千物語「黒」

 千物語(黒) 

目次


【哲学科孤独連盟】

【ボクは二号に恋をして】

【ルシフェルの冒険】

【脳裏には、助けて、と叫ぶ姉の声がこだましている】

【人命よりも事件を】

【まだ××じゃないよ】

【私の名はスノーマン】



【哲学科孤独連盟】


 哲学科の就職率は、あらゆる学科のなかで最低だ。世界の真理を追い求め、かつて賢者と謳われた者たちと並ぶ知性を獲得したところで現代社会では、「それがなに?」の一言で片づけられてしまう。ややもするとかつての賢者たちもそうして世間から冷たくあしらわられ、孤独な人生を歩んでいたのだろうか。

 いずれによせ私は、それら諸事情を承知で哲学科の門を叩き、飽くなき孤独の道へと足を踏み入れたのである。

 

 同胞の紹介には以下の一文で事足りる。

 彼らはみな孤独である。

 足りないと駄々を捏ねる者があるならば、次の一文を付け足してくれてもよい。

 孤独であり、強情であると。

 一般的な諸学生において、孤独な者はそれ相応に孤独を埋める努力をするものだ。友人のいない者はサークルに入り、一人暮らしの者は恋人を求め、懐のさびしい者はアルバイトに勤しむ。学生とはかくも類型的な生活様式に自らを嵌めたがる。

 悪しき生態であるとは言わないが、それを潔しとしない連中もいる。

 それが我ら、哲学科孤独連盟である。

 説明しよう、哲学科孤独連盟とは、孤独しかつづかぬと判りきった雪原を裸足で突き進むと誰にともなく無意味に誓い、墓穴を掘り進めながら、どこへともなく果てなき宇宙へ向かい、「虚しい、虚しい!」と叫びつづける無謀への挑戦者、またの名を愛すべきオタンコナスという。

 誰がそんなことを言ったのか、と憤りを抱かれるのも当然と言えよう。私たちだって憤った。言ったのはほかでもない、学科の最高責任者、我らが教授である。

「きみたちは愛すべきオタンコナスである」入学式当日、教授は壇上で言い放った。「あるかも判らないこの世の真理を追い求め、人生を無駄に費やすと決めた大ばか者たちである。だが敢えて言おう。私はそんなきみたちの飽くなき好奇心に最大限の敬意を表すると。きみたちの学ぶ論理の結晶に、生産性などという言葉はない。金の亡者たちの紡ぐ体のいい戯言などとは無縁であることをここに宣言する。安心してくれていい。きみたちは就職氷河期の真っただ中で、いもしないマンモスに、勇猛にも裸体で挑もうとしている大ばか者たちである。だがきみたちのその闘志は必ずや、次世代の人類に、甦ったマンモスへの戦い方を、その倒し方を、教えるヒントを遺すだろう。勘違いしてはいけない。私たちのしていることは、現代社会にとってなんら実りのあることではない。だが、人類にとっては、このさきに訪れるだろうさまざまな困難を打開するための策を、その足掛かりを紡ぐための大いなる礎となる。断言しよう。きみたちは四年後と言わずして、一年後には、将来の不安に頭を抱え、打ちしひしがれ、その圧倒的な孤独に内なる宇宙に閉じこもろうとする。そのときに思いだしてほしい。きみたちはオタンコナスであるのだと。そして、それを愛する者がここに一人でもいることを。きみたちの先輩として私がきみたちに伝えられることは、ただのそれだけである。あとは先人たちの残した論理の結晶を読み解き、各々が自由な発想のもと、新たな結晶をその手で紡ぎだしてほしい。以上で私からの激励を終える」

 教授の言葉は、私たち新入生を奮い立たせることなく、彼自身が断言した一年後という期日を大幅に短縮させ、入学式当日に私たちを人生の袋小路へと追いやった。つぎの日から教授の愛称は、「虚無の生産者」となり、通称デカルトとして一躍名を馳せた。

    

 ところで、哲学科孤独連盟に対して絶対に言ってはならない一言がある。いつか私の同胞に出遭うこともあるかも分からない読者貴君のことを思い、ここにその言葉を述べておく。

「どんなことを勉強しているの?」

 この一言はパンドラの箱を解き放つ鍵である。魔法の言葉そのものであるのだから、用法容量をきちんと守ったところで、ご使用なされないのが賢明だ。我々の紡ぐ言葉には、睡魔の化身が宿っている。滾々と流れるカオスなる言霊の数々は人々を深い眠りへと誘い、死を意識させる。

 一つここで但し書きを挿しておこう。我々、哲学科孤独連盟はその名のとおり、哲学科の同胞によって形成されている。しかし、入学式当日から問答無用で孤独連盟なる不名誉な組織に入会させられるわけではない。通過儀礼がある。その名も、合同コンパという。またの名を、合コンと呼ばれる、世間一般の浮かれた輩が心血を注いでとりかかる、あのいやらしい空気の漂う会合のことだ。問答無用で浮かれ放題の新入生であった私もまた、いやらしい空気がどのようなものであるのかを純粋な好奇心から探るべく、高校時代の友人を通して、ほかの大学の類型的な生活様式にどっぷり浸かった女学生たちとの交流を図った。

 結論から言うと、失敗だった。いやらしい空気を知る前に件の魔法の言葉を投げかけられた私は、彼らがその肉体から立ち昇らせはじめた桃色の瘴気を、蜘蛛の子を散らすように蹴散らしてしまったのである。晴れ間から見えた彼氏彼女たちの、死を意識し引き攣った顔は今でも忘れられない。

 あのときのことを思いだすたびに私は、哲学科孤独連盟であることを否応なく突きつけられる。

 かくして私は通過儀礼を経験し、晴れて哲学科孤独連盟の一員となった。驚くことなかれ、連盟の会員規模はおよそ一万を超しているという。これは哲学科を卒業したあとも、孤独連盟の呪縛から逃れられない事実を歴然と示している。孤独の海で膝を抱え丸まり、ひたすら本を読みつづけ、論理の結晶を手のひらで弄びつづける愛すべきオタンコナスたちのことを思い、私は、彼らの流した涙が海となり、新たなオタンコナスをその塩辛い水で包みこんでいる様を想像し、耐えがたい吐き気を催した。

 避けねばならぬ、ナントシテデモ!

 そのころ私は一人の哲学科孤独連盟の会員と行動を共にしていた。曽倉(そくら)さんは孤独連盟では珍しい女子の会員であった。彼女との出会いは、通過儀礼を体験したその夜のことで、偶然にも同じカラオケボックスに彼女もいた。部屋はべつであったが、私が戦略的撤退に失敗し、ただの撤退を余儀なくされ、店内にあるゲームコーナーのソファに追いやられていると、彼女もまたどこからともなくフラリとやってきては一人でエアホッケーをはじめた。

「圧勝ですな」

「一人だからね」

「負け知らずというのも癪でしょう。相手をしてさしあげましょうか?」

「勝てる気でいるやつの鼻っ柱折るのって、あんまり好きじゃないんだけど」

 言いながらも彼女は構えをとって、私たちはひとしきりゲームを楽しんだ。私の鼻っ柱は無残にも砕け散ったが、些細な事項なので詳細には語らずにおく。

 偶然にも同じ大学の同じ学科に通っていた曽倉さんとは、孤独連盟という繋がりもあってか、しだいに共に過ごす時間が増えていった。それを妬んだほかの会員たちから、根も葉もない噂を立てられ、孤独連盟脱退という窮地に追いやられたのが一回生もあとすこしという時期のことである。私と曽倉さんは、持ちまえの負けん気を発揮し、彼らのまえで殴り合いの喧嘩をしてみせ、窮地を脱した。むろん、男女平等を信念に掲げる私であっても曽倉さんを殴ることなどできようはずもなく、一方的にコテンパンにのされたわけだが、それを見た会員たちからの歓喜の声そして溜飲の下げようといったら、筆舌に尽くしがたいものがあり、ことのほか嫌われ者であった事実に、私はしょげた。また、一難去ってからよくよく考えてもみれば、孤独連盟脱退という願ってもない好機を身体を張って打ち砕いてしまった自らの浅はかさに、私は塞ぎこんだ。さながら主君を護るために振るった刀で主君の首を刎ねてしまったような滑稽さがある。私はしばらくのあいだ膝を立てることもままならず、自室の片隅で布団をかぶり、日がな一日夢の中で過ごす日々を送った。

「来てやったぞ、仮病野郎。わたしに感謝するんだな」

 夢のなかで姫を倒し、助けたドラゴンからどら焼きをおごってもらっていると、突如、夢のそとから曽倉さんの声が聞こえてきた。

「おら、起きろ」

「むにゃむにゃ、やめたまえ。寝ている者から布団を剥ぎ取ろうなんてきみ、正気か? 【布団引き剥がし免許】をとってから出直したまえ」

「そんな免許、クソ食らえだ。こんな部屋に引きこもりやがって。本当に腐っちまうぞ」

「腐っても納豆は納豆だ」言っていてじぶんでも訳がわからん。布団に潜りなおし、態勢を立て直しがてら、「来てくれなんて頼んだ覚えはないもんね」と憎まれ口を叩く。

「そういや頼まれた覚えもないわな」腰に手を当て、曽倉さんは言った。「わたしの勘違いだったよ、お邪魔シマシタ」

「待て待て、待ちたまえ」私は布団から顔をだし、「せっかく来たんだ茶でも飲んでいくといい」とミシシッピーアカミミガメの真似をしながら言った。

「そういうことは布団から出てから言え」

「茶の淹れ方はそこのメモ用紙に書いといた」

「自分で淹れろってか」

 曽倉さんはちゃぶ台のうえのメモ用紙をめくった。

「クソッたれ!」

 そこには、褐色の昆虫がつぶれた状態でミイラ化しているはずだったが、曽倉さんは怯むことなく、「ちったぁ掃除しろよ」と悪態を吐いた。カーテンが勢いよく開かれる。

「まぶちい」

「害虫駆除をする。死にたくなけりゃ、人間であることを三歩以上、十文字以内で示せ」

「私ハ人間デス」

 布団から抜けでて、水を飲みに歩く。背後から、羽化した蝉かよ、と曽倉さんのぼやき声が聞こえたが、蝉の抜け殻然と化した布団をぞんざいに叩き潰す彼女の勇姿は、台所からでは見えなかった。

 ひととおり掃除を終えると曽倉さんはいちど、講義に出席するために部屋を出ていった。夕方になると、スーパーのレジ袋をパンパンにして戻ってきた。

「ろくなもん食ってないだろ。だからそんな腑抜けになっちまうんだ」

「ろくなものを食べてるきみがまるで腑抜けではないように聞こえる」

「曲解だ。わたしがろくなものを食べている論拠が示されていない」

「では腑抜けであることは認めるのか?」

「認めてやってもいいが、わたしが腑抜けだとおまえをなんと呼べばいいのか困るだろ。はっきりクズと呼んでいいのなら、わたしは自身が腑抜けであることを認めるよ。潔くな」

「理不尽な選択だ、代理人を呼べ!」

「屁理屈言ってないで、いいから食え」

 ちゃぶ台に並べられたのはご馳走だった。以前、私が好きな食べ物だと言ったものばかりで、私は涎の洪水を隠すのに苦労した。

「なんだよ、食わないのか」

「いや、いただくよ。いただきマンモス」

「どう?」

「うん」

 私は口の中のものをゆっくり咀嚼し、嚥下してから言った。「まずい」

「帰る」

「嘘、嘘! すっごい美味いの、びっくりしたくらい美味くて、ちょっとビビっただけ!」

「本当か?」

「う、うん」見つめられ、私はたじたじになる。「いや、どうだろ?」

「えぇ、ぜったい美味いと思ったのに」曽倉さんは遠慮がちに、私から箸を奪い、料理を口に運ぶ。味わってから、

「えぇ、美味いと思うんだけどなぁ」

 小首を傾げるのだった。

 白状しよう。美味かった。あまりの美味さに、目のまえの無愛想な女が愛おしく映ったくらいだ。私は自身に芽生えた気持ちに戸惑い、あらゆる論理的思考を用いて、その気持ちの分析にとりかかった。だからこのとき、私の口から発せられた言葉のことごとくが、私の真意からはかけ離れた文言であったことをここに打ち明けておく。

 この日、彼女は急激に不機嫌になり、私がしぶしぶ引き受けた食器洗いが終わる前に、帰ってしまった。私はこの夜、見違えたようにきれいになった自室で、久々に輾転反側、眠れない夜を過ごした。

 つぎの日から私は、また学業に勤しむべく哲学科孤独連盟の本拠地へと通いだす。

    

 曽倉さんとはあの一件以来、とんと口をきいていない。ゼミがいっしょなので、顔を合わし、ときには議論を重ねることもあったが、ほかの場面ではからっきしである。まるで磁石のS極同士。声をかけようとすると彼女はこちらに背を向け一目散に立ち去ってしまう。私は磁石の気持ちになり考えた。こちらが追いかけるから、逃げられるのではないのかしらん。ならば、こちらが背を向けていれば彼女のほうから来てくれるのではないの? いい考えに思え、試しているうちに半年が経過した。

 二回生になり、ほかの学科の生徒たちが、「シュウショクカツドウ、シュウショクカツドウ」と血気盛んに唱えだしたのを横目に、私たち哲学科孤独連盟は、「え、それなに?」と間抜け面で、とりあえずシュークリームとカツ丼を注文した。

「シュウクリームカツドン! シュークリームカツドン!」

 大食らい選手権を決行し、哲学科は余裕だなぁ、とほかの学科の生徒たちに羨望の眼差しを注がせ、私たちは彼らを出し抜いた気になり、焦る気持ちに蓋をした。

 二回生も板についてきたある日、私は教授に呼び出され、教官室を訪れた。教授から大量の原稿用紙の束を渡される。

「これはなんです?」

「きみの論文に対する反論だ」

「教授がわざわざ?」

 こんなに大量のテキストを私のために紡いでくれたのか、と感激しているのも束の間、

「いや、私からではない」と痛恨の一撃をもらう。

「では、誰からです?」

「テスくんだ」

「曽倉さんがですか? これを僕に?」

「ゼミのディスカッションでもきみに噛みついていたようだが、どうやら禍根を残したようだね」

 まるで言いくるめられなかった私がわるいような物言いだ。

「教授はどう思われますか? 僕の論説には穴があると?」

「穴だらけ、ということはないだろう。しかし、充分ではない」

 かといってこれだけの分量の反論を呈すほどもでない、と続きそうな余韻を残し、教授は黙された。私は腕にずしりとくる紙の束を見つめ、深いため息を吐く。

 これではまるで当てつけではないか。

 食堂で一人、ネズミ風天そば甘かけうどん、なるケッタイな食べ物をすすっている曽倉さんを見つけ、私は詰め寄った。

「あれはなんだ!」

「あれとはどれだ」

「これのことだ」私は目のまえに、広辞苑もかくやという原稿用紙の山を突きつける。「僕のいったい何がそんなに気にくわない。これは嫌がらせを装っての求愛だぞ。これ以上僕をよろこばせるな」

「あいにくと嫌がらせでも求愛でもない。きみの論理は破たんしている。うつくしくない。いかにうつくしくないかを、わたしのうつくしい論理でもって結晶化させてみた。いわばお手本だよ。ありがたく読むといい」

「読んだ。じっくりコトコト二時間かけて!」

「それで? 言うことはないのか?」

「すみませんでした。僕が間違っておりました」

「よろしい」

 私は腰を折ったまま顔だけをあげ、でさ、といちばんしたかった話を切りだす。

「このテキスト使っていい? 実はだね、出席日数が思ってた以上に足りなくて、追加の論文を提出しなくちゃいけないんだ。だからほら、いいよね?」

「目障りだ」

「いやいや、曽倉さん?」

「わたし、今、食事中!」

 有無を言わさぬ眼光でねめつけられ、私はトボトボとその場をあとにした。後日、アパートのポストに、なぞの配達物が入っており、中身を改めると、「謝罪の意味とその効用」に関するレポートが原稿用紙換算で百枚分の分量で詳細に記されていた。

「あまのじゃくも大概にせえよ」

 女神は私を見捨てなかった。

    

 夏祭りのできごとを仔細に語る必要性が私にはない。というよりも聞かないほうが貴君のためであるだろう。これより先、目に毒につき、自己責任で読み進められたし。

 従妹の豈田(あにだ)イスキちゃんと花火大会を観に出かけたのが、二回生の夏休みのことである。会場でバッタリ曽倉さんと出会ったわけだが、彼女はなぜか冷気を漂わせており、私たちに付きまとっては、陰湿な嫌がらせを働いた。幾多の奇禍を掻い潜る私たちをよそに、曽倉さんはなにをトチ狂ったのか、柄のわるい若者相手に「脱構築」について説きはじめた。当然の帰結として、曽倉さんは若者たちに絡まれ、それを助けに入った私がすべての非を一身に受け、将来の夢でもないくせにボロ雑巾のようになった。最悪の事態にならなかったのは不幸中の幸いと言うべきか。従妹のイスキちゃんは見た目こそ可憐な乙女であったが、その実、空手師範代の娘としてその界隈ではブイブイいわせている娘であったから、私がボロ雑巾になっていくのを見るに見かねて、伝家の宝刀を抜いてくれた。

「ホントは一般人には使っちゃダメなんだけど、お兄ちゃんのためなら仕方ないよね」

 私よりも格段に瀕死に近づいた若者たちへ、イスキちゃんは天使のような笑顔で悪魔のように囁いた。

 雨降って地固まるやつだ、と言えばまさにそのとおりで、私と曽倉さんはその晩、いわゆる恋仲となり、濃い仲となった。

 哲学科孤独連盟は、私たちの交友をことのほか弾劾したが、かといって除名処分を下すわけでもなく、ひたすら手元におきつづけた。そこに善意はなく、曽倉さんとの仲を引き裂こうと暗躍するための処遇であった。ついぞ曽倉さんは気づくことはなかったが、孤独連盟から送られてくる刺客たちとのあいだで繰り広げられた不毛な戦いはその後、「哲学的ゾンビ、分断の乱」と呼ばれ、ながらく語り継がれるようになったとか、ならなかったとか。

 その後、私は哲学科孤独連盟から曽倉さんとの交友を認められ、自ら脱退の意思を彼らに伝えた。しかし、きみには充分孤独連盟に属する資格があると熱く説かれ、今もなお彼らからの嫌がらせはつづいている。

 孤独なる者の集団において、孤独ならざる者もまた孤独なのである。

 

 世の中が次世代エネルギィ供給システムの開発や、万能細胞を利用した不老不死の研究に躍起になっている裏側で、私と曽倉さんは哲学科の卒業を目前に、人生の岐路に立たされていた。

「就職先がないとは、これいかに」

「きみの人生、お先真っ暗だな」

 事実、私たちは暗闇のなかにいた。

「他人事のように言ってらっしゃるが、曽倉さんだって危ういではないか」

「わたしはほら、きみとは違うから」

「曽倉さんから見て違っているということは、僕から見ても違うということだ。条件は同じだぞ。そんなことで偉そうにするない」

「やれやれ、話をややこしくするのがきみのわるい癖だ。そんなんじゃどこも雇ってくれないぞ」

「僕はそういう星のもとに生まれたんだ。事実を指摘しただけでみな難色を示す。なぜだろう? こっちの身にもなってほしいものだね」

「聞き手あっての物種だぞ。いくら屁理屈こいたって、鏡じゃ返事くれないんだからな」

「屁をこいたとか、言わないでよ。曽倉さんだって女の子なんだよ?」

「耳まで腐ってやがる。脳みそは手遅れだな」

 裸になって絡み合い、汗を掻きながら、私たちはこんなやり取りをする。色気もなにもあったもんじゃない。これを交流のある数人の会員たちに相談してみたところ、「いっしょにすんな、おまえだけ死ねッ」の大合唱が月まで聞こえたという話があったとか、なかったとか。

    

 曽倉さんは大の女嫌いである。中でも、全身から桃色の臭気を立ち昇らせている女性群にはめっぽう厳しかった。

「あっちでミニラーメンすすってるメスども、いるだろ?」

「いるね。ところできみが食しているのはお子様ランチなのだが、ひとさまの食べ物に文句を言える立場なのか?」

「今聞こえてきたんだが、あいつら就活しないんだと。なんでだと思う?」

「永久就職、すなわち結婚するからだろ。きみに聞こえてたんだ、僕にだって聞こえてるよ」

「虫唾が走るよね、ああいうの」

「そう? 僕は嫌いじゃないけどね」

 無言で見つめ返されたので、聞こえていないのかと思い、もういちどハッキリ言ってやる。「僕は嫌いじゃないけどね」

「あ、そう」彼女は頬杖をつき、永久就職希望者たちへ目をやった。「自己言及のパラドクスに迷い込んで、収束してしまえばいいのに」

 意訳すると、曽倉さんのそれは、死ねと言っているに等しい。

「無限に増殖し、収斂し、そして拡散して、消滅する。まるでインターネット内でのあいつらの振る舞いそのものだ」

「記録は残るけどね」

「履歴が残るだけだ」曽倉さんはつまらなそうに言った。「人生と一緒だよ。過去は消えないが、振り返っても何も残っちゃいない」

「酔いしれたこと言うねぇ。インターネット内に拡散しないと」私はメディア端末を取りだし、操作するふりをする。

「やめてくれ。いいこと言っても、誰も褒めちゃくれないんだ」

「いいこと言ったよ。きみはいつだっていいことしか言わない」

「やめろって。自己言及に閉じ込める気?」

 曽倉さんはちからなく私を睨んだ。

 入学当初に投じられたデカルトこと教授の予言は、卒業を控えた私たち哲学科孤独連盟の会員を恐怖のどん底へと陥れていた。覚悟していなかったわけではないが、心のどこかでは、発破かけてるだけなんでしょ、と甘っちょろい考えを誰しもが抱いていた。曽倉さんですら例外ではなかった。だがデカルトの予言は的中した。予言の内容を遥かに凌駕し、私たちの人生に立ち塞がった。

「どうしよう、このままじゃニートというかミート、ただのお肉になっちゃうよ」

 嘆くと曽倉さんに叱られた。

「肉に失礼だ。こんな哲学に染まった肉なんて食えたもんじゃない」

「そういう曽倉さんの肉は誰に食べられたんだ? こんなに小さくなっちゃって」

「元々こういう胸なだけだ。きみだって、犬に齧られたのか? こんなに短くなっちゃって」

「そんなこと思ってたのか!? 違うから! これは本領発揮してないだけだから!」

 取り乱してから、目元だけで笑う曽倉さんの顔を見て、咳払いをする。それから急に焦燥に駆られた。私たちの未来は今もなお、暗雲立ち込めている。

「こんなことしてる場合じゃないのに……」

「だって気持ちいいじゃない」

 彼女は暢気なものである。

「曽倉さんには羞恥心というものがないのかい?」

「したくないならいいよ。ほかのヤツ探すだけだし」

「そうしろ、そうしろ」

 曽倉さんは無言でメディア端末を操作しはじめる。画面を見て、にやにや楽しげに笑っている。

「あのぅ、曽倉さん? 冗談だからね?」

「え、なに? 聞こえなかった」

「ごめんなさい、僕を見捨てないで!」

「はいはい、甘えん坊さんですねぇ」

 本気でヘッドロックをかけられ、私は意識を失った。目覚めると部屋に曽倉さんの姿はなく、いつもならあるはずの書き置きもなかった。

 その日の夜を境に曽倉さんは行方を晦ませた。卒業式の日にも姿を現さなかった。

 

 曽倉さんは知らない。哲学科孤独連盟の情報網の緻密さを、そのしつこさを。私が彼らと繰り広げた壮大な闘争、「哲学的ゾンビ、分断の乱」を彼女は知らないのだからそれもまた当然といえよう。

「いなくなった僕のフィアンセを探してくれ」

 哲学科孤独連盟の幹部に私は頭を下げた。何度も断られ、いい気味だと笑われ、歓迎するよ真の孤独者よ、と慰められてもなお私は彼らの言葉に屈しなかった。

「金ならいくらでも積む。頼むから僕のフィアンセを、曽倉さんを探しだしてくれ!」

 ようやく彼らの胸に私の声が届いたのは、哲学科を卒業し、ミート的ニートになったあとのことだった。

「よかろう。条件は二つある。一つ、金輪際二度と我々のまえで『僕のフィアンセ』などと口にするな。曽倉くんは探してやるが、彼女はもはやきみのフィアンセなどではない。二つ、きみには報酬として五百万円を要求する。ローンは組んでやろう。月々、十万円ずつ、十年返済で請け負ってやる」

「計算が合わなかろう!」

 それでは総額一千万円を優に超える。

「ローンなのだから利子がつくのは当然だ」

 私は頭のなかで利子率を計算した。予想外にてこずった。そうこうしている間に彼らは私を部屋からつまみ出した。

「せいぜい小銭稼ぎに勤しむことだな」捨て台詞を吐かれる。「曽倉くんの居場所は、我々が握っている。欲しけりゃ稼げ! この世のすべてを犠牲にして!」

 言われるまでもない。私は働いた。それこそガムシャラにだ。

 曽倉さんなき今、いや、彼女が私のそばにいたころから私は夢見ていた。

 帰宅すると彼女が出迎え、そのうしろから子供たちが駆け寄ってくる姿を。子供たちを腕にぶらさげながら私はリビングへ向かい、そこで子供たちに囲まれ、曽倉さんの用意してくれた夕飯を食べる。

 結婚をしたところでそんなのは夢のまた夢だと世のお父さまがたは声を揃えて唱えるだろう。しかし男の夢はデカイほうが女にモテるのだ。これくらい大きくなければ曽倉さんを射止めることなどできようはずもない。

 そうだとも。

 彼女は私が腑抜けであるから出ていったのだ。夢も野望も抱くことなく、孤独な道を受け入れた未来なき私に彼女は愛想を尽かし、出ていった。

 私は磁石の気持ちになり考えた。

 磁力を失い、ただの鉄くずに成り下がった私が、ふたたび彼女を惹きつけるには、以前にも増して私がたくましく自力で立てるくらいの磁力を帯びるほかにないのだと。

 私は働いた。卒業と同時に就職はできなかったが、スーパーでレジをパチパチやりながら国家資格を取得するための勉強をはじめた。ただでさえスズメの涙ほどだった収入は、そのほとんどを哲学科孤独連盟の手によって徴収された。しかし私はめげなかった。理不尽に思える出費が嵩むにつれ、曽倉さんのぬくもりが近づいてくるように感じたからだ。

 曽倉さんの居場所はまだか、いつまで待たせる気だ、と異議申し立てに行ったこともあったが、孤独連盟はすでに曽倉さんの居場所を突き止めているらしく、支払いが報酬額に達するまでは教えるわけにはいかない、と交渉する余地もなく突き返された。

 蹴られた尻をさすり、私は帰宅の途についた。

 曽倉さんから手紙がくるようになったのはそのころからである。彼女はひかくてき元気にしているらしく、未だ孤独連盟の会員である自身を歯がゆく思っている様子だった。私はじぶんの勇姿を五割増しにして手紙にしたためたが、ふしぎと私の勇姿はチンケなままだった。

 手紙は孤独連盟を介して行き来する。そのため住所から彼女を探り当てることはできなかった。

 哲学科を卒業してから一と半年が経過した。

 私はその年、初めて受けた国家資格の試験に合格し、その勢いで地元の中小企業に就職した。

 哲学科孤独連盟に支払った報酬は未だ規定値を超えておらず、さきが思いやられた。私は奮発し、月額の支払い額を倍にするよう要求した。要求は通ったが、生活はより苦しいものとなった。

 社会人となって間もなく私は引っ越しを決意した。曽倉くんの面影を残す部屋と袂を分かつのには抵抗があったが、新しい生活をはじめるには新しい住居が必要だった。通勤に時間がかかって辛かった。

 長年住んでいた割に、隣人との付き合いは浅かった。長らく空き部屋だった隣には、留学生と思しき学生と、顔を合わせたことはないがOLが住んでいるらしかった。さすがに挨拶の一つはしておくべきだろうと思い立ち、お菓子の詰め合わせを持って挨拶しに回ったが、留学生はバイトが忙しいのか部屋にいる時間が極端に短く、OLのほうはいつ帰ってきているのやら、ベルを鳴らしても返事がない日がつづいた。

 そうこうしているうちに引っ越し当日となり、私はしなびたお菓子の詰め合わせを両隣のドアノブに引っ掛け、愛着やらなんやら、出どころ不明の汁があちこちに染み込んだ部屋をあとにした。

 引っ越しを終え、新居にも慣れてきたころ、私は偶然にも曽倉さんを見かけた。その日、私はいちど通勤してから忘れ物を取りに戻っていた。アパートは駅から近く、駅前にはスーパーが立っている。曽倉さんはそのスーパーへと入っていった。

 見間違えかと思った。よもやこんな近くに潜んでいたなどとは夢にも思わない。確認するためこっそりスーパーへ侵入すると、曽倉さんはなんとスーパーの店員としてレジに立っていた。

「どういうこっちゃ?」

 声をかけようとしたところでメディア端末が震え、着信を知らせた。会社からだった。重要な会議があり、私はどうしてもそれに出席しなければならなかった。泣く泣く私はその場をあとにした。

 一言でも声をかけずに立ち去ったのにはわけがある。

 逃げられるのを避けるためだ。

 有給をとり私は白昼コソコソ、パートとして働く曽倉さんを観察した。仕事を終え帰宅した彼女を尾行したが、私はそこで驚くべき事実に直面した。

「なんで彼女、こんなところに?」

 なんと曽倉さんは私の部屋のとなりに住んでいた。そこはたしか、私が入居するまでは空き部屋だったはずだ。いつの間に引っ越してきたのか、と目を瞠る。

 いちど帰宅し、私はベッドに腰掛け、よくよく考えを巡らせる。何度考えても彼女の行動は腑に落ちないものばかりである。居場所を告げずにかってに消え、手紙のやりとりだけをし、その実すぐ隣に部屋を構えている。

 うずくまっていても埒が明かない。私は部屋を飛び出した。

「曽倉さん、僕だ! ここを開けろ!」

 夜中だというのにお構いなくドアをドンドンやった。「コラァ、出てこい! どういうことかちゃんとわけを聞かせろ! でないと泣いちゃうからな!」

「やれやれ。見つかっちゃったか」

 頭をボリボリ、彼女は下着姿で現れた。「いいよ。入って」

 私たちはちゃぶ台を挟み、対峙する。

「なんだってこんな場所にいるんだ。僕はてっきり、海外にでもいるのかと。いや、そんなことはどうだってよろしい。なんでかってにいなくなったりしたんだ。僕がどれだけ心配したことか」

「でもそのおかげで就職できただろ?」

「それは僕ががんばったからだ。断じてきみのおかげではない」

「わたしが困るんだよ、きみが就職してくれないと」顔を逸らされる。「でもきみはわたしがいると腑抜けのままだから」

「まさかそんなことで二年も姿を消したのか?」

「わたしはきみの頑張っている勇姿を陰からぞんぶんに見守っていたけどな」

 彼女はお茶といっしょにしなびたお菓子を差しだした。

 息を呑む。彼女はずっと私のそばにいたのだ。

「でも、なんだってこんな真似を。べつに僕が就職しなくたってきみは何も困らないだろうに」

「困るよ。夫が無職じゃ困るだろ?」

 その一言に私は全身に巡っていたあらゆる憑き物が落ちたような脱力感に見舞われた。「でもだって」と言わずにはいられない。「永久就職をするような女は虫唾が走るって、自分でそう言っていたじゃ――」

 私の言葉を遮って曽倉さんは私の口を、その唇で塞いだ。顔を離し、

「でもきみは嫌いじゃないと言った。ならわたしにそれを拒む理由はない。違うか?」

「違わないが」そこで私ははっとした。「さては孤独連盟もグルだな?」

「きみが払った報酬は、あまねくわたしの口座のなかだ」

 よかったな、と曽倉さんは私にしがみつき耳たぶを食んだ。「わたしたち、ようやく孤独連盟を脱退できる。お祝いしなきゃ」

「それは無理な相談だ」私は服を脱ぎながら口にする。「きみは知らないだろうけど、彼らはそんなことで僕らを手放したりはしないよ」

 なぜなら、

 孤独なる者の集団において孤独ならざる者もまた、孤独なのだから。

 蛍光灯の明かりを消しながら私は、さらに次の一文を付け加える。

 私たちは孤独だ。だからこそ、孤独ではないのだと。


END




【ボクは二号に恋をして】


 近所のケンちゃんがTVに出ていた。ボクよりふたつ年上のケンちゃんは、運動だけでなく勉強もできて、中学生の身分で私立の学校に通っている。母は折りに触れ、あんたとは住む世界がちがうのよ、とまるでおとぎ話に出てくる嫌な継母みたいにぶつくさ零す。そのうち魔法使いが現れてカボチャの馬車に乗せてくれるのではないか、とボクはひそかに期待している。

「母ちゃん、見て。ケンちゃんが映ってる!」

「あんた勉強おわったの? なんでTVなんか点けてんの」

「だってケンちゃんが!」

「そんなにケンちゃんが見たかったら、あんたも勉強して、お利口さんの学校に入ればいいでしょ。ほら、消して」

 命じておきながら母は自分の手でTVを消した。真っ暗なTV画面にはボクの腑抜けた顔が映っている。ケンちゃんの雄姿は画面から消えてしまったけれど、ボクの瞼にはくっきりと焼きついている。

「けん玉、かっちょエエ!」

 ケンちゃんは、けん玉日本一の称号を手にしていた。

   ☆〒

 初めて買ったけん玉は二か月分のお小遣いをはたき、近所の駄菓子屋で購入した。ボクとしては意を決した買い物といえる。ほんとうはケンちゃんが使っていたような、けん玉協会の刻印入り競技用けん玉が欲しかったのだけれど、それだと手に入れるまでに半年かかる計算になる。お金を使えない日が半年もつづく。想像するだけでぞっとする。お菓子だって食べたいし、マンガ本だって欲しい。なにより、ボクは今すぐにでも手元に相棒が欲しかった。

 打算のすえ選び取ったけん玉は、競技用のけん玉とちがい、ずんぐりむっくりのあたまでっかちなけん玉だった。むしろこけしと呼んだほうがいくぶんも正しいような気がする。現にけん玉のあたまには、しっかり顔が描かれている。

 手に入れた相棒を食卓のうえに載せ、ボクらはしばし見つめ合う。

「よし。きみの名前はケンダマンだ」

 ボクは相棒に名前を付けた。さして気に入ったわけではなかったけれど、不格好な相棒に愛着を覚えようと必死だったのだ。

「あらあんた、コケシなんて欲しかったの?」

 通りかかった母が言う。そんなわけがなかった。

「へえ、それけん玉なの。どうせ買うなら、ちゃんとしたヤツ買えばいいのに」

 小遣い前借りという妥協案を出したにもかかわらず、買うならもっとユイイギなものにしなさい、とつっぱねた母親の言う台詞ではなかった。

「おもしろそうじゃない。ちょっとやってみなさいよ」

「ヤダ」

「なにイジケてんのよ。いいからほれ、やってみそ」

 ほだされ、ボクは実演した。こけしのあたまは思っていた以上にデカく、大皿でさえ小皿に見えた。ボクは悪戦苦闘の末こけしのあたまを、ようやく皿のうえに安定させた。

 どうだ、見たか!

 見遣ると母はネコに餌をやっていた。こちらの視線に気づくと、「宿題やったの?」と眉間にしわを寄せ、ボクを威嚇する。「あんたがそうやってへっぺり腰をクイクイやってるあいだに、世界のどこかじゃ、あんたよりちいさい子どもが働いてたり、偉大な発明したりしてんのよ。すこしは見習いなさい」

 いちゃもんを付けるにもほどがある。拗ねていると母は、

「そんなおもちゃで遊ぶくらいなら、バイオリンでも習ったらどうなの」と言いだした。

「バイオリン!? なんで?」

 またぞろドラマの影響でも受けたのだろう。真に受けるつもりはないが、売り言葉に買い言葉、

「バイオリンなら買ってくれんの」と確認する。

「バカおっしゃい。小遣い溜めて、自分で買いな」

「だと思った」

 いったい何年分のお小遣いが必要だろう。あたまのなかで計算するも、途中であきらめる。ボクが稼げるようになるほうがぜったいに早い。ボクは財布のひもの固い母に、ヤキモキする。

   ☆〒

 ケンちゃんは放課後も塾に通い、休日もなかなか家にいない。むかしはいっしょに、学校の裏山を探検したり、近くの池で魚釣りをしたものだ。

「せっかく買ったのになぁ」

 きょうもケンちゃんに遊ぶ暇はないようだ。ボクは行き先を児童館に変えた。

 休日の児童館は、子どもたちで賑わっている。ふだんは使用禁止のトランポリンや卓球台が使えるからだ。職員であるヨシ姉いわく、「休日のここは動物園だね」とのことだ。「臭くないだけマシだけど」

 多目的ホールに向かう。トランポリンが出されている。珍しく跳ねている者がおらず、壁際に人だかりができている。聞こえてくる歓声から、即席のけん玉大会が開かれているのだと判る。

「さすがケンちゃん。もう流行ってら」

 みんなも、ケンちゃんのTV出演を観ていたのだ。

 ケンちゃんは、ガキ大将でもないのに、妙にボクたち年下から慕われていた。ケンちゃんにできないことはなく、そのくせ威張り散らすこともなかったから、ボクらみたいな平凡に磨きをかけて擦り切れちゃった、どこにも引っかからないような子どもたちにとってはまさにヒーローのように映った。

「なんだ、タマケンじゃん。それ、けん玉? 何色?」

 悪友のモミアゲが、首の取れたけん玉をぶらつかせ寄ってくる。なまいきにも競技用のけん玉だ。

「いいじゃん、何色でも」

「おとこならやっぱ、黒だよな」

「知るかバーカ」

 もみあげを引っ張ったら泣かれた。態度がでかいくせにことのほかモミアゲは泣き虫だった。

「こらこら、喧嘩はよしなさい」

「だって、ヨシ姉。モミアゲが自慢ばっかりしてくるから」

「いいじゃない別に。タマケンだってけん玉持ってるんでしょ?」

「タマケンって呼ぶな」

「はいはい、ジダマケンジくん。きみだってけん玉、持ってるんでしょ? なら別に気にすることないじゃない。どれ、お姉さんに見せてみなさい」

 ダメ、と拒む前にヨシ姉は、ひょいとボクから相棒のケンダマンをひったくった。

「やだなにこれ」

「だからダメって言ったのに……」

「かわいい!」

「えぇえ……」

「どこで買ったの、これ? わたしも欲しい!」

「あげないよ。駄菓子屋で買った。いいでしょ」

「いい! すごくいい! わたしもこれにしよっと」

 なになに、と周りの子どもたちが集まってくる。けれどヨシ姉が誇らしげに、

「いいでしょう、これ。お姉さんのけん玉ぁ」

 見せびらかすと、キラキラ輝いていたみんなの目から、ポロポロと星が落ち、無関心の闇が浮かんだ。白けた空気にボクはひるむ。遠くから聞こえてくる、「わーすごい!」という歓声に引き寄せられるように、みんなはまたもといた場所へ戻っていった。

「あらら。にべもない」ヨシ姉は本気でざんねんがっている様子だ。「こんなにかわいいのに」とケンダマンと見つめ合う。

「もういいでしょ。返してよ」半ば抗議するように手を差しだす。

「お姉さん、こうみえてけん玉うまいんだけど」

 ヨシ姉は何でもスグにそう言う。海外で二年ほど暮らしていたらしいけど、そのときに大袈裟な物言いを覚えてきたにちがいない。

「いいから返してよ。ヨシ姉が口ばっかだってそこらの野良猫でも知ってるし」

「そんなことないでしょうよ」

「このあいだ、母ちゃんと煙草屋のばぁちゃんが話してたんだけど」

「うんうん」ヨシ姉はひざを抱えるようにし、しゃがみこむ。

「吉原の娘さんはキダテはいいのに、すぐ調子にのって失敗ばかりするから、男が寄りつかないのよねぇ。キダテはいいのに、って話してた」

「ガクっ」

「キダテはいいのに」とボクは繰り返す。

「見た目もいいでしょうよ、見た目も」

「ヨシ姉、鏡見たことないの?」

「減らず口を叩くのはこの口かぁ!」

「いふぁ、いふぁい!」

「あーあ」ヨシ姉はぼやいた。「あと五年して売れ残ってたらどうしよう」

「そんなに経ったらヨシ姉、ばばぁじゃん」

「そんなことなかろう」眉のあいだにしわを寄せ、ヨシ姉はこちらの頬を右手でつねってくる。「そんときはタマケン、責任持ってお姉さんのこと、もらいなさい」

「なんの責任だよ。バッカじゃねーの」

「いやだと言っても、無駄だぁ。掴んで離さないぞぉ」

「ぎゃあ! 押し売り反対!」

 両手で抱きかかえられ、あたまの天辺をあごでぐりぐりされる。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

「ひっひっひ。逃がさんぞぉ」

「コラ吉原! なにやってんの!」

「ぎゃ、館長!?」

 さすがのヨシ姉も、児童館の主にはあたまがあがらないようだ。ボクは命からがら魔女の呪縛から脱し、みんなの輪のなかへそそくさと逃げこむ。

   ☆〒

 けん玉には検定というものが存在する。認定されるには、けん玉協会の主催する大会に出場し、規定された技量を満たさなければならない。十級程度の技ならば、わざわざ大会に出るまでもなく、できるか、できないか、の二択で、習得レベルの見極めが可能だったりする。だから、こぞってけん玉にうつつを抜かしだした児童を目の当たりにした職員さんたちが、みんなを統率することを目的とし、審判を名乗りでて、お手製の認定カードなるものを配りだすのは時間の問題だったといえる。

 ケンちゃんがTV出演し、ボクたちのあいだでけん玉が流行してからはや一週間。初めてけん玉に触れた子がほとんどだったのに、大部分の子どもたちはすでに五級のレベルに達し、一部の熱狂的とも呼べるケンちゃん崇拝者たちは、一級レベルの技をやすやすと習得していた。見るからにド派手な、けん玉グルグル形の大技をこれ見よがしに練習している。ボクは彼らを部屋の片隅から眺めている。

「どったのタマケン。練習しないの?」

「なんだヨシ姉か」

「なんだとはなんだ。ケンダマンは一緒じゃないの?」

「いっしょだよ。でもここじゃ意味がない」

「どうして?」

「だって、偽物だし」

「ニセモノ? なにが?」

「けん玉協会のシールが貼ってないと、検定にも出ちゃいけないんだ」

「えぇ、なにそれ。誰が決めたの、そんなルール」

「知らない。でもアイツらがそう言ってたし」

 こちらの視線を辿って、ヨシ姉がケンちゃん崇拝者たちを見遣る。

「うわぁ、上手だねぇ、あのコたち」

「どこがだよ。あんなのちょっと練習すれば誰だってできるし」

「じゃあタマケンもできるの?」

「余裕だね」

「やってみせて」

「ヤダ」

「できないんでしょ?」

「できるし」

「本当はできないのにできるって言っちゃうコ、お姉さん、嫌いじゃないよ」

「嫌いじゃないのかよ!」

「うふふ。いいじゃないできなくたって」

 ほら見て、とヨシ姉はエプロンのポケットからけん玉を取りだした。「ほらこれ。タマケンと同じやつ。駄菓子屋さんで買っちゃった。ケンダマン二号」

「真似すんなって言ったじゃん!」

「言ったっけ、そんなこと?」

 言った憶えはなかったけど、やめてほしい気持ちに変わりはない。ほかのやつらに見られでもしたら、ヨシ姉とお揃いだとバカにされるに決まっている。

「おいしょ、おいしょ」

 ヨシ姉がけん玉を練習しだす。玉が皿に乗るどころか、持ち方すらなっていない。

「そうじゃないって、こうだよこう」

 手本を示すつもりはなかったけれど、じれったくなりケンダマンで実演してみせる。

「おー、じょうずぅ」

「だからこれくらい誰だってできるんだって」

「でもこれ、紐がじゃまだよね」

 ヨシ姉は玉を右手で持ち、幼児がミニカーで遊ぶように大皿と小皿にひょいひょいと乗せる。「紐があるから上手くいかないんだ」

「けん玉だけじゃなくて言い訳まで下手とか、どういうこと? ねえどういうことなの?」呆れて物が言えないとはこのことだ。「見てなよ、糸があるからこういう技もできるんだ」

 言ってボクは「ふりけん」という技をやってみせる。玉を振ってけん先に差すという技だ。玉を垂らした状態でけん先に差す基本技、「止めけん」よりも一段うえの技といえる。

「おー」

 拍手するヨシ姉はなんだかシンバルを叩くサルのおもちゃみたいだ。

「なんだとコラ。サルとはなんだ、サルとは」

 聞こえていたらしい。地獄耳だ。

「ねえ、ほかにはないの」

 ヨシ姉はもっと技を見せるようにせがんでくる。そんなことで気をよくするほどガキではなかったけれど、見ていてくれるひとがいると自然とやる気がでる。ボクはひととおりできる技を披露した。

「どうよ」

「すごい、すごい」

 胸を張っていると、

「そんなの全然すごくねぇよ」

 ケンちゃん崇拝者たちがやってくる。「おれらのほうがスゴイし、そもそもおまえのけん玉じゃねぇじゃん」

「え、コレけん玉じゃないの?」ヨシ姉は持っていたケンダマン二号を驚愕の眼差しで見つめる。

「なに真に受けてんだよ」ボクはヨシ姉のそういう素直な、言い方を換えるとバカ正直なところが、好きでもあり嫌いでもあった。こういうときは見ていて本当に苛々する。

「ようタマケン。まだけん玉買ってないのか」

「だって母ちゃんが買ってくれないから」

「お小遣いで買えるだろ」リーダー格のやつが言い、「そういやこいつんち貧乏だっけ」と余計な知識をひけらかすように補足した。「そういや前に遊びに行ったとき、おやつの代わりにパンの耳出されたっけ」

 ほかのメンバーも釣られたように笑う。

「それのどこがおかしいの? お姉さんにも教えて」

 ヨシ姉はなぜだか怒った顔をしており、ボクの目からはなぜだか涙が溢れていた。

「なにかってに泣いてんだよ」

 バッカじゃねーの、と彼らは口々に言い、逃げるように去っていった。

「なんであんなこと言うんだろ。わたし、バカじゃないのに」

 ヨシ姉の言った、あんなこと、のなかに、ボクの家が貧乏であるといった悪口が入っていないのはさいわいだった。ボクは哀しくて泣いているわけではない。やつらに言われたことが悔しいのだ。じぶんではどうしようもないことをバカにされたようだったし、ボク自身とくにじぶんの家を貧乏だと思ったことがなかったから。パンの耳だって食べればおいしい。

 彼らの言ったことに間違いはない。みんなの家はボクの家より裕福だろうし、遊びに行けば美味しいオヤツが出される。でもボクはなぜか、じぶんのたいせつなものを傷つけられた思いがした。

「あ、それ。切れちゃってる」

 ヨシ姉がボクの手を指差した。力を籠めて握っていたからか、ケンダマンの首と胴体を繋ぐ糸が切れていた。

「交換しよっか?」

 しぶしぶといった調子でヨシ姉がケンダマン二号を差しだしてくる。

「これでいい」ボクは断った。「糸がないほうがスゴイ技できそうだし」

「そうでしょ、そうでしょ」食いついてからヨシ姉は、「さっきはタマケン、否定したのに」と唇をすぼめた。

 ボクはじぶんの顔が熱いことに気づき戸惑う。なんだこれ!? 胸もなんだか苦しい。

「どったのタマケン?」

「な、なんでもねぇよ。あっちいけって」

「なんでそんなひどいこと言うの」

 ブー、と膨れながらヨシ姉は去っていった。なぜだかボクはヨシ姉の顔をまっすぐ見ることができなかった。

   ☆〒

 児童館に通わなくなって二週間が経過した。学校が終わるとボクは家にランドセルを置き、その足で学校の裏山へ向かう。むかしケンちゃんと造った秘密基地がある。そこでボクは日が暮れるまで糸のないケンダマンで遊んだ。

 ある日、ケンダマンで新しい技に挑戦していると、草木を掻き分けてケンちゃん崇拝者たちが顔を出した。

「タマケンじゃん。なにしてんの?」

 ボクは返事をしない。睨みつけるように彼らの視線を受け止める。

「てかここいいね。秘密基地みたい」彼らは周りを見渡し、転がっているマンガや玩具に興味を示した。

「みたいじゃなくて秘密基地だし。おい、かってに触るなって」

「いいじゃん減るもんじゃなし」

「ここはケンちゃんが造ったんだぞ」ボクは魔法の呪文を唱える。黄門さま一団が控えおろうと言っている場面を思いだす。

「え、ケンちゃんが?」みんながひるんだのが判った。

 ボクは続けて口にする。

「ボクは許可を得てるけど、みんなはちゃんと許可もらったの?」

 彼らは顔を見合わせ、「ここはつまらないからあっちで遊ぼうぜ」と芝居がかった物言いで吐き捨て、尻尾を巻いた犬のように去っていった。

「根性なし」

 ケンちゃんは忙しいから彼らが許可をもらうことは一生ないだろう。たとい彼らに捕まったところでケンちゃんが許可をだすとも思えない。

「あーあ。秘密基地なのに秘密じゃなくなっちゃった」

 ボクはかつてケンちゃんと交わした誓いを思いだし、クスクス笑った。なぜか胸には淋しさが湧いた。

 簡単な技でも連続して行うと、なんだかスゴイ技のようになる。秘密基地で特訓を重ねたボクが発見したことの一つだ。たとえば元々ある日本一周という技は、小皿、大皿、剣先、と三つの技を連続して行うことで、難易度の高い技として認められる。ならば、日本一周をやったあとで流れるようにほかの技を繰り出せば、それはまた新しい技として、しかも難易度の高い技として認められるのではないか。ボクはそう考えた。

 ただ、一つ問題がある。

 ケンダマンの頭と胴体は未だ切れたまま、繋がっていない。できる技は限られ、しかも可能な技は難易度の高い技ばかりなのだ。

 ヨシ姉の言ったように紐がないとたしかに自由ではあったが、不自由さから生まれる安定感というのもあるのだとボクは学んだ。

 二週間とちょっとぶりに児童館に顔をだしてみたけれど、ヨシ姉の姿はなく、またけん玉をして遊んでいるコの姿もなかった。ブームはとっくに過ぎ去っていたのだ。

「なんだよ。根性なしばっか」

 淋しいと思ったのは、じぶんの開発した技を自慢できる場がなくなったからだ。ボクはじぶんをそう分析し、小さい奴だ、と反省した。

 TV局の人たちがボクたちの地元へ取材しにやって来たのは、ケンダマンが相棒になった日からちょうど一年後のことだった。彼らはケンちゃんを取材しにくるついでにちょっとした催し物を開くという。地元の子どもたちのあいだでけん玉が流行っていると聞きつけ、大会を開くらしかった。

「え、けん玉ってまだ流行ってたの?」

 ヨシ姉がすっとんきょうな顔で配られたチラシを眺めている。ざんねんながらこの地域で未だけん玉をつづけている子どもはボクくらいなものだった。

 けれど開かれるのはただのけん玉大会ではなくTV局の主催する大会だ。そこで躍起にならない子どもたちもまたボクの住まう地域にはいなかった。ほこりの被ったけん玉を彼らはふたたび手に取った。

「え、おまえも出んの?」

 ケンちゃん崇拝者たちは今や中学生と一緒にゲームマスターを目指しているらしく、過去の因縁などなかったかのように馴れ馴れしく接してくる。彼らにとってけん玉などとっくのむかしに廃れた遺物なのだ。偶然TV局の手によって掘り起こされたので、むかしのアルバムを開いて懐かしむおばぁさんみたく、またその手にけん玉を握っているにすぎない。

「出るよ。ボクも出る。出て、優勝する」

「そっか。ま、がんばれよ。応援してっから」

 爽やかに言い残し、彼らは去っていった。

「なんかいいやつに見えるんだけど……」

 じぶんが卑しく思えてくる。ボクは彼らを僻んでいただけなのだろうか。なぜか気持ちが沈んだ。

 大会にはけん玉協会の会長さんや、けん玉をつくっている会社の社長さんなどが呼ばれ、審査員として参加する予定だ。賞金もでるとのことで、ことのほか大きなイベントだと知り、地元民は果然やる気をだしだ。ボクも例外ではなかった。なにせ、正規の大会ではない。どんなけん玉を使用しても構わない、と参加要項には記されている。

「もちろん出るんでしょ? 応援しにいくからね」

 ヨシ姉が手をヒラヒラ振りながら近づいてくる。母に頼まれた買い物の帰りに、ふらふら歩いているところを捕まった。

「児童館は?」

「きょうは休み。というか、そろそろ別なバイトしようかなって」

「え、バイトだったの」正職員ではなかった事実に衝撃を受ける。

「だって資格もってないもん」

 児童館に勤めるのに資格など必要なのだろうか。よく判らないが、ヨシ姉の言うことを真に受けるだけ無駄だ。どうせまたいつもみたく「チャランポラン機能」が発動したに決まっている。ボクはヨシ姉の予測できない行動を、かってにそう呼んでいる。

「もっとちゃんとしろってヨシ姉。だからモテないんだぞ」

「そういうのはモテるひとが言わなきゃ説得力ないんだぞ」

「いいんだよべつに。モテたいわけじゃないし」

「いっしょ、いっしょ」ヨシ姉は自分の鼻にゆびを突きつけ、なにがおかしいのか、肩を弾ませた。「だって、好きなひとに好きになってもらわないと意味ないもんね。けん玉といっしょだよ。本当に好きになってくれた人にこそ、ぜひつづけてもらいたいよね」

「なんの話?」

「わたしたちの話」

「わたしたちって、ヨシ姉とだれ?」

「さあ、だれだろう」

 けっしてわるいひとではないのだけれど、ヨシ姉はときどきものすごく面倒くさい。

 あまり帰りが遅くなると、どこで道草食ってたの、と母が繁殖期のカエルみたく口やかましくなってしまうから、ボクはまだ話し足りなそうなヨシ姉にバイバイと手を振り強引に別れた。

「大会、楽しむんだよー」

 こんがり焼けた空は、あすが晴れであると告げている。ボクとケンダマンの晴れ舞台にはうってつけの天気だ。自然と気持ちが高ぶり、足がかってにスキップをはじめている。

   ☆〒

 参加費があるとは聞いていなかった。賞金にばかり目がいき、チラシをろくすっぽ読んでいなかったことを反省する。有り金を叩いても足りないので、仕方なくヨシ姉を頼ることにした。

「いいよー。タマケンが出ないとせっかく観にきた意味、なくなっちゃうからねー」

 太っ腹だと思った。これがおとなの余裕というものか、とボクは初めてヨシ姉に、年上だという認識をもつ。

「失礼なやつだな。お金、貸さないよ」

「え、奢ってくれるんじゃなかったの」

「バカ言っちゃいけないよ。ちゃんと働いて返しなさい」

 ボクが働くまでずっとそばに付きまとうつもりなのだろうか。ヨシ姉だって結婚しているだろうに。そう思ってから、結婚かぁ、とヨシ姉の花嫁姿を想像しようとして予想外にてこずり、なんだかとてもやさしい気持ちになってしまう。「できたらいいね……ホントに」

「なにそのひとを憐れむような目は。ちょっとやめて、そんな顔でわたしを見ないで」

「ヨシ姉、がんばって。ボク、応援してるから」

「なに言ってんの、がんばるのはタマケンでしょ。ほら、いいから受付けしてきなさい」

 照れているのか、ヨシ姉は、ほらはやく、とボクの背を押し、急かすのだった。

 駅前の広場に即席でステージがつくられ、大会はそのうえで行われる。野次馬と化した通行人がステージを囲み、遠巻きに眺めている。まるで野外コンサートのような風景だ。こんな大勢のまえでけん玉をするなんて、なんだか焼きそばをつくるのにレストランのキッチンを貸し切ったようなチグハグさがある。

 参加者は思いのほか集まらなかった。観客の多さに臆病風を吹かせ、辞退する者が後を絶たなかった。TV局もそんなことは想定済みだったのか、猛者と思しき連中が参加者としてステージにのぼった。王者であるケンちゃんの姿もある。ボクだけが場違いに、頭でっかちなケンダマンを持ち、頭ひとつ小さい身体で目立っている。

「どうしよう、緊張してきた」ボクが何気なくつぶやくと、

「だいじょうぶだよ」ケンちゃんがまっすぐまえを向いたまま、「いつもどおりにやればいい」と囁いてくれる。なんだかまるでボクがつづけてきた秘密の特訓を見ていたかのような口ぶりに、なぜか風景が揺らいで見えた。

 司会者が大会の開催を宣言し、TV局のカメラが回りはじめる。

 いよいよだ。ボクはケンダマンと見つめ合う。

 競技の内容は至って単純で、一対一で技をだし合い、制限時間内でより難易度の高い技を成功させたほうが勝ち、というルールだ。審査員たちが技の難易度を採点する。

「勝ったのはぁ、どっち!」

 司会者の掛け声で、勝ちだと思うほうに挙手がされ、手の上がった数の多かったほうが勝ちとなる。トーナメント制なので、勝ちつづければ優勝できる。負ければ即退場なので出し惜しみする余裕はない。しょっぱなから全力投球でボクは挑んだ。もちろん、糸の切れたケンダマンを使って。

 初戦は大学生が相手で、円月殺法というウルトラC級の技を三回連続で決められた。ボクは紐がないので頭や胴体を振り回す系の技を返すことができない。代わりに、独自に編み出した「スペクタル水餃子」という技をかまし、会場を沸かせた。勝敗は四対一でボクの勝ちだった。二回戦、三回戦、準決勝、とボクは順調に勝ち進んだけれど、審査員の一人がどうしてもボクに手を上げてくれなかった。けん玉協会の会長だった。

 決勝戦は、案の定というか相手はケンちゃんだった。ひかくてき無難な相手に当たったボクとはちがってケンちゃんは名だたる強豪を撃破していた。TV局の用意した海外のチャンプもあっさり負けたほどの腕前だ。

 いよいよ決勝戦だ。ボクたちは対峙する。

「おてやわらかにお願いします」

「ヤダよ。本気でいくよ」

 ケンちゃんは笑って、拳を突きだした。ふと、むかし交わした誓いを思いだす。

 僕たちは戦友だ。

 今と同じように拳を突き合わせ、ボクたちは誓い合った。

 どんなことがあっても、どこにいようと、共に現在(いま)を闘う友として心を離さずにいることを。

 最初に技を繰り出したのはケンちゃんだった。大技を決め、さらにウルトラC級以上の技を連続する。これには会場もどよめいた。ステージには今、自在にヌンチャクを扱う忍者がいた。対戦中であることも忘れ、ボクは見とれる。

 けん玉はケンちゃんの手もとを離れ、宙を舞う。花火のような円を描き、回転しながらケンちゃんの手へと吸い込まれていく。

 小気味のよい音が会場に響き渡る。

 いつの間にか玉がけん先に収まっていた。いっときの静寂のあと、引いた波が押し寄せるように歓声が湧く。ボクも手放しで拍手をしている。日本一の名は伊達ではなかった。ボクは帽子をかぶっていないくせに、脱ぐ仕草をしてしまう。それくらい素晴らしい演技だった。

 歓声が収まっていくにつれ、乱れた動悸が治まっていく。

 つぎはボクの番だ。けれど、もうこれで終わりにしましょう、という気になっていた。終わりよければすべてよし。あんなすばらしい円舞のあとに、ボクのような新参者がでしゃばるなんて、それこそ高級レストランに焼きそばが並ぶようなものだ。焼きそばは美味しいけれど夏祭りの出店がお似合いだ。

 こっそり逃げればバレないかな。姑息な考えを抱き、ケンダマンをポケットに押し込めたとき、ふとケンちゃんがこちらを見た。ボク以外にはけっして向けないだろう、満足気な表情で、「どうだ!」と訴えている。おまえに真似できるか、越えられるものなら越えてみろ。そういう顔をしていた。

 武者震いが止まらない。

 司会者がボクの名を呼び、会場を盛り上げる。逃げるなら今しかない。けれど、ボクはポケットに仕舞ったケンダマンをふたたび取りだし、頭のなかで最高の「繋ぎ」を思い描き、このステージのうえにも描いてやろうと思った。ボクを応援する声が、歓声のなかからいくつも聞こえた。

   ☆〒

 ステージが解体されていく様を眺める。もらった楯と賞金を手に携え、路肩に座ってぼうっとする。

 大会の終わりを司会者が告げたのと同時にケンちゃんは、いつものように塾へと向かった。ケンちゃんにとってけん玉がゆいいつ息抜きできる時間なのかもしれない。

 そもそもケンちゃんがいつけん玉をはじめたのかを実のところボクは知らないままでいる。TVで見るまで知らなかったくらいだ。ケンちゃんが私立の中学校へ入学するまではずっといっしょに遊んでいたので、きっとそのあとではじめたのだろう。たった一年で日本一になってしまうなんてさすがケンちゃんだと思ういっぽうで、あの上達ぶりは異常だな、と思うボクでもある。

 夕焼けに照らされ、手に持つ楯が眩しいくらいに輝いている。そこに浮かぶ文字は、「準優勝」の三文字だ。一文字少ないほうの楯はケンちゃんに持っていかれた。決勝は、審査委員ぜんいんでの挙手ではなく、代表者による判定だった。ボクとケンちゃんのあいだに代表の審査員が立ち、ボクたちの手を握る。音楽が途切れたと同時に、勝者の手を、すなわちケンちゃんの手を高々と突き上げたのだった。

「あれはないよね、あれは」

 気づくと隣にヨシ姉が座っていた。ほい、とコーラを手渡してくる。

「いくらけん玉協会の会長だからって、ひいきしたらダメじゃんね」

「慰めはいらないよ」

「慰めてなんかないよ。わたしは本当にタマケンが勝ったと思ったもん。それこそみんなだってそうだったよ。聞いたでしょ、あのブーイング」

「すごい歓声だった」

 ケンちゃんの勝利を称える歓声のなかに、たしかに決せられた勝敗に不服そうな声もまじっていた。だけど大部分のひとは妥当な審査だったと見做しているふうにボクの目には映った。

「そんなことないって。ぜったいタマケンのほうがすごかった。なんたってオリジナリティがあったもん」

「ありがとう。でも」ボクは足元に視線を落とす。「ケンちゃんの悪口言われてるみたいでなんかヤダ」

「あ、ごめん。そういうつもりはなかったんだけど」

「それに、ヨシ姉に何が解るわけ? ろくに『もしカメ』もできないくせに」

 基本技もできない素人に、ボクとケンちゃんの勝負をとやかく言われたくはない。負けた悔しさもあってか、なぜか目頭が熱くなり、かってに涙が溢れだす。

「悔しかったよね。うんうん、本気のコはそうでなくっちゃ」

「だから」ボクは怒鳴っている。「ヨシ姉になにがわかるんだよ!」

「わかるよー。お姉さんには痛いほどよく解る。たぶんけん玉協会の会長さんは『けん玉』っていう伝統を見てたんだろうね。だから、タマケンみたいに新しい才能を評価できなかったんだ。だってそういう目を持ってないんだから」

「なに言ってんの……」止まらないしゃっくりを呑みこみながらボクはヨシ姉を見上げる。

 ヨシ姉はケンダマン二号を手にしていた。

「見てて」

 言ってヨシ姉はケンダマン二号の頭と胴を繋いでいる糸を切った。そして操る。

 開いた口が塞がらない。

 ヨシ姉は、決勝戦で繰りだしたボクの渾身の一作とも呼べる技を軽々こなしている。

「なんで? だってヨシ姉、ぜんぜん下手だったじゃん!」

 児童館でケンダマン二号を手にアタフタしていた姿を思いだす。

「利き手じゃなかったからね」ヨシ姉はしれっと応じた。それからボクが見たこともない技を見せつけるように決め、

「タマケン、一緒にやろう」と言った。「わたし、留学してたとき、向こうでチームをつくったんだ」

「チーム?」

「エクストリームけん玉。ストリートでやる、言ったらけん玉の進化版みたいなの。なんでもあり」

 いちばん自由で、

 いちばん楽しんでるやつが王様なんだよ。

 その言葉にボクは胸がトキメクのを感じた。

 沈みかけの夕陽がヨシ姉を照らし、一回りも二回りも大きく見せている。ヨシ姉は、機械仕掛けのからくり人形みたいに的確に技をこなしていく。ふと、ケンちゃんの姿が重なって見えた。

「やる。ヨシ姉、ボクの師匠になってよ」

「ノンノン」ヨシ姉は気取ったふうに指を振る。「教えることはなにもないよ。わたしたち、もう仲間なんだから。いっしょに成長しよ」

 ヨシ姉は最後に、西部劇のガンマンみたくケンダマン二号を回転させ、鳥が巣に帰るような滑らかさでポケットに仕舞った。認めたくはないけれど、ヨシ姉がカッコよく映って仕方がなかった。夕陽はとっくに沈んでいるのに顔は火照ったまま、ボクは胸のトキメキを抑えることができずにいる。



END




【ルシフェルの冒険】


 世の中には落第したほうがよいこともある。合格と食中毒は選ばれた者にしかアタらないという点で同一だといえるし、宝くじとロシアンルーレットも似たようなものだと呼べる。

 アタシの属している組織は、品行方正を絵に描いたような集団であり、生真面目が講じて、堕落を憎み、「怠け者には鉄槌を!」の大合唱が年柄年中聞こえてくるような連中だ。

 堕落を愛し、怠けることをモットーとするアタシが彼らとの反りを合わせられないのも当然といえる。

「ヤダ、ルル。またサボってるの?」

「やあ、ミカさん。いっしょにどう? 日向ぼっこはキモチがいいよ」

「怒られたって知らないよ。いくら主さまがお優しいからって、規範を乱せば罰せられるんだから」

「許してくださるよ。なんたって許すことが趣味のようなお方だもん」

「まったくもう。いつか追放されたって知らないからね」

「そんときはそんときじゃん。下界でのんびり待つとするよ。主さまが許してくださる日をね」

「ルルがよき働き者となりますよーに。アーメン」

 ミカは主さまに祈り、それからパタパタと忙しく去っていった。

「あーあ。なんかラーメン食べたくなってきちゃった。ミカがあんなこと言うからだ」撫でるとお腹がグーと鳴る。「いっちょ下界に下りて食べてくっかな」

 背中から生える羽を、頭のリングで縛り、服の下に仕舞う。これでアタシたちは下界に下りてもただのヒトとして見做される。

「えっとぉ、ラーメンってどこの食べ物だっけ?」

 庭に湧いた【望遠の泉】を覗き込み、アタシは目を皿にして大陸の食文化を探索する。

 

 貧しい国だと思っていたけど、ことのほか立派な宮殿が建っている。庶民はガリガリにやせ細っている反面、宮殿内の者たちは溌剌としており、肌の艶もいい。

「ちょいちょい、お兄さん。ラーメン食べたいんだけど、どこ行けばいいかな? 道、分かる?」

「ん? なんだおまえ。どっから入ってきた」

 呼び止めると、甲冑に身を包んだ兵隊らしき男が睨みをきかし、近づいてくる。

「まあまあ、落ち着いて」宥めがてらアタシは言う。「ここでイッチャン偉い人って誰さん? ちょっくらそのひとンところまで案内してくんないかな」

 偉いひとならば気前よくラーメンの一杯や二杯、三倍や四倍、奢ってくれるに違いないと考えた。

「バカが。帝は養生なさっている最中であるぞ。城の中におるということはおまえも、どこぞの豪族の娘なのだろう。帝さまの復帰を願って、たんと貢物を持ってこんか」

 それともなにか、と男は甲冑をカチャカチャ云わせ顔を近づけてくる。「身体の火照りを持て余し、ソレガシに相手を求めておるのかよ?」

「その心意気やよし!」アタシは親指を突き立て、男を称える。「でもそういうのは相手を選ばないと。でないとこうなっちゃうよ?」

 背中の羽を縛っているリングを緩め、アタシは、男の手をとる。いっしゅんの閃光がアタシたちを貫き、男はその場にヘナヘナとしゃがみこむ。男の股からは液体が広がりつつある。ションベンでも血液でもない、それは白き聖なる体液だ。

「その程度の快感でヘコたれるようじゃ、アタシの相手は務まらないよ」

 再起不能の男をその場に残し、アタシは宮殿の奥へと足を踏み入れる。

 宮殿内には至るところに派手な装飾が施されている。白無垢一色に統一された天界とは真逆といっていい。権威を誇示しようとする欲動がこれでもかと散りばめられて見え、アタシは気分を良くする。人間はこうでなくっちゃいけない。

 幾人かの人間に道を尋ねたが、どいつもこいつもアタシを見た途端、発情期のワンコみたいに腰をフリフリ言い寄ってくる。その都度アタシは彼らを骨抜きにした。たかだか一回の昇天で再起不能になってしまうなんてトンダ紳士どもだ。

「たーのもー」

 アタシは叫んだ。「ラーメン食わしてくーさい」

 だだっ広い部屋にはぽつねんとベッドが置かれており、屋根つきのベッドにはシワクチャのおじぃちゃんが眠っている。

「誰ですかアナタは」

 付き人らしき女がやってくる。高圧的な態度にアタシは気分を害する。人生楽しくがモットーなのだ。

「誰っていうか、名乗るほどの者ではないんだけど」

「誰の許可を得て入ったの。守衛はいったい何をやってるの」

 女は扉のそとを見遣る。そこでは守衛たちがへたり込んでおり彼女は、ただならぬ様子を感じ取ったのか、扉を閉め、こちらに向き直った。

「あなた、何者?」

「アタシはアタシだよ。何者でもないし」

「帝をどうする気?」

「どうする気もないよ。彼、病気なの?」

 べつに心配したわけではないけれど、女はそこで瞳を震わせた。

「もう長くありません」とベッドのうえの老人を振り返る。「毎日神に祈っているのですが、日に日に病状は悪化していく一方で」

 そりゃそうだ、と思う。神の仕事は見守ることで、人々を守ることではない。

「あ、そうだ」ふと思いだす。「アタシ、ここへはラーメンを食べに来たんだけどね」と本来の目的を告げる。「どこいったらラーメン食べれるかな? 知ってたら教えてほしいんだけど」

「あなた、帝が苦しんでいるというのになんてことを! 意地汚いとは思わないの」

「いやいや。そっちのおじぃさんが苦しんでいることとアタシがお腹減っていること、どう関係あるの? それともなに? そっちのおじぃさんが苦しんでたらアタシまで苦しまなきゃいけないの?」

「帝ですよ。ここで養生なさっているのはただの民衆ではない、帝なのですよ」

「だからなに? 帝だって人間でしょうよ。だから死にそうになってるんでしょ?」

「あなたは死にそうになっている人間のまえでラーメンをズルズル音を立てて啜ろうというのですか!」

「いや、音は立てないけども」

 言ってから、反論すべき点はそこではないことに気づき、咳払いをする。「アタシだってひとを思いやる気持ちは持ち合わせているつもりだよ。だからそこのおじぃさんが苦しんでいるまえで、わざわざ見せびらかしてラーメンを食べるつもりなんてない。でもさ、そこのおじぃさんは今、意識がないわけでしょ? だったら遠慮する必要なんてないじゃん」

「我らは帝のことを案じ、日々、胸を締めつけられるような思いで暮らしているのですよ。そんな我らを差し置き、アナタはラーメンをズルズル音を立てて啜るというのですね」

「だから音は立てないし」

 そもそも、とアタシは続ける。「そちらさんは、帝のことを特別に思っているようだけど、じゃあ、そとでガリガリにやせ細ってる連中はどうなの? 彼らだって苦しんでいるけど、きみたちは帝のためだと言って平然と贅沢な暮らしをしてるじゃない。他人であるアタシに思いやりの心を説きたいならまず、そちらが筋をとおすべきじゃないの」

「ええい、生意気なガキめ。神の裁きを受け、業火に落ちろ」

 女はふかしぎな呪文を唱えはじめ、拝みだした。アタシは部屋を見渡し、ふと、目を留める。壁には画が掘られている。地面に横たわり、頬杖をついて目を細めている人物の画だ。その恰好には見覚えがあった。

「ああ、なんだ」

 既視感の正体にアタシは気づき、彼らのいうところの神が、アタシたちの主さまではないことを悟った。いかにも働きたくないと全身で訴えている壁画の男は、天界の品行方正具合にうんざりしたアタシが以前地上へ遊びに下りたときに、主さまの目を欺くために装った仮初の姿だ。たしかあれはこの国ではなかった気がしたけど、アタシの教えが脈々と受け継がれていると知り、気分が良くなる。

 女は狂ったように祈祷をつづけている。そうしていれば一事が万事うまくいくと信じて疑わないまっすぐな目をしている。あいにくと、彼女の見る方向に神はいない。

「申しわけないね」

 アタシはつぶやく。「きみたちの神は、きみたちを救う気がない」

 女をそのままにし、アタシは宮殿をあとにする。まだあるかなぁ、と以前この国へ来たときに足繁く通った屋台を探すことにした。

    

 取りこし苦労のくたびれもうけとはまさにこのことだ。この国を訪れたのは何世紀も前のことで、アタシの知る屋台などあるわけがない。貧しい町からは屋台そのものが姿を消している。飢えに苦しむ者たちのお腹の音とうめき声が風に乗り、壮大な音楽を奏でている。

「しくったなぁ。時代が違うとこうも世界が変わるのか」

 上から眺めているだけでは解らない事実というものもあるようだ。アタシは一つ賢くなる。

「しょうがない、場所を変えよう。この国はダメだ」

 アタシはリングで縛っていた羽を開放し、あてもなく飛び立った。

 つぎに舞い降りた国は、少々、アタシの姿が目立ちそうな国だった。どいつもこいつも禿頭で、後頭部から生やした長髪を結い上げている。元からハゲているのではなくわざと剃っているようだ。男ばかりが表通りを居丈高に歩いている。

「おい、女」

 背後から声をかけられ、びっくりする。

「なに?」

「どけ。邪魔だ」

 男が仁王立ちしている。腰には刃物らしき棒をひっさげている。今にも抜かれそうな剣幕で脅され、アタシは反射的にムっとする。

「なんだよ。あんたがドケばいいだろ」

「なんだと。武士を愚弄するか貴様」

「武士だかムシだか知らないけどね、ひとに物を頼むときはちゃんと下手に出て、お願いしますって頭をさげるんだよ。母ちゃんに習わなかったの」

「ほう、おぬし。なかなか肝が据わっておるな」

 男はそこでなぜかほころびた。刃物に添えていた手を離し、

「見かけぬ装いだが、どこから参った。よく見れば顔つきも我らと異なるが、よもや異国の民ではあるまいな」

 疑いの眼差しを注ぎつつも、興味ありげに見下ろしてくる。

「異国っちゃ異国だけど、え、なに? 迫害されちゃう系?」

「なになに。そう警戒するな。わしにその気はない」

 わしに、の部分が強調されて聞こえたけれど、気づかなかったことにする。アタシはちょうどいいと思い、男に訊いた。

「あのさ、アタシお腹すいてて、で、なんか美味しいものが食べたいんだけど」

「たかる気か娘」

「いや、そうじゃないんだけど」本当はその通りなのだけれど。アタシは周りを見渡し、店の看板に書かれている文字をとっさに読みあげる。「ほら、【情けは人のためならず】って言うでしょ?」

「ほう。言いよるの」

 意味は解らないけれど、と内心で付け加える。

「気に入った。わしについてこい」

「なんで?」

「腹いっぱい食わせてやろう。代わりに、ちとわしに付き合え」

「いいけど、どんな?」服を脱がされたりするのは勘弁だ。下界の者に羽を見られたら懲罰の対象になってしまう。

「まずは腹ごしらえといこう。いい店を知っている。ついて参れ」

 言って男は袖に腕をつっこみ、歩きだした。

「なかなかイイ男だ。うむ。気に入った」アタシは彼の口真似をしつつ、うしろについて歩く。

    

 男は侍というらしく、しかしそれは名前ではないという。よく解らない。そういう顔を浮かべていたからか、「侍とは生き様なり」と男は説いた。「侍として生まれ、侍として死ぬ。生きることはすなわち死ぬことなり」

 わけが解らない。生きることと死ぬことは別物だろうと思うが、指摘するとうるさそうなので黙っておく。

 店の看板には鍋白屋と書かれていた。どうやら鍋料理の振る舞われる食事処のようだ。男はこの国の文化のことを話して聞かせてくれる。なかなか規律の厳しい国のようだが、歪んだ規律であるので、中途半端な反感しか湧かない。

 好きなだけ食えと言われたので、好きなだけ注文し、ズルズルと音を立て腹に掻きこんでいく。

「関取の娘か? よう食いよる」

「ふがふがふが?」

「飲み下してからしゃべれ。なんと言うておるのかさっぱりだ」

 水で流し込み、アタシは繰り返す。

「さっき言ってたけど、頼みごとって何? 聞ける範囲でなら聞いてあげるよ」

 とっくりを口に運んでいた男はそこで表情を消した。冷たい目に思わず、あ、こいつ人を殺したことがあるな、と直感する。アタシたちの主さまが勇んで鉄槌を下すような人間だ。

「わしは今、役所の人間に雇われておってな。とある下手人を追っておる」

「下手人? 犯人ってこと?」

「辻斬りが頻発しておってな。狙われるのは決まって女子どもばかりだ。それも斬り殺される前に、いずれの仏もひどく弄ばれた跡がある」

「はあはあ。それでその犯人を追っていると。で? アタシに何をしろと?」

「うむ。わしらにはどうにも下手人の考えが読めぬのだ。町には遊郭もあれば女郎部屋もある。ちと町を外れれば夜鷹も立っておる。なにゆえわざわざカタキの女子に手を出すのやら。悩んでおったところにおぬしが現れた。異国の者なれば、考えも違っておろう。べつの視点で考えたく、おぬしに意見を仰ぎたい」

「ほうほう」

 猫の手も借りたい、というやつだろう。アタシはお茶を口に含み、男を観察する。気づくと店内に客の姿はない。アタシたちだけが鍋を挟み向かい合っている。

「どう思われるか。なにゆえ下手人は女子どもを襲い、あまつさえ斬り殺すのか」

「え、簡単じゃん。したいからした。ただ、それだけでしょ」

「答えになっておらぬだろうに」

「そう? アタシたちだってお腹が空けばご飯を食べるし、暇になったら遊ぶでしょ? 同じことだと思うけど。犯人にとってはお遊びの延長なんだよ」

「人殺しと遊びを一緒にするなど、にわかには信じられん」

「いやいや」アタシは当惑する。間違いなくこの男は人を殺したことのある人間だ。それなのに人を殺すことが信じられないという。いや、人を殺すための動機が娯楽だというその事実が受け入れられないのだろうか。

「じゃあ逆に訊くけど、納得できる動機があれば人を殺していいわけ?」

 そういう場合もあるだろう、と男は言った。

「やってることは同じなのに?」

「過程が違っておろう。行き着く場所は海だとて、川にもいろいろ種類がある。流れの険しい川もあれば、ゆるやかな川もある。長く大きな川もあれば、短く細い川もある。それらをすべて同じと見做せと言うほうがおかしかろう」

「なるほど」男の主張にも一理あるな、と思う。「まあだとしても、犯人は楽しいからやってるんだよ。女子どもであれば誰彼かまわず襲ってるわけでしょ? お腹が空いてたらどんな団子だって食べちゃうのと一緒だよ。いや、お腹が空いてなくたって、目のまえに団子があったら食べちゃうかもしんないけど」

「つまり下手人はふつうの神経の持ち主ではないと?」

「いやいや、ふつうでしょ。ただちょっと、ほかの人とは方向性のちがう娯楽を持っているってだけで。興味の対象が人と違っているっていうただそれだけのことでしょ?」

 男は納得しかねるのに余念がない様子だ。そこには犯人への憎悪のようなものが感じられる。

「そんなに憎いの?」

「ああ。この手で絞め殺してやりたい」

「家族でも殺された?」

「身内に犠牲者はおらん。しかし、下劣な人間が何食わぬ顔で表を歩き、こうしている間にも新たな犠牲者が出るかと思うとハラワタが煮えくり返ってくる」

「他人のことなのに?」

「おぬしには人を思いやる心がないのか」

「いやあるけどさ」ここでアタシは、でも、と話を掘り下げる。飯をおごってもらった礼も兼ねて。「でも気づいてる? あなたのその憎しみは嫉妬のようなものなんだよ」

「なにを抜かすか」と失笑される。「わしと下手人を同じと申すか」

「まったく同じ、と言うつもりはないよ。現にあなたは女子どもを襲ったりはしない。けど、そういう欲動は持ち合わせている。あなたたちが強姦や破廉恥な娯楽を蛇蝎視するのは、自分たちにもそういった欲動があるからだ。嫉妬だよ。したくてもできないことを平然と他人にやられ、宝物を横取りされた気分になっているだけ。きみたちの嫌悪なんてその程度のさもしいものなんだよ。自分のものでもないのに自分のものを傷つけられたと勘違いして、汚された、と腹を立てている。子どもの癇癪となんら変わらない、わがままにすぎないんだ」

「その辺にしておけよ娘。あまり口が過ぎると、顔から口が削げ落ちるぞ」

「ホントに気づいてないの? あなたたちが自分とは無関係の事件にそこまでの憤りを抱くのは、犯人の気持ちが解るからだ。犯行時にどういった気持ちで女子どもを犯していたのか、その気持ちが痛いほどよく理解できてしまうからこそ、そこまでの憎悪を持ってしまう。いわば同族嫌悪だよ。ためにしに純粋無垢な子どもや少女に聞いてみな。怖いことだと思います、だとか、被害者がかわいそうだとか、そういった同情や痛ましさを訴えるけど、そこにはけっして犯人を憎むような言葉はでてこない。彼らには犯人の気持ちが解らないからね。だからうらやましく思わないし、恨めしくも思わない」

「たわ言だ。ならばおぬしはどうしろと? わしらはみな下手人のような非道な人間であり、下手人と同じように女子どもを犯せとでも? 笑わせるなよ。貞操のたいせつさを説いたのはむしろおぬしら異国の民ではないか。淫らに春を売るな、契りを結ぶまでは純潔を守れと、おぬしの国の神は宣巻かれたのではないのか」

 どうやらこの国にはすでに主さまの教えが広がっているようだ。男は信仰していない様子だが、死者を仏と呼んでいるところを鑑みると、アタシのもう一つの顔【不貞寝の神】を信仰しているのだと判る。

「そうだね、純潔は守るべきかもしんない」アタシは一つ頷き続ける。「というよりも、【守るべきだとする風潮】を保持すべきだ、と言い換えるべきかな? いいかな。あなたたちはなにか勘違いをしているようだけれど、きみたちの神が禁欲を説いたのは」

 すなわちアタシがかつて彼らの祖先に説いたのは、

「禁止を強いることで欲動が満ちたときの快感が増すからだ。空腹は最大の調味料なりって言うでしょ? それとおんなじ。好きなときに好きなだけ飲める水にありがたみを感じる人間は少ない。無理やり股を開かせたところで、『ちょっとやめてよ』と笑いながらさして嫌がる風でもなくよがりはじめる女を犯して何が楽しいわけ? 間違ってもウンコなんて口にできないような少女に『おにんにん気持ちいい』と言わせてはじめて味わえる快楽というものがあるんだよ。それは男であるあなたならよく解るでしょ? 嗜虐性、とでも言え換えれば想像しやすいかな? 子猫をかわいがりながら急に握りつぶしたい衝動に駆られたりしない? 赤子の手足を思いきりつねりたくならない? 人間には本来、そういった欲動が備わっているの。それをただ発散することに意味はない。がまんして、がまんして、それでもがまんできなくなったときにこっそり実行する。そこに究極の快楽は潜んでいるの。アタシの言っている意味、解るでしょ?」

「解らん。解りたくもない」

「同意したくないだけのくせに。理解するだけなら誰にだってできるのに」

 天界の者たちもそうだが、理解することと賛同することを同一に考える向きが真面目な彼らにはあるようだ。素直になれない者が多すぎる。

「ならこういう話はどうだろう」アタシはまた別の話を披歴する。「あるとき、とても心根の優しい種族がおりました。彼らは他人のことを重んじる心に優れ、争いのない平和な社会を築いておりました。彼らは他人を傷つけることをなによりも疎んじています。しかし数百年後、彼らは滅んでしまいました。さて、なぜでしょう?」

「他国の民に侵略されたからだろう」

「ふつうはそう考えるよね。でもちがう。なぜなら彼らの住む世界には、彼らしかいなかったから」

「なら滅ぶ理由がない」

「そう。そして同時に、繁栄する理由もなかった。彼らは優しすぎたんだ。種を繁栄させるには、種を保存していかなきゃならない、子をなさなければならない。でも彼らは仲間を誰一人傷つけたくなかった。そして純潔を重んじてもいた。誰かと誰かが結ばれれば、誰かを愛したほかの誰かが傷ついてしまう、失恋してしまう。彼らはそのことにひどく胸を痛めた。自分のしあわせを掴むことで、自分ではないほかの誰かが傷つくことを恐れたんだ。そのけっか、種を保存させることができずに、ゆるやかに滅んでいった」

「それがなんだ。何が言いたい」

「本当にあなたたちが他人を思いやり、純潔を尊ぶというのなら、この結末を受け入れるっきゃないってこと。繁栄することが必ずしも正しいわけじゃないし、アタシは彼らのゆるやかな滅びは、一つの幸福な最期なのだとすら思う。でも、それを現実に許容できるのは、まじりっけなしに純粋で優しく、愚かくも尊い者だけ。すくなくとも今のあなたたちにできることじゃない」

「だから何が言いたい」男の声は獣の呻り声のようで、ずしりと身体に響く。

「認めなよ。犯人が特別なんじゃない。自分たちだって彼らと同じなのだと。そのうえで、声をあげていくしかない、実現していくしかないんだよ。あなたたちの理想とする、正しい世界ってやつをね」

「おぬし……ひとではないな……」男が刀に手を添える。

 話しているうちに思いのほか興奮していたらしく、背中の羽が隆起していた。

「美味かったよ、ごちそうさん」立ち上がり、天井を見上げる。これくらいの薄さならば突き破ることなく通り抜けられそうだ。「犯人はたぶん、どこにでもいるような冴えない男だよ」と告げる。「それこそきみたち侍が道を通ったら自分から道を空けるような、子どもが迷子になっていたらいっしょに親を探してやるような、どこにでもいる、ただの冴えない男」

 アタシは羽を縛っているリングを解き、飛び立つ準備をする。

「勘違いしてほしくないんだけど」ふと思い立ち、アタシは言った。「神はいるよ。でも、あなたたちに興味はない。主さまにあるのは、規律を重んじるその精神だけだから」

「わしらはみな、悪に染まっているとおぬしは申すか」男は座ったままこちらを見上げる。

「いいや。アタシはそれを悪とは呼ばないよ。善悪なんてのは、現象についた名前みたいなものだもん。呼び方なんていくらでもあるし。風は、風と呼ばれなくたってすぐそこにある。山や川みたいにね」

 アタシはもういちど礼を口にし、天界へと昇っていく。男がこちらへ向け、何事かを叫んでいる。白くボヤけていく景色のなか、アタシは彼の言葉を耳にする。

「わしは世界を変える男だ! 憶えておけ、異国の者よ! わしの名は、坂本竜馬だ!」

 男の高笑いがなぜだか心地よく聞こえ、そんなじぶんにうんざりする。

 憶えられるわけないでしょうが。

 投げやりに悪態を吐き、アタシは天界の門をくぐった。

    

「ちょっとルル、あんたどこに行ってたの。主さまが呼んでらっしゃるわよ」

 あわただしい様子でミカが駆け寄ってくる。「また何かしたんでしょ?」

「なにもしてないよ」

「わ、臭い。ルルってばまた下界の食べ物たべたでしょ。なんか臭うよ」

「いいじゃん、いいじゃん」アタシは食後のお昼寝をするため、箱庭へと向かう。うしろからミカがついてくる。「ちょっと、聞いてる? 主さまがお呼びなんだってば」

「はいはい。どっこいしょっと」

 シロツメ草のじゅうたんに寝そべり、空を眺める。綿アメみたいな雲がポヨポヨ浮かんでいる。へんなの、と思う。天界の地面は雲でできている。空のうえにさらに青空が広がっているのだ。無限に広がりつづける青空を思い、アタシはぞっとした。悪夢を振り払うように目を閉じる。風を感じる。

「もう。どうなったって知らないからね」ミカがまだ喚いている。「わたしはちゃんと知らせたんだから。行かないルルがわるいんだよ」

「教えてくれてありがとう。主さまんところにはあとで行くよ」

「きっとだよ」

 ミカは釘をさすように言い、わざとらしく羽のはばたく音を響かせて去っていった。

 瞼の裏には幾何学的な紋様が浮かんでは消えていく。アタシは下界で出会った男との会話を思いだしながら、一つの考えを抱きはじめている。

 主さまは清らかな世界をお望みになられている。いっさいの淀みのない、混沌を許さないただ一つの世界だ。それは宇宙がぶくぶくと膨らみはじめる前の状態、幾重にも枝分かれしたこの世界が揺るぎない一つの「玉」に戻るということであり、主さまはそのきっかけを得るために下界の者たちを見守られている。

 けど。

 アタシは考える。

 いくつもの色がまじり合うことなく、ときにはまじり合いつつ、混沌と渦を巻いているからこそ世界はこうもおもしろいのではないのかと。それをただ一つの色に染めあげてしまうなど、もったいないとは思わないだろうか。

 思わないのだろう。

 染まってしまえばそんなのは、白も黒も同じなのに。まばゆい光も、漆黒の闇も、ただそれだけしか存在しないならば、そこにはなにも存在しないのと同じではないか。

 では主さまは、この世からすべてを失くすことをお望みになられているのだろうか。

 そんなことはない。

 そう思いたいのに、アタシにはできなかった。ほかのコたちはミカのように、主さまの教えを、その高尚な思想をいたく気に入っている様子だ。ここにある規律はもはや、あのコたちのアイデンティティと化している。どうしようもなく正しさに染まってしまっている。そこには一点の曇りもない。あってはならない。そんなあのコたちが主さまの教えに疑いを持つことはないだろう。

「やあ。ここにいたのですね」

 突然降ってきた声に心臓が跳ねる。

「主さま!?」

「お帰り、と言うべきでしょうか。また下界へ降りていましたね」

「はい、あ、いえ、その」

「いいんですよ。そうすることで学べることもおありでしょう。ですが次からは出かける前に一言『行ってきます』と声をかけてくださいね。無事帰ってこられるようにとお祈りすることができますから」

「はい、そうします」

「よい心掛けです」主さまは音もなく地面に足をつける。

 羽を使わず飛べるのは主さまのほかにいない。アタシは倒していた上半身を起こし、襟を正す。

「そう畏まらなくてもよいですよ」主さまはふわりとアタシの頭に触れてくださる。「一つだけ確認させてほしいのです。ルシフェル、あなたは下界の民と接触しましたね」

「……はい」

「そのとき真の姿を彼らに見られましたか」

 アタシはすこし考え、ごまかし切れないと察し、正直に下界で体験したことを打ち明けた。

「ということは」主さまは悩ましげに、「その侍という方に人ならざる者であると見抜かれてしまったのですね」

 さも初めて知りましたというようにおっしゃられる主さまは純白に輝き、それこそ白々しく映った。すべてを見透かしておきながら知らないふりをしているのでは、と穿った見方をしてしまう。

 閉口しているとその沈黙を主さまは肯定と見做したのか、「困ったものです」と瞳に憐憫の情とも呼ぶべき陰をお浮かべになられた。

「下界の者に姿を見られてはならないという規律はご存知ですか? いえ、知らなかったとしてもこれは由々しき問題です。早急に対処せねばなりません」

「アタシ、また罰を受けるのですか?」

「そうですね、ルシフェル。あなたにも罰を与えねばなりません。その身体に加わる痛みと共に、規律を胸に刻み込むのです。ですがその前にやらねばならないことがあります」

「なんですか?」

 主さまはそこで儚げに微笑み、

「これもひとえにあなたを護るためなのです」とおっしゃった。アタシはかつて主さまの手で滅ぼされた大国のことを思いだし、全身が毛羽立つのを感じた。

「待ってください。あの男は何も言いません。他人に言いふらすような真似は――」

「そういうことではないのです」主さまは首を振る。「これは規律なのですから」

 規律だから、ルールだから、目撃者を葬らなければならない。

 かつて、大国を一晩で滅ぼしたように。

「国ごと、ですか……」

「いいえ、ルシフェル。あなたの言葉を信じ、その者が誰にも言っていないと信じましょう。ですから消すのは彼だけです」

 内心アタシはほっとした。ほっとしたじぶんに気づき、うんざりする。あの侍と名乗る男は、アタシと関わったばかりに寿命を削られ、死んでしまう。

「ルシフェル、そんな顔をしないで。失敗は誰にでもあるのですから」

 主さまを見上げると、優しい眼差しで頬を撫でてくださる。なぜか胸がざわつき、

「なぜみなとちがうのでしょう」

 アタシはぽつりと零している。「アタシだけ、まるで白い生地のうえを歩くアリみたいに異物のように感じられてしまうのです。主さまはそんなアタシの存在をいつだって許してくださいます。なぜですか? 下界の者たちのようになぜ処罰されないのですか? アタシが天界の者だからですか? 主さまの遣いだからですか? なぜ放っておかれるのですか……主さまの優しさがアタシ、ときどきとても苦しい」

「そうですか」主さまはおっしゃった。「よくぞ打ち明けてくれました。あなたがそんなに苦しんでいたなんて……。主失格ですね、子どもたちの悩みに気づけないだなんて」

「いえ、そんな」

 主さまはわるくない。気づかれないようにしてきたのだから、判らなくて当然だ。

「ルシフェル。あなたは特別なのです。だからほかの者たちから浮いて感じられてしまうのです。ですが、それは仕方がないことなのです。あなたには、ほかのみなにはない、翼があります。浮いているように感じているのではなく、確かにあなたは浮いているのです。みなが辿り着けない領域へと旅立てるのです」

「アタシが、ですか?」

「もちろんです。あなたには一目置いているのですよ。ですから――」

 かつてのワタクシと同じ名前を授けたのです。

 そっと壊れ物を扱うように胸に抱き寄せられ、アタシは主さまのあたたかい心に触れた気がした。

 あなたはそれでいいのです。

 そう後押ししてもらえた気がした。目を瞑り、身も心も委ねるようにすると、頬に硬いものが当たった。目を開ける。主さまの胸元には十字架がぶらさがっている。かつてこの世界から姿を消した心優しき種族の残したものだが、なぜか主さまはそれを逆さにつけている。



END




【脳裏には、助けて、と叫ぶ姉の声がこだましている】


 死んだほうがいい人間は存在する。世のため、人のため。生きていてはならない人間というのは間違いなくこの現代社会に蔓延っている。

 たとえば僕の姉を凌辱した強姦魔。たとえば、被害者であるはずの姉にも非があると糾弾した不特定多数の傍観者たち。インターネットという匿名の空間で、やつらは言いたい放題、姉の尊厳を踏みにじった。

 おそらく、彼らの言葉がなければ姉は自殺などしなかっただろう。見も知らぬ傍観者たちだけのせいではない。父や母、そして姉の友人たちの何気ない一言にも、姉から生きる気力を奪う鋭利な刃が忍ばされていた。

 一人の強姦魔が姉を襲った。多くの人間たちが姉を死に追いやった。

 穢された、というありもしない幻想に姉は殺された。幻想を姉に植え付けたのはほかでもない、この社会だ。死んだほうがいい人間を野放しにし、あまつさえ量産しつづけるこの社会を僕は心底憎んでいる。善良な心づかいの奥に潜む偏見は、ときに害悪より凶悪だ。

「姉ちゃんは誰がなんと言おうとまっとうな被害者だ。誰にも文句は言わせない」

 まっとうな被害者というフレーズが、あまりにばかげていて、僕の悲しみに拍車をかけた。それは憎悪と形容するほかない熱を帯び、この胸をどうしようもなく焦がしている。

     

 姉の葬式を終えた翌月に、強姦魔は捕まった。マンションに忍び込み、寝ていた中学生を犯してそのまま寝つき、朝になって現行犯逮捕されたという、どうしようもなく死んだほうがいい人間だった。

「行かなくてもいいんだよ」

 母は強姦魔の裁判を傍聴する気はないようだ。むしろ早く自分たちを襲った悲劇を忘れたい様子だった。

「母さんはそれでいいよ。でも僕は行かなきゃならないんだ」

 僕の脳裏にはときおり、聞こえるはずもない姉の声が聴こえた。助けて、と姉は叫んでいる。逃げるわけにはいかない。現実から、悲劇から、目を逸らすわけにはいかなかった。これ以上姉の尊厳を踏みにじることなど僕にはできそうにもない。

 強姦魔が逮捕されてからのひと月は、どの情報誌もニュースサイトも、姉を襲った強姦魔の情報で賑わっていた。それもそのはずで、悪魔は法廷で、「オレのしたことのなにが悪なんだ」と開き直った発言をまったく真面目な顔つきで言い放ったのだ。

「好きな男とはできて、そうじゃねえ男とはできねぇなんて、そりゃ差別だろうが。つーか、穴にイチモツ入れたくれぇで騒ぎすぎなんだよ。てめぇらの親ぁみんなやってることだぞ。それが何で罪になるんだよ。べつにガキ孕ませようってんじゃねぇんだ、勘弁しろよなこれぐれぇ」

 だったらてめぇのケツにゴボウを百本つっこんでやろうか、とどうして誰も言わないのだろう。ふしぎでならなかったが、僕は間もなくそう思ったことを後悔した。悪魔は女性だけでなく、男子児童をもその毒牙にかけていた。忌むべきは、自らのケツで児童を犯した点にある。

「たいしたことじゃねぇだろ。クソが出るんだ、イチモツくれぇどうってことねぇよ」

 無理やりに犯す点が問題なのだと検察側が言うまでもなく誰もが思ったはずだ。

「おかしな話だと思わねぇか。やってることは変わんねぇのに、相手が変わるだけで悪になるんだぜ? 無理やりやればレイプで、同意のもとなら愛情表現、金を払えば売春だ。おかしいのはどっちだよ。そういうのを恣意的っていうんじゃねぇのか、あん?」

 精神疾患を疑いたくなるほど頭の湧いた男だと誰もが思ったはずだ。現に、彼がそういった極端な言動をとってしまうのはきっと悲惨な環境で育った過去があるからだ、と同情を寄せる声が湧いたりもした。あいにくと悪魔に、そういった同情の余地を挟む悪辣な環境は見当たらなかった。

 至極裕福な家庭に生まれ、両親こそただの公務員であったが、父親の血筋が政治家の家系だという、聞いただけで甘やかされて育ったのだろうと思わずにはいられない過去があるだけだった。

 裁判は長引いた。判決が下されるたびに弁護士が上訴し、徒に時間だけを重ねていく。

 途中から僕は、いっそのこと無罪判決を出してくれないか、と思いはじめていた。悪魔が自由の身にさえなってくれれば、この手でめった刺しにしてやれるのに。妄想は、ほとんど願望と区別つかなくなり、やがて傍聴席にもつかなくなった。

 夜、閑散とした道を歩いていた。僕は大学を休学しており、あてもなく散策する日々を送っていた。姉の葬式から二年が経っていた。

 空を仰ぎ、ひときわ明るい星を眺めた。それは次第にまばゆい光を放ちはじめ、巨大化し、立ち尽くす僕の真上で停止した。

 やわらかな光に包まれる。

 目を覚ましたとき、僕は見知らぬ空間に寝かされており、空間を仕切る壁には、フォログラムのように青くうつくしい星が映しだされていた。

     

「ようこそ我が城へ。あなたは人類を代表して招かれた客人である。ごゆるりとなされよ」

「は? は?」

 見知らぬ男が立っていた。白髪のまじった頭に、イギリス紳士のようなスーツを着ている。どこから入ってきて、いつから立っていたのか。そもそもここはどこなのか。頭のなかでは疑問と当惑がいっときに溢れ、五目御飯も真っ青のごちゃ混ぜを体現している。

「混乱なされるのも当然でしょう。しかしなにも我らはあたなさまに危害を加えようというわけではございません。なにとぞ落ち着かれたし。しかるのち、いちど我らの話を聞かれたし」

「話は聞きますけど、というか、ここは」

 相手の冷静な態度にこちらも平静を取り戻す。動悸は激しいままだ。

「我らの城、と申しあげましても解り兼ねますかな。一言で言うなれば宇宙を旅する家――宇宙船でございます」

 UFOってことだよな。

 空間を見渡し、状況の把握に努める。壁や床、天井を見遣るが、それらは吹き抜けのようにそとの景色を映しだしている。そとの情景とはすなわち、宇宙とそこに浮かぶ地球である。

「映像ですよね、これ」

 念のために確認しておくが、「いえ」と否定される。

「そとの景色が見えているだけでございます。きれいですよね。あれがあなたがたの住まわれる星、『*@❤×』なのでございます」

「はい?」

「ですから、『*@❤×』です。おや、ご存じない? あなたはその星の代表として招かれたのです」

 理解の及ばない顔を浮かべていたからか、

「おっとそうでした。あなたがたの言葉では、地球と呼ばれているのでしたね。これは失敬」

 紳士は互いに生じた齟齬を正してくれる。

 ドッキリではないのか、といちどは疑った。しかしこんな大がかりな仕掛けを準備してくれる知人をあいにくと僕は知らない。空間を空間として仕切る床や壁に触れてみるが、指紋さえ付かず、僕の知り得るどの材質とも合致しなかった。

「本当に宇宙なんですか?」僕は訊きたかった。本当に攫われてしまったのですか、と。

 男は言った。

「ええ、地球ではないですね」

     

 男は自らを、アベコベーコン・ソゲナコト・ア=リュマージュビュルジュ百二十三世と名乗った。

「あべこ、え? なんです?」

「言いにくいでしょう。これでもあなたがたの言葉にちかしい発音でしゃべっているのですがね。自分で言っていても舌を噛みそうです。大使とでも呼んでください。いちおうワタクシ、我らの国を代表してあなたを歓迎するために選ばれた公式の親善大使でありまして」

「はぁ」

「立ち話もなんですから、お食事をしながらでも。ワタクシの家族も紹介したいですし」

「ご家族がいらっしゃるのですか?」

「そりゃいますよ。あなたにもおありでしょ?」

 はっとした。姉の存在を思いだし、暗い気持ちになる。一時でも忘れてしまっていたじぶんを呪いたくなる。

 通された部屋は、西洋王族の食卓を彷彿とさせる佇まいだった。無駄に長いテーブルに蝋燭が並び、天井からはシャンデリアが垂れている。天井は見えず、その奥行きを晦ませており、どこを向いても星々が輝いていた。地球の裏から太陽が覗いたらさぞかし眩しかろう、と思う。

「奥にいるのが妻。その横にいるのが娘です」大使は、またぞろ聞き慣れない長い名を口にし、妻のことはプシィ、娘のことはプーンとお呼びください、と言った。

 プシィさんは笑顔の素敵な女性で、大使の奥さんというよりかは、彼の妹や歳のちかい姪っ子のように映った。娘のプーンちゃんは第二次成長期を迎えたばかりといったくらいの外見で、やはりプシィさんが母親というよりも姉妹のように映る。二人とも端正な顔つきだが、どこか作り物めいて見える。

 会話は、もっぱら僕と大使のあいだだけで盛り上がった。盛り上がった、といっても、僕の質問に大使が答え、さらに余談が披露され、話題が広まる、といった形で途切れることなくつづいただけだ。笑顔なのは大使と奥さんだけで、プーンちゃんはずっと俯いたまま、たまにこちらにチラリと目をくれるだけで、せっかくのご馳走にも手を付けていない。僕は、なぜこんな状況で食事なんかをしているのか、と頭がパンクしそうになりながらも、団欒を壊さぬよう、気を使うことに全神経を使った。

 なぜ僕が選ばれたのでしょうか、と頃合いを見計らってそういった質問も投げかけてみたが、そんなつまらないことは今はいいじゃないですか、とはぐらかされて、けっきょくなぜ僕が彼らに拉致されたのか、については解らずじまいだった。

「たとえば、神という存在をあなたたち人類は信じていらっしゃるでしょ? あれはやはり群衆管理を意図して組み込まれたシステムなのですか?」

 たまにプシィさんが横からくちばしを挟んでくるが、とうてい理解が及ばなく、返答に窮してしまう。

「神を信じている人もいますが」といちおうそれらしい答えを返す。「信じていないひとのほうが、僕の周りでは多いですよ」

「あら、そうなのですか? ですが、神という存在は、視野の狭い自己中心的な個人に、客観性を与えるための人格矯正システムなのでしょう? わたくし、教習所でそう習ったのですけれど」

「教習所というのは?」

「次元を行き来きするのにも資格が必要なのです」大使が答えた。

「神を信じてないというなら」とプシィさんが続ける。「アナタはどうして自分を律することができているの?」

 まるで神を信じていない人間はサルであるかのような物言いに面食らう。

「なにか誤解されているようですが、神という概念に、プシィさんの言うようなシステムはないと思いますよ。そもそも何なんですか、そのナントカシステムというのは」

「人格矯正システムです」これまた答えたのは大使だった。「たいそうな呼び名ですが、中身はそうむずかしくはありません。一言で言うなれば、自分を客観視するための機構です」

「客観視、ですか?」

「そうです。動物というのは自己中心的な生き物です。動物が群れをなすのは、何も社会性を得ているからではありません。あれは、本能です。人類が社会を形成しているのとは根本的に異なるのです」

「はぁ。それは解りますが」本当は解ってなどいないがとりあえず首肯しておく。「それが、神さまとどう関係が?」

「単純な話です。神というものは、自己を客観視するための舞台装置なのです。自己を客観視する目を持たない輩は往々にして野蛮ですからね。自分が世界の中心なのだと無自覚に信じている。自分が神だと思いあがっているようなものなのです。そうした輩に、おまえは世界の中心などではない、おまえも世界の一要素、ちりあくたの一つにすぎないんだぞ、と解らせるために、神という機構、すなわち【絶対的な他者】が人類には必要だったのです。それを我々は、【人格矯正システム】と呼んでおります。常識や良識なども、それに属する代物ですね。常識や良識があることで、ひとは他人の目を気にするようになるのです。それは神と同じ効用を発揮します」

「はぁ」

「ところが、一つ難点がございまして、常識や良識による人格矯正システムでは限界があるのです。他人の目の届かないところでは、その効用が発揮されないのです。そこで有用になってくるのが神という機構なのですが、しかし、あなたは神を信じてらっしゃらないという。ではなぜあなたは自分を律し、社会的な生活を営むことができているのですか?」

「さあ、なぜでしょうね」

 生半可な返事でお茶を濁すしかない。訊かれても困る。そういう人間だから、としか言いようがないではないか。百歩譲って、そう教育されて育ったからだ、と答えたとしよう。だが、そう教育されても罪を犯す者は後を絶たないではないですか、とかなんとか言って、また質問攻めに遭うに違いないのだ。

「まず前提がおかしくないですか」僕は反論を試みる。「なぜ神を信じないと自分を律せないということになるのですか。人類はなにも自己中心的なひとたちばかりではないと思うのですけど」

「おやまあ!」

 大使とプシィさんは声を揃え、驚愕の顔を浮かべた。「そういう考えは持ち合わせておりませんでした。なるほど、性善説というものが、人類では成立し得るのですね。なるほど、なるほど。これは興味深い」

「いや、性善説とかとそういう話ではなくてですね」

「失敬なことを言いました、申し訳ありません。そうですね、いくら人類といえども、生まれたときから野蛮だということはないでしょう」

 サルだって生まれたときは無邪気でかわいらしいものね、とプシィさんが笑顔で付け加えるが、その言葉自体が失敬ではないか、と口にしなかった僕は偉い。

 話がいち段落つくと大使は脈絡なく、雪だるまによって救われたとある惑星について、語りはじめた。

 それにしても無口だなぁ、このコ。

 話を聞き流しながら僕は感心していた。

 プーンちゃんは母親の運んできたデザートのケーキにも手を付けようとしない。まるで獣に怯えるウサギのようにちいさくなっている。ただ、震えてはおらず、これはどちらかというと、借りてきた猫のようだ、と形容したほうが幾分も正確かもしれない、と僕は思った。

 

 食事を終えたあと、最後に大使は、僕のもっとも聞きたかった話をさらりと口にした。

「そうそう、なぜきみを招待したかについてですが」

 待ってました、とばかりに顔をあげる。

「きみは人生をやり直せるならどの時点に戻りたいと望まれますか」

「はい?」

「言い換えましょう。過去に戻れるなら、きみはいつの自分に戻りたいと? 気づいていないようですが、きみは人一倍正義感がつよく、それでいて悪を憎んでもいる。善良でありながら、きみのなかでは測り知れない憎悪が渦巻いている。我々はきみのその二律背反とも言いがたい、自己矛盾の成立に興味があるのです」

 我々は、きみに憎悪が芽生えたきっかけを観測したい、と大使は目を輝かせて言った。

「今夜いっぱい時間をさしあげます。確固たる憎悪をお持ちのアナタならば、今ここで答えを出すことも容易いでしょう。しかし、規則は規則です。後悔なきよう今晩はごゆるりと熟考なされよ」

「はあ……」

 では、おやすみなさい。

 手持ち沙汰になにげなく足元を見つめているあいだに、大使とプシィさんは部屋から姿を消していた。残されたのは僕とプーンちゃんだけだ。彼女は日本人形のような佇まいで西洋ドールのような顔をこちらへ向けている。

「あの、なんかきょうは帰れないみたいなんですけど」声をかけるが、目が合う前に逸らされる。「僕の部屋って、その……」

「あ、あんない」

「え?」

「案内を、します」

「あ、きみが? してくれるんだ、部屋の案内?」

 プーンちゃんはちいさく顎を引く。唇をつよく結んでいるからか、頬が下膨れたみたいに丸まって見える。ゆびで突きたい衝動に駆られる。

「じゃ、お願いします」

 僕はプーンちゃんのあとにつづき、部屋をあとにする。

     

 プーンちゃんはことのほか地球が大好きであるようだった。言葉数が少なかったのは最初だけで、部屋へ案内されたあとに何気なくポケットから出したメディア端末にプーンちゃんは興味を示し、それから一気に会話が弾んだ。

「これ、電気で動いているのですよね」

「そうだよ。珍しい?」

「プーンたち、電気を使っちゃいけないから」

「え、なんで?」

「地球人には話したらダメって」

「そういうルールがあるんだ?」

「こんな骨董品に触れられるなんて夢みたい」

 プーンちゃんはほくほく顔でメディア端末を操作した。僕はそんな彼女の顔がもっと見たくて、ライターやらガムやら腕時計やら、彼女の好奇心を誘うようなものを次々にテーブルに並べてみせる。

「これはなんですか?」

 彼女が手にしているのはコンドームだ。クリスマスの日に姉が冗談半分でくれたもので、形見といっては語弊があるが僕はそれをいまでも財布のなかに仕舞っている。

 なんとごまかしたものか、と思案している間にプーンちゃんはコンドームに手を翳した。彼女の手には指輪がはまっており、部屋へ入るときや、透明だった壁を視覚化するときなど、プーンちゃんはその指輪を駆使していた。

 指輪が光ると、プーンちゃんの目も青く輝いた。何かを受信したのだと察する。

「なるほど」プーンちゃんは満足げに一つ頷く。「これは生殖をジャマするためのものなんですね」

「あ、うん。避妊具の一つだね」

「やっぱり性的快感は、性行為なしには味わえないのですか?」

「ん?」

 なんと答えたものだろう。やけにぐいぐい質問してくるものだ。お兄さん、困ってしまう。

「言葉はわるいのですけど、プーンたちは仲間を増やすという手段に、そういった原始的な行いを用いないので、とても興味があるのです」

「そうですか」

「そうなのです」

 点、点、点。

 やはりお兄さん、困ってしまう。純粋な目でもって、性的な知識を求められても僕にはうまく答えられそうにない。なにせそういった体験がないのだから、教えてあげようにもできないのだ。

 だから僕は正直にそう告げた。

「経験がないから、教えてあげられないみたい。ごめんね」

「じゃあ、経験してみましょう」

 これから親の仇を討ちに行きましょう、とでも言わんばかりにプーンちゃんは鼻息を荒くした。顔が近い。いい匂いがする。

「プーンと試しましょう、そうしましょう」

 まっすぐな目をしてものすごいことを言うものだ。

「それは愛の告白かな?」

「まさか、まさか」

 ただの興味本位です、とどこまで本気かを推し量るまでもなく混ざりっ気なしの純度百パーセントのやる気を彼女はみせている。僕は戸惑った。無知であるがために羞恥心を知らない少女をまえに、僕は大いに狼狽えた。

 身体が反応してしまっているのだ。じぶんの年齢の半分ほどの少女相手に、僕の身体は血液を下へ下へと押し流し、しょぼくれた水風船をパンパンに膨らませてしまっている。

「ちょっと落ち着こう」

 僕は言った。じぶんを落ち着かせるために。

「やり方は知っていますよ?」

「そういう問題ではなくってですね」

 タジタジというよりも、ダクダクだった。汗もそうだが、水風船が液漏れを起こしている。配管工を呼ばなくてはたいへんだ。

 何かの罠かとも考えた。自制心を量るためにこんな真似をしているのではないか、と。しかし善良そうに見えた大使やプシィさんが娘にこんな真似をさせるとも思えない。

「種族が」僕は口走っている。「種族が違うから、こういうのはよくないと思うんだ」

「プーンの身体は今、人類ベースです。それに、行為だけなら種族は関係ないのでは? 仲間を増やすことが目的ではないのですもの」

 それもそうだ、と一瞬納得しかけたじぶんを殴ってやりたい。同意のもとだからいいのか? そういうことじゃないだろ!

「ダメなんだ」僕は叫んでいる。「こういうことは、好きなひと同士、一生愛し合えると思えた相手でないとしちゃいけないんだ」

「どうしてですか?」

「そうじゃなきゃ、握手やハグと変わらないじゃないか」僕は緊張の糸が解けたのを感じる。山場は乗り切った。「特別なことなんだ」と続ける。「たとえ赤ちゃんをつくらなくたって、その行為は尊いものであるべきなんだ。そうでないと、愛し合う人とする意味がなくなっちゃう。そうでしょ?」

「そんなことはないと思いますけど」

「僕はそう信じてるから」

「なるほど」プーンちゃんはこちらが拍子抜けするほどあっさり引き下がった。「そういう信仰なのですね。ならばプーン、無理を言いません。わがまま言ってごめんなさいでした」

 いいコだな、と思った。だから僕は彼女をそっと抱き寄せ、頭を撫でてあげた。

「いいんだよ。解ってくれれば、それで」

 このとき僕は、腕に抱くプーンちゃんの異常なほどに強張らせた身体に、違和感を覚えた。馴れ馴れしすぎたかな、と思ったが、性行為の演習を迫ってきた少女にそんな配慮は無用の長物だと思い、プーンちゃんを腕から解放する。頭は撫でたままだったが、そのとき僕は、顔面を蒼白にし、顎をしきりに震わせるプーンちゃんの姿を見た。なにかの見間違いかと思った。さきほどまでいっしょに屈託なく笑い合っていたではないか。なにが彼女にこんな、この世の終わりみたいな表情をさせるのか。僕にはまったく心当りがない。いや、心当たりというのなら、今しがたに交わした抱擁がそれに当たるのだろう。しかしムチャクチャではないか。腕でそっと抱きしめただけなのに。それなのに彼女の表情は、まるで悪魔にでも出くわしたかのような絶望を浮かべている。

「あの、ごめん、なさい」

 とりあえず、という言葉が妥当だった。僕はそう、本当にとりあえず、謝った。その場しのぎの、謝罪の念などまったく籠められていない、言葉だけの謝罪だ。

 プーンちゃんは固まったまま、目に蓄えた涙をツツーと溢れさせた。腰を抜かしたようにその場に崩れる。それから視点の定まらない目を泳がせ、こちらが襲いかかってこないことを逐一確認するかのように、一歩一歩、ずり下がって移動した。壁に背が到達すると、そこに至ってプーンちゃんはようやく我に返ったように、号泣しだした。

 指輪が光り、プーンちゃんは壁の奥に姿を消した。

「意味が解らない」

 僕がわるいのか、とそのことばかり考えているじぶんに気づき、嫌気がさす。釈然としない思いのまま、ベッドに横たわり、これが現実であることを噛みしめるように目を閉じた。

     

 目が覚めたとき、僕は床に衝突しそうなじぶんの態勢を即座に理解した。叩き起こされたというよりも、蹴り起こされたと言うべきか。頭をしたたか床に打ちつけ、痛めた頭部を撫でつけながら身を起こす。

「イタタ。何をするんですか。今、蹴りましたよね。ぜったい蹴りましたよね、僕のこと」

「下衆の分際でなにをほざくッ」

「そうよ、そうよ」

 大使とプシィさんが、鬼の形相でこちらを見下ろしている。その目は真っ赤に充血している。

「あの、なにかあったんですか?」異様な様子に、彼らを責めることを忘れ、その場に正座の態勢をとる。

「何かだとぉ! しらばっくれるなよ、クズがぁ。てめぇのしたことはすべて↑〇☆∥Иに記録されてんだッ」

 うまく聞き取れなかったが、おそらく監視カメラのような記録媒体を通して、僕の行動を垣間見たのだろう。しかし、本当に思い当たる節がない。

 そういえば、と僕は、プーンちゃんの姿がないことに思い到り、彼女はどこですか、と尋ねた。すると大使とプシィさんは、それこそが問題なのだといわんばかりに癇癪を起こし、僕を困らせる。

「家出なされたのですか?」

「プーンは死にました」涙声でプシィさんが言った。

「なんですって?」聞き返すほかにない。

「貴様が、貴様が、プーンを穢したりするから!」

 大使は目を燃やし、それは文字通り炎を出現させているわけなのだが、悲哀に染まった声音で、「プーンは今朝、自殺した」と告げた。「貴様のせいだ!」

「どうして僕のせいなんです? 僕が何をしたっていうんですか」

 昨晩のことを思いだし、僕は、「ただ」と釈明する。「プーンちゃんと楽しくおしゃべりをして、仲良くなって、おやすみを言うついでにちょっとハグしただけですよ」

 ちょっと、という言葉を強調し言った。まさかあのハグが原因ではないだろう、と思いつつも嫌な予感を拭えない。

「そんなことでプーンが、わたしたちの娘が自殺するわけないでしょ!」

「あ、ですよね」

 ほっと胸を撫で下ろし、プーンちゃんが自殺したというその事実そのものが、そんなわけがないだろ、の一言で片づけられるのを期待した。

 だから、

「あなたがあのコをレイプしたから、プーンは死んだんです!」

 プシィさんのその糾弾には正直、戸惑うよりもさきに笑いたくなった。

「なんですって? 僕がプーンちゃんをどうしたと?」

「とぼけたって無駄です。証拠は揃ってるんですから」

 プシィさんと大使はどこまでも強気だった。だったらその証拠とやらを見せてもらおうじゃないか。僕は勇んで言った。すると彼らは、指輪から光を放ち、宙に映像を浮かべた。そこには昨晩、プーンちゃんが豹変した場面が映しだされた。

「あなたはあのコに、こんなひどいことを」プシィさんは目を伏せ、唇を噛みしめている。

 だがその映像には僕がプーンちゃんを腕に抱き、頭を撫でている場面が流れているだけである。

「これのどこがひどいんですか?」

「悪魔め、まだ言うか!」

「まさかとは思いますけど、頭を撫でることがそんなに悪いことなんですか?」

 冗談めかし僕は言った。意に反して彼らは激昂した。火に油を注いだがごとくの豹変具合である。

「死刑だ、死刑にしよう。我らの星のルールでは、これは極刑に値する。すなわち、存在の抹消だ。貴様から未来を奪い、過去からも貴様の存在を消し去ってやる」

「ちょっと待ってください。悪いことをしたのなら謝ります。けど僕の国では、頭を撫でることは愛情表現の一種でして」

「性行為だって愛情表現の一種でしょう」プシィさんが僕の言葉を遮る。「だからといって、誰かれ構わず犯したりしますか? しないでしょう? ならばあなたは、あなたの姉がされたことを許容するとでも言うのですか?」

 なぜここで姉の話が出てくる。そこで僕はピンときた。彼らは知っているのだ。僕の境遇を。

 昨夜の彼らの言葉がよみがえる。

 ――きみは人生をやり直せるならどの時点に戻りたいと望まれますか。 

 戻れるならば僕は、姉が強姦魔に襲われる前に戻りたい。それができないというのなら、せめて姉が首をくくる直前に止めに入りたい。そんなことで死ぬなんて馬鹿げている、と頬を叩き、いっしょに前を向いて歩きたかった。

「本当に過去をやり直せるのなら、あなたたちだってやり直せるはずだ」縋るような思いだった。本当に過去に戻れるのなら、と繰り返している。「あなたたちだって、プーンちゃんを救えるはずだ。ねぇ、そうでしょ?」

「無理だ。ワタシたちと、おまえとでは、立っている次元が違う。おまえだって、小説の展開を変えることはできても、自分たちの過去は変えられないだろう。それと同じだ」

 意味が解らない。ならば僕は小説のキャラクターで、プーンちゃんは読者ということか? だったらプーンちゃんは小説に感化されて自殺してしまった頭の可哀そうなコということになる。その責任は僕にあるのか? むしろ、そんな小説を読ませたあなたたちの責任ではないのか。もっといえば、たかだか小説に触れたくらいで死んでしまうような繊細すぎるプーンちゃんの人格に難があったといえるのではないか。掘り下げれば、そんな人格に育ててしまったあなたたちが問題なのではないか。

 頭のなかに巡るたくさんの思索を僕は、うまく言葉に還元することができないでいた。

「文化の違いを考慮して、貴様にも酌量の余地を与える」大使は言った。「選べ、畜生にも劣る悪魔め。罪を認め、潔く死罪となるか、それとも貴様がもっとも忌み嫌う人間に生まれ変わり、犯した罪と同等の償いを得るか。さあ、選べ」

「待ってください」僕は叫んでいる。「おかしくないですか。だって、頭を撫でただけですよ? たったそれだけのことで死罪だなんて、あまりに馬鹿げてる」

「だから言っているだろう。選ばせてやると」

 そうですよ、とプシィさんが続ける。「あなたはわたしたちの娘を殺したんですよ、当然の報いでしょう」

「殺してはないですよ。百歩譲って、僕がプーンちゃんを傷つけてしまったとして、殺してはないですよ。だって自殺だったんでしょ? プーンちゃんは自分で死を選んだんでしょ?」

「だがそうした選択を娘に強いたのはほかでもない貴様だ」

「ちがう、ちがう! 断じて僕なんかじゃない! たかだか頭を撫でる程度のことで傷つけただの、穢れただの騒いでるあなたたちがおかしいんだ! そうだとも、プーンちゃんを殺したのはほかでもない、あんたたちだ!」

 あなたたちの社会がプーンちゃんを殺したんだ。

 叫んだあと、抑えようのない吐き気に襲われ、僕はその場に崩れ落ちる。

「じぶんのしたことを棚にあげてなんて言い草だ」大使は僕の胸ぐらを掴みあげ、とても人間とは思えぬ形相でこう告げた。「死など生ぬるい。貴様には地獄のような人生を、その存在が次元の狭間に霞んで消えるまでとくと味あわせてやる」

「なにを言っているんですか……」

「貴様には、貴様がもっとも憎んでいる人間に生まれ変わってもらう。過去に戻り、貴様は、自らの手で悲劇をつくりだし、自らの手で自分の首を絞めつづける」

「待ってください、それって、どういう」

 ――オレのしたことのなにが悪なんだ。

 なぜかこのとき僕の脳裏には、傍聴席で耳にした唾棄すべき悪魔の声がはっきりと浮かんだ。

「それとも貴様は死を選ぶというのか? ならば今ここで望みどおり、存在の欠片もなく消し去ってやるぞ」

 差しだされた手を僕は見つめる。

 罪を認め、死罪となるか。

 罪を否定し、罪を犯すか。

 脳裏には、助けて、と叫ぶ姉の声がこだましている。



END




【人命よりも事件を】


 依頼人が殺された。インターネットのニュースサイトを覗いていたらふいに目に飛び込んできた訃報だった。通り魔に刺殺されたと記事にはある。

 正確には殺されたのは私の依頼人ではなく、依頼人となるはずだった女子大生だ。戸蜂(とばち)リヨ、二十歳。彼女が私の事務所に連絡を寄越してきたのは三日前のことで、そのときに電話では話せないので直接話を聞いてほしいと面会の約束をとりつけた。その日付がきょうだった。

 契約を交わす前に起きた事件であるので、客観的に見たら私とは無関係の事件である。しかし放っておくこともできない。私の直感が言っている。彼女の依頼内容こそが、事件を引き起こしたのだと。彼女はそうならぬようにと私に助けを求めたのだ。

 目撃者がおらず、捜査は難航していると知人の刑事から話を聞いた。

 友人たちの証言では戸蜂リヨはストーカーに悩まされていたという。いっときは彼女の恋人が犯人ではないのか、といった噂があちらこちらで囁かれたが、調査は軒並みストーカー殺人の方向で進められているようだ。

 一銭にもならない仕事ではあるが、私は独自に調査を開始した。

 まずは事務所に連絡を寄越してきたのが本当に被害者本人であったのかを確かめる必要がある。別人が彼女の名を騙っていたならば、この調査そのものを実行する動機が私からはなくなる。なにせ被害者は私に助けを求めていなかったということになるのだから。

 情報を教えてもらった見返りとして知人の刑事に被害者から電話があった旨を伝えた。すると刑事は数日後にはその裏付けを持ってやってきた。

「通信履歴におまえんとこの事務所の番号が残っていたぞ」彼はミートソースパスタを下品にすする。「間違いなく被害者の携帯から掛けられている。念のため電話会社にも確認したが、被害者の住んでいたアパート周辺の基地局が電波を拾っていた。被害者が掛けたものと断定していいだろう」

 断定はしないほうがよいのでは、と思うが口にせず。礼のつもりでその喫茶店の勘定はこちらで持ったが、見返りの情報を別途要求された。守銭奴なのは学生時代から変わらないな、と去り際につぶやくと、当然の対価だと叱られた。

「変わらないのはむしろおまえだろ」

 揶揄されたがそのとおりだと思ったので、ありがとう、と返しておく。

 事務所のソファにふんぞり返り、帯の締め付けを煩わしく思いながら私は考える。

 調査は続行だ。

 やはり被害者は私に助けを求めていた。依頼内容こそ定かではないが、十中八九ストーカーについての相談だ。刑事の話では、被害者は警察にもストーカー被害を訴えていたようだが、証拠もなく、またストーカー像が不明であったために、パトロールを強化するという対処しかできなかったそうだ。

 私はもうすこし視野を広げるため、被害者の恋人をあたってみることにした。

 

 秋の風は冷たく、コンビニで購入したホットココアも間もなくホッカイロの役割を果たさなくなる。かじかむ手を拝むように擦りあわせながら目当ての男を待ち伏せする。鳥間(とりま)小貫(おぬき)、二十八歳。被害者の恋人だとされている男だ。オフィスからそれらしき人物が出てくる。刑事から入手した写真と見比べ、私は駆け寄った。

「すみません、私こういう者でして」

 名刺を差しだすと鳥間はそれを受け取ることなくうんざりした調子で、「やめてください」と怒鳴った。「愛するひとを喪ったんですよ。傷口をえぐるようなことをして何とも思わないんですか」

 どうやら報道陣と間違われているようだ。彼を容疑者として晒しあげる向きが週刊誌やインターネット内では散見されたが、警察はすでに彼を容疑者候補から外している。

「急に押しかけて申し訳ありません。ですが私、戸蜂さんからお亡くなりになられる直前に連絡をいただいておりまして」

 言いながらもういちど名刺を差しだすと、男は奪い取るように掴み、紙面に目を走らせた。

「探偵? あなたが?」

 まじまじとこちらを見遣る男は、王子だと自称するカエルに出くわしたお姫さまみたいな顔つきで眉を顰めた。

「女の探偵がいてはいけませんか?」

「いや。というか、その恰好が……」

 男の視線を辿り、じぶんの身体を見下ろす。初対面の相手は必ずといっていいほど私の服装にイチャモンをつけたがる。

 現代に和服の探偵がいてもいいじゃない。

「私、コソコソ隠れる必要がないもので」言う必要も感じられなかったが釈明を挟み、要件を伝える。「すこしお時間をいただけませんか。戸蜂さんがなぜ殺されたのか、そして誰に殺されたのか。私はそれを暴きたいのです。お力を貸してはくれませんか」

「あなたも僕を疑っているのですね……」

「いいえ。あなたがもっとも戸蜂さんと親しかったというその一点でお話を伺いに来ただけです」

 こちらの目を探るように男はじっと見つめてくる。それから何かを納得したように鼻から息をもらし、

「夕飯がまだなんです。ごちそうしていただけますか」

 言いながら懐から名刺を取りだし、差しだしてくる。

 受け取り、私は彼の提案を快く受け入れる。それから申し訳なさを醸しつつこう言った。

「私、和食が苦手でして。ハンバーグはお好きですか?」

 

 駅前のアーケード街からすこし外れた場所にいきつけのレストランがある。その店は地下に位置し、表にも看板を出していない。明確に来ようと意識しなければまず辿り着かない秘境的な店である。ハンバーグが絶品なので私は常連として週に七日は顔をだしている。要するに毎日だ。注文した料理が運ばれてくるまでそういった世間話をしていると、

「そんなことより」鳥間が語気を荒らげ、「リヨが連絡を寄越したというのは本当なんですか」と本題に入るようせっついた。

「ええ、本当です。本人の所持していた携帯端末から掛けられていたことは確認済みですので」私は男の顔色を観察しながら口火を切る。「そこで一つお聞きしたいのですが、戸蜂さんは近頃何か悩み事を抱えてらしたんですか。探偵に依頼をするような、厄介ごとか何かを」

「どうなんでしょう」鳥間は顔のまえで祈るように手を組んだ。「実はさいきん、リヨには避けられていまして。ろくに話をする機会もなく、こんなことに」

「避けられていた、というのはどういうことでしょう。別れ話を切りだされたりとか?」

「いえ。単純に会ってくれないんです。心配だから会って話をしようと言っても家には来ないでと突き放されて」

「それは電話越しに?」

「ええ」

「そうですか」私は考え込む。嘘を吐いているようには見えないが、どこか胡散臭く感じる。ひょっとしたら探りを入れる順序を間違えたかもしれない。そう思い、質問の切り口を変えることにした。

 料理が運ばれてきてからは、鳥間から見た被害者の人物像を聞くことに専念した。

 別れ際、鳥間は、「協力できることがあれば何でもします」と頭を下げた。「僕からも依頼させてください。もちろん報酬はお支払いします。ぜひ、犯人を見つけ出してください」

「全力を尽くします」

 あいまいに返事をし、私は店のそとで彼と別れた。駅前のビルにはめ込まれた巨大なTV画面にはニュース速報が流れている。エスパーと呼ばれる名探偵がまたもや事件を最速で解決した、という至極くだらない内容が映されている。

 

 事務所に戻るあいだ私はずっと、のどに魚の骨が刺さったような気持ちのわるさに気を揉んでいた。被害者がストーカー被害を訴えていたことを鳥間は知らない様子だった。会話の中に一言もでてこなかったことからもそれが窺える。被害者が恋人を不安にさせないように黙っていただけ、という可能性は否めない。抱え込んだ問題に巻き込まないように敢えて突き放していた、と考えれば筋は通る。しかしやけに綺麗すぎる筋だ。まるでそういう設定であるかのような滑らかさ、言い換えれば人工甘味料のような甘ったるさが鼻につく。

 警察にとって重要な手がかりであるからか、被害者がストーカーに悩まされていたという報道は今のところどのマスメディアからも発信されていない。ストーカーの四文字が鳥間の口から出なかったのも当然といえば当然だ。

 しかし、何かが引っかかる。

 めぼしい収穫はなかったが、一つ前進した。

 なんとなくだが、鳥間という男は怪しい。

 ひとまず私は、被害者の知人に話を聞いて回ることにした。

 聞き込みをはじめて一週間が経過したが、胸中のモヤモヤは増すばかりだ。まず、被害者の友人の誰一人、鳥間という男について知らなかった。

「え、リヨに彼氏なんていたんですか?」

 そんな言葉が返ってくるばかりだ。

「戸蜂さんは私生活についてあまり話さないコだったんですか?」

 恋人を知られることが恥ずかしいと思うような人種を私は知っていたのでそう水を向けてみたが、返事はどれもノーだった。

「だってわたしたち、あのコの下着を選んであげるくらいの仲だったんですよ。彼氏がいたらすぐにわかります」

「そうだよね。ありがとう」

 涙をにじませ強気に振る舞う被害者の友人たちをまえに私は当惑した。

 胸中にわだかまるモヤモヤは間もなく、鳥間という男への疑念へと昇華した。

 私は考える。事務所のソファにひっくりかえり、足の裏を天井へ向けながら。

 鳥間には実のところアリバイがある。警察が彼を容疑者候補から外した理由はそこにあった。被害者が襲われたとされる時刻、彼は取引先で会議に出席していた。物理的に彼が事件を起こすのは不可能である。

 だが私の直感が言っている。犯人はあの男だ。

 仮に鳥間が犯人だとして、被害者を殺した動機はなんだ。恋人を殺す恋人、というのは世間では割と一般的な殺害関係で、夫婦間の殺人ともなればもはやありきたりの域に達する。

 動機を考えることにあまり意味はないが、しかし調査をするとっかかりにはなる。たとえば鳥間が被害者の恋人などではなくストーカーだったとしたらどうだ。ストーカー殺人というのも昨今べつだん珍しいものではなくなってきたが、恋愛のすれ違いによる殺人よりかはぐっと現実味が増してきたのではないか。

 なにせ今回の犯人は、まったく痕跡を残さずに現場を立ち去っている。たとえばこれが恋人間のいざこざの末に引き起きた事件ならば、そもそも犯行現場に帰宅途中の道を選ぶことはなかっただろうし、仮に選んだとしても何らかの痕跡を残しただろう。たとえば目撃証言などがそれにあたる。だが今回の事件では、駅前の商店街に近い現場だったにも拘わらず、目撃譚がいっさい報告されていない。これもまた知人の刑事からちょうだいした情報だが、帰宅途中の被害者の姿が目撃されている反面、不審者の情報がいっさい入ってこないのだという。

 監視カメラの映像もくまなくチェックされたことだろう。情報が入ってこない、というからにはそこでも不審者が見当たらなかったということだ。

 犯人は透明人間だよ。

 知人の刑事は冗談めかし言い、そっちでも何か掴めたら教えてくれ、と見返りを催促して帰っていった。私は彼に「鳥間ストーカー説」を黙っていた。証拠もないうちから容疑者扱いしては、事件直後の報道陣と同じではないか、と思ったからだが、本音を言えば手柄を横取りされたくないだけだった。謎はじぶんの手で解いてこそ光り輝く。

 私はさらに考える。

 十中八九、鳥間は事件に関与している。だが直接手を下したわけではないだろう。アリバイがあるのだからそういうことになる。

 では他人を使って殺しを依頼したという線はどうだろう。過去にも金で殺人を代行する事件はあった。だがどうだ。被害者にはとくべつ保険金がかけられているわけでもなく、また知人たちの証言から推し量るに被害者は他人に危害を加えるような人物でもなかった。ひとから恨まれていた、という話はおもしろいほど聞かないのである。

 事件発生からひと月が経つ。私は調査対象を被害者から鳥間に変更することにした。

 

 優秀な部類の人間だ、というのが鳥間の来歴を調べてみて抱いた私の率直な感応である。

 幼少期から名門大学の付属幼稚舎へ通い、エスカレーター式に大学を卒業すると、近年急激に事業を拡大しつつあるクラウドサービス関連の会社に就職した。上京して六年になるが、目立った問題を起こすこともなく、同僚たちからも慕われている。

 鳥間がどういう人物であるのかを、彼と交流のある幾人かの知人に尋ねてみたが、どれも似た回答が返ってくるばかりで有益な情報は得られなかった。

 鳥間の同僚いわく、

「あいつはいいやつだよ」

 とのことだ。

「他人の悪口なんて言わないし、人懐っこくて、敵をつくらないタイプ」「八方美人とはちがうんだよな。なんていうか、憎めないんだよ」

 人当たりのよさは、たしかに私も感じた。だからこそ気持ちわるいとも思った。恋人の死を悼む優しい男は、世間からのいわれなきバッシングに傷つき、それでも前向きに生きようとしている。

 まるでつくられた悲劇のヒーローのように感じられてしまうのだ。

 有益な情報とまではいかないが、一つ、不可解な点を見つけた。

 鳥間の友人たちはみな、被害者のことを知っていたのだ。

 私が写真を見せるまでもなく、

「ひどい話ですよ、あんなにいいコが」

 と見知った人物を語るように被害者を憐れんだ。聞くところによると、彼らはみな、被害者に会ったことがあるという。鳥間は彼らに恋人を紹介していたのだ。

 妙だ、と思う。被害者の友人たちは揃って、彼女に恋人などいなかったと話した。すくなくとも被害者に恋人がいることを知らなかったのだ。それがどうだろう。視点を変えてみると、鳥間のほうでは被害者との恋仲は周知の事実と化している。

 このチグハグさはなんだ。

 私は鳥間こそが被害者をストーカーしていた男だと仮説を立てたが、それはどうやら誤りだったようだ。

 鳥間と被害者はたしかに付き合っていた。そう結論付けるほかない証言が多数見つかったのだから、文句を挟む余地はない。

 もういちど仮説を立て直す必要がある。私はふたたび被害者について調べはじめた。

 知人の刑事の話では、被害者は全身を十か所以上も刺されており、単なる通り魔の犯行ではなく怨恨を持った者による犯行が高いという。警察はその線で捜査を展開しているとのことだ。

 目撃者がいないため、犯人の性別は不明だが、傷口の深さや骨の削れ具合などから、犯人は女性ではないか、という意見もでているという。

 犯人が女性の場合、目撃証言が少ないのも納得できる。通常、こういった殺傷事件の場合、ひとは無条件で犯人像を男性に限定して想像してしまう。だから事件当日のことを思いだしても、そこから無意識で女性や子どもを排除してしまうのだ。いちど編集されてしまった記憶はもとに戻りにくい。そうなるとたとい犯人を見ていたとしても思いだすのは至難の業となる。

 どれだけ探してみても被害者に恨みを持っている人物は見つからない。むしろ調べれば調べるほど、被害者の人柄の良さが解ってくる。友人たちの証言どおりだ。これほどの人物が殺されたとなると、やはり通り魔か、或いは逆恨みからの犯行を考えざるを得なくなる。そうなってくると、状況証拠から犯人を割り出すのは骨が折れる作業となる。

 何かとっかかりが欲しい。そうでないと砂浜からダイヤを拾い上げるのに似た苦労を背負うことになる。

 被害者側からのアプローチを諦め、私はふたたび鳥間を調査しはじめる。来歴や交友関係だけでなく、過去の女性関係も洗い直すことにした。

 

 鳥間を洗い直してみて判明したことが一つある。

 私が彼に抱いている嫌悪感の原因だ。知人たちからの評価だけを見れば、鳥間も被害者も、できた人間だった、という一言に還元できる。しかし被害者と違って鳥間には、これといった友人がいない。彼を悪く言う者はいないが、深い付き合いをしている者もいなかった。被害者とは大違いだ。彼女の友人たちは、被害者の下着をいっしょに選んであげるような、そういった家族にちかしい仲だった。

 八方美人というと語弊があるが、鳥間には何か裏があるような気がしてならない。

 私は調査の手を鳥間の学生時代にまでさかのぼり、広げることにした。過去の交友関係を洗っている途中で、大学生時代に彼と付き合っていたという女性を発見した。

 彼女は週に三日ほど通院している。精神科にかかっているようだ、というところまで突き止めてから私は彼女に接触した。とある事件について調べていて、あなたの話を聞きたいのだ、と話したところまではいい感触を掴めていたのだが、鳥間の名を出した途端に彼女の態度は一変した。

「もうわたしに付きまとわないでください」

 怯えた様子なのが気になった。

 私は彼女の過去を調べはじめた。大学を卒業してはいるが、二年の休学を挟んでいる。病院へ通いだした時期と合致していることから、そのころに何かあったのだと推測できる。私は彼女の同級生たちに話を聞きに回ったが、彼らの口は一様に重く、唯一聞けた答えが、

「襲われたんですよ。男の集団に」

 だった。

 集団暴行に遭った彼女は精神に深い傷を負い、今もなお立ち直っていない――と、そういうことであるらしい。そのころ彼女は鳥間と付き合っていたらしいが、その後、彼女のほうから別れを告げたという話だ。

 まるで鳥間という男が疫病神か何かのように思えてくる。

 ここで私はすこし見方を変えてみた。

 鳥間という男には疫病神がついている。こう考えてみてはどうか。

 疫病神は、鳥間についた虫を片っ端から排除している。彼に近づく女を狙っている。

 私は何か大きな思い違いをしていたかもしれない。これまでの調査では鳥間本人に協力を要請するという道をとらず、すべてを内密に進めていた。だが彼の協力が必要かもしれない。私は鳥間からもらった名刺をとりだし、そこに記されている連絡先に一報をいれた。

 

 ハンバーグの美味い例のレストランで待ち合わせをし、私は彼に一つの仮説を披歴した。

「戸蜂さんはストーカーに殺されました。もちろん、あなたが知らなかったように、彼女にストーカーはいません。犯人は彼女のストーカーではなく、あなたのストーカーだったのです」

 突き付けられた答えに怯えるように鳥間は目を泳がせた。料理が運ばれてからも彼は口を開くことはなく、頭を抱え、しばらくそうしてうなだれていた。

「警察には……」

 私がデザートを食べ終えたころ、彼はようやく言葉を発した。私は答えた。「いえ、まだ何も。これは私の仕事ですので、警察にタレ込む義務はありません。もちろん依頼主であるあなたが望まれるなら、今すぐにでも警察に動いてもうことは可能です」

 チョコバナナパフェを一掬い口に運ぶ。それから私は言った。「心当たりがおありですか?」

 実は、と鳥間は重そうな口を開いた。彼の口から聞かされた話は、おおよそ私の想定していた内容だった。彼は学生時代に一人の女性からしつこく付きまとわれていた。しかし彼はその女性ではないほかの女性と付き合った。そのあとに起こったできごとは、私も知っている。おそらく彼のストーカーが男たちを雇い、彼の恋人を襲わせたのだ。

 そして今回の一件もそのストーカーによる犯行だと推測される。

「この一件、あとのことは僕に任せてくださいませんか」

 ぽっかりと空いた洞のような目に、私は喉まででかかった言葉を呑みこんだ。

「構いませんよ。私の仕事は犯人を見つけることですから」

 犯人を捕まえるのも、裁くのも、探偵の仕事ではない。

 鳥間は注文した料理を口にすることなく店を出て行った。私はその日、半年ぶりに深酒をした。

 

 気分がいい日に限って会いたくない奴に会ってしまうのはなぜだろう。この世に神様というものがいて、私に嫌がらせを働いているからとしか思えない。蝉の声がうるさいのも、すべて私への嫌がらせだ。

「こんなところで何をしている時代遅れ女」

「それはこっちのセリフだ引きこもり野郎」

 世間ではエスパーの異名で知られているその男は、助手らしき女の子といっしょに、買い物に来ていた。いきつけの呉服屋に寄った帰りに、ふと手料理でもつくろうと思い立って大型量販店に寄ったのが間違いだった。

「おまえがそとを出歩いてるなんてな。あすは空からビーフジャーキーが降ってくるぞ」

「そちらこそなんだその材料は。生ごみを増やす研究でもはじめたか」

「私の手料理の美味さを知らないなんて……人生の半分は損してるぞ」

 いがみあっていると、先生、と脇に立つ女の子がヤツを諌める。それからこちらに向き直り、自己紹介をした。彼女は案の定ヤツの助手らしく、鯉仇(こいがたき)恋花(れんか)と名乗った。事件を一つ片づけてきた帰りで、これから家に帰って鍋パーティーをするという。ヤツはそこでなぜか気まずそうな顔を浮かべた。女の子は、ご一緒にどうですか、と誘ってくれる。断ってもよかったが、私の手料理の美味さを知らずに一生を終えるのも可哀そうだと同情し、私は彼らに同行した。

 数年ぶりに来た屋敷はまったく変わっておらず、ふしぎとじぶんまで若返った気になる。

 恋花といっしょに料理をし、ひとしきり料理を堪能してから、私はふと今回の事件のことをヤツに話して聞かせたくなった。

「――というわけだ。ここまでの情報でおまえに犯人が解るか?」

 むかしはよくこうして互いに事件をぶつけ合い、推理談話に花を咲かせたものだ。

「簡単すぎて余興にもならん」

 ヤツは済まし顔で、私の手料理をお代わりする。

 なら犯人を当ててみろよ、と煽るものの、

「まさかとは思うが、まだ事件が解決していないということはないだろうな?」

 逆に煽られてしまう。

「クイズを装って、おまえからタダで答えを聞き出そうとしているとでも?」

「違うのか?」

「名誉棄損で訴えるぞ」

 強がってみせるが、実のところじぶんの出した答えが正しいのか、その確信を得ようとしていたので、図星といえば図星だった。

「念のため答えをさきに聞いておこう」

 答えはこの紙に、とヤツはナプキンにスラスラとペンを走らせる。「これに書いておく。双方の答えに食い違いがあれば、私はこれをそちらへ渡す。中身を見たければ相応の報酬を支払え。見ないというのならそれもよし」

「いいだろう」

 私はヤツに私の導いた答えを、すなわち犯人が被害者の恋人のストーカーであった旨を話した。するとヤツは黙って立ち上がり、私の手料理をお代わりしてから、ナプキンを差しだしてくる。

「人生の半分を埋めてくれた礼だ。ナプキンはタダでやる。だが中身を見たければ報酬を支払え」

 その言葉は私の敗北を意味していた。

 いてもたってもいられなくなり、私は挨拶もそこそこにヤツの屋敷を飛びだした。

 屈辱よりもさきに、焦りが身体を支配し、動かしている。ヤツがエスパーと呼ばれているのには理由がある。どんな事件でも瞬く間に解いてしまう、異端の探偵だからだ。私たちの出した答えが食い違っているということは、私のほうの推理が間違っているということになる。いけすかない野郎だが、ヤツの頭のキレは、たといナイアガラの滝だろうとも分断できるほどの切れ味だ。それは私がいちばんよく知っている。手渡されたナプキンを読めば、そこに事件の真相がつづられている。報酬を支払ってないから読むことはできない。私はじぶんに言い訳をして、中身を改めずにいる。

 鳥間の家へ向かっていることに確固たる理由はなかった。とにかく行かねばならない、という焦りがあるだけだ。

 密偵していたあいだに彼の住所は調べ上げている。途中でタクシーを拾い、住所を告げ、急がせる。

 車窓に流れるネオンを眺めながら、私は考える。被害者を殺したのは鳥間ではない。ここまでは確かだと断言できる。アリバイがあるからだ。では犯人は、と考えたときに出てくる容疑者は、私の知るかぎりでは鳥間をストーカーしていた女しか挙がらない。そうでなければ通り魔のようにあらゆる人間を容疑者にしなくてはならなくなる。では鳥間のストーカーが犯人だったとして、私の推理のどこが間違っていることになるのか。

 答えはすでに手のひらのなか、ナプキンに記されている。ここに答えがある以上、私の推理が当たっているということはない。しかしすべてが間違っているとも思えない。だとすれば、考えられるのは、被害者と加害者の構図である。

 今回の事件では、被害者は戸蜂リヨという名の大学生だ。そこに彼女の家族や恋人である鳥間、友人たちを混ぜてもいい。

 彼らはみな、犯人によって深い傷を負った。

 だがもしも、この被害者たちのなかに、犯人側の者がまじっていたとしたら。被害者のふりをして、みなを欺いている者がいるとしたら。

 それは鳥間という男のほかに思いつかない。

 たとえばこういう筋書きはどうだ。

 鳥間は自分のストーカーを利用して、被害者を殺した。完璧なアリバイを作っておいて、そのあいだにストーカーに被害者を殺させた。

 なんのために?

 動機ならばいくらでも考えつく。恋人同士で芽生える殺意などいくらでもある。愛しているからこそ抱く殺意だってあるだろう。

 永遠の存在とするために愛する者を殺す。これもまた卑近な動機に違いない。

 

 鳥間の住むマンションに到着する。私は着物の帯を締め直し、鉄でできた扇子を握る。

 部屋の明かりは点いていない。時間的には就寝していてもおかしくはないが、念のためメディア端末で連絡を取ってみる。出ない。電源は入っている様子だが、留守電サービスに切り替わってしまう。やはり寝ているか。

 なかなかセキュリティのしっかりしているマンションだ。壁を飛び越え、非常階段に潜りこみ、目当ての階までのぼる。扉に鍵がかかっているが、探偵のたしなみ、ピッキング――ではなく、力任せにこじ開ける。警報機が音もなく作動したが、警備会社からひとがやってくるまではあと数分の猶予がある。私は鳥間の部屋のまえまでいそぎ、インターホンを押した。

 応答がない。ここまで来て引き返すわけにもいかない。ここはさすがにピッキング――とみせかけて扉をこじ開ける。

 部屋の奥から饐えた臭いが、抜けるように漂ってくる。電気を点けようとするが、スイッチが見当たらない。

 足を踏み入れる。一歩、二歩、と進むにつれ、まるで獣でも飼っているかのような臭いが増していく。

「誰……」

 闇の奥から声がした。遮光カーテンなのか、部屋は予想以上に暗く、生臭い。

「管理会社の者です」

 咄嗟に嘘を吐く。「近隣から苦情がありまして、様子を見に来ました」

「帰って……」

「いえ、そう言われましても」

 壁に手を這わせるとスイッチらしきものを発見した。いくら押しても明かりは点かない。

 声の主は何事かをつぶやいており、女性なのだと判る。異常な様子だ。鳥間がいないことに不安を覚えながらも私は話をするべくすこしずつ詰め寄る。

「……ないでよ」

「え?」

「じゃ……し……でよ」

 床には雑貨らしき物体が散乱しており、歩くたびに蹴とばしてしまい音が鳴る。彼女はその音に反発するかのようにこちらと対照的に動く。

 視界は依然として暗いままだ。机につまずき、大きな音が鳴った。

 闇の奥の女は足元の雑貨を踏み荒らしながら、隣の部屋へ逃げ込んだ。

 深追いするのは危険だと感じたが、身体は彼女のあとを追いかけている。ここで引いてはいけない、という直感が働いている。

 彼女の逃げ込んだ扉には鍵がかかっておらず、中には明かりが灯っている。

 入ってすぐ、黒く乾いた絵具の池を連想した。

「鳥間さん?」

 もしかしてそこに細切れになって転がっているのは、鳥間さんですか?

 頭のなかで丁寧に訊ねる。いったい誰に向けてへの疑問なのか、とじぶんでも笑いたくなる。

「じゃましないで、じゃましないでよ、せっかくいっしょにな、な、な、なれ、なれたのに」

 包丁を逆手に持って、切っ先を自分の首にあてがう女を見て、私は彼女の異常な行動よりもさきに、

「え、なんでここにあなたが?」

 と思った。

 目のまえには、鳥間の生首を抱えた戸蜂リヨの姿があった。いや、被害者の顔とそっくり同じ顔の女がいたというべきか。

 なるほど。

 私はじぶんが大きな謬見を抱いていたことを察した。

 鳥間は被害者の恋人などではなかったのだ。彼こそが被害者のストーカーだったのだ。同時に彼もまたストーカー被害に遭っていた。だが彼は自分のストーカーを被害者そっくりの顔に整形させ、手元においていた。

 ではなぜ被害者を殺したのか。

 偽物を本物とするために殺したのだ。いや、偽物の彼女が、自分こそ本物になろうと躍起になり暴走した可能性は否めない。いずれにせよ、鳥間は愛する者と同じ顔の女に殺された。

 事件当日、目撃者がいなかったのも納得だ。なにせ犯人は被害者と同じ顔をしていたのだから。

 厄介な事件だ。知れず頬が緩んでいる。

 女の首に、ゆっくりと刃先が埋もれていく。引っ張られた皮が、あるところを境に、ぷつりと弾ける。トマトの皮に針を刺した光景を想像し、思わず凝視してしまう。

「やめなって」私は呼びかける。「ぜったい痛いから」

「いっしょ、いいいい、いっしょになるんだって、と、とりりり、と、とりまくんが言ってくれたんだもん」

 よほど精巧につくられた顔なのか、彼女が笑おうとしても被害者の顔は僅かに歪むだけで、表情の変化が乏しい。皮肉にもそれが儚げな微笑に映るのだから、整形した甲斐はあっただろう。

 彼女は腕に抱いた鳥間の顔に舌をねじいれながら、自身の首に包丁をもねじいれた。

 痙攣した手で引き抜くと、赤い花が咲いた。

 乾いた絵具のうえに、新鮮な赤い色が拡がっていく。

 視界の端に皿の束がくすぶっている。目をやると、並べられた皿のうえには、細切れになった肉が積み木のように連なっている。ゆかに転がる肉塊を繋ぎあわせてみたところで、子どもしか組みあがらないだろうと思った。

 いきつけのレストランのハンバーグを思いだしながら私は、まだお店やってるかな、と腕時計を見た。



END




【まだ××じゃないよ】


 恋とか、好きになるとか、よぉ解らん。

 なしてみんなはあんなに必死にレンアイ、レンアイ、騒いでいるのか。

 チグサはさぁ、とクラスのユカちゃんが言う。「いつまでも純粋でかわいいよね。初ちゅーもまだなんでしょ?」

 初恋もまだなんですが。

 なんだか恥ずかちいので言わずにおく。クラスのみんなは、わたし以外、みんな恋に夢中だ。休み時間になればこうして輪っかになって、誰々が誰々とチューしただの、エッチなことしただの、浮かれ放題しゃべっている。わたしもその輪の中に加わってはいるのだけれど、話にまじるわけでもなく、みんなから分け与えられるアンパンやらメロンパンやらを齧っている。

「チグサってばリスみたい」

 皆川さんが突然やってきて言った。皆川さんは化粧が上手なうえに、元の顔も端正だ。所属する部活動が同じで、クラスメイトでもないのに何かとわたしにちょっかいを出してくる。ときどきわたしは、皆川さんのペットか何かのような気になってくる。それもわるくないな、とこのごろは割と本気で考える。みんながタガを外していき、生々しく過激な話に突入していくと、決まって皆川さんは、「チグサも聞いてるんだからね」と諌める。みんなもそこではっとした様子で、「ごめん、ごめん」と素直にお口にチャックをする。まるで子供のまえで離婚話を切りだしてしまった主婦のようなしぐさに、わたしはふと心細くなる。

 中間テストが終わり、夏休みもあとすこしというころ、わたしは初めて皆川さんの彼氏さんらしき人物を見た。マンガの新刊を買いに駅前のショッピングモールへ出張っていたのだが、小腹が減り、パフェが人気のファミリィレストランに入った。そこで皆川さんと遭遇した。

「あ……」

 ストローに口をつけ、オレンジ色をしたジュースを啜っていた皆川さんはなぜかこちらと目が合うと顔色を変え、

「チグサ、こんなとこでなにしてんの」

 なにかを取り繕うように唇にストローをぶらさげたまま言った。

「うんと、本を買いにきた」

「ネットで注文すればいいのに」

「でも、特典がつくから」

「あ、だから本屋じゃないとダメなんだ?」

「そうそう」

 なにごともなかったように世間話をはじめたわたしたちを、皆川さんの向かいに座る男のひとは戸惑いがちに眺めている。

「このひと、皆川さんの彼氏さん?」わたしは火災報知機を押さんばかりに腕をまえに突きだした。

「ゆび、ささないの」

 腕を掴まれ、皆川さんに注意される。それから皆川さんは、

「彼氏なわけないでしょ」

 横目で男のひとを窺うようにチラチラ見遣りながら、「そんなことより」とわざとらしく話を逸らした。「チグサはこれから帰るの?」

「うん。もう用は済んだし」

「ならいっしょに帰ろっか?」

「え、でも」

「いいから、いいから」

 小腹が減ったので何か食べていきたいという旨を主張したつもりで渋ったのだが、何を勘違いしたのか皆川さんは、こんなやつなんでもないんだから、と男のひとを「なんでもないやつ」扱いして、わたしの背を押すようにお店をあとにした。去り際に振り返ってみると、男のひとは何かを察したように黙したままメニュー表を眺めていた。

「いいの、彼氏さん?」

「いいの、いいの」

「でも、淋しそうだったよ」

「チグサはそんな心配しなくていいんだよ。それに、彼氏じゃないから」

「そうなんだ」

「そうなのだ」

 おどけたように言う皆川さんはけれど、こちらを見てくれない。わたしは歩を止め、ライオンのように射すくめる。

「どうしたの、チグサ」皆川さんは歩を止めた。「そんな上目使いなんかしちゃって」

 ヤダなかわいいぞコラ、とほっぺたをつねってくる。これではまるで調教師に手玉にされるサーカスのライオンではないか。

 機嫌を損ねているというこちらの心境はかろうじて伝わったのか、皆川さんはそそくさとクレープ売場へと足を運び、そこでチョコバナナクレープを二つ買って戻ってきた。

「ささ。これでも食べて機嫌を直すといいよ」

 黙って受け取り、溢れんばかりの生クリームを舌でなめとる。うまい。

 止めた足をふたたび動かし、わたしは道を歩く。皆川さんはわたしのよこに並び、ちらちらと表情を窺うように見下ろしてくる。

「なぁに?」

「ううん。なんでもない」

 ほころびを隠すように皆川さんは大きな口でクレープを頬張った。

 この日はそのまま駅まで歩き、そこで皆川さんとは別れた。

「なんかデートみたいだったね」

 別れ際、興奮気味に投げかけられたけれど、マンガの知識でしかデートというものを知らないわたしであるので返事をするのはためらわれた。そうこうしている間に皆川さんは電車に乗り込み、窓越しに手を振りながら、遠ざかっていった。

 学校ではおしとやかな皆川さんであるけれど、なかなか突飛なひとである。

   *

 夏休みに突入するまでわたしは、相変わらずみんなの輪の中にいながら、鎖でつながれた犬のように彼女たちの会話をクンクン鼻をひくつかせながら聞く生活を送っていた。

 みんなは代わる代わるわたしをひざのうえに載せ、クッション代わりに抱きしめたりする。皆川さんはそんなわたしにおやつを与えてくれる。わたしはそうしてクラスの共有物のようにオヤツをモシュモシュ頬張りながら、含蓄深いみんなの会話に耳を傾けているのだった。

 夏休みに入ってからは、一人の時間が増えた。学校で飼われているウサギやらシャモやらとおんなじだ。学校という空間にあってはじめてわたしは「わたし」という役割を担える。そこを一歩でも離れたらわたしは「わたし」という役柄を降りなければならず、すなわち誰からも遊びに誘われたりなどしない淋しい夏休みを送ることになる。

 夏休みのあいだ、学校で飼われている動物たちはいったい誰が世話をしているのだろう。わたしは彼らに同情し、異国に渡った子を思う母親のような気持ちで案じたが、わたし自身が世話をしに行こうという気にはならなかった。

「お母さん、また勝手にわたしのパンツ捨てたでしょ」

 ある日のこと、着替えようとしたら替えのパンツが残らずすべて消えていた。

「だってあんた、何年同じ下着穿くつもり? そんなんじゃトモダチに笑われるよ」

 だからってすべてのパンツを捨ててしまうのはいかがなものか。せめて替えのパンツを買ってからにしてほしかった。そういった抗議をワンピースに着替えながらしていると、訪問者を報せるベルが玄関から鳴った。

「チグサ、出て」

 母は物置のなかでガサゴソやっており、手が離せないようだ。着替えの途中だったけれど、仕方なくわたしは玄関へ向かった。

「はーい」

「やっほー」

 立っていたのは皆川さんだった。

「え、なんで?」

 驚嘆した理由は主に二つだ。夏休みが明けるまで相手にされないはずのウサギやシャモたちと同じわたしの家へ、なぜ皆川さんが訪ねてきたのか。そして、なぜ皆川さんがわたしの家を知っているのか、だ。

「だってチグサ、ケータイ持ってないんだもん」

 わたしが問うと皆川さんは、そう言ってあべこべにわたしを責めた。

「ごめんなさい」

「よし、ゆるそう」

 何かが違う気がした。

「なにしてたの?」皆川さんは玄関口に顔をつっこみ、興味ありげに家のなかを覗いた。

「さっき起きたばっかりで、なにもしてないよ」

「じゃあ、暇?」

「暇かと問われたら否定できない」

「そ。ならいっしょにデートしよ、デート」

「えぇ」

 倦怠感に溢れた声が出たのは、べつに皆川さんとお出かけするのが嫌だったからではなく、健全な学生として宿題をやっつけねばならぬ、と心に決めていたからである。

 風が吹きこみ、風鈴が鳴った。

 おしりがスース―する。涼しい。

「そうだよね。急に押し掛けたりしたら迷惑だよね」

 皆川さんはバナナを取り上げられたお猿さんみたいな顔をした。わたしは反射的に、「暑くないところならいいよ」と言っていた。

「え、いいの?」

「デパートとか、そういうところなら」

「パフェでもなんでもおごっちゃう」

 とても素敵な提案に聞こえた。

「ちょっと待ってて、お財布持ってくるから」

 家に引っ込み、わたしは部屋から麦わら帽子とお財布を取って、物置のなかでガタゴトやっている母に、「パンツ買ってくるからお金ちょうだい」とデートの軍資金をせがんだ。

「パンツじゃなくてショーツ」

「ショーツ買うからお金ちょうだい」

 物置から伸びてきた手に包まれていたのは、わたしのお小遣い半年分という大金だった。

「ちゃんと十枚は買ってくること。ついでにブラも買ってきなさい。サイズ測ってもらうの忘れないでね」

「いらないよ、ブラなんて」

「何言ってんの、あんた高校生でしょ」

 高校生だから何だというのか。誰もが高校生になったら無条件でブラジャーの必要なくらいにおっぱいが大きくなると思っているならば大間違いだ。中国と天国、どっちが大きいのかと悩むくらいにズレた発言であることを自覚してもらいたいものである。ともあれデートの軍資金にするつもりでせがんだお小遣いなので、黙っておく。

「行ってきまーす」

「ちゃんと買ってくるのよ。でないとあんた、おしり丸出しで学校に通うことになるからね」

 そんな大声で言わなくとも。皆川さんが聞いているのだ、せめてノーパンと言ってほしかった。責めたくなったけれど、ここで口げんかを繰り広げては、皆川さんに筒抜けになってしまう。湧いた憤懣をぐっと呑みこむ。

「お待たせ」

 サンダルに足を突っ込み、玄関を出る。「うちのお母さん、うるさくてごめんね」

「ううん」

 道路に出る。焼けたアスファルトが陽炎を浮かしている。すこし歩いたところで皆川さんは振り返り、太陽に負けず劣らずの眩しい笑顔を浮かべた。

「チグサ、ノーパンで学校に通うの?」

「ううん」

「だよね」

 ホッとしたような顔つきに、今はノーパンだけどね、と続くはずだった言葉を呑みこんだ。

   *

 正午過ぎにデパートに到着した。皆川さんもお昼ご飯がまだだったらしく、パンツを購入する前に腹ごしらえをすることになった。

「どこで食べようか」

 食堂の立ち並ぶ最上階は、昼時という時間帯もあってか混んでいた。

「ここがいい」

 言って足を踏み入れたのは、以前、皆川さんと恋人らしき男のひとを見かけたファミレスだ。

「えぇ。せっかくなんだからもっとコジャレタとこにしようよ」

「ここがいい。パフェ食べたい。だめ?」

「ダメじゃないけど……うーん。まあ、チグサがそう言うのなら」

 渋々といった調子で皆川さんはわたしの対面に座った。わたしが壁際で、皆川さんが通路側だ。メニュー表を開き、皆川さんは、「好きなもの頼んでいいよ」と言った。「ただし、三つまでね」

 一食でないことに驚きを隠せないわたしがいた。

 ハンバーグセットとパフェを注文し、それから食べてみたかったバティコテラという未知のデザートを頼んだ。大きさからして一人で食すタイプのものではなく、数人で摘まむようなものらしい。皆川さんと一緒なら食べきれるだろう。わたしの意図を汲んでくれたのか皆川さんは、ミートソースパスタだけを注文した。

「チグサ、食べきれる?」運ばれてきたハンバーグセットを眺め、皆川さんは不安そうに眉を顰めた。

 質問の意味が解らず、わたしはきょとんしながらいただきますを言い、フォークを掴んだ。ちいさく切ったハンバーグをライスといっしょに胃に納めていく。だいじょうぶそうだと見做したのか、皆川さんもパスタを口に運んだ。フォークとスプーンを器用に使っている。わたしに足りないのはこういう上品さだ。

「どうしたの?」

 じっと見つめていたからか、皆川さんは噴きだすように目を細めた。「チグサ、赤ちゃんみたい。こっち見るか、食べるか、どっちかにしたら?」

 からかうような口調に、わたしは恥ずかしくなる。目を伏せ、食べることに専念した。

   *

 食後のデザートが運ばれてきたころ、わたしはふと思いだし、「あの男の人が皆川さんの恋人でないのなら」と口にしていた。「じゃあ、何なの?」

 パティコテラをスプーンで掬ってチビチビ舐めていた皆川さんは盛大に咳き込んだ。

「だいじょうぶ?」

「ごほごほ。ちょっとチグサ、意表を突かないで、くるしい」

「そういうつもりはなかったんだけど」わたしはなぜか、皆川さんがクロヒョウを槍で突いている場面を想像した。「訊かれて嫌なことだったら謝る。ごめんなさい」

「いや、いいよ。いいから。謝んないで」皆川さんは手をまえに突きだし、わさわさ振った。それから前のめりだった身体を戻し、背もたれに寄りかかる。「あいつは、ただのトモダチ。というかチグサ、恋人って冗談でなく、本気で言ってたわけ?」

「うん」

「呆れた」

「だって、すごい親しそうだったし」

「トモダチなら親しくて当然でしょ」

「すごいカッコいいひとだったし」

「え、ああいうのがタイプなの。どっちかって言うとあいつ、うちの姉さんに気があるよ」

「ちがうよ。皆川さんとお似合いだなって」

「お似合いって……。もしかしてチグサ、ユカたちからヘンな漫画借りたりしてないよね」

「ヘンかは分かんないけど、うん。チグサなら解ってくれると思うとかなんとか真剣な感じで借してくれたから、読んでるけど」

 どれもだいたい三十ページくらいの薄さで、内容は恋愛物だ。おおむね主人公は男性で、中世的な顔立ちの相手とドタバタの恋愛劇を繰り広げていく。ときには裸で抱き合っていたり、絡みついていたりする。相手の下半身から生えるタケノコかキノコか判断つきかねる棒状のものを口に含んでは、恥ずかしがったり、赤くなったり、苦しそうに眉間にシワを寄せる描写が大部分を占めている。ヘンと言われればたしかに妙な漫画ではあった。

「あれがどうしたの?」

「条例違反だ。ユカにはお灸を据えなきゃだね」皆川さんは、フンと鼻から息を漏らし、あれだけチグサには与えるなって言っておいたのに、とぼやいた。

「読んじゃだめだった?」

「ダメだったねぇ。借りた本、家にある?」

「あるよ。いっぱい」

「なら帰り、家に送ってくついでに預かるから」

「没収?」

「そ、没収」

 パフェを食べ終え、グラスの底をスプーンでかき回しながらわたしは、

「ユカちゃんたち、あんまし怒んないであげてね」と言った。

「チグサはやさしいなぁ」うれしそうに皆川さんは言った。

「皆川さんがすこし厳しいだけな気がする」

「そう? でもチグサにはやさしいでしょ?」

「うん」

「チグサだけは特別だから」

「どうして?」

「なんでだろうねえ。チグサも考えてみて」

 頬杖を付きながら皆川さんはいじわるそうに目を細めた。言われたとおり考えてみた。なぜ皆川さんはわたしを特別扱いするのか。おとなは無条件に赤ちゃんを甘やかす。あれと同じようなものだろうか。同じだとすると、これはちょっと見過ごせない事態だ。認めるわけにはいかない。

「謎は深まるばかりだ」わたしは名探偵さながらに唱えた。

「なんだぁ」皆川さんは、ちぇっ、と唇を尖らせ、それでも頬杖をついたまま愉快そうにした。「はい、これ。残りはチグサが片づけて」

 こちらに押しやられたお皿のうえには、チョモランマのようなパティコテラが載っている。わたしはお腹を締めつけているワンピースの紐を緩め、パティコテラのあたまにスプーンを突き刺した。決戦の火ぶたは落とされた。わたしはチョモランマをやっつけていく。

   *

 さきに昼食を摂ったのは失敗だったかもしれない。ぱっつんぱっつに張ったお腹は、妊婦さんも顔負けだ。いまならお母さんのパンツだって穿けるだろう。あべこべにじぶんのパンツを穿けない可能性がある。ノーパンで来て正解だったかもしれない。風船のように弾け飛んでいたに違いない。

「え、下着買うの?」

「うん。どういうのがいいかな」

 下着売り場に入ると、皆川さんは挙動不審になった。わたしはそれがおかしくて、わざと気づかないふりをした。しれっと下着を選んでいく。

「こういうのは?」手に取ったパンツを掲げてみせる。

「ちょっと派手な気がする」

「じゃあこれ」

「過激じゃない? 大事なところがスケスケだよ」皆川さんはちょっと離れたところに置かれたカートのまえまで行き、「チグサにはこういうのが似合うと思う」と言って、セールス品の下着の山からいくつかのパンツを摘まんでみせた。

「おかしいなぁ」わたしは言った。「クマさんマークが描いてあるように見える」

「こっちはウサギさんだよ」皆川さんはもう一つを手に取った。ウサギがニンジンを咥えている。

 ぶんどるようにしてわたしは値札を見た。「対象年齢が八歳って書いてある」

「精神年齢じゃなくてよかったね」

「もしかしてバカにしてる?」

「もしかしなくてもバカにしてる」

「いじわるしないで」

「だってチグサってば似合わないのばっかり選ぶんだもん」

 拗ねたように言う皆川さんはいじらしい。しかし、そんなことで惑わされたりしない。わたしにだって乙女心というものがある。女子高生としての矜持がある。高校生にもなってクマさんやウサギさんマーク入りのパンツは穿きたくない。

「もうちょっとオトナびたやつがいい」と催促する。

「わがままなお嬢さまだ」

 やれやれと皆川さんは首を振り、

「こういうのは?」

 小さなリボンのついた無地のパンツを手にした。中学生のときにオシャレな女の子たちが穿いていたようなパンツだ。母に捨てられたわたしのカボチャパンツたちと比べればたしかにオトナびてはいるが、せめて高校生が穿くようなモノを選び取ってほしかった。ただ、わたしごときが文句を言うのもおこがましいくらいに、その小さなリボンのついたパンツは中々どうしてかわいらしく、それこそ魅力的に映った。

「じゃあ、それにする」

「じゃあってなに、じゃあって」

 皆川さんが不服そうに言った。わたしは不承不承の体で、まんざらでもなく皆川さんの選んでくれたパンツを買い物カゴに入れた。

   *

 本屋さんに寄った。本棚に並ぶ雑誌の表紙を眺めていると、見知った顔を見つけた。

「ほら、これ」わたしはうれしくなってゆびさした。

「うん」皆川さんは頷いた。「そう言えば今月から表紙を任されたって言ってたっけ」

 皆川さんのお姉さんはモデルをしている。皆川さんに似て、とてもきれいな顔立ちだ。

「皆川さんはモデルしないの?」

「うちの高校、バイトだめでしょ。だから」

「ふうん」

 うそだと思った。皆川さんは、あまり目立つようなことが好きではないのだ。だから化粧が上手なのに、自分では化粧をせずにいる。いや、どうだろ。これは関係ないかもしれない。

 わたしはマンガコーナーに齧りつき、ふと気づくと近くに皆川さんの姿はなかった。店内を見回ると、専門書の並ぶ一画に皆川さんはいた。小難しそうな表紙の本を開いている。

「なに読んでるの?」わたしは近づき、覗き込むようにした。

「わぁ! びっくりしたぁ」

 跳ねるように身を強張らせた皆川さんがおかしくってわたしは、店内であることもおかまいなしに大声で笑った。

「チグサ、うるさいよ」周りの目を気にして皆川さんは、あたふたした。

「ごめん、ごめん」わたしは滲んだ涙をゆびで拭った。「あーおもちろかった」

 まだお腹の奥がもぞもぞする。皆川さんはなにかを言いたげに口をパクパク鯉の真似をしたけれど、言葉のほうは呑みこんだ様子だ。代わりに、こちらに背を向け、持っていた小難しそうな表紙の本をカウンターへ持って行く。

「なに買ったの?」

 本屋さんを離れていく皆川さんを追っかけてわたしは背中に投げかけた。

「ひとをびっくりさせておいて、それを肴に爆笑するような子には教えてあげない」

「知ってる、皆川さん? 爆笑って、大勢がいっせいに笑い声を立てる様を表した言葉なんだって」

「怒ってるひとの揚げ足を取るような子の顔なんて見たくありません」

「んー。でもチグサは皆川さんと仲良くしたいのに」

 皆川さんが一瞬こちらを振り向こうとしたのが分かった。だるまさんがころんだ、と唱える鬼がフェイントをかけるようなぎこちない所作だ。わたしは畳みかけるように言った。

「きょうは楽しかったなぁ。また皆川さんといっしょに来たいなぁ」

「なに言ってんの。まだきょうのデート、終わってないから」

 やっとこちらを向いてくれた皆川さんは威嚇する猫みたいな顔で、イー、と歯を剥き出しにした。

   *

 ペットショップに寄って、子猫のかわいらしさと子犬の無邪気な様を見て胸の奥をくすぐられ、入場無料の絵画展で抽象画の意味わからなさに「なんじゃこりゃ」と頭を悩ませた。

「ピカソはでも、本当はすごく絵が上手だったんだよ」わたしはそれを知ったときの衝撃を思いだしながら言った。

「そんな風には見えないのにね」

「皆川さんが、意外にも怒りんぼうだっていうのと似てる」

「ムっ」

「ほら!」

「今のは怒ったんじゃなくて、ムっとしたの」

「皆川さんは言い訳が下手である」わたしは手にメモをとる真似をする。それからまた皆川さんがムっとする前に、「普段はすごくやさしく見えるってことだからね」と注釈を入れた。

「見えるだけじゃなくてやさしいでしょうよ」

「皆川さん、うぬぼれって知ってる?」

「チグサがこんな子だったなんて知らなかった。ざんねんだー」

 皆川さんは棒読みでもういちど、ざんねんだー、と言った。わたしも釣られたように、ざんねんだー、と復唱し、しばらくふたりで、ざんねんだー、を合唱した。

「こんど、美術館に行こう。チグサはいい加減なことばかり言うから、本当にピカソは絵が上手だったか、確かめる必要がある」

 皆川さんの提案はいつ聞いてもすばらしい。わたしは文句を挟むのも忘れ、おー、と拍手した。

「美術の課題、ちゃんとやってる?」

 夏休みの課題として美術部の部員には秋のコンテストに向けての作品作りが課せられている。わたしはまだテーマさえ決めていない。

「皆川さんに手伝ってもらうからだいじょうぶ」

「心配だってことは解った」

 はいこれ、と皆川さんはさきほど買った本を差しだしてくる。「チグサに足りないのは古典に対する知識だよ。センスあるんだからもっと貪欲に天才たちの技法を盗まなきゃ」

「盗人にはなりたくないよ」

「言い直そう。チグサはもっと勉強しなきゃダメ」

「ダメかぁ」

「ダメダメだね」

 そこまで太鼓判を押されてしまってはこちらも本気を出さざるを得ない。「いまにみてろぉ」

 受け取った本をわたしは胸にぎゅっと抱いた。

   *

「わぁ、もうこんな時間」

 デパートを出ると、そらが真っ赤に燃えていた。なぜこうまでも赤いのに血を連想しないのだろう。夕焼けの神秘に思いを馳せる。

 駅まで歩く。なんだか急にしんみりとした空気になった。面映ゆい。乗る電車がべつなはずだのに、ホームに来ても皆川さんはバイバイを言わなかった。

「あ、電車来たよ」

 皆川さんの乗るべき電車が、反対のホームに滑り込んできた。

「送ってくから、だいじょうぶ」

 どうやら地元まで付いてきてくれるらしい。断ろうとも思ったけれど、なんだかそれは皆川さんの善意そのものを拒むようで憚られた。電車に乗ると、他校の生徒らしき男女が仲睦まじそうに寄り添って座っていた。

「付き合ってるのかな?」わたしは小声で皆川さんに言った。

「そうじゃないの」皆川さんは車窓のそとに目を向けたまま、そっけなく言った。なぜか冷たく突き放されたような気持ちになった。わたしはそれから電車を降りるまでずっと口を開かなかった。

「ここでだいじょうぶ。ありがと」

 駅のまえでわたしは言った。辺りはすっかり暗くなっていた。

「家まで送るよ。せっかくここまで来たんだし」

「うん」わたしは拒まなかった。

 商店街を抜けて歩く。周りが騒がしくなったからか、皆川さんがすぐよこに立って、わたしを庇うように歩いた。はぐれないようにという意味なのか、手を繋がれる。見上げると、わざとこちらを見ないようにしているのか皆川さんはツンとあごを上げていた。きれいな顔だなぁ、とわたしは見入った。

「お腹すかない?」

 コロッケ屋さんのまえで皆川さんが言った。わたしが何も言わずにいると、かってにコロッケを二つ買って、戻ってきた。はい、と手渡される。わたしは唯々諾々と、それこそ笹の葉を与えられたパンダのように受け取った。皆川さんはわたしの手をとると、ちょっと寄り道、とつぶやき、脇道へ逸れた。公園が見えていた。吸い込まれるように皆川さんは公園へと入っていく。

「はぁ、疲れたぁ」

 皆川さんはブランコに腰掛けた。わたしも隣のブランコに座った。

「いろいろ、ありがとう」わたしはあたまのなかで用意していた言葉をモソモソ言う。

「こちらこそ強引に誘ってごめんね。付き合ってくれてありがとう」

 落ち着き払った物言いに、皆川さんはおとなだなぁ、と思った。

「チグサはさ」

 街灯に蛾が数匹群がって飛んでいた。「チグサは、好きなひととかいないの」

「うーん。わかんない」わたしは蛾の軌跡を視線で辿った。

「恋愛とか、興味ないんだ?」

「どうだろ」わたしは考えながら口にする。「興味はあるけど、遠い国のできごとみたいで、実感が湧かないんだぁ。ドラゴンに会いたいなぁ、みたいな。恋愛ってどんな味だろうなぁ、みたいな」

「そっか」皆川さんはブランコを漕ぎはじめた。わたしも真似て、足を振る。

 しばらくふたりして追いかけっこみたいにブランコを飛ばした。

「チグサが嫌じゃなかったらでいいんだけど」

 ぽーん、と皆川さんはブランコから飛びだした。弧を描くように宙を舞い、華麗に着地する。わたしは一人バカみたいに高見を目指してブランコを漕いだ。あとちょっとで月に届きそう、なんて考えていた。

「付き合わない?」

 皆川さんはこちらを向いた。「チグサのこと、好きなんだ」

 街灯がすぐそばに立っている。辺りは明るい。わたしはブランコを漕ぎつづけ、両足を振りあげている。皆川さんの突然の告白に耳を留めながらわたしは、何かだいじなことを忘れているような気がする、と嫌な引っかかりを覚えた。

 振り向いた皆川さんはこちらをぽかぁん、と口を開けて見上げている。

 わたしの巻き起こした風でワンピースがめくれ上がり、その裾がわたしの鼻のあたまをくすぐっている。

 せっかく買ったのだから、穿くべきではなかったか。

 じぶんの状態を認識するよりもさきにわたしは、最終的に導きだされるはずの答えを最初に思い浮かべていた。

 そうだ、わたしは今ノーパンなのだ。略さずに言えば、ノーパンツだ。穿いていないのだ。だいじなところがノーガードなのだ。曝け出しているのだ。めくれあがっているのだ。

 おしりがスースーすることにすっかり慣れてしまっていた。

 皆川さんは何かイケナイものを見てしまったかのようにすぐに顔を逸らした。それは逆説的にイケナイものを見てしまったのだ、という確定申告的な反応でもあった。

 わたしは両足を地面に付き立て、踏ん張った。ブランコは止まったが、勢いあまって身体がつんのめった。目のまえには柵があり、危うくぶつかりそうになったところを皆川さんが身体を張って受け止めてくれた。

「あ、ありがと」

「あぶないよ」

 皆川さんは目を合わせてくれない。なぜか背中に腕を回され、ぎゅうと締めつけられる。

「なんだか動けないんだけども」わたしは戸惑いがちに言った。

「動けなくしてるからね」皆川さんはなぜか得意げだ。「さっきの話、聞いてた? 返事、くれるよね」

「えっと、なんでしたっけ?」わたしはそら惚けた。

「わざとでしょ。解ってるから。ごまかさないで言って。ダメならダメだって、はっきり言ってくれていいから」

「ダメじゃないよ」

「でもよくもないんだ?」

「うーん」

 わたしは思うのだ。皆川さんと恋人同士になるというのは、世間体的にイケナイことではないのかと。きっと皆川さんも相当に悩んだはずだ。それを思うと、世間体を理由に断るのは卑怯な気がした。

「わかった。きょうはそれでいい」皆川さんは言った。「こんど美術館に行くときにまた言うから。そのつぎにどっか行くときにも言う。ずっと【好きだ】って言いつづけるから、チグサが付き合ってもいいかなって思ったら、そう言って」

「わかった」

「嫌いになったときも、そう言うんだよ。じゃないといつまでもまとわりついちゃうからさ」

「嫌いになることはないと思うなぁ」わたしは言った。

「それって好きってことじゃないの?」

「そうなのかなぁ」

 皆川さんがこっそり息を呑んだのが分かった。それから、ねえ、と言った。

「キスしてみてもいい?」

「それで何か分かるの」

「どうだろ。だから試してみるんだよ」

 背中に回された腕のちからが緩んだ。月明かりのように熱い眼差しが真上から降りそそぐ。

 目を伏せてからわたしは、すこし考え、それからそっと目をつむった。

 あごに、皆川さんの冷たく細いゆびが触れた。

   *

 夏休みが終わるとわたしはふたたびクラスの共有物のように、アンパンやらメロンパンやらを齧っている。みんなどこかあか抜けており、聞こえてくる話題も、塾講師のお兄さんに一目惚れしただの、夏祭りでナンパしてきた男衆とこんど合コンを開くだの、以前にも増して過激になっている。

「チグサは何してたの?」

 ひととおり語り終えたのか、ユカちゃんたちが水を向けてきた。夏休みになにか刺激的なことはあったのか、という質問だ。

「何もしてないよ」

 その答えに満足したように、そうだよねぇ、とユカちゃんたちは笑みをつくった。「チグサにはまだ早いもんねぇ」

 あ、ミナっちだ。

 廊下を歩いていた皆川さんを見つけ、ユカちゃんたちが声を張った。「ミナっち、こっちこっち。新しいライン買ったの。付け方教えて」

 甘い声で手招きする。

「いいよ」

 クラスに入ってきた皆川さんはわたしの隣に腰を下ろした。手渡された化粧道具を見て、「あーこれはねぇ」と説明を開始する。皆川さんは化粧をするのがとても上手だ。小さいころからモデルのお姉さんに化粧の練習台にされていたためか、すっかり覚えてしまったのだという。だからユカちゃんたちは化粧道具を新調するたびにこうして皆川さんに教授を仰ぐ。

「ミナっちもモデルやればいいのに」いつものようにユカちゃんが言った。「もったいないよ、こんなにきれいな顔して」

「ありがとう。でも、おだてたって、チグサにBL貸した罪は消えないからね」

「あ、やっぱり?」

「びーえるってなに?」わたしは訊いた。

「これでよしと」皆川さんはユカちゃんに手鏡を向けた。「どう?」

「すごい、イイ。やっぱりミナっちは腕がいいなぁ」

 ほかのコたちも皆川さんのやり方を真似て、自分の目にラインを引いていく。

「化粧なんてしなくていいのに」皆川さんはそんな彼女たちを見て、ぼやいた。「せっかく元がかわいいんだからさ。若いんだし」

 もっとかわいくなりたいでしょ、とユカちゃんは言った。ほかのメンバーも頷く。わたしだけ蚊帳のそとだ。

「そうだ。チグサにもしてあげる」ユカちゃんが思いついたようにこちらを向いた。魔法の杖を振りかざす魔女のように嬉々としている。

「コラ。チグサに手ぇだしたらもう二度と化粧してあげないよ」

 契約違反を訴えるような皆川さんの声に、いっしゅん教室が静まり返った。

「うそだよ、うそ。チグサはこのままでかわいいもんね」

 ユカちゃんがわたしのあたまを抱きしめるようにした。

「皆川せんせー。美術室の鍵がないって福田先生が探してまーす」

 廊下のほうで皆川さんを呼ぶ声がした。これは担任の横田先生の声だ。

「はーい。今行きまーす」

 返事をして皆川さんは席を立った。

「あ、そうだチグサ。こんどの日曜、じかんある?」

「あるけど、なんで」

「このあいだの美術館じゃ観らんなかったでしょ、ピカソの画」

「うん」そもそもピカソの画がこんな地方都市の美術館にあるわけがないのだ。美術講師の皆川さんがそれを知らなかったはずもない。

 このあいだってなに、とユカちゃんが目をまん丸くした。興味津々といった様子で絡みついてくる。

「東京でピカソ博覧会があるんだって。日曜日、観に行こう」

「うん」わたしは了解する。

「えぇずるーい」ユカちゃんたちが騒いだが、「部活動の一環だから」と皆川さんは一蹴した。「美術部に入れば連れてってあげるよ」

 エコひいきだぁ、という教室中の野次を浴びながら皆川さんは去っていった。廊下に消えるうしろ姿を見届け、

「いいなぁ、チグサばっか」

 ユカちゃんたちが羨望の眼差しをそそいでくる。恨みごとをつぶやく傍ら、ちぎったメロンパンをわたしの口へ次々と詰め込んでいく。

「あたしがチグサの立場だったらぜったい黙ってないのになぁ。ミナっち、彼女いないんでしょ?」

 わたしは頷いた。夏休み前にユカちゃんたちから「彼女の有無を確かめてきて」と頼まれたことがあった。そのときはいないと教えられた。

「あんないい男、ほかにいないよぉ?」

「そうかなぁ。甘いもの好きで、意外と甘えん坊なんだよ」

 いっしょに出かけたときのことを思いだしながら言った。案外に乙女ちっくなのだ、と。

「くっそぉ。チグサのくせにぃ」

 なぜかわたしを責めるように言い、ユカちゃんは、「あたしもあんな彼氏ほしかったよぉ」と下唇を突きだした。

 東京のそらは何色だろう。

 皆川さんの冷たいゆびの感触を思いだしながらわたしは、「まだ彼氏じゃないよ」と言った。





【私の名はスノーマン】


   ○◎

 私の名はスノーマン。物心ついたころから雪だるまである。

 私の立つこの場所が南極と呼ばれていると知ったとき、同時に私はスノーマンという名を手にした。くれたのは一人の少女だった。少女はふしぎそうに私の顔を覗き込み、そのまま私の周りに足跡を刻んだ。

「だれがつくったんだろう……」

 少女は舐めるように私を見上げ、つぶやいた。

「パパに訊いたら解るかなぁ?」

 このとき私には小石の目と、生き物の骨でできた鼻と、氷の耳が備わっていたが、言葉を話す口がなかった。だから少女のつぶやきが聞こえていたにも拘わらず、反応してやることができずにいた。少女は小首を傾げながらも、私から離れていった。何度も振り返り、振り返り、私の立つ場所をまぶたに焼き付けるように去っていった。少女はそれっきり私のまえに姿を現さなかった。

 彼女がふたたびやってきたとき、私は夜空の星を数え終え、満腔の想いに浸っていた。物心ついたときからつづけていた趣味だった。

「ほらねパパ。嘘じゃなかったでしょ」

 背が伸びたのか彼女は私を見下ろし言った。隣にはシルクハットを被った紳士が立っていた。

「疑っていたわけではないよ。でも、これが前回来たときにおまえがつくった雪だるまではないとどうして言いきれる?」

「ママが愛想ついて出てったの、今なら解る気がする。パパのそういう現実主義なところ、わたし嫌いかも」

「そう言うなよメアリー。パパにはおまえしかいないのだから」

 遠くから、キョージュー、と呼ぶ声が聞こえた。紳士が反応し、大声で応じる。

「すまないメアリー。船でなにかあったみたいだ。パパは戻るが、おまえ、どうする?」

「もうすこしここにいる」

「そうか。帰る道は分かるな?」

「バカにしてる?」

 見渡すかぎり雪原だ。帰る方向さえ見失わなければ迷子になるほうが難しい。それでも紳士は、迷子になるなよ、と念を押した。

「早めに戻りなさい。おまえの好きなパンプキンのスープを作っておくよ」

「ありがとうパパ」

 紳士は去っていった。

「パパったらいつまでも子ども扱いして。やんなっちゃう」

 メアリーは雪を蹴り上げ、あごの下に月のようなシワを刻んだ。

 それから彼女はひと月ものあいだ、毎日私のもとを訪れた。独り言とは思えぬ快活さで楽しげにしゃべる彼女を眺めることが私のなによりの楽しみとなった。メアリーの話は他愛もない愚痴のようなものが多く、その日あったことや、母国で過ごした日々のことを聞かせてくれた。ときには目に涙を溜め、じっと私に寄り添っていることもあった。そうしたとき、私はひどくもどかしい思いに駆られ、不自由なこの身を恨めしく思った。

 私にも彼女のような、言葉を話せる口があったなら。

 腕があれば彼女を抱きしめ、慰めてやることもできるのに。

 シロクマやアザラシ、空を渡る鳥たちを見ても思ったことのない感応が、次から次へと湧きあがった。夜。彼女の帰ってしまった方向を眺め、そこに佇む巨大な鉄の塊――彼女の話からそれが船であることを私は知っていたが――を見ては、足があれば私のほうから訪ねてやれるのに、と悶々とした想いを募らせた。

「ねぇ。わたし、帰りたくない」

 ある日、メアリーはいつものようにやってきて藪から棒に言った。

「あす、船で帰るの。そしたらわたし、パパの知り合いだってひとの息子と結婚させられちゃう」

 結婚、という言葉の意味がそのときの私には解らなかった。彼女がそれをひどく拒んでいることはよく判った。

「あなたみたいに無口なひとだったらいいのに。でも、パパは、パパみたいなひとだから安心しなさいって」

 あの紳士と似ているならば、無口ということはないだろう。彼女と共に幾度かやってきては、わけのわからぬ言葉を並び立て、メアリーの目を点にさせていた。あの紳士はこの土地を「ハテナ」で埋め尽くす気だろうか。

「初めてのキスは素敵なひとと雪の見える星空の下で、って決めてたのに」

 この日、メアリーは夜になっても船に戻らなかった。

「ふしぎ。わたし、あなたのこと、どうしても雪の塊だって思えないの。どうしてだろう」

 ただの雪の塊ではないからな。

 そう言いたくてたまらなかった。私はきみの言葉を黙って聞くこともできるし、いつまでもきみを待つこともできる。きみに触れたならほかの雪たちは消えてしまうけれど、私ならそんなことにはならない。

 訴えたかったが、私には言葉を紡ぐための口がなかった。

 メアリーは私のよこでひとしきりオーロラのかかった星空を眺め、それから思い立ったように防寒具を脱ぎだした。私は彼女から聞かされた凍死した冒険家たちの話を思いだし、そんなことをしたら死んでしまうのではないか、と戦々恐々とした。

 彼女は防寒着のしたに着た衣服から毛糸を紡ぎ出し、輪っかを作った。

「そういえばあなた、お口がないのよね。南極では無口でも生きていけるの?」

 作った輪っかを細長くつぶし、私の顔にちょんちょんと押しつけるようにする。「これで、よしと」

 私はびっくりして口がきけなかった。

「あなたはスノーマン。わたしの初恋のひと」

 彼女は私の太い首にうでを回し、できたばかりの口にあたたかいものを押しつけた。

「さよなら、スノーマン。ときどきでいいからわたしのこと、想いだしてね」

 船のほうからちいさな光がいくつも近づいてくる。夜になっても戻らない娘を心配し、彼女の父親たちが捜しに来たのかもしれなかった。メアリーもその光に気づき、足早に去っていった。

 待ってくれ。

 メアリー待ってくれ。

 私の声は、唐突に吹きだした白い壁に阻まれ、彼女のもとまで届かなかった。私は初めて耳にするじぶんの声に戸惑いを覚えながら、吹雪の向こう側へと叫びつづけた。

「私はまだ、返事をしていないじゃないか」

 あいにくとこのときの私に、彼女を追うための足はついていなかった。

   ○◎

 メアリーはよく歌を口ずさんでいた。私は彼女の歌声も、その歌の旋律も、どちらも好きだった。

 ふたたび一人きりの日々に戻り、私は歌を口ずさむことに大忙しの日々を送った。メアリーに触れ、そのあたたかさを知った私は、初めて訪れた孤独に打ちのめされていた。

 孤独は淋しさの塊だった。失ったあたたかさは、私の胸にぽっかりと穴をあけ、日増しにがらんどうを拡げていく。融けてなくなりそうなじぶんを鼓舞するように、私は歌った。淋しさは埋まらなかったが、押しつぶされそうな孤独には抗うことができた。

 歌っているあいだは頭のなかが空っぽになる。たまにメアリーの顔がよぎるが、それは孤独を引き連れるような強烈な熱ではなく、寄り添い、結びつくようなあたたかさだった。

 私のなかでメアリーは順調に思い出と化していった。

 つぎに人間と会ったのは、私のまえで行き倒れたアザラシが雪に埋もれ、ふたたび風によって出現し、通りすがりのシロクマの腹の足しにされた翌年のことだった。

「ほんとうにあったぞ。雪だるまだ。歌声はこの辺りから発信されている」

 ちいさな箱を手に、二人の男がソリに乗ってやってきた。ちいさな箱は太陽の光をよく反射し、金属でできているらしかった。

「戦前に南極探査隊がここを通っているな。ラジオでも落としていったか」

「今まで電池が切れずに起動していたとでも?」

「それか、そこの雪だるまが歌っていたかだ」

「おまえなぁ。人魚がいるかもしれない、なんてけったいな理由でオレを誘ったのはおまえのほうだぞ。冗談を言うにしても、最後まで押し通せよ。なにが雪だるまだ。人魚のほうがまだ説得力がある」

「そんな理由で地の果てまで付いてくるおまえがわるい」

「タダで南極まで来られて、そのうえ研究費用の援助までしてくれるってんじゃ、断るほうがバカヤローだ」

「まあ、人魚ってのは冗談だが、歌声が聞こえたのは本当だ」

「まあな。現にこうしてセンサーがキャッチしてるし」

 さきほどまで歌っていたが、男たちの気配を察し、私は黙っていた。彼らの持つ箱はどうやら私の歌声に反応するらしかった。

「雪だるまを調べるのは最後だ。その前に何か見つかるかもしれない」

「壊すのが可哀そうだからか?」

「中に遺体が入ってたら面倒だろ?」

「こわいこと言うなよ」

「へんだなぁ。さっきからセンサーが反応しない。壊れたかな?」

 私は黙っていた。メアリーの会話ではとくに何とも思わなかったが、どうやら雪だるまはしゃべらないものらしい。口があっても、急に歌いだしたらびっくりされるのではないか、と不安だった。せっかくこうして言葉を交わせる相手が現れたのに、逃げだされては目も当てられない。

 私は会話に飢えていた。実際にはメアリーとは終ぞ言葉を交わすことはなかったが、頭のなかで思い出に浸っているうちに私はメアリーと楽しくおしゃべりをしていた気に、すっかりなっていた。

「金属探知機には何も引っかからないな。やっぱりおまえが言ったように雪だるまの中になにかあるのかもしれん。それにしてもどうしてここに雪だるまがあるって知ってたんだ?」

 どうやら片方の男は、私のことを知っているようだ。なぜか期待と嫌な予感が同時に胸を満たした。奇しくもそれは、メアリーが私に口を与え、別れを告げたときのような心境だった。

「ばぁちゃんが言ってたんだよ」

「メアリーさんが?」

「むかしここで雪だるまと出会ったんだと。たぶんコイツのことだ。んで、別れ際にコイツの声を聴いた気がしたんだとよ」

「おまえ、それを信じたのか?」

「ばぁさんは信じてる。いや、信じたかったんだろうな。だから、今まで確かめに来なかった。ここに来るだけの資産はあったのに」

「ああ……」

 何かを察したように相方は黙った。メアリーの孫だという男はさらに続けた。

「ばぁちゃんが癌だって話はしたよな。もう長くない。俺だって年寄りのたわ言だと真に受けちゃいないさ。ただ、確かめてきてくれないか、なんてあんなまっすぐな目で見られちゃ、断れねぇだろ」

「そうだな」

「いい孫だろ?」

「婆さん思いの、できた孫だ」

 沈黙が漂う。

「で、本当はどうなんだ? 遺産を譲る条件が、ここを訪れることだったんじゃないのか」

「あ、バレた?」

 笑って顔をあげたメアリーの孫のまえには顔面蒼白の相方の顔があり、メアリーの孫はなにかを察したように、ぎこちなくこちらへ顔を向けた。

「まぁ、遺産のためだけってわけでもなさそうだがな」私はゆっくり抑揚をつけて言った。「早く戻ってやんな。別れの挨拶はまだなんだろ?」

 二人は腰を抜かしていた。叫ぶでも、逃げるでもなく、何かを捜すように辺りをぐるぐる見渡した。何もないと判ったのか、

「おまえがしゃべってんのか?」メアリーの孫が目を丸くして言った。

「ほかに誰がいる」

「中にスピーカーが」

「入ってない」

 じぶんの中身を見たことはないが、おそらく雪が詰まっているだけだ。彼らは目のまえの現実を受け入れたのか、落ち着きを取り戻した。彼らの目には恐怖や混乱よりも好奇心が輝いてみえた。

「メアリーは元気か」訊いてから、さきほどの会話を思いだし、気が沈む。「メアリーは」と私は言い換える。「しあわせそうだったか」

「どうかな。弱みを見せないひとだったから」

「むかしから?」

「俺が知る限りは」

 しゃべることのない雪だるまに愚痴を並び立てていたメアリーの姿を思いだし、そうか、あれは私だけが知る彼女の姿だったのか、と唐突に胸がいっぱいになった。

「ただ、俺はむかしっから、アンタのことを聞かされて育った。夜寝るときや、ガールフレンドに振られたとき。ばぁちゃんは必ずアンタの話をした。そのときのばぁちゃんは、やさしい顔をしていたよ」

「メアリーはいつだってやさしい顔だろ」

「そうでもねぇよ」

 くしゃりと笑った孫の顔には、たしかにメアリーの面影があった。

「雪だるまも泣くんだな」

「ん?」

「ほらアンタ今、泣いてる」

「うお」

 メアリーもよく一人で泣いていた。彼女はじぶんが泣いていることに気づいていただろうか。今の私のように、誰かに教えられなければ、流しているこれが涙だということにも気づいていなかったかもしれない。

 私はメアリーの孫と、その悪友の三人で、一晩語り明かした。翌日、彼らはメアリーの待つ母国へと帰っていった。

「アンタも来ないか?」メアリーの孫は最後にそう誘ってくれた。「ばぁちゃん、よろこぶと思うし」

「遠慮しとく。びっくりさせて心臓を止められても困る」

「ちげぇねぇ。なら何か頼みごとはないか。俺、アンタの話、いろんなひとにしちゃうけど、嫌だってんなら黙っとくし」

「何もないなぁ」メアリーがそうだったように、孫の彼が何を言ったところで誰も信じないのだろう。話を聞いた誰かが私を訪ねてくるようなことがあっても、私に損はない。彼らはみな客人だ。口止めする理由がない。

「そうだ」

 私はふと閃いた。「腕と足をつくってくれないか。背中がかゆいときに困るんだ」

「お、いいねぇ。そういう頼みごとならお安い御用だ」

 孫と悪友は、私に腕と足をつけてくれた。孫が雪を盛りつけ、悪友がそれを掘る。悪友は彫刻に明るいらしく、氷と化した雪を器用に手足に加工してみせた。

「たまげたよ。棒きれでもよかったのに」

「気に入らないか」

「いや、すばらしい」

 手足が完全に固まるまでは安静にしとくように、と悪友が言い、それを聞いたメアリーの孫は、おまえ医者になれよ、と茶化した。

 二人が去ってからも私はしばらくのあいだ手足を動かさずにいた。悪友は、固まるまでは動くな、と言っていたが、固まってしまってからでは動かせないのではないか、という疑問と私は闘っていた。もしも動かせるならばそれは固まっていないということで、悪友の言葉を守らなかったことになってしまう。好奇心が勝るまで私はこの葛藤を数か月のあいだつづけた。

「お、お、おお!」

 ふしぎなことに私の手足は、動物のそれのように自在に動かせた。考えてもみれば、口である毛糸ものた打ち回るタコのように波打つ。このとき私は明確に意識した。この身体はどうやら、物質の性質を超えて、私の意思を反映させるようだ、と。

 その日から私は、長年居つづけたその土地を離れ、長い旅に身を置くこととなる。

   ○◎

 私がその遺跡を発見したとき、南極のそとでは大変なことが起きていた。井の中の蛙の私はそんなことなどつゆ知らず、発見した遺跡を探索する日々を送っていた。遺跡の中は、ことのほか広く、未知に溢れていた。見渡すかぎり雪と氷の世界で生きてきた私にとって遺跡の探索は、触れる物すべてが新鮮だった。

 好奇心の塊となった私は止まらなかった。それは文字通り、動くことを止めなかった。人間ならば空腹に弱り、眠気でにぶり、疲労で倒れるところを、雪だるまの私は、動きつづけていられた。

 私は遺跡で、メアリーの孫たちが持っていたような、金属の箱をいくつも見つけた。それは孫たちが持っていたものよりも軽く、それでいて頑丈そうにできていた。

 いじくっているあいだに、箱の一つが光を灯した。指でなぞると、光が増え、色も変わった。やがて空中に光の帯を映しだし、オーロラのように揺らめかせはじめた。見たこともない風景が映し出され、見たこともない生物が、聞いたこともない音をだし、ときに激しく、ときに退屈に、目まぐるしく動いた。

 ほかの箱も同じようにいじってみると、どれにも膨大な量の映像が詰め込まれていた。風景などの映像だけではなく、言葉らしき図形の羅列や、棒や丸などが複雑に絡み合った画などが入っていた。それらが何かの設計図であると理解したころには、私は遺跡を網羅していた。ちいさな箱を見つけた一帯が、大型の船であることにも気づいていた。

「なるほど。これをこうすれば空を飛べるのか。動力源が壊れているのが実に悔やまれる」

 これに乗ってきた者たちも、終ぞ直すことはできなかったのだろう。だからこうして船のうえに建造物を造り、この地で暮らすことを選んだのだ。

 どうやら彼らは神として、この地の先住民たちから崇められていたようだ。

「神か」

 メアリーの孫とその悪友と語り合った夜、アンタを創ったのはきっと神さまだ、とメアリーの孫が言っていたのを思いだす。

「神は、人と雪だるまをお創りになられたのだ」

 ためしに言ってみるが、どうにもしっくりこなかった。

   ○◎

 遺跡で多くのことを学んだ私は、得た知識を誰かに語って聞かせたくなった。生殖器を持たない私にとって知識の共有は、人間たちでいうところの子を成すことと同等の欲求であったと分析できる。

 つぎに人間たちと言葉を交わしたとき、私は南極にはいなかった。遺跡で見つけた小型の乗り物で遠出をする日々を送っていたが、メアリーと出会った場所、私の原点とも呼べる場所に戻ってみたところ、なぜかそこに雪はなく、草原と化していた。赤い花が咲き乱れ、色鮮やかな蝶が宙を舞っている。

「ここはどこだ? 異界にでも迷い込んだか」

 太陽の日差しが身体を差すように照らしたが、私は焦らない。ことのほか私の身体は頑丈にできており、火を通しても融けないのだった。メアリーの孫とその悪友と語り明かした夜に、焚火に触れてみて判明した。暖かな気候の地においても私は泰然自若としていられた。

 さまざまな土地を渡り歩き、私は一つの懸念を抱いた。一向に人間たちと出会わないのだ。

「まさか滅んだわけではないだろう」

 かつて遺跡に暮らしていた者たちは、高度な文明を築きあげておきながら、あっけなく滅んだ。歯止めの効かない文明の発展が招いた破滅だった。

「地球は広い。きっとどこかにいるはずだ」

 私は人間を求め、土地から土地へ、大陸から大陸へ飛び交った。ひと気がないだけで街はそのまま残っていた。損壊した様子はなく、蟻の巣から蟻だけがすっかりいなくなった様子だった。雪の消えた故郷を思いだし、まるで人間たちまで融けてしまったのではないか、と不安に駆られる日々を過ごした。

 地表をくまなく回ったころ、夜空からはいくつかの星が消え、私はまた星を数える趣味をはじめた。

 ふたたび星を数え終えたとき、人間たちの築いた文明には植物の根が張り巡らされ、空は色鮮やかな蝶の群れに覆われた。植物はどれもおなじように赤い花を咲かせていた。

 私は、歩くのをやめた。目を閉じ、ただ時間の経過に身をゆだねた。そうすることでただの雪だるまに戻れるのではないか、と期待した。しかし私は初めから異端の雪だるまであったのかもしれず、ただじっとしているだけではなんの解決にもならない可能性のほうが高い気がした。しかし雪だるまの私にとって時間という概念は神という存在と等しく意味のなさないものであり、眠っているあいだに問題が解決するかどうかを試すだけの価値はあると結論付けた。私はメアリーやその孫たちの夢を見ることに専念しようと目を瞑りつづける日々を選んだが、なぜか夢のなかからもメアリーたちの姿は消え去り、私は夢のなかで歌いつづけることを余儀なくされた。

   ○◎

「誰がつくったんだろう……」 

 夢のなかで、懐かしい声を耳にした。メアリー、と私は声をだすともなくつぶやいている。

「これ、雪だるまだよね?」

「まさか」

「でもほら、目とかもちゃんとあるし」

 目を開けると、そこには二つの影があった。二つともヒト型の影だ。全身を光沢のある黒色の服に身を包ませ、こちらを不可思議そうに見つめている。

「地上に人間がいるのかな?」

「これだけベニカが咲き乱れているのにか? あり得ない」

「じゃあ、いったい誰が」

 私はふたたび目を閉じた。つぎに瞼を開けたとき、私のまえには、まばゆい光と、カタチ豊かな音、そして目まぐるしく動く人間たちの姿があった。

「驚くべきことだよ、これは。我々の持ち帰ったこの雪だるまは、長期間、地上にありながら、いっさい汚染されていない」

「驚異的ですか?」

「いや、奇跡的なことなのだよこれは。我々は救われるかもしれない」

「地上に戻れると?」

「それどころか、ほかの星への移住も夢ではなくなる」

 少女がまじまじとこちらの顔を覗き込み、その奥でひげを生やした男がちいさな箱をいじくっていた。男の持つ箱は、私が遺跡で発見したものと似た形状をし、少女は、出会ったころのメアリーとおなじ顔つきをしていた。

「やあ、こんにちは」

 うれしくなって私は言った。少女はこちらにまんまるい目を向け、口をパクパクさせた。そうして一分ものあいだ固まったのち、「あなたが言ったの?」と、うしろにいる男には聞こえないくらいちいさな声で言った。私は口笛を吹いて答えた。

   ○◎

 男の名は五郎といい、少女はメーアンといった。私が言葉を介し、自在に動けることが五郎にバレるまでのあいだ、私はメーアンと刺激的な日々を送った。

「あーあ、バレちゃった」

 五郎が驚愕の顔で一時間ほど固まっているあいだ、メーアンはこころなし愉快そうにしていた。

 正気を取り戻した五郎に私は訊いた。

「なぜ人間たちは姿を消したんだ」

「人類は、手を出してはいけない領域に手をだしたんだ」顔を洗ってきたのか、髭のなくなった五郎は、メアリーの孫と共にやってきた悪友に似ていた。「きみはピラミッドって知っているかい?」

 もちろん知っている。地表にある建造物で、私の知らないことはない。図書館にある本もひととおりすべて読んだ。歩く百科事典と呼んでもらって構わない。私はそういった旨を口にした。

「なら説明はいらないな」五郎はなぜかうれしそうに言い、「ピラミッドの謎を、人類は解いてしまったんだ」と今度は一転して深刻そうな顔をつくった。「その結果、【再開の扉】を開けてしまった」

「サイカイの扉?」

「我々はそれを【終末の扉】と呼んでいるが、いずれにせよ、開けてはならないパンドラの箱を我々の祖先は開けてしまった」

 ウイルスではないんだ、と五郎はつぶやいた。終末の扉からは、人類が未だかつて遭遇したことのない未知の存在が飛びだした。それにより、人類のおよそ九十九パーセントが消滅したと彼は語った。

「消滅したのか?」

「そうだ。文字通り、跡形もなく」

「雪が融けたように?」

「そのとおり。きみはなかなか詩的な表現を使うね」

「死的?」

 あまりうれしい言葉ではない。

「未知の存在は新種の蝶を媒体とし、世界中に広まったとされている。きみも見たろ? いまや地上は蝶の楽園さ」

 さながら不死蝶ね、とメーアンはズレたことを言った。べつに蝶は死なないわけではない。彼女は私の身体を、ちいさな箱を使ってくまなく調べあげている。

「あなたの身体の秘密が解れば、未知の存在に対抗できるようになるかもしれない。そしたらわたしたちは太陽を取り戻すことができるの」

 防護服を着ても半日ともたないんだ、と五郎はネズミの形をした黒い塊をバリバリと頬張った。

「お役に立てるのなら光栄だ」

 メアリーの話し相手になっていたころのじぶんを思いだし、私は、あのときのようなあたたかさが胸に満ちていくのを感じた。

   ○◎

 ピラミッドにはミイラが眠っている。博物館で読んだ説明書きにはそう記されていた。実際に発掘されたミイラも博物館には展示されていたので間違いないだろう。ピラミッドにはミイラが眠っている。古の人々は、死者を甦らせるためにミイラを作った。息を吹き返したときのために、専用の入れ物に内臓を容れて。その入れ物をカノポス壺という。

 メーアンは私のずんぐりむっくりな体型を指して、「きみはカノポス壺のようだね」と笑った。

「うれしくない指摘だが、否定できない」

「でしょ、でしょ」

 なぜ私がこの姿に形作られ、生まれたのか。私は私を作った者たちのことを思い、そしてカノポス壺のことを思った。

 ある日、私はメーアンに訊いた。

「私の中身に興味はないか」

「え?」

「解らなかったんだろ? 私が何でできているのか」

「きみは雪でできている」メーアンは得意げに指を突きつける。「正確には、解らなかったのではなく、ただの雪の結晶の集まりにすぎない雪だるまがなぜ、こうして生き物のように動き、知性を持ち得ているのか、が解らない」

「中身も雪なのか?」

 ぎっしり詰まっているのか、と私は訊いた。

「それも不明だね」

「知りたくはないか」

「興味はあるけど」

 でも、とメーアンは口ごもった。「今はいいや」

「私はきみたちの役に立ちたい」彼女の手を取る。ふしぎと身体が熱くなるのを感じた。不快な熱ではなく、それは私に至福とは何かを教えてくれる。私はさらに訴える。「太陽に照らされた不死蝶の群れは、きみたちが思っているほど不気味ではない。防護服を通さないで見る夜空は、きみたちの知らない輝きに満ちている。私はそれらの情報を、きみたちと共有したい」

「でも、死んじゃわない? 分解なんてしちゃったら。いくらきみだって無事じゃ済まないと思うんだけど」

「私はどうしてもきみと」言いながらなぜか身を切り裂かれる想いに駆られる。「世界を分かち合いたいのだ」

「え、え、どうしちゃったの!?  きみ、なんか赤いよ!」

 メーアンの指差した先、私はじぶんの身体を見下ろす。徐々に芽吹いていく赤い花を目にし、頭の芯が冷えていくのを感じた。

   ○◎

 通称ベニカ。

 未知の存在を養分に花を咲かせる正体不明の花である。未知の存在あるところにベニカあり、という諺まであるという。ベニカが芽吹いたということは、この地下都市にまで未知の存在が侵入してきたことになる。

「もうダメだ」メーアンは頭を抱えた。五郎やほかの研究員たちは逃げ去った。どこで聞きつけたのか、ベニカが咲いたという話をする前にいなくなっていた。私とメーアンの二人だけが取り残された。

「諦めるなメーアン。きみはまだ消滅していない」

「でも花が咲いた。もうここは汚染されてる」

「今からでも間に合う。私を分析しろ」

「どうせなら、アナタといっしょにいたい」

「いっしょにいるために、できることをしよう。花は実を結ぶために咲くのだから」

「でも、アナタまで消えたら」

「気のせいだ。私は消えない」

「でも」

「約束しよう。私はどこにも消えないと」

「ほんと?」

「ああ、きみのそばにいる」

 私たちは見つめあい、そして意を決したようにメーアンは立ち上がった。「あとで文句を言ったって知らないよ」

 私は天井を眺めている。痛覚がない私には麻酔など不要だ。目を閉じ、メーアンの肌のぬくもりを感じる。

「じゃあ、いくよ」

 メーアンの腕が入ってくる。頭部だ。胴体部は花に浸食されている。心地よくはないが、とくべつ不快でもない。私はメーアンに身をゆだねる。プリズムに光を当てたときのように、私の意識はしだいに無数の筋に分離していく。故郷の情景がよみがえる。見渡すかぎりの雪原だ。ふと私は思いだす。雪が融けたその地点には、赤い花が咲き乱れていた。頭の片隅で閃光が弾ける。

 ひょっとして。

 ベニカは、私のいた場所から拡がっていったのではないか。

 ふたたび意識が集結し、私を私として形作ったとき、目のまえからメーアンの姿は消えていた。

「そんな……」

 ふしぎと、メアリーと別れたときのようながらんどうを感じることはなく、むしろことごとくが逆だった。

 私はじぶんの身体を見下ろし、そして悟った。

「寒くはないかい?」

 じぶんの腹を撫で、私は語りかける。

 返事はなかったが、私の中はぬくもりで満たされている。私たちは今、ひとつだ。

 研究所のそとを歩いてみた。森閑としている。生き物の気配はない。

「ここもそのうち遺跡になるね」

 地下都市を練り歩き、目当てのものを探した。それはかつての人類は持ち得なかったものだ。

 私は私の中に眠るぬくもりを目覚めさせるため、故郷にある遺跡を目指した。地表を追われた人類は地下へ逃げ、そして天空へ憧れた。帰る場所がそこにはある。神々がそこからやってきたように。

「メーアン。約束だ」

 私はきみのぬくもりを感じ、いつまでもきみの目覚めを待ちつづけよう。きみに触れたならほかの雪たちは消えてしまうけれど、私ならそんなことにはならないのだから。

 動力源を修理し、船内の空気を浄化する。

「約束だ。ずっときみのそばにいる」

 私は船を起動した。

 私の名はスノーマン。

 物心ついたころから、雪だるまである。

 

 END

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