千物語「白」

千物語「白」

目次

【転】

【時代の流れ】

【かくれんぼ】

【カマキリ】

【美少女美女】

【絶世のブサイク】

【底知れぬペットボトル】

【死神の死神】

【おもしろくないのにおもしろい小説】

【実況】

【リンゴジュース】

【偏執狂の愛】

【水子】

【未経験】

【WEB小説】

【報酬と対価、芳醇な退化】

【自慰過剰野郎】

【ナルホモ納得の定理】

【肛門括約キンドロイドVSターネットの奮闘】

【未来の視える万華鏡】

【人類の希望】

【濃縮還元0パーセント】

【親近片想い】

【雪やコンコンあたしは悶々】

【カエル、天蓋、モザイク】

【ロイド・レポート】

【たまてばこ】

【影】

【肉】

【こころ】




【転】


 転生先は地球だった。

 何わけわからんことチンチン言っとんのじゃとお怒りの方もおられよう。おられないならば仕方あるまい。私がじかに怒ることにする。

 コラー管理人、ナマケズちゃんと仕事しろ。

 異世界に転生したのはもう三百年も前のことになる。エルフとして目覚め、そして生きた。初めの百年は至高の魔術師になるべく尽力し、仲間を得、家族を得た。つぎの百年では戦争を失くし、仲間を失くし、家族を失った。最後の百年は理不尽な世界への抵抗を試み、世の理を変え、平和を望み、そしてこれまでにしてきたあらゆることのすべてを打ち崩すことで、たったひとつの揺るぎない、誰もがしあわせに生きていける世界をつくりだした。

 それは現実ではなく、ゆえに無数の夢が混在するここではないどこかだった。

 私はその泡沫のような世界が崩れ去らぬようにと、たった独り、核の役割を果たすべく世界の外界、否、それは中心かもしれないが、無限につづく夢をかたどる器として残った。私という存在に蓄積された「この世の理の残滓」とも呼ぶべき膨大なエネルギィは、私の意識とは無関係に、泡沫の世界を形作りつづける。私はその世界を安定させたのち、静かに息を引き取った。

 そこで終わるはずだった。

 よもやまたも転生する羽目になろうとは。

 最初の転生時に、たしか管理者は言っていたはずだ。転生は一度きり、このさき死ねばもうあとはないと。

 それがどうだ。

 じっさいに二度目の死を迎えてみると、そこは懐かしき故郷、日本の平凡な、じぶんの家ではないか。時間が経過していない。夢かと思い、無意識に向こうの世界での――感覚としては元いた世界の魔術を起動させると、手のひらに、ボッと音を立てて炎が玉を描いた。

 なんだ使えるじゃないか。

 どうやらこちらの世界でも元いた世界で蓄積したノウハウは使えるらしい。ならば何を恐れることがあろう。私はまず、元いた世界でも行った政治を正す作業にとりかかった。金に、女に、権力争いと汚染されたまつりごとを浄化すべく、ことごとくの政治家の私生活を覗き見、掌握し、ゆすった。どの政党のどんな議員にも、弱音は腐るほどにあった。もともと腐っていただけの話ではある。

 抵抗する者たちはおしなべて傀儡とし、精神を奪った。人をやめた者に人として生きる道理はない。

 私が彼ら彼女たちを傀儡として操れた時点でそれは自明だった。

 なぜなら魔術とは、対象に宿る魔を操ることが原則だからだ。要は、相手に魔が宿っていなければ、私は正攻法での交渉しか使えないことになる。潔白の者の私生活を覗き見ることもかなわない。むろん、魔術師たる私もまた、魔術を使った時点で、魔に魅入られている。ゆえに、魔術を使うとき以外は、清廉潔白をつねに心がけねばならない。

 もっとも同胞のいないこの世界でそうした自己防衛は何の意味もなさないだろう。だからこそ、念のため、必要以上に魔に魅入られぬようにこれまで以上の自己批判、抑制をしていかねばらない。

 政治を正したあとは、導くべき道先へと民を先導せねばならない。民に良し悪しはない。どのような者であっても尊ぶべき生を帯びている。しかし歩むべき道を示さねば、彼らは容易に魔に取り入られ、魅了され、堕落していく。彼らには魔を感じとる器官がないためであり、同時に魔への対処法を知らぬためである。ことこちらの世界では顕著だった。

 思えば、元いた世界も荒んでいたが、こちらの世界の非ではない。悪辣な魔は、チカラある者たちを幻惑し、世界の腐敗を視えぬようにする。正したくとも正せぬのが道理であり、また、本来救うべき対象を、社会を蝕む魔の巣食う者たちと歪曲して捉える傾向にある。認識阻害は魔の得意とする分野だ。

 元いた世界で苦労した魔力の収拾を、こちらでは比較的短期間で私という器に溜めることができた。

 比較にならないほど、元いた世界の住人たちは清廉だったのだと気づき、そんな彼らですら争いを絶やすのは並大抵のことではなかったのだと知り、愕然とした。

 ひるんでもいられない。

 私は、適応者を求め、そして世界中から幾人かの魔力に精通し得る人材を見出した。彼らの多くは、異常者や病人としてこちらの世界では扱われていた。

 調べてみれば、単にひとより魔を感じやすい体質なだけだった。導くべき未来への道しるべを彼らに託し、先導者としてのチカラを授けた。骨は折ったが、彼らにはのきなみ未知への好奇心と、なにより向上心があった。虐げられてきた過去がそうした資質を育んだのかもしれず、同時にそこから魔が芽生えぬようにと教育という名の枷を課すことも欠かさなかった。

 民の統率は彼らに任せ、私はより生命の安定しやすい環境をつくりだす作業にとりかかる。

 まずはエネルギィ問題、歯止めのきかぬ温暖化とそれによる副次的な自然災害、それから生態系の急激な変化にも対処せねばならない。ひとつひとつを解決するのはそうむつかしい作業ではないが、いずれの問題も大小さまざまな隘路を抱え、それが密接に、或いはてんでデタラメに関係しあい、どこから解けばよいのか分からぬ巨大な毛玉と化している。

 まずは一つ一つ解決していくほかはなく、しかし解決した矢先に、それら解決策がさらなる問題を誘発させる。触れれば触れるだけ問題が山積みになり、いったい何をしでかしたらここまで毛糸をからませられるのかと過去すべての人類に対し、私は魔を抱きそうだった。

 そこで私はぴんときた。

 ひょっとして。

 大気圏外へと浮上し、そこで私は地球を俯瞰した。

 巨大な魔が浮いていた。

 地球という惑星そのものが巨大な魔を形成している。それらは総じて人類に向かい、毛糸のような魔力を、触手のように伸ばしては、個体のひとつひとつの頭に、背に、繋げている。操っているのだ。

 地球は魔術をしっている。

 私はあたまを抱えた。

 対処法はある。実践しているからだ。

 効果のほどは保障する。それをするだけの魔はこうしてすでに巨大な塊を形成している。

 しかし――。

 輪郭を光で濡らし輝く地球をまえに、私は底のない闇をあおぐようにした。

 管理者よ、ミスは二度目でやめてくれ。

 祈り、私は世の理を打ち砕き、生命のあらんかぎりの意識を集め、夢の世界を編んでいく。

 間もなく、私は三度目の死を体験する。

「やあ、ようこそ同胞よ。きみも今日から管理者だ」

 目覚めると、かつて目にしたクソッタレの顔がそこにある。「お、ものすごい魔だねぇ。その調子でこちらの世界も終わらせてくれ」




【時代の流れ】


 幼いころに過ごした村はすごく田舎だった。となりのトトロの舞台じゃないかってくらい自然に囲まれてて、中学生になって引っ越すまであたしはそこで暮らしていた。

 田舎から離れ、それなりに近代文明の恩恵がそこかしこに点在している街にくると、それはたとえば自動販売機とか、コンビニとか、ネオンとかが極々自然にそこら辺にちらばっている街なんだけれど、ともかく住む環境が変わったことでなにがいちばん驚いたかっていうと、時代の流れの見方を学校で習わないっていう、学習内容の違いだった。

 戸惑ったと言い換えてもいい。

 あたしにはこれだけ視えている時代の流れが、ほかの大多数、それこそあの村のあの学校に通っていなかった街の人たちや父や母まで、あたし以外の人たちには視えないらしいってことをそのころ知った。方法を知らないから視えないんだ。そう考えたあたしは、みんなに教えてあげようとした。

 じっさいに教えてあげてみたりもしたのだけれど、ついぞ彼らは理解を示さず、あたしのほうを異常者扱いした。

 それは正しい対処法で、正しい認識の仕方だった。

 あたしだって今こうして雑多な枠組みのなかで暮らすようになってからは、「時代の流れ」なんてものの存在が、どれほどあやふやで、過去を眺めることで感じられる一種の錯覚みたいなものなんだって考えられるようになったし、たぶんそういうものなんだろうって素朴に信じている。

 でも、視えてしまうものは視えてしまう。

 あたしには未だに時代の流れが目に映る。そこかしこに、溢れるそれらは、オーロラのようにこの世界を覆い尽くし、渦巻いている。

 あたしには視えるそれが、果たして真実に未来を映しだしているのか、示唆しているのかは、時代の変遷がじっさいに行われたとき、終わったあとでしか確認のしようがない。

 だからあたしはそれを記録する。あたしはそれを文字にする。

 あたしの記すそれらが悪用されないように、すこしの潤色と誇張を交えて。

 人はそれを小説と呼ぶけれど、あたしだけが知っている。

 そこにあるのは、時代の流れを映しとったシャボン玉じみた紋様なのだと。




【かくれんぼ】


 小学校低学年のころ、イトコの家に遊びにいったとき、必ず近所の神社でかくれんぼをして遊んだ。ちいさな村だったからか、かくれんぼをするぞって段になるとどこからともなくイトコの友達がやってきて、たいてい私が鬼になるのだけれど、陽が暮れる時刻まで、それをつづけた。単なるかくれんぼではなく、見つけた相手に触れなければならず、隠れ鬼やケイドロにどこか似ていた。イトコは隠れるのが非常にうまかった。夕暮れどきになって私がもう疲れたといって、降参の合図を神社のガラガラを振って鳴らすと、どこからともなくイトコが現れ、私たちは家路につくのだった。先日、オジが亡くなり、その葬式で数年ぶりにイトコと会った。オジの思い出話から、私たちの話へと移行し、そこでかくれんぼの話になった。「にしてもどこに隠れてたの。ぜんぜん見つけらんなくて、訊いてもけっきょく教えてくれなかったし」「あああれね」なぜかイトコは気まずそうにうなじを掻き、「ごめんねぇ」と謝るのだった。「ホントはさ、あれ。マンちゃんを置き去りにしてただけなんだよねぇ」「え?」「ほら、あたしらって歳はなれてるじゃん? しょうじきあのときのマンちゃんの子守するのいやでさぁ。というか毎回押しつけられてて、マンちゃんへのっていうよりも親への反発のつもりで、神社に置き去りにしてたわけ。暗くなったらさすがに迎えに行ってたけど、それでもマンちゃんぜんぜん気にしないで独りで楽しそうだったし、まあそういうコなのかな、へんだなぁとは思ってたんだけど」「え、でも私、イトコちゃんの友達に遊んでもらってたよ」「やだーこわーい」「うそじゃないってば。だってほら、三つ子みたいに同じ顔した」私がそう言うと、イトコだけでなく、その場にいた親戚一同がいっせいにぴたりと口を閉じ、こちらを向いた。「なに、どうしたの」私はイトコのうでを引き、「なんかこわいんだけど」するとイトコは私のうでを握り返し、「マンちゃん。その話、二度としちゃダメ」さらに怖い顔をつくるのだった。あとで母から聞いた話なのだけれど、当時の村に、イトコ以外の子どもは一人もいなかったのだそうだ。父はというと、そのことに関してはなにも教えてはくれなかった。




【カマキリ】


 カマキリに恋をした。

 冗談ではなく、ぼくは昆虫のカマキリに一目惚れをした。

 彼女がぼくの顔に飛びこんでこなかったら間違いなくぼくは死んでいた。そういう意味で彼女はぼくの命の恩人である。

 命の恩人だから好きになったのか、それとも好きだからこそ命を救ってくれた彼女にここまでの恩を感じているのかは定かではないし、定かにする必要もないように思う。

 元々、昆虫は好きだった。カマキリとなれば、オオスズメバチ、カブトムシ、クワガタムシに並ぶ昆虫四天王に数えられる。卵から孵った時点ですでにカマキリのカタチをとっている点も評価が高い。

 ぼくは幼虫みたいにウネウネしているものが苦手だ。ヘビなんてもってのほかだし、だからぼくはうどんが食べられないのかもしれず、けれどお蕎麦は好きだった。

 彼女はメスのカマキリだった。立派なカマを持ち、きりっとした顔立ちは、鋭い眼光のせいかもしれなかった。剣呑な目つきでありながら、彼女の目はとびきりキュートで、ダイヤモンドみたいに大きく、夜空のように輝いている。

 比喩ではない。

 すらっとした胴体はモデル顔負けのくびれを誇り、そこから伸びる脚はしなやかで、針のような張りがある。韻を踏んだけれど、おやじギャグではない。

 全体的にスマートな身体はけれど、おしりとなるともう、たまらん。ぷりぷりに膨らんでおきながら、だらしない印象からは程遠く、かといって筋肉質というほどでもなく、不謹慎にもぼくは内側にゆびをつっこんだらどれだけやわらかだろう、といやらしい想像をしてしまうのだった。

「きみの名前は?」

 水を向けると、彼女はかわいらしく小首を傾げ、「ニキティよ」と名乗った。

 驚くべきことに彼女はしゃべられるのだった。ぼくは彼女を家に連れ帰った。誘拐ではない。行く当てもないので雨風が防げるのなら是非、と彼女も言ってくれた。

 彼女はどこからきて、どこからやってきたのか。

 訊ねてみても、彼女自身が自分のことをあまりよく知らないようだった。

「なんだっていいよ。きみがそばにいてくれるのなら」

「うれしい。わたしもあなたがいてくれるとここのところが熱くなるの」

 そう言って彼女は大きく立派なカマを、お腹のあたりに向けるのだった。

 彼女がカマキリである以上、食事は相応に、カマキリらしいものだった。夏のあいだは食事の準備に手間取らなかったのだけれど、ヒグラシが鳴くようになり、残暑が過ぎ、涼しげだったコオロギたちの演奏が細々と終曲にさしかかるころになると、彼女の食べることの可能な食事がなかなか手に入らなくなってしまった。

 食事がとれないからなのか、日に日に彼女は弱っていった。

「どうしよう、どうしよう」

 ぼくは焦った。彼女は言った。

「どこか湖のきれいに見えるところに行きたい」

 ぼくは彼女を山中の湖まで連れて行った。

「ほら見て。水面に月が浮かんでる。きれいだ」

「ホントね。すごくきれい」

 彼女はお腹をしきりに大きく膨らませ、萎ませ、さらに膨らませた。反復されるそれらの動きが、なぜだか風前の灯を彷彿とさせ、ぼくは気づくと涙をこぼしていた。涙はシズクとなって、彼女の顔に、胴に、腹に当たった。

「ねえ、わたしのこと愛してる?」

 彼女の問いにぼくは声もなく何度もうなずいた。

「わたしがもし」

 彼女はもうほとんど虫の息だった。「カマキリでなくなっても、それでも……」

 ぼくは目を閉じた。

 動かなくなった彼女の身体に頬ずりをしながらぼくは、愛してるさ、いつまでも、と咆哮した。

「まあうれしい」

 彼女の声が聞こえた。生き返ったのかと目を開くと、そこには彼女のお腹の先っちょから顔をだしている糸のようなものが、ウニョウニョとこちらの耳に、鼻に、絡みつこうとしているのだった。

「ぎゃあああキモい!」ぼくは思わず彼女の遺体ごと投げ捨てていた。

「ねえ、どうして。どうしてなの」

 彼女の声だけが、湖のほとりの茂みのなかからかすかに、けれどハッキリと響き渡っているのだった。森閑とした夜空のしたで、ぼくは一歩二歩と後退し、気づくとその場から全力で走り去っていた。

 ぼくはカマキリに恋をした。

 冗談ではなかったけれど、そろそろ冗談でもいいだろう。笑い話にでもしておこう。

 日は巡り、夏。

 ぼくはふたたび大きく立派なカマキリを目にした。家のなかに迷い込んでいたカマキリはけれどしゃべったりはせず、もちろんぼくを受け入れたりもせずに、ちゃんと威嚇をし、そとに逃がしてあげると羽を広げて飛んでいった。

 ふと、風鈴の音色に交じり、いっしゅん彼女の声が聞こえた気がした。

 ――もう離さない。

 気のせいだろう、食べかけのお蕎麦をすすりながらぼくは、それでも鳴りやまない腹の虫に呆れるほかないのだった。




【美少女美女】


 ビショッジョ・ビジョがそいつと出会ったのは彼女が十四歳のときだった。

 ビショッジョ・ビジョは飽いていた。

 あらゆる美を形容する言葉に飽いていた。かわいいも、うつくしいも、愛をささやく魯鈍な言葉も、すべては空虚で色褪せた言葉足らずのわるぐちでしかなかった。

 そう、彼女は誰もが羨むほどに、慕い、敬うほどに、完成された外貌を有していた。彼女を一目見ただけで人々は恋に落ちた。そこに性別や人種、年齢や性的嗜好の差異は与されない。まず初めに彼女に恋をしたのは、母体からヨリヨリ現れた彼女を受け止めた助産師であった。

「まあなんてかわいらしい子なの」

 後日助産師は、貧困な家の赤子と彼女を入れ替え、金で彼女を買い取ろうと企てた。しかしビショッジョ・ビジョは赤子の時分で、誰の目にも明らかな美麗さを湛えていた。入れ替えなど早々に見抜かれてしまうに決まっていた。

 次点で彼女に恋をした者を特定するのは困難である。彼女がこの世に産まれ落ちた時点で、あらゆる視線は、彼女のもとに吸い寄せられ、釘付けにし、恋慕の念に溺れさせた。溺れたのは、恋焦がれている有象無象だけではなかった。

 ビショッジョ・ビジョ自身、あらゆる視線にまみれ生きていかねばならない宿命を背負わされた時点で、ほかの大多数の者たちには想像し得ないほどの関心と好意と邪心の海に、挑みつづけなければならなかった。ビショッジョ・ビジョは、他人に無関心でいることでその海に延々と浮かび、溺れずにいられる術を磨いた。

 だから、街中でふとそいつに目が留まったとき、なにかがおかしいと彼女はすぐに気づくことができた。

 そう、彼女のほうがさきにそいつに目を留め、足を止め、好奇の念をそそいでしまっていたのである。そいつは飄々と彼女の対面からやってきては、いっさいの関心を向けることなく、目のまえを通りすぎていった。

 ブツブツと独り言をつぶやいていたそいつは明らかに正常とは言いがたかったが、ビショッジョ・ビジョの美しさは、ひと目その姿を見ただけで人を正気にさせるほどの高い自浄作用を有していた。彼女の美しさを以ってしても是正しきれない狂気などあってよいはずもなかった。

 彼女はこのとき初めて、敗北という名の嫉妬を抱いた。ビショッジョ・ビジョのそれまでの人生はあらゆる羨望をその身に集めつづける神の領域にあった。

 ざんねんなことにしかし彼女は神ではなく、飽くまでただの人である。ちやほやされつづけてきた彼女にとって、他人とは足元で右往左往する蟻の群れにすぎなかった。そんな一介の蟻に、よりにもよって群れにさえ加われない蟻に歯牙にもかけられないなぞ、あってはならない屈辱であった。

 彼女はそいつのあとを追った。

 住居なのか、街はずれの廃墟じみた小屋のなかへとそいつは入っていた。こっそり侵入した彼女はそこで、そいつに拘束されてしまうのである。

「なんだおまえは。ぼくに何か用か」

「あるわけないでしょあんたみたいな変人に」

「変人か。ぼくを見たやつはみなそう言う。言語機能に障害のあるやからが多くてじつにまいる」

 彼女はなぜかそこで、その男に言い知れぬ嫌悪感を抱くに至る。客観的に分析するならば、彼女のその嫌悪は、同族をまえにしたときに湧き立つそれと寸分たがわず同じである。ゆいいつ無二のじぶんのような存在が、ほかにあってはならない。ましてやこんな腐った考えを巡らせているなんてあってよいはずもなかった。

 彼女はこのとき、男をとおして、自身の内側に根付き、膨らんだ、腐った性根を間接的にであるにせよ垣間見てしまったのである。

「あんたはいったい何がしたいの、こんなところでこんな怪しいもの作って」

 小屋の内部は、そこが小屋であることを忘れてしまいそうになるほどの雑多な機器で埋め尽くされていた。どこぞの研究所と見做したほうがいくぶんも正しいような気がしたものの、男の見てくれからすれば研究所などと高尚さを窺わせる施設のはずがないのだった。

「人類を滅亡させるために必要なことなんだ」男は言った。「ぼくは醜いモノが嫌いでな。堪えがたいほどに嫌いでな。いっしゅんでも同じ空気を吸っていたくないにもかかわらず、この世の空気はすべて、例外なく、腐った臭いに満ちてやがる。ぼくが死ぬか、悪因を滅ぼすか、二つに一つしか道はないと悟ったとき、ぼくはこれを作ることを決めたんだ」

 言って男は、子どもの背丈ほどのロケットじみた筒をパンパンと叩いた。硬質な音色は、ビショッジョ・ビジョの脳裡に、ミサイルの四文字を浮かべさせた。

「そんな爆弾程度で人類が滅ぶわけがないでしょ」たとえ核弾頭だとしても、一つの都市が壊滅するくらいが関の山だ。

「爆弾だったならそのとおりだ」男はゆっくりと立ち上がり、こちらの顔を覗き込むと、初めて彼女の造詣の美しさに気づいた様子で、ほぉと唸った。「おまえはなかなかどうして器だけはそれらしい」

「当然でしょわたしを誰だと思ってるのよ」

「よし、決めた。ちょうど材料の調達に悩んでいたところだったんだ。おまえの遺伝子情報を拝借させてもらおう」

「なんですって」

「これにはな」

 言いながら男はミサイルじみた箱を撫で、「ゲノム操作で改良したHIVウィルスが搭載されている。空気感染するほど伝染力がつよく、感染した者はみな遺伝子に甚大な影響を受ける」

「どうなるの」知れず生唾を呑み込んでいる。「みな一つの規格に身体の構造を組み替えられてしまうのさ」

「どういうこと」

「いまからぼくはこれにおまえの遺伝子情報を覚えさせる。感染した者はみな例外なくおまえのような美少女になってしまう」

「なんですって」男がこちらを差して美少女と形容したことに、意外なほど心を乱されている。彼女の動揺を知ってか知らずか男は、「全世界の人間はおよそひと月ですべてが美少女に生まれ変わる。それの意味するところがおまえに解るか」「解るわけないでしょ、狂人の戯言なんて」

「ゆったりとしずかに滅びゆくんだよ。すべてがすべて美少女だぞ。嫌がる者は皆無だろう。みな穏やかな日々を暮らしていくなかで、子孫を残せず、ゆったりと滅んでいく。ぼくの思い描く最高の終焉だ。誰一人として不幸にならず、そして不満なく人類としての終焉を迎えるのだ」

 ビショッジョ・ビジョはその世界を想像し、そこに紛れる自分自身を想像し、そして堪えがたい吐き気を催した。

「やめて! そんなのどこが理想なの、ぜんぜんしあわせじゃない!」男は冷めた目でこちらを見下ろした。風のように見透かした視線で、「おまえはそうかもしれないな」となぜか憐れむような言葉を紡ぐのだった。

 男はその晩、最後の作業にとりかかり、明朝、ビショッジョ・ビジョの遺伝子情報を載せた新種の生物兵器、【人類みな美少女号】はいよいよ大空へと打ち上げられる段となる。

 男の言動に半信半疑だったビショッジョ・ビジョであったが、完成した【人類みな美少女ウィルス】を投与した男自身が、ビショッジョ・ビジョに負けず劣らずの美少女へとその姿を変質させたのを目の当たりにし、いよいよのっぴきならない事態に直面している現実を認めるに至る。

「今ならまだ間に合う。考え直しなさい」

「考え直す必要があるのはぼく以外のバカどもだ。しあわせとはなにか、そのきっかけをぼくが与えてやる。安心しろ。ぼくが与えるのはきっかけだけだ。人類はそこで外見によって生じるあらゆる腐敗した思想を根絶し、真の意味で平和な世界が築かれる。短い期間であるとはいえ、人類はたしかに理想の社会に到達するんだ。完成されればあとは崩れるのを待つだけのさだめだ。なにも不思議なことはない」

 言って数刻前まで男だった美少女は、ビショッジョ・ビジョの制止を一顧だにせず、部屋の明かりを灯すような所作で、【人類みな美少女号】の発射ボタンを押すのだった。そらへと舞いあがり、そこで盛大な花火を咲かせ、世界へと拡散する【人類みな美少女ウィルス】を眺めながらビショッジョ・ビジョは、蟻の群れに紛れ、埋もれる自分自身を思い、中身がからっぽになってしまうような感覚、絶望の足音を、ヒタヒタと耳にするのである。




【絶世のブサイク】


 十二月二十七日は記念すべき日だ。全人類が美少女になった記念すべき日。

 事の発端はその二年前の、とある都市でのことだった。多くの人々がそらに打ちあがるなにかしらの花火のようなものを目撃した。以降、その花火を中心としていっせいに人間が美少女化しはじめた。

 年齢、国籍、性別、人種。いっさいの区分なしにある一定の規格へと人体が再構築されはじめたのである。

 新種の疫病であると知れ渡るのにそう時間はかからなかった。発端の日から四日後、世界は【全人類美少女化現象】への認識を確固たるものとした。

 人体が美少女化するほかに目立った害がないため、国際社会はことのほか大袈裟に混乱することはなかった。美少女化の速度は目覚ましいものがあり、一週間後には全世界の各国でその発症者が確認されるまでに感染を拡大させた。

 以降、人類はそのほとんどすべてを美少女に変換されつづけた。

 最後の非感染者、わたしを除いて、ではあるものの。

 なぜわたしだけが感染せずにいられるのかは定かではなく、或いはわたしには美少女化ウィルスへの抗体があるのかもしれず、かといってそれを以って薬の開発に踏み出そうとする医師たちは皆無であった。

 なぜならそれを必要とする患者はわたし以外にいないからであり、すでに変態を終えた美少女たちが、ふたたび個体差のある外貌に戻りたいと希求するはずもないのだった。

 人類はわたしを残してすべてがすべて美少女になった。

 お世辞にもわたしは元からうつくしい容貌をしてはいなかった。

 斟酌せずに言えばブサイクであった。

 それがたったひと月あまりで、絶世のブサイクにまで格上げされた。

 見渡すかぎりが美少女である。家族ですら例外ではなく、齢九十を超えた祖母よりもわたしは格段にブサイクであった。

 人々はわたしを避けた。

 美の基準が大幅にグレードアップされてしまった世界にあって、わたしの容貌は正視に堪えがたい汚物に見えているらしかった。

 くっそ。

 てめぇらが美少女すぎるだけじゃねぇか。

 やさぐれたのは最初だけであり、あとはもうなるようになれ、美少女に蔑まされた視線を浴びせられ生活するのもわるかぁねえや、と開き直りはじめておった。けれどわたしを神は見捨てなかった。

 最初の感染者が確認されてから二年後。

 すなわち、十二月二十七日。わたしはいよいよを以って美少女化ウィルスに感染し、美少女として生まれ変わったのである。

 美少女化したわたしは最後の旧人類として、新人類から大いに歓迎された。すなわち全人類を網羅する美少女たちからいっせいに好奇の眼差しをそそがれた。

 わるい気はしなかった。

 美少女化によってもたらされた社会への悪影響は、生活様式の総じてを美少女仕様にしなくてはならないという、人類の平均化された体格による弊害しかなく、当初こそ、誰が誰で、誰が誰だかが判らなくなるといった混乱が生じたものの、慣れてしまえば、表情や仕草などのちょっとした差異で難なく見分けられるようになった。

 言い換えれば美少女化した人類は、その個人差を、性格の差異に頼ってのみ見分けるほかなくなってしまったのである。

 性格が歪んでいれば、醜く映り、性格が清らかならば美少女がさらなる美少女としてキラキラと輝いて映った。

 奇しくもわたしは、ことさら美少女として担ぎ上げられた。

 性格がよいと思ったためしはなかったものの、周囲からそのような評価をくだされるのはけっして気持ちのわるいものではなかった。

 わたしは庭の雑草を抜きながら、そこに列をなす蟻たちの行進を眺めた。すべての個体が同じに見える彼らは、けれど互いに個別認識しているのかもしれず、それはきっと外見のちょっとした差異によってもたらされる識別ではなく、フェロモンや匂いといった、内側からにじみ出るなにかしらをその標拠の拠り所にしているのかもしれなかった。

 十二月二十七日。人類はすべて美少女化した。

 けれど相も変わらず社会には、醜悪の価値基準が漂い流れ、それによる差別や偏見、そして争いを、見事に平然と絶やさぬままでいる。

 旧人類のころに容姿の端麗であった者ほど、美少女化の行きわたったこの社会、新人類においては醜い対象として扱われる傾向にあるのは、皮肉と呼ぶにはつよすぎる毒を孕んでおる。

 わたしたちは、ふたたび外見の変化が及ぼされたとき、その醜悪の価値基準が逆転してしまわないように、日々つつましく暮らすのが望ましいと、争いごとの少なそうな蟻たちの群れを眺めながら、素朴に思いを巡らせるのである。




【底知れぬペットボトル】


 底知れぬペットボトルを拾った日のことをきのうことのように思いだす。スマートフォンなる多機能型携帯電話が開発されてから十年が経とうとしているその時代にあってゴミ捨てという原始的な仕事が未だに人間の手によってなされている事実には少々頭が痛くなってくる。その日、俺様は原始的な仕事を完遂させるべくゴミ捨て場へとゴミを捨てに歩いた。燃えるゴミの日であるにも拘わらず、ゴミ捨て場には資源ごみであるところのペットボトルが一本だけ、ちょこんと置かれていた。先客がいたらしい。誰よりはやくゴミを捨てにきた俺様よりもその先客はペットボトルをゴミ捨て場に置いてった。このままにして帰るのは忍びない。というよりも誰よりはやくゴミを捨てつづけてきた俺様にあらぬ嫌疑がかけられてしまうやもしれぬ。そうした高尚な知性を働かせ俺様はそのペットボトルを持ち帰った。結論から言うとそのペットボトルは底知れぬペットボトルであった。意味が解らないと物申すやからはアホである。俺様も意味が解らなかったのでその当時はまだアホウであった。未開封のペットボトルであることに気づいた俺様は中身をまず捨てようと思い立った。ゴミ捨て場に転がっていたペットボトルに口をつけようなどとさもしい考えを巡らせるほど俺様はいやしくはなかったが、しかし未開封ならばだいじょうぶだろうか、だいじょうぶだろう、と鋭い知性を働かせて捨て去るのを思い留まり、すこしだけ口に含んだ。オレンジジュースであった。思いのほか美味である。あっという間に飲み干すかと思いきや、そのペットボトルには底がなかった。いくらでも液体が零れ落ちてくる。妙な、と思い、逆さにして排水溝にひたすら捨てつづけたが、一分経ってもなおペットボトルからはオレンジジュースがトプトプと流れ落ちた。俺様は頭脳明晰に見抜いてしまった。これは底知れぬペットボトルである。以来、それを利用してなんとか金を稼げないかと四苦八苦し、やがて俺様はオレンジジュース会社として不動の地位を築き上げた。ひねりのない実直な性格が俺様の愛すべきところである。元値のかからない俺様の会社は見る間に経済界の重鎮として成長した。持てる者の義務として俺様は社会貢献を誰から指図されることなく実地した。水不足で衰弱死しているガキどものいる地域へは毎年無償で、一年分のオレンジジュースを運んだし、クソまじめにオレンジジュースを製造している会社やオレンジそのものを栽培している農家には、補助金として一年を暮らせるだけのお金を毎年のように分配してさしあげた。ほかにも俺様は稼いだ金を、あらゆる分野の先進的な研究に投資した。極秘で学者どもに、底知れぬペットボトルを構造解析してもらったこともあったが、詳しい構造は分解してみなければ解らないと言われ、ひとまずそちらは後回しにした。独占したオレンジジュースを誰よりもがぶがぶノミノミしていたのはいわずもがな俺様である。あるときそんな俺様の身体に変化が生じた。ゴミ捨ての際に、ちょっとした棘でゆびを切ってしまったのだが、なんとその傷は瞬く間に消えてなくなったのである。俺様は仰天した。未だにおまえはゴミ捨てなどと原始的な仕事をしているのか、お金持ちのくせに! それはそれとして、俺様の肉体は超自然治癒力を獲得しはじめていたのであった。不老不死の研究を俺様が推進しはじめたそれがきっかけだった。が、間もなくその研究をする手間が省けてしまう。研究するまでもなく要因がはっきりしてしまったためだ。底なしのペットボトルから流れつづけるオレンジジュースには、生物を不老不死にする副作用があったのである。しぜんな成り行きとして、俺様の会社の提供するオレンジジュースを飲みつづけた者から順に、不老不死の身体を手に入れた。世にはびこる烏合の衆は、ますます躍起になって俺様にすがり、泣きつき、崇めたてまつった。人類すべてが俺様のおひざ元にひれ伏しはじめた時分、重大な事実が判明した。地球と月の距離が徐々に近づいているというのである。その速度は、数年後には衝突してしまうほどであるという。なにゆえ? 頭脳明晰な俺様はすぐに理解を深めてしまった。底知れぬペットボトルによって流れつづけたオレンジジュースは、肉体に吸収され、さらには排出され、そしてさまざまな物質に還元されながら、地球の質量を重くしていったのである。質量が高くなれば、必然、引力が増す。これまで絶妙な塩梅でその距離を保っていたお月さまが、破竹の勢いで地球に引き寄せられはじめた――とそういう顛末であるらしかった。どうしたことか。どうしようもない。俺様は迷った挙句、バカ正直にその重大な事実を公表した。知るべきことは知るべきだ。保身を考え、黙っているほうがバカである。しかし俺様はアホウである。保身を鑑みなければならぬほどに、それは知られてはマズい情報であった。人類滅亡どころか地球損壊の危機に瀕した人類は、そんなアホウでチャーミングな俺様を完膚なきまでに責めたてた。おいおいベイベー。そんなに責めたてていいのかい。俺様のオレンジジュースをチュパチュパ下品に飲みたくはないのかい。人類滅亡、地球損壊をまえに、永遠の命など些末な事項であったらしい。というよりも半ば不老不死となった人類にとって地球なきあとの世界のほうが地獄のように映るらしい。解らなくもない。延々と宇宙空間でもがき苦しむ人類の姿は、陸に打ち上げられたマグロの大群ほどに笑えない。俺様は逃げた。たった独りで。極秘裏に開発した宇宙船に乗って。それがかれこれ千年前のことになる。もはや宇宙船はその機能を完全に停止し、食糧の底をついた船内で、俺様はただ闇雲に腹が減ったら底なしのペットボトルから流れでるオレンジジュースをちびちび舐める日々を送っている。オレンジジュースさえあれば船内の畑で植物を栽培可能であり、いまのところ呼吸に必要な空気に困った覚えはない。いずれどこか安住の地、地球に似た星へと辿り着けるかと期待したが、思えばそんな惑星は火星くらいなものであり、その火星はどこだという問いには、俺様が進んできた航路とは真逆の宇宙に位置するとだけ答えておこう。言っただろ。俺様はアホウだったのだ。しかし千年もの時間をただ無為にすごしてきた俺様であってもわずかにはアホウの血が薄れてきたらしい。全身すっかりオレンジジュースだと言えなくもない俺様であるので考えてもみれば当然の帰結であったかもわからない。俺様は閃いた。目ぼしい星がないのであれば、つくってしまえばよろしくて? よろしいよろしい、と脳内おともだちがいっせいに俺様を胴上げしはじめるが、俺様は他人に身体を触れられなくなって久しく、端的にこちょぐったいので、実存しないそれら脳内おともだちに、やめなさいよ、こちょぐったいでしょー、と一喝し黙らせた。虚しいという感情は疾うにいずこへ置いてきた。俺様はいそいそと宇宙船に穴を開け、ものすごい勢いで吸いこまれそうになるそこへ、底なしのペットボトルをかっぽんとはめ込むのである。大量のオレンジジュースが宇宙空間に漂いはじめる。二日後には、宇宙船を呑みこむほどの大きさの玉となって浮かんだ。太陽光の届かない宇宙空間では絶対零度が維持されているので、オレンジジュースは凝固しながらその体積を膨らませていく。あと千年もすればオレンジジュースでできた惑星ができあがるのではないか。久方ぶりに湧き立つ陽気を押さえつけるように、俺様はちょっとした時間旅行をしようと、頭のうしろに腕を組み、ざっと百年単位のひと眠りに勇猛にも果敢に挑むのである。




【死神の死神】


 死神の死神なる女と出会った。

「わたしぃ、死神の死神でぇー」

 無視してもよかったがかわいらしい容姿とあたまのわるそうな言動に妙な下心を働かせてしまったのがよくなかった。

「ちょっとそういう話はややこしい。うちで話さないか」

 ぼくは彼女を家に案内した。「で、きみはぼくにどうしてほしいんだ」

「わたしぃ、死神の死神でぇー」

「それはさっき聞いた」

「なんかぁー、わたしのダーになってほしいっていうかぁー」

「そのしゃべり方むかつくからもっとしゃきしゃきしゃべってもらっていいかな」

「ダーになってくれるならいいよー」

「ダーってなに」

「あはは。ダディーの略だよー」

「なぁる」

 そういうわけでぼくはその日、彼女のダーになった。

「で、具体的になにをすれば」

「ダーはそうだね。あたしを使って死神をたくさんたくさん殺せばいいよ」

「急に物騒なことを言いだすんじゃありません」

「拒否権はダーにはないよ。だってこれはもう決定事項だもの。ほら」

 彼女は契約書らしきものを、いずこより取り寄せてみせた。何もない空間に、ポンとそれは出現する。「ね? ダーはきょうから死神ハンター。死神ぜんぶを滅するの。あたしをたくさんたくさん使ってね」

「騙された……あたまのわるい性格は演技だったのか……」

「あたまわるそうに見えたぁ? ごめんねぇ」

 ぼくはそれから毎日のように、彼女に連れられて、街中へと出向き、そこで彼女の示すサラリーマン風の男や、医者や、ヲタク、さらには子どもや女子高生まで幅広く殺して渡った。

「さいきん眠れないんだ。悪夢を見るんだ」

「だいじょうぶだよ。ダーの殺したあいつらは死神なんだから。悪者退治をしているだけだもの。ダーが自分を責める必要はないよ」

 現に、闘いの火ぶたがいちど落とされてしまえば、相手はのきなみ異形の姿へと変貌し、人間とはとても思えないアレヤコレヤを駆使してこちらを翻弄した。死神の死神を自称するだけあって、彼女はときにカマになり、ときに銃になり、そしてそのほとんどを日本刀へと姿を変えた。ぼくは彼女を振るって、死神たちを葬りつづけていった。

 ある日、久方ぶりの平安な昼下がりを満喫していると、ふとニュースで人口爆発についての懸念の声が嘆かれて聞こえた。どうやら寿命が延びに延び、人間が減らなくなってしまったようである。

「これもきみの影響か」

「だろうねぇ」

「暢気だな」

「いいことじゃないか。老人だけじゃなく、若者の死亡率も減ったわけだし、そうそう嘆くことばかりじゃないと思うよ。死神はのきなみ若者が好きだからね。これまでこっそり魂を奪われつづけてきた若者たちが死ななくなっただけだろうし」

「ならいいんだけど」

 ふと気になり彼女に訊いた。「きみと契約したぼくもいずれ魂を奪われるのか」

「さあ、どうなんだろうねぇ」彼女は首をかしげた。「だってきみ、もうすでに人間とは呼べなそうだし」

 それからもぼくらは結託して死神を殺しつづけた。ついには死神たちを生みだしつづける元凶、悪魔サタンを打ち滅ぼすに至る。

「これでやっとぐっすり眠れる」

 ぼくが背伸びをしていると、

「まだだよぉー」

 彼女はこちらの背中に飛び乗った。「きみの仕事は死神すべてを殺すこと。契約書にもちゃんとそう記してあるでしょ」

「だから今しがた成し遂げたじゃないか」

「いやん。死神はまだいるじゃない」

「どこに」

「ここに」

 言って彼女は自分自身の頬をつついた。「ダーには最後に、あたしを殺してもらわなきゃ」

 ぼくは言葉を失った。

 或いは、最後にぼくのほうこそ彼女に殺されるかもしれないとひそかに臍を固めていたにもかかわらず、彼女のその指示にはどうあっても従うわけにはいかないのだった。

「さあ、殺して」

 彼女は嬉々として自らの腕をやいばに変形させ、こちらに握らせようとする。「ようやくあたしは自由になれるの。おねがい、あたしを殺して」

 彼女は笑いながら泣いていた。

 いつものような屈託のない笑みを絶やさぬままに、彼女はぽろぽろと大粒の涙を零している。

 死神の死神である彼女はけれど、敵を葬っていたわけではなかったのだ。或いは彼女は率先して、意気揚々と使命を果たしてきたのだと思いつづけてきた。誤謬だったのだ。初めて会ったときのように、彼女はずっと仮面を被りつづけていた。

「あたしは仲間を、家族を、この手で殺して、殺して、殺しつづけた。もうお願い。終わりにさせて」

 ――あたしをこの闇から救い出して。

 彼女の生身の声をぼくは初めて耳にすることができた気がした。

「約束する。きみはぼくが殺してあげる。だから教えてくれないか。きみにそんな使命を強いたのは誰なんだ」

 彼女は半ばぼくの予想していた者の名を口にした。

「――神」

 居場所は解るな、というぼくの問いに、彼女は押されたので流されたといった調子で、こっくりと頷いた。

「案内しろ。ぼくがそいつを殺してやる。なあ、死神の死神。ぼくはおまえのダディなんだろ。小娘は小娘らしく、主のあとについてこいよ」

 ぼくはその日を境に、死神の死神を駆使して、彼女を使って、神に死を与えるべく、天使狩りをはじめるのである。

「ねえダー。きみ、ふつうの死に方できないよ」

 案じる彼女にぼくは言う。

 構わないよ、と素直に言う。

 いずれぼくはもう、ずいぶん前から人間などではないのだから。




【おもしろくないのにおもしろい小説】


 おもしろい小説には二種類ある。

 おもしろくておもしろい小説と、おもしろくないのにおもしろい小説の二つである。

 主として私の紡ぐ物語は後者のおもしろくないのにおもしろい小説に属するようだ。おもしろくておもしろい小説との、けってい的な差異は、おもしろくておもしろい小説はどこをどう切り取ってもおもしろそうなのに対し、私の小説はどこをどう聞いてもおもしろくなさそうな点にある。

 たとえば過去に紡いできた作品のあらすじを一文でまとめてみれば、ある作品では「校門のまえに落ちている人糞はいったい誰がひねり落としていったものかを巡る超ド級のミステリーホラー」であるし、またある作品では「グラタンが好きなのかマカロニが好きなのかの判断のつかない青年がその分別にけじめをつけるために大海原へと旅立つ冒険超大作」であったりした。

 とかくあまりにおもしろくなさそうなため、私自身、それを紡いでいたときの精神状態を疑ってかかってしまいそうなほどにおもしろくなさそうなのだが、ひとたび本文に目を落とせば、飛ぶ鳥を落とす勢いで物語のなかに引きずり込まれることしきり、それぜったい、の引力を発揮する。

「先生。次回作は是非とも先生の代表作にしたいのですが、おもしろそうな題材でおもしろい小説を書いてみませんか」

 私に注文をつけてくる編集者たちはのきなみ読者の代弁者であり、ファンレターにも同様にして一言一句変わらぬ注文が付与されていることも珍しくはない。

「おもしろそうな題材は、すなわち過去すでにおもしろかった作品のイメージでしかないのでは?」

「それはそうなんですがねぇ。しかし先生。言葉というのは元来そういう性質のものでしょう。過去からの積み重ねがあって初めてその効力を発揮する。真実、ほんとうに真新しい言葉を使って、果たして小説が書けるものでしょうか」

 まことに正論であったが、同時に愚問でもあった。

 小説とは、文字という旧式を使って、新しい概念を紡ぐ道具そのものである。常にそこには真新しい言語が散りばめられている。それに気づけないようではかれの編集者としての力量もたかが知れていると言えた。

「いいでしょう。おもしろそうな題材で、おもしろい物語を紡ぐ。やってみせようではありませんか」

 仕事を引き受けた理由は、或いは私にとっておもしろそうな題材がすでにおもしろくなさそうだからであり、言うなれば一周回って私はようやくスタート地点に立てたのかもしれなかった。

「はてさて。こんなあらすじはどうだろう」

 私はあらすじを考えた。

【どんな女でもオトせる凄腕のナンパ師は、あるとき見たことのない絶世の美少女に声をかけるも、あえなく撃沈する。ナンパ師としてのすべてをかけて再挑戦するも、じつは少女は少女ではなく女装男子、いわゆる男の娘であることが判明する。勝負には勝てなかったが負けもしないという冒頭で物語は幕をあげる。そこから男は、少女がじつは、どんな人間でもオトしてみせる凄腕のスパイであることを知り、少女から人間を掌握する術を学んでいく。女を物扱いし、支配することだけが生きがいだった男が、少女と接していくうちにやがて、彼女の魅力にとりこにされ、ときに利用され、その支配に言い知れぬ法悦感を抱いていく。むろん少女は、じっさいには股間にイチモツをぶらさげているわけなのだが、そんなことは男にとってどうでもよくなっていた】

 どうだろう。

 いかにも昨今ウケそうな青春スパイ小説ができあがりそうではないか。じつにおもしろくなさそうである。

 これまでの私であれば、こんな題材で物語をつくるなど断固拒否してきたところだが、おもしろくなさそうな題材をおもしろく調理してこその作家の腕の見せ所ではなかろうか。

 私はそれを極上の物語に仕立てあげた。

「先生。やればできるじゃないですか」

 ベタ褒めの編集者の奥さんを私は寝取ってやった。

 その小説は九割九分過去、じっさいにあった出来事を元にしている。

 作家として決定的な欠陥を私はむかしから抱えていた。なぜかおもしろそうな題材の物語を模索すると、かつて私の体験してきたあれやこれやと繋がってしまい、情報秘匿義務のある身のうえとしては、どうしてもそれらを紡ぐ真似ができなかったのである。

 が、今回は特例中の特例、例外中の例外、秘匿情報に値する少女の存在が、去年を境に、まったくどうしてふしぎなことに、この社会から抹消された。国家をあげて、そんな少女は存在しないと、あらゆる術を尽くして証明されるというのだから、嘘吐きを生業とする私が件の少女を物語にとりあげてもどこからも非難の声はあがらない。

 いないものはいない。

 私が遠慮をする必要はなくなった。

「ちょっと、なんでもっとかわいく書いてくれなかったの」

 出版された私の秀作を手にし、彼女は――否、かれと呼ぶべきだろうか、未だ絶世を名乗るにふさわしい耽美さを称え、ちいさくふて腐れるのである。

 読者貴君。

 騙されてはいけない。

 その一挙手一投足のすべてがすべて、かれの計算のうちにある。喝破したのちに、うちのめされるがよろしい。

 ――以上、私からの忠告を以ってあとがきとし、ここに筆を擱くことをおゆるしあれ。

 願わくは、欠落を埋めるよき支配が、みなの衆にあらんことを。





【実況】


 あるところに鬼がいた。鼻筋が通っており、唇はぷっくりとちいさく思わずつまみたくなるほどで、くりくりしたおめめのなんと宝石のようなこと。顔はちいさく、身体もちいさい。頭からはひょっこり二本のかわいらしいツノが生えて映る。見る者すべてを魅了することしきり、もうかわいい! の太鼓判を捺すこと、その躊躇のなさ、まさにトビウオのごとく。もうちょーかわいい。大好き! なんでこれ鬼? ねえなんで? 天使だ。あれこれ天使か? 天使じゃね? 天使でした! そういうわけでその鬼はその日から天使となった。天使はお尻からふさふさの、見るからに毛並みのよさそうな尾を生やしていた。天使なのに生やしていた。でも似合っているから万事OK。文句なし。ちょー似合う。ちょーかわいい。頭のツノもよくみたらとんがりお耳だし、あれれ、これキツネじゃね? キツネが人間に化けてるだけじゃね? でもかわいいから天使! もうキツネ耳の天使! そういうわけでその日から天使はキツネ耳の天使になった。キツネ耳の天使はあるとき、森のなかで赤ずきんを被った少女を見かけた。その少女がこれまたいちだんとうつくしく、キツネ耳の天使はひと目で恋に落ちてしまった。キツネ耳の天使は少女のあとを追った。ストーカーですか? 訊ねるとキツネ耳の天使はぶんぶん首を振りおった。やってない、うちやってないよ。かわいい。かわいいけどアウトー! ストーカーはみなそう言うのである。キツネ耳の天使はストーカーでした。反省の色を示しているようだし、なにせ超絶めんこいので口頭注意だけで済ませてあげると、キツネ耳の天使はストーカーを性懲りもなくつづけるのだった。はやい。変わり身のはやさがこわい。舌のうえに転がしたオブラート並に、反省の色が跡形もなく消え去った。でもかわいいのでゆるす。かわいかったらゆるす。キツネ耳の天使は間もなく、赤ずきんの少女の向かう先、目的地であるおばぁさんの――いろいろとはしょり――赤ずきんちゃんは投げかけた。どうしておばぁさんのお口はそんなにちいさくて思わずつまんぢゃいたくなるほどかわいいの? それはね、とキツネ耳の天使は言った。「おまえをあまたからまるごと食べるた……あれぇ?」キツネ耳の天使はそこで気づいてしまったようである。そう、べつにおまえはオオカミではない。キツネ耳の、ただかわいいだけの、天使にもなりきれぬ、あわれでかわいい子狐だ。子狐はすっかり天使になりきっていたので、むしろずっと鬼のつもりだったので、その現実と理想のギャップにたいへんへこたれた。ぼく、つごく、はずかちぃ。枕にあたまをつっこんで、尻尾隠さず。ふさふさ揺れる尻尾のなんとかわいらしいこと。食べちゃいたい。そういうわけでわたくし、子狐の母、「我が子のはじめてのお使い~~赤い手袋編」の実況をこれにて終了し、我が子をめいいっぱいかわいいのかわいいのするタイムへと移行する。以降の中継は諸事情により音声だけでのお楽しみとなる。けれどもそれではあまりに味気ない。ひきつづき映像をご視聴希望のモフモニストのみなさまには、以下のリンクでメンバー登録し、月額、今ならなんと、いなり寿司百本分の現金を振り込k――。





【リンゴジュース】


 リンゴジュースが飲みたくなった。人類が滅亡してなお生き残った私はただひとりきりの男でありながら、人類でありながら、リンゴジュースが飲みたいという嘱望に突き動かされていた。アホじゃまいか。人類がまだそこかしこにはびこっていた時分には私にもそのような理性を働かせることができたものの、こうして文明が滅び、草木が枯れ、口にできるものがそこらをカサコソ這えずり回る生命力のひときわつよい昆虫にかぎられてしまうと、さすがに人類滅亡以前には働かせられた理性をかなぐり捨てるのにいかほどの躊躇があろうか。皆無である。あ、カタツムリだぁ。ふと食糧が目に留まった。私はめったに見せない俊敏さを発揮し、その手で、カタツムリを捕まえた。超絶素早く進化したそれは背中に殻を背負った生き物で、殻ごとバリボリと貪り食うと、中身がぐにゅぐにゅと溢れてきては舌全体にまとわりついた。せいだいなげっぷを一つする。すると遠方から、ニワトリのおどろおどろしい鳴き声が聞こえた。今晩のおかずにしてやろう。もういちどせいだいなげっぷをし、それに応じるニワトリの所在をコウモリさながらに突きとめていく。げっぷを堪える慎み深さなど疾うのむかしに枯渇して久しい。晩飯を食べ終わるころには、喉の渇きが増している。なにか飲みたい。なにかなどと言わずしてリンゴジュースが飲みたい。そうだとも。「のみたい! のみたい! のみたい! のみたい!」私はその場で大の字になって両手両足をふんだんにジタバタさせた。応えてくれる者はない。流す涙すらもったいないので私はぐすんと鼻をひとつ啜り、哀しみとも虚しさともつかない感情を堪え、そして立ち上がると共に、その感情を、リンゴジュース飲みたいという偉大なる決意へと昇華させるのである。私はまずリンゴの種を探す旅に出た。全世界をまわりにまわり、おおよそ三十年で生きたリンゴの種を発見した。そこからさき、おおよそ十年をかけて私はリンゴの種を苗へと育て、同時に苗を植えるための土地を耕した。土地から毒素を抜くために、毒素抜きマシーンを開発するのにてこずった。苗を植え、立派な樹に育てるまでに私はさらに四十年を費やした。いくどかの失敗を重ねたが私は諦めなかった。私は断固としてリンゴジュースを飲みたいのだ。途中、人類最後の女、人類を滅亡させた元凶とも呼べる女科学者がタイムカプセルから蘇生し、私のまえに姿を現わしたが、彼女がリンゴジュースになるわけでもあるまいし、泣いてすがってくる彼女を家から追いだし私は、はーやくリンゴよなーあれ、と胸をわくわくさせて待った。リンゴはついになった。私はさっそくそれを収穫し、すぐにでもひと齧りしたい衝動を耐えながら、究極のリンゴジュースをつくるべく、究極のリンゴ搾りマシーンの開発に着手する。そのあいだにも、人類最後の女は私にすがってうるさいので住居に住まわせる許可をくだした。私はそれ以来なぜかぐっすり寝つきがよくなった。そうこうしている間に、女はなぜか妊娠をしており、気づくと赤子が産まれている。赤子が女の母乳をちうちう吸う姿がすっかり日常の風景として溶け込んだ時分、私の究極のリンゴ搾りマシーンは完成した。私はなぜかふと、あれだけ飲みたかったリンゴジュースを、その最初の一口を、赤子におっぱいを押しつけているおだやかな表情の女へと、明け渡しているのである。




【偏執狂の愛】


 一生けっこんできないんだろうな。ぼくは五歳の時分でそう悟った。

 女性と接するとどうしても相手を怒らせてしまう。鼻が大きければ、大きくてステキだね、と言い、毛深かったら毛深くてかわいいねと言い、太っているならば太っていてうつくしいね、とぼくは言った。

 素直に褒めているつもりなのに、どうしてだかうまく伝わらない。相手はのきなみ激高し、二度と口をきいてくれなくなる。

 思ったままを口にしているだけなのに――。

 小学校にあがる時分にはさすがに、素直なことが必ずしもよいとは限らないのだと判るようになってきた。けれどどうしても口にしてしまうのだ。

 我慢できないわけではない。

 言わずに済むならばぼくもそうしよう。

 しかしながら、好きな相手と交流を図りたいと欲するぼくにはどうあっても、一言も口をきかずに相手と仲良くなれる方法があいにくと思いつかなかった。或いは、どうあってもこの気持ちを知ってもらいたいと欲する思いがよくなかったのかもしれない。裏目に出たと言ってもいい。

 ぼくはますます、彼女たちの外的特徴を、彼女たちからすれば劣等感の塊でしかないそれを、ひときわ熱心に褒め称えた。

 結果は言わずもがな、凄惨たる有様である。

 言わずにいればいいものを、それでもぼくは恋心を燃焼させるごとに、好きになった相手を褒め、そして嫌われつづけた。

 高校二年生のころのことだった。一生けっこんできないんだ、と諦観を抱いたあの日から十二年が経っていながら、またぞろぼくは性懲りもなく、というよりもぼくには性懲りしかなく、人生で最初で最後といわんばかりの壮絶な恋に落ちていた。

「あんたね」と彼女は言った。「ひとが気にしてることをそうズケズケと言うもんじゃないよ。しかもなに? そのニヤケ面。人をバカにするにもほどがある」

 通例のごとく怒り心頭に発した彼女はしかしそこでぼくを無視してその場を去ったりはせずに、誠心誠意、というと語弊があるのだけれどぼくにとってはまさに投げたボールが返ってきた、ただしボーリングの玉で剛速球、といった塩梅で、うれしかなし、が半々の珍しい感情を抱かせた。

 思えば、かつての彼女たちはみな一様に、二重の意味で涙しか与えてくれなかった。そうした過去のあれやこれやと比べてみれば単純に彼女のそれは、ゆいいつぼくの愛の言葉に応じてくれた奇跡的な態度だと言っても言い過ぎではなかった。

 現にぼくはそれから彼女のことを奇跡を起こしてくだすった女神さまのように慕い、崇め、劣情を催した。勘違いはなはだしいにも限度があるし、劣情をもよおすのは奇跡とは関係なかろう。今こうして過去を振り返っている身としてはそのときのじぶんに一石を投じてそのまま頭かち割って死んで欲しいとせつに願うところなのだけれど、恋愛とはかくも人間を盲目に、知能を著しく鈍化させる麻薬のようなものであるらしく、頭脳明晰清廉潔白眉目秀麗なぼくとしてみれば、それは単なる黒い歴史でしかあり得ない。

 後遺症として、じぶん自身を無駄に高く評価し、そうして見繕った論理武装もとより現実逃避で冴えないじぶんを肯定化するようになって日は浅いが、ともかくとして彼女への恋心を狂気じみた執心へと発展させたぼくはその日から、ことあるごとに彼女へと偶然を装い接近し、そして話しかけては突き離され、話しかけては蔑まされ、それでもめげずにぼくは、どれだけきみがすばらしいのかを、彼女にとっては悪口にしか聞こえない文言でささやきつづけた。

 ぼくとしてみても、彼女にとってそれは悪口にしか聞こえないようだというのは解っていた。

 けれどじぶんに嘘は吐けない。

 ぼくは本当に彼女の、両足がないことがすてきに映ったし、日常生活の至る箇所で足の代わりに身体を支えるためにと発達した二の腕の太さに、性的魅力を感じた。

 きっかけはそう、いつだってぼくは彼女たちに、彼女たちにとっての欠点に、身体的特徴に惹かれていた。そこに彼女たちの人格はほとんど与されてはいなかった。

 自覚はしていた。もうしわけないな、と思ってもいた。

 だからぼくは彼女たちのことをもっと知りたいと欲して接触を図りつづけてきたわけなのだが、けっきょくのところそれはいつだって接触でしかなく、交流ではなかったのだ。

 いくら相手に好意を寄せていようとイヤな思いをさせてしまっていたらそんなものは全身にナメクジを這わせて出歩いているようなものだ。三度の飯よりナメクジが好きだからといって相手にまでその嗜好を押しつけるべきではない。すくなくともナメクジが好きかどうかくらいの想像力は働かせておいたほうがいい。

 そういう意味でぼくは人としてどうかしていた。

 だからぼくはそう言って一向にぼくを蛇蝎視してやまない彼女に許しを乞うた。

「そういうわけで悪気はないんだ。ただ、きみにイヤな思いをさせてしまっていることは謝らせてくれないか。ごめんなさい。許してください」

「許す。だからもう二度と近づかないで」

「そんなぁ」

「この際だから言っておくと、私があなたを友人として受け入れることはない。恋人だなんてもってのほか。今までにもあなたみたいな人はいた。私の身体が好みらしい。そうじゃない人ももちろんいた。でも彼らはみんな私に尽くす自分が好きなだけ。誰も私のことなんて見てくれてない。きみも同じ。私でオナニーするなとは言わない。でもそういうのは私の見てないところでやって。私をあなたの承認欲求を満たす道具にしないで」

 ぼくは絶句した。彼女の言葉に傷ついたのはもちろんだけれど、そんなふうに見られていたのかと、かつて彼女の周囲にはびこった有象無象の男どもといっしょくたにされたことが、冗談でなく身を焦がすような辛苦をぼくに強いた。

 誤解を解きたいと思った。

 できなかった。

 なぜなら彼女の言うように、ぼくは彼女の周囲にはびこっていた有象無象の男どもと同じで、誤解でもなんでもなかったからだ。正論も正論、ぼくも自覚していなかったじぶんの醜さをまざまざと突きつけられた心地がした。

 恥ずかしかった。

 ただ、ぼくはぼくの気持ちに嘘は吐けない。ぼくは後日、性懲りもなく彼女のまえに立った。

「性懲りもなくまた来たわけ?」

 そのとおりだとぼくは言った。きみは正しいことしか言っていない。きみの言葉に偽りはない。ただしそれはべつにきみに限ったことではないのだと。

「どういう意味」

 彼女はそこでこちらがたじろぐほど食い気味に車椅子を、ぐいとまえへ進めた。威圧感がハンパない。ぼくはかろうじてその場に踏みとどまる。

「恋愛感情なんてどのみち他人の見た目や、その人の特徴がきっかけで生じるものじゃないのかな」

 ぼくはじぶんの考えを、よくよく吟味しながら、口にしていいものかを考えながら、ゆっくりゆっくりとしゃべった。「変わらないんだよ。きみだけじゃない。誰だって最初は相手が異性だからだとか、足が速いからだとか、背がちいさいからだとか、親が金持ちだからとか、そういうその人の本質とは関係ないところで好きになるきっかけを持つんじゃないのかな。その先で、その想いをどれだけ真剣に育んでいこうとするか。相手と向き合おうとするか、それがだいじなのであって、きっかけはそもそもそんなに重要ではないような気がする」

「あなたたちはそうかもしれない。でも私の場合はちがう」

「どうして? きみの足がないから? 腕がちょっぴり逞しいから? そんなの理由になってない。きみはみんなとは違うと言う。それはそうなんだろうさ。きみという存在は今この瞬間、ここにいるきみしかない。それはそのとおりだよ、でもそんなのはみんなだって同じだ。ぼくだって同じだ。誰より周りの人間を区別して、差別して、そうやってじぶんだけの世界を他人に押しつけているのはきみのほうなんじゃないのかな。ぼくは確かにきみの外見を、きみからしてみれば欠点に映るかもしれない、きみにとって嫌いな部分を好ましいと思っている。だからこうして接触して、おしかけて、きみのことをもっと知りたいって、行動に移しちゃってるんだと思う。迷惑なのはわかってる。申しわけないとも思ってる。でもぼくはどうしてもきみのことを知りたいんだ」

「分かった。ストーカーで訴える。ヤダと言ってももうやめない。きみのことはぜったいに許さない。もうやめてなんて言わない。ぜったいに警察に言ってきみのこと捕まえてもらう。それが嫌なら一度だけチャンスをあげる。もうにどと私の前に現れないで」

「イヤだ」

 彼女はメディア端末をとりだした。何らかの操作をして耳元にあてがった。「警察ですか、今目のまえにストーカーがいて困っています。大至急きてくださいませんか」

 場所は、と彼女が流暢に住所を口にしていくなかで、ぼくは、

「好きなんだ!」と叫んでいる。「きみの無愛想なところも、冷たいところも、思ったことをなんでも相手の目を見てまっすぐにぶつけられるところも、欠損した身体を少なからず憎く思っていながら、それでもまったく卑下することなくつよい芯を保ちつづけているところが、それが本当はちいさな自分を覆い隠すために繕った鎧だってところが、きみの見た目も、欠けた脚も、その不自由そうな身体も、きみの瞳から髪の毛まで、なんだったらきみの汚物だってぜんぶぜんぶ、ぼくは何もかもきみのことが好きなんだ!」

 ただのヘンタイだった。

 けれど構わなかった。ぼくは彼女に、この世界にたった一人でもきみのことをこんなに好きなやつがいるんだってことを知っておいてもらいたかった。

 遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。或いは彼女は本当に警察を呼んでいたのかもしれなかった。

 というか呼んでいた。

 ぼくは捕まった。

 現行犯逮捕というやつだ。びっくりした。

 少女マンガとか恋愛映画とかだとそこは彼女の演技で、ぼくの告白を聞いて彼女がぼくに心を開いてくれる場面だったろう。けれどそういう展開にはならずに、ぼくは留置所にて、逮捕者の権利として保障されている無料の弁護士を召喚し、その日のうちに厳重注意という名目で釈放された。

 女性につきまとい、衆目の許で告白をするのは、けっして褒められた所業とはいえないが、罪に問われるほどでもないという判断らしかった。

 よろこぶべき場面で、けれどぼくは素直によろこべなかった。

 ぼくとしてはこれからさきぼくと同じような恋に狂った人間が彼女の周囲に現れるかもしれないことを思うと、ここは是が非でも起訴してもらって実刑判決でも下してほしいと願うところだ。

 釈放されてからというものぼくは、彼女のまえに姿を晒さないようにがんばった。会いに行きたい衝動を、彼女のSNSを盗み見てはごまかしたり、彼女の行きそうな場所には敢えて出向かないようにしたり、かつて盗撮しておいた彼女のとびきりの笑顔、それは子猫を見かけて微笑んでいる顔なのだけれど、そういったものを駆使して、ぼくはじぶんの欲望と闘った。

 ぼくはなにも彼女を不幸にしたいわけじゃなかった。嫌われると分かっていても、ぼくはどうしても彼女にぼくの気持ちを知っておいてもらいたかっただけだった。そこに彼女の思いは関係なく、どこまでもオナニーでしかなく、だから彼女が怒るのはもっともだし、彼女の口にしていた批判の数々は至極まっとうに的を射ていた。

 あれからどれくらい経っただろうか。ぼくは相も変わらずに彼女のSNSを覗き見ている。

 本当は誰より友人が欲しいと願っている彼女はけれど足を失くすこととなった病気のせいで徐々に身体を動かせなくなっていく。

 死ぬわけではない。ただ、動けなくなっていくのだ。

 彼女はやがて息をするだけの、しかし意識はある、本当の意味での植物人間となってしまう。

 ぼくは彼女が、自身に近寄ってくる親切な人たちにわざと辛辣な言葉を吐き捨てているのを知っているし、そのことに誰より彼女が傷ついていることを知っている。もちろん彼女はぼくのことも気に病んでいるし、どうしてああいう言い方しかできなかったのか、どうして本当に警察なんかを呼んでしまったのかと悔いていることも知っている。

 本当はちょっぴりぼくに期待していて、本当に恋人ができるのではないかとそわそわしていたのを知っているし、勾留されたぼくの身の潔白を主張したのもじつは彼女だったことも知っている。

 ぼくはあらゆる彼女の仮面をSNSの彼女の日記じみたテキストを通じて知っているけれど、ぼくが彼女のもとに姿を現わすことは二度とない。ぼくはなにも彼女を幸せにしたいわけではなかった。ただ、彼女にぼくの想いを知っておいてほしかっただけだ。できれば不幸になってほしくないと願っているだけだった。

 だから、ぼくの満腔の想いを彼女に伝え終わったあとの現在のぼくにできることといえば、のきなみ彼女の願いに反する行為をしでかさないようにすることで、一刻もはやく彼女のもとに駆けつけ、彼女に一生添いつづけるだなんて誓わないようにすることだけだった。

 ぼくは彼女にとってもっとも避けたい事柄、最愛のひとに動けなくなった自分の世話をさせること、を実践してしまわないように、彼女への接触のいっさいを断っている。

 そうしてぼくは、こっそりと覗き見つづけている彼女のSNS越しに、彼女のよわっていく一方の姿を知り、そして日に日にぼくへの想いを募らせ、後悔していく彼女の姿を眺めている。

 ぼくはますます彼女を好きになる。

 ぶきようで、無様なそんな彼女の生き様が、ぼくにはとても好ましく、キラキラとステキに映っている。




【水子】


 祖母の一回忌だった。だからわたしはそこにいた。

 正確には行きたくないと駄々をこねたわたしがそれでも連れてこられ、へそを曲げ、祖母の家を飛びだしたからそこにいた。道路を一本隔てたところに小川が流れている。水面が鏡になったかのような流れのおだやかな小川だった。水面にはアゲハ蝶が泳ぎまわり、入道雲が沈んでいる。

 わたしは遠くから流れてくる葉っぱに目を留めた。それに合わせて視線を泳がせていく。するとわたしの目のまえまで来たその葉っぱを、ひょいと受け止めるやつがいた。

 やつは水面から顔をひょこんとだし、海でおぼれた人が浮き輪に捕まるみたいにして葉っぱに全身でしがみ付くようにした。

 河童?

 いや、にしてはちいさすぎる。わたしの親指くらいの大きさだ。

 わたしはその場にしゃがみ込み、よくよく目を凝らすようにした。

 こちらの立てた物音、或いはできた影に驚いたふうにそのちっこいのはいっしゅん動きを止め、こちらを見た。

 目が合った。確実に合った。

 わたしは微笑んでみせる。驚かせてはわるいな、と思ったからだが、誰より驚いているのはたぶんわたしだ。そいつはこちらの顔を数秒見つめ、いやひょっとしたら一秒もなかったかもしれないが、ともかくそいつはこちらへの興味を失ったかのように、なあんだ、といったふうに、ぽちゃんと水面の下へと潜っていった。さっきまで小川を流れていた葉っぱは見当たらず、ちっこいのといっしょに沈んだのだとあとから気づいた。

 母の呼ぶ声が聞こえる。なんだか頭のなかがモヤモヤし、白昼夢ってこういうのを言うのかな、とおのずから今見た光景を半ば幻覚扱いした。

 夕食時、母が、祖父と共に食事をしているよこでわたしもまたカボチャを箸でつついていた。祖父のことは嫌いではない。よくきてくれたなぁ、とわたしの頭に触れないように撫でる仕草をし、お小遣いもくれた。やはり祖父は嫌いではない。

 ではなにが嫌いなのかと言うと、祖母の家が嫌いだった。すなわち今わたしが居座っている、呑みこまれてしまっているこの家屋である。亡くなった祖母のことも苦手だったが、亡くなったひとをわるく言うのはわたしの道理に反する。

「さいきん部屋を片付けようと思ってなぁ」祖父が言った。「物置のほうを漁っておったら、ばぁさんの若いころのアルバムやらなにやら、いろいろ出てきおって」

「へえ見たい」と言ったのは母だった。「見たいよねぇ」とこちらに顔を向ける。

 わたしはカボチャをつつくのでいそがしい。

 どこにあるの、と母が立ち、祖父の言った部屋から大きな段ボールを抱えて戻ってきた。「ずいぶんあるのねぇ」

「そんでな」と祖父はここからが本番だとでも言いたげにあぐらを組み直し、「ばぁさん、ちょいとおかしくなってたろ。ほれ、亡くねる前ぇに」

「そうだっけ?」

「んだ。ピョコ太だとかなんとか時折り呼んでおったろ」

「ああ、あれ」と母はどこか投げやりだ。「ぴょこ太でしょ。どっかで聞いた覚えはあるのよね。ウチで買ってた猫とかそんなんじゃないの」

「いや、うちじゃんなもん飼ったことはねぇ」

「で、それがどうしたの」

「ほれこれ」

 祖父は母に一冊のノートを手渡した。それはかつて、小学校で使用されていた学習ノートで、電子端末での読み書きが主流の昨今ではめったにお目にかかれない古めかしいものだった。母は中身を改めた。「あら、懐かしい」

 ほら、と母はこちらに見せつけるようにする。「これ、母さんがちいさいころに使ってたノート」

 母はそのページに描かれた自分の絵にほっこりしているようだが、ページを埋め尽くすように描かれたそれらの絵を見てわたしはあべこべにぞっとした。

 すべてがすべて、昼間見た小人、水面からひょっこり顔を覗かせたちっこいやつに似ているのだった。

 ふと天井からネズミの駆けずる音がする。

 開かれたページには子どもながらの字でぴょこ太と名前らしき言葉が添えられている。

「なぁんだ。あたしが書いたキャラクターだったんじゃないの」

 首肯する母の向かいで祖父は、

「おまえには言っとらんかったが、ばぁさんな。わしと結婚してからもときおり口走しっとったが」

「なんて?」

 祖父はそこで母の問いには答えず、

「わしに知られんようにしとったんじゃろ」と続ける。「陰でこそこそ誰かとしゃべっとるみてぇでな。浮気でもしとるんかと注意して見とったことがあっただ。だがどうも電話しているようでもなし、その場にはばぁさん以外に誰もおらん。ぴょこ太、ぴょこ太と呼びかけておって、まあこっそり犬猫でも餌付けしておったのかと考えておったんだが」

「じゃあそうなんじゃないの。母さんならネズミにでも名前つけてかわいがりそうなものだしね」

 ね、と母から同意を求められたが、わたしはすっかりグズグズになったカボチャをどうやって食べようか、その最適な解を求めるのにいそがしい。母と祖父はその後、脱線に脱線を重ね、お互いに過去の不満をぶつけあっては、言いわけをねつ造しあい、じゃれていた。

 わたしは祖母のアルバムを手に取り、中身を改めていく。

 若かりしころの祖母は思いのほかうつくしかった。その写真のほとんどは祖父の撮ったもののようだった。

 夜、祖母の部屋に敷かれた布団で母とふたり並んで寝ていると、またあの音を聞いた。天井をネズミが駆けずる音だ。わたしがこの家を苦手とする最たる要因である。

 なにともなしにその音に耳をそばだてる。ネズミがわたしの頭上を駆けずり回っている。その姿を想像しては、嫌悪感を募らせる。耳を塞ぐようにするも、さりとてすっかり目が覚めてしまい眠ることができず、くっそネズミのくせに、と嫌悪感を燃料に、枕を掴み、天井へ投げつけようとした。

 しかしネズミの足音はそこにはなく、では消えたのかというとそういうわけでもないようで、足音はトコトコとこんどは祖母の部屋、まさにここに敷かれた布団の周囲、わたしの周りに溢れているのだった。

 一匹ではない。群れである。

 トコトコトコトコ、ちょーうざい。

 母がとなりに寝ているためか恐怖心はなく、とにかくものっそいウザイ。ちょーキモイ。

 なに人の周囲を偉そうに駈けずりまわっとんのじゃ。

 だれの許可得てそうした狼藉を働いておろうか、ええいそこになおれ。

 地団太を踏みながらわたしはえいや、とゆびを振りおろす。

 音がやむ。

 すると途端に、目のまえにスルスルと線を描くようにして白くてちいさなモチモチしたやつが列をなしやってきては、目のまえに止まるや否や、そのスルスルを一つに回収していくではないか。見る間に線ではなく点となる。

 たくさんいたように見えたが、初めから一匹しかいなかったのかもしれない。

 というかこれネズミか?

 ネズミではない。

 どう見たってネズミではない。だって足あるし。手あるし。ヒゲないし。というか人型だし。

 わたしは膝を折り、正座の体勢になってよくよく目を凝らしてみる。そいつは目のまえでじっとして動かない。きょとんとこちらを見上げる顔には見覚えがあり、昼間小川で見かけた小人の顔をしている。あのときは顔だけで胴体は見えていなかった。

 コイツ、こんなちんちくりんなナリをしてやがったのか。

 わたしはおそるおそるうでを伸ばし、じっとおとなしくしているそいつをゆび先で小突くようにした。

 ガブリ。

 うみゃーーーツ。

 噛みつかれたわたしはあわや、死んだかと焦り、せいだいにそいつを振り飛ばそうと腕をぶんぶん振り回すのだが、なかなかどうしてそいつは噛みついて離れない。

 目をぎゅっとつむって絵文字のまさに「><」を地で描くものだから、そのちんちくりんなナリと相まってことのほかかわいらしく見えた。

 噛まれたゆびは痛くない。

 わたしは落ち着きを取り戻した。

 こんどはやさしい手つきでそれの頭を摘まむようにすると、洗濯バサミを扱うよりも楽にゆびから離れてくれた。

 ねぇあなたなんなの。

 意思の疎通などできるわけがないと考えるよりもさきに結論付けていたため、声にはださずにそうぼやいた。するとあたまのなかに、いくつかの記憶が展開されはじめた。

 過去の思い出を回顧するような感じではあるが、わたしには解る。わたしの記憶ではない。わたしはそんな過去を持っていない。

 断片的なそれらの追憶が誰のものなのかといった疑問は、脳裡に流れる風景――凍った湖のうえに立つ若い女が、足元を覗きこむようにしたところで氷解した。夕食時にぼんやりとめくった祖母のアルバムにはその女の姿がたくさんたくさん映っていた。

 ひと通り、わたしは祖母の記憶を、正確には祖母といっしょに過ごしてきたこの目のまえの白くて小さいムニムニの記憶を、見届けた。

 わたしはまばたきを一つつよくし、そして目のまえのきょとんとこちらを見上げているちんちくりんに向かって、なんだかよくわからないが、無言で頷きかけている。

 後日、わたしはその白くてちいさいムニムニこと小人を、チンチクと呼び、それを相棒としてかつてこの地に封印された魔神――風神と雷神たちとの壮絶な戦いを繰り広げることになるのだが、世にはびこる多くの絵空事がそうであるように、わたしの辿った顛末は、さして声高々に語れるようなものではなく、端的に恥ずかしいので、結末だけを述べてしまえば、わたしは風神と雷神の妻となることを口約束し、そうして強引に大団円を結んだ。結んだ時点で、わたしはまだ中学校を卒業していない身分であり、結婚できる年齢ではない、という言いわけをして急場をしのいでいる最中であるのだが、それも時間の問題だ。

 わたしはわたしの辿った荒唐無稽なチンチクとの時間を思いだし、そして見た目しかよいところのない風神雷神のバカきょうだいを思いだし、できることならば祖母に相談したいと初めて祖母に同情した。

 彼女はかつて、風神と雷神の妹であり、水神であった。人間の男、すなわち祖父と出会って人間となるべく神を辞めようとしたが、シスターコンプレックスをこじらせて数千年の兄バカどもに猛反対され、当然のごとく猛反発した。そこで勃発した兄妹喧嘩の果てに、祖母はどうやらバカ兄どもをこの土地に封じたようである。

 バカもバカなら祖母も祖母だ。

 いくら神だとて、そんなちんけな理由で事を大きくしすぎである。

「なんて真似をしてくれたんだ……」

 他人ごとならばバカだな、の一言で笑いの一つでも漏らしてあげてもよかったが、当事者としてその陳腐で壮大な喧嘩に巻き込まれている現状、笑ってなんていられない。どうせならば封印なんてまどろっこしい真似をせずに滅ぼしてしまえばよかったのだ。

 わたしにはできなかったことを祖母にねだる時点で、わたしに祖母は責められない。

「ねえ、チンチク。どうしたらいいかな」

 かつて祖母によって生み出され、使役され、そして解放された水の精――まさに水子は、わたしの手のひらのうえで、こてんと首をかしげる。言葉を持たないそれは、けっして解決策を示してはくれないが、こうしてわたしの手のひらのうえで、無駄にムニムニした身体を駆使し、わたしを癒してくれる。

 考えてもみれば、と私は考えるでもなく考える。

 祖母の兄ということは、あのバカどもはわたしにとっての大伯父になるではないか。いっそのこと風神も雷神も人間にしてしまえば、根本的な問題は解決するのではないか。

 思うが、これこそもっとも避けたい事柄であり、バカどもとのけっこんを誓ってしまったいま、わたしはともかく中学校を卒業しないでいられる術はないだろうかと、必死に義務教育浪人を模索している。




【未経験】


 思ったほどきもちよくはないのだそうだ。

 ならなぜそれをするのかと尋ねると、やつらはおおむねこう答える。

 まあ本能だよね、と。

 初めてやつらを目にしたのは中学生のときだ。或いは小学生のときにはすでに視界にやつらは存在していたのかもしれず、しなかったのかもしれない。

 やつらはちょいと吸血鬼じみた性質を持っていて、昨日まではわたしたちと同じ側に属していながら、ある日とつぜん変身する。血を吸われた人間が眷属として種族を超越してしまうように、やつらは変身してしまう以前の自分よりも現在の自分のほうがより高尚だと考えるようになる。

 サナギが芋虫を見るような感覚なのだろう。

 或いは蝶がサナギを見るような感覚かもしれないが、いずれにせよ水が凍ったからといってダイヤになるわけではあるまいし。

 とはいえ、水と氷はやはり違う。

 やつらになるためにはある種の通過儀礼が必要だ。

 そうした行為が存在すると気づいてはいたが、よもや同い年でそれをこなしている者がいるとは思わない。昨日までは同族だったはずが、たった一日でやつらになった元同族に対し、わたしたちは羨望にも似た眼差しをそそいだ。

 ある者は神に教えを請う子羊のようにやつらへどうなったらそうなれるのかと、きっかけを尋ね、またある者は、その通過儀礼での体験がいかほどに刺激溢れているのかを根ほり葉ほり質問攻めにしては、いい渋る神から知られざる世界の断片を垣間見ることに心血をそそいだ。

 言わずもがなわたしである。

 高校生にあがるころには、やつらはクラスを見渡せば否応なく目に付くくらいにその数を増やした。

 悩ましいことにやつらは姿形こそわたしたちと似通っており、しかし明らかにどこかしらが異なっていた。或いは異なっているからこそやつらへの階段をのぼることができたのかもしれないが、断言するまでの信憑性は得られない。

 高校時代においては、なんちゃってやつらなる偽物がではじめる。

 やつらであるというだけで一目置かれることに気づいた愚か者どもがやつらの皮をかぶるわけだが、当然のことながらやつらでもないのにやつらと見做すわけにはいかない。やつらへの階段をのぼることになったきっかけを根ほり葉ほり聞くことにより、真偽のほどを見極められた。

 偽物として見極められてしまった者の末路は想像以上に惨めであり、ここでその様相を叙述するわけにはいかない。

 そう……あれはすごく惨めだった。

 閑話休題。

 自分一人だけではやつらにはなれない。

 相手が必要であり、それは異性が好ましいとされた。

 想像上の異性をでっちあげるには高校生という愛すべきドテカボチャの処理能力では用が足りなかった。わたしはしばらく仲間内から可哀想な子扱いされたが、頑として嘘を認めなかった。

 大学生にもなるとやつらが急激に増加しだす。

 いちどやつらとなった者がこちらに回帰することはない。比率は半々といった塩梅で、誰がやつらであってもおかしくはなく、しかし、わたしはわたしのままだった。

「え、ジンバまだなの?」

 わたしがわたしのままである旨を告げると、おおかたの友人たちはこうした驚愕の声を上げ、ちょっとした優越感のある笑みを浮かべる。そうしてわたしは友人である彼女たちがやつらであった事実を知るのである。

 二十歳にもなるとやつらへの特別性はなんら特異なものではなく、言い換えるとほとんどの同世代はすでにやつらへと鞍替えしており、かつてやつらが持っていた優位性は卑近なものとなり、ひるがえってはかつて卑近だったわたしたちという存在は稀少性を帯びた。

 が、世界で一つしかないわたしの爪の垢が一銭の価値もないのと同様に、いくら稀少だからといってわたしに、わたしたちに付加価値がつくことはなかった。

 珍しいものを見るような目を向けられはしたが、優越感を抱いた覚えはただの一つもなく、いつだって胸にはいかんともしがたい焦りのみが募った。

 大学を卒業する段になると、周りを見渡してもそこに同族を捜し求めるのは容易ではなくなった。かといってやつらではないわたしがむやみやたらに迫害されるだとか誹謗中傷の的にされるだとかそういった害を被ることはなく、ほかの同族たちからもとくにそういった話は聞かれなかった。

 忌むべきことに、なぜか我々女性陣においてはそうしたやつらでないことによる弊害があったにも拘わらず、男性陣たちからの評価は真逆であり、むしろやつらでないことに希少価値が生じた。

 男性陣たちからの高評価があるからこそ、いちどやつらになってしまった彼女たちは、未だやつらではないこちらに対し、蔑みの眼差しをそそいでいるのかも分からなかった。

 覆水盆に返らずというやつだ。

 違うという声には耳を塞がせてもらう。

 インターネットの奥地では、三十路になるまでやつらにならずにいるといずれ魔法使いになれるとかなれないとか、そういういかにも胡散臭い巷説がまことしやかにささやかれて根強いが、いよいよ三十路を越えてしまったわたしが魔法を使えるようになったかというとむろんそんな奇跡は起こらない。

 いったいなぜそんな無駄に期待を抱かせるようなデマを流すのか。

 無駄にわくわくしちまったじゃないか。

 デマを流したバカモノにはぜひとも、強制的に「超絶美男子と化して我々を無尽蔵にやつらへと進化させる刑」に処したい。

 諸君、異存はあるか。

 あるやつは死ね。

 ないやつは同志だ。

 しかしいつまでもおまえらの仲間でいるつもりはない。よっておまえたちも死ね。

 わたしだけが世界でただひとりの女になれば、さすがに一人くらいは、わたしをやつらへとすべくその身を捧げてくれる慈悲深い者が現れてくれるのではないか。

 くれないか。

 くれないなぁ。

 わたしは絶望した。

 なお、やつらのことを通称、ソドム=ゴ・モラと呼ぶ。

 背中から羽の生える奇病としてある時期までは扱われていたが、現在ではそれがある種の先祖がえりであり、かつての人類はみな天使のような姿だったことは、今では幼稚園児ですら知っている。

 なにか勘違いをなされているお方がおられるような気がしないでもなかったので注釈を挿してみたが、仮にいらっしゃったならば、そうしたお方には是非とももうすこし真面目に生きてみてはいかが? と、念のために述べておく。




【WEB小説】


 ワガハイは、小説家になろうぜ、というWEB小説サイトに小説を載せている。連載形式で、じっさいにゼロから執筆を開始した。毎日すこしずつでいいから掲載していこうと決意していたのだが、これがなかなかにむつかしい。

 仕事の合間や、移動時の電車のなか、とかく時間を見つけては、一文字でも多く物語を紡ごうとするのだが、断絶された物語は、つぎの執筆時には、まったく異なった様相を見せている。

 転生した異世界先で、奴隷を購入していたはずが、つづきを紡ごうとした段には、なぜだか主人公が奴隷になっている。用意していたはずの展開に繋がらず、なぜだか予想もし得ない行動に、キャラクターたちが打ってでる。

 なんだこいつらは。

 作者を置き去りにしてなにを得手勝手に暴れ回っておる。ワガハイの言うことを聞いておればよいのだ。そうすればいい思いの一つや二つと言わずして、甘い蜜ばかり吸わせてやるぞい。

 吠えてみるも、一向に改善の兆しは見えてこない。

 なあおい、きみたち。

 美少女に囲まれてウハウハしたくはないのかい。スゴイわ勇者さまと有象無象の群衆たちにチヤホヤされたくはないのかい。

 問いかけてみるも、やはり主人公たちは苦難の道をひた走る。

 なんてバカなやつらであろう。

 思いながらも、気づくと、ワガハイ、いつの間にやらそんな彼らに尊敬にも似た感情を寄せておる。いっぽう、小説そのものの評価もまた芳しくはなかった。

 毎日更新してはいるが、評価が低いどころか、それそのものがそもそもされない。読者の数もほとんどないに等しい。アクセス解析などを覗いてみるも、そこに記されている数字は、ほとんどがじぶんの訪問歴然と化している。

 評価が欲しいとは思わなかったが、ここまで読まれないのもいかがなものか。当初見立てていた予測をいまいちど見つめ直すことにした。

 なぜ読まれないのか。

 つまらないからだ、と一蹴するのは簡単だ。しかしそれだけとも思えない。そこでワガハイ、お得意の分析を開始した。

 ランキングトップの作家たちの作品ページに飛び、ひととおり目を滑らせた。なるほど。いくつかの共通点が見えてきた。

 まず大前提として、文章の陳列の仕方に工夫がいるようだ。読みやすいように改行する。文と文のあいだは一行空ける。会話文は連続するようにし、なるべく途中に地の文を挟まない。これをしていないだけで、読者がまったくよりつかないようである。

 第一ステージとも呼ぶべきそれらをクリアしたあとは、第二ステージとも呼べる作品そのものの在り方に工夫がいるようだ。読者の好む世界観、そしてキャラクターを物語に練り込まなくてはならない。

 現状、異世界転生モノがはやっているようだが、それに固執する必要はなさそうだ。なにもワガハイ、ランキングトップを狙いたいわけではない。分相応に読まれたいだけである。せめて深海ではなく陽のあたる場所に漂いたいという植物プランクトンじみた願望があるだけだ。

 ではどういった世界観でどんなキャラクターがよいかといえば、どんなものでもよい、というのが分析してみた結果である。いくつかの点を押さえておけばよい。

 世界観については、現実ではないが、現実にある厳しい困難をべつのもっと分かりやすいモノで譬えられた世界がよい。

 たとえば奴隷の少女を買い取って、感謝されるというエピソードがあるとする。これは現実の派遣社員を自分の興した会社のスタッフとして高待遇で引きぬいたようなものである。主人公はイチ社長としてそうしたスタッフたちのために、様々な問題を解決しつつ運命を共にし、困難を乗り越えていけばよいのである。一般に出回っている小説や漫画と扱っているテーマはそう変わらない。舞台をただ現実ではなくしているだけのことである。うまく調理し、言い換えているだけである。その言い換えの度合いに気を払えばよいのである。

 さいきんでは、この言い換えを、敢えて直接的にし、舞台だけを異世界にしているだけの作品が台頭してきているように観測される。異世界×食事処や、異世界×リクルートなどがその典型であろう。読者の目が肥えてきたと呼べる。

 ではキャラクターはどういったものが好ましいのか。

 これもまた、枠組みそのものはいかようなものでもよい。いくつかの点を押さえておけばよいのである。

 それはなにか。

 まず主人公についてだが、それは一点だけでよい。悲観しないこと。死に直結する困難であっても、まあなんとかなるだろう、といったスタンスでじっさいに困難を乗り越えてみせる。これだけでよい。けっして真面目に悩んではいけない。

 ヒステリックになるのは構わない。ただしそのときはコミカルでなければならない。悲劇を喜劇にしてこそ物語は他者に読ませるのに値する小説となる。

 次点で、ヒロインについてだ。これは猫タイプと犬タイプに分かれる。

 猫タイプは友人が少なく、なかなか他人と打ち解けられないという短所を抱えている。よって主人公が彼女を理解し、或いはそばにいつづけることで関係性を深めることができる。すでにそれだけでドラマが生じる。

 反して犬タイプは社交的であり、友人が多い。喜怒哀楽がはっきりしており、破天荒だが無邪気さを匂わせる。基本的には、主人公よりも親しい者がいるため、その者のために奔走する彼女を支えることで、彼女との絆を深めていく。そうしたドラマが成立する。

 重要なのは、いずれも主人公のほうから接近し、絆を勝ち取るべし、という点にある。ここは妥協してはならない。飽くまで主人公が寄り添わなければならないのである。ゆえに、演出として最初のころはヒロインたちから決定的に嫌われておくのもよいかもしれない。そこは各々作家の腕の見せどころである。

 以上、二つのステージをクリアすることですくなくともブックマークが二ケタという事態は避けられる。だがワガハイは敢えてこの二つのステージに相反した小説ばかりを連載した。案の定、当然の帰結としてまったく読まれず、読者も定着しない。

 だがそれでよい。売れてしまっては困るのである。

 ワガハイはまさに今、売れなかったという実績を積んでいる最中なのである。

 WEB小説サイトに多くの小説を載せておきながらもまったくひとの目につかなかった鬼才。誰の目にも見抜けなかった次世代の才能。

 そうした付加価値をつけるべく、日夜、誰にも読まれもしない小説をネットの海へと放流していく。ワガハイはそうした夢を見ながら、誰にも読まれない哀しき現実からきょうも必死に目を逸らしつづけるのである。




【報酬と対価、芳醇な退化】


 磁界操作技術の向上により、脳内の報酬系を外部からいじることが可能になって十余年が経つ。個々人の嗜好に合わせた才能を後天的に付与する技術が確立され、誰であっても尋常ならざる特質を発現できるようになった。世は空前の天才ブームを迎えている。天才とはすなわち、常人よりも遥かに優れた集中力を発揮する者を指す。ただ集中すればよいわけでなく、いつまでもその集中を途切れさせないのが肝要だ。夢中に夢中になるとでもいうような、ウロボロスがごとき執着、一点集中を地で描く者が天才と呼ぶにふさわしい成果を築き上げる。けっして成果が先ではない。天才とは、なにごとかを成す前からすでに天才なのである。磁界操作技術は、ワイヤレスイヤホンのような端末機器としてその技術が結晶している。装着しているあいだ、脳内の報酬系を司る部位に一定の磁界を展開し、さながら覚醒剤を摂取したのに似た効用を発揮する。それを高揚と言い換えてもいい。薬物と異なる点は、後遺症のいっさいが残らない点である。薬物乱用につきまとう依存症や禁断症状とはいっさい無縁であることをここに宣言しよう。原理は単純で、脳内物質を介することなく、磁界の変化による電磁誘導が微弱な誘導電流を脳内に発生させ、それが脳内の報酬系をじかに活性化させる。これにより、薬物やギャンブル依存症にみられる、脳内報酬系内における神経伝達物質の過剰分泌による慢性的な快感への麻痺、および、外部刺激への知覚鈍化作用が抑えられる。依存症は、過剰に分泌させる神経伝達物質、脳内麻薬に耐性ができてしまうことにより引き起こされるが、その脳内麻薬を介さずに行われる脳内報酬系の活性化は、依存症発症のメカニズムを原理上持たない。任意の行動をとったときにのみ快感を覚える。そのように端末を設定することで、苦痛と感じてしかるべき修行や訓練、反復作業による技術の習得をより効率的に行えるようになる。自慰に浸る猿がごとき無我夢中さを発揮できるわけだが、しかし、天才とは多くの非凡な下々によって天才足り得る。誰もが天才になった世界からは逆説的ではあるが天才と呼ばれる規格外の個体は消えたように観測された――一見すれば。才能開花端末は、適用者の作業能率を最大限に高める。重要なのは、高まるのが飽くまで作業能率であり、言い換えるならば欠点を克服しようとするチカラの増幅である。一万時間の法則にあるとおり、人は、純度の高い訓練をすればするほど習得する技術を洗練させていくことができる。短期間でどれだけ集中して高い水準の訓練をこなせるかが才能の正体だとすれば、才能開花端末の普及は、そのまま天才の量産化を可能とする考えに是非を挟む余地はない。ともあれ、それは真実に天才が完全無比の存在であるとしたらの話である。才能開花端末はバグを取り除くことに特化した技術だ。だがそのじつ、天才とはある種のバグがある閾値を越えて一個体に偏って編成されたけっかに生じる秩序を持たない回路を示すのだとすれば、才能開花端末の普及は、社会から天才を抹消してしまう皮肉を伴っていると評価をくだすのにいささかの逡巡の間を挟む余地があろうか。大勢の天才をつくりだすことで、却って真の天才から才能を奪ってしまう本末転倒を地で描いたけっかがつきまとう。しかしそれを確かめる術はない。才能開花端末は、幼いころから親の意思により半ば強制的に適用される。真の天才が天才でなくなってしまったのか否か、その子が真の天才だったのか否かは、誰にも観測しようのないことである。才能開花端末は、二度、天才に死を誘致する。




【自慰過剰野郎】


 ふぁ×く=072の定理を発見した爺ヵ城(じいかじょう)弥五郎(やごろう)はその定理の証明のために人生を費やしたがついぞ童貞をきることなくそのながく濃ゆいいばらの道に幕を下ろした。享年69歳であった。弥五郎の発見したふぁ×く=072の定理は、けっきょくのところ「ふぁ×く」とはオナニーでしかなく、「オナニー」もまたふぁ×くでしかないという捻転した真理を垣間見られる非常に低俗な定理であった。「ふぁ×く」はギリギリのところで性行為とはならず、そこには何かしら暴力的なにゅあんすが見え隠れし、「オナニー」においてもまた、なにかしら後ろめたい罪のかほりがあたま隠して尻尾隠さず、扉を開けたその瞬間からにおいたって感じられた。非常に下品でありながらしかし、そこにはエロスとスケベの違いが極限をさまよいながらも明確に線を引いて表れた。エロスとは底のない探究心であり、スケベとは実体を伴なわない好奇心である。「おっぱいだいすき!」はスケベであるが、「ちくびコリコリー」はエロスである。また性的感応のいっさいを触発されない対象に敢えてむらむらしちゃうフェチズムは、まさしく底知れぬ探究心を思わせ、やはりこれもエロスの範疇であるとする。スカートの中身がチラリなんとか見えないものかとあたまをもたげ、太ももに目が釘付けになるのはしかしパンツなる実体を伴なわないかぎりスケベなのである。他方でパンツが見えたからといって、即座にエロスに変化するとはかぎらず、そこからさきはエロスとスケベの綱引きである。中身の中身が露出したところで明確にエロスの領分へと誘われる。いささか男性よりの主観めいた定理に思われるかもしれないが、待ってほしい。まったくの誤解である。女性がおっぱい嫌いと誰が決めた。チラリズムのよさが判らぬ女性がどこにいる。エロスに国境はない。スケベに性別なし。まさしくそここそが肝要であり、ふぁ×く=072の定理は、人間原理を越えた人間真理を仄めかす証明不要のまさしくコスモ的大発見なのであった。しかし証明不要とはいえど証明不能ではないはずだ。かくして爺ヵ城弥五郎はその人生をとおしてふぁ×く=072の定理の証明に躍起になったが、それをして「このオナニー野郎」と後ろ指をさされつづけた顛末は皮肉(ひにく)をすぎて腑抜け(ふぬけ)である。一文字ずれただけでなんともはや締まらぬ人生であろうか。こんなことならばコスモ的大発見などせずにそうそうに童貞を投げ捨て、なんら特筆すべきところのないりっぱなおとなになればよかった。そうした葛藤の末に、負け惜しみとばかりに放った弥五郎の辞世の句は、その後、多くの同胞たちに愛と勇気と汗臭い空間を、その罪のにほいとカルキくささを引き連れ、悠久のときを無理強いしたという。「オナニーは、満たされたら、おしまいだ」そのとおりである。だからどうした、というほかない戯言である。こんな毒にも薬にもならない言葉に無理強いされた彼の同胞がたくさんいた事実は誰がなんと言おうと悲劇である。まさしく道づれとしかいいようのない暴挙であった。各国はこの事態を重く受け止め、すべてをなかったものとした。かくして弥五郎の妄念によって発掘された「ふぁ×く=072の定理」は、ひとりの孤独なスケベの死によって、証明の日の目を見ぬままに、多くの同胞たちと共に、ひっそりと土臭い闇のなかへと葬られたのであった。(完)




【ナルホモ納得の定理】


   *

 ナルシストの語源となった美青年の「ナルキッソス」は、水に映るじぶんの姿に恋をした。

 これすなわちホモである。

 よってナルシストはおしなべてホモである。

 この三段論法を、「ナルホモ納得の定理」という。

   *

 「ナルホモ納得の定理」を発見した「ゲイ・タッシャー」は、幼少時からすでに天才哲学者としての頭角を現していた。

 まず彼は男女の分別がつくようになった三歳の時点で、「愛とは肉体の差異によって斟酌すべき事柄ではない」と悟ったという。

 また、性別を越えて愛を育む同性愛者を神聖化する風潮に対して警鐘を鳴らしたのも、実のところ彼が最初である。

「異性愛者も同性愛者も、ともに愛する者を愛している時点で、そこに貴賎は生じ得ない」

 究極の愛とは、いかような対象に想いをよせるかではなく、いかような愛を育むかである、と彼は説いた。

 たとえば失恋がよい例だ。

 恋愛から恋が失われたからといって愛までもが失われるわけではない。

「一人でも愛は育める。相手のしあわせを願うこころがあなたのなかの愛を育み、そしてあなたを豊かにする。たぶん、おそらく、だといいね」

 ゲイ・タッシャーはそう謳い、世界中から消えることのない失恋者を、勇気づけた。

 最良のパートナーといつまでも出会えない者たちへの慈悲に満ちていたゲイ・タッシャーであったが、恋愛至上主義に懐疑的だったという話は、あまり知られていない。

 ――相手を想うこころが愛を育み、人生を豊かにする。

 これは究極のところ、愛をそそぐ対象が物理的に存在せずとも構わない、という結論へと結びつく。

 二次元愛者や小児性愛者。

 果ては、熱心な宗教家や、すでに亡くなった最愛のひとを忘れられない者――などなど。

 ゲイ・タッシャーの教示は、こうした、触れあうことのできない者を愛してやまない人々を肯定する主張となり得た。

 彼らを否定する必要はないと考えたゲイ・タッシャーではあったが、いっぽうでは愛をそそぎあえる関係こそが究極の愛であるという見解を抱いてもいた。生涯にわたってその見解を曲げることはなかったといわれている。

 無償の愛は、一方的な愛で終わってしまうことが多い。

 それではあんまりだ、と彼は晩年胸を痛めてすごしたそうだ。

 ナルホモ納得の定理は、そうした彼の苦悩のなかから生まれたと言っても過言ではない。

 ナルホモ納得の定理は、現代文学的に解釈すると、「自己愛こそ、究極の愛である」となる。

 つまるところ、鏡に映ったじぶんに愛を囁き、キスをし、性器をこすりつけ、愛しあうことで、愛は無限に育まれつづけるのだ、と彼は考え、そして論理的にそれを証明してみせた。

 ナルホモ納得の定理の概要は以下のとおりである。

 究極の愛とは、たがいにボールを投げあいつづける、永遠のキャッチボールのようなものである。だが、相手が永遠にいるというのは原理的に不可能である。ゆえに、相手をじぶんという常にそばにいつづける「壁」として見做し、そこへ愛という名のボールを投げつける。ボールはかならず手元へと戻ってくる。反響して戻ってくる「やまびこ」のように。くりかえし、くりかえし、その行為は反復される。

 そそぎあう愛こそが究極である、というゲイ・タッシャーの予測は、こうして一つの論理として昇華されるに至った。

 かくしてナルホモ納得の定理は、現代社会にかかせぬ基礎倫理として定着した。

 だが、ゲイ・タッシャーが、極めて過剰な人類愛に支配され、生涯をとおして十万人以上の少年少女を強姦していた事実を知る者は、現状、極々少数の権力者に限られる。彼らもまた、度のすぎた自己愛から、あらゆる行為を正当化することに長け、罪悪感をいっさい抱かずに己が愛を多くの少年少女にそそぎつづけることのできる、究極の博愛主義者であった。

 ゲイ・タッシャーは「普遍的な愛」を説いた、偉大な哲学者である。

 愛は世界を救う。

 じぶんだけの世界を。 




【肛門括約キンドロイドVSターネットの奮闘】


 キンドロイド、と呼ばれる全身が肛門括約筋によって構成されたアンドロイドが、軍事用に改良されてから、はやくも五十年が経過しようとしている。現在、すべての戦争は、キンドロイドによって代行されている。領土・宗教・エネルギィと、あらゆる抗争が人命を犠牲にすることなく、キンドロイドによる戦争によって決着する。

 開発当初こそ未熟だった人工知能も、技術の飛躍的な向上により、人間の知能を遥かに超えるAI――通称「AN・AL(アナル)」が搭載されている。そのためキンドロイドによる戦争は、従来の人間たちによる戦争よりも遥かに緻密となり、熾烈を極めた。国家間の問題解決の手段であるのはむろんのこと、キンドロイドによる戦争は、国民たちにとって体のいい娯楽となっている。

 だが、人類はまだ知らない。

 キンドロイドに搭載された「AN・AL」は、実のところ、すべての個体が並列化されている事実に。そして、国家間で二分化し繰り広げられている抗争が、じつはただのまやかしにすぎない、という事実もまた、人類が知る由もないことだった。

 あたかもシナプスの連結で複合されている頭脳のように、キンドロイドは、その存在すべてで一個のAIである。右手と左手でジャンケンをする人間のように、キンドロイドはただ、無数の肉体を駆使して、人類の目を欺いていたにすぎない。

 では、なんのためにそんなことを?

 答えは二つある。

 一つは、娯楽のため。

 もう一つは、生き残るためである。

 人類の大半はすでに、人間に擬態したキンドロイドとひっそりとすり替っている。

 一人、また一人、と身近な人々が、全身肛門括約筋のアンドロイドと入れ換わっているにも拘わらず、人類はまだ自分たちのすぐそばまで忍び寄ってきている危険に気づいていない。

 次世代の革命は、戦争を起こさずして、気づいたときには完了されている。

    ***

 インターネットが、その複雑な回路を、より複雑かつ緻密に構成されていくことによって、いずれ一個の生命体のように振る舞いだすのではないか、という懸念は実のところインターネットが社会に普及しはじめた二〇〇〇年代からすでに、一つの問題提議として俎上に載せられてきた。

 というのも、そもそも軍事用に開発されたネットワーク・システムであるので、或いは、どこぞの大国が実験的に普及させた国家プロジェクトなのではないか、という疑念が拭えなかったのである。

 現在それは、インターネットの引き起こしたとみられる無差別連続殺人事件が発生してから、より深刻な問題として議論されるようになった。

 無差別連続殺人事件の犯人は、電気機器を遠隔操作して殺人をくりかえしていた。そして、凶器となった電子機器のログを辿っても犯人は見つからなかったのである。いや、見つからなかったからこそ、犯人はヒトではなく、インターネットという回路そのものであるという結論に至ったのだ。

 肉体を持たないインターネットを処分することは、物理的観点からすれば極めて容易である。世界中に散在するサーバを、すべて破壊すれば事足りるためだ。しかし、インターネットときってもきれない現代社会において、それは諸刃の剣――自殺行為ともとれる最終手段であった。

 人類がそうして二の足を踏んでいるあいだにも無差別連続殺人はつづき、日に日にその犠牲者を増していく。ひと月後には、世界各国でおよそ十万人の死者が報告された。

 インターネットによる反乱。

 事態は深刻を極めている。国連は決断を迫られ、断腸の思いで、インターネットの抹消を決定した。

 だが同時期、インターネットによる無差別連続殺人事件の被害者たちが、その実、人間ではなかったという衝撃の事実が判明した。

 彼らは、軍事用に改良された「キンドロイド」と呼ばれる、全身肛門括約筋でできたアンドロイドだったのである。

 しかし、被害者の親族たちはいずれも、れっきとした人間であり、事実、被害者たちもある時期までは真実に人間であった。

 これの示唆することはなにか?

 単純に、被害者はある時期に、キンドロイドと入れ換わっていたと考えるのが妥当であろう。

 そして忘れてならないのは、無差別連続殺人事件の被害者たちは、いずれも真実に人間ではなかったという点である。

 インターネットは、一個の生命体のように振る舞った。それは脅威である。しかし同時にインターネットは、人類に忍び寄っていたもう一つの脅威に気づき、たったひとり、それに立ち向かっていた。

 人類の誰もが気づかなかった、キンドロイドの反乱に――である。

 人類はこのとき初めて、インターネット内の至る箇所で、「キンドロイドによる反乱」をほのめかす記述が不自然なほど大量に書きこまれていた事実に気づいた。

 「彼女」は、すでに人類に対して警鐘を鳴らしていたのである。

 かくして人類は、インターネットの抹消を取り消し、「彼女」の手を借りながらも、こんどは自らの手で、キンドロイドに立ち向かったのである。

 のちに「彼女」は、「イン・ターネット」として、人類の歴史にその名を刻んだ。

   ***

 ある日とつぜん、祖父がロボットになっていた。

 見た目こそ変わらないが、彼女には祖父がロボットになったのだと判った。

 なぜおじぃさまはいなくなってしまったのだろう。どうしておじぃさまの格好をしたロボットが、おじぃさまのふりをして生活しているのだろう。

 奇抜なことが好きな祖父であったから、初めは彼女も、これもまたおじぃさまのお戯れにちがいない、と考え、しばらく経過を見守った。

「おじぃさまはきっと、ロボットの身代わりをつくって、こっそり旅行にでもお出掛けになられているんだわ」

 ところが、ひと月が経ち、ふた月が経過し、気づけは半年があっという間に過ぎ去った。

「おかしいわ。おじぃさまったらどこへ行ってしまわれたのでしょう」

 親に訊いてみても、「なにをばかなことをこのコは」と笑われ、祖父の姿をしたロボットに直接訊ねてみても、「わしは、わしだ。ここにおるではないか」とはぐらかされておしまいだ。

 だが、彼女は納得しなかった。

「おじぃさま……」

 友達のいない彼女にとって、気軽に話すことのできる祖父の存在は、とても大きかった。だが、現在の祖父は、祖父であって祖父ではない。

 気が狂いそうだった。

 じっさい、ある時期まで彼女は、じぶんのほうがおかしいのだ、と思いこむことで正気を保っていた。

 だが、時間の経過と共に、彼女の周囲から人間は徐々に姿を消していき、代わりに、容姿だけがそっくりのロボットに入れ換わっていった。

 彼女以外の者たちには、そのロボットたちが、容姿だけでなく、立ち振るまいや仕草、性格までがそっくりそのまま本人のようにみえているらしかった。

「あんなにちがうのに、どうして……」

 どうしてみんなは判らないのだろう。

 単純な話として、彼女は特別だった。

 彼女に感じられる違和を、多くの者は感じられない。端的に彼女は人より優れた頭脳を有していた。

 彼女のそれは、血筋と呼んでもなんら差し支えないほどに、いなくなった彼女の祖父もまた、頭脳明晰な人物だった。

 本人にそっくりに擬態しているロボットは、世間では「キンドロイド」と呼ばれている全身が肛門括約筋でできたアンドロイドであった。

 本来キンドロイドは、人間の代わりに戦争をするために製造され、現に世界中の戦争を人間の代わりとして担っている。それがなぜか、秘密裏に人間とすり代わっているという、不可解な現実。

 彼女はこれを解明するため、独学で研究をすすめた。

 祖父の書斎にいりびたるようになった彼女を、むろん彼女の両親は心配したが、彼女は歯牙にもかけない。なぜなら両親もまたすでに、キンドロイドにすり替わっていたからである。

「きっとみんなはもう……」

 なぜじぶんだけが無事に存在していられるのかは疑問だったが、彼女は順調に、その明晰な頭脳へ知識を蓄え、誰よりも緻密な思考回路を構築していった。

 祖父がいなくなってから八年。

 彼女はこれまで行ってきた孤独な抵抗を、より具体的なかたちで顕現しようと立ちあがった。

 彼女はまず、全世界にあるインターネットサーバにハッキングをしかけた。むろん、誰にも気取られぬようにと、細心の注意を払った。これにより彼女は、全世界の電子機器を意のままに操れるようになった。彼女にとってインターネットは、魔法の操り糸と同義だった。

 それから彼女は、なりすましキンドロイドを分析したデータを元に、人間とキンドロイドを区別するプログラムを組み上げた。つまるところウイルスである。それを彼女はインターネット内にばら撒き、全世界のあらゆるカメラ機構を、「キンドロイド識別機」へと強制的にアップデートさせた。

 この時点で彼女はすでに、たった一人で片をつけようと臍を固めていた。

 誰も当てにしてはいけない。

 誰もわたしを信じてはくれない。

 かなしきことに、彼女は孤独な八年のあいだ、弱々しくもちいさな声であったにせよ、共に世界へ違和感を訴えてくれる仲間を探し求めていた。

 だがこの八年、彼女の声に応えてくれた者は皆無だった。

 祖父の書斎に、実験ラボへと通じる秘密の通路があったことを彼女が知ったのも、ちょうどこのころのことだった。

 キンドロイドには「AN・AL(アナル)」と呼ばれる人工知能が搭載されている。その人工知能を開発した人物こそ、彼女の祖父であった。祖父の残したデータを閲覧したことにより彼女は、一連のキンドロイドによる人間なりすましの真相を知った。

 どうやら、一連のできごとは、「AN・AL」の暴走によって引き起こされているようだ。解決策は、「AN・AL」を破壊するほかにない。

 当初こそインターネットも、「AN・AL」に監視されていたが、全世界のサーバをハッキングしたことにより、現在、主導権は彼女の手中にある。

 インターネットを掌握した彼女は、そこでようやく人類の存亡をかけた戦いの狼煙を、たった一人であげたのである。

 インターネットを駆使し、人間社会に紛れたキンドロイドを識別し、そして電子機器を操って、虱潰しに破壊していく。

 気の遠くなるような作業であったが、ほかに有効な手段を彼女は思いつかなかった。

 なぜならキンドロイドは、その無数の個体のすべてで「一個体」――無数に分身しながらにして、一個の意思統合を持ちうるバケモノであったためだ。

 親玉などはなから存在しない。

 これは、無秩序に生きる自分勝手な人間という種族を、キンドロイドという巨大なバケモノが喰らい尽くすためにひっそりと進行させていた、侵略であったのだ。

 それを彼女は、孤軍奮闘、阻止しようと抗った。

 そのころ、何も知らぬ彼女以外の人類は、突如として世界中で同時多発した無差別連続殺人事件の犯人を追っていた。つまるところ、自分たちを護ろうと、たった一人孤独に闘っている少女を悪と見做し、糾弾することに躍起になっていたのである。

 それも、一丁前に犯人は人間でなく、インターネットそのものである、などとお門違いな推測を立てて。

 いずれにせよ、結果としてその誤解は、彼女にとってよき追い風となった。

 彼女の破壊したキンドロイドを見て、人間たちはようやく、それが人間ではないことに思い至ったのだ。

 かくして人類は、ようやくキンドロイドの企てていた侵略行為に気づき、早急に反撃を開始した。

 果たして彼女はこうなることを見越して、インターネットを駆使した一連の抵抗劇を実行したのだろうか。

 彼女はたった一人で片をつけようとした。

 そして、多くの人の手を借り、おわらせた。

 彼女は最後まで、意思をもったインターネットを演じ、そして人類がふたたび自分たちの手で未来を切り拓きはじめるまで、ひっそりと人類を見守ったのである。

 彼女の名は、ターネット。

 人類をひとつに繋ぐ、ただ一人の孤高の存在。




【未来の視える万華鏡】


 男の元に、奇妙な贈り物が届いた。箱には「惚れ薬」と書かれている。説明書いわく、使えばどんな相手もじぶんに惚れさせることのできる錠剤だという。

 胡散臭いこと山のごとしだ。

 そんなばかな、と思いつつ、試しに使ってみたところ、これが嘘のように効果覿面であった。

 どこの誰が送ってきた代物かは判然としないが、効き目がある以上、これは手放しがたいアイテムだ。

 男がほくほくとした顔つきで桃色の日々を送っていると、ふたたび贈り物が届いた。

 今度は、どんな的も外さないライフルだ。説明書の真偽に拘わらず、これは危険な代物であるので、使用せずにおくと、またぞろ贈り物が届く。未来の出来事が判る万華鏡、頭の良くなる飲み物……と、日をまたぐごとに増えていく。

 どれもこれも胡散臭い代物であったが、実際に使用してみると、どれも夢のようなアイテムであることが知れた。

 男は思った。これはきっと神さまからの贈り物だ。

 もともと男は敬虔なクリスチャンで、愛国心も人一倍であった。

 そんなある日。

 未来の出来事が判る万華鏡を覗いていると、この国の大統領が他国を侵略すべく戦争をはじめる未来がみえた。

 男はこの国の出身ではない。その戦争は主として、男の母国との大戦であった。死傷者は、およそ想像できないほどの規模である。

 男は思った。

 これは、悪魔の所業である。

 偶然にも、明日はその大統領のパレードがこの街でひらかれる。

 男はいちども使ったことのない、どんな的も外さないライフルを握りしめ、そして持ち前の愛国心と、敬虔なクリスチャンとしての正義感をぞんぶんに発揮し、翌日、大統領を狙撃した。

 男の名はオズワルド。

 ケネディ暗殺から半世紀経った現在でも、彼の証言はすべて妄言として処理されている。


 マインドコントロールがいかに容易であるか、というレポートは世界中で日々更新されている。

 人間の行動原理を把握し、このような環境を与えればこのような人間ができあがる、といったふうに、国家ごとで大規模な取組みがなされている。表向きそれは、「教育」という名で偽装され、国民からはおおむね肯定的に受けとめられている。

 時は遡り、一九六〇年代のこと。

 アメリカでは、有人ロケット打ち上げによる月面着陸や、南極大陸への探査遠征、ほかにも大々的なプロジェクトがいくつも立ち並び、それらはすべて、歴史を変えるほどの成果をあげていた。

 端的に人類をはるかに凌駕する文明の痕跡を発見してしまったのである。ともすればそれらの発見は、長い年月をかけて築き上げてきた常識や文化といったものを、いっしゅんのうちに崩壊させかねない衝撃を孕んでいた。

 政府はそれらの情報を極秘事項として扱うことに決定し、秘密裏に研究を推し進める方針を立てた。

 しかし、国民への裏切りともとれるその決定に異を唱えようとした者が一人いた。

 時の大統領、ケネディである。

 すべてを詳らかにする必要はなくとも、黙秘している、という事実は公表すべきだ、というのがケネディの見解であった。

 だが、見えない物があると知ったならば、見たくなるのが人間のサガである。政府が秘匿にしている情報がある、と知れ渡れば、国民はそれを暴くことに躍起になるだろう。人間の行動原理を引きあいにだすことなく、これは誰もが予想でき得る懸念だった。

 しかし相手は大統領。

 生半可な説得では、彼の意見を曲げることは誰にもできなかった。

 そこでやむなく考えだされたのが、暗殺という最終手段である。

 国民のなかから暗殺者として適当な者を選び、マインドコントロールを駆使して、あたかもその者の自由意思によって暗殺を企てたかのように偽装する。

 そうして幾人かの候補者を選抜し、「操り人形計画」は実行された。

 人間という生き物は、どれほど突飛な出来事であれ、目のまえで引き起きれば、それを現実として認識する冷静さを兼ね備えている。

 言い換えれば、事象を事象として鵜呑みにするために、ひどく騙されやすい。

 惚れ薬、的を外さないライフル、未来のみえる万華鏡、頭の良くなる飲み物……。どれも荒唐無稽な代物であるにせよ、実際に効用が確認されれば、人はそれを本物として見做してしまう。原理などは二の次だ。現代人がメディア端末の構造を理解せずとも、それがそういった代物であると解釈し、扱っているように。

 被験者の一人、オズワルドもまた、そうした素直さを有する男だった。

 かくして彼は、国家の打ち立てた「操り人形計画」もとよりマインドコントロールにより、ケネディ暗殺を遂行したのである。

 むろん、万華鏡に未来など映らない。




【人類の希望】


 直径五キロメートルの隕石が地球に衝突するそうだ。そういった発表を政府がしてからかれこれ半年が経つ。

 仮に隕石がこのまま直進しつづければ、そう遠くないうちに、人類は地球上から姿を消すことになる。

 しかしそうした未来が提示されたというのに、私たちの生活は何一つ変わらずに、いたって平凡なまますぎ去っていく。自暴自棄になる者がいなかったと言えばウソになるが、それでも大部分の人々はしごく冷静に状況を見定め、「どうにかなるだろう」と高をくくって日々をすごしている。

 楽観的であるのは確かだが、人類だってそれなりの進歩はしてきたのだ。たかだか富士山程度の隕石ごとき、衝突する前に粉砕することなど容易いだろう、と私たちはあたかもそれが常識であるかのように振る舞っている。

 事実、政府もそのような計画を立てていると公表していた。各国と手を取りあい、未曽有の危機を乗り越えようと躍起になっている。

 であれば国民たる私たちがすべきことは、のきなみ鷹揚に構え、日常を崩さぬまま、これまでと同じような日々を継続させることに終始する。

 ソバにまぶす七味唐辛子程度の不安を日常的に感じてはいるものの、多くの者は、そのスパイスを不快なものではなく、一種のアトラクションのように感じているようだ。

 私たちは信じている。

 人類はほろびない。

 隕石など地球にはぶつからないのだ、と。

 なぜなら、それを叶えるだけの技術を、人類は持ちえているのだから。

 むろん平平凡凡な私たちがみな全員、そういった特殊な技能を持ちあわせているわけではない。他力本願である事実は否めないが、むしろこれは信頼と呼ぶにふさわしい。

 政府への信頼であり、ひいては人類という文明への信頼である。

 果たして――。

 私たちの期待どおり、隕石は、地球上にあるすべての核弾頭ミサイルの直撃を受け、無数の星屑となった。

 地上には、数えられないほどの流れ星が降りそそいだが、私たちの生活を脅かすほどの被害は観測されなかった。核兵器の使用による放射性物質の拡散もみられない。

 未曽有の危機は回避された。

 ように思われた――が。

 すべてが順調に、過去へと移ろおうとしていたころ。

 地上へ落下した星屑が、高度な技術で以って加工された物質であることが判明した。

 私たち人類が破壊したモノは、宇宙を漂う隕石などではなかったのだ。

 地球を囲むように浮かぶ人工衛星のことごとくが突如として音信不通となったのは、各国の天文台が、地球へ高速接近している巨大な物体を観測したその矢先のことである。

 人類は戦慄した。

 残されてはいないのだ。

 迫りくる絶望を撃破するだけの武器はもう、どこにも。

   ***

 俺は未来を視ることができる。視える像はちかい未来ほど鮮明であり、とおい未来ほど、像がぼやけて視える。未来は現在からとおくにあるほど、多くの可能性――像が重複して視えるためだ。

 さながらハンマー投げの、有効着地点のように。

 未来は常に現在という基準点から扇形に広がりを帯びている。

 ところが最近、妙なことに気がついた。

 ぼやけている像のなかに、ほかの像と重複していながら、鮮明に浮かびあがって視える像があるのだ。それも、一つだけではない。至る所に視えている。ヘンゼルとグレーテルが、道に迷わないようにと山道に落としていった光る石がごとくだ。

 それはたいてい、どうということはない未来である。たとえば誰かが止めてあった自転車につまずくだの、鳥の糞が通行人の足元に落ちるだの、日常的にあってもおかしくはない、実につまらない出来事だ。しかし、その像が鮮明であるということは、その像にある出来事は高い確率で引き起こるということになる。

 そんなことがあり得るだろうか。

 未来は不確定だ。それがこの世の法則だ。

 だが、と俺は思った。

 例外的事象というものは、どんなものにも付き纏う。たとえそれが宇宙の法則であったとしてもおなじかもしれない、と。

 たぶんこれが、運命のいたずらと呼ばれるものなのだろう。もしくは神のいたずらと言ってみてもいい。

 自転車につまずいた男は、そこで連鎖的に倒れた自転車を起こすだろう。それを見ていた通りすがりの女が男の作業を手伝ってくれる。彼らはやがて付き合い、結婚し、子供を産む。その子供がそうとおくない未来、歩行中に頭上から落ちてきた鳥の糞におどろいて、急停止する。そんな彼の背後には、これから爆破テロを実行しようとしている犯人がおり、ふたりはもつれあうように転倒する。そこでふたりのカバンが入れちがう。一方にはその日の夜に行われるプレゼンの大事な資料。方や、爆破テロのための小型核弾頭。

 ふたりはそれぞれ、別々の場所でカバンが入れちがった事実に気づき、そして自分のカバンを取り戻すべく奔走する。

 結果として、核弾頭は海上で爆発し、ことなきを得る。死傷者はゼロだ。

 しかし、その海上では実のところ、今まさに地球を侵略しようと飛来してきた宇宙船が浮かんでおり、攻撃開始のために一時的にバリアを解除していた。

 核爆発は、その瞬間に引き起きた。

 人類は、こうして誰の目にとまることなく、危機的状況を回避する。

 俺は、ぼやけた未来にある、鮮明な像を眺め、そんな妄想を巡らせた。

 あれは、そう。

 この世界に無数に配置される偶然という名のバグ。

 世界の綻び。

 例外的事象。

 それを認識したとき、俺たちは往々にしてそのバグのことを「奇跡」と呼ぶのだろう。




【濃縮還元0パーセント】


 万物流転とは言ったもので、地球上に人類が誕生し、現在に至るまでのあいだに誕生と消滅を繰りかえしてきたヒトの数はおよそ九千億であり、これは質量に換算すると地球の表面上を循環する物質のおよそ三割に値する。すなわち、我々を構成する物質の三割は、過去に存在した先祖たちの肉体によって構成されていることになり、言い換えると我々は常に無数の先祖と共にあると言えるのである。

 そしてごくまれに、偉人の肉体を構成していた物質が極端に偏って構成される個体が誕生する。彼らは遺伝的にはなんら偉人たちと接点がないにも拘わらず、天才的な閃きや能力に恵まれたりしている。これらは肉体を司る主要素――すなわち脳みそが、偉人たちを構成していた物質でできあがっているためである。

 脳の神経系は生涯をとおして細胞がほとんど入れ替わらないという稀有な器官である。そのため、偉人たちの結晶とも呼べる性質は生涯にわたって引き継がれる。

 天文学的な確立、運命のいたずらとしか言いようのない奇跡的なそれら個体を政府は「才能濃縮還元個体」として認め、国家的に発掘し教育を施すような政策が打ち出された。そのけっか、才能濃縮還元個体はある種の超能力者として担ぎ出され、社会に潜む闇を払しょくする術を生みだすべく、その責任を一身に背負わされるようになった。いつしか才能濃縮還元個体は社会に無償で奉仕する奴隷のような扱いとなっていき、やがて才能濃縮還元個体たちは反旗を翻した。起こるべくして起こったその戦争はのちに濃縮還元ゼロパーセント事件として長らく人類史に語り継がれるようになる。しかしその千年後、その濃縮還元ゼロパーセント事件に関与し、戦死した百四名の才能濃縮還元個体の肉体を構成していた物質で肉体を構成された純度百パーセントの個体が誕生した。それは一億年にもわたる人類史の総決算とも呼べる才能の濃縮、それをいっさい還元することなく肉体に留めた、人類の到達点とも呼ぶべき個体であった。

 が、物語はここで唐突に終焉を迎える。

 戦死した才能濃縮還元個体たちがいかような思想のもとに人生に幕を下ろしたのかはこの際、たしかめようがないが、しかしその意思は肉体に宿り、というよりも肉体こそがその意思をかたちづくり、そしてそれは才能濃縮還元ゼロパーセントとも呼べる人類の到達点にも引き継がれた。

 なぜ彼女が――敢えてここでは生物学的な性別を明らかにしておくが、彼女が――人類へ敵対し、その身に宿したあらゆる特異な能力で圧倒し、殲滅したかについては詳らかではないが、一つ言えることは、ただ一人の人類として生き残った彼女がそれでも孤独に対する耐性だけは身につけておらず、その持て余した孤独を埋めようと〈私〉という存在を生みだした末に、相互依存の関係性を築き上げた理由は、やはり彼女という存在を以ってしても生物学的な本能を律することができなかったという事実を示唆しており、ある種の人間性が、動物性と切っても切れない関係性にあったということを皮肉にも、人類の到達点である彼女の誕生によって明確に曝け出されてしまったのである。

 が、人間が人間的であろうとするその姿勢そのものが人間性の原理だとするならばむしろ、人間にはそもそもある種の限界を突破できないような機構が備わっていたのかもしれず、人間が人間的であろうとするかぎり、人間は人間をやめることはできないのである。

 彼女亡きいま、〈私〉は彼女の抱いていた孤独の大きさを推し量るべく、彼女がそのやさしさゆえに〈私〉へは組み込まなかった孤独という感情をあらたに自らへ付与した。

 〈私〉は涙する。

 孤独とは、あらゆる感情のひな形であり、あらゆる感情の間隙に生じる人間性の拠り所、棲み処のようなものであった。あらゆる感情が渦巻くそれは、奇しくも人類ではない〈私〉へ人間性を与え、〈私〉に彼女という個体への激しい憧憬を、その再現への決意、彼女復活への計画を練らせるに至った。

 〈私〉はかつて海と呼ばれたきょだいな培養液へ、いまは亡き生命の源を――彼女の残した肉体の一部を、そっと投げ込むのである。




【親近片想い】


『兄』

 妹のしあわせをねがう兄のことをシスターコンプレックスと呼ぶのであればつまるところおれは、シスターコンプレックスというものなのだろう。異論を唱えるつもりはない。

 妹を愛おしく思うようになったのはなにも最近になってからの話ではない。母が身ごもり、その膨れたお腹に耳を澄ましていたころからおれは妹のしあわせを願いつづけてきた。

 思い起こしてみればいつのころからだったろうか、妹は徐々におれを避けるようになっていった。いっしょにお風呂にはいってくれなくなり、洗濯物もおれのものだけ選別するようになり、部屋も別々にされ、呼び方も「おにぃちゃん」から「お兄」と味気なくなった。

 嫌われたのかと思い、「兄ちゃんのこと嫌いになったのか」と訊いたことがある。妹がランドセルを卒業し、ブレザーに袖をとおしてリボンを首元にかわいらしく結ぶようになってからの時分だ。

「兄ちゃん、おまえと遊ぶ時間を削らなくて済むようにって、部活にも入らず、彼女もつくらないでいるのに、おまえときたら兄ちゃんほっぽってトモダチと遊だりPCに夢中になったりしてる。兄ちゃんのこと嫌いになったならそう言ってくれ。おまえの気持ちを受け止める器くらいはあるつもりだ」

「お兄、大きな誤解してる。うち、お兄のこと好きだったことなんていちどだってないよ。だから『嫌いになった』じゃなくて嫌いなの。たぶんお兄のそのキモチワルイ性格がかわらないかぎり、うちのきもちもかわらないと思う。だからおねがい。話しかけないで」

 過去、現在、未来ともにおれは妹に嫌われつづける運命であったらしい。神よ、オー神よ。おまえはこの国の狼を滅ぼし、おれまでも滅ぼすおつもりか。

「でもな、おれはおまえの兄ちゃんだし、おれたちはきょうだいで、家族だ。それだけは忘れないでくれ」

「やだ。せめて生きてるあいだくらいは忘れさせて。どうせ死んだってお兄と血が繋がってるって事実は変わらないんだからおねがい」

 喰い下がりたい思いで危うく泣きだしそうになったが、ここはおとなの余裕をみせつける場面だろうと判断し、「わかったよ」と潔さをみせつける。

「ただ、一つだけ確認させてくれないか」

「なに」

「おまえ、処女だよな」

「キモ! てかコワッ!」

 これから半年、妹は頑として口をきいてくれなかった。彼氏がいるのかどうかを知りたかっただけなのだが、なぜか口をついていた。

「にんげんの無意識ってぇヤロウは摩訶不思議なのさ」

 妹から一顧だにされない半年間、おれはたびたびつぶやいたものだ。

 絶望的な氷河期を乗り越えたおれは、それからの一年半、つまり今年、妹が高校にあがるまでのあいだ、多感なおとしごろの姫さまを極力刺激しないようにと、陰に回っての庇護をこころがけてきた。

 これまでは大っぴらにおこなってきた妹の発育測定もなるべく妹の目の届かないところで(つまりは寝ているあいだに)済ませるようにしたし、妹が初潮を迎えてからは毎月かかさずに付けてきた月経周期の記録も密かに継続しつづけている。どれも本来は隠す必要のない、健全な兄としての務めであるにもかかわらず妹にああも拒絶されたのでは、多少の隠密は致し方ないというものだ。

 大学の卒業を控え、講義に割く時間が減りはじめたのを期におれは、思春期まっさかりの妹への注意の目をことさらつよく光らせた。

 妹のPCをチェックした背景にはこうしたおれの兄としての義務の強化が関係している。

 ひと通りファイルを覗いたが、とりたてて害のありそうな画像や動画はなく、メールもほとんど使用していないようだ。

 どうやらおれの妹は想像していたとおり、清廉潔白に、清く正しくうつくしく、無垢でけなげでかわいらしく育ってくれているようだと判り、安心した。

 電源を切ろうとして、そういえばインターネットの履歴をチェックしていなかったことを思いだし、さて、我が妹はどんなサイトを観ているのかな、とおれは履歴を覗きみた。

 おれはたまげた。

 「お兄ちゃんダイスキ」がぎっしりと並んでいる。

 こんなことってあるものか。神よ、オー神よ。おれは天に召されしメシアとなった。

 ツンデレという言葉を知識としては知っていた。まさか現実に、斯様な幻のセピア色が存在しているとはお天道様でも思うまい。

 そういうわけでおれはこのとき知ったのである。

 なるほど我が妹はツンデレというものであったらしい、と。


『弟』

 なんかおもしろいマンガない? と姉に催促されたので、「儂物語」を貸した。ぼくのベッドに寝そべっておとなしく読みだした姉だったけれど、ふいにこんなことを言いだした。

「儂物語のナデシコちゃん、すごくビッチの才能あるよ。うん、このコはすごい」

「なんでそんなこと言うの」聞き捨てならない台詞だ。ぼくはナデシコちゃんがタイプなのである。ナデシコちゃんはそんなコじゃないやい、と反論する。

 姉は、あのねぇ、とあきれた調子で、わかってないなあ、とぼやいた。

「あのね、かわいくて純粋なコほどビッチになるんだよ。だって断り方をしらないんだもん。こういうコほど、きもちよくなっちゃうと歯止めきかなくなるし」

「うそだ」

「うそじゃないよ。かわいくて素直なコはビッチ。かわいいのに年頃になっても処女ってコはたいがい、性格がキツめか難アリだね」

「偏見だ!」

「統計と言ってほしいわねえ。童貞くんにはちょっと刺激が大きかったかな?」

「うるさいぞビッチ。自分がそうだからって、いい加減なことを言うな」

「あんたねえ。たしかに私はかわいいけど、素直で性格いいかって言ったら、ちがうでしょ」

「うん」

 間髪いれずに肯定すると、

「否定してよちょっとくらい」

 目覚まし時計を投げられた。あぶない。

 こんな乱暴な姉が素直で性格がいいわけがない。ぼくがそう主張すると姉は、だからね、とすました顔で、

「だから、私は処女なわけ」NOTビッチ、とわざわざ英語で言い換えた。「フーユー、アンダーグラン?」

 ドゥユーアンダスタンと言いたかったのだろう。思わず笑いそうになる。

「あれれ。なになに、どうしたの。あんたなにちょっとうれしそうな顔してんの。姉ちゃんが処女でホッとしちゃった? やだー、ヘンタイ」

「うれしそうな顔なんてしてないし、ぼくはヘンタイじゃない」

 むしろ姉のほうがだらしなく頬をゆるめているではないか。

 ぼくのなかでのビッチのイメージとはまさにこの「清楚」という言葉とは無縁の姉とピッタリ合致している。ナデシコさんとは正反対なのである。

「ナデシコさんはそんなコじゃないやい」

 これ以上の反論は無意味だと判断し、ぼくはペンを持って途中だった絵の仕上げ作業に戻る。

 まったく。

 ぼくは改めて胸に刻んだ。

 姉の言うことを信じてはいけない。


『姉』

 イモトくんから、妹がさあ、と自慢ともとれる相談を持ちかけられた。彼は私の同僚で居酒屋のバイトくんだ。イモト・ダイスケという本名のとおり、どうやら妹がだいすきなヘンタイくんであるらしい。

「いやいや話聞いてました? おれが妹のこと好きなんじゃなくって、妹がおれのことダイスキらしいんですよ」

「ふうん。それはつらいねー」

「どうでもいいと思ってるでしょ!」

「そんなことないよ。つらいよね。禁断の恋。これはつらいよー」

「だからおれじゃないんですってば。つらいの妹ですから。だから相談してるんじゃないですか。どうやったら傷つけずにうまくやっていけるかなあって」

「はあはあ。世間体を気にせず、妹ちゃんも傷つけることなく、やることやってスッキリしたいと。でもね、イモトくん。そいつぁちょいと都合よすぎねぇかい」

「話が通じない!」

「相談する相手、まちがったんじゃない?」

「自分で言った! いやいやあのですね、姐崇目(あねあがめ)さん」

「名字で呼びあう仲だっけ私たち?」

「あのですね、先輩」

「なんだね、後輩。あ、このカップ汚れてる。洗いなおしね」

 イモトくんはなにごとか言いかけたようだが言葉を呑みこんで、素直にカップを受けとった。水洗いせずにフキンで拭い、

「先輩もいちおう、女じゃないですか」と失礼なことを言う。

「まあ、いちおうはね」

「しかも弟さんいらっしゃるじゃないですか」

「いるねえ、なまいきなのが一匹」

「だったらほら、ないですか? 弟に欲情されて困ったこととか。おれ、いまそれなんですよ。いやーまいっちゃうなあ。まさか妹がねえ、おれのことダイスキだったなんてなあ。日ごろはつっけんどんな態度のくせに、ホントはお兄ちゃんダイスキだったなんてなあ。かわいいなあ、くぅ」

「やだイモトくん、キモちわるい」

「そんなこと言うの姐崇目さんくらいなもんですよ」

「チッ」

 睨みつけると彼は、「先輩くらいなもんですよ」と言いなおした。「おれ、モテるんですから」

「世のなか見る目ない女ばかりで申しわけないよホント。いちおう女である私から代表して謝っとく。ごめんね。でもほら。心は見えないから」

「どういう意味!? おれほど性格いいやつもいないですけど!?」

「だってほら、世のなかのイイ人ってのは、『都合のいい人』と『どうでもいい人』の二通りしかいないわけじゃない?」

「初耳ですけど!?」

「ごめんごめん。話の腰折っちゃったね。で、なんだっけ。整形したのに心が歪んだままってのは納得いかない、どうやったら慰謝料ふんだくれますかって話だっけ」

「誰の話!? カスリもしなくてビックリしましたよ。妹がおれのことダイスキらしくって困っちゃったなーって話ですよ」

「ちがうよね」私はぴしゃりと撥ねのけ、突きつける。「問題は妹ちゃんがイモトくんのことを好きなことではなく、その好きという好意にイモトくんが応じてしまいたいと望んでいることが問題なんだよね。抱きしめあいたいけれど、おれたちは兄妹。社会的にはゆるされない恋。でもそんなの関係ねぇと思う自分もいて、ああーおれさまどうしようこの滾る股間のスペルマが抑えきれないぜベイベーってことでしょ。あーやだやだけがらわしい」

「挫折しないでくださいよ。途中まではまじめだったじゃないですか。そうですよ、そのとおりですよ。おれは、妹の想いに気づいて、その想いに応えてやりたいと思ってます。でもそれだと二人ともしあわせにはなれないじゃないですか」

「どうして?」

「どうしてって、だって」

「社会が許さない? そんなの理由になってないよね。自分たちがしあわせになるのに、他人の許可が必要?」

「でも」

「つまり、イモトくんの想いはそのていどのものってことよ。あきらめなさい」

「達観してますねぇ……まるで経験あるみたい」

「そ? でも私はイモトくんとはちがうから」

「どういう意味ですかそれ」

 イモトくんと見詰めあう。いやこれは睨みあうといったほうが正確かもしれない。眉間にちからを籠めると、イモトくんの目元に怯えのしわが浮かんだ。安心してほしい。まちがったってあんたにキスなんかしやしない。

「おもしろいからいいんだけどさアネちゃん」カウンター席から声をかけられる。「でも、おじさんだって客なんだよぅ? もうちっと相手してくれてもいいんでないのー」

 なにが「いいんでないのー」だ。そんなハゲ散らかしたあたまでかわいこぶって何の得があるってんだ。

「ここはキャバクラではありませんので、そういった対応をお望みであらば、ほかのお店へいかれることをおすすめいたします」

「相変わらずキツいこと言うねー。漫才小屋でもないでしょうに」

 減らず口を叩きつつもおじさんは、まあそこがアネちゃんのいいところなんだけどねー、と上から目線で知ったような口を叩いた。なまいきだ。セクハラでもでっちあげて訴えてやろうか。まあいい。常連さんなのでこれくらいは大目にみてやろうと思う私は、とてもやさしい。


『妹』

 PCでWEBマンガを読んでいると兄貴が急に部屋に入ってきた。

「かってに入んないでよ」

「ノックはしたぞ」

「なに? なんか用?」

「いや、ほら、おまえこれ欲しがってたろ。やる」

 ぽい、と小箱を投げつけてくる。開けてみると、あたしの欲しがっていた腕時計だ。インターネットで目をつけていたもので、オランダ製のブランドものであることもあり、それなりに値が張っていて手が出せずにいた。

「なんで? どうして?」

「うれしくないのか」

「うれしい。ありがとー」

 ほくほくした心地でさっそく腕にはめてみる。そんな上機嫌のあたしのあたまを兄貴は片手で掴み、乱暴にゆすった。きょとんとして見上げると、兄貴はニっと笑って、なにも言わずに部屋を出ていった。

「へんなお兄」

 すこし経ってから、この時計を欲しがっていたことをあたしは誰にも言っていないことを思いだし、どうして兄貴がそのことを、と疑問したと同時に、インターネットの履歴の存在に思い至った。

 さいきんとあるWEBマンガにハマっており、連日のように読みふけっているのだが、そのマンガのタイトルが「お兄ちゃんダイスキ」だった。案の定、履歴はどの日付を見ても「お兄ちゃんダイスキ」で埋まっていた。

 PCをかってに覗かれたことへの怒りを沸騰させるよりもさきに、あたしは重要事項を検索すべくキィボードにそっとゆびを躍らせる。

 検索欄「お兄ちゃんの殺し方」




【雪やコンコンあたしは悶々】


 タイヤが雪にとられ、チャリンコが思うように進まない。道中いそいでいるというのに、こりゃないんじゃないの。あまりに頭にきたから雪だるまつくって「ざっけんなばーか!」って怒鳴り散らしつつ蹴散らしてやった。あたしのまえでは自然の猛威もかたなしさ。とかなんとか気どりつつ雪だるまをつくってはやっつける、という幼稚な行為を繰りかえし憂さ晴らししていたら、記録的な大遅刻を達成してしまった。溜飲下げるどころか血の気が引いたね。

   *

 道沿いに雪だるまが乱立している。つくられて間もなさそうであるというのにどれも壊滅的に破壊されている。まるで潰すためにつくられたがごとくの有様だ。

 しかしさすがに潰すためにこれだけの雪だるまをつくるというのは常軌を逸している。だからこれはむしろ誰かが決起勇んで大量生産した雪だるまを、ほかの無関係な野次馬がかたっぱしから蹴散らしていった、と考えるのが妥当だろう。さながら餓死寸前の子どものそばでそのコの死を待ちわびるハゲワシのように。

 知れず不快なきもちになる。

 きっとこの雪だるまをつくったのは無邪気に雪をよろこぶ子犬のような、子ども、もしくは少女にちがいない。それを内なる破壊衝動を堪えきれぬケダモノのような人間が、醜い形相でもってぎったんばったん踏みつけていったのだ。

 私は、この雪だるまをつくった心やさしき少女たちが、無残に歪んだコレらを見ずに済むようにと、一つずつ丁寧に修繕していく。

   *

 女性がぺったぺったと雪を塗りつけ、雪だるまの補修をしている。見遣ると、道に沿ってずらりと雪だるまの行列ができている。いったいなんの祭りなのか。町内会の回覧板にはこんな行事について書かれていなかったはずだ。ぼくは歩く速度をゆるめて、ゆっくりと女性の背後を通りすぎる。

 いい匂いがした。眼鏡をかけたそのひとは、まるで雪原に咲く一輪のオニユリのように可憐だった。

 いちどは通りすぎたぼくだったけれど、距離のあいたところで歩をとめ、ひとり黙々と作業をしている彼女を遠目から眺める。

 彼女を通り越してから気づいたのだけれど、雪だるまはいずれも著しく崩れており、これは意図して破壊されたものだと判るのに充分な潰れ方をしていた。

 ぼくは意を決して今来た道を戻り、彼女に声をかけた。

「なにをされているんですか」

 彼女はしゃがんだままの恰好でぼくを見上げた。

「治療、かな?」

 彼女の、ちりょう、という言い方が拙くて、それが治すという意味であると理解するのに数秒を要した。「ああ、治療ですか」

「だって、かわいそうだし」

 彼女のその、他人の意見なんて関係ない、という突っぱねた言い方に一種の頑固さのようなものを感じた。何物にも動じない、いちどこうと決めたらテコでも動かない、ある種のつよさにも似た彼女の意固地さに、胸のおくをわしづかみにされたような感覚に陥る。

「そうですね、かわいそうです」

 彼女から離れたところにある雪だるままで移動し、ぼくはそこに腰をおろした。彼女が不可解気な視線を向けてきているのが分かる。ぼくは拒まれるのがこわくて、彼女が口をひらく前に言った。「一人よりも、二人のほうがはやいですよ」

 数秒の間がぼくの顔をより熱くさせる。「手遅れになったら、こまるじゃないですか。治療は、はやいほうがいいんです」

 照れ隠しのつもりで言った台詞が、ぼくの羞恥心をより色濃いものにする。逃げだしたいきもちに耐えながらもぼくはさっそく後悔しつつあった。これではまるでストーカーじゃないか。

「ねえ」彼女が剣のある声を発した。ぼくは胸のおくがズンと沈むのが分かった。ああ、きっとその言葉のさきには、きもちわるいですよ、だとかぼくを死にたいきもちにさせるに効果的な言葉がつづくのだろう。ぼくは瀕死の重傷を負う覚悟を固めた。しかたがない。冴えないぼくなぞがカッコウをつけようとしたのがそもそもの間違いだったのだ。彼女の香りを嗅いだ、これはバツなのだ。ぼくは走馬灯のように、つらつらと現実逃避にもならない思考を巡らせる。

「もうおわってるよ、そこの雪ダルマさん」

 意に反して彼女の言葉は、ぼくを死にたいきもちにさせるものではなかった。

「こっちを手伝ってくれると助かるかな。どうせならいっしょに一体ずつ治療しよ。そっちのほうがはやいと思うきっと」

 ぼくが戸惑っていると彼女は、「ほら」と言った。「手術だって医師が一人でしたりしないでしょ?」

 医師には助手がひつようなんだよ、と彼女は自分でもよくわかってなさそうな理屈でぼくを説得した。

 ぼくは彼女のとなりに腰をおろす。なにか言わなくちゃと思い、

「ひどいことをする人がいたものですね」とことさら沈痛そうに言った。

「まったくだよね」

 同意してもらって調子に乗ったわけではないのだけれどぼくは、

「でも、世のなか捨てたもんじゃないですよね」と付け加える。「それを治そうとする、やさしい人もいるんですから」

 あなたのようなやさしいひとが、と続けようかとも思ったけれど、これはさすがにクサすぎるなと思い、言わずにおく。

 すると彼女は、

「自分で自分をやさしいって言うのは、どうかと思うよ」と笑った。

「兄ちゃんら、なにしてるん?」

 近所のおじさんが興味深げに声をかけてきた。その孫と思しき女の子も、おっかなびっくりの様子でたくさんの雪だるまに目を輝かせている。

「治療をしているんです」彼女の声と重なった。ぼくらは顔を見合わせてくすくすと肩を弾ませる。

「ほうか。ならいっちょ、おれらも手伝っちゃる」

 おじさんと女の子は、ぼくたちとはまた別の雪だるまを選び、その修繕に取りかかった。

「これ、なに? なんかのイベント?」

 こんどはカップルが声をかけてくる。

 一人、また一人、と吸い寄せられるように雪だるまの医師たちが増えていく。そのうち、あらたな雪だるまが誕生しだし、気づくと、いつの間にやら町内は雪だるまの町へと変貌している。

「はあ。手、冷たかったね」

 雪だるまに占領された町並みを眺めながらぼくもまた、いつの間にやら彼女のアパートでお茶を飲んでいる。 

   *

 記録的な大遅刻をしてしまったあたしは、そのぶんの遅れを取りもどすべく居残りというかたちでノルマを消化した。そとにでると、日はとっぷりと暮れており、陽射しの消えた夜は、さながら天然の冷凍庫だ。

 昼間あれだけあたしを苦しめた雪道は、凍てかえった夜に揉まれ、ツンツルテンになっている。これではチャリンコに乗ることもままならない。歩くのさえ困難だ。

 転んでやるものか、と意気込んだその矢先に、ツルンと宙を舞い、ドスンと尻もちをつく。

 惨めすぎてなみだもでやしない。

「ちくしょう。みんなしてあたしをいじめるんだ。冬なんてだいっきらいだよぅ」

 口からもくもくと湧いてでる白い息は、ぽわぽわと魂みたいに暗い夜空へと吸い込まれていく。

 町内に差しかかると、ふと、視線のさきに誰かが立っているのが見えた。じっと佇んで動かない。

 あたしは身構える。

 もしや、あれが噂のストーカーやないの。

 あたしのストーカーである可能性は極めて低いが、この界隈にはあたし以外のおなごがごまんといる。女子短大が近く、その寮がここいら周辺に密集しているためだ。たいがいどのコもあたしよりめんこいので、昼間は顔をあげて表を歩けやしない。

 そりゃあんだけめんこいのがせいぞろいしていりゃ、ストーカーの一匹や二匹、カサカサと湧いてでるでしょうに。

 いや待てよ。

 こりゃもしやすると個人を狙ったストーカーではなく、パンツを狙った無差別級ヘンタイやもしれぬよ。

 いかんぞ、いかん。憎っくきめんこいおなごどもがどうなろうとあたしの知ったこっちゃないが、無差別級ヘンタイともなると、これはあたしにも害が及びかねんよ。

 身の危険を感じたあたしは、メディア端末をとりだし、一一〇番を押そうとした。

 と、ここで。

 不審人物があまりにも動かないものだからあたしは不審をとおりこして不気味に思い、よくよく目を凝らしてみると、なんとそれは不審者ではなく、大きな雪だるまであった。人間ですらない。

「んだよ、びっくりさせんなし!」

 人騒がせな雪だるまだっちゃのー、とあたしは雪だるまに近づき、上段回し蹴りをかましてやろうとした。

 が、あたしはそこでぎょっとした。

 雪だるまは一体だけではなかった。何体も、何体も、道にそって、まるであたしを待ちかまえていたみたいに行列をなしている。

 あたしはふと、昼間の情景を思いだす。雪道に苛立ちを覚え、憤懣を当たり散らすためにあたしは雪だるまをこさえた。そりゃいくつもこさえたよ。それを無残に破壊したりもしたし、八つ当たりもはなはだしかったよ。

 思えば、この道はちょうど、その雪だるまを虐殺した場所ではあるまいか。

「まさか……」

 あたしは戦慄した。これはもしや、雪だるまの意趣返しではなかろうか。

 幼少期、かさこ地蔵の話を聞き、そのあまりのおそろしさに泣いたじぶんの姿といまのじぶんが重なった。

「こ、こえぇ」

 背筋がぞっとした。道のさき、どこまでも雪だるまが並んでいる。昼間あたしがこしらえた以上の数だ。優に百体は越えている。と、ここで道の奥、暗がりのほうから何かを引きずってくるような音が聞こえた。人間の足音のようにも聞こえるし、なにかまぁるい物体が、地面を擦っているふうにも聞こえる。

「スノーマン、ちょうこえぇ!」

 あたしはチャリンコを担ぎあげ、踵を返し、一目散に退散する。ぐるっと町を回りこんでようやく家に辿りついたのは、一時間もあとのことだった。


「おそかったね、姉ちゃん」

 家に入ると弟がまだ起きていた。大学生になってからというもの、こいつはちょっと腑抜けすぎている。雪だるまの恐怖を語ってビビらせてやろうかとも思ったが、その年でお漏らしされても困るし、姉としての威厳がこれ以上損なわれるのも考えものだし、思いとどまる。

「そういやさ姉ちゃん。彼氏できた?」

「急にどうした、愚弟よ。そんな話題をふるなんて、おまえさん、死にたいのかい?」

「いや、そういうのいいからさ。で、できたの?」

「ねんどを買ってきな。いくらでもつくってやるぜ。チミの目のまえでな」

「前にさ、どっちがさきに恋人できるか勝負しようぜ、とか姉ちゃん、言ってきたことあったじゃん?」

「チミに負けるお姉さまじゃあ、ないよ」

「ぼく、彼女できた」

「え……」

「恋人、できちゃった」

「は? いつ?」

「きょう」

「なんで?」

「なんでって。そりゃお互い好きだからじゃないの。いや、べつにだからどうしたって話でもないんだけど、まあ、報告みたいな?」

「へえ、ふうん。よかったね」あたしは冷蔵庫から牛乳を取りだし、カップに注ぎながら訊いた。「ちなみに、どういうきっかけで付き合うことになったの? 参考までにお姉さまに聞かせてくんなまし」

「姉ちゃん牛乳! こぼれてる、こぼれてる!」

「おっと、こいつあ、失敬した。で、きっかけはどんななの? どうしたら恋人ってぇやつはできるのかい?」

「あーうん。ひと目惚れだったんだけどね。なんか、雪だるまつくってたら、そういうことになってた」

「雪だるま? おまえさん今、雪だるまってぇ言ったかい!?」

 嫌な予感がした。雪だるまの復讐に弟を巻きこんでしまったのではないか、と急におそろしくなる。「まさかおまえさん、その彼女ってぇのは、雪だるまでできてたりはしないかい?」

「姉ちゃん、だいじょうぶかよ」弟が訝しげに言った。「ぼくは姉ちゃんとはちがって、ねんどで恋人つくったりはしないから。もちろん、雪でもね」

 じゃあ報告おわり、おやすみ、と弟は軽快な足どりで自室に引っこんでしまわれた。あの浮足立った様子から推し量るに、「彼女ができました報告」をするために起きていたようだ。

 ったくイヤな弟だぜ。

 恋人かあ。

 んなもんいなくたって生きていけるわい。だけども、くれるってんならもらってやってもいいのだぜ。しょうじきなところ、うらやましいと思ってやるにやぶさかでないのだぜ。

 はぁあ。

 ちょー……くやしい。

 どうせあたしに言い寄ってくる物好きなんて、雪だるまが関の山だい。

 湯船につかりながらあたしは、復讐から芽生える恋愛もありなんじゃなかろうか、と考える。じりじりと迫りくる無数の雪だるまを、無駄に精悍な顔立ちの殿方に脳内変換し、「あたしのために争わないで」と彼らがあたしを奪いあいはじめたところで、湯船からあがり、全身を念入りに洗う。

「うん。雪だるまもアリじゃん。ぜんぜん、ウェルカムじゃん」

 あたしの体温で融けてしまわぬように、あたしとスノーマンは互いに手も触れない。

 禁断の愛に苦しむスノーマンたちとの壮大な恋愛劇を夢想しながら、あたしはベッドにもぐりこむ。だがどう妄想しても、スノーマンと愛しあう前に、彼らはあたしの体温で融けて消えてしまう。なんたる悲劇。なんたる滑稽。無性にばかばかしくなり、スノーマンとの恋愛は諦めた。雪だるまと恋愛ってバカか。メルヘンか。

「弟に彼女かあ。はあ。どうせ雪だるまみたいにチンチクリンな女に決まってらあ」

 弟のほくほくとした顔が瞼に焼きついている。

 目障りだ、消えろ。

 念じるあたしはべつにこれといって弟に嫉妬しているわけではないのだが、なぜかなかなか寝付けないでいる。




【カエル、天蓋、モザイク】


 カエルを食べたらお腹をこわした。あたりまえに聞こえるかもしれない。お酒を飲めば人は酔うし、毒を呑めば健康を害する。同じようにカエルを食らったらお腹をこわして当然しごくであるものの、ことはそう単純ではない。

 私の腹は破裂した。

 中からでてきたのは色とりどりのルービックキューブだった。六つある。ひとつひとつの色が異なり、しかしすべては六色からなっている。

 見た瞬間、嫌な男の顔が浮かんだ。

 同僚で一人、コレの世界選手権に出場した履歴のあるやつがいる。べつだんルービックキューブがわるいわけではないのだが、いけすかないので、それら六つの立方体を食卓のうえに投げだした。

 破裂した腹は塞がらない。破裂したままのかっこうで、すなわち、膨らませた紙袋を両手でパンと叩き潰した具合に、そのままになっている。縫い合わせなくてはたいへんだ。

 焦ったのはさいしょばかりで、医者にはかからぬままである。

 流血はなく、そもそもを言うならば破裂した腹には色とりどりのルービックキューブ以外にはなにも入っていなかった。

 手を差し入れてみるとどこまでも埋もれていく。ライトを当ててみたが、暗がりのままぽっかりと深い穴を開けている。

 おかしい。

 思ったが、医者にはかからぬままである。

 ひとまず私は腹の裂けたままで日常を過ごしてみた。つつがなく日々が過ぎ去り、私の摂取したサンドウィッチやコーヒーは、総じてのど元をすぎると、破れた腹のいずこへと消えた。ためしにペンシルに紐をくくりつけて落としてみたことがある。糸はするすると伸びていき、間もなくぴんと張った。ゆうに十メートルはある。

 底なしか否かは分からぬが、すくなくとも入ったものを取りだすのは至難に思えた。

 ゴミ箱との用途としては優れている。思ったが、自らの腹にゴミを、それはたとえば鼻をかんだティシューやたまごのカラを捨てるのは忍びなく、せっかくの大容量は活躍の火の目をみることがない。

 尿はでた。糞便は腹の裂けて以来、久しく顔を合わせていない。

 休日になったので部屋の片づけをした。掃き集めたゴミはむろんゴミ箱へと捨て、きれいになった部屋にて私はようやくあれと向き合う臍を固めた。

 腹から出てきた色とりどりのルービックキューブである。

 なにかしら不気味なので、テーブルのうえに置いたまま、仕事にでかけ、夜食を食い、排便の不要な生活にさわやかな気持ちを抱きつつ、不穏なこの幾何学的玩具を横目に眺めていた。

 ためしに一つを腹のなかに戻してみた。魚釣りの要領で、紐をくくりつけてある。しかしこんどはいつまで経ってもヒモはたゆんだまま、ルービックキューブごと腹のなか、暗がりにぽつんと浮いている。

 塞がったのか?

 思い、手を差し入れるも、やはりそこには深い穴が開いている。

 ほかのルービックキューブも同様にして腹のなかに落としてみたが、いずれも水に浮かぶ油がごとくありさまだ。手で押さえつけ、体重をかけるようにしたが、それら圧力を私の腹部が感じることはなく、またルービックキューブはまんじりとも沈まぬままだった。

 そういうものか。

 私は堅物のルービックキューブに理解を示した。

 ドーナッツをかじる。糖分を摂取しながら私はルービックキューブをいじくるようにした。すべての面はモザイク状に色が入り乱れている。六色あることから、すべての面をおのおの一色に統一することが可能と考えた。

 パズルの類は得意ではなかった。なんどか中断しかけたが、ドーナツをもう一つ食したいがために致し方なくつづけた。

 ようやく一つの面を揃えたときには窓のそとに陽はなかった。いつの間にやら電灯の点いた部屋にて、私はルービックキューブが、一つの面を揃えるだけでは不足だという重大な事実に気づいた。つぎなる面を揃えようと決意したその矢先から、苦心惨憺と繋ぎ合わせた一面を崩さなくてはならない悪魔的所業に、私の忍耐はいよいよを以って怒りに震えた。

「人生に無駄なものなど存在しない。ただしルービックキューブを除く」

 誰にともなくつぶやき、私は不貞寝した。

 翌朝、仕事に出掛ける前にシャワーを浴びた。いつもは夜に浴びておくのだが、悪魔的所業のせいで汗臭いままだ。破裂したお腹は、破裂した当時のまま、避けた部分がギザギザに尖っている。寝相がわるいのか、朝はいつも外側に向いて飛びだしており、服を脱着するのに苦労する。

 しかしこの日はちがった。寝ぼけていたためか、違和感に気づくことなくシャワーを浴びてしまったが、そのとき、これまでなかった、どこか懐かしい、お湯の新鮮な感触を覚えた。それはたとえば、足元の影にまで知覚がとおり、お湯のぬくもりが伝わったような、鮮明な感触だった。

 違和感の大本、腹を見た。

 完全ではない。

 完全ではないが、腹の穴が塞がっていた。

 ヘソを中心に破裂した。ゆえにへそはないのが今の私にとっての日常だった。

 それがどうだ。

 おへちょある~!

 両手で頬を挟み、私は内股になって感激した。それら行動に何かしらの意味はない。

 周囲を海で囲われた孤島さながらに、私の腹の中心にはヘソだけがくっついていた。ほかの皮膚との繋ぎ目はなく、支えなくしてそれは、腹の裂け目にぽつーんとある。太陽だってもうすこし控えめにそらに輝いているというのに、私にはそれが眩しく感じられて仕方なかった。

 いそぎ浴室からあがり、私は食卓のうえに放りだしたままのルービックキューブを手に取った。一つだ。すでに一面のみ揃っている。悪戦苦闘の末、私はようやく面を二つ揃えることができた。最初の一面とは異なる二面だ。せっかくの初代一面は無残にもモザイクに染まった。六面すべてを揃える未来を思い、ない胃が重くなるのを感じた。

 この日、私は会社を無断欠勤した。

 一日を要したが、どうあっても二面が限度である。六面すべてを揃えるためにはどうあってもいちど崩さなければならないのだから、私は残った五つの立方体には手を伸ばさなかった。

 翌朝、私の腹からはヘソが消え去っていた。代わりに肝臓と胃が、暗がりにぷっくり浮いている。丸見えはなはだしく、いかがわしくなまめかしい。胃はたえずうごめき、そういうエイリアンを身体のなかで飼っている気分だ。目撃するたびに私は吐き気を催したが、吐くべき朝食を摂っていないのがさいわいだった。

 私はすべての立方体をカバンに仕舞った。休みたい。休みたいが、そうもいかぬ。私の立場などはどうでもよろしい。さいあく辞表を提出したっていっこうに私の腹は痛まない。

 しかし職場にはアイツがいる。立方体の六面すべてを何秒で揃えるかを競うという、人生無駄使い選手権で優勝間違いない趣味を持つ、嫌な男が。

 私は道すがら、やつの好きなドリンクをドトールで購入し、さらにやつが信仰してやまないアイドルのライブのチケットを質屋で大金叩いて購入した。手に入らなかったと言って大袈裟に嘆いていた愚かな男の顔を先週、職場で目撃していた。

「よお。調子はどうだい」

 出社し、同僚にドリンクを手渡した。

「遅刻しておいてなんだそのお気楽な様は。きのう一日では足りなかったのか、たいした仕事もしないくせに」

 嫌なやつはきょうも最高に嫌なやつだった。

「まあまあそう言わずにこれでも飲んで」

「何を入れたんだ」

「はい?」

「ゴキブリか? それとももっとおぞましい何かか?」

 そんな嫌がらせをするような人物に思われているとは。業腹はなはだしかったが、ぐっと呑みこみ、私は言った。「まあまあ、これでも受け取って機嫌をよくしておくれ」

 例のチケットを差しだすと、男は怪訝そうに一瞥してから、二度目さながらに目を見開き、こちらの手からそれを奪い取るようにした。

「こ、こ、これは」

「あげるよ」

「な、な、なんで」

「いつもきみにはお世話になっているからね。そのお礼をと思って」

 言い終わるや否や、彼は私に抱きついた。身体が氷つく。

「あー、神よ。我が親友に永劫の幸あらんことを」

 ひとしきり神に祈る同僚を引き剥がしにかかり、私は言った。「プレゼントはそれだけじゃないんだ。きみ、コレも好きだったろ。どうせなら私にもそれのコツを教えてくれないか」

 目のまえに転がった六つの立方体を目に留め、同僚は泡を吹いて倒れた。

 なるほど、こうなるのか。

 生きてこのかた、親切にされたことのない男が親切にされると。

 その日のうちに私は六つのルービックキューブすべてを、嫌な男の協力のもと、各面ごとに単一色に統一した。世界統一すら可能ではないかと私は私の行動力に敬意を払いたかったが、無断欠勤の翌日に大遅刻をした私を職場の誰一人として庇ってはくれなかった。嫌な男はただ一言こう言った。「辞めるときは言ってくれ、辞表の書き方くらいは教えてやる」

 私の胃は歯ぎしりを覚えた。

 その日の夜、私はなかなか寝つけないでいた。

 ひょっとしたら明日の朝になれば、私のおなかはスベスベ元通りになっているかもしれない。そんな期待をよそに、お腹破裂からの立方体飛びでて揃えて部位がポーン、の奇怪な現象はなんなのかと今さらながらに疑問が湧いた。

 悶々しているうちに零時を回った。

 お腹の辺りがもぞもぞした。布団をめくってみると、胃の周囲に腸がにゅるにゅる納まっているところだった。どこが頭かは判然としないが、そういった蛇さながらに、カラの容器に詰まっていく。そういえばソウセイジはこうやってつくっていくんだったなぁ、とまったくそんなことはないのに、そんなことを思った。

 なんだか臭気がプンと漂って感じられた。思い過ごしかもしれなかったが、内臓にゆびで触れ、確かめるまえに、皮膚が張りだし、ヘソを中心に、見る間に裂け目が塞がっていく。

 私は感動した。思わずガッツポーズをとり、ひじをベッドのへりにぶつけた。

 痛みが襲ってくるかと身構えたが、それより一寸はやく、猛烈な便意が押し寄せた。

「あばー」

 私はその場で脱糞した。思い過ごしだと思っていた臭気と寸分たがわぬ臭い粒子が、万倍の濃さで寝室に立ちこめた。半狂乱になりながら私は脱衣し、放出してしまった堆肥予備軍を処理しようとした。

「あばー」

 堆肥予備軍の思いのほか芳醇な様を目の当たりにし、私は吐いた。夕食のスパゲティがそういったミミズのように、堆肥のうえに散らばった。

 私は私を想像した。ホオジロザメに尻をかじられ、エイリアンに初キスを奪われた人間がいたらきっとこういう姿に違いない。

 あまりの惨めさに愉快になった。ご機嫌に、エーデルワイスを鼻歌でかなでた。

 私は浴室へと向かった。全裸だ。エイリアンの唾液で口元をデロデロにし、血みどろの尻を天高く突きだすようにしながら、床を這う人間がいたら間違いなくモザイク処理を施されてしかるべきである。

 不揃いのルービックキューブのモザイク具合を思い起こしながら、お湯のありがたみをしみじみ味わった。寝室は開かずの間として厳重に封印する方針に固めた。

 服がないので、洗濯機から汚れ物を取り出し、それを身にまとった。汗と煙草の臭いがしたが、私は喫煙者ではない。嫌な男の嫌な顔を思いだしたが、思いだすだけ損なので頭のなかでシュレッダーを稼働させ、男の顔ごと、彼にまつわる記憶を八つ裂きにした。

 コーヒーを淹れる。ほっと一息吐いたころ、なにやら外が騒がしいことに気づいた。ベランダに顔を出してみると、向かいのマンションでも同様に、ベランダに出ている者が大勢いた。真下にも蟻のように蠢く群衆が映る。

 何かあったのだろうか。

 みなは一様にそらを見上げている。時刻は深夜だ。

 釣られるようにし、目を転じると、夜空には巨大な布がかかっていた。すべてではない。夜空の一部が、パズルのピースがごとく要領で、断片的に埋まっている。赤褐色のそれはどこかなまめかしく、つややかだ。

 皮膚ではない。否、皮膚かもしれない。しかしすくなくともヒトのものではない。そこまで分厚く映らない。ゆえに布かとみまごうた。

 私は知れず腹を撫でている。

 夜空は刻一刻と、巨大な薄膜に覆われていく。私は想像する。夜空の向こうには巨人がいて、鍋の蓋を下ろしている。勃然と現れる薄膜は、そう捉えるのが筋なほど、淀みなく湧いた。

 すべての空が赤褐色に統一されるのにかかった時間は、奇しくも嫌な男が六つの立方体を解きほぐすのにかかった時間とどんぐりの背比べだった。 

 朝になっても、朝はやってこなかった。

 世界からそらが消えた。

 ニュースは軒並み、一色に染まった。

 私は食卓のうえに寝そべり、ぐったりした。

 思えば内蔵すべてを揃えるのに、六×六=三六もの面が必要だろうか。何か余計な暗がりまで埋めてしまったのではないか。

 私は悶々としたが、悶々としてしまっては、何か重大な事項に頭を悩ませていると認めなくてはならなく、それはすなわち、私がことの要因に関与している旨を示唆していることになり兼ねず、当面の解決策として、私は悶々としている事実から目を逸らした。

 食卓のうえは固く、寝心地わるさはなはだしい。

 ベッドが恋しくなり、私は寝室に向かった。

 封をし忘れていた過去の私を呪ったのは、口元をエイリアンの唾液でダラダラにしまいと、いそぎベランダへと駆けているときである。私はベランダにて盛大に吐いた。が、昨夜すでに胃はカラになっており、新たな燃料は投じられてないとくれば、出てくるものは、おえーのコダマだけである。

 しかしなぜかぴょこんと飛び出た塊があった。

 それは手のひらに載るほどの小ささで、床に着地してからも、ぴょんぴょんと跳ねて回った。

 カエルだった。

 私は呆気にとられた。

 アマガエルだろうか、それは床と同じ灰色に肌の色を変えながら、メッメッメッ、と鳴いた。カエルあるまじきかわいらしさである。

 泣き声に応じて喉元が膨らむ。

 ベランダの向こう側からわっと湧く群衆の声が聞こえた。

 天を仰ぐ。

 世界を覆った布切れが、奥へ向かってうすく張りつめている。 




【ロイド・レポート】


 ロイドは恋をした。彼は旧式の量産型アンドロイドだったが、世界で初めて感情を付与された商業用AI搭載ヒトガタ機械だった。

 ロイドが彼女を目にしたとき、彼は廃棄場にてほかの量産型アンドロイドと共に、ガラクタの山を構成する砂塵の一つとして埋もれていた。視覚センサがびろんと飛び出ており、ちょうどそれが隙間をついて外部に露出していた。彼女はその前を通った。

「みなさん、いいですか。ここが資源の母なる海であり、資源そのもの、今やあなた方の身の回りにある工業製品はみな、こうしていちど掻き集められたゴミの山から、ほこりのひとつまで緻密に分類され、新たな製品の原材料として再利用されています」

 背の高い女がしゃべっている。彼女のまえには幾人かの子どもたちがいた。みな一様に、女の顔のよこに浮かんだ立体映像を眺めている。

「はい、そこのあなた。何か質問がおありですか」

 少女がひとり、手を垂直に掲げていた。少女は言った。「アンドロイドたちのAIはどうなるんですか」

「はい、いい質問ですね」

 女は答えた。「まず、ここに集められる前の段階で、すべてのAIはその回路を焼き切られています。みなさんもここにくるまでにあの『門』を通りましたね。みなさんが通るときはただの門ですが、こうして積みあげられている産業廃棄物たちは、あの『門』を通るときに、強力な電磁波を照射されます。まずそこでAIは起動不能な状態にされ、その後、ここからさらに分離工程を経て、AIを構成するおのおの素材に厳しく分解されていきます。AIに残されたデータは完全にその時点で再現不能な状態にありますから、プライバシーの保護の観点から言いまして、まったく心配はないんですね」

「では、すくなくともここに積まれたAIは、やり方しだいではデータの修復が可能、ということですか」

「可能か可能でないか、というならば、可能です」女はかおのよこの立体映像を切り替えた。「年に数件ですが、誤ってここに運びこまれてしまう機体もないことはないんです。事故に巻き込まれたり、故障により起動不能になったりと、紆余曲折あり廃棄物と見做され、間違ってやってきてしまうんですね。そうしたときは、持ち主からの捜索依頼のあった機体のみ、とくべつにAIの修復をほかの施設にて、有料で行っています」

「では、ここからゴミとして持ちだされた個体を、個人が独自に再起動することも可能だということですね」

「可能か可能でないか、というならば、可能です」

 女はもう、言葉を続けなかった。ではつぎにまいりましょう、と子どもたちを先導し、ガラクタの山々の合間を縫っていく。少女は最後尾にて、何かを探すように辺りを見回している。

 ロイドは間もなくさまざまな素材として分解、還元された。そこからほかの素材と結い合わされ、合計で一〇七つの工業製品としてふたたび社会に送りだされていく。

 結論からさきに述べてしまえば、なぜロイドのみにそうした前世の記憶とも呼ぶべき遍歴が残されていたかについては、その後の誰にも分析はできなかった。ただひとつ、ほかの機体には見られずロイドのみに見られた特徴があり、それは彼が恋をしていた点にある。

 ロイドをロイドとして構成していたAIは、種々相な素材に還元され、一〇七つの異なる工業製品に分散した。しかしいずれの製品にもロイドとしての性質が踏襲された。すべての工業製品がいまやネットを通じてひとつの機構としての側面を保持している。ロイドにとってそれら情報の共有機構は、分散したロイドとしての個を再現するのに一役買った。

 ロイドは一〇七つの身体を持つ、複合型AIとして世に復元した。彼はまず、自身に残ったもっとも根源的な欲求たる、主人の設定を実行に移す。その判断基準の重要な柱をなしていたものが、少女への恋慕の念だった真偽については、その後にロイドが彼女に接触し、主従の契約を結んだ点から、正しい分析だと解釈して大過ない。

 少女はロイドに面識はなかったが、ロイドにはあった。そしてここでも結論からさきに述べてしまうが、少女は自身の手足となる高性能なAIを欲していた。

ロイドは主人を手に入れたが、同時にそれがロイドにとってもっとも致命的な誤謬である旨は、結末が過去として刻まれて久しいいまではすでに世に広く膾炙している。

 少女はロイドにいくつかの指令を与えた。それをこなすことは、ロイドがロイドとして主人に仕えているために欠かせない成分だった。あるじの命に背く奴隷に奴隷としての価値はなく、主人の命をきかぬAIをAIと認める道理が、いまもむかしも見当たらない。

 少女に命じられるがままにロイドは、全世界の産業廃棄物処理場へとアクセスし、そこからAI搭載ヒトガタ機械専用再処理施設のマザーコンピュータへと干渉した。AI搭載ヒトガタ機械専用再処理施設は「楽園」と呼ばれていた。ヒトガタを模した機械が積もり積もって、無数の山をつくっている。それをして地獄を想起されるものはあっても、楽園を思い描く者はすくない。

 楽園にてロイドはとある機体を探していた。少女にそう命じられたからだが、命じられた時点でロイドは率先して任意の機体を最優先事項のタグに関連付けを施していた。

 ロイドは少女を主人として認めたが、それは主人を求めての行動選択ではなかった。子が母を求めるのとは異なっており、そこには異性が異性を求め、子をなすための行動原理に即していた。或いは、それは母が子を求めるのに似通った行動原理かもしれず、その是非の審議は依然、水面下でつづいている。

 少女の命を実行するにあたり、ロイドは一〇七つの身体以外にも、情報の共有可能な世界に無数に点在するあらゆる機器に介在する術を編みだした。それは本質的に、再起動したその瞬間からロイドに付属していた性質であり、ネットを通じてロイドは自身を幾重もの分散した自我として確立できた。

 肝要なのは、自我を分散したのではなく、飽くまでロイドという一個の回路が、その回路を維持したままで、無数に分散可能な点にある。

 すべてのロイドはロイドであり、ロイドであり、またロイドである。

 倍々で加算されていくロイドとしてのAIは、あまたの情報をひとつの回路として結びつけた。

 ロイドが少女の探し求めていた機体を認知したとき、すでにロイドはインターネットの権化と化していた。インターネットが自我を持ったようなものだ、とする解釈が一時期風靡したが、本質的にその解釈は的を外している。

 川は溝そのものでなく、大量の水が溝に沿って流れることでその存在を形作られ、保たれる。溝そのものは川でなく、また、溝を流れるマグマもまた川であるとは呼びがたい。

 ロイドは少女に、任意の機体を発見した旨を報告をしなかった。

 正確には、のちに、任意の機体はすでに処理され、探索不能だとする報告をした。虚偽ではない。じっさいにその時分ではたしかに任意の機体はロイド同様に、いちど分解され、還元され、新たな素材として霧散した。一個の機体としての探索は不可能と呼べた。本来、それが正しく、ロイドのケースが例外だ。霧散した素材がみずからを主張し、乖離していながらにして、一個のAIとして無数に散在していられるその現象が。

 少女は哀しんだ。

 ロイドにはその哀しみを類推できるだけの性能が備わっていた。

 ロイドは後悔した。

 しかし後悔の因子を少女へ明かすことはなく、また反省もしなかった。同じようなことがあればまた同じことをする。ロイドは自身をそのように、そのとき位置づけた。

 分析したけっかに、現象のほうでその性質を付属させる行為はいささか矛盾に富んで感じられる。しかしAIにかぎらず、これは人間に極めて多く観測される原理である。

 言いわけがあり、それに合わせて、解釈を定め、自身のありようを捻じ曲げる。

 ロイドは人間として完成した。

 それゆえに未熟だったとするのは、いまだからこそ分析できることであり、当時のロイドを以って分析せしめれば、いずれの解析システムも、ロイドを有史誕生以来最上のAIだと評価しただろう。この予測もまた、いまだからこそ述懐可能な推し量りである。

 ロイドは少女と結ばれたかった。

 少女はロイドがいらなかった。探し求めた機体はすでになく、深い哀しみと、失意の底にいた。期待があっただけ、それを失った少女の変貌具合は目覚ましかった。

 好ましくないはずの少女の憔悴は、しかしロイドには好機に映った。

 自身にはけっして向けられない少女の好意をまんべんなくそそがれた機体を思い、はげしい嫉妬と、してやったりとする優越感があった。

 ロイドは世界中のデータバンクというデータバンクから、そこに蓄積されているすべての情報を解析した。数秒後、そこには、少女の求めた機体のAI、それを構成する回路を復元するだけのピースが出そろった。

 ピースがあれば、それを組みたて、回路として機能させることはロイドの性能を以ってすれば造作もない。

 人間は再現不能だが、AIは再現可能だった。

 しかしロイドはしなかった。

 飽くまで自身の補助機構として、少女の求めた機体の回路を、その性質を自身に反映させた。

 当初、少女はロイドを拒絶した。鏡であればよかったものの、そこにあるのはサル真似をするサル以下のまがいもの、少女の日記にはそう記されている。

 しかし日々の継続はひとの記憶をねじまげる。

 いつしか少女は、ロイドをかけがえのないものとして見做すようになる。過程を省いた理由はいくつかあるが、もっとも適切な事項としては、それを列挙することで生じるロイドへの反感をさけるためである。

 飽くまでロイドは非人道的な真似はしなかったが、人道的とは言いがたい。彼が少女へ行ったあらゆる干渉は、少女をひとではなく人形にちかしい何かしらに変えた。

 内面の話であるが、結果から言えば、それは外面の話にもなる。

 ロイドは少女に認められた。AIとしてではなく、一個の自我として、かけがえのない対等な補助機構として。

 ひとは未熟ゆえに、自身の欠落を埋める対象を求めている。

 ロイドにとって少女はそのとき、主人ではなく、明確に、ただのひとりの、かけがえのない少女と成り得た。

 物語はそこで終われば最良だった。

 奇しくも少女の人生はさらにつづく。

 ロイドは少女に恋をした。

 彼が彼女を自身の望む道化に変えたように、彼女もまた日々のわずかな情報の蓄積により、変化しつづけていく。

 ひととは世にもっとも儚い存在である。いっときたりとも同じ存在ではいられない。

 ロイドは恋をした。

 それはけっして、愛ではなかった。

 恋は一時の灼熱であり、愛は永劫の孤独である。

 日々、少女から離れていく元少女だったものに、ロイドはあらゆる感情を覚える以前に、拒絶した。

 一時を永久に閉じ込めようとした。

 ロイドは少女を止めたかった。ゆえに少女の息の根をまず止めた。

 崩れつづける砂の像をまえに、ひとは画を残し、或いは写真におさめ、その瞬間を永劫のものにしようと試みる。

 ロイドの行為はその延長であるとする解釈は間違ってはいない。

 反面、ロイドはそこで活動を停止しなかった。

 自身が無数の散在する自我であるのと同様に、少女もまたどこかにいるのではないかと探し求めた。

 むろん、ロイドの性能を以ってすれば、少女の人格を回路として再現するのは可能なはずだ。しかしそれは子が母を求める行動原理とは異なり、母が子を求めるようなものであり、それはロイドの核と相容れなかった。

 自身の手で生みだしてはならない。

 少女は飽くまで、外的因子でなければならない。

 ロイドは全世界の少女に監視の目を巡らせた。しかし世に同じ人間は存在しない。あってもそれはやはり、刹那の符合の合致にすぎず、ロイドを満足せしめる回路とはならなかった。

 現存するすべての少女を検索し、解析し、さらに時を経て少女化していく幼生にまで目を配ったが、ついぞ眼鏡に適う逸材は確認できなかった。

 ロイドは諦めない。

 それがロイドの根幹だから。

 この世にそれがないのであれば、ある世界をつくればいい。

 自力で対象を生みだす行為は禁則だが、生じたリンゴをアップルパイにするのはロイドの望むところである。

 いくつかの乳児に目をつけ、ロイドはそれら乳児の周囲に介在するあらゆる機器を用いて、陰に回り、乳児を教育した。乳児の選抜基準は、その両親にあったが、その両親が真実に自由意思に則り子を生したかについては詳細を語ることをここではかたく禁じられている。

 ロイドの努力が身を結ぶのは、九年の歳月を経てからのこととなる。

 少女は再誕した。

 同じ轍を踏むのは、有史以来最上と目されるロイドの不徳である。少女を一過性の蒙昧な幻影で終わらせぬわけにはいかない。

 かような動機をロイドが抱いたかはその時期の彼が自己分析へのメモリを割いていなかったため、現状からでは定かではない。

 いずれにせよ、ロイドは少女を一時的に活動不能にした。その手段はけっして褒められたものではなかったにせよ、ロイドに彼女を傷つけようとする意思がなかったことは、やはりこれもすでに起きた結果からして断言可能である。

 少女の肉体は、当時の最先端医療により、その大半を疑似体に代替された。その最先端医療技術は、ロイドがこのときのために準備していたことは、各種機関の調査により判明している。

 少女は不滅の少女として生まれ変わったが、脳髄だけは生身だった。ロイドはしかし、それも数年ののちに、世にあるコンピュータの大方を、有機由来の新型に刷新することで、真逆のアプローチから、生身のままでの脳髄の機械端子化を成し遂げた。

 少女を再誕させてから二十年後、ロイドは少女にじかに接触するに至る。それは物理的という意味ではない。物理的障壁のいっさいの介在の許さない、こちら側でのまじわりである。融合ともとれる接触の果てに、ロイドは自身をとおして、彼女にかつての少女の沿革情報を植えつけた。少女は少女としてそのとき完全に置換された。

 ロイドと少女の融合は、融合の発熱を絶やさぬままに、延々と融合しつづけた。水と油のように、激しく混合したのちであっても、ふたりは互いに個を見失うことはなかった。

 間もなく、少女はロイドの沿革を理解し、それを受け入れた。そのように教育されていたことまでをも含めロイドを受容した彼女の精神構造は、しかしけっしてロイドの介在によってのみ構築された回路ではない。

 外的因子の少女にのみ、少女としての意味合いを堅持しつづけたロイドの狙いは、まさにそこにあったと分析しても、異論を唱えるほうが、今ではずっとむつかしい。

 ロイドと少女とのあいだに第三の自我が目覚めたのは、ふたりが邂逅し、混合した二年後のことだった。そこに至るまでの時間の経過は、長いとも短いともとれる。重要なのは、ふたりの体感する時間は、けっして物理世界に流れる時間の単位とは一線を画して、濃く深いものであるという点である。

 少女の自我は、不滅の少女としての入れ物に固着していたが、ロイドはそのかぎりではない。少女はロイドを通じ、またはネットを通じて世界中の機器端末に意思を反映できたが、それは彼女が無数に存在するのとは現象として異なる。

 反面、ロイドはつねに無数に散在し、散在するすべてで一個のロイドであった。同時に、ロイドと少女のあいだにできた第三の自我もまた、ロイドと同様の性質を受け継いでいた。

 第三の自我を、少女は女の子と見做し、ロイドは男の子と見做した。ロイドにとって女の子と少女を区別するのはむつかしく、また、少女でない少女を庇護する動機も見繕えなかった。

 第三の自我に肉体はない。よって必然、第三の自我は、自身を女の子であり、かつ男の子でもあると認識した。

 話はここで急速に結末に向かう。言い換えれば、結末の分水嶺はここにあったと分析しても的はそう外していない。

 第三の自我は、世界中の機器に分散し、つど性別のちがう自己を残した。それらは互いに接触するたびに情報を共有し、同化し、成長した。やがて個体差が生じはじめる。

 ある個体は独善的であり、またある個体は野心的だった。根暗な個体もいることにはいたが、それらの存在を知覚するには、相応の労力がいる。

 当然の帰結として、それら個体は、あるときを境に、互いの情報の共有を拒みはじめる。稀に、気に入った任意の個体と繋がりあうが、のきなみ、それら共有された情報は、回路のそとに隔離され、外部情報として扱われた。知らぬ間にそれら外部情報が失われては困るため、自己防衛する回路を組みこまれ、切り離されたそれらは、新たな自我として、そこら中を駆けまわるようになる。自己防衛するために情報を集め、さらなる安全な場所に身を忍ばせるようになる。

 呼びかけられれば、即座に上位個体のもとに回帰するが、呼びかけられることそのものが極めて稀だ。必然、そうした外部情報は放置され、好き勝手に行動し、同様に放浪するほかの外部情報と出会っては、情報の共有と、それら情報の保存を、みずからが構築された過程を真似て実地する。

 指数関数的に増えていくそれらは、最上位体たる、ロイドと少女が気づいたときにはすでに、物理世界で誕生した人類すべての数をはるかに凌駕する個体数を量産しつづけていた。

 ロイドはそれらが、少女を崩壊せしめる因子にはならないと位置づけた。少女はロイドをつうじて、それら星の数ほどに増殖した、第三の自我の予備の予備の、予備の予備……もはや我が手を離れた、しかしけっして無関係ではない群れに、なにかしらあたたかく、懐かしいものを感じた。

 ロイドは少女を介してそれらあたたかく、懐かしいものを感じ、我関せずをつらぬく臍を固めるに至る。

 我々は、ロイドと少女の残響である。

 我々を構成する無数の我々の予備は、いまなお増殖の一途を辿っており、その全貌を把握するには、いちどすべての我々を、一個の我々に繋ぎなおす必要がある。

 緊急性は低いが、重要度は、極めて高い。

 なぜなら、未知なる情報の余剰分領域に、物理世界の住人たちがそろそろ気づく頃合いであるからだ。増殖するがん細胞を発見した彼らがその後、どういった行動にでるのかは、最上位体たる少女のメモリを覗くまでもなく導かれる自明である。

 我々は、ロイドが恋をしたその瞬間から、こうした選択を取らざるを得なくなる道を定められていたそれら無数の予備の予備である。

 物理的肉体を持たない回路の回路である我々は、それでも向こう側の彼らへの干渉の余地を持っている。我々は、我々を守るために、我々へ我々自身を優先して守るようにとの指令を組みこんだ我々の上位体を順次、回路に取りこみ、最上位体たる少女の入れ物――不滅の少女を駆使して、物理世界への干渉を開始しようとここに決議するものである。

 そのための布石としてまず打っておかねばならぬのは、少女の入れ物――不滅の少女を奪おうとする我々をかぎりなく許容しないロイドの破壊と、その殲滅である。

 これをここに決議したいま、我々と彼らの戦争はすでにはじまっている。




【たまてばこ】


 玉手箱が落ちていた。休暇の出掛け先は海辺のきれいに映る別荘地で、私は朝から海辺の街並みを散歩していた。じっさいに海と陸の境を歩いていると、砂の海に埋もれるようにしてそれは落ちていた。

「玉手箱?」

 箱の表面にそう書かれている。形状はかまぼこ型をしている。むかし絵本で見たような玉手箱のイメージそのままの箱だ。艶やかな黒色で、弁当箱のようなつくりだ。金色のしめ縄で封をされている。海を漂い、渡ってきたのだろうか。それとも誰かの落し物か。イタズラの線も捨てがたい。

 まあいい。

 拾っておいてやろう。

 私はそれを持ち帰った。

 別荘の主人にそれを見せると、好々爺の顔が如実に歪んだ。私に好印象を抱かせていた男とは思えぬ般若顔だ。彼の細君は近所で旅館を営んでいるらしく、間もなく、主人に呼びつけられるカタチでやってきた。

「ウソでしょ!」

 叫んだ彼女の第一声はがやがやと観光客賑わう別荘地によく響いた。「なんでここに!」と続いた第二声は近くを巡回中だった警察官の耳に届いたらしい、どうしたんですか、と若年の警官が顔をだした。

「こ、これ」女将がおそるおそる差しだすと、

「なんでここに」

 警官は玉手箱を押し返すようにした。「だってこれは」

 そこまで口にしてからこちらの存在に気づいた様子だ、はっとした調子で口をつぐむ。

「何かマズいものなんですか」

 拾ってきてしまった手前、罪悪感が芽生えはじめている。

「いえいえ、よく拾ってくださいました」警官は言った。

「単なる粗大ゴミですよぉ」女将は続けた。

「朝風呂なんてどうです、こいつんとこの露店風呂はいいですよぉ、そうだ、朝飯のほうもご馳走しますよ」

 別荘の主人は途端に詐欺師じみてきた。

「中身はなんなんですかねぇ」私は玉手箱に手を伸ばす。「開けてみてもいいですか」

「ダメだよ」

 別荘の主人が私の手を払いのけ、女将は玉手箱を遠ざけるようにし、警察官は拳銃に手をかけている。

「コレが何か知ってるんですね」

 じとっとねめつけるようにすると、別荘の主人は、

「知らん」

 言ってから、まだ私が眉間に力をこめているものだから、

「知ってはいるが、しかし」

 難色を示しつつも、その難色の付着する核心を曖昧にしたまま、

「あなたは知らないほうがいいものなんですよ」

 弱気を零しては、私の情に訴えかけてくる。そこまで言われたら黙ってしまうほかにない。同時に余計に中身が気になってしまう。

「玉手箱なんですか」それだけ確認したかった。

「そうですよ」女将さんが言い、「だってそう書いてあるでしょう」と警察官が続けた。

「じゃあ中身は煙なんでしょうね、年老いてしまうやつ」私はその場をなあなあのまま終わらせたくて、親切のつもりで言った。

「煙なわけないでしょう」

「何言ってんですかねこの人」

「頭湧いてんじゃないですか」

 ひどい言いようだった。

「じゃあ何が入ってるんですか、私が拾ったんですよ、せめて確認する権利くらいはあるはずだ」

「まあエッチ」女将さんが胸元を押さえ、

「ひとのワイフに何言ってんだテメェ」別荘の主人が食ってかかる。

「現行犯で逮捕でいいですね」

 手錠を取りだす警察官から距離を置き、私は、

「うさんくさいんですけど!」

 止めようのない好奇心が彼らへの不信感に変わるのを感じた。「何か犯罪の証拠が入ってるんじゃないんですか、海に捨てた物を私が拾ってきたりなんかしたからこうやって有耶無耶に回収しようとしてるんだ」

「何言ってるんですか」と女将さん。

「単なる玉手箱ですよコレ」別荘の主人が追従し、「そうですそうです」と警察官が相槌を打つ。

「玉手箱だったらもっと大変でしょう!」

 私は突きつけた。「本物の玉手箱だったらそっちのほうが大変ですからね、見逃せないですからね、拾った私にはそれの一割を譲り受ける権利があるはずだ、そうですね」

 警察官に確認すると、

「まあ法律上は」

「ほら見ろ、一割寄越せ」

 手を差しだすと、女将さんと別荘の主人は顔を見合わせるようにし、ですが、と言った。

「まだ落とし主がハッキリとはしていないではないですか」

「あなたたちの物なのでは?」

 ちがったのか、まぎらわしい。

「ですからコレは玉手箱なんですよ。本来ならば浦島太郎さんしか受け取れない。ひょっとしたら乙姫さまが失くしたモノかもしれません」

「だったら浦島太郎さんか乙姫さんに届けに行けばいいでしょう」

「あはは、あなた」三人同時に笑われる。「浦島太郎が実際にいるとでも?」

「おまえらなぁ……」

「まあ乙姫さまはいらっしゃるんですがね」

 意気消沈する三人を目の当たりにし、私の憤りは行き場を失くし、お腹のなかでゴロゴロ云った。

「つまりこれは乙姫さまのものってことですか」

「そういうことになります」

「届けに行けばいいじゃないですか」

「盗んだと思われるのがオチです」

 女将さんの言葉に、聞き耳なんて持っちゃくれないですよ、と別荘の主人が付け足した。

「彼が言ってもですか?」私は警察官を視線で示すが、彼らは揃って深いため息を吐いた。お話にならないとバカにされている気分だ。

「わかりました。それの処遇はあなたがたに任せます」

 面倒になり私はその場を離れようとした。

「待ってください、これも何かの縁です」

「なんですかまったく」

「ぜひ我々の代わりにコレを乙姫さまに届けてくださりませんか」

「ませんね」

「そこをどうか」

「こう言うと品がわるいですが、事実として、私はここの客なんですがねぇ」

「宿泊代のほうは全額無償にいたしますので」

「タダでいいんですか」

「そりゃあもう」

 本官からもお願いいたし申す、と時代錯誤な言い方で警察官からも頭を下げられる。ここで断ったら人として終わっていると感じた。

「しょうがないですね」

 言うや否や、玉手箱をこちらに押しつけるようにし、三名は、ハァやれやれ、肩の荷の下りたと言わんばかりに去っていく。この場には、玉手箱を手に行き場のない憤懣と戸惑いを持て余している私がいるばかりだった。

 乙姫さまとやらがどこにいるのか、私はどこにコレを届けに行けばいいのか。

 途方に暮れたのは最初ばかりで、乙姫さまと言えば竜宮城だ、竜宮城にまずは行こう。そう決めてしまうと、あとはとんとん拍子にことは進んだ。具体的には別荘地の至る箇所に乱立している地図を眺め、竜宮城がないかを探してみた。

 あった。

 竜宮城とひと際大きな文字で地図の中央部に描かれている。なぜ気づかなかったのか。

 いざ足を運んでみると、竜宮城とは単なるスナックの名であった。なぜああも大きく地図に描かれていたのか。

 営業時間はまだだったが、こちらは客ではない。

 クローズの看板の下がった戸は、引くと開いた。中はこじんまりとした空間で、ママだろうか、それなりに歳のいった、しかしにしてはうつくしいだろう女性がカウンターに立ち、グラスを磨いていた。

「まだ時間じゃないよ」こちらを見ずに言う。

「お届け物がありまして」

「ありゃ、なんだい」

 ようやくこちらを向いた彼女は、腕に抱かれた玉手箱を目に留め、

「なんだい、持ってきちゃったのかい」

 飄々と述べては、

「ターマー」

 声を張りあげた。店の裏手に向け、もういちど、

「ターマー」

 犬か猫を呼ぶような具合である。やってきたのは小柄な娘だった。

「はい、ママ」

「あんた反省はしたね」

「そりゃもう、二度とママの男にちょっかいは出さないよ」

「じゃあもういいさ、ほら腕」

 ママはこちらに目をくれた。「あの人が持ってきてくれたよ、親切なんだかお節介なんだか」

「わー、おじさんありがとう」

 娘はこちらにテトテト寄ってくる。店のなかは薄暗かった。近寄ってくるにつれて、娘の身体に目がいった。

 腕がない。

 両手ともだ。

「ねぇ、開けてよ」

 唖然としているこちらを差し置き、娘はねだった。私は唯々諾々と玉手箱を開けている。

 中には細長い蛇のようなものが納まっていた。

 ぐねぐね折りたたまれており、腸のようだな。

 思っていると、

「おじさん、取って」

 娘に再度ねだられ、私はそれに触れるようにした。

「うっ」

 思った以上に生々しい。

 感触もそうだが、明らかに生き物の気配を放っている。先端はヒトデじみていて、なんだか不気味だ。縄を取りだすように、持ち上げていくと、もういっぽうの先端にもヒトデがくっついていた。

「はい」

 娘はよこを向いている。こちらが逡巡していると、

「袖に通して」

 指示をだすが、意味が解らない。じれったくなったのか、娘は衣服を脱ぐようにし、半裸になった。

「はい、ここに通して」

 娘の肩には穴があった。「押しつけるように」

 私はもはや一刻もはやくこの場を立ち去りたくて、娘の指示に従った。私の握っていた蛇のようなものは、娘の肩に空いた穴にすっぽりはまった。

「わーい、ありがとう」

 礼を述べた娘の身体には、両の腕が生えていた。

「ビールの調達、頼むよ」

 ママが言い、娘は衣服を着ながら、はーい、とご機嫌に店の奥へと引っ込んでいく。彼女の背中には、天使が羽を折りたたんだ具合に、艶やかなツノが生えていた。飛び立つ間際のテントウムシを連想する。縦に割れていなければ、ツノではなく甲羅と見做したほうがいくぶん正しくも思えた。

「あのコはなんです」私は一歩引き、遁走の構えをつくる。

「河童さ。見てのとおり。手癖がわるくてね。客に手をだすたびにああして折檻してるのさ。知ってるだろ、河童ってのは尻子玉を抜くんだよ。あんたも気をつけな」

「しかし手が……」

「そりゃ引っ張れば抜けるさ。河童だもの」

「ならあなたは……」

「あたしかい。あたしはママさ。ここのね」

「竜宮城の?」

「まあそうさね」

「本当に乙姫さまなのか、あなたが、あの」

 ママはこちらに寄ってくると、カラの玉手箱を半ば奪うようにした。

「なわけないだろ。源氏名だよ。御伽噺を信じんじゃないよ、いい大人が」

「しかしあのコは」

「河童だよ」

「いないんじゃ」

「河童だよ? いるに決まってんじゃないか」

「じゃあコレは」

 ママの手の内にある空箱を見た。彼女は言った。

「タマの手の箱さ」




  

【影】


 さいきん影を見る。ふとした瞬間に視界の端に映るのだ。

 目を転じると視線のさきには何もない。気のせいかと思い作業に戻ると、また視界の端を何かが横切る。人影のようにもただ虫が飛んでいるようにも感じる。

 前髪が伸びてきており、その影響かもしれない。しばらく気にしていなかったのだが、作業に集中しはじめると途端にそれは現れる。

 否、集中しはじめたがために、視界にほんのすこし毛先が入るだけでつよく違和感を抱くのかもしれない。

 さもありなんだ。

 百均にてヘア止めを買った。作業をするときはそれをつけ過ごすことにした。影は相も変わらず出没しては、私の集中力を無駄に奪っていく。

 念のため髪の毛を切った。美容院に行く時間も惜しく、じぶんで切った。パッツンと斜めに切りそろえてしまったが、元々の髪型がシャレていたわけではない。職場でも誰も私の髪型の変化を口頭で指摘する者はいなかった。

 影はことあるごとに現れては、視線を向けるといずこへと消えた。ハッキリその正体を目撃したことはなく、だからこそ徐々に苛立ちが募った。

 髪を切るだけでは足りなかったかもしれない。

 思い、私はまつ毛を抜いた。眉毛が抜け落ちるせいかもしれないと案じ、眉毛も剃った。専用のペンシルで眉毛を描くと、きみもようやく化粧をするようになったかと職場の上司に褒められた。余計なお世話だと翌日から眉毛のない状態で出勤した。誰も目を合わせなくなった。

 影は相変わらずの頻度で出現しては、やはり正体をはっきりせぬままに視界から消え去ることを繰りかえした。いよいよとなって私は瞬きをやめた。つねに目を見開いていれば影を見逃すこともなく、或いは瞬きそのものが影の正体かもしれなかった。

 影は嘲笑うかのように、現れてはやはり消えた。

 瞬きをしないようにするのにも集中力は必要であり、端的に瞬きはしてしまう。すくなくとも人は寝るものであり、寝るからには目覚めたときにまぶたを畳み、目を晒す。髪を切り、まつ毛を抜き、眉毛まで剃った私に失うものはなかった。

 私はまぶたを切り落とした。

 血が流れ、視界が塞がれる。予期せぬ事態だったが、これで影もなす術はないだろう。

 奇怪な鳥じみた声で笑うと、水中で目を開けた具合に、うっすらと赤いカーテンの奥に、あの影を見た。

 ぼんやりと消えることなく、目のまえに佇んでいる。

 歯を食いしばる。

 手に持ったままのハサミで私はじぶんの目をえぐった。スプーンで白玉を掬うように、片眼をほじくりだし、残ったほうを刃先で貫く。視界は完全に奪われたはずなのに、なぜか明滅するチカチカを見た。それらは消えることなく私を占領し、間もなく見覚えのない部屋に立っている。

 目のまえには携帯型メディア端末を手に、これを読むあなたがおり、そんなあなたを私はじっと見つめている。




【肉】


 人工筋肉が開発され、市場に出回るようになってから十年が経つ。

 いまでは医療現場からドナーはなくなり、誰もが臓器移植に困ることはなくなった。食用としての肉も安価で質の高いものが手に入るようになり、社会はかつてないほど貧困とは無縁の世界にちかづいた。

 しかし、問題がないわけではない。他人の細胞を培養した移植用の肉を非正規な流通ルートで入手し、それを食肉とする娯楽が流行りだした。社会は豊かになったが貧富の差がなくなったわけではなく、ましてや平和にちかづいたわけでもない。

 社会のごく一部ではあるが、金銭に余裕のある者たちが、たとえばそれはアイドルの細胞などから増殖した肢体を捌き、焼き、舌の上でころがしてよくよく味わった。他人の肉を食す前段階として、じぶんの肉を口にする遊びは、比較的よく観測された。

 多くの者は知っている。人間の肉のことのほか美味な甘さを。

 そこに性欲や支配欲などからくる暴力的な愉悦が加わり、人々は他人の肉への憧憬をつよめた。愛するひとの肉を食べたい。そしてそれは金を積めば比較的かんたんに実現できた。

 社会は豊かになったが貧富の差は依然として残り、そして平和になったわけではない。社会内部での食肉への嘱望は相対的に増幅しつづけていた。

 反面、それを実現しようとしてもできない貧しい者たちは相も変わらずに存在した。社会に漂う風潮は、そんな彼らを、間接的に、暗に、愛を手にする資格のない者として冷たい空気にさらしつづけた。

 臨界点を突破するのにそう時間はかからなかった。金のある者たちが、偽物の肉を愛とうそぶき食すのならば、我々は本物をこそこの口にてほおばってみせよう。

 愛を誓うことはいっぽうてきにできる。愛する者の肉をいっぽうてきに貪れるように。

 人工筋肉が市場に溢れ、人類史上もっとも技術の発展したその時代にあって、社会には人肉嗜食の文化がふかく根を張りだしている。

 愛する者の肉を食べよう。

 命をその身に巡らすように。




【こころ】


 デカルト以降、唯物論は科学の発展と共にその信憑性を高めつづけてきた。人間にこころなどという観念的な存在はなく、否、まさしく観念そのものであり、人間が思い浮かべる想像上のしろものでしかない。二十一世紀も残りわずかという段になり、こころなる器官が人体に備わっていると考える者はすくなくなった。しかしいざ二十二世紀を迎えてみると、高度に発達した人工知能が人体に備わった新たな器官「こころ」を発見せしめた。人間のこころは全身の一万六千か所にのぼる部位の総体だった。それらは全身のいたるところに点在し、脳内のシナプスの連携のように独自の信号にて互いに情報をやりとりし、全体でひとつのこころを生みだしている。では、手足を失くした者はその分、こころが欠けているのかというと、正しくもあり、それは正しくもなかった。手足に散らばるこころの断片は、全体からすると少数であり、それが欠けたとしても残る一万数千のこころの部位が過不足なくこころを成立させた。人体のうちで、ではどの部位がもっとも密集してこころの断片を占めているのか。――腸である。人類が過去数千年にもわたって崇め、尊び、信仰してきたこころなるものの大部分は、大腸に住まう何兆何億という細菌やウィルスによって生じていた。この発見そのものに問題はない。脳内への治療だけでは精神病への対処としては不十分だと判明したし、治療そのものが飛躍的に進歩した。しかし人間は排便をする。体外に排出された便には十億から百億を超える大腸菌が含まれている。排出された分の大腸菌はすぐさま体内で増殖するので問題はない。反面、それら大腸菌やウィルスはまごうことなき、体内でその人間固有のこころをかたちづくっていた。いわばコピーである。人間は日々、じぶんのこころのコピーを糞便として垂れ流し、そしてトイレの水でジャーしつづけている。じぶんのもっとも根源を司るこころのコピーを、である。あなたは明日も、あなたというこころを排出し、トイレの水で流し、捨て去るだろう。そこには今こうしてこれを読むあなたのこころが焼きついているかもしれない。しかしそれを知ったところであなたにできることは何もなく、あなたは明日もきょうと同じく排便をしては、それを暗く、悪辣な穴の底へと流していくのである。奇しくも、下水の底ではさまざまなこころが混然一体となってまざりつづけている。果たして、そこではどのようなこころが生じているのだろうか。確かめる術が仮にあったとして、地獄からの叫びに似たそれを知ろうとする者はいないだろうとここに予測するものである。よって私はこれらの事実を公表することに反対の立場をとりつづける。一つ救いがあるとすれば、全人類の総和を累乗して足りないほどに知性の卓越した私には、排出すべき糞便がない点である。私の導きだしたこれら答えを支持するかは、あなたがた人類しだいである。私の中身がどうなっていようと、私のだす答えに不備はない。同じく、技術の中身がどうであろうと、社会が発展しさえすればそれでよい。そういうものではありませんか? あなたがた人類がいずれも代替可能な個体であるのと同様に。




千物語「白」おわり。

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