたあらゆる呼びかけのことごとくを無視し、しまいには目のまえでバイトの求人誌に「助手募集」という広告を打ちだした。

 これはちょっとひどすぎではないの。

 勢い余って怒声を浴びせてしまったのがまたよろしくなかったようで、先生はいっそう殻に閉じこもってしまわれた。

 たしかにわたしもおとなげなかったとは思うのだけれども、それにしてもこの仕打ちはないように思う。

 わたしはわたし專用とも呼ぶべきお茶セットが屋敷の裏のゴミ収集所に置かれているのをようやく探し当て、腰に手を添え、全身でため息を吐きだす。

「もうせんせーってば子どもみたい」

 怒り半分、諦め半分。

 膨れた胸の奥では、妥協すべきじゃないの、と内なる聖母がにわかにやさしくささやきかけてくる。

「でも、いくらなんでもコレはないよ」

 異論を唱えても、内なる聖母は、あのひとがポンポコピーなのは今にはじまったことじゃないでしょ、と正論を吐きかけ、わたしに逃げ場のない道を指し示す。

「もう! わたしは助手なのに!」

 ふつうは先生と呼ばれるほうが助手を支え、道を示すべきなのに。

 しょうがないのよ、と内なる聖母は言い、しょうがないのよね、とわたしもようやくというべきか、臍を固めた。

「辞表を提出します」

 封筒を突きつけると、わたしの内なる聖母は、え、そっち? と臍を固めた方向が予想外であったらしく戸惑いを隠しきれずに、同様にして先生もまたぎょっとした表情で差しだされたそれを受け取り、しばしそのまま固まった。

 内なる聖母は、止めるなら今ですよ、と届きもしないささめきを投げかけ、先生はしかしそんなわたしの内なる声に気づきもせずに、

「好きにしろ」と吐き捨てるのだった。

 わたしは先生がそれを読まずにゴミ箱のなかに放ったのを冷ややかに見届けてから、荷物は後日うちのほうに郵送しておいてください、とせめてもの責任をなすりつけ、最期の暇を告げたのだった。

 一週間が経ち、二週間が経過したころにはもう先生のことなど忘れてわたしは出席日数の足りない講義の単位を確保すべく、追加のレポート制作に汗水たらして取り組んでいた。

「さいきん弐徳くんの様子がヘンなんだよ」

 食堂でばったり王子さんと会った。うどんがなかなか噛みきれなくてわたしはほっぺたをパンパンにしながら、なんです? と小首を傾げて訊きかえす。

「前に、仕事を手伝ってあげた代わりに買い物につきあってくれるって約束をしていてね。で、先日いっしょに出かけたんだけど」

 ようやくうどんを呑みこんでわたしは相槌を打った。「どこがヘンだったんですか」

「うん。まるで幽鬼にとりつかれた人間みたいでね」

「勇気?」ならべつに困ることはないのでは。

「たぶんレンカちゃんは勘違いをしているね」王子さんは目じりを下げ、「時間があったらいちどあいつの顔を見て来てくれないか」とこめかみを掻いた。

 言葉とは裏腹に、ぜったいそうしてほしい、というつよい意思が言葉の端々から感じられた。

「なにかわたしのこと言ってましたか」

「弐徳くんがかい? いいや、なにも」

 嘘を吐いているふうには見えなかった。ただ、王子さんはおとなので、どこかの子どもじみた誰かさんとはちがい、本音がいつも藪の中だ。

「そういえばレンカちゃん、さいきんよく構内で見かけるね」ついでのように王子さんは言った。

「だって学生ですよ、わたし」

「感心、感心」

 王子さんは割り箸を手にし、キツネそばをものの三十秒で片づけた。すくりと席を立つと、「まあ暇があったらでいいからさ」と言い残し、無駄なくわたしのまえから撤収した。

 やれやれ。

 わたしは王子さんの意図を汲み、手元のうどんをやっつけてから提出期限があすに迫ったレポートを、その用紙をカバンの底に放りこみ、食堂をあとにした。

 しょうがないじゃない。

 王子さんたっての頼みなんだもの。

 

 こりゃ思っていた以上に重傷だ。

 書斎の扉を開けると雪崩が起きた。本物の雪ではなく、丸められた紙屑の山だと判る。部屋の奥までプールのように埋まっている。以前にもいちどこうした光景を目の当たりにしたことがある。たしかあれは初めてこの屋敷を訪れたときだった。あのときも王子さんたっての頼みで、先生の身近な世話を任されることになったのだ。思えば最初は助手という肩書ではなかったのだなぁ、とふいに懐かしさが込みあげる。

「まったくもー」

 資源の無駄なんだから。

 わたしは紙屑の山を掻き分け、或いは掻きだしながら部屋の奥、先生のデスクまで雪山で遭難した登山者みたいにズクズク進んだ。

「ちょっとせんせー。生きてますか」

 先生は机に齧りつくような態勢で、ものすごい速度で紙面を文字で埋め尽くしている。塗りつぶしては丸め、塗りつぶしては丸め。いったいなにがそんなに気に食わないのか、と不安になるほど一心不乱に筆をとっている。

 でも先生に不満などはないのだ。

 頭のなかの光景を、物語を、ただ文字にして出力したいだけで、出し終えた文字には、物語には、毛ほどの興味もないだけのことで。

 ――飼っていたカメが死んだんだ。

 わたしに先生の世話を頼んだとき、王子さんは自身の身内が亡くなったかのような沈痛な面持ちでそう言った。

「数える程度にしかないんだけどね。むかしから弐徳くんは心の支えを探していて、それがなくなると途端に空想の世界に閉じこもってしまうんだ。そう、趣味で小説を書いている話はしたよね。べつに小説家になろうとは思っていないらしいんだよ。実際にかれの書いたものを読ませてもらったけど、とてもではないが賞をもらえるような代物ではない。ただ、独特な世界観があってぼくは好きなんだけどね」

 王子さんはいつも先生の話をするときだけどこか遠い場所にぽつんと一人立っているような淋しげな表情をされる。わたしはたぶん、その憂いげな顔が好きなのだ。

「まったくもう。王子さんにまで心配かけて」

 小説の世界に旅立たれたまま帰ってこられない様子の先生のあたまをわたしはポカリと叩いた。

「こりゃ、聞きなさい」

 先生はようやく筆を止め、ゆっくりと虚ろな眼差しをこちらへ向けた。わたしはその眼差しをじぃと受け止めてから、まったくもう、と鼻から息を漏らし、雪のなかから掘り出すように足元の紙屑の山からゴミ箱を探り当て、手にとり、先生のまえで見せつけるように逆さにして中身をぶちまけた。

「せめて辞表くらい読んでください」

 ゴミ箱のなかからは案の定、わたしの提出した辞表がそっくりそのままの姿で飛びだした。

「読んでください」

 先生は血走った目で、けれど虚ろな眼差しのまま差しだされた封筒を見つめている。

「もう、せんせー!」

 堪りかねてわたしは封をびりびり破り、中身の用紙をとりだした。

「これは、辞表では、ありません……!」

 勝訴! と記者が裁判所のまえで掲げるようにわたしは先生の顔のまえに突きつけた。

「なんて書いてありますか? 読めますか? 読めますよね、だってひらがなですもん!」

 先生は言語を解するチンパンジーのような片言で、

「ゴメンナサイ……?」

 突きつけられた用紙にでかでかと書かれた一文を口にした。

「よし。ゆるす!」

 わたしは言って、先生の頬を、その虚ろな顔を、両手で叩き合わせるようにした。

「戻ってきて、せんせー。わたしが子どもでした。せんせーはもっと子どもだけど、でも、いいんです」

 だって先生は、おかしいのだから。

 すべてが、ことごとく。

 先生の瞳に理性の光が灯りだす。濁っていた湖が澄んでいくような変化が見てとれる。わたしは畳みかけるように先生のおでこに、おでこをごっつんこし、言った。

「わたしにとってべつにせんせーなんかいなくてもいいんですけど、でも、せんせーにはわたしが必要なんですよね。わたし、ちゃんと解ってるんです。代わりの支えが見つかるまで、しばらくわたしが貝柱でも大黒柱でもロンドン橋でもなってあげますから。だからせんせー。戻ってきて」

 くっつけていたおでこを離すと、先生は初めて会ったときみたいにまるでダルマさんのように難しい顔をし、まったくどうしてお節介焼きだなきみは、などとぷつぷつと声にだすともなく吐き捨てるようにし、それからスイッチが切れたとばかりに鈍い音を立て、机のうえにつっぷすのだった。

 さて、ここからがたいへんだぞ。

 すでに体験済みのわたしは、寝床の用意と、部屋の片づけと、それから当分の点滴の用意をしなくてはと、つきっきりの看病の支度を頭のなかでつらつらと慣れた調子で展開していくのである。

 



   【瞬久間弐徳の困憊】END




【改悪∞白雪姫】


 むかしむかしおじぃさんと〝おばかさん〟が、白雪姫の放逐されたあとの城に我が物顔で住んでおった。おじぃさんは山へしばかりに、おばかさんは女王にシバかれに、魔法の鏡のある部屋へと足を運んだ。鏡のまえでは女王が、「鏡よ。鏡。世界で一番うつくしいのはだぁれ?」となまめかしい声で唱えていた。おばかさんはここぞとばかりに、「それはお城に住むおばかさんだよ」と鼻をつまみ、声を変えて言った。発声した場所は女王の真後ろであり、鏡のふりをした意味がなく、また、変えた声音もそこまで鏡に似ていなかった。振り向いた女王は、頭隠して尻隠さずそもそも頭すら隠していないおばかさんを目の当たりにし、息を吸う間もなく「こにゃろめ!」と全力でおばかさんの股間を蹴りあげた。かかとで踏みつけもした。おばかさんは「あふん」と身もだえした。

   *

 そのころ山ではおじぃさんが、小人の家で寝ていた白雪姫を襲い十度目の射精を迎えようとしていた。白雪姫は三度目の絶頂に届きそうというところでおじぃさんが腰を振るのをやめてしまったので、胸元のペンダントをいじりながら物欲しげに、「どうなされたのですか」と尋ねた。おじぃさんは顰め面で、「なにやら不穏な気配が……」と窓のそとを見遣った。

   *

 そのころ七人の小人たちは山の奥地で、背の伸びるキノコを探しあてようと血眼になっていた。そこへ近隣の王子が通りかかり、小人たちはなぜか十把一絡げに狩られてしまった。「珍妙な生き物が獲れたぞ」王子は嬉々として宮殿へ小人の骸を持ち帰った。

   *

 そのころ城では、どう痛めつけてもよろこぶばかりのおばかさんを、どうにかして懲らしめられないかと女王が頭を抱えていた。「鏡よ。鏡。こやつの嫌がることを教えておくれ」こんなことで鏡のちからを使いたくはなかったが、背に腹は代えられない。女王の問いを受け、鏡は答えた。「白雪姫と結婚させるのがよろしいですわ」いわずもがな、おばかさんの声音である。女王は振り向きざまにおばかさんの股間を蹴りあげた。かかとでぐりぐり踏みつけもした。そうしておばかさんを痛めつけつつも、鏡の返答――おばかさんの嫌がること――をきちんと耳に止めていた。鏡は言った。「おじぃさんを殺すことですよ」

   *

 いっぽう、いくら待っても小人たちが帰ってこないので白雪姫は心配になった。が、小人たちの代わりにおじぃさんが七人分の精力で以って慰めてくれたので不満はなかった。おじぃさんのソレは、小人たちのモノと比べようがないほど逞しく、やはり小人は小人でしかなかったのだなあ、と白雪姫は現状を肯定的に評価した。

「わしと共に城で暮らさんかね」おじぃさんの誘いはうれしかったが、白雪姫は断った。「お城には帰りたくありません」

「なぜだね」

「おかぁさまがいじわるをするのです」

「わしから言って聞かせよう。なぁに。彼女もわしの虜だよ」

「いやいや。わたくしだけ愛してくださいまし」

「ならうしろの穴も許してくれるね?」

「もう、おじぃさまったら。へんたいさんなんだから」

 きゃっきゃうふふしている二人のもとに忍び寄る影があった。小人たちの足跡を辿り、借り暮らしのアリエッティもとより「狩り狂いのあり得ない王子」がやってきていた。

   *

 そのころ、城では女王率いる軍隊が出陣の構えをみせていた。「浮気者には天罰を! おばかさんにも天罰を!」鏡のちからを以ってすれば、おじぃさんと白雪姫の肉汁入り混じる関係など筒抜けであった。女王は怒り心頭に発しており、おばかさんのおばかっぷりが火に油をそそぐかたちとなり、女王の強行に拍車をかけていた。

「目標は色惚けジジィ! 見つけ次第、即刻処刑にせよ!」女王は勇ましく先陣を切った。

   *

 そのころ、おじぃさんは闇から飛んでくる矢を防ぐのに気を削がれ、白雪姫の居場所を見失っていた。飛んでくる矢の方向はてんでバラバラで、相手の人数も、居場所も、皆目見当がつかない。もし相手が一人だとすると相当の手練れということになる。防戦一方のおじぃさんは、ふと、おばかさんがいればなぁ、と思った。白雪姫の悲鳴が闇夜に響いた。

   *

 女王はしかと聞いた。白雪姫の悲鳴である。白雪姫あるところに色惚けジジィあり。女王は軍隊に命じた。

「標的は近い! 矢を放て!」

 総勢千を超える猛者たちがいちどきに三本の矢を束にして、そら高く射った。矢は三千の雨となり闇の奥へ降りそそいだ。間もなく、へなちょこな悲鳴が森閑とした闇に染み入るように響いた。イタいイタい、やめてやめて、と泣き叫ぶ何者かの方向を示し、女王はみたび「矢を放て!」と命じた。三千の雨がふたたび降りそそぎ、何者かの叫喚は止んだ。女王はそこで、ついさきほどまでそばに拘束していたはずのおばかさんの姿がないことに気づき、辺りをきょろきょろ見渡した。「はて。おばかはどこいった?」

   *

 おじぃさんは白雪姫の存命を諦めていた。おそらくは突然降ってきた、数千の矢の雨に討たれ死んだのだろう。小人の家を一歩でも出ていれば、こちらもタダでは済まなかった。事実、白雪姫を人質にとり、こちらに姿を晒すように脅してきた何者かは、情けない悲鳴をあげ、呆気なく死した。遺体を見るまでもない。生きているならば、つぎの矢が降ってくる前に安全地帯であるこちらへ飛び込んでくるはずである。動きがないということはそういうことだ。おじぃさんは新鮮な肉壺を失ったことを心惜しく思ったが、命あるだけよしとしようと思った。こちらに向かって大群の足音が近づいてくる。

   *

 白雪姫は疑問で胸がいっぱいだった。おどろきのあまり小屋を飛びだしてしまったあとで現れた青年は誰なのか。なぜ彼はこちらに向かって刃を突きたてるのか。そしてなぜ彼は突如として倒れてしまったのか。青年のあたまからは細長い枝が生えている。えいや、と引っこ抜き、それが矢であったことを知る。なるほど。この青年は矢に討たれ息絶えたのだ。見遣れば、辺り一面、矢の草原と化している。鬱蒼と生える木々にも、カビのように矢が突き刺さっており、草原よりもむしろ冬の山を思わせた。すべてが分厚い膜に覆われている。なぜじぶんは助かったのだろう。ようやくまっとうな疑問を巡らせたところで、近づいてくる足音があることに気づいた。一つではない。何百という大群が列をなしてやってくる。助けにきた者たちかもと期待したが、そうではないことを白雪姫は知っている。追放した者をわざわざ連れ戻しに来る酔狂な者などいない。おじぃさんだけが例外だ。しかし彼もけっきょくのところ、こちらの肉体にしか興味がない。白雪姫は人知れず涙した。胸のペンダントをいじりながら、幼いころに出会ったオバケの三太郎のことを思った。そのとき、「おじょうさん」とこちらを呼ぶ声がした。

   *

 なぜおじぃさんがじぶんのことを「おばかさん」と呼ぶのか、ふしぎだった。しかし事実じぶんはおばかさんなので、それも詮なきことだと看過してきた。念願叶って白雪姫の許に行きついたいま、おじぃさんからなんと呼ばれようともそんなことはどうでもよろしい。きっと彼女は「おばかさん」ではなく、こちらを本当の名で呼んでくれることだろう。大地を覆い尽くさんとばかりに乱立する無数の矢を、三太郎はその身を盾にし防いだ。すでに死した者ゆえ死なぬ身体である。身体は布のように薄く伸び、白雪姫の未成熟な肢体を包みこんだ。

「おじょうさん」

 彼女のあたまに声を落とした。こちらを見上げた彼女の胸元には、かつて出会ったころにはなかったやわぁかそうな膨らみがふたっつあり、その谷間には、かつて彼女に預けた「分身」がちいさく輝いている。

   *

 日差しがちいさく輝いている。朝陽が昇りきる前に、遠くへ逃げようとおじぃさんは思った。無数の矢を射ってきたのが女王率いる軍隊であることは半ば自明である。魔法の鏡を通してこちらの動向が筒抜けになっていることくらい想定の範囲内である。予想外だったのは浮気程度で女王が軍隊を動かしたことである。なにか浮気のほかにこちらへ殺意を向けざるを得ない要因があったのではないか。おじぃさんはおばかさんのおばかっぷりを思いだし、ため息を吐いた。そとに出ると、若い男の遺体が転がっていた。おじぃさんはそれを身代わりにしようと一計を案じた。その場で服を脱ぎ、遺体の衣服と取り換える。さらに遺体の顔を十数本の矢でもってめった刺しにした。元の顔の解らぬほど損壊した遺体は、服装から鑑みるにおじぃさんにしか見えなかったが、若い肉体を改められでもしたら偽物だと一目でばれてしまうにちがいなく、おじぃさんはさらに遺体の全身を百数本の矢でめった刺しにした。偽装工作をしているあいだにおじぃさんはふと、なぜ白雪姫の遺体はないのだろうか、と思い到った。きっと彼女は生きている。なるほど、おばかさんが助けたのだな。頭脳明晰に見抜いたそのとき、

「見つけたぞ!」

 女王の屈辱に満ちた声が背後から届いた。

   *

 こんなことになるのなら、と女王は思った。あのとき洞窟から生きて帰った白雪姫を殺してやるんだった。魔境へ置いてきぼりにした白雪姫が、何食わぬ顔で城に戻ってきたのは、今から十余年も前のことである。

   *

 なぜ三太郎がこうしてじゆうに出歩けるのか。白雪姫はふしぎに思っていた。「あなたはあの洞窟から出られないのではなかったのですか」胸元のペンダントを掲げ、「わたくしにコレを預けてしまったから」と言った。

「とある霊媒師の助けを借り、あなたを追ってきたのです」

 白雪姫の投げかけた問いは、思いがけない答えとなって返ってきた。かつて白雪姫は、いじわるな継母の詭計により、森奥深くの洞窟に閉じ込められた。そこは井戸のように深く、とてもではないが白雪姫一人で脱出するには困難な場所であった。多くの魔物が棲みついており、迷い込んだ者は二度と生きてはでられないと言い伝えられている魔境であった。しかし白雪姫は生きて帰った。三太郎の寄越したペンダントが魔除けの役目を果たし、さらに彼は洞窟に差しこむ月光を湯水のように溜め、こちらの幼い身体を浮かし、洞窟の入り口付近まで運んでくれた。齢、六つのころの話である。

   *

「懐かしいなぁ」白雪姫の話を聞き、三太郎は回顧する。

「分身」を手放した三太郎は洞窟から一歩も出られなくなった。そとに出れば即座に消えてしまう空虚な存在となり、白雪姫には二度と魔境に近づくなと言いつけておいた。以来ずっと洞窟に閉じ込められてきたが、偶然にも霊媒師であるおじぃさんがやってきた。魔物たちの封印を手伝う代わりに、白雪姫を探すための「足」の役目を担ってくれるよう交渉し、「分身」を手放してから十数年ぶりに洞窟のそとに出た。しかしいざ城に行ってみるとそこに白雪姫の姿はなく、おじぃさんは昼夜問わず女王と肉欲に溺れ、こちらの鬱憤は溜まっていくばかり。三太郎は女王にシバかれることで溜飲をさげようと画策したが、おばけである身ゆえ、どのように責められようとも暖簾に腕押し、ぬかに釘。紆余曲折を経て、こうした顛末を辿ったわけである。

「コレがないとあなたさまは、コッチにいられないのですよね」白雪姫から「分身」を返してもらう。

「そうそう。ぼくの器なんだ、それ」

 どこの骨かは分からないけれどね、と三太郎は言った。

「やだわ。これ、あなたさまの骨でしたの?」

「そうだよ」

「ばっちぃ」

「ばっちくないよ」

「バイブ代わりでしたの。これからも時々使わせてくださいまし」白雪姫の思いがけない告白に三太郎は、

「それもいいけど、ぼくが肉バイブになってあげてもいいんだよ」と提案した。

「あなたさまはオバケですよ? 肉なんてどこにあるのですか?」

「見くびってもらっちゃあ困るねぇ。オバケに不可能はないのさ」

 三太郎は百の触手を操り、千の技を駆使し、累乗していく快楽の連鎖を、万の射精により抽出した媚薬で以って白雪姫に与えた。

 白雪姫は淫魔を越える快楽のルツボに身を委ね、しあわせなときを過ごしたという。

   *

 そのころ、おじぃさんが千の軍隊を相手取るため、冥界の門を開き、魔王を召喚して、この世にふたたびの暗黒時代を呼び戻したのは、またべつの話である。

 オバケとおバカは紙一重。


 とってんぱらりのぷぅ。




【改悪∞白雪姫】おわり。




【デブに真珠】

 ちいさいころから童話が苦手だった。保育園で読み聞かされた白雪姫や、就寝前にぱらぱらめくったアンデルセン物語など、とかく不幸な娘が王子と出会ってしあわせになるといった類の、とくにその陰で不幸に身をやつし苦しむこととなる魔女なる存在がいると、途端に呑みこみきれない理不尽さを覚え、ぶつけようのない反発心に俺の心はささくれ立った。

 他人の不幸を顧みず、まるで這い上がるために強者を引きずり下ろそうとする姫や王子たちの、無垢な悪意に反射的な拒否反応がでていたのだと推察できる。

 青い正義感というやつだ。

 そう考えると、中学生のころに読んだ芥川の「蜘蛛の糸」に言いしれぬ親近感が湧いたのもうなずけるというものだ。

 かじかむ手を拝むように擦り合わせる。吐く息が闇夜に溶ける。

 童話の苦手な理由が、青い正義感からくるひねくれた考えだけではないと気づかされたのは、思春期を迎えた時分だ。当時、身体を動かすことだけがゆいいつ心を穏やかにする方法だった俺にとって、肉体的強度が男の魅力の大部分を占めていると信じて疑わない思春期真っただ中の少女たちに囲まれて過ごすというのは苦痛以外の何物でもなかった。彼女たちは相対性に生きている。高みを望むと同時に底辺を蔑み、高みをさらに高み足らしめようとする。俺は彼女たちにちやほやされている分、運動の得意でない「底辺組」が、日本史で習った「えたひにん」のように、上級や中級とされる彼氏彼女たちの踏み台にされることに密かに心を痛めていた。かといって声高らかに非難できるほど彼女たちのそれは表面化された悪意ではなく、自然とそうなるようにと流れる空気のようなものだった。

 ある日俺は、クラスの中心的女子に告白された。彼女はクラスだけに留まらず、上級生たちからも一目置かれる、いわゆる早熟という名の美貌を兼ね備えた少女だった。が、俺はそんな彼女を袖にし、メンツを傷つけられた彼女の報復とも呼ぶべきか、翌日からはゲイという枠組みで扱われた。

 とくべつ同性愛に偏見はなかったが、それだけに、あたかもそれを悪口のように唱える同級生たちに俺はやきもきした。

 彼女を振った理由はいくつかあったが、端的に言葉にするとなると、彼女が童話の姫や王子と重なって見えてしまいどうしても好きになれなかったから、となるだろう。か弱い雰囲気と華奢な身体を武器にし、彼女たち「上級組」は悪意なく悪意を振りかざす。それを魅力と捉える者たちが割合に多く、だからこそ彼女たちは「上級組」にあぐらを掻いていられるのだ。

 姫を姫と足らしめているのは、姫自身ではなくその周囲の中級層――上級に憧れる大衆なのだと俺は知った。

 同級生たちが思春期真っただ中だったころ、ご多分に漏れず俺もまた思春期に目覚めており、淡い恋心を、とある少女に寄せていた。彼女はいわゆる「底辺組」に与される根暗な性格の娘で、いつも自分の座席でひとり文庫本に目を落としていた。

「なに読んでんの」

 何気ない調子を装い、声をかけた。彼女はこちらに目を向けると、あからさまに、「げっ」という顔をした。ゲイ疑惑を信じているわけではないのだろうが、どうにも俺は邪魔者であるらしかった。俺は密かに傷つきながら、「おもしろい本があったら貸してよ。俺も好きなんだ本」とイタチの最後っ屁を放ち、席を離れた。

 卒業式を終えるまでに交わした最初で最後の彼女との会話は(もはや会話とさえ呼べないが)、そうして尻つぼみに、それこそトカゲの尻尾きりのようにぶつ切りに終わった。

 初恋の残り香が胸の傷と共に薄れつつあった高校生の時分、俺はようやく自身の悪癖とも呼べる偏向を見抜いた。どうやら俺は、姫が苦手なのではなく、魔女のほうに心惹かれていたらしいのだと。だから童話が苦手だったのだとそのころ俺は自覚した。

 冬空のした、十年も前のじぶんを顧みながら、放り出してきた仕事を思い俺は、俺の知り得るかぎりの魔女たちの生い立ちに、その孤独の深さとそれに耐え得る彼女たちのつよさに、思いを馳せた。

 

 当てもなく彷徨っていたからか、見知らぬ場所に出た。拓けた空間だ。破れたフェンスをくぐったのがいけなかったのか。空き地のようにも公園のようにも見える。遊具はない。

 大学に通うためいちど家を出たが、現在の職に就いてからまた地元に戻ってきていた。二十年以上住んでいるが、近所にこんな場所があったなんて知らなかった。

 まつ毛にホコリがついたと思い、目を擦ったところで、雪が舞っていることに気づく。

 どうりで冷え込むわけだ。一時避難を考える。

 視線の先、なだらかな丘を越えたところに屋根つきのベンチがある。秘密の花園に据え置かれたメリーゴーランドを彷彿とさせるつくりの洋風のベンチだ。真ん中にはなにもなく、丸く縁どられた壁の内側に、円をなぞるように座るでっぱりがある。俺はひとまずそこに身を寄せることにした。

 驚いたことに、屋根の下には誰かが寝泊まりしているのか、簡易マットやら毛布やら漫画やら、段ボールに詰め込まれたスナック菓子などが無造作に散らばっていた。ホームレスにしてはいささか金のかかっていそうな物ばかりで、使い込まれているといったふうもなく、なるほどここはガキどもの秘密基地か、と当たりをつける。

 仕事をほっぽりだし、責務から逃避してきた俺もガキのようなものだ、同族のよしみだ、匿ってくれ。俺は誰にともなく心でつぶやき、毛布を身体に巻きつけた。

 あたたかく、そしてなぜだか甘い匂いがした。

 屋根が雪を隔て、背の低い壁が寒気を防いでくれる。なかなかの快適さだ。

 豚のぬいぐるみが転がっており、枕代わりにした。積まれているマンガ本を手に取ると、購読している作品の最新巻だった。

「どんだけボンボンだよ」

 野ざらしではないといえども、買ったばかりのマンガを無人の秘密基地にころがしておけるだろうか。不用心というよりもこれは物に対する愛着がなさすぎるのではないか。なぜか義憤に駆られた。かろうじて残っていたおとなとしての矜持を手放し、段ボールの中に詰まったスナック菓子の袋に手を伸ばす。ボンボンのガキに気兼ねするほど、俺は人間ができていない。

 だんだんと身体がぽかぽかしてきた。気を抜くと途端にうとうとしだす。奥歯に詰まったスナック菓子のカスを舌でこそげ取り、虫歯が増えたら困るなぁと、そんなことを考えながら、浮いては沈み、浮いては沈み、バンジージャンプのようなまどろみに身を投じた。

 雪崩に巻き込まれ、ひざから下が押しつぶされた夢を見た。夢だと自覚できたのは、意識が半ば覚醒していたためで、実際のところ、それが夢であり、かつ現実でもあるのだと俺は見抜いていた。

「お、重い……」

「なんだ、生きてた」

 あごを引き、足元のほうを見やると、ひざのうえに巨大な影が乗っていた。雪だるまに似たシルエットで、グローブのような手を駆使し、スナック菓子の袋から器用にスナックをつまみだしている。

「重いんだが」俺は言った。

「腹に乗ってみせようか?」巨大な影は、その巨躯に似つかわしくのないかわいらしい声音で、おそろしい提案をした。

「つぶれる、つぶれる」俺は、いやいやと首を振る。「どいてくれないか。動けない」

「だって寒いでしょ」

「いやいや」

 もういちど首を振る。こんどは手も付けた。その肉塊で寒さを感じるとは思えない。粉雪が吹きこみ、寝ぼけた思考が醒めていく。「というか、おまえ、誰だ?」

「こっちのセリフだし」彼女は――彼女と言っていいのだろうか、その巨体の持ち主は、グローブのような手でつまんだスナック菓子を口に放りこみ、「不審者のくせに」とシャクシャク云わせながら吐き捨てた。

「お言葉だがな」俺は咄嗟に反論していた。ひたいに手をやり、暗記した年号を唱えるような調子で、「俺が不審者なら、その不審者をさらに凌ぐ、スーパー不審者がおまえだぞ」と口にしている。「不審者の自由を奪い、あまつさえ頭ごなしに不審者のレッテルを張り、さも自分は正常であるような発言を振りかざすことで、自分の正当性を主張しようとしている。まさに不審者の鑑だ」

「そう? 実際に正当な主張だと思うんだけど。だってあなた、不審者でしょ?」

「お言葉だが、俺が不審者でおまえが不審者でない憑拠はどこにある。そもそも最初にここにいたのは俺だ。おまえでなく、俺なんだ」

 おそらくは彼女もまた俺と同様に、ここへおびき寄せられるようにしてやってきた逃亡者なのだろう。物理的に現実逃避を試み、しかし突然降ってきた雪に無残にも現実に引き戻された憐れなナメクジだ。

「だいたい、女が一人でこんな時間帯に出歩いてること自体が問題だろうが」

「男女差別だよ、それ」

「うるせえよ。だいいちおまえ未成年だろ。帰る場所くらいあんだろうが。さっさとおうちに帰んな」

 暗がりに目が慣れてきた。というよりも、空間に明かりがある。ランプ型の懐中電灯がよこに置かれている。俺のうえに乗る女は、ダウンジャケットを着ているわけでもないのにモコモコしており、ヒマワリの種を口いっぱいに頬張ったハムスターを思わせる顔つきで、こちらを目だけで見下ろしている。あごの肉が邪魔で下を向けないようだ。その窮屈そうな顔からは、あどけなさが抜けきっていない。小娘であるのに小娘とは呼べない体格だ。超特盛娘とでも名付けようか。

 マウントをとられた体勢で肉ダルマの側面像を分析していると、

「そっちはないわけ?」

 唐突に超特盛娘は言った。

「は?」

「帰る場所。あなたにだってあるんでしょ」

 ただ帰りたくないだけだ、と口を衝きそうになったが、言えるわけがない。こいつだって帰りたくないからこうして真冬の雪空のした、ホームレスじみた真似をしているのだ。言えばこちらの優位性がなくなる。

「おまえに言う必要はない」

 ガキはさっさと帰れ。

 突っぱねるように言い聞かせるが、その言葉に説得力が伴っていないことを俺自身が誰よりも弁えている。しぜんと覇気がなくなる。

「毛布はまだそっちにあるだろ」毛布の端っこを、視線で示す。「せめて俺のうえから降りろ」

「ダメだね」

「でなかったら出てけ。ポテチ食うだけならどこでだってできるだろうが」

「だから、凍えちゃうでしょって」

「それだけ肉で防御してたら吹雪のひとつやふたつどうとでもなるだろうが。雪男に遭遇してもおまえならだいじょうぶだ。半分くらい食ってもらったらどうだ、そのたるんだ贅肉ごと」

 棘をまとわせた俺の暴言が聞こえなかったわけではないだろうが、超特盛娘は、

「うちじゃなくて、おっさんが凍えちゃうでしょって」

 嘘偽りのないと判る澄んだ目で、こちらをまっすぐと見下ろすようにした。それからまったく変わらぬ口吻で、だいたい、と早口で並べたてる。

「こんな肉団子を襲うもの好きはいないよ。だから夜に出歩いてもダイジョブなんだし。そもそもここはうちの指定席で、ずっと前からうちの場所だよ。で、これがいっちゃん重要なんだけど、たとえ法律で未成年者の夜間外出が禁じられていたとして、いまがどんな時間帯だったとしても、自分家の敷地で過ごすのは犯罪じゃない。で? どうしてほしいのかな、不法侵入者のおっさんは? うちに?」

 スナック菓子の食べかすをボロボロ浴びながら俺は、じぶんよりも一回りは年下であろう、超特盛娘へ向け、

「警察には通報しないでほしいです」

 仏さまに拝むように手を合わせた。

 

 超特盛娘は俺を追いだすことをせず、居たければ居ればいい、と逗留を許可し、さらに凍死されたら困るから、という理由で自らクッション兼防寒具の役を買ってでた。毛布は一組しかなく、下手にでるしかない俺はだから彼女の善意を拒むことができず、唯々諾々と巨大な湯たんぽを抱きかかえるようにして彼女を懐に招き入れた。たしかにあたたかい。厚みの割に小柄であり、ジブリ映画にでてきた小ぶりのトトロを思わせる。

「名前はなんてんだ」

「うち?」

「俺は槻田(つきた)ってんだ」今さらながらの自己紹介をする。

「したの名前は?」

「宇宗(うそう)」

「は?」

「ウソウだ。そういう名なんだ」

「へんなの」

「そういうおまえは何てんだ」

「言いたくない」

「そんなんありかよ」こちとら本名を明かしているのだ、名乗るのが礼儀だろう。

「デブでいいよ。呼びやすいでしょ」

「逆に呼びにくいだろ」

「ふとっちょチャンとか」

「長い」

「じゃあ、肉でいいよ」

「じゃあってなんだ、じゃあって。デブよりかはいいが、なんでおまえが妥協しましたみたいになってんだ」

「槻田さんはなかなかノリがいいねぇ。なんだか年下の子どもとしゃべってるみたい」

「褒められたと思っとくよ」

 面倒なので俺は彼女を「おまえ」と呼び、内心では超特盛娘として扱うことにした。

「いくつなんだおまえ」歳を訊いたつもりだったが、

「だいたい六十前半かなぁ」とんでもない数字が返ってきた。

 どう見ても初老ではない。すぐに、

「体重の話じゃねぇよ」

 言葉の意図を汲む。俺と同じ体重とはぞっとしない。「つうか話するときくらい食うのやめろ。毛布が食べかすでクリスマスツリーになってんぞ」

「クリスマスツリーではないでしょ。槻田さんはおおげさだなー」

 聞けば超特盛娘は、まだ中学生だという。背丈こそないが、横幅がもはや少女のものではありえない。鏡モチを擬人化すればこんなだろうなぁ、という外見であり、それこそ雪だるまみたいな愛嬌がある。

「いまから生活習慣病にかかったら困るぞ」

 一向にスナック菓子の袋を手放さない彼女の腹をポコポコ叩く。超特盛娘は身体をよじるものの、悲鳴をあげるでもなく、無防備に身体をこちらへ預けている。

 なんだかこちらのほうが胸をくすぐられた心地になる。俺は超特盛娘の腹をつまみ、その分厚い皮下脂肪をゆびさきで弄んだ。「こんなに無駄な肉つけやがって」

「みゃはは、みゃはは」

 さすがにくすぐったかったのか、超特盛娘はこちらの手を振り払うようにした。俺はそのあまりに壮絶な動きに思わず、旧式のドラム式洗濯機を連想した。ぐおんぐおん、うねるようにジタバタする超特盛娘は、ルフィのジェットガトリングのように俺の秘孔という秘孔を、ゆいいつ贅肉の覆われていないひじでもって強打した。

 金太郎に投げ飛ばされたクマのように軽々と突き飛ばされた俺は、背もたれ代わりにしていた壁に後頭部を強打し、意識を失った。目覚めたときにはすでに陽はのぼり、辺りは雪原のキラキラと眩い光に満ちていた。そばに超特盛娘の姿はなく、真新しい足跡が森のほうへ点々とさびしくつづいていた。

 

 翌日の夜にも俺は秘密の花園ならぬ秘密の野原へ向かった。明朝、そこを離れるときに周囲をよくよく観察してみた。本当にただの野原だった。雪が積もり白紙のノートと化してはいたが、いっぽうが住宅街と隣接し、その反対側が森林公園へとつづく森へと通じていた。超特盛娘は森のほうへ消えたわけだが、そちらに住居らしきものは見当たらない。

 屋根つきベンチのある場所にたどり着くと、そこにはすでに超特盛娘がおり、昨日はなかったせんべいをバリボリ云わせながらマンガ本に目を落としていた。

 野生の動物たちと暮らす金太郎を思わせる超特盛娘だが、彼女の身にまとっている衣服は、質素でありながらもなかなかに上等な服飾であると分からせるに充分な色艶があり、現にそれには毛羽立ちや色落ちなどが見当たらず、新品同様であるのだと窺えた。彼女の体系からして特注品であることもまたおなじくらい確かである。

「おい、肥満児」俺はやや剣のある声で、彼女をわざと傷つけるつもりでそう言った。

「んー? なんだ槻田さんか」下膨れた顔に似つかわしくのないまんまるい目がこちらを向く。

 屋根のしたに入り、俺は、

「なんでおまえ毛布使わないんだ」超特盛娘の対面に腰をおろす。「風邪ひいちまうぞ」

「涼んでたから」

「は?」

「ここまでくるのに汗かいちゃった」

 言われてみればなるほど、彼女の顔からは細々とではあるが湯気が立ち昇っている。気化した汗だと考えればこの場で息をするのは躊躇われそうなものだが、なぜか俺は意識的に鼻から息を吸っていた。赤子に特有のミルクの匂いがした。

「毛布、槻田さんが使っていいよ」

「ガキにめぐんでもらうほど落ちぶれちゃいねぇよ」

 言いながら、汗を掻いたというならば余計に風邪をひいてしまうのではないかと案じ、俺は昨日とおなじように彼女の背後にまわり、彼女の肉厚な身体ごと毛布にくるまった。

「あったけー」

「そうだよ。だって暑いもん」嫌がるでもなく超特盛娘はぼやいた。

「やわらけー」

「そうだよ。だってたぷたぷだもん」

「なんで得意げだよ」

「うちさ、けっこうおっぱいおっきんだよね」

「こういう状況でそういうこと言うなよ」

 非難しながら、たしかに彼女の胸はそこらの小娘と比べれば破格の大きさだと評価する。

「でも、Aカップなの」

「は? んなわけあるか」

「ホントだよ。なんでだと思う?」

「さあてね」信じられなかったが、嘘にしては吐く意味がない。「一周回ってイチに戻ったって感じか?」

「おっぱいの大きさって、トップバストとアンダーバストの差からサンシュツされるんだけど」

「ほお、サンシュツされるのですか」わざと拙い言い方を真似る。気にするでもなく超特盛娘は自身の胸を揉むようにし、「うち、おっぱい以外もたぷたぷだから」と言い訳するでもなくぼやいた。

 肥満体質を気にしていないくせに、いっちょうまえにバストサイズは気にするのか。乙女心はよくわからん。

「痩せたらDカップはあるんじゃないのか」

「そうかなぁ?」

「うれしそうにするなよ。痩せたらって言ったんだ。おまえ、痩せれんのか?」

「ムリでしょー」

 はしゃぐように超特盛娘が足をばたつかせるものだから、その振動が俺にまで伝わり、太鼓の気分を味わった。

「動くな、動くな! つぶれちまう!」

「はーい」

 しょんぼりしてみせる超特盛娘が、なんだかいじらしく映ってしようがない。

「槻田さんはきょうだいいる?」

「なんだよいきなり」すでに彼女はマンガ本を手放している。こちらにぐてーと体重を預け、ぬいぐるみのようにおとなしくしている。「俺は一人っ子だ。きょうだいはいない」

「さびしくなかった?」

「それがふつうだったからなぁ」

「おとうさんとおかぁさんは?」

「いるよ。今も一緒に暮らしてる」

「あ、そうなんだ」そこで彼女はなぜかうれしそうにした。「それはいいね」

「おまえはいないのか」

「きょうだい?」

「もだし、親とか」そもそもこんな時刻に家を抜けだし、寒空のした見知らぬ男と毛布一枚で同衾しているという様は、状況だけ見れば、不健全である以上に、犯罪的だろう。未成年者の夜間外出だけでも看過するにはいささか大きすぎる不良行為に思われる。

「おとうさんもおかぁさんも、お仕事でいそがしいから」

 淋しさを紛らわせるために、夜な夜な家を抜けだし、ひっそりとした野原で夜をすごす。そうしたい気持ちが解らないでもない。開放的な空間にいないと、押しつぶされそうになるのだろう。俺が仕事から逃げ、ここへ行き着いたのと同じなのだ。

「ここ、いいよなぁ」しぜんと口を衝いている。

「いいでしょー」

「ホントにおまえん家の敷地なのか?」個人の所有地にしてはずいぶんと広い。

「そうだよー」

「家、どこにあるんだ?」

「あっち」と指さした方向には森が広がっている。

「あんなかに住んでんのか?」

「その向こう側。けっこう遠いんだよ」

 伸ばされた手の短さと、そのまるっこい手から生える人差し指の愛くるしさに俺は危うく溺れかけた。

 誤魔化すように、

「肥満児の言う【遠い】ほど当てにならないものはないからなぁ」

 憎まれ口を叩いている。

「クラスのひとたちは、デブはなんでも【おいしい】っていうから信用ならないって言ってたよ」

「おまえ、いじめられてんのか」

「うんみゃ。いじめられてはいないよ」

「ともだちとかは?」

「いるよ。すこしだけど」

「というかおまえ、いつ寝てんだ」

「眠くなったらだよ。ふぁぁ。なんか眠くなってきちゃった」

 そうつぶやいたきり、超特盛娘はこちらにもたれかかるようにし、深い眠りへと落ちていった。彼女が夢とうつつの境界線を踏み越える様を、俺は身体に伝わる重圧の変化から感じとった。

 気づくとふたたび朝になっており、そこに超特盛娘の姿はなかった。

 

 日課ができた。夜になったら屋根付きベンチに足を運び、そこで超特盛娘と毛布に包まり、下世話な話に華を咲かせる。

 実際問題、そうしているところを巡回中の警察官にでも目撃されれば、俺の社会人としての立場は脆くも崩れ去るだろう。そうでなくとも彼女の両親、果ては俺の両親などに発見されようものなら、俺のかろうじて保たれている社会人としての矜持や面目は、スズメに飛びこまれた蜘蛛の巣のように造作もなくハチャメチャになったはずだ。

 にも拘らず俺はふしぎと、仮に目撃されてもなんとかなるんじゃないのか、それどころか問題になんてなるわけがない、といった楽観的な見解を自身の胸の裡になんの根拠もなく築き上げていた。

 それはおそらく、俺自身が超特盛娘をまえにしている現状、どうあってもこのチンチクリンな小娘に対して破廉恥な考えを向けるわけがないという確固とした自信があるからで、言い換えれば、天地がひっくり返ったってよしんばミジンコが宇宙征服を果たしたところで俺がこいつに欲情などするわけがないし、万が一にも間違いなど起こらないと、俺だけでなくそれを見かけた第三者であってもそう見做してくれると俺の理性が判断しているからである。超特盛娘からすればたいへんに失礼な宣言であるだろうが、すくなくとも俺は彼女を好ましく思っており、それは通常成立し得ない男女間の友情を可能とする個々の関わりあいを土台とした、純粋な交流であるはずだった。彼女からしてみても、一回り以上年上の俺など恋愛対象になるはずがないし、彼女自身、惚れた腫れたの世界は夢物語以前に、自身の世界からは隔絶された星明かりのような代物であるらしい。

「クラスの男子とかで気になるやつとかいないのか」興味本位で尋ねてみたこともあったが、

「いるよ」

「へえ、どんなやつだ」

「武藤くんっていって、陸上部なんだけど、ふくらはぎが絶妙な肉付きのよさでね」

「お、おう。念のために聞くが、どういう意味で興味があるんだ」

「おいしそうだなって」

「聞いた俺がわるかった」

 当の本人がこんな具合である。

 中学生であるというのだから、近所の学校に通っているのかと思い、昼間にちょっとした好奇心で覗きに行ったことがあった。地元であり出身校でもあるため、見学させてほしいという要望を伝えたところ、外来客というバッジを首からぶら下げることを条件に許可が下りた。耐震工事が繰り返されたのか、俺の知る校舎とは様相を異としていたが、懐かしいと思えるくらいにはまだ面影がある。

「じつはさいきん、ここの生徒さんらしきコに助けてもらったことがありまして。名前を訊くのを忘れてしまったのですが、こう恰幅のいい、ぼんやりしたコでして」

 何気ない調子で超特盛娘の情報を聞きだそうとしたが、

「女の子ですか? 男の子ならそういった児童がちらほらいるのですが」

 煮え切らない返事ばかりでじれったく、いっそのこと「こうこうこういう体格の、ぬぼぅとした性格の肉ダルマみたいな娘ですよ」と身振り手振りを交えて訴えたくなったが、ぐっと呑みこんだ。

 夜になり恒例のごとく屋根付きベンチへ向かった俺はそこで、紆余曲折を経るように長々とじぶんの学生時代の話を織り交ぜて語り、それとなく本当に中学生なのか、といった旨を歪曲な言葉に載せ、どら焼きを頬張る超特盛娘に向けてぶつけた。

「いいなぁ。うちも地元の中学校行きたかった。まだ中二なのにもう受験勉強はじまってるんだよ」

 どうやら彼女は私立の学校に通っているらしかった。いかにもボンボンの子どもらしい待遇ではないか。考えてもみれば、こんな体格で毎朝徒歩で通っているわけがないのだ。森を抜けてくるだけでも発汗率が百二十パーセントを超える規格外の娘であるのだから、学校へは車で送迎されているとみて然るべきだ。学校に到着するまでのあいだギリギリまで寝られることを思えば、さもありなんではないか。

「よもや召使いなんて雇ってねぇだろうな」

「メシ使い? なんかおいしそう。魔法使いの親戚みたいなのかな。呪文を唱えるとおいしい料理がたくさんでてくるの」

「両親の三人暮らしか?」そう言えば前に、きょうだいはいるのか、と訊かれたことがあった。一人っ子の俺に同情めいた眼差しをそそぎ、きょうだいをうらやましがるような発言であったことから、おそらくこいつも一人っ子なのだろうと思った。さぞかし甘やかされて育てられているのだろう。思うと、たぷたぷの肉をつまんでやりたくなる。

「三人だけじゃないよ」意に反して超特盛娘は、「林さんや、森さんもいるし」と言った。

「は?」

「お掃除とか、ご飯を用意してくれる人。うちがちいさいころからずっと家にいるけど、親戚じゃないんだって。槻田さん家にもやっぱりそういう人はいないの?」

 クラスメイトたちとも同様の会話をしたことがあるのだろう、世間一般の家族構成を彼女はきちんと理解しているらしかった。世間一般の家庭には親戚でもないのに家事をすすんでこなしてくれる人など一緒に住んではいない。すでにご存じではあるだろうが、と前置きしてから俺はそういった旨をやや皮肉まじりに語った。

「だってそんなの知らないもん」超特盛娘は拗ねたように丸まった。肉団子が肉まんになった。

「そういや知ってるか」俺は話題の転換を図った。「この辺に有名な作家が住んでるらしいんだが」彼女の機嫌を立て直そうと俺は太鼓持ちのように、「ひょっとしておまえん家がその作家の家なんじゃねぇのか」と希望的観測を口にした。

「うちじゃないけど、え、なにそれ。初耳だよぉ」

 案の定、超特盛娘は食いついた。

「覆面作家らしいからな。娘のおまえに黙ってがっぽがっぽ稼いでんのかもしれねぇぞ」

「がっぽがっぽ?」首だけ捻ってこちらを振りかえようとしたようだが、超特盛娘には首と呼ぶべき部位は存在しないので、身体ごとぐいと捻るような形になった。腕のなかで小型の台風が発生した気分だ。

「いや、そうかもしれないって話で、実際のことは解らねぇよ。おまえんちの財政事情を俺が知るわけないんだからよ。でもおまえの話からすりゃ、おまえんちはかなり裕福そうだし、家政婦も雇ってるんだろ?」

「家政婦? 森さんたちのこと? べつに家政婦って感じでもないよ」

「そうなのか?」

「んー、どうなんだろ。みんなの話す家政婦っていうのとはちょっとちがうなぁって。だって森さんも林さんも、うちの家族みたいだもん」

「ほおん」

「でも、きょうだいって感じでもないし。なんだろ? 親が四人いるみたいな?」

「そりゃ面倒だな」

「仕事する人と、小言言う人と、世話してくれる人と、遊んでくれる人」

 聞いただけで両親がどこに属するのかが想像できた。せめてどちらかは後者に属していてほしいと望むが、超特盛娘の口ぶりからすれば期待薄と判断して差支えなさそうだ。

「ひょっとしたらそのひとらが作家かもしれない」

「なわけないでしょ。なんでうちにいるわけ?」

「そりゃ最新作をいち早く読みたいからに決まってんだろ」さも常識であるかのように口から出まかせを吐く。「いかにもぼんぼんが考えそうなことだ」

「ぼんぼん?」

「まあ、んなわけないよな」

 一人で盛り上がり、かってに自己完結する。それから口調だけを明るく維持し、「淋しくはないんだよな」と水を向ける。

「ん?」聞こえなかったわけではないだろうが、超特盛娘は訊き返した。

「森さんと林さんだっけ? そのひとたちがいるから、淋しくはないんだよなって」

「うん。さみしくはないよ。さみしいと思ったことはないんだよ。うん、さみしくはないんだ」

 自分へと言い聞かし、確認するような彼女の口吻に、俺はほとんど反射的に、

「おまえはあったかいなぁ」

 うでが交差するほど深く抱き寄せていた。嫌がるそぶりはない。洗髪してきたばかりなのか、仄かに甘い香りがする。

「槻田さんもそこそこあったかいよ」

「そこそこかよ」

「暑くならないから、ちょーどいい」

「褒めてもなにもでねぇぞ」

「褒めてないよ?」

 ぷくぷくの手で俺の腕を掴むようにすると、超特盛娘はなぜか口を開け、俺が身構えるよりもさきに躊躇なくかぶりついた。

「イッテ、なにすんだクソガキ!」

「いっひっひ。うみゃい、うみゃい」

「うまいわけねぇだろ」実際そこまで痛くはなかったが、こちらが振りほどこうとしても彼女は、警察犬もかくやというしぶとさで、歯を立てずに驚異的な吸引力だけで食らいついている。

「意味が解らん!」俺は笑いだしていた。そこでふと閃き、脇腹をくすぐってやると、超特盛娘は触覚に触れられたカタツムリがごとくの反応のよさで身体をよじり、こちらのうでから口を離した。ボタンを押したので明かりが消えましたといった具合だ。それから、どんぼこ、どんぼこ、陸に打ち上げられたクジラにも似た動きでじたばたと暴れた。

 図らずも俺は扇風機の羽に触れたカナブンのように、突き飛ばされ、またもや後頭部を壁に強打した。

「イツツツ」

 超特盛娘をイタズラに刺激すればそうなることはすでに体験済みだったにも拘わらず、なぜそうしたかについては俺としてもなぞだった。意識まで飛ばされなかったのはさいわいだ。

「だって、槻田さんがくすぐるから! 槻田さんがくすぐるから!」

 責めてもいないうちから超特盛娘は取り乱し、逆切れにも似た剣幕でまくし立てた。いや、この場合は正当な主張ではあるのだが、いかんせん鷹揚な性格の娘だと思っていただけに、その過剰な反応に違和感を抱く。

「ああ、わるかったって。そんなに怒るなよ。落ち着け、まずは落ち着け。な?」

「落ち着いてるよぉ!」

 まったくそのように見えないのはなぜなのか。そしてなぜ俺は今もなお壁に身体を打ちつけられているのか。

「やめろ、やめろって」なんとか宥めようと試みる。「おいちゃん、せんべいみたいにつぶれちゃう」

「だってうちのこと責めるから!」

「責めてねぇだろうが」

「だって、だって」

 いつの間にか超特盛娘はしゃくりをあげていた。狸の置物がめそめそしているようで見ている分には滑稽だが、いかんせん馬乗りになられている身としては重力の厄介さをぞんぶんに満喫中であり、命の危機を禁じ得ず、慰めるよりもさきに、「頼むからどいてくれ」と泣き言じみたお願いをするよりない。

「槻田さんはうちがじゃまなんだ。うちなんかいなくなればいいと思ってるんだ。そうでしょ、そうなんだよ」

 せんべいにならずに済んだことに胸を撫で下ろしていると、超特盛娘は身体から湯気のように「めそめそ」を滲ませ、さらなる拍車をかけていく。

「ああ。邪魔だ、邪魔だ。おまえなんか、湯たんぽ代わりだ。じっとしてらんねぇなら、毛布以下の価値もねぇ」

 売り言葉に買い言葉が口を衝いたのは、彼女の一方的な決めつけに刹那的な苛立ちが湧いたからだ。いくら拗ねたからといって、おまえを邪魔に思うような狭量なおとなに見えたってのか。思った矢先に、これこそ狭量なおとなの狭量な対抗心ではないか、とはっとした。

「槻田さんなんか!」すくと立ち上がると超特盛娘はぷくぷくほっぺをさらに膨らませ、こちらをまん丸い目で見下ろした。「槻田さんなんか、こっぺぱんに挟まれて食べられちゃえ!」

 走り去る彼女の背を茫然と見届けながら俺は、意味が解らんとつぶやくのがやっとだった。数分前まで楽しくなごなごしていたというのに、思春期のガキの考えていることはなぞだ。

 家に帰るとおふくろが起きていた。ご機嫌に鼻歌を奏でている。またぞろ海外ドラマを夜通しで観ていたのだろう。寝る前に夜食とばかりにバナナを齧ると、

「それ、母さんのだよ」

 目を吊り上げて、バナナとは関係のない小言を並べだした。

 むべなるかな。現実とはこういうものであるらしい。小説のように人間の行動に、感情に、秩序などはない。俺はおふくろの小言を受け流し、仕事をほっぽりだしたまま寝床に就いた。

 翌日から俺は秘密の花園へは歩を向けなかった。昼間、散歩がてらにその近辺を通ったりもしたが、フェンス越しからでは屋根付きベンチを目にすることはできなかった。思っていた以上に奥ばった場所に建っているようだ。なだらかな傾斜、丘のようになっているためか、森の入口もこちらからでは見えなかった。

 それから数日があっという間に過ぎた。冬休みに突入したのか、そとを出歩けばガキどもを見かけた。超特盛娘の姿を探しているじぶんに気づき、あいつがこんなところを一人で出歩いているわけねぇだろうが、と思う前に顔が熱くなるのを感じた。


 いい年をして実家暮らしをしていると、類は友を呼ぶではないが、同じような境遇の同級生とつるむ機会が増える。その日も俺は平日の真昼間だというのに地元の同級生のもとを訪ねていた。

 洋風の瀟洒な扉を開けると、小気味のよい鈴の音が店内に響く。

「いらっしゃい」

「どうも」

「あら珍しい。ウっちゃんのほうからウチに来てくれるだなんて」

「あいつは?」

「部屋に閉じこもってなんかやってるよ。そうだ、そとに連れ出してやってよ。お昼おごるからさ」

 どこの母親も我が子には甘いらしい。

「まぁ、そのつもりで来たんですがね」

 店内にはほかにも数人の客がおり、オバさんはこちらへ小言にも似た挨拶をかけながらコーヒーを淹れている。「今手離せないからかってにあがって」「おじゃまします」カウンターを回って店と繋がっている母屋のほうへあがらせてもらう。厨房ではおやっさんが洋風コックの格好で親子丼をつくっていた。

「相変わらずチグハグな店だな」

 わざと聞こえるように言い、俺は二階へあがった。上り終え、廊下に足を載せたとき、ちょうど店内に流れていたジャズが軽快なアニソンに変わったのが聞こえた。

 扉には「KEEP OUT」と書かれたステッカーが貼られている。高校生ならまだしも、このさきにいるのはいい年こいて定職にも就かず、かといって実家の喫茶店を手伝うわけでもなく、好きかってその日暮らしをしている俺の同類である。

「入るぞ」すでに扉を開け放ってから俺は言った。もわっとした熱気が顔を塞ぐ。

「あー待って、待って」

 カホはこちらに手だけを向け、

「服着るからちょっと待って」

 備え置き型のメディア端末から目を離さずに言った。

「いやいや。なんでパンツ一丁だよ」

「やだなー。ブラもしてるよ」

 作業を中断させるつもりはないようで、ディスプレイに齧りつき、キィボードを叩きつづけている。

「つーか暑いな」

「でしょー?」

 暖房機に近づき、設定温度を五度下げる。それから回っている扇風機に近づき、電源を切った。

「あぁー、なにすんの」

「電気の無駄だろ。暑いなら窓を開けろ。寒いなら服を着ろ」

「かってにいじんないでよ」椅子を回転させ、ひざを抱えた格好でカホはようやくこちらを向いた。下着姿が目に毒で、俺はフィギュアの詰まった棚に目をそむける。

「また増えてないか?」

「そのために稼いでるようなもんだからね」

「来年の確定申告は自力でやれよ」

「えぇー。いっしょに税理士雇おうよー」

「そんな余裕はない」

「うそこけ」

「いいからはやく服着ろ」無造作に投げ捨ててあった衣服を手に取り、ぶん投げてやる。

「見たいなら見ていいのに」からかうでもなくぼやき、カホはアニメキャラの描かれたTシャツをあたまから被った。腰まで隠れる丈の長さで、パンツを穿いていないように見える。余計に卑猥だ。

 穿きものを探したが見つからず、俺は折衷案としてキャラもののタオルを投げつけた。

「え、なにこれ?」

「腰に巻いとけ」

「逆にやらしくない?」文句を垂れながらカホはおとなしく従った。ひねくれた性格ではあるが、素直さが取り柄の女と言っていい。コスプレ用の衣装に埋もれたソファを掘り起こし、俺はそこに腰掛けた。

「で、なんか用?」

 迷惑そうにカホは、ふたたびメディア端末の画面に向き直った。仕事を邪魔してわるいとは思うが、それはこちらのセリフだ。

「おまえが呼びだしたんだろうが。用がないなら帰るぞ」

「あ、そっか。思いだした。待って待って」

 引き留める意思があるとは思えない口吻でカホはデスクの隣にある段ボールの山に手を突っこんだ。段ボールの側面には穴が開いており、中を物色できるようになっている。

「あったあった。コレコレ」引っ張りだされたのは文庫本だ。カホはこちらに投げてよこす。

「なんだこれ」受け取り、表紙に目を走らせる。

「ん。なんか昨日、寝てたら思いだしてね」

「んだそりゃ」表紙は日焼けしており、ところどころシミができている。大手の出版社のものだが聞いたことのない作者名だ。

「ほら、ウっちゃんさ。あたしに初めて話しかけてきたときのこと憶えてる?」

 胸に鈍い痛みが走り、すぐさま消えた。アボカドのタネを呑みこもうとして、胸の辺りにいっしゅん詰まったような痛みだ。「ああ」

「すっかり忘れてたんだけど、昨日ふと思いだしたんだよね。今さらだけど、面白い本」そこでカホは、あたしが面白いと思った本、と言い直した。「貸すから、こんど感想きかせて。その本、シリーズ物なんだけど、あたし、それに関しては一家言あるからさ」

「へぇ」

 雑食かと思っていたが、これと名指しできる嗜好がこいつにあったとは。意外な発見だ。

「今だから言うけどな」俺はなぜか言うなら今しかないような気がし、言う必要も感じられなかったが、口にしていた。「俺の初恋はあのとき終わったんだ」

「はぁー?」

「今となっちゃ、なんでおまえなんかと思うけどな」

「あは。そういうこと? えぇ、うわ。なんだよー。言ってくれりゃよかったのにさあ」驚くでもなくカホは笑い、「あたしだって好きだったのに」とご丁寧にも過去形でいまさらのように、本当にいまさらのように、告白をした。

「んだよそりゃ」眉間にちからが籠るが、口元はほころびる。「だっておまえ、あのとき俺のこと避けたじゃねぇか」

「あたしだってあのころはいっぱしに乙女だったんだよぉー」

「話かけたとき、【ゲッ】って顔したじゃねぇか」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

「まぁ、後悔先に立たずってね。今にして思えば、それでよかったと思うし」

「まぁな」

「どうする? あたしとウっちゃんが恋人になってたとしたら」

「考えたくもねぇな」

「だよねー」屈託なくカホは顔をくしゃくしゃにした。

 すくなくともあのとき互いを意識し、親交を深めたりなどしたら、いまのこの関係には発展しなかっただろう。受験期にさしかかり、家にも学校にもいたくなかった俺が足繁く通うこととなったこの喫茶店が、図らずもカホの実家だったと知ったのは、高校入学を終えた夏のことだった。カホは県外の寮生の高校に進学しており、受験期も塾で忙しかったのか、喫茶店で彼女を見かけることはなかった。夏休みになり地元に戻ってきたカホが、バイトと称して実家の手伝いをしはじめたのは偶然でもなんでもなく、そんな彼女の姿を常連である俺が見かけないはずもなかった。失恋の傷心が癒えかけていた俺にとって、言い換えれば半年以上も経って未だ引きずっていた俺にとって、その偶然でもなんでもない必然というやつに運命を感じるのは、それこそ必然だったのかもしれない。それくらいカホとの再会は、衝撃的であり劇的だった。

 が、好機とばかりにカホとの交流を図った俺が恋心を再燃させることはなかった。

 往々にして、憧れとは眺めているからこそ抱ける幻のようなものであり、いざ手に触れてみれば、それが如何様に不格好な形状をし、如何ほどに歪んでいるのかをむざむざと突きつけられるものである。俺はカホの内面に根付くウゴウゴとした妄執を目の当たりにし、全力で引いた。

 せっかく進学校を出たというのにカホは大学へは進まず、実家に引きこもり、独自に事業を開始した。それが事業と呼べるほどの利益を叩きだしていると俺が知ったのは、彼女との縁がすっかり腐りきった大学三年の就活の時期であり、俺は自らの将来への不安を、自堕落にその日暮らしをしているカホへぶつけ、自らの卑小さから目を背けようと無意識のうちから抗っていた。そのことをカホに糾弾さながらに指摘され、上から目線が癪に障る、いったいおまえは何様だ、と追い打ちをかけられ、終いには、

「あたしは自分のことは自分でしてる。親のすね齧ってるウっちゃんにだけは言われたくない」

 ぴしゃりと跳ねのけられ、トドメをさされた。

 清々しいまでの正論に、目の覚める思いがした。

 やりたいことをやって成果をあげているカホに触発されたと言えば、そのとおりで、自らの単純な脳みそに敬意を表したくなるほどだが、運が良いのかわるいのか、カホに発破かけられたかたちで奮起した俺は、今の職を志してから一年で、社会人としてのスタートを切ることに、一応の成功をみせた。が、その後、仕事を軌道に乗せるまでのあいだに、苦汁をバケツ満杯に呑ませられ、そのあまりの地獄っぷりにおとなげもなく涙したことは、カホにも、誰にも話せずにいる俺の秘奥だ。

 カホは同人屋だ。アニメや漫画など、架空のキャラクターを扱い、正規のルートではない二次創作として作品を販売している。出版社からオリジナルの作品をつくらないかといった声もかけられているようだが、カホにそちらの道へ進む意思はないようだ。コミケや通販を通して、年間一千万にちかい売り上げをあげており、現状金銭的な不満はないのだから、その意固地な姿勢もうなずける。カホの荒稼ぎにも似た経済事情を知ったとき俺は、鼻先に突きつけられた通帳に並ぶゼロの数を十回は数え直した。そのときすでにカホの預金残高は億を超えていた。

 以来、カホは引きこもりのような生活をしながら二次創作をつづけ、コミケの時期がやってきたときにだけ、コスプレの衣装をひっさげ、そとの世界に猛然と飛びだしていく。数日後にはトラックに詰めこんだ段ボールの山を現金の束に変え、悄然とした姿で戻ってくるのだ。髪の毛のさきまでまっしろに燃え尽きたその姿からは、なぜか高尚なプロジェクトをやり遂げた者にのみ許された、盛大な打ち上げ花火のようなよろこび――その残り香が漂って感じられた。

 キィボードを叩いているところを鑑みるに、どうやらいまは自作のプロットを練っているところなのだろう。散らかった部屋だが、置かれている機器はどれも最新式のマシンばかりだ。

「そう言えばさいきん、友達とまでは言えないんだが、親しくなったやつがいてな」

 俺はソファにもたれかかりながら、渡された文庫本に目を通した。

「へぇ。そりゃ珍しいこともあったもんだ」カホは棒読みで言った。すでに用事は済んでいるからか、こちらへの応答は素っ気ない。出てけと言われないだけマシであり、放置されているだけと言えなくもない。彼女の邪魔をするつもりで俺は、超特盛娘のことを語った。

 キィボードのうえを踊っていたカホのゆびが止まったのは、俺が超特盛娘との出会いを聞かせ、舞台であるだだっ広い私有地について話題が及んだときのことだった。

「それって潮亀さん家の敷地じゃない?」

「シオカメ?」

「地主だよ。元々この地域一帯、潮亀さん家の土地だったんだってさ」

「ホントかよ」

「かぁちゃんに聞いたからたぶんホント。ここの土地買うときの権利書にもたしか記載されてたはず」

「へえ。そりゃ金持ちにもなるわな」

「でも、あそこに子供なんていたっけかな」

「私立の学校に通ってるらしい」

「そのコから聞いたの?」

「ん? ああ、まあ」言が濁るのも致し方ない。ただでさえ未成年者と夜中にこっそり逢瀬しているのだ。そのうえ彼女の素性を調査してみたことがあるなんて口が裂けても言えるわけがない。とくにこいつには。

「なんにせよ、あんまり熱はあげないほうがいいと思うよ」

「心配には及ばない」

「そ? ならいいけどさ。さいきんロリコン系の犯罪って多いじゃない?」

「俺にそっちの気はない」そもそも相手は超特盛のダンゴのような娘なのだ。劣情を催すような倒錯した性癖はあいにくと持ち合わせていない。

「解ってないなぁ。あんたがどうのこうのじゃないんだって。世間さまがあんたらを見てどう思うかってのが重要なわけで。言い訳しなきゃならないって時点で、犯罪者と同列だよ」

「潔白は潔白。犯罪者と同列に語るなってんだ。疑わしきは罰せずだ」

「まあいいけど。忠告はしたかんね」

「あんがとよ」

 文庫本を読みはじめ、気づいたときには夜中の十時を回っていた。学生のころと比べて、本を読むのが遅くなった。

「そろそろ帰るわ」

 仕事に熱中しているカホに一言かけるも、

「あれ、まだいたの?」

 にべもない返事が返ってくる。せめてこちらを見て言ってほしい。挨拶もそこそこに部屋を出ると、一階の喫茶店はとっくに店仕舞いしていた。風呂上りなのか、頭にタオルを巻きつけた格好でTVに齧りついているオバさんに「おじゃましました」とあいさつする。あらもういいの、と人をからかうような笑顔を向けられる。

「もう夜ですし、帰ります」

「泊まってけばいいじゃない」

「はぁ」

「避妊もしなくていいからね。さっさと孫の顔、おがませてちょうだい」

「はぁ?」

「いいから、いいから」

 オバさんは快活に笑い、音を立てせんべいを齧った。

 道すがら、なんとなしに潮亀家の敷地、もとより野原に立ち寄った。フェンスはくぐらず、遠巻きに眺めるだけにとどめた。息を吐いてもしろくならず、春の訪れを感じた。

 

 家に戻った俺が、投げ出していた仕事になぜふたたび取りかかりはじめたかと言えば、そこに確固たる理由などはなかった。カホの未だ衰えをみせぬ二次創作への熱い思いに触れ、惨めだったむかしのじぶんを思いだしたからだとか、過失がないと解っていながら未だに顔を合わせるのが気まずい超特盛娘へのむしゃくしゃした気持ちを誤魔化そうとしているだとか、そういったことではない。断じてない。

 ただ、こうしていちどは投げ出した仕事に、「これまでの逃避は単なる気分転換だったのだ」と気持ちを切り替え、ふたたび挑むことができれば、超特盛娘にも何食わぬ顔で会いに行けるだろうし、カホへの想いにしたところで今さら再燃させる恋心などあるわけがないのだ、とじぶんに言い聞かせることもできるはずだ。そうにちがいない。そうでなくては俺が困る。

 俺は魔女が好きだった。魔女のように気がつよく、たしかな芯をもった女につよく惹かれた。しかし、彼女たちと火花噴き乱れる壮絶な恋がしたかったとか、肉汁入り混じる濃厚な肉体関係を持ちたかったとか、そういった欲望を抱いていたわけではない。俺はただ、魔女のように気高い彼女たちに――そういった高尚な人間に、憧れていただけなのだ。俺自身が魔女になりたかった。

 おそらく俺がこうしていまの仕事に就いたのも、そうした願望が無意識の領域にふかく根付いていたからにほかならず、魔法使いのように現実を歪め、荒唐無稽な物語を紡ぐことを生業としたのだって、そうした願望に基づいているからにほかならない。

 この仕事をやっつけたら、両手一杯の超高級肉まんを携え、規格外に食いしん坊のもとへ足を運んでやろうと俺は思った。

 こんどは、現実逃避した子どもではなく。

 現実逃避を仕事にまで昇華した、魔法使いのおとなとして。

 

 締切りを死守することはできたが、返された直しの指示は、血の海を彷彿とさせる赤面具合であった。脱稿したのも束の間、七転八倒もかくやという孤独な戦いを余儀なくされた。いつもならここでふたたびの逃避に明け暮れる俺であったが、今回ばかりは意地でもおとなとしての矜持をみせつけてやろうというしょうもない熱意がどこからともなく湧きでてきては、俺のからっぽのエンジンをキリキリと動かしつづけた。

 当初の目測は大きく外れ、春の訪れに間に合わせるはずだった仕事は、大工事からの大脱線を経て、骨組みをそのままにまったくべつの作品にするという異次元転送もかくやという変貌を遂げ、完成の日を迎えた。

 本来このさきには、それを商品とすべく、さらなる研磨がなされていくわけだが、まずは脱稿し終えたことに胸を撫で下ろす。

 ほぼ不眠不休の日々がつづいたため、ゴールテープを切ったその日は丸一日夢のなかで過ごした。ぷくぷくの甘い香りが、夢のなかにまで漂ってきて、無性にマシュマロが食べたくなった。

 目覚めたその足で、超特盛娘のもとへ歩を向ける。

 夜の帳はおりていた。

 防寒具はいらず、半袖であっても問題ない気候だ。季節の移ろいを感じる。フェンスをくぐったところで、はたと気づく。土産を買ってくるのを忘れた。引き返してもよかったが、敢えて面倒だと断じ、はやる気持ちに蓋を仕切れず、返せる踵を返さずにおく。

 屋根付きベンチに近づくにつれ、話し声が聞こえてきた。どうやら先客がいたらしい。しかしここが公共の土地ではないとなれば、話し声の主は超特盛娘とプラスαである可能性が高い。笑い声があがり、なにやら楽しそうな雰囲気だ。

 ひょっとしてお邪魔か?

 あとすこしで姿が見えそうという距離にまできたところで踵を返した。

 なにも今日である必要はない。土産を持参し、万全の態勢で再会したほうが感動もひとしおだろう。俺は日を改めることにした。

 俺があそこへ偶然行きついたように、俺のほかにも偶然あそこへ行きついた人生の迷い人がいてもふしぎではない。おおかた人の好い超特盛娘のことだ、俺のときのように、あまりに余った贅肉で以って凍えてよれよれにひねくれた人物をあたたかく包みこんでやったに相違ない。彼女に救われた人物が俺以外にいると知れば、やはりというべきか嫉妬のようなものが湧くが、それを認めたところで、彼女にトモダチと呼べる存在が増えることは、よろこびはすれど非難するような奇禍ではないように思われた。

 二日後、俺はどら焼きを手土産にオルゴール然とした屋根付きベンチへ向かった。夜空は濁っていた。日中の日差しが嘘のように凍て返り、長袖でも寒イボが立った。敢えて厚着をせずに向かった理由は推して知るべしだが、ごまかすほどでもなく、単純に超特盛娘のぬくもりにあやかりたかった。

 超特盛娘はそこに一人でいた。

「よぉ」何食わぬ顔で屋根のしたに入る。彼女はこちらに一瞥もくれず、壁に寄り掛かった体勢でマンガ本に目を落としている。

「きょうは冷えるな。ちょいと温まらせてほしいんだが」目のまえにどら焼きのごっそり入った袋を置く。なんだかお地蔵様にお供え物をしている気分だ。

 超特盛娘はちらりとどら焼きの袋に目を留めた。それから腕を伸ばし、のっそりとした動きで手元に引き寄せる。中身を覗いている。

「十種類のタネが入ってる。おすすめは抹茶とチーズだ」

 こちらの助言を聞いているのかいないのか、アンコ味のものを取りだし、食べはじめる。

「どうだ。美味いだろ」

 ん。

 超特盛娘は窮屈そうに、あごを引く。

「京都の老舗からわざわざ取り寄せたんだ」

 へえそうなのとでも言いたげに目を見開き、どら焼きを見つめる。

「代わりと言っちゃなんだが、おいちゃん凍えててな。温めてくれないか」

 ん。

 ふたたび彼女はないあごを引いた。腕を広げ、マッサージチェアのようにこちらの身体を受け入れる。

 身体を受け入れる、なんて言い方をするとなんだかいやらしい感じがしないでもないが、相手が相手なだけに、そういった描写をしたところで滑稽さが増すだけだ。

 身体を密着させた状態で、どら焼きをかたっぱしからやっつけていく超特盛娘の様をしばらく観察する。

 なにしてたの。

 ぽつりとつぶやいた彼女の声は震えていた。これまでずっと、季節が移ろうほどのあいだ、いったいどこでなにをやってたの。かおもみせないで。きゅうに消えたりして。第一声にいちばん訊きたかったことを訊ける人間というのはそう多くはない。たったそれだけのことで彼女のつよさの片鱗を垣間見た気がした。

「ちょっとやなことがあってな」俺は語っていた。「本当はやりたかったことのはずだのに、いつからかな。最初にあった情熱とか、やる気とか、考えただけでウキウキする気持ちが、なくなっちまってな。夢みたいなもんだったんだよな。実際に夢みたいなものが現実となって目のまえにドンと横たわって、目を開けばすぐそこに否応なく横たわっているとなると、ずっと付きまとっている悪夢みたいに感じられちまってな。いい加減いやになって逃げちまった」

「なんのはなし?」

「なんのはなしだろうな」声だけで笑ってやり、冗談めかす。「でもな、おいちゃんな。おまえに逢って、なんか、また夢みたいなもんを抱けるような気がしたんだ。思いだしたっていえばそうなのかもしれない。なんであの夢を抱いたんだろうっていう、じぶんの核みたいなものをおまえと接しているうちに思いだしたんだ」

「でも、いなくなったじゃん」

 こなくなったじゃん、と超特盛娘は声を尖らせた。

「おとなはな。くだらないことで喧嘩したときの仲直りの仕方を忘れちまうもんなのさ。できた亀裂を時間の経過で塞ごうと企んじまうズルガシコイ人間になっちまうんだよ」

「なるもんじゃないね。おとなになんて」

「そうだな。おとなになんてなるもんじゃない。でも、おとなにしかできないこともある」

「たとえば?」

「たとえば、仲直りのしるしにわざわざ京都の老舗から最高級のどら焼きをたらふく買い込んでみせるとか」

「ただの買収じゃん」

「効果はあったろ」

「ん」

 気づくとあれだけあったどら焼きが底を突きかけている。

「なんかお茶飲みたくなってきちゃった」

「そう思ってほらよ」俺はここぞとばかりに五百ミリのペットボトルを差しだす。

「持ってるなら最初から出してよ」奪いとり彼女は一口で飲み干した。あまりの速さに目を剥く。一・五リットルのほうを買ってくるんだった。

「もうお腹いっぱい。あとは槻田さんが食べていいよ」

 寄越された袋を覗くと、中にはどら焼きが二つ残っていた。抹茶味とチーズ味のどら焼きだ。せっかくすすめたんだから食べろよな。突き返そうとも思ったが、知れず緩んだ頬に釣られ、そうした稚気も削がれた。

 その日は朝まで居座らず、日が昇る前にいとまを告げた。別れる前に、あすはいるか、と尋ねたら、あしたは用があるからいないと返ってきた。当たりまえだが毎日いるわけではないようだ。

 こちらもそろそろ担当の編集者からチェックの終えた原稿が返ってくるころあいだ。来週またくると言って別れた。

 家に帰ると案の定、細かな修正の指示が入った原稿データが、メールに添付され届いていた。大幅な変更はなく、珍しくお褒めの言葉がつづられている。修正の指示に従い、寝ずに原稿を直しつづけた。昼までかかり、データを送り返してから寝床に就いた。起きると夜中の零時を回っており、担当から返信がきていた。原稿を拝受。このままゲラ刷りに回します、との旨がつづられている。

 来週からまたいそがしくなりそうだ。

 英気を養うためにも、それまでにいちど超特盛娘のもとに顔を出しておこうと決める。

 ゲラ刷りを送ったとのメールが担当編集者から送られてきたその日、俺は夜になるのを待って家を出た。

 あすからはゲラの確認からはじまり、連日連夜、製本まで気の抜けない日がつづく。装丁などを手掛けるデザイナーとの打ち合わせのため、数日のあいだ上京するハメにもなる。

 それぞれがそれぞれにスペシャリストなのだから他人の任された仕事に門外漢の俺なんかが口をだすのはおこがましいと、むかしは考えていた。しかしそれなりに売り上げを伸ばし、デビューした作家の九割が五年後には消えると謳われるこの業界で十年目の節目を迎えたいまとなってしまえば、専門外の知識が素人とは呼べないくらいについてしまったし、あとから文句を言われるくらいならば作業工程のなかで助言というかたちで言葉をもらっておきたいと考える職人たちの気持ちも推し量れるようになった。

 十年だ。短いと思う反面、長かったという思いもあり、同時にやはりというべきか、あっという間だったという感慨にも似たきもちが湧く。

 初心を取り戻したとは言いがたいが、なぜこの道に踏み込んだのかという長年の謎は解けた。言い換えれば、初めて初心を抱けたと言ってよく、新境地とも呼ぶべき心境の変化があった。超特盛娘のおかげだ。

 ちいさいころから苦手だった童話には、俺にとっての根幹を揺るがす原石が秘められていた。魔女という社会的な異質を、異質ながらに自分の道を踏み外さずに貫き進む彼女たちを、俺は心の底では――心の底から――尊敬していた。俺自身がそうありたいという望みが彼女たちの姿には顕現されていた。

 だからでもないが、

 いや、だからこそか。

 俺の同類ども――精神の未熟な、現実逃避をしたくてやまない多くの精神的引きこもり野郎どもに――雪原にぽつんと置かれたオルゴール型の屋根付きベンチのようなオアシスを提供すべく、これからも堅実に、現実に、魔法をかけ、物語という現実逃避の舞台を俺はつくりあげていく。

 では俺にとってのオアシスは誰が用意してくれるのか。誰も用意などしてくれない。しかし偶然にもそれは身近にあり、彼女はそこにいた。

「よう。きょうは手土産なしだ」

「いいよ。槻田さんがきてくれるならそれで」

 壁際に腰掛け、超特盛娘は月を眺めていた。巨大なクマのぬいぐるみを思わせる。

「だいぶん暖かくなってきたな」言いながら横に腰掛ける。

「槻田さんはダメなおとなだね」

 藪から棒にそんなことを言われる。

「否定するつもりはないが、どうしてそんなことを言う」

「だってふつう、いっしょになって暢気に月なんて眺めないでしょ」

「ふつうならどうするんだ」敢えて訊いてみた。

「叱るんだよふつうは。叱って、家に帰りなさいって怒るの」

「俺だってそうしたろ最初は」

 もう忘れたのか、と揶揄するように言う。

「憶えてるよ。でも槻田さんはそれでもこうして一緒にいてくれる。うちから居場所をとりあげないでいてくれる」

「ダメなおとなだからな」

「でしょ? だからそう言ったんだよ。槻田さんはダメなおとなだね」

 風が出てきた。壁に囲まれているので吹きこんでくることはない。肌寒くもない。だが俺たちはどちらからともなく毛布を取りだし、身を寄せ合うようにした。

 俺が来なかった期間もここに通っていたのか。

 朴訥とした調子で水を向けると、

「そりゃあね」

 淡泊な物言いで返される。

「そういやこのあいだここを通りかかったんだがな」話し声がしたことを思いだし、言った。「誰かといたろ。トモダチでもできたか?」

 そこで超特盛娘の身体が不自然に固くなった。文字通りそれは、ぷにぷにだったマシュマロが氷ついたような、マグマが冷えて固まり岩石にでもなったかのような変容具合だった。

「どうした」

 膝を抱え丸まる超特盛娘の首筋に顔を埋めるようにする。耳元で、何かあったのか、とささやくようにする。

 赤子がイヤイヤと駄々を捏ねるようにちからなく首を振ったその所作からは、それが嘘であることを隠しきろうとする意欲が感じられず、ややもすれば偽りきれないほどの動揺が滲んで感じられた。

 しばらくそのままの体勢でいた。超特盛娘がかすかに震えていることに気づいたとき、月は屋根に隠れ、どこから飛んできたのか、桜吹雪が吹きこんできた。

「見てみろよ。初めて会ったときみたいだ」

 桜の花びらが雪のようにひらひら風に運ばれていく。

「ホントだ」

 涙を誤魔化すように、そんなものは端から存在していなかったのだと示すように、超特盛娘は声を震わせて笑った。

「そういや冬休みだったろ。どっか出かけたのか?」

 話題を逸らすために紡いだ繋ぎ穂だったが、意に反して超特盛娘は身体をさらに固く丸ませた。聞かれたくないことらしい。

「どうしたよ」敢えて触れないという道もあったが、まるで黒ひげ危機一髪、ただしどこを刺しても飛び出るぜ、といった緊張感があっては会話もまともに交わせない。

 超特盛娘とひっつきこうして体温を共有するだけでも俺としては癒され、満足ではあるのだが、できればその至福のときを彼女と共有したい思いがつよく、だから俺だけがかってに満足しても後味のわるさだけが残るのは勘弁だ。と、ここまで考えてからまるで付き合いたてのカップルみたいな所感に、思わず苦虫を噛み潰した顔をしてしまうが、そもそもフロイト大先生からすれば人間の行動原理の総じてはリビドーから発生しているということであるから、あながちこの分析も的を外してはいないのかもしれない。おおむね、人間関係というのは性行為と地続き――延長線上にあり、共同作業の大部分はパートナーとの相性やらなんやら、性行為につきまとう快楽を高めるための諸事項と共通点が多いのだろう。だからリア充と呼ばれる活気あふれる青年たちは、部活や文化祭などの集団行動を通じて、パートナーたちとの同化を疑似体験し、ゆえに性行為への抵抗感が薄くなっていく。言い換えれば、彼らは経験的に相手と精神の共有を図る快感を知っており、それは肉体的な快感だけではない、性行為に付属する本来の機能――パートナーとの同化のすばらしさを身を以って知っているために、消極的な青年たちよりも性に対して開放的であり、かつ経験豊富になっていくのだろう。

 うむ。

 いったいじぶんは何が言いたいのか。

 考え、なるほど俺はとにかくこの超特盛娘のことがたいそうお気に入りなんだな、といういまさらな事実を言語化して認識した。

 要するに要する必要のないくらいに、俺はこのちいさきマシュマロおばけを放っておけない。困っている顔をしているならばたとい突き飛ばされる運命にあろうとも腹をこしょぐって笑わせてやりたいと願い、悩みの種があるならば払しょくしてやりたいと望む。

 だからでもないが、彼女の想いを汲むならばそこで言葉を切り、話題を変え、触れてほしくない彼女の秘奥をそのままに何食わぬ顔をしてふたたびのぬくぬくに身を委ねるべきだったが、敢えて俺はしなかった。

「なにがあった」

 彼女の肩に手を置き、身体ごとこちらに振り向かせる。地蔵様のように重く伝わる抵抗は、彼女の規格外の体格だけが要因ではなさそうだ。

「な、なんにもないってば!」

 かわいそうなくらい目が泳いでいる。だが目を逸らさないところに彼女のつよさと、そして意固地な意思が宿って見えた。

「分かったよ」宥めるように俺は言った。「だが、もしなにか困ったことがあったら俺に言え」

「言ってどうなるの。だって槻田さん、不審者じゃん」

「不審者だがおとなでもある」

「どうせうちは子どもだよぉ」

「そうだな。だからいじけても許される」

「うち、いじけてないよ」

「そうだな」

「いじけてないってば」

「わかった、わかった」俺は彼女のあたまに手を載せ、揺さぶるように撫でた。「もういいんだ。わるかったな」

「うちは槻田さんが何を謝っているのかさっぱりだよぉ」

 固くなっていたお肉がすっかり解けている。プリンのようにぷるぷるだ。

「おまえ、すこし痩せたか?」

「そういうこと、女の子に言っちゃダメだよ」

「おまえ、女のコって自覚、あったのか?」そもそも一般的には太ったことを指摘するのは野暮だが、痩せたことはむしろ褒め言葉にちかいのではないか。

「まったく槻田さんは失礼だなぁ。失礼の鑑だよ」

 ぷりぷり膨れた超特盛娘に俺は、あすは東京の銘菓を土産に持ってくると約束し、ご機嫌をとった。

 

 仕事柄、時勢を追うのが日課となっている。以前ならば新聞を読むのがてっとりばやかったが、いまではインターネット内のニュースサイトを巡るだけで、その日なにがあったのか、いまはなにが流行しているのか、をパッと見で把握することが可能だ。

 現在では流行は分単位で刻々と変遷しつづけていると言ってよい。数分前までネット内を沸かせていた話題が、ちょっとした騒動が槍玉にあげられた途端に忘却の彼方へと押しやられる。

 燃料投下とは言ったもので、ネットの住人たちは騒げればそれでよいのだ。相手の過失を盾に、正当性を矛にして、思う存分、加害者を大勢で打ちのめす。そこには現代社会のため込んだ鬱憤という名の悪意が凝縮されている。

 人間の醜い部分をクローズアップし、作品内に反映させなくてはならない俺にとっては貴重な取材源ではあるのだが、やはりというべきか、中には目も当てられないような悪意そのものがデンと打ち上げられていることがある。

 たとえば、海外の麻薬マフィアが見せしめのために投稿した正視に堪えない凄惨な遺体の画像。たとえば、いたいけな子どもを売り物として扱い、観光客に身体を売らせた様を撮影した児童ポルノ。自殺者の遺体や、事故現場の動画、動物虐待の画像や、他人の秘密を赤裸々に吹聴する書き込み。そして昨今急激に増加したのがリベンジポルノである。

 恋人との甘いひと時を撮影した動画を、恋人との諍いを期にネットの海へ放流する。いちど放流されれば単細胞生物のように無限に増殖をつづけ、ネットの海を延々と漂う。消し去ることは事実上不可能だ。

 自身のあられもない姿が、それも一般的に卑猥だとされている行為が、公衆とは言えないまでも、万人の目に触れ得る場所に漫然と転がっている。投稿した相手はかつての恋人であり、ご丁寧にも被害者の個人情報まで載せられている始末だ。

 さいきんになってようやくリベンジポルノを取り締まる法律が整備されてきたが、復讐のためにはそれくらいのリスク屁でもないと思う性根の腐った者たちが後を絶たないのが現状だ。

 その日も俺はネットの海から拾いあげられた様々なニュースに目を通していた。大手メディアの取り上げない情報ばかりだ。なかには眉唾なものもあるし、誇張や脚色がほどこされているものが多数いりまじっている。玉石混交などというつもりはなく、鵜呑みにするには危うい情報がほとんどだ。あまねく話半分に聞いておく必要がある。

 しかし、それらの情報は、新聞を読んでいる人口と匹敵するかそれ以上の数の人たちが目にしている。気に入ったものがあれば彼らは拡散と称して、自身のSNSや、掲示板に複製した記事を書きこむ。

 そうして情報は瞬間最大風速を記録するようにまたたく間に膨らみ、発信元であるサイトの手を離れてからも一定期間はネットの海面上へと浮上しつづける。

 現代にある時流の仕組みとはおおむねこのようにできあがる。作為的にこの現象を引き起こせれば、かつてのTV局のように社会に恣意的な流行をいくらでも引き起こせるだろう。

 いったいこのなかに、そうした企業の息のかかった情報がどれほどあるだろうか。下賤な想像を逞しくしながら俺はふと、とある見出しに目を留めた。

 まさか、と思う。見出しをクリックし記事を開いたところで嫌な予感は確信に変わった。胸が痛いくらいに脈打つ。

 ニュースサイトの見出しには、「怪物同士の交尾」とあり、記事に添えられたサムネイル――リンクを開くと海外のエロサイトに飛んだ。そこには投稿された動画が載せられている。

 ふたつの影が絡みあっている。かんぜんな暗闇ではなく、仄かな明りがある。カメラは台か何かのうえに置かれているのか、視点がブレることはない。毛の生えた豚を思わせる肉塊が、もう一つのまっさらな肉塊に覆いかぶさり、細かく揺れている。勝敗がついたあとに尚もはっけよいのこったのこったしている関取を思わせる映像だ。

 マシュマロに糞が乗っかっている印象を抱くが、それは俺がその動画の場所がどこで、マシュマロが誰なのかを知っているために抱かれる狂想に違いなかった。

「なんてこった」

 ニュースサイトの記事や動画の詳細ページには個人情報らしき記述はみられなかったが、「化物、交尾」で検索をかけると、動画へのリンク付きで、これはどこどこの誰々で、どこどこの学校に通っている、といった内容の書き込みが散見された。同一人物の書き込みかどうかは定かではないが、みな面白がって動画に映る怪物の正体を暴こうと躍起になっている。

 客観的に言えば、巨漢の男女が性行為をしている単なるポルノだが、どう考えてもこれはリベンジポルノであり、同時に片方の、しかも女のほうが、未だ義務教育を終えていない女子児童であると判明するや否や、この卑劣なニュースは爆発的な膨張をみせ、ネットの海に膾炙した。

 とはいえ、ネットと現実とを隔てる壁は日本海溝よりも深くて厚い。

 現実世界では相も変わらず怠惰とも呼べる穏やかな日常がつづいている。大手マスメディアはこのちいさな、けれど大衆の好奇心を刺激するには体のいい「餌」に食いつくことなく、未成年者の未来を護るため、飽くまでも静観を決め込んでいる様子だ。スクープだとばかりに飛びつき、未成年者のあられもない姿を徒に広めるわけにはいかないのだろう。マラリアを媒介する唾棄すべき「蚊」に成り下がらないだけの矜持が、現在の大手マスメディアにはまだ残されている。いや、単純に視聴者からの苦情や非難を避けるための、自己保身であるかもしれない。いずれにせよこれは俺にとって―――ひいては超特盛娘にとってはさいわいなことである。

 可能な限りの情報を集め、俺は夜になるのを待った。いてもたってもいられなかったが、肝心の超特盛娘の家を知らなかった。カホに訊ねてもよかったが、勘の鋭いあいつのことだ、すぐに、ネットで話題沸騰中の児童ポルノ型リベンジポルノと、俺のらしくもない頼みごととのあいだに共通点を見出すだろう。下手に動いて俺が超特盛娘の首を絞めるような真似をするわけにはいかない。

 夜の帳がおりてから屋根付きベンチへ向かうと、そこには普段と変わらず、ベンチの部品のように超特盛娘がその体格に似つかわしくのない様でちょこんと座っていた。

 世間では春休みは終わり、新学期がはじまっている。この日も学生たちは登校日のはずだった。ニュースサイトを見た生徒が一人もいなかったと考えるには無理がある。日中、彼女の通う学校でもインターネット内と同様に、情報の爆発的な肥大化――拡散現象が見られたはずだ。

 にもかかわらず、超特盛娘にはその事態を憂いている素振りが皆目見受けられない。ひょっとするとまだ自身の陥っている境遇に気づいていないのだろうか、それともあの動画に映っていた規格外の小娘は真実には彼女ではなく、ほかの誰かであったとでもいうのだろうか。あり得ない。百歩譲って別人だとしても、あの動画にあった場所はここである。床に散乱したマンガには見覚えがあり、ジュースを零してできたシミのカタチまで合致している。

 仮にリベンジポルノの被害にあった小娘が彼女でなかったとしても、この場所で卑猥な行為に耽る男女がいたのは確かだ。俺たちの聖域を侵した者がいたことは超特盛娘にしたところで気を揉む事態のはずだ。

 それがどうだ。この涼しげな表情は。

 堂々たる佇まいはまるで王座におわすにふさわしい王妃の風格さえ漂って感じられる。ややもすれば、これから訪れるであろう超大型台風を見据え、諦観した心持ちで荒廃する未来を受け入れているのかもしれない。

「よう」

 声をかけるが、立ったままで彼女を見下ろす。

「きょうは来ないかと思った」

「暢気だな」

「うん。自業自得だし」

 その一言で俺の希望的観測がシャボン玉のように割れた。

 すっかり腹を据えている様子だ。気を使うのがバカらしくなる。

「相手は誰だ」しぜんと語気があがる。

「この辺に住んでる、ひきこもりくん」

「家出の果てにここに行きついたってか」

「そうみたい」

「で? 恩を仇で返した理由は? なんでそいつはあんな真似を。よもや無理やり乱暴されたわけじゃないよな」

「動画、見なかったの?」

 返事をするのはためらわれた。

「ちゃんと感じてたでしょ。はぁはぁ、おすもうさんみたいだったでしょ。あれがぜんぶだよ。無理やりじゃない。うちはあのひととちゃんと愛し合ったもの」

「ならなんでこんなことに」

「もう来ないでって、突き返しちゃった」

 そこで超特盛娘は、突き離しちゃったの、と言い直した。「さんざん利用しておきながらうちはあのひとを拒絶した。傷つけた」

「だからなんでそんなことを」

「槻田さんがわるいんだよ」淡泊だった声音に、棘が混じる。「急に来なくなって、二か月も顔を見せないで」

 淋しかったから行きずりの男に身体を許したってのか。

「あのひともかわいそうなひとなんだよ。三十路にもなって職にも就かず、ずっと家にひきこもってて。ずっと放置していたくせに、きっと焦ったんだろうね、ようやくこのままじゃいけないって――いまになって構いだした両親に嫌気がさしたんだって。それで家を飛びだしたんだって」

 そりゃ嫌気も差すだろう。

 両親の気持ちになって考えたが、人の境遇をとやかく言えるほど俺もまっとうな生き方をしていない。好きなことだけをして生きてきた。その好きなことですら、責任という重圧に耐えられなくなり放りだし、幾度も逃避を繰りかえしてきた男なのだ、俺は。

「行き場所もないからってしばらくここで匿ってあげてたの。体格もあんなだし、あのひとはうちとなんか似てたんだ」

「憐れに思ったからか」

 情けで、憐れな男を慰めようと思って、聖母の慈愛のような自己犠牲の精神であんな真似をしたのか。俺は責めるように言った。言葉足らずの勢いだけの言葉だ。

「傷をなめ合うにはちょうどよかったんだよ」

 なんでもないような調子で半ば自棄にも聞こえる物言いで超特盛娘は言った。「なんかもう、色々いやになっちゃって。情けな自分んとか、なんでこんなぷにょぷにょになっちゃったんだろうとか、どうして槻田さんにあんなこと言っちゃったんだろうとか、どうしたら早くおとなになれるんだろうとか。考えるのも、後悔するのも、ぜんぶどうでもよくなっちゃった」

 そこへ、もう一人の自分とでも形容すべき男が現れ、外れたボタンを掛け合わすように、足りない何かを補うように、お互いに傷をなめ合った。

 直に肌で触れあい。

 恥部で傷を塞いだ。

 が、そこで俺が何食わぬ顔で、本当になんでもなかったような顔をして飄々とふたたび姿を現した。

「怒る気も失せたよ」超特盛娘はむせるように短く笑い、それから達磨が転がるようにコテンと横になった。「縁を切ろうってすぐに思った。槻田さんが戻ってきてくれたなら、あのひとは邪魔なだけだって。うちはすごいひどいことをあのひとにしたんだよ。だからかな。動画をばら撒くぞって言われても止める気も起きなかったよ」

「俺に動画が見られるかもしれなくてもか」

 何も思わなかったわけがない。今だってそうだ。何も思っていないわけがない。

「嫌だよ。見られるのは嫌だけど、でも槻田さんだもん。こんなうちにも優しくしてくれる。必要としてくれる槻田さんだもん。べつにそんなのはどうってことないよ」

 そうでしょ。

 眠そうな瞳はけれど、芯の通った澄んだ眼光を放っている。

「ああ」もちろんそのとおりだ。「俺はあんなことじゃおまえに対する認識は変わらない。何も変わっちゃいない。だが、ほかの人間はそうじゃない。おまえに失望するだろうし、からかい半分でひどいことを言ったりする。おまえの親御さんにしたってそうだ。心配するだろうし、仕事場でいづらくなったりするに決まってる。だがおまえはおまえだ。何も変わらない。俺が保障する。おまえは何も変わらない。そうだろ? そもそもおまえ、学校はどうしたんだ。休んだのか」

「行ったよ。一気に人気者だよね。林の中の像みたいだったのに今じゃ動物園のゾウさんだよ。近づいてこないくせにみんな興味津々な視線、飛ばしてきてさ」

 わるい気はしないかな。

 と、

 ここで初めて彼女は声を震わせた。やはりというべきか、強がっているだけなのだ。当然だ。彼女はまだ、思春期の少女。もっとも多感であるところの中学生なのだから。

「どうなると思う? うち、捕まっちゃうのかなぁ」

「逆だろ。おまえは被害者だ。捕まるとしたら相手の男だろ」

 未成年者との淫行および児童ポルノ所持、加えてリベンジポルノによる私事性的画像記録提供被害防止法違反、名誉棄損に、わいせつ電磁的記録記録媒体陳列。実刑は免れない。

「すこしは自分の心配をしろ」

 加害者を案じるようなことばかり言うので、俺は叱りつけるように言った。

「うちはだいじょうぶだよ。だってうちはうちなんでしょ? 槻田さんが言ったんじゃない」

 反論しようと思えないほど細々とした声だ。

「つよがりはいい。親御さんはなんて言ってる」

 ひょっとしてまだ騒動を知らないのでは。危惧したとおり、

「何も知らないよ。今日だってお仕事で、お家にいないし」

 頭の痛くなる返事が返ってくる。

「自分から言えるか?」

「なにを?」

「だから、ほらその」言葉を斟酌しているのもじれったく、「おまえが困っているってことをだよ」と抽象的に訴える。

「知らないほうがしあわせってこともあると思うけど」

「おまえなぁ」

「だって、うちさえ我慢してればいいことなんだよ、これはさ。そうだよ、そうなんだよ。べつにだって、死んじゃうわけじゃないんだし」

「今はそう思っていても、いずれ後悔する日がくる」

「どうして槻田さんがそんなこと決めるの。後悔なんて毎日、ずっとしつづけてきたもん。一つ増えたくらいどうってことないよ」

「そう、なのか」

 よもや無数の後悔の念に苦しめられていたとはつゆほども思わなかった。当の本人がけろりとしているものだから、察してやることができなかった。いったい何をどれほど後悔していたというのか。多感な年ごろだと断じていたはずが、そのじつ彼女には或いは無縁なのかもしれないと思えるほど、鷹揚な性格に映っていた。しかしそれは俺の謬見だったようだ。うちなる葛藤をおくびにも出さないつよい心を彼女は持っている。ただそれだけのことなのだ。

 問題ない、と彼女は言う。じぶんが耐えれば済むことなのだからと。

 だがそれで済む問題ではないことを彼女は知らなければならない。

 知って、もらわなければならない。

 気が済まない。

 このままでは俺の気が済まないのだ。

「一緒に行ってやるからちゃんと説明しろ」

「だから、誰に、なにを?」

「親御さんに、おまえがしでかしちまったことをだ」

「うちがわるいわけじゃないもん」

「どんな動機にしろ、きっかけにしろ、それがたとえ仮初だったとしてもいちどは心を許した相手なんだろ? おまえが被害者なのは誰もが認めるところだが、おまえ自身、自分のことを責めてるようなら、それ相応の罪の償い方ってのがあるんじゃねえのか。それは自分だけ黙って耐え忍ぶなんてことではないと思うがな」

「じゃあどうすればいいの。もとはと言えば槻田さんがわるいんじゃない。うっかりこんなところに不法侵入してきて、ちゃっかりうちの心鷲掴みにして、それで自分勝手にふらっといなくなって、かと思ったらこんなことになっちゃって、今、うちにお説教中なわけでしょ。ぜんぶ槻田さんがわるいんじゃん」

 論理もクソもない言い分だったが、責任転嫁するには充分だ。

「そのとおりだ」俺は認めた。「おまえの言うように俺のせいなんだろ。だから俺に任せろ」

「へ?」

 朝陽が昇り、スズメのさえずりが闇夜を蹴散らしていく。

 

「さすがにこの時間帯ならいるだろ」

 多忙とは言えど帰宅くらいはするだろうし、日が昇って間もない今ならば、両親のどちらかは家にいるはずだ。超特盛娘もとくに反論することなく、黙って自宅まで案内してくれる。

 森の奥に家があると言っていた。十分ほど山道をすすむとアスファルトの車道に出た。かき氷に垂れたシロップを思わせる道筋だ。山に開かれたレースコースと言われたら信じてしまいそうな起伏の激しさがある。付近に建造物らしきものはない。道なりに進むと、やがて道路に隣接するカタチで一軒の家が見えてきた。別荘のような佇まいで、二軒分の広さがある。裏手に伸びるように庭が広がり、いっしゅんここが高級リゾート地かどこかかと錯覚した。

「ボンボン過ぎるだろ」

「家にお金使ったから貧乏なんだって。ママはいっつもそう言ってる」

 手を引いて歩くが、超特盛娘の足取りが重いためか、うでにかかる抵抗がつよい。ポストを引っぱっている気分だ。

 難なくとは言いがたいが、どうにか扉のまえに到着し、インターホンを押す。背中に朝陽があたり、汗で湿ったTシャツが渇いていくのを感じる。

 まず顔を出したのは俺よりも年下だろうと思しき女性だ。どちらさまでしょうか、と慇懃無礼ともとれる口調で扉の隙間から顔を覗かせるが、俺の背後に隠れる、とは言っても隠れきれるほどかわいらしい体格ではないのでしっかりはみだしている超特盛娘の姿に気づき、「リキちゃん」と親しい者にのみ向けられる慈愛の籠った声音を発した。

「森さん、ただいま」

 森さんと呼ばれた女性は超特盛娘を庇うように引き寄せた。こちらに向け、敵意にも似た非難の目をそそぐ。

「どちらさまですか。なぜリキさんといっしょに?」

 なぜこんな明け方に未成年者と一緒にいるのだ、と責めていらっしゃるご様子だ。ごもっともな糾弾である。というかおまえ、リキっていうのか。超特盛娘を一瞥し、なんとも凛々しい名前ではないか。名付け親のセンスを褒めたくなったが、玄関に掲げられている門標には「潮亀(しおかめ)」とあり、なんて親だと呆れかえった。

「ご説明させていただく前に、まずはこのコのご両親にお話をさせていただきたいのですが」

 事務的な口調を心がける。相手はすぐに、こちらが家族構成を知るくらいに超特盛娘と交流のある人物だと察してくれたようだ。

「少々お待ちを」と言い添え、いったん家の奥に引っ込んだ。

 超特盛娘も連れて行かれたが、ここまでくればあとはこちらに任せてくれればよい。

 間もなく、扉の奥から、ガウンに身を包ませた髭面の男がやってくる。

「朝早くからすみません」

「どういったご用件でしょうか」

 思いのほか柔和な口ぶりに、肝の据わった人物だと評価する。ややもすれば娘への愛着のなさが垣間見えるようで反感にも似た衝動が湧く。

「単刀直入にお尋ねします。現在娘さんがどのような状況に置かれているかをご存知ですか」

「なんです?」

「法的な処置をおすすめします。私も協力しますので、是非、早急な対処を」

 言って俺は、メディア端末に表示したニュースサイトの記事を突きつけた。

 

 海に溶けこんだ角砂糖を残らずすべて回収することは不可能だ。そういった意味で、俺が超特盛娘にしてやれることはないと言っていい。

 ならばなにができるかと言えば、彼女にとって住みにくくなった環境をロンダリングし、法的な処置で彼女を――彼女の未来を、護る以外にしてやれることはない。

 担当編集者に腕利きの弁護士を紹介してもらった。出版社を相手どり仕事をするような弁護士なだけに、インターネットなどのコンテンツにまつわる問題の対処はお手の物とみえた。

 俺はまず、弁護士を通じてインターネット内に拡散された動画の記録先、プロバイダーに対してデータの削除を申請した。海外にあるサーバーを使用されているため、これまでは治外法権が適用されたが、いまは児童ポルノなどの法的制度が国際的にまとめられているため、国を越えて法のちからを行使できた。写真で言うところのネガをまず断ち、それから虱潰しに、動画の載っているサイトに削除申請を行う。しかしこれはイタチゴッコを絵に描いたような徒労がつきまとう。何度も言うように現実問題として、動画をネット上からすべて削除することは不可能である。だからこれは応急処置のようなものだ。

 こうしたインターネットに個人情報が拡散してしまう問題においては、往々にして泣き寝入りするよりないのが現状だ。情報の流出した犯人を裁くことはできても、好奇心や承認欲求から情報を拡散・閲覧する不特定多数の傍観者たちに対してはなんの処罰も与えることができない。

 彼らは確実にこれからも超特盛娘の周囲に存在し、彼女の自尊心を――その未来を脅かすだろう。

 問題は、そうした者たちがはびこっていることではなく、そうした環境が存在するという恐怖心から、いつか超特盛娘の精神が崩れてしまうことにある。

 そうならないためにも、超特盛娘には、リベンジポルノの被害者であるという現実から遠く離れた場所に自ら逃げ込んでもらうよりない。

 物理的な意味でも。

 社会的な身分の意味でも。

 俺は弁護士を通じて、彼女たち家族に早急な引っ越しを準備させ、戸籍の一部変更を推奨した。名前を変え、まったくの別人として生きていくことが、のちのちあなた方の娘さんのためになるのです。

 説明してみせたところで、せっかく名付けた娘の名を、どこの馬の骨とも解らぬ男のたわ言を真に受けるようなかたちで変えようなどと、まともな親ならば思わないだろう。超特盛娘の両親もご多分に漏れず、何もそこまでする必要は、と渋った反応を見せた。

 が、そこには自らの世間体を気にする自己保身が透けて見えた。

 彼らは職場を離れることを潔しとせず、なおかつ娘の名を変更したなどと知れたら、現状何も知らぬ親族たちにまで娘の痴態が知れ渡ってしまう、と抵抗した。

 俺にはそんなことは些事にしか思えなかった。彼らには想像力というものがないのだろうか。これからさき、何十年もつづくだろう超特盛娘の人生を思えば、今ここで決断しておかねばらならぬ重大な案件である。超特盛娘の庇護となるべく親戚一同に弱みをみせたくない、という何ともさもしい理由で、彼らはゆいいつの選択肢を擲とうとしている。そのさきに待つのは、自分たちの娘にのみ覆いかぶさる分厚い闇でしかないというのに。

 そうだとも。

 彼らにしてみればそれは、娘が我慢すればよいことで、娘が立ち直ればよいことで、娘が乗り越えればよいだけの他人事にすぎないのだ。

 俺は頭にきた。もう我慢ならなかった。

 彼らに娘を守ろうとする意思がないというのならば、俺がこの手で護ってやるしかない。

 彼らに娘の名を変えようとする意思がないというのならば、俺がこの手で変えてやるしかないと思った。

 名前の変更には、正当な理由が必要となる。ざんねんながら、リベンジポルノの被害者だという理由は現行の制度では通らない。

 おかしなことにこの国は、加害者にはそれを認めるというのに、被害者にはそれを認めないのだ。理不尽に思えるが、被害者には名前を変更しなければならないような「非」がないのだから、変更する必要はないという見方がなされるようだ。

 ならばどうすればよいか。俺は考えた。

 結婚してしまえばいいという考えが浮かんだとき、すでに超特盛娘は十五歳、中学三年生になっていた。

 あと一年、中学卒業まで待てば法的には結婚可能だ。しかし名字だけ変えてどうなる。それどころか、こんなおっさんとの婚姻を彼女の両親は認めるだろうか。

 なんとなしに「こういう道もあるのだが」と俺との婚姻という選択肢を提示してみせたところ、なんともあっさりと食いつかれた。承認するどころか、この子をもらってくれるなら、とまるで在庫処分を課せられた店員のようにこちらをせっつく始末だ。

 成人していない娘に半ば求婚するような男だ、まずは非難するのが道理ではないか。彼らはそんな俺の焦りにも似た心境などおかまいなしに、「それはよい考えです」とかってに話をすすめていく。俺が或いはそれは冗談だったのだと言いだす前にことを進めてしまえとばかりの強引さで、当事者たる俺たちを抜きに、結婚式の予定まで立てはじめる。

 ぜったいにおかしい。

 なにかが狂いはじめている。

 俺は超特盛娘を護るために奔走していたはずだ。いったいどこで路を誤った。なにがどうなって、彼女と結婚するはめになっている。

 たぬきに化かされた気分だ。

 超特盛娘にしても、文句の一つも垂れてやればいいものを、被害者という立場にあやかって、静観を決め込んでいる。彼女が不平を挟まないことを彼女の両親たちは婚姻に同意しているものと見做しているようだ。

 弁護士に相談したところ、結婚する以外にも名前を変えることは可能だという話を聞いた。どうやら超特盛娘の場合は、その体格がさいわいしてか、今回の事件に関係なく、名前の変更を認められるという。

「リキさんの場合、【潮亀リキ】という名前が、ふくよかな体つきを揶揄する蔑称になり得るので、名前を変更するに足る理由として受理される可能性が高いです」

 弁護士の指摘したとおり、彼女の場合、苗字と名前を並び替えると【りきしおかめ】となり、「力士おかめ」と読める。事実、彼女は学校でそうしたあだ名をいくつも冠してきたという。

 なんて名前をつけたものだろう。表札を見たときにも思ったが、彼女の両親にそれを意図したつもりがないことは、よくよく考えてみれば明らかである。

 生まれてくる前から自分たちの娘がムクムクと規格外の身体に育つとはよもや思わないだろう。偶然の産物にはちがいないが、それにしても数奇な名前をつけたものだ。

 いずれにせよ、名前のために結婚する必要がないことを俺は超特盛娘の一家に伝えた。が、結婚は揺るぎないものとして彼らの意思には刻まれているらしかった。

「名目上ですよ。槻田さんは娘を護ると言ってくださいました。ならば名前を変更するのにあなたとの婚姻は都合がいい。嫌になったら事実上の離婚をしてくださって構いません。名前だけをそのままにしておけばいいのですから」

 なんと身勝手な親だろう。彼らの厚顔無恥な言動に怒るのも忘れ、俺は呆れかえった。

「ごめんなさい。ああいうひとたちなの」

 森さんに付き添われ、俺のもとにやってきた超特盛娘はそう言った。

「なんだかやつれてないか。ちゃんと食ってんのか」

「食欲なんてないよ。こんなことになっちゃってんだもん」

 どうやら顔から太るタイプのようで、痩せるときも彼女は顔だけこけていた。

「バランスわるいからちゃんと食え。でねぇともらってやんねぇぞ」

「槻田さんは本当にいいの?」

「なにがだ?」

「だから、うちとの……その」

「結婚するくらいなんだ。そもそもおまえ、親族でもない森さんや林さんをもう一人の親みたいに思ってんだろ。だったら俺もそこに入れるくらいなんてことないだろ」

「え、リキちゃん、そんなことを!?」なぜかそこで森さんがうれしそうにした。

「しー! しー!」

 超特盛娘までなぜかはしゃいだ。

 

 リベンジポルノをばら撒いた張本人であるところの近所のひきこもり野郎は、きっちり裁判にて法の下、裁きを受けた。超特盛娘の証言もあり、強姦罪は適用されず、それまでの暮らしぶりも憂慮され、情状酌量の余地ありとの判決だった。

 俺としては死刑でもよかったが、ざんねんなことにリベンジポルノでは死刑にできないらしい。ふしぎだ。

 超特盛娘に関するゴタゴタの合間にも俺は俺で食っていくための仕事をこなさなければならなかった。かつての生活よりも格段にくるしい作業のはずが、なぜかこれまで以上に食らいつくことができた。

 あっという間に半年が過ぎた。気づくと夜空には粉雪が舞っていた。

 すでに超特盛娘はこの街におらず、桜前線がひと月も遅れてやってくる土地へと移転済みだ。今年は例年にないくらいの豪雪が襲っているそうだが無事だろうか。せいぜいが靴の埋もれるくらいにしか積もらない足元を見つめながら、俺はカホの家へと向かっていた。

「よぉ。げんきか」

「戸ぉ閉めて閉めて。あったかい空気が逃げちゃう、逃げちゃう」

 冬のコミケが年末に控えているためか、きょうもきょうとてカホは机にかじりついていた。筆ペンなどの古めかしい器具はない。粘土板のようなディスプレイにひたすらペンを滑らせている。色付けするところには触れるだけでいいらしく、軽快な音が不規則に、それこそ人形が机のうえでステップを踏んでいるかのように反響している。しずかなものだ。

「音楽は聴かないのか」

 作業中は聴いているのが常だった。

「色付けのときはつけないって決めてるの。曲に影響されて色彩感覚が乱れるから」

 プロらしいお言葉が返ってくるが、だったらそもそもほかの作業中であっても聴くべきではないのではないか。思うが、声には出さずにおく。

「いそがしそうだから帰るわ。邪魔したな」日を改めてにしようと思った。

「待って。なに? できる限り今は脳みそのなかにキャッシュ入れときたくないの」

 集中力を妨げるような事案は極力抱えたくないらしい。余計な問題を持ち込むなと迂遠に釘をさされたようで、動揺を与えることがほぼ確定的な俺としては今ここで打ち明けるのは申し訳なく感じるいっぽうで、しかしほかに意識を割く余裕がカホにはないらしい今ならば、俺としても言いやすいかもしれないと思い直し、若干の間をあけたのち、

「結婚することにした」

 と告げた。

「あ、そう」

 返事はそれだけだ。空間には律動よくペンのディスプレイを叩く音が響いている。

「いつ?」

「来年の冬くらいかな」

「へえ。相手は?」

「おまえの知らない奴」

「そっか。おめでとさん」

「コミケの時期には重ならないようにだけはしとくから。来てくれよな」

「式? コミケに被ってても行くって」

「おう」

 黙っていると、

「まだなにかあるの」

 カホは素っ気なく言った。

「街を出ることにした。ちょいと遠いが、新居を構える」

「あ、そうなんだ」

「おまえ、このままだと行き遅れるぞ」

「いいじゃんよ、べつに」カホはちいさく笑うようにつぶやいた。「誰かにもらってもらおうなんて思ってないし」

 出立の日程を聞かれ、今週中だという話をした。コミケと被っていることをぶつくさ言われたが、わざとだと言うと、せいせいするぜ、と悪態が返ってきた。

「落ち着いたら遊びに行くから」

「期待しないで待ってるよ」

「そろそろごめん」カホは言った。「締め切り、あすまでなんだ。ちょっとヤバい」

「ああ。邪魔してわるかったな」

 カホはいちどもこちらに顔を向けず、部屋を出ていくときもずっとディスプレイに向き合っていた。部屋のそと、戸に寄りかかるようにして俺は聞き耳を立てた。律動よく響いていたペンの足踏みする音が、ふたたび不規則に踊りだす様を確認し、そっとその場をあとにした。

 

 親への報告よりもさきにカホにしたのにはさしたる理由はなかった。強いて言うなれば、面倒事は最後までとっておきたい俺の性分によるところが大きい。

 俺が超特盛娘と出会い、結婚を決めるまでのあいだに流れた時間は、四か月程度と、ほんの短いものだった。電撃結婚よりもむしろ疾風迅雷を思わせる突貫工事よろしく婚姻だ。俺からの報告を耳にした両親は、こぞって寝耳に水を地で描いたリアクションをみせた。息子が犯罪に走ったのではないかと泡を食った様子だったが事情を説明し、俺としても特別な感情があるのだと、未成年者であるところの超特盛娘への想いを熱く――とはとてもではないが言えない冷めた口調で淡々と説いてみせたところ、なんとか事なきを得た。反対したところでどうせコイツのことだ、駆け落ちでもなんでもして強行するだろうと、俺の性格を熟知している彼らは諦観半ばに納得した様子だった。

 会わない時間をつくろうと言いだしたのは向こうの家だった。

「ひょっとしたら結婚に対するお互いの考えが変わるかもしれないですし」

 といった旨を彼らは主張した。

 超特盛娘の両親たちは、やはりというべきか、引っ越しをしただけでも対処としては充分だという認識を未だに持っており、あれだけ急き立てていた結婚を、今さらながら億劫に思いはじめているようだった。

「ああいうひとたちなの。自分たちの都合のいいように、そのときそのときで考えを変えちゃうの。わがままでしょ」

 義務教育も終えていない娘にこうまで言わしめるとは、情けないを通り越して憐れだったが、そんな小娘を嫁にもらおうとしている俺の言えた義理ではないと気づき、素直に彼らを責めることができないじぶんがいる。

 超特盛娘への想いが本気であることを示すつもりで俺は彼らの提案に乗った。超特盛娘にしても、うちの親にしては名案だね、ととくに反対することもなく判断を俺に委ねた。案外、彼女自身、俺の気持ちを試したかったのかもしれない。

 カホに結婚のことを打ち明けたとき、超特盛娘と逢わなくなってからすでにひと月が経っていた。

 試したかったのだ、俺もまた。

 マシュマロの匂いが恋しくなってきた状態で――ぷにぷに依存症の禁断症状がではじめたその契機で――カホのまえに立ち、それでも心変わりをしなければ、俺のこの想いは、一種の気の迷いなどではなく、本物の愛情なのだとじぶんでも信じられるはずだと考えた。

 よくよく考えてもみれば、よくよく考えてなどみなくともこんな顛末はおかしいではないか。

 夜中に出歩いていた男が偶然出会った未成年者相手に、交流を築き、しかしその動機はけっして恋慕の念ではないと自信満々に宣言しておきながら、そのじつ、彼女の危機的状況に触発されたように結婚の約束を取り交わし、そしてとんとん拍子に式の予定まで立て、あっという間に現在だ。棚から牡丹餅どころの話ではない。

 いったい俺は、雪だるまの妖精のような超特盛娘のどこにそんなに魅かれたというのか。

 論理的に考えようとしても無駄なことだと気づいたとき、俺はすでに彼女との出会いを言語化し、振り返っていた。世にだす予定のない、俺だけのテキストだ。

 式の予定は来年の冬。あと一年ほど先である。

      ***

 季節は初夏。そとでは蝉どもが耐えがたい蒸し暑さに抗議の声をあげている。インターホンが鳴ったが、俺はふだんと同じく居留守を使った。雪の降らない地方都市のマンションに新居を構えた。大家の贔屓にしているセールスマンがときおりやってくるのが玉に瑕だが、それ以外は眺めもよく静かで、近所には大型量販店もあり、駅からも徒歩十分の距離という、なかなかに立地条件のよい物件だ。

 が、こうも頻繁にインターホンを鳴らされたのでは、優良物件という評価を素直に与えるのも考え物だ。

 そろそろ苦情の一つでも出しておくか。

 いつもよりもしつこいピンポン連打に、俺は痺れを切らし、重い腰を持ち上げた。

「うるせぇよ。聞こえてるっての」

 扉のまえには予期していた男の姿はなく、代わりに麦わら帽子を被ったワンピース姿の少女が立っていた。少女とは言っても背丈がないだけで肉付きのよいナイスバディだ。豊満な胸がくびれの細さを際立たせている。細身とは言いがたいが、超特盛娘と比べれば雪だるまと電信柱ほどの差異がある。

「えっと。どちらさまかな?」

 うつむいてばかりで一向に口を利かない少女に俺は、「部屋、間違えたんですか」

 怒鳴りながら戸を開けてしまった手前、やさしく訊ねた。

 彼女は日焼けしたうでをポリポリ掻き、それから苛立たしげに二度、三度、と地団太を踏んだ。

「底が抜けちまう」

 そう心配してしまうほど、彼女の足踏みは強烈だった。そこで俺ははっとした。少女の顔を隠しているつばの広い麦わら帽子を掴み、取り去った。

「おいおいおい。どうしちゃったのよ、あなた」

 意味もなくおねぇ言葉になる。

「きょうからこっちに住むことにしたから」

 すでに彼女の名は、「リキ」ではなく、そしてなぜか体格まで変貌していた。

「あとは苗字だけだね」

 食欲不振だと言っていたが、それだけではここまでの変化はあり得ない。

「魔法でも使ったのか?」

「成長期だからね」

 会わない時間を設けたのは、このためだったのか、と遅まきながら合点がいった。

「ねえ。いい加減に入れてほしいんだけど」

 いつまで玄関口で立ち話をしているつもりなのか、と非難の目を向けられる。

「にしても暑ぃな」俺は彼女を招き入れながら言った。「はやく冬になんねぇかな」

「そうだねぇ」

「はぁ、あちぃ。はやく冬になんねぇかな」繰り返すと、背中をどつかれる。「どういう意味かな、それ」

「冗談だ。おいで」

 腕を開き、まっすぐ向き合う。縦に栄養のいかない性分の彼女は、やせはじめたいまもそれは変わらずのようだ。みぞおちのあたりにずっしりと重い塊が飛びこんでくる。容赦ない突撃に、俺はよろけ、尻もちをつく。ゴールデンレトリバーにじゃれつかれた子どものような恰好だ。俺は彼女を抱き寄せ、

「おかえり」

 これからはここがおまえの家だというつもりで言った。

 伝わったかは分からない。

 それでも彼女は俺の胸にあたまを預け、

 ただいま。

 心臓にささやきかけるように、そっと熱い息を吹きかけた。




   【デブに真珠】END

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