千物語「影」

千物語「影」


目次

【忍の極】

【一丸の手引き】

【殴蹴道】

【飢えた獣にゃ詩をやれ】

【秘薬の炎を消すシズク】

【闇夜のどどど】

【失恋捏造記】

【ムーバ】



【忍の極】


 葉がくるくると舞い落ちる。下から刀を振ると、葉が二つに割れた。手首をひねり上から下へと振りおろすと、こんどは葉は四枚に分断され、地面に散る。

 八枚にはならない。

 師範は二太刀で葉を八つに捌く。

 いかな業を用いればかような芸当ができるだろう。シチハは未だ底の見えない師範の力量、そしてじぶんとのあいだに開いた差に胸のうちを深く抉られるような失望と煩悶を覚える。

 上達しているはずだ。

 ほかの里の忍び相手ならばまず引けをとらない。たいがいの忍び相手であれば出し抜き、命のやりとりなく戦闘不能に陥らせることもいまでは容易い。

 だが、己が腕に覚えができるほど、師範との越えられぬ歴然とした差に打ちのめされる。

「どうしたの。きょうも早起きだね、眠くないの」

 師範の声が背後から聞こえ、咄嗟に刀の柄に手をやった。しかし背に差していたはずの刀がいまは師範の手のなかにあり、彼女は朝陽を転がすように刃を傾ける。

「よく手入れがされているね。なかなかできることじゃないよ。でも休むこともまただいじだから、あんまり無理はしないこと。できる?」

「はい」

 師範は刀を翻し、先端をゆびでつまむ。柄を向けられたので、掴みとる。

「きみがうちに来てからえっとぉ」

「もうすぐ三年になります」

「もうそんなに」

 師範は素で驚いた顔をする。演技だろうか。それはそうだろう、彼女に素の表情などがあるとは思わない。

「なんだか懐かしいね。きみがうちに転がりこんできたときの光景、そうそう、昨日あったことのように思いだすよ」

「お恥ずかしい限りです。このご恩、一生かけてもお返ししたく存じます」

「いいよいいよ。そんなに畏まらないで。なかなか仲良くなれないなってまた悩んでしまうよ」

「すみません」

「もう実力に差はないんだからさ」

 師範は言うが、そんなわけがなかった。彼女の見た目は出会ったころから変わらない。その強さもまた、おそらく変わっていないのだろう。

 変遷しているのはシチハのほうだ。成長よりもさいきんは老いへの怖れが身体の節々に湧いている。高い場所から飛び降りる際にはむかしよりも慎重になった。段階を踏むようになり、すこしでも躊躇したならば遠回りを選択する。戦闘においてもなるべく対峙せぬように、気づかれぬように、まずは奇襲を優先する。どうしても刀を交えなければならないときには、不利と思えば即座に退散した。

 命あっての忍びである。

 生き延びる術を磨いている。

 弱くとも生き延びられる術だ。

 弱者がゆえに、技術を、業を極め、修めなければならない。

 力量を磨き、蓄えるほどに、師範の底なしの武力に慄くはめになる。

 心底いまでは、バケモノと思う。師範は人ではない。それ以外の何かだ。

「ご飯を食べよう。川に寄って罠のなかを見ていこう。何かかかっているかもしれない」

「稗はどうしますか」

「焚いてくれる?」

「お任せを」

「はい、でいいよ。堅苦しいのは嫌いだよ」

「はい」

 この会話は定期的に繰り返している。どうあっても師範に気安く接するなどできはしない。客人がいるときは敢えてそうした演技を心得るが、誰も見ていないところでは師範の透明な死の気配に気圧される。

 彼女がその気になれば我が息の根はいつでもその機能を停止する。生殺与奪の権は彼女の手のなかだ。

 小屋で朝食を摂るとすでに陽は高く昇っていた。頂の岩壁に立つと、海までつづく平野から煙がもうもうと天高く伸び、白く帯状の雲と繋がっている様が目についた。

「戦ですかね」

「違うね。あれは略奪」師範は両腕を背中に回して、崖の先に立つ。「このあと、野盗を討伐するために殿さまが、腕利きを集める号令を発する。そこにシチハくんも混ざるの。できる?」

「仰せのままに」

「殿さまは戦をしたがっている。何か理由があればいますぐにでも。でも、本当はそんな必要はないのに」

「阻止すればよろしいのですか」

「私はあの殿さまの首が欲しい。持ってきてくれる?」

「はい」

「イイコだね。好きだよ、つよくて賢いコ」

 いったいどこまでを見通しているのだろう。野盗が里を襲ったことすら師範が一枚噛んでいるのではないかと疑いたくなる。そう考えたほうが、師範に人並み外れた慧眼、ともすれば千里眼があると考えるよりも得心がいく。

 華奢な背中だ。

 足蹴にすればそのまま真っ逆さまに崖下に落ちてしまいそうだ。

「きょうは仕事の前だから棒切れはなしにしよう」師範はくるりと半転する。彼女の簪に日光が反射し、眩しくて一瞬顔を逸らす。

「さきに急所を撫でられたほうが負け。いい?」

 いつの間にか師範は背後に立っている。解らない。何度目の当たりにしても、どのように身体を使い、動かせば、かように空気のうねり一つ生みださずに、音も立てず、素早く移動できるのか。師範との間合いを詰めるだけでも、数秒は要する。彼女はそれを瞬き一つするかしないかという時間で移動するのだ。

 尋常ではない。

 たったこれしきの所作を目の当たりにしただけで動悸が乱れる。

 慣れることはない。

 慣れようがないのだ。彼女がその気になれば、シチハはいま死んでいた。殺さずにいたのは師範の気の持ちようだ。いつでもシチハは心の臓を握られている。師範からはかような殺気一つ感じられないが、それだけに余計に恐ろしい。きっと彼女は人の命も、蚊を指先で潰すほどの気安さで摘むだろう。容易にその光景が脳裡に浮かぶ。恐怖が身体の奥底に根付いていくようだ。或いは、そうしてじぶんでありもしない未来を幻視し、恐怖を育てているだけかもしれない。

 師範はいつでもこちらの命を摘み取れるのだ、摘み取る気があるのだ、とじぶんでじぶんを追い詰めているだけかもしれない。

 彼女への憎悪が、そうした悪夢を見せるのだ。

「どうしたの。はやくおいで」

 師範は背に腕を組んだまま、姿勢正しく立っている。シチハはじりじりと足の裏で岩肌を擦り、にじり寄る。

 死線は目では測れない。

 足先のほんの僅かな踏込みによってのみ、身体に伝わる機微がある。ししおどしに似ている。一滴一滴そそがれ、ぎりぎりまで水は器に溜まるが、あるところを境に、全体が傾き放出に向かう。

 死線も似たようなものだ。

 越えたと思ったところからさらにいくらか進む。弓矢を引くときにも似た感覚を覚える。限界よりすこしだけ遊びがある。含みがある。

 その見極めができるか否かが、勝者と敗者を分かつのだとシチハは学んだ。おそらくそれこそがもっとも重要なのだと理解したことが、師範に従事して得られた最たる知見だ。

 身体の強靭さは二の次だ。死線の見極めこそが生死を分かつ。

 ただし、死線が視えてからは、やはりというべきか身に着けた武の多寡が物を言う。死線が視えていない者を相手にするならば武力に差があっても負けはしない。しかし相手もまた死線を見る眼力を備えていたとすれば、これは場を制するにはいささか骨を折る。

 ただでさえ師範には眼力では及ばない。のみならず体術でも大きな隔てがある。勝てる要素がない。ゆえに、本気をだせる。本気を引きだしてもらえる。

 育ててもらっている。

 教えてもらっている。

 恩を受けている。

 自覚が芽生えれば芽生えるほどに、師範への恐怖が増す。

 裏返せばそれは、シチハの、彼女への殺意に根差している。

 シチハは彼女を殺そうとしている。

 そのためにここを訪れた。

 師範の元を。

 八年前だ。

 シチハは海辺に近い城下町に住まう商人の子だった。ある日、軍勢に町は占拠され、ひと月のうちに打ち払われた。城主は自害し、城の者たちは鏖殺の憂き目に遭った。町人は避難を許された。その後、町を占拠した新しい主君のもとにくだった者が半分、ほかの土地に移った者がその半分、僅かに山に逃げおおせ、そのまま居ついた者たちは野盗となり、ときに狩人となった。

 シチハの家は町屋として大きくことさら城主と懇意にしていたため、まっさきに襲撃に遭った。親共々身内の首がこぞって地面に転がった。シチハは末っ子として城下町を離れ丁稚奉公にでていたために命拾いをした。

 丁稚とはいえ、弟子のような扱いだった。のちのちは家督のいない商家に跡取りとして迎え入れられる算段であったが、それも家元がなくなったためにご破算となった。

 真実、いつの間にか下人の扱いを受けた。

 しばらく事の成り行きを見守っていたが、宿に売られてからは客人の世話をした。様々な人間の欲と業を目の当たりにし、見識の狭さ、何よりいかにじぶんがいままで殿上人にちかい裕福な暮らしをしていたのかを知った。商家は身分が低いと親が嘆いていたが、同じ身分のなかにも階層が幾重にも広がっているとそのころ知った。

 読み書きは親から習った。技能は身を助ける。シチハはたらい回しにされたものの、行く先々でそれなりに重宝された。しかし人より秀でた才を妬んだほかの者たちからは邪見にされ、陰湿な根回しにより、いつもよそに売られた。

 やがて元の城下町に舞い戻った。城主は入れ替わり、むかしの街並みを憶えている町人のほうがすくない。ほかの町でもそうだったが、この町ですら、数年前に起こった城下転覆の話題を耳にしない。まるでむかしからいまの城主がこの地域を築いてきたかのようなしぜんな景色ができあがっている。シチハの家はとっくに燃え尽きており、いまはそこに蕎麦屋が建っていた。

 沸々と湧くよどみを感じた。それが何なのかをシチハは言葉にできなかった。それはその町に留まっているあいだ胸にわだかまりつづけた。

 五年前、つまり故郷を失くしてから三年後、シチハはある夜に武士の世話をした。まだ四肢には産毛しか生えていない弱冠のシチハだ。たびたび同衾を所望されることもあったが、この日は単に、話し相手が欲しいとの話だった。武士は現城主に召し抱えられたこの町ゆかりの者だった。

 話を聞くにつれてシチハは愕然とした。

 武士は滔々と、いかにいまの城主に尽くし、いまの地位を築きあげたかを誇らしげに語った。当時の城の間取りや兵力をはじめ、いかな仕組みで城を維持し、機能させているかを、現城主へと報告した。

 間者に目をかけ、城に招き入れたのもじぶんだとのたまう。

 明らかな裏切り行為だ。

 密告だ。

 ゆえにこうして夜な夜な、言葉に信用の置かれぬ小僧に武勇譚を聞かせるよりないのだろう。地位こそ用意されていたが、元鞘を裏切るような輩だ、要所には抜擢されまい。

 日頃の鬱憤をこうして過去の武勇をひそかに誇示し、晴らしているのだ。

 シチハはこのとき、町が襲撃された背景に義とはかけ離れた個の欲の蠕動を感じずにはいられなかった。

 天の采配などではない。

 幼子が蟻を踏みつけて遊ぶのに似た卑近な個の欲が、一つの町を滅ぼし、シチハの家族を、家を、安寧を奪った。

 シチハは己が身に蓄えたあらゆる処世術を駆使し、阿諛追従し、ときに甘い声をだして武士に、当時の子細な様子を語らせた。武士は酒をよく呑み、よく語り、よく笑った。

 明け方、ようやく寝静まった武士の首をその者の小刀で刺し、逃げた。

 武士は言っていた。

 間者を司る者がおる。

 名をサカサ、忍びの末裔と聞いておる。

 シチハはそれから二年をかけ、方々を旅し、サカサなる忍びの末裔を探し求めた。山から山へと渡り、関所のない里にばかり下りては、生活に入り用な最低限の品を揃えた。山の幸を差しだすとみなこころよく物を換えてくれた。

 野盗に取り入ったり、ときには寺の世話になったりもした。人を殺したことはなかったが、人に仇を成して生きた事実に変わりはない。

 盗み、強請り、脅し、ときには刀に血を吸わせたこともある。ひょっとしたら誰かしらはその後に死しており、知らぬ間に人殺しになっているのやもしれない。

 だがいまさら罪悪感は湧かなかった。

 殺しに慣れておかねば、いざというときに動けなくなる。相手が根っからの悪人と判っていれば、躊躇せずに手を汚しておきたかった。なかなかそうした悪人には出会えずに、殺しに慣れるよりさきに尋ね人に行き着いた。

 シチハが見つけたのではない。相手から接触してきたのだ。

 峠の茶屋で足休めをしていると、となりに飛脚の格好をした小柄な人物が座った。山々の新緑は色を変え、青い空に鮮やかな彩を加えている。

「忍びを探しているのはきみ?」

 茶をすすり、こちらを見ずにその人物は言った。シチハは周囲を見渡し、誰もいないのを確かめてからじぶんにかけられた声だと察する。

「サカサというひとを探しています」

「その名は誰から訊いたのかな」声からは敵意や害意のようなものは窺えなかった。淡々と天気の話をするようにその人物は言った。「あまり吹聴してほしくない名前でね。探しているというのなら会わせてあげる。代わりに誰から訊いたのかを教えてほしいな」

 シチハは応じた。交換条件としては破格だ。

 件の武士は報いを受けるべきだ。主君を売っただけでなく、それを自慢と思い、下人と見ては夜な夜な語り草にしていた。いまさらながらに腹が煮える。

「ああ、あのひとか」

 飛脚は礼を述べ、では行こう、と席を立つ。

「あの、どこへ」

「会いたいんでしょ、サカサに。案内してあげる」

 三日をかけて山奥に分け入った。山道からはずれ、道とすら思えぬ獣道を登る。沢の音が辺りに満ちる。谷をなぞるようにして行き着いたのが、頂に近い岩場だった。

 小屋があり、石を敷き詰めてつくった竈がある。簡単な造りだが、煙が線となってゆるゆると大気に溶けこんでいる。火を絶やさずにいるのだと判る。つまり、ここで暮らしている者があるのだ。

 しかし、

「誰もいませんね」小屋を覗くが、無人だ。「サカサは忍びの末裔とも聞きます。足音を聞きつけて隠れたのかもしれません、こんなところで毒矢で狙われたらひとたまりもありませんね」

「そんなことはしないよ」

 飛脚は小屋の中に入ると装束を脱ぎ、手慣れた調子で、床を引っぺがし、そこに仕舞ってあった山袴に着替えた。

「私がサカサ。長旅お疲れさま、いまお茶を淹れるね」

 冷や汗が噴きだす。山風が吹きつけ、身も心も凍えた。

 道すがら、サカサなる忍びへの悪態をこぼしていた。彼女自身が、サカサの悪名、ともすればこれまでに仕出かした悪行の数々を屈託なく述懐したからだ。

「顔が真っ青だよ、火に当たるといいよ、暖かいから」

 翌日には、彼女を師範と仰ぎ、弟子にしてくれと頼みこんだ。なぜそうしたのかは判らない。いくつもの動機らしきものが縄のごとく絡みあっている。

 契機はしかし一つきりだ。

 彼女、サカサの、ひとにそそぐ眼差しには、いっさいのよどみが見受けられなかった。悪にしろ善にしろ、彼女は何か人なるものを超越した存在に思えた。

 近づきたいと望んだのかもしれない。或いは、彼女に一矢報いようとしたのかもしれない。太刀打ちできるようになるためには、彼女の元で学ばねばならないとしぜんと結論づけたとすれば、なるほど、じぶんらしいとシチハは思う。

 これまでがそうだった。

 たらい回しにされた先々で、その家でもっとも利口な者の所作を観察し、術を盗んだ。銭や物を盗めば罰せられたが、術だけはいくらでも盗めた。学べた。

 だがそれも行き過ぎれば、叩かれる。シチハが術を身につけた分、もとの術の価値が衰えて見える者がすくなくなかったのだろう、といまなら判る。

 蓄積した術のほんのすこしだけを、用途に応じて使い分ける。その配分もまた、見よう見真似で学んでいくより術がなかった。

 世のなかを動かしているのは、何か得体のしれない天候のようなものだと思ってきた。いまでもその感覚に大きな違いはない。個人の立ち振る舞いでどうにかできる領分を越えた事象というものはある。

 現に、五年前に例の武士の裏切りを知っていたところでシチハにはどうすることもできなかった。いまだってそうだ。

 当時の城に放たれた間者の親玉じみた相手を探しだしたところで何ができるわけでもない。

 命惜しさに弟子入りを志願した。

 術が足りない。

 知見が足りない。

 ないもの尽くしだ。

 学ぶよりほかがない。身につけるより道がない。

 たとえそれが故郷を滅ぼした元凶からだとしても、シチハにはそうする道を歩むことしかできなかった。

 帰る場所も、行きたい町も、生きていきたい土地もシチハにはなかった。

 胸に湧いたわだかまりばかりが募っていく。

 元凶を葬れば解消されるだろうか。解らない。

 だがほかに思いつく術がなかった。成す術がなかった。だからまずは術を盗み、学び、身につけることを選択した。

 シチハはそうしてずっと生きてきた。いまさらほかに歩みようがない。選びようがない。そうした道以外を見ずにきたのだから。

 以降、三年、シチハはサカサを師範と敬い、彼女のもとで修行を重ねた。サカサに主はいなかった。依頼されれば、仕事をこなす。ときに断ることもあった。

「仕事と報酬の釣り合いがとれていないよね」

 サカサはかように使者に説き、あるときは書簡にその旨をしたためた。

 似たような仕事、報酬、労力であってもサカサは片や引き受け、片や断る。仕事相手にこれといった共通項は見当たらず、以前に手を貸した相手を打ち滅ぼすための仕事を引き受けるのすらときに辞さなかった。

 何かしらサカサには天秤があるのだろう。それは判ったが、ではどのような秤を用いて仕事を取捨選択しているのかは三年経ったいまでもシチハには判然としない。

 トビが崖のふちをなぞるように飛ぶ。

 おもむろに師範が腕を伸ばすと、つぎの瞬間にはトビが師範のうでのなかでもがいている。

 師範はトビの首を折る。しずかによこの岩場にトビの骸を置くと、きょうの夕食、と言った。「ごめんごめん、きみがなかなか動かないから、つい、ね。血抜きをしちゃいたいから、はやくおいで」 

 師範はまた両手を後ろに組んで、岩場に直立する。構えすらとらない。否、どんな姿勢であっても師範にとっては構えなのだ。隙がない。隙だらけなはずの所作に、隙がないのだ。

 まるで空だ。

 遮るものがないがゆえに、目がくらむほどの断崖と化している。

 風の音が意識の表層を漂う。波のようだといつも思う。

 領域に潜った、と判る。肌触りがある。

 死線を意識できる領域だ。

 集中力が極限に近づくと、思考が薄れる。周囲の情景が意識の表層を流れていく。意識表層の下のほうでは目が覚醒している。死線を捉えるべく、相手の挙動を察知するためだけに開く目だ。

「きみには才があるよ」師範の声が蘇える。一瞬の思考だが、ありありとその夜の火の揺らぎまで再現する。「学ぶ才だ。きみはたぶんじぶんには何もないと考えているようだけれど、人並み外れた才がある。ただそれは、自覚し、自負した瞬間に痩せほそっていくものでもあるから、それくらいじぶんの技量に疑いを持っているくらいがちょうどよいのかもしれないね」

 ひょっとしたら、と師範は言った。

「私と出会ったせいできみの才は急速に枯れつつあるのかも。それは少しさびしいけどね」

 追憶を振り払うようにシチハは死線をまたぎ、手刀を放つ。

 交わされても構わない。本命は追撃だ。

 振りぬいた腕の反動をそのままに、でんぐりかえしの要領で身体を宙に転がす。かかとを鎌とし、師範の頭部を狙った。

 ここで射止める意気だった。

 いつも本気だ。

 師範相手に手を抜いたことはない。

 手刀、かかと共に宙を切る。

 着地し、三の手に思考をとられた刹那、首筋にそっと触れるゆびの感触がある。

「よい型だね。研ぎ澄まされているし、破壊力もある。でも大振りだし、直線にすぎるよ。失敗したあとの手もまとめて、流れで身体に染みこませておくとよいよ。型を、という意味ではなくね」

「型を憶えてはいけませんか」

「いけなくはない。その反復でしか辿りつけない境地はある。でもきみにはそこで満足してほしくはなくてね」

 師範のゆびが首筋をなぞる。あご、そして耳の付け根まできて離れた。耳たぶをつままれたが、その意図は不明だ。

「死線はよく意識できてる。目はだいぶ肥えてきたね。そしたらあとは、そこを踏み越えたあとの挙動の総じてが、どんなにデタラメでも、それそのものが型として機能するように身体を死線に馴染ませること」

「身体を死線に、ですか」

「足元にばかりあるわけではないよ。死線はそこかしこに、命を意識すればそれこそ、ここにも、ここにも、どこにでもある」

 師範のゆびが宙を突く。シチハの身体はそのたびに、ずくずくと内側からくすぐられたような疼きを覚えた。

「死線と死線を結んでいけばいい。見失わないかぎりは、それが途切れたとき、相手はもう立ってはいないから。帰ろっか。あすはきみの初めての大仕事だもの。早く寝て、英気を養わなきゃね」

 この日、師範は率先して夕飯をつくり、よくしゃべり、陽が暮れる前には寝床に入った。

 首をひねって、師範の寝顔を見る。師範の髪が、月明かりを受けて照っている。

 あどけない顔つきだ。それでいて狸寝入りをしているのではないかと訝しむほどに、乱れのない寝姿だ。棺桶に入れればさぞかしお似合いだろう。

 死体の美しさと似ている。

 この手で息の根を止められたらどれほどうれしいだろう。

 妄想を闇に浮かべながら、あすからの仕事を考え、気づくと耳の奥に小鳥たちのさえずりが聞こえている。

 明朝に小屋を発った。師範は山の中腹まで見送りについてきたが、里に用があるついで、と言っていた。どこまで本当か判らない。師範は無駄なことはしない。嘘を吐く道理はないはずだ。

 峠をいくつか越え、二十日をかけて城下町まで下った。

 初めて踏みいる城下町だ。武芸者を公に招集しているとあって、すんなりと街並みに打ち溶けた。

 いくつかの試験を潜り抜け、腕っぷしを認められるとなし崩しに城の兵として雇用された。名と地位を与えられ、指南役として抜擢される。つぎつぎに増えていく兵を束ねた。

 野盗狩りはそれから半年もしないうちに開かれた。おそらく太平の名目でいくつかの村や里が焼き払われる。城の武力を示し、つよく支配下に置こうとの魂胆がある。

 野盗の多くは、領主からの厳しい税に業を煮やし、村や里を離れた者たちだ。見せしめに殲滅せしめようとの腹なのだ。

 卑しいのはどちらか、と思う。

 義憤ではない。

 素朴な感応だ。

 卑しいのはどちらか。

 両方だろう、とシチハは思う。どちらも相応に卑しく、愚かで、懸命だ。

 豊かではない。肥えていない。ゆえに一所懸命に現実から目を逸らし、目のまえの利を得ようと奔走する。

 より我を通せる者が財をなし、他者を使役する流れがそうして強化されていく。互いに、暴力を潔しとする流れを築いている。本来はその流れからこそ逃れようとしていたにも拘わらず。

 皮肉なものだ。

 しかしシチハ自身もまたその流れの一端を担っている。

 逃れられるものではないのだろう。

 果たして、それは真なりや。

 殿さまは獣の狩りを楽しむように隊に加わった。夜になると陣城を敷き、身辺を信頼のおけるつわものでかためて熟睡した。

 シチハは闇夜に乗じて殿さまの首を斬り落とした。

 師範の言いつけどおり、首は持ち去った。

 その後、城がどうなったかは知らない。野盗狩りの続行は不能だったろう。しかし仮に野盗の仕業と見做されれば、仇討は必須だ。今後、より熾烈な殲滅作戦が練られると想像する。

 およそ七か月ぶりに馴染みの山へと帰還する。紅葉の季節だ。初めてこの山に踏み入れた日を思いだす。あのときは師範が道案内をしてくれた。いまでは単なる獣道と辿るべき我が道の区別がつく。

 小屋に師範の姿はなかった。焚火の炎は途絶えていない。そう遠くには行っていないと判る。

 殿さまの首を骨置き場に転がす。獣肉を食べたあとの骨は一か所にまとめて、さまざまな道具の素材にする。人間の首も獣の首も大差ない。

 思い返してみると、初めての殺人だった。いまこうして改めて考えるまでそのことにすら思い到らなかった。

 なんてことはない。

 人の命など、山の樋熊と比べるまでもなく、朝の到来を知らせる小鳥ほども価値はない。

 価値をじぶんは見出していないのだ、と知った。

 雲の上から見る満天の星は格別だ。

 地上ではこうもいかない。

 ミミズクの鳴き声が崖の下から響いて届くころになると、小屋に近づく足音が聞こえた。

 これみよがしにわざと鳴らせている。

「帰ったね、おかえり」師範が敷居をまたぐ。手にはカモだろうか、鳥を数羽握っていた。「あすの朝に食べよう。稗のほかにお米もちょうどこのあいだ仕入れてきたばかりでね。そろそろ戻るころかと思っていたから、よかった」

「遅くなりました」

「ううん。予想よりずっとはやかったよ」

 持ち帰った首を見せようと立ちあがると、

「あれはもう埋めてあげたよ。ずっとあのままじゃ可哀そうだからね」

 師範は見透かしたように言った。

「きょうはもう休もう。あしたからまたすこし忙しくなる。きみにもやってもらわなきゃいけないことが増えるから」

「仕事ですか」

「いろいろまた教えるね。こんどは、忍びとしての術を、イチから」

 師範は寝床に潜る。呼吸音一つ立てずに、気配だけを闇に同化する。

 何らかの試験だったのだ、と遅れて気づいた。試されていたのだ。

 なにより、これまでの日々が師範にとっては修行ですらなかった事実に胸のうちを掻き毟りたい衝動に駆られた。

 翌日から師範は、忍びとしての術を、これまで以上に熱心に説いた。それは過去に披瀝してきたいくつもの技術とは方向性の異なる、いわば兵法のようなものだった。

 つまりが忍法なのだろう。忍びのしるべだ。

 その多くは問答によって掘り下げられていく。師範がみずから答えを口にすることはない。盗むのでも、真似るのでもなく、つくり、導き、結ぶ、の繰り返しだ。片手間に肉体の鍛錬を行うのも忘れない。

 岩場を駆けながら、壁を登りながら、谷を飛び越え、罠一つで獣を捕らえ、ときに道具を使わず、身一つで鳥獣を捕らえる術を編みだす。

 伝授、とそれを言い換えてもよい。

 具体的な術を記憶するのではなく、新しい術を編みだす流れを体得する。

 ときおり、仕事をこなしたりもした。単独ではなく、師範に付いて回った。仕事を依頼にくる使者の対応を任されるようになり、さらに書簡の出し方を習った。

「引退する気ですか」

「引退はしないよ。ただシチハくんには独りでも仕事ができるようになってほしいの」

 満腔の信頼を感じた。慈しみ育てる者の惜しみない労がある。そこに偽りはないように思えた。

 水と偽り泥をそそぎ、日輪と騙って炎に晒せば、芽はたちどこに腐るだろう。本物の要素をそそぐがゆえに芽は枝葉を伸ばし、地中深くに根を巡らせる。

 結果からして、師範は本気で忍びの極意を授けようとしている。

 目的は定かではない。師範の考えなど解りようもないのだ。だが、これまで見えなかった師範の思考の軌跡のようなものは、そこはかとなく漠然とであるにせよ、察し至れるようになってきた。

 引き受ける仕事とそうでない仕事の分別もいまなら以前よりも明瞭だ。師範は、その仕事を完遂したあとで、似た仕事がふたたび舞いこまないような仕事ばかりを引き受けている。

 たった一度の悪事を熟すだけで、以降はそれと似た悪事を働かずに済む。そのような仕事と判断したときのみ、師範はたとえそれが赤子を殺すことですら請け負い、まっとうした。

 師範の胸中は詳らかではない。どのような思いでその手を汚してきたのか。シチハに解るのはただ、師範にはみなには視えていないさきへの展望があることのみだ。

 そして多くそれは、現実のものとなる。

 ゆえに迷いなく、師範は仕事をただ完遂する。

 ときにはみずから率先して手を汚すこともある。それはシチハが師範のあとについて回るようになってから知ったことだ。彼女は仕事以外でも、個人的な暗殺や奸計を企て、実践していた。

「今回のはこうしようと思うのだけど、シチハくんはどう思う?」

「ここはもっとこうしたらよろしいかと」

「いいね。そうしよう」

 意見を仰がれ、それが受け入れられる機会も増えた。相棒と言っても過言ではない。自負しそうになるたびにシチハはじぶんを叱咤する。

 自覚したらそこで才は枯れる。師範の相棒と驕り高ぶればそこでこの関係は途切れるだろうとシチハには推して知れた。

 師範はまだ試しているのだ。

 学ぶ土壌に底はない。

 初めての仕事を経てから二年が経った。小屋の周囲に植えたアジサイが咲きほこり、このような高所でも育つのかと発見が尽きない。アジサイの種は用途に優れ、何かと重宝する。花弁は染物にも使える。岩場ばかりの土地柄、植物は育たないと決めつけていた。珍しく師範が、一言も口を挟まず事の成り行きを見守っていたが、本当は無駄だと内心で思っていたのではないか。だが試行錯誤する姿に何かを感じとり、放置してみたのではなかったか。

「野菜は育つかな」

「あれば便利ですね」

「里まで下りずに済む。とはいえ、獣が寄りつきそうでこわいね」

 樋熊ですら素手で倒すお方が何を、と陽気が零れる。本気で案じていそうな口吻で言うものだから、ついつい真に受けてしまうが、師範の声の響きは総じて演技だ。相手の心情を一方向に誘導するために繊細に制御されたそれもまた術である。

 いまだかつて師範をまえにし、心底震えあがった憶えがない。ゆえにおそろしい。実力が、見かけ上からはいっさい窺えない。実体との乖離が不気味なのだ。

 底知れない。

 本当に。

 何度思っただろう。そしてその思いにすら底がないようだ。

 夜、物音がして目覚める。師範が荷造りをしていた。

「どうされたのですか」

「しばらく留守にするね。代理を頼めるかな」

「師範のですか、私が?」

「客人がきたら丁重にお出迎えしてね」

「来客の予定があるのですか」

「たぶん。七人くらいかな。きみならだいじょうぶだから」

「期間は」

 どれくらい留守にするのか、と訊ねたつもりだ。

「だいじょうぶ、またすぐ会えるよ」

 ふしぎなほど思考が回らず、ふたたびまどみはじめる。夢とうつつの狭間で師範の影が月光のしたに消えた。

 師範が消えてからひと月もたたぬ間に来客があった。仕事の依頼にやってきた使者ではない。

 刺客だった。

 息遣い、足音、鳥の声に似た合図から推し量れる人数は四名、そこからさらに見張りや待ち伏せの駒がいるとして、七人はいそうだ。

 師範の言っていた客とはこれか、と合点がいく。

 寝込みを襲われたが、接近には気づいていた。いちはやく床下に潜りこみ、穴を通って、崖の側面にでる。梯子が下へとつづいている。

 遁走を図ろうかとも思ったが、そこまで相手に見抜かれていると想定して動くことにする。相手は明確にこちらを殺しにきたのだ。否、師範を殺しにきたのだろう。或いは、こちらが狙いだとすれば、刺客は師範が放ったとも考えられる。

 これもまた試験の一環か。

 師範ならあり得るように思え、しかしそれにしては行き過ぎにも思えた。

 殺しにきた相手が一人ならばまだ手心を加えられる。しかし複数人ではこちらも命をとる気でやらねばならない。

 相手の陣形や接近の技術、連係の卒のなさ、どれをとっても腕利きだと判る。忍びの術を有した者たちだ。

 試験のために彼ら彼女らを殺して果たして何が得られるだろう。

 殺さずに逃げおおせてみろ、という話だろうか。そう難しくはない。このまま遁走すれば事足りる。しかし小屋は手放さなければならなくなるだろう。師範から預かっただいじな仕事場がなくなっては困る。

 やはり逃げる選択肢はない。

 迎え討つ。

 ここで七人の刺客を生け捕りにする。

 陽が昇るまでにカタをつける。でなければ逃げるよりない。闇に乗じればいくぶん人数の差を埋められる。土地勘はこちらが上だ。

 罠も到る箇所にしかけてある。

 獣用だけではない。修行の一環で常日頃、対人罠を仕掛けていた。解除してあるものが大半だが、すぐに組み立てられる状態で放置してある。罠を仕掛け、その場所まで誘いこみ、自滅してもらう。

 とはいえ、相手も警戒している。まずはかく乱し、陣形を崩すのが先決だ。

 相手は床下の抜け穴に気づいたころだ。中に入って追うような真似はしないだろう。煙を焚き、炙りだすと共に、出口がどこに通じているのかを探るはずだ。

 となると一人は確実に小屋にいる。それを見張る者が三名、小屋の周囲の木陰、否、この場合は木の上だろう、身を忍ばせる。

 残りの三名は陣形を組んで、逃げたこちらを追いながら、抜け穴がどこに通じているかを見て回るだろう。鼻のきくやつが一人いれば、そいつが崖の側面の抜け穴までは比較的に短時間で辿り着く。

 そのときおそらく、合図を送るはずだ。

 ミミズクの声でもあげればそれらしい。

 合図のあがる方向、距離共に、小屋からは離れている。一瞬の気のゆるみが生まれるはずだ。そこを突く。

 脳裡にはほかにも行く通りかの策を思い浮かべる。最も死線にちかい線を辿っていく。

 死線は何も個人にばかり浮かぶものではない。カタチあるもの、連係するもの、仕組みを維持するものには大なり小なり浮かぶものだ。

 そこを突けば、崩れる。

 弱点が、線となって、浮きあがって視える。霞んで視える。透けて視えるのだ。

 朝には、簀巻きにした七人の刺客が小屋の周りに転がった。

「また顔を変えたのか」七人のなかで最もシワ顔の男が言った。「相変わらずバケモノじみたやつよの」

「師範の知己ですか。わるいのですがいまここに師範はいません」

「サカサ、誤魔化すな。それほどの腕前、そうやすやす引き継がれてはたまらん」

「誰に頼まれたのかを教えてください。言ってもそうそう容易く口は割らないでしょうから、それなりの工夫はさせてもらいます」

 地べたに拷問に使えそうな道具を並べる。

「そんな手間をかけるには及ばんよ。命には代えがたい。我らはしょせん忍び、忠誠は己にしか誓っておらんゆえ」

 シワ顔の男は、とある城主の名を口にした。それは以前、シチハが首を斬り落とし、持ち帰った城主の後釜の名だった。

「意趣返しですか。なぜバレたんでしょう」

 兵を足抜けしたが、元から素性は偽っていた。

「何を言うかと思えば。おまえがわざわざじぶんの仕事だと文をだしたのではないか」

「文を?」

「サカサ、おぬしはむかしからよくわからん忍びだったが、もはや正気とは思えん。わるいことは言わん、足を洗え。きょうここで死んだことにして、去れ。二度とそのチカラを振るうな」

 彼らはまだこちらを師範と誤解しているようだった。師範の性別を知っているのだろうか。股間を見せれば納得してくれるだろうか、と連想するが、そんな急所を晒す真似はしない。忍びにとっては誤解をされている状態のほうが都合がよい。

「おまえたちこそきょうここで死んだと思い、忍びをやめたらどうでしょうか。そんな腕では遠からず命を落とすでしょう。忍びが徒党を組むなど笑止千万」

「てめぇ相手じゃなきゃ誰が組むか」女が吐き捨てる。最後まで捕まらなかった俊敏な忍びだ。技量だけで言えばこのなかでは一番の高みにいる。

「申しわけないのですが、死ぬか引退するかを選んでください。本当は殺すのが楽でよいのですが、何分、こちらも無駄に争いをつづけたくはないのです。相手の殿さまも、返り討ちにされたうえ、手駒の忍びに温情をかけられたと知れば、追手をかけようとは思わないでしょう」

「どうかな。一族郎党根絶やしにしろとおかんむりだったが」

「ならば死にますか」

「いや、引退する」シワ顔の男は、それでいいな、とほかの面々に水を向ける。みな無言だが、異を唱えたりはしなかった。

 もう二度と干渉しないと誓わせ、縄を解いてやる。命のやり取りをしたければ構わないが、つぎは手加減をしない。そのように告げると、馬鹿らしいとばかりにみな首を忌まわしげに振り、一言もなく去って行った。

 小屋には入らず、しばらく風に浸かる。

 岩場のうえに立つ。

 見晴らしがよい。

 山間には平野が広がり、

 地平線の彼方は空と海が繋がっている。

 師範とよくここで組み手をした。けっきょくいちども勝てなかった。

 師範はどう思っていたのだろう。出来のわるい弟子だと内心では笑っていたのではないか。

 文が届いた、とシワ顔の男は言っていた。

 何者かが、例の暗殺を師範の犯行だと密告したのだ。

 師範の名を騙ったうえでそのような真似をするとはよほど愚かなうえ、陰湿だ。

 だが、と思う。

 果たしてそんな真似をする者がいるだろうか。よしんばいたとして、師範がそのような浅はかな所業を見逃すだろうか。そのような動きが生じた時点で、師範ならば阻止すべく策を練りそうなものだ。

 或いは、練ろうとして山を下りたのか。

 シチハはそこで、じぶんが最も妥当な考えを巡らせようとしない自家撞着に気づき、内頬の肉を噛みしめる。

 文の差出人が師範本人だとしたらどうだ。

 小屋の在り処ごと文に載せ、刺客を放つように仕向けた。師範ならやり兼ねない。目的が不明なのはいつものことだ。じぶんの身代わりを小屋に置き、亡き者にしようとした。

 サカサは死んだ。

 これまでの仕事相手にそう思わせられれば、これ以上に仕事のやりやすい環境は整わない。幽霊になったようなものだ。文字通り、追われる心配すらない。

 忍びとしては完成された域に昇り詰める。

 それが狙いだったのか。

 疑問するが、師範がそのような姑息な真似をするとは思えない。シチハを亡き者にするならばいつでもできた。人の手を煩わせるよりよほど簡単に、寝ているシチハの首に音もなく刃物の切っ先を突きたてれば事足りる。あとはサカサは死んだ、と噂を流せば、いずれ死体と共にこの小屋が発見される。

 それとも真実、サカサなる忍びの名を、その地位を、踏襲させようとしたのだろうか。最後の試験として、サカサを殺しにきた刺客をねじ伏せる。相手は最後までこちらをサカサと見做して疑わなかった。忍びにとって見た目の変化は重要ではない。シワ顔の男ですら、おそらく実年齢は見た目よりもずっと若い。

 サカサなる名は、最強の忍びと同義なのかもしれなかった。

 だが、真実最強になるには、やはりというべきか、最強を倒さねばならない。

 サカサ本人をいちども負かすことのできなかった若輩にその名は荷が重すぎる。

 真相を掴まねばならぬ。

 シチハは決意する。

 まずは師範の足取りを掴まねば。

 本人にじかに問い質すよりほかはない。

 じぶんはどうあっても師範に憎悪を向けないのだな。

 かつて胸にわだかまっていた故郷を滅ぼした元凶への鬱屈した感情はとうにどこかへと消えており、代わりに澄んだ泉がごとく滾々と湧く感情の流れを自覚する。

 会わねばならぬ。

 問わねばならぬ。

 そしてこんどこそハッキリと打ち負かさねばならぬのだ。

 崖のふちをなぞるように飛ぶトビに目を留める。シチハは何ともなく腕を伸ばし、トビの首根を掴みとる。

 いまならば届く気がした。

 師範、サカサ、最強の忍びの死線を越えて、その対面に、いまなら。




【一丸の手引き】


 足元にはずらりと敗者が横たわる。三十人に囲まれておきながら部下たるオウボは造作もなく敵対勢力の一部兵隊を鎮圧してみせた。

「さすがだな」

「何言ってんすか。カシラならオレの半分の時間でノシたっしょ」

「どうだかな。いまおまえとやりあって勝てる気がしない」

「やめてくださいよ、そんなに褒められたらヤりあいたくなるじゃないっすか」

 肩を竦める。「勘弁しろよ」

 オウボはジャケットからメディア端末をとりだし、どこぞに連絡をとりはじめる。ほかのチームに情報を流す腹なのだろう。我がチームの事実上のカシラはオウボだ。こちらへの相談抜きにチームの人員を動かしている。任せきりだ、と非難されるが、そっちのほうがいい、と言って半ば隠居生活を送っていた。数年前にいちど引退を宣言したつもりなのだが、なかなかどうして縁が切れない。

 今回、南方の荒くれ共が徒党を組んで、この街に攻め込んできた。我がチームの一員とみるや片っ端から闇討ちを仕掛け、縄張りを奪い取っていく。

 いまどき抗争ゴッコなぞ、裏街道の住人たちですら忌避するというのに、面倒なことだ。当初はオウボに対処を任せていたが、情勢が危うくなってきたところで、致し方なく重い腰をあげた。

 助けを求められては黙ってはいられない。

 現場に顔をだしたのは久方ぶりのことだ。オウボともじかに顔を合わせたのはじつに半年ぶりのことだった。チームの構成員の大半はもはやこちらの顔も知らないだろう。名前だけが一人歩きしている。

 数時間前、女どもの店が荒らされていると聞きつけ、駆けつけた。三十人ほどの敵兵をオウボはものの数分で片付けた。見ないうちにまた腕をあげたようだ。

 やはりチームの頭はこいつでいい。

「カシラ、やつらウチだけじゃなく、黒虎衆や朱雀一派、妖精群、果ては芭蕉連合にまで手ぇだしてやがるって」

「大した勢力だな。誰が率いてるか判るか」

「いや、それがぜんぜん。下っ端ぁ片っ端から締めあげさせてんすけど、どいつもこいつも上の顔知らねぇってんで、さっぱりで」

「それでよくもまあ、統率がとれるもんだ」

「とれてねぇからこのザマなんすよ。数だけは相当なもんすが、組織としてはザコもザコ。こりゃひょっとしたら烏合の衆かもしんねぇですね」

「難しい言葉知ってんな」

「カシラが教えてくれたんじゃねぇですか。この世でいっちゃん厄介なのは強大な組織じゃねぇ、誰の指示も受け付けない個の集団、津波みてぇな烏合の衆だってさ」

「言ったかもしんねぇが記憶にねぇな」

「言ったんすよ」

 ボケるにゃ早くねぇですか、とオウボは倒れたバイクを起こし、乗ってください、とあごを振る。「各チームのトップで会合開くことになったんで。カシラぁ、いっちょカマしてやってくださいよ」

「イヤだ」

「ふざけんな却下です」

 バイクにまたがると、振り落とす気なのか、オウボはトップギアで加速した。来るときにも思ったが、革ジャンを着てくればよかったと後悔する。初夏とはいえ、オウボの転がすマシンのうしろは、いささか風が冷たすぎる。

「ここか」

 大きな鳥居を見上げる。古い神社だ。街はずれにあり、途中でスーパーに寄り夜食を買った。レジ袋をカサカサ云わせながらなだらかな階段をオウボは登りはじめる。

「二千段くらいあるんで、かなりキツっいすよ」

 規模の大きな神社の割にだから参拝客がすくないのだ、といった豆知識を耳にしながら、階段の至る箇所に、タイヤの跡らしき汚れを目にする。

 汗だくになって登りきると、境内には数十台のバイクが円陣を描くように停まっていた。いくつかのライトが点灯し、祭りよりも明るい。自動車まで並んでおり、ほかに道があったのか、と周囲を見渡すが、それらしき道はない。

 背後からエンジン音が聞こえ、4WDのゴツい車が乗りあげてくる。

 車から降りてきたのは、ガタいのいい女だ。編みこみの赤髪は鳳凰の羽じみている。

「朱雀か。久しぶりだな」

 彼女は鋭い眼光でこちらの身体を袈裟斬りにし、聞いてないぞ、と本殿に向かって怒鳴った。

「なんでコイツがここにいんのさ。アタシらだけでやるって話だったろうがよ」

「吠えんなメス。階段は自力で登ってこいっつったの忘れたか。下から出直してこいやボケ」

 賽銭箱のうえに胡坐を組み、退屈そうに頬杖をついているのは芭蕉連合のトップだ。たしかみなからはナナバと呼ばれていた。初めて見る。滅多に人前に姿を現さないが、実質この地区の統率者だ。

「先代から聞いてるが、とっくに引退したんじゃなかったか」ナナバがこちらに缶ビールを放った。受け取る。「あんたも手を貸してくれるってんならありがたい。状況は知っての通りだ。よそのバカ野郎どもがオレたちの街を荒らしてる。縄張りだとかシマだとか、そういうつまんねぇ理由はどうでもいい。ここはオレたちの育った街だ。そうだろ。だったら荒らされて黙って帰すわけにゃいかねぇよな」

「いやいやここはあなたの街ではありませんよ」

 いつからそこにいたのだろう、鳥居に背中を預けて寄りかかる男がいた。スーツにメガネ、進学校塾の講師でもしていそうな装いだ。こちらの視線に気づいたのだろう、失礼、とメガネをゆびで押しあげる。「ご挨拶がまだでしたね。私、妖精群の横田と申します。以後お見知りおきを」

「黒ネコがきてないじゃない」朱雀が言った。黒虎衆のことだろう。脇に停めてあったバイクを彼女は片手で引き寄せる。腰掛けた。怪力にまた一段と磨きをかけている。

「黒虎衆のやつらが今回一番被害受けてっからな」ナナバが応じる。「一矢報いるまでは手ぇ組むってことはしねぇんじゃねぇか」

「メンツがどうのこうの言っている場合ではないのでは」スーツの男、横田が嘴を挟むが、「新参者が口を挟むんじゃないよ」

 朱雀がにべもなく突っぱねる。横田はおとなしく黙った。涼しい顔を浮かべたままだ。ほかの連中とは異なり、コイツとは筋の通った話ができそうだ、と高く評価する。いまの時代、個の腕っぷしよりも統率が物を言う。組織を率いる器のあるやつが指示系統を任されるべきだ。

「いい加減にしろよ」我が部下、オウボが声を張る。一同の視線が集まった。「こうして揉めてるあいだにもおれらの街がぐちゃぐちゃにされてんだぞ、メンツなんざどうだっていい、守りてぇもん守るためにしなきゃなんねぇことやってこうぜなあ」

 カシラもなんか言ってやってくれ、と凄まれ、こめかみを掻く。

「いまんとこ被害はでてるが、戦力じゃあこっちが上だ。ただ向こうの数は一向に減る様子がない。消耗戦になればこっちが圧されるのは間違いない。やるなら一挙にまとめてだ。いがみ合ってる暇はないってのはコイツの言うとおりだ」

 オウボの顔を立てておく。

「この場にいない黒虎衆にも手を貸してやってほしい。あちらから協力を申し出てくることはないだろうが、こっちが手を貸して拒むほど愚かでもないだろう。恩を売るつもりで、助けてやってくれ。アイツらの人脈は戦力になる。アイツらが本気で動けば、アイツらの町そのものが戦力に加わる。数で押しかえすには有効だ」

「相手の目的が解りません」横田が言った。しゃべるときにいちいちメガネをいじるのは癖のようだ。「誰か当て推量でもよいのでそれなりの道理を説いてくれませんか。なぜ彼らはこの街を襲うのか。とても労力とリスクに見合う利があるとは思えないのですが」

「縄張り争いじゃないの」朱雀が言うが、たしかにな、とナナバは横田の異議を認めた。「ほかに目的があんのかもな。そう考えたほうがしっくりくるわな」

「ほかにって何?」

「朱雀。おまえは鍛えすぎて脳みそまで筋肉になったのか。じぶんですこしは考えろ」

「疑問しただけじゃん、あんたはすこしお利口さんになったからって身体が貧弱になったんじゃない。いつでも相手になるよ」

「だからいがみ合うなって」オウボが割って入る。

「憶測を話すのはあとでもできる」話を進めたくて言った。「いまはまだ対抗の仕様がある。だがそれは相手に統率力がないからだ。ひょっとしたら様子見をしているだけかもしれん。となると時間をかければかけるほど不利になる。やり返すならいますぐにだ。それも、二度とこの街に手出しをさせないくらいに徹底的に」

「おうよ、ぶちのめしてやろうや」

 ナナバが腕を掲げると、子分たちだろう、神社を囲う森から、雄叫びじみた声があがった。

「アタシらは待ち伏せなら任せてほしい。一網打尽にするってのは得意だし、できんだけど、追うための足がない。できれば追いこんで、アタシらのとこに集めてくれると助かるんだけど」

「なら私が網の役目を果たそう」横田が言った。

「待ち伏せか、いい案だ。朱雀、おめぇんとこだけじゃ数足んねぇだろ、うちのを使え」

「そんなにいらないんだけど」

「誰が全部やるっつったよ考えて物を言え」

「クソが」

 悪態を吐きながらも、ナナバが見繕った兵隊を引き連れ、朱雀は戦車じみた車に乗って神社の長い階段を下りていった。

「お噂はかねがね」

 見遣ると横田がそばに立っている。気配を感じさせない所作だ。忍者じみている。「どうせいい噂じゃないんだろう。聞かないどくよ」

「今回の一件、私はもっと根が深いと考えています。単純な外部勢力の侵略と捉えていると足を掬われるかと」

「なぜいまそれを?」

「ほかの面々は聞き耳を持ってはおられないようなので」

「何か案があるのか」

「様子見をするために敢えて統率を持たせていないとのさきほどの仮説、おおむね同意見です。おそらく機を逃せば、数日でこの街の勢力図は塗り替わるでしょう」

「だがあくまでそれはこっちの勢力がてんでバラバラな状態のままだったらの前提だ」

「ええ。一致団結したあとでの勢力がどれほど強大になるか。相手の想定をどれほど上回れるかで、勝敗の行く末は大きくたがうでしょう」

「何が引っかかってる。複雑な物言いは苦手でな。申しわけないが簡単に言ってくれ」

「裏切り者の可能性を考慮されていますか?」

「なるほどな。たしかに情報が筒抜けじゃ意味がない。敵陣営と通じてるチームがあればそれだけで大打撃だ」

「チームを捨てて、個人が裏切る事態も充分あり得るかと」

「なんでこの街をって思ったが、手引きしたやつがいるとすればそれも腑に落ちるか」

「私は私で調査を進めます。この線、ぜひご一考のうえ、諸々の選択を」

「助かったよ。対処は考えておく。ほかにしてほしいことは?」

「いいえ。お会いできて光栄でした。では」

 横田は音もなく、闇に消えた。

 神社本殿の賽銭箱に向き合う。ナナバがまっすぐこちらに視線をそそいでいる。

「先代は元気か」

「死んだよ」

「いつだ」

 ナナバは答えなかった。生ぬるい風が足元を吹き抜ける。「ここに眠ってる。オレたちの生きた証だ。オレたちみてぇのは世の大半のやつらからはハミ出し者としか見られねぇが、そういうやつらでも生きていていい、しあわせになっていい、まっとうな生活を夢見ていいって教え、説き、導びいてくれたひとだ」

「知っている。安らかだったか」

 臨終の間際、やつは安らかに逝けたのか、と訊ねる。

「どうだかな。死は死だ。それがあのひとの教えだったからな。いまここでそれを言ってどうなるとも思えねぇ」

「そうだな」

 聞いたところでそれで気がまぎれるのはこちらだけだ。

「あすはどうすりゃいい」ナナバは意外にも指示を仰いだ。「線を引いてくれりゃその上を走るが」

「この街にいる害虫は根こそぎ駆逐する。そのための火になってくれ」

「止まらねぇぞ」

「止める気はない」

「死人がでたらオレに言え。いくらでも始末してやる」

「ここは寺じゃないだろう」

「だから埋めても誰も疑わねぇ」

 ジョークか本気かの区別がつかない。どちらにしても愉快なのは変わらない。

「キバにはオレから話を通しておく。何か伝えておきてぇことはあるか」

「いや、ない」

 キバとは黒虎衆の棟梁の名だ。あそこも世代交代している。ナナバよりも歳下のはずだ。おそらく平均年齢がもっとも低いチームだが、その分、彼ら彼女らを可愛がる町人がすくなくない。それだけ黒虎衆が町を愛しているのだろう。裏から言えば、町に害をなす者に彼ら彼女らは容赦がない。

「成功しても失敗しても、明後日の夜にここに集まる。それでいいか」

「窓口は任せろ」

 連携の要を担ってくれるようだ。頼りになる。

 ナナバは闇に何かを放った。掴みとる。メディア端末だ。

「持ってろ。逐次戦況を流す」

「助かるよ。ありがとう。先代もよろこんでる。保障するよ絶対だ」 

 最後にナナバはらしくのない慇懃な口調で、よろしく頼む、と小声で言った。神にでも祈ったのだろう。そう思うことにする。

 潰れたボーリング場の一画に足を運ぶ。埃が溜まっていないところを見ると、オウボたちもアジトとして使っているのだろう。毛布や非常食がたんまりある。

 明朝、ようやく寝付けるかと思った矢先に、ドタドタとやってきたオウボに問答無用に叩き起こされた。

「やつら、四神会と繋がってやがったみたいっす」

「おうおう、最悪な目覚めありがとう」

「どうりであんだけ暴れてサツどもが動かねぇわけですよ。この街追いだされた復讐のつもりなんすかね。意趣返しってやつっすか、どうすんすか。これ以上敵増やされたらいくら俺らでも」

 オウボは拳を握り、いまにも柱を殴り倒しそうな剣幕を浮かべる。

「まあ座れ。想定内だろうが。この街の勢力図を根本から塗り替えようって勢力がある。いまさらだ。むしろ四神会くらいがバックについててくれなきゃ張りあいがない。違うか」

「いや、でも」

「だいじょうぶだ。四神会の連中はじぶんらじゃ動けない。じっさい動いてないわけだろ。手駒動かして、上手く事が運べば御の字、失敗すりゃ知らぬ存ぜぬを押しとおす。メンツが命なんだ、いまこの街を蝕んでる輩どもに勝てばそれで今回の一件はおしまいだ。四神会にはそのあとでいくらでも痛い目に遭ってもらおう。そのためにもまずは、いまここだ」

「正念場ってやつですか」

「正念場じゃないいまなんざないって話だ」

 黒虎衆はどうなってる、と水を向けると、この街に陣取った敵の拠点をさっそく潰しに走っているそうだ。芭蕉連合がそこに加勢しているという。

「情勢は拮抗してますね。加勢にいきますか」

「まあ、待て。おそらく敵さんもそう考え、大量に、火種に集まるはずだ。朱雀たちはそこを狙って待ち伏せしているはずだ。逆に、ほかの敵陣が手薄になる。そこを叩く役がいる。任せたいが、いけるか」

「いつでも」

「行け」

 命じるとオウボは冷たい空気をまとい直し、風のように去る。

 嵐の前触れだ。

 静寂がおそろしい。

 定期的にナナバから連絡が入った。わざわざ通話で状況を伝えてくれる。ありがたいが時間と労力は有効に使ってほしい。共有データにして誰でも閲覧できるようにすればいい。

 指摘すると、端末を奪われたら情報が筒抜けだ、ともっともなことを言う。加えて、情報をバラバラに伝えることで内通者がいないかを洗いだそうとの魂胆があるそうだ。

「こっちにも考えがある。親切だけで動いてると思うんじゃねぇ」

「べつに親切とは思ってなかったがな」

 黙って切られた。癇に障ることを言ってしまったようだ。申しわけない。

 戦況としてはおおむね良好だ。敵陣営の目的はこの区域の主要チームの壊滅だ。だがその主要チームが一団となって策を練り、反撃ののろしをあげた。

 闇雲に襲撃を繰り返してきた相手側からすれば根耳に水だろう。圧していたはずが一転、一夜にして形勢が逆転した。

 分散していた戦力を一か所に集めながら、相手の戦力を分断し、かつ段階的に一網打尽にしていく。時間の経過にしたがいこちら陣営の負担は減るが、相手側は弱体化の一途を辿る。

 退散しようとしても無駄だ。外側を妖精群の軍団が一般人にまぎれて、零れ落ちた敵兵を虱潰しに叩く。戦闘不能に陥った兵隊はふたたび敵陣に戻ることはない。群れへの愛着がないからだ。じぶんがいい思いをしないのならば加わる必然性がない。得がない。ゆえに、じぶんが破れたらそれまでだ。復讐を誓う動機すらない。ゲームオーバーのそれだ。終わったゲームにふたたび参加するほど骨のあるやつはそもそもあんな烏合の衆に加わったりはしないだろう。仮に加わったとすれば、しぜんとそいつが中心となって組織立っていくものだ。そうなっていない時点で、ただの個の集合でしかない。

 そのような意見を口にし、各チームの頭を鼓舞する。おまえたちは間違っていない。そのまま巻き返せ、押し返せ、と。

 夜、この街にふたたびの温かな賑わいが戻る。負傷者は多数でたが、病院送りになった者は一人もいない。捨て身になるくらいなら逃げろ、と口を酸っぱくしてナナバが通達したからだろう。

 負傷者は足手まといだ、そうならないように立ち回れ。

 同時に、相手側にも手心を加えろ。それは、情けをかけろ、という意味ではない。この街の医療機関に負担をかけないためだ。自力で逃げ帰れるだけの余力は残してやれ。そうでなければ殺せ。後始末はオレたちが請け負う。ナナバはそう言い切った。

 じっさいに死人がでたとは聞いていない。が、仮にでたとしてもナナバは言ったりしないだろう。墓場まで持っていくはずだ。

 先代もそういうやつだった。

 誰より汚れ役を買ってでて、一人で抱えこみ、そして人知れず死んだ。

 愚かだ。

 思うが、その仄暗さに魅かれもする。

 電波越しに各々のチームの頭と会談する。ほとんどナナバがしゃべった。しぜんと指揮系統に誰がふさわしいのか、明らかになりつつある。誰もそのことに不平を鳴らさないのは誰もがいま達成すべき目的が何かを掴めているからだ。同じさきを見据えている。そのさきで、どのような道を切り拓いていくのかはめいめいがまた改めて考えることだ。まずはそのさきへと突き抜けなければならない。

 一丸となっている。そう感じた。

 あすの夜にまた芭蕉連合の本拠地に集合、とナナバが告げ、会合はお開きとなった。場所を明言しなかったところに、ナナバの慎重さが窺える。誰が会合の通信を聞いているか判らない。内通者の存在をナナバは疑っているようだ。

「こんなにうまくいくなら」オウボがよこに立つ。スーパーから買ってきた夕飯だろう、ハンバーガーを手渡してくる。「最初からカシラを呼べばよかったですよ。いままでの苦労はなんだったんだって話ですよ。まとまれるならまとまれってんだ」

 ほかのチームのことを言っていると判る。数で言えばいまもっとも構成員の数がすくないのはオウボのチームだ。ただし個の戦闘力で言えば、ずば抜けている点で、ほかのチームからは一目置かれている。

「カシラ、戻ってきてくださいよ。やっぱおれだけじゃチームを引っ張っていけねぇっす」

「なら解散すればいい」

「そりゃないっすよ」

「弱音を吐くな。おまえはよくやってる。困ったら言え、そのときはまあ、説教くらいはしてやる」

「助けてはくれないんすか」

「無理だな。今回も何をしたわけじゃない。かってにほかのチームがまとまって、敵を追い払った。おまえはすこし戦う場所を変えただけだしな。無闇に暴れればいいってわけじゃないってのは相手を見てよく分かったろ。学んだならそれをつぎに活かせばいい」

「カシラはどうして」オウボはそこで言葉を切ったが、意を決したように続けた。「チームを抜けたんすか」

「飽きたんだ。単純にそれだけだ」

「ホントすか」

「嘘吐いてどうすんだ」

「何だかカシラ、ずいぶんと変わった感じがして、ときどきですけど見てらんないってか。構っていいのかどうかしょうじき悩むっす」

「構うな構うな。んだその野良猫みたいな扱い」

「そういうわけじゃないっすけど」

「だいたいおまえとこうしてしゃべんのだって半年やそこら振りだろ。いまさら老害扱いする気か」

「これからどうするんすか」

「あした会合でそれを話しあう」

「おれらのことじゃなく、カシラのことっすよ」

「面倒に巻きこまれたというから手を貸してやっただけだ。面倒が終わればまた元の生活だよ。おまえらともしばらくまたさよならだ」

「本当に戻ってきてはくれないんすか」

「しつけぇな」

「すんません。でも」

「おまえらがそんなんだからほかの荒くれ共から舐められてこんな目に遭うんじゃないのか」

「そうかもしんねぇですけど」

 溜息を吐く。そんな傷ついた顔をされては叱る気も起きない。「頼りにしてんだ。だから任せた。これからも任せたい。できるな」

 オウボは顔を伏せたままちいさく、うす、と言った。

 夜空には曇天がかかり、街のネオンを明るく反射している。

 翌日、事態は悪化した。

「カシラ、たいへんだ、妖精群から連絡が入った。いまこっちに数千規模の族が向かってるって」

「敵陣か。警察はなんで動かない」

 いくらなんでも民間から通報くらいはいくだろう。

「デモ行進を装ってるってんで通報しても動いてくれねぇみたいっす」

「たしかか」

「いま芭蕉連合から連絡があって、カシラにも入れたがでねぇってキレてましたけど」

 メディア端末を確かめる。電源が切れていた。昨夜、充電するのを失念していた。

「すまん、気が緩んだ」

「みな神社に集まってます。カシラも急いで」

「敵さんはどこに向かってんだ」

「同じ場所です。まっすぐ芭蕉連合の本拠地、神社に」

 オウボの顔は浮かない。現状の示唆する意味を理解しているからだ。

 やはり内通者がいたのだ。

 裏切り者だ。

「ほかのチームはどうした」

「黒虎衆がどうしても迎え撃ちたいと譲らないらしく、揉めてるようで」

「判った。妖精群に連絡はつくか」

「横田さんにすか」

「頼みたいことがある」

「伝えときます」

 オウボに指示をだし、おまえもそっちを頼む、と命じる。オウボを見送り、その足でアジトを飛びだす。

 時間がない。最後の正念場だ。

 正念場じゃないときはない、と先日オウボに大口を叩いたばかりだったが、最後にしたいと思うときくらいはある。

 芭蕉連合の本拠地、山のうえの神社に立つ。階段を駆け上ってきた手前、汗だくだ。風が皮膚表層のぬるい膜を拭い去っていく。心地よい。

「戦争だ。止めるなよ。みなの総意だ。どちらかがくたばるまで止まらねぇ」

 ナナバのもとには朱雀や黒虎衆の棟梁、キバいた。

「横田はどうした」ナナバは言ってから舌を打つ。「あいつか、裏切り者は」

「違う」まずは否定する。三人のあいだに割って入る。キバを見下ろす。線の細い青年だ。頭皮が覗くほど短く刈り上げられた髪は、一様に白い。染めているわけではないのだろう。まぶたにたっぷりと載ったまつ毛もまた白いのだ。一見すると性別が判らない。黒虎衆のつぎの頭は女だと聞いたことがあるが、定かではない。先代から引き継いでまだ日は浅いはずだ。

「挨拶は抜きだ」キバから視線をはずし、ナナバに向き直る。「応戦するのは利口じゃない。まっとうにぶつかりあえば、サツはおまえらに矛先を向ける。表向きやつらはデモ行進を謳ってやってくる。民間人相手に暴力を振るった暴徒、そうしてこの街にいられなくしてやるって魂胆だろう」

「だったらどうしろってんだ」

「相手がそうくるなら同じ目に遭わせてやろう。どっちが暴徒か思い知らせてやろう」

「どうすんだ」

「キバ。頼みがある」しぜんと見下ろす格好になる。「きみの村のひとたちに協力してもらいたい。助けてほしい」

「いいけどまずは案を聞かせて」声まで少女のようで驚く。こちらの心象が伝わったのか、キバは目に険を滲ませる。

「きみたち黒虎衆には汚名を被ってもらうことになる。それでも構わないか」

「だからまずは」

 案を聞かせろ、と語気を荒らげるキバの言葉を遮り、

「人質をとる。黒虎衆がきみたち自身の村人を人質にとってこの神社に立てこもる。ここまでくるには階段がないとキツい。階段あがってもキツいくらいだから、敵陣営はまずこの山を取り囲むことになる」

「で?」

「まずはそこまで引きつけてから、きみの村のひとたちに警察へ助けを求めてもらう。村の若者に拉致られた、殺されそうだ、いますぐにきてくれ、と」

「ぼくらがそんな真似するわけないだろ」

 村人を傷つけるはずはない。そのとおりだ。

「演技だ。警察はきみたち黒虎衆を助けるために動いたりはしない。それはほかのチームにしても同じだ。警察はどうあってもここにいる者たちのためには動かない。だが、一般人の場合は違う」

 あ、と誰かが言った。そうなのだ。そこに気づけるか否かが、打開策を手にできるか否かに繋がる。

「キバ、わるいがきみたちには汚名を被ってもらう。村人を襲う悪者だ。警察はどうあっても出動せざるを得ない。しかも相手はこの街のアウトローの一軍だ。パトカー一台なんてちんけな出動じゃない。一群を引き連れてやってくる。まず間違いない」

「一網打尽になれってかよ」ナナバが言った。「敵さんを追っ払うことはできても、この街にいられなくなっちゃ意味ねぇだろうがよ」

「まず誤解を解いておこうか。警察だって一枚岩じゃない。なかにはおまえたちのことを嫌ってないひとらもいる。本当はこの街で何が起きていて、それを誰が食い止めているのかを知っている者たちだっている。そちらのほうが多いはずだ。動けないんだよ。あくまで警察は組織だから。上の命令がなければ動けない」

「きっかけを与える。これはそういう案?」

 キバはこちらの意図を呑みこめたようだ。「くすぶってる火に油をそそいでやろうって、これはそういう作戦か」

「そうだ」

「じゃあ何か」ナナバが吠える。「サツどもに出動のきかっけを与えてやりゃ、この山を囲んだ敵さんをついでにしょっぴいてくれるって、そういう話かよ。そう上手くいくかねぇ」

「上手くいくようにするしかない。国虎衆にもただ汚名を被ってもらうだけじゃない。ちゃんと誤解は解いてもらう」

「村のひとたちに山の下にいるやつらが暴徒だと言ってもらえばいい」キバは思った以上に頭のまわるやつだった。「最初からそう言っても警察は動かない。でもいちど出動したあとなら、現場の状況を見て、現場の人間が動いてくれる。ここまできてもらったら、村のひとたちにぼくたちではなく、山の下にいるデモ隊が暴徒と化して危害を加えたと証言してもらえばいい。ぼくたちもいちどは縄をかけらるかもしれないけど、そのあとに牢屋に入れられることはないはず」

「そういうことだ」朱雀を見遣ると、眉間にしわを浮かべている。あとで解りやすく説明してやれ、とナナバに目配せをし、「ほかに質問はあるか」とキバに訊く。

「ない。流れは判った。細かな修正はこっちに任せてほしい。ぼくらのやり方にはいっさい口をださない。それでいい?」

「構わんが、死者はだすな」

「それも含めて任せてほしい。こっちはだいじな村のひとたちを利用しなきゃいけない。その代償くらいは払ってもらう」

 承知しかねる、と表情で伝える。

「もちろん深追いはしない」キバは食い下がったりはしなかった。「相手が引けばそれまで。いい?」

「交渉がうまいな。いいだろう。任せた」

「ありがとう」

 素直に礼を言われ、目を剥く。

 なに? とねめつけられ、いや、と唇の端を持ちあげる。

 統率者としての才がある。そう思った。おそらく衆を率いていなければ、つまりキバ個人だけであれば礼を口にすることはなかっただろう。それほど我がつよく、自己完結している。なぜこれほどに確立された個が集団を率いていられるのか、その構造に興味が湧いた。

「一つ問題がある」キバが仲間らしき男に指示をだしたあとで、こちらに言った。「いまから集めても間に合わないかもしれない」

「村人か?」

「協力はしてくれる。元々そういう話をつけてある。戦闘に巻きこむかもしれないって意味だけど」

「安心しろ。手は打ってある。ほれ」メディア端末を投げつける。キバは微動だにせず片手で掴みとる。「なに?」

「妖精群の横田を知っているか。アイツがいますでに村人をここに運んでいる最中のはずだ」

「誰の指示でそんな」

「村人はおまえの手駒じゃない。おまえが負傷したと知れば、嫌でも駆けつける。もちろん罠だったときには、妖精群はタダじゃ済まないだろうな。ただ、すでにきのうのうちに誰が味方で誰が敵対すべき勢力かは、おまえんとこの村人だけじゃなく、ほかの連中にしたところで判ったはずだ」

 駆けつけるよ、と太鼓判を押す。「おまえのチカラになれるのならな。支えられていることに気付け。守ってやってるつもりでいるだけならガキのままだ」

 キバはここでも素直に、わかった、と言い、ありがとう、とつぶやく。さすがに恥辱の念、ともすれば怒りに顔を赤くしていたが、棟梁の器としては申し分ない。

「話をすればだ。きたぞ」

 階段のほうから祭りがごとく人々がやってくるのが見えた。オウボが老婆を背負っている。ほかの面々も年配者の足を気遣っている様子が窺えた。

「敵陣営はあと一時間ほどで近辺に到着予定です」

 背後にスーツの男、横田が佇んでおり、虚を衝かれる。「脅かすな。おまえそれやめろよ、心臓にわるい」

「警察署、交番にも布石を置いています。合図さえいただければ、いますぐにでも駆け込み可能です」

「そりゃいい。電話だけじゃ信憑性が薄いからな。卒がない、頼ってよかった」

「指示あっての仕事です」

 横田に礼を述べ、それからナナバに事情を伝える。

「やるなら最初に相談してくれ」

 指揮系統としての自負があるのだろう、いい顔をしないが、メンツに拘れば目的から遠ざかることは肝に銘じているようだ。即座に大声を張りあげ、一堂に集まった面々に激を飛ばす。

「いいかおめぇら、きょうで終わらす。おめぇらは手を汚すな、その役目はオレたち芭蕉連合が請け負った。花火があがるのをゆったり眺めてりゃいい、これまで不快な思いを繰り返し、与えあってきた同士だが、同時にオレたちゃこの街の同士だ。祭りはきょうで終わるが、できればその後も、この縁を繋いでいきたい。異論はむろんあっていい、馴れ合いは性に合わねぇ、わかってる。だがまたいつこんな事態が起こるか判んねぇ。そんときゃまたこの場に集まり、或いは遠くからでも互いのたいせつなもん守るためにまた歩みを共にしようじゃねぇの」

 誰かの通夜かと思うほど、シンと静まりかえる。夜風が吹く。いつの間にか夜の帳が下りている。

 松明の火が灯る。境内に影が揺らめく。

「来ました」

 横田が耳元でささやく。

 ナナバに目配せを送る。

「同士よ」ナナバは謳う。

 本殿に向かい、柏手を打った。「祭りといこう」

 この日の夜の出来事は、ひっそりと、しかし克明にこの街の歴史に刻まれた。総勢五千を越える軍勢が、デモを装い、街外れの山を取り囲んだ。

 芭蕉連合が山への侵入を阻む。

 だがたてこもれば三日も立たずに降伏するしか道はない。食料がない。必然そうなる。戦況は圧倒的に不利だ。

 軍勢が街一帯を占領したかに見えたが、そこに赤色灯とサイレンの音が四方八方から押し寄せた。

 見る間に軍勢は包囲され、投降を呼びかけられたのを機に、一気に瓦解する。

 人質たる黒虎衆の村人たちが下山し、事情を伝えるが、半分は虚偽だ。調べればそれが嘘だと判るだろうが、おそらく警察はそれを見逃すだろう。街を暴力で支配しようとした破壊者がどちらかは火を見るよりも明らかだ。じっさい、黒虎衆をはじめ、ほかのチームも、今回の一件に関してはこの街のなにも損ないはしなかった。

 警察の上層部は焦るだろう。いちどは看過し、あわよくば街の肥溜めを一層しようと招き入れた奇禍を、じぶんたちの手で打ち滅ぼしてしまったのだから。

 各チームの頭はのきなみ出頭し、翌朝には釈放された。問われるべき罪がない。暴行罪にしろ、それを訴えでる被害者はもはやこの街には一人もいないのだ。

 暴徒の軍勢は、各々、集団誘拐事件の被疑者として身柄を拘束されている。おそらく立件されるだろう。事実、彼らにはこの街を破壊し、暴力を働き、拉致監禁を行った証拠がある。

 横田率いる妖精群は、暴徒の行った数々の破壊行為を動画に収めていた。警察が本格的に動けば、調査の過程で街中の監視カメラの映像も証拠として加わるだろう。背後に、四神会が絡んでいることにも行き着くはずだ。

 警察の上層部こそが、四神会と繋がっていると明らかになるのも時間の問題に思えるが、そこはあまり期待していない。いくらでも不都合な関係は揉み消せる。ないものとして記録を、解釈を、再構築できる。

 怪力女こと朱雀は最後まで状況を理解していなかったが、オウボがこんど地元でストリートファイトを開くと言ったのを皮切りに、もはやそちらに関心が移った様子だ。腕相撲ではオウボは負けたが、余興のつもりで境内で行ったスパーリングでは、朱雀のほうに焦りが窺えた。

 拳を交えるほかに親睦の深め方を知らない愛すべき馬鹿者どもだが、祭りの終わりにふさわしい笑い声が境内には響いていた。

 とはいえ、朱雀もまたパトカーに乗せられ翌日には何がなんだかの顔つきで突き返されたというのだから、笑い話にしては上出来にすぎる。

 この街はよくなる。

 いままでのよどんだ流れが嘘のようだ。

 寝床に使っていたボーリング場で荷物をまとめていると、オウボが顔をだした。警察署での取り調べから解放されたその足で来たようだ。服装はそのままで、顔色がわるい。

「見送りか。疲れてるだろ、気を使うな。バスで帰る」

「カシラは、芭蕉連合とは縁が深かったんですか」

「なんだ急に」

「先代が亡くなったと聞いたときのカシラの顔。なんだか尋常ではなく見えたので」

「おまえも知っての通りだ。喧嘩に明け暮れた仲だ。ついぞ考えが合わなくてそれっきりだ。いつ死んだのかも知らなかった」

「でも、どうして死んだのかは知ってたんじゃないですか」

「どうしたどうした。取り調べを受けすぎて移ったか? 尋問されてる気分だ、やめてくれ」

「おれ、ずっと考えてたんすよね。なんでやつら、こんな何もない街に襲撃しかけてきたのかって。目的なんかない、暴れればそれでいい。そういうやつらだと最初は思ってたんすけど、昨日の様子を見て考えが変わりました」

 誰もが命を燃やしてかかってきたりはしなかった。安全圏から野次を飛ばすのにも似た臆病さが垣間見えた。安全が保障されなければ相手を殴ることもできない。そういう烏合の衆だった。

 数だけが強みだった。

 ゆえに警察が登場した途端、興醒めだとばかりに武装解除した。もしこちら陣営が逆の立場だったならば、どのチームも警察相手に大立ち回りを演じたはずだ。

「元を辿ればやつら、四神会の手駒だろう。警察の上層部とも繋がってる。警察が動けばやつらも暴れられない、それだけの話だ」

 オウボを押しのけ、部屋をでる。

 建物のそとにでると、オウボは追いかけてきた。空いた時間の差からは、オウボの逡巡が窺えた。

「カシラなんじゃないんすか、アイツら扇動してこの街襲わせたの」

 声は震えていた。

 反面、確信に満ちた響きがあった。

「どうしてそう思う」

「否定しないんすね」

「なんの得がある。そんなことをしていったいなんの」

「まとめるため、じゃないんすか。この街を、チームを」

 バラバラだったおれらをまとめるために。

 オウボはいまにも殴りかかってきそうな剣幕だ。戦友に向けていい威圧ではない。

「だとしても、なんの得にもならないな。おまえらがまとまろうが、解散しようが、どっちだっていい」

「カシラはそうかもしれませんね。そういうひとだから。でも、芭蕉連合の先代はそうじゃなかった」

「何を聞いた」

 芭蕉連合の現師範たるナナバから昨晩のうちに何かを聞いたのだろう。想定はしていたが、いざ突きつけられると堪えるものがある。

「遺言だったんじゃないんすか。芭蕉連合の先代、そのひとはきっと、カシラに託したんだ。それをあとになって、いまになって、カシラは受け取った。死んだことにも気づかずに、いまさらやり残したことに気づいて、だからこんな真似を」

「義理がない。やつとはそんな仲じゃない。考えすぎだ」

 憶測でひとを責めるな、と反駁すると、オウボは憶測でなきゃ言えませんよこんなこと、とそばに積みあがった廃材を蹴った。廃材が崩れ落ちる。けたたましい音が反響し、寄せては返す波のように静寂がまたぶり返す。

「四神会がこの街を牛耳っていたときのこと、憶えてるか」

「ええ」

「あんときゃおまえもまだこの首狙う跳ねっ返りの一人でしかなかった」

「懐かしいです」

「夜もおちおち寝らんなかったよ。あんとき、芭蕉連合と手ぇ組んで、四神会に殴り込みかけた。ほとんど潰したつもりだったが、よその土地でまた勢力を拡大しはじめてな。気づいたときゃ遅かった。抗争が勃発しそうになって、そんでマツヲ、芭蕉連合の先代といっしょになって、四神会に詫び入れにいった」

「詫びを? カシラが?」

「ああ。引退する代わりに、下のやつらにゃ手をださないでくれって。この街にも手出し無用、そんかし仕事を手伝う、傘下に下る。そう約束した」

「カシラはじゃあ」

「いまは四神会を抜けた。色々手も汚した。裏街道の仕組みもだいたい知ったし、より悪質に仕組みを整えたりもした。思いだしたくもない日々だ、おまえらが、この街が無事ならそれでよかった。ここが自由ならそれでよかったんだ」

「ならどうして」

 オウボはそこではっとした様子で、マツヲさんすか、と言った。

「芭蕉連合の師範が代わったのは知っていた。マツヲはけっきょく四神会にくだらず、この街に残った。引退はしたからそれで手打ちにって話だった。裏の仕事を手伝うのは一人でいい。そういう話だった」

「だった、というのは」

「人質ってことだったんだろうな。マツヲは自由に日々を過ごせる代わりに、片方が裏稼業の片棒を担ぐ。もし逃げだせば、マツヲの日々は崩れ去る。そういう仕組みだ。二人同時に傘下に加われば、結託して、組織を内側から乗っ取り兼ねない。腕っぷしを買って引き抜くが、組織を乗っ取られるほどには活躍してもらっては困る。牙は折っておく。野獣を飼い慣らすコツだ」

「ならどうしてカシラは足抜けを。期限があったってことっすか」

「いや。四神会がサツの上層部と通じて、実質この街を牛耳りはじめたのを知ったからだ。たしかに四神会は直接この街に手出しはしてないが、そんなのは詭弁だ。約束を反故にされた。だから組を抜けた。筋はこっちが通ってる。だがやつら、それすら裏切りと見做して、マツヲを殺しやがった」

 オウボが唾を呑みこむ。喉仏が、痛々しく上下する。

「手紙が届いてな。近況から、元気してるかってな話まで。むかし使ってそのままにしていたアパートのポストに入ってた。万が一、じぶんにもしものことがあったら、この街を、下のコたちを頼むと書いてあった。狙われていることに気づいていたらしい。念のために書いた体ではあったが、ハッキリとありゃ遺言だった」

「だからおれたちが一体になるように、まとまるようにって、烏合の衆をけしかけたんですか」

「それもある。四神会とサツの繋がりを炙りだしたいというのもあった。単純に復讐のつもりでもあったのかもしれない。手駒揃えるために四神会の名を使った。コネも使った。いまじゃ立派なお訊ね者だ。もうすぐこの顔が裏街道のネットワークに出回る。そんときゃ知らぬ存ぜぬを通せよ。庇ったりすんな。何を見ても、聞いても、無視してろ。おまえらが騒げば、無駄に打たなきゃならん策が増える。黙って静観しといてくれ」

「カシラばっか損してるじゃないっすか」

「んなこたない。好きなことしかしてこなかった人生だ。これからも好きなことをして生きていく。なんも変わらん。できればおまえらにも好きに生きてほしい。いちいち先人の真似すんな。じぶんの道を好きにつくれ」

「そのためにカシラが土地を整備するって、邪魔者を排除するってこれはそういう話なんですか。そんなことされて、はいよとおれらが好きに生きられるとでも思ってんすか」

 舐めんなよカシラ。

 オウボの咆哮に、胸が熱くなる。そういうおまえらだからこそ費やせる時間がある。流せる血がある。喉の渇きに、拳の痛みに、食いしばる歯の軋むような重圧に、生きているとの実感を重ねることができている。

「舐めてんのはどっちだ。感謝してんのはこっちだっつってんだ。恩返しくらいさせてくれ。本当は黙ってかっこつけときたかったが、おまえがない頭絞って、いらんことに気づくから、クソダサくなっちまっただろうが。どうしてくれんだよ」

「四神会は黙ってねぇんじゃねぇですか」

「そりゃあな。ただまあ今回の一件で、サツとの関係はこれまで通りとはいかなくなったはずだ。力関係で言えば、いまやこの国でサツ以上の組織はない。サツのほうでも、上層部の派閥に変化が生じたはずだ。おまえらが起こしたことは、おまえらが思う以上に、大きなうねりとなってこの国に巣食った膿を洗いだす契機になる」

「おれたちこそ膿なんじゃ」

「膿ってのは仕組みだ。個そのものじゃねぇ。だからそう、おまえたちにも膿ができることはある。安心しろ。そんときゃ容赦なく搾りとってやる」

「調子乗んないでくださいよ。引退したおっさんにできることなんかなんもないです。いいっすよ。どこへなりとも行っちまえばいいんだ。好きな土地で好きに生きればいいんすよ。もうカシラのことなんざ忘れました。ああ疲れた。帰って寝よ寝よ」

 踵を返したオウボに、

 わるかったな、と声をかける。「なんも残してやれなかった」

 バイクに跨るとオウボは、こちらを一顧だにせず、背中越しに中指を立てた。

 陽気が込みあげる。

 軽快にエンジンを噴き鳴らし、オウボは道路のさきへと姿をちいさくする。

 道のさきに見えなくなるまで見届けてから、荷物を背負い直す。

 あとにはただ、透明な空気が、高く昇った陽の光をぼやかしている。




【殴蹴道】


 拳が空を切る。エンジンが唸るのにも似た音が鳴り、相手の拳の威力を知る。なぜそれほどまでの巨躯で啄木鳥(きつつき)がごとく俊敏さを発揮できるのか。サイバは肝を冷やした。手心を加えていられる相手ではない。数秒前まであった他者への情が希薄になるのを、意識的に自覚した。

 しゃがむより低く身体をかがめ、相手の懐に入る。拳を振りあげる。かわした相手のあご目がけてすかさず流れるように蹴りを放った。

 手応えがある。足首から太もも、股関節、そして背筋へと伝わる衝撃が心地よい。

 追撃を加えるが、足を掴まれそうになり、距離を置く。

 慌てなくていい。

 相手は達人の域にいる。長丁場になる。

 遅れて噴きだすひたいの汗を手の甲で拭いながらサイバは、殴蹴道(おうしゅうどう)からいつの間にか抜けだせなくなっているじぶんをふしぎに思った。

 サイバが殴蹴道なるけったいな遊戯の存在を知ったのはいまから二年前になる。十七歳だったサイバは有名都立大への進学を目指す一介の学生にすぎなかった。友人はおらず、勉学に励むことがゆいいつの時間の潰し方だった。

 受験本番の半年前には受験範囲を十周以上し、万全の体制が整っていた。志望校の過去問であればまず満点をとる。暇が増えた分を、進学後の予習に回した。医学書をかたっぱしから読みはじめたのはその時期のことだ。

 身体の構造の知見を深め、死とは何か、生とは何か、といった生命の本質にまで思考を広げた。

 運動は脳細胞を死滅させるからと避けていたが、身体を動かすことの利もまたあると認識を覆し、日の予定に運動を取り入れた。筋肉を肥大化させるのではない。現状の肉体を維持したまま最大限の性能を発揮するにはどうすればよいのか、に焦点を絞って試行錯誤した。怪我をしなくなり、免疫力もアップした。通常、身体を酷使すれば免疫機能は一時的に下がる。アスリートのような鍛練は避け、身体の駆動率をあげるための工夫に終始した。

 他人に暴力を振るう機会はそれまでなかった。発想そのものがなかったと言っていい。

 明瞭に憶えているのは日付と、その日、珍しくガムを踏んで、視野の狭いじぶんに苛立ったときの感情だ。

 靴を脱ぎ、靴底のガムを小枝でこそぎとろうとした。

 時刻は夕方、場所は公園だ。池があり、林があり、カモが陸で羽を休ませていた。

 地面から生えた背の低い照明が点灯する。

 街の喧騒がかすかに届き、静けさが何かを教える。

 人の声のようなものを聞いたのは、靴を履き直し、ベンチから腰をあげたときだった。林のほうから聞こえた。池から流れる小川があり、それを辿るように歩を向けると、暗がりの奥に、対峙する二つの人影を見た。

 暴漢に襲われているのかと思い、とっさにメディア端末を取りだした。警察に通報しようと思ったのだが、ゆびは最後まで番号を押さなかった。

 そこにいたのは男と女だった。

 片方が片方を圧倒していた。それを、蹂躙と言い換えてもよい。

 屈強な男が女をいたぶっている、ではない。

 線の細い女のほうが、屈強な男に苦悶の声をあげさせていた。

 男は筋骨隆々とし、強面の顔は特殊部隊上がりを連想させた。Tシャツは身体に貼りつき、相手の女の腰回りほどにもある分厚い太ももを駆使して重い打撃や、蹴りを放つ。女はそれを風に舞う木の葉のように避け、合間合間に、男の急所を的確に突く。ほとんど撫でると言ってよい所作である。指先で触れるかのごとくそよ風じみた動きのあとには必ずと言ってよいほど男の苦痛に満ちた呻き声があがった。

 息は荒く、しだいに男は攻撃の手をゆるめていく。

 間もなく、男はだらんと両手を脱力し、その場に両膝をついた。

「だから言ったのに。無駄だって」

 女は懐からキャンディをとりだし、口に突っこむ。つまらなそうに手櫛で髪を整えると、そこに至ってようやくこちらの存在に気づいたようだ、ぴたりと動きを止めた。

 男と交戦していたときよりも格段に険のある表情を女は浮かべた。殺気がムンムンと立ち昇る。それが殺気というものなのだ、と無知の身体が即座に理解したほどに、濃厚な殺意の波動、拒絶の意、破壊衝動のようなものを察知した。

 男は地面に膝をついたままだ。呼吸が浅く見える。不規則でもあり、尋常な状態ではないとひと目で判断つく。警察よりも救急車を呼んだほうがよいかもしれない。 

 余計な思考を巡らせながら、それを余計な思考だと判断せざるを得ない事態が目のまえに差し迫りつつあるのを、どこか上の空で、他人事のように感じた。

 女はこちらが一向に反応を示さないことに戸惑っている様子だった。そうなることをじぶんは予想していたのだ、とそのときになって遅れて気づく。殺気に殺気で対応すれば、あとはもう後戻りのできない死闘の幕開けだ。一線を踏み越えないためには、殺気を向けられても泰然としていられるだけの余裕がなければならない。

 しかしいまは余裕があるわけではない。ただ反応できないだけだ。否、反応はできる。反応したあとの予想を展開できないがゆえに、動けないのだ。

 打開できる未来を思い描けない。こんな局面は初めてであった。たいがいの窮地であればどうすれば脱せられるのか、打開策や通るべき王道が見えた。

 だがこのときばかりは、ただただ損なわれる未来の到来を予感するよりなかった。

 女はそんなこちらの臆病さを感じ取ったようで、先刻よりも殺気を抑えたようだった。圧が希薄になる。

 ほっと息を吐いたところで女の姿が視界から消えた。そのように見えた、というだけのことでしかないはずが、現に女は瞬きをするかしないか、といった短時間のあいだに目と鼻の先に移動している。

 女のいた地点には、地面から舞いあがる木の葉が見えた。

 空気のうねりを肌に感じる。足を引き、空気の流れから逸れるようにのけぞった。前髪に何かが触れる。女のゆびだ。その位置にはコンマ数秒前までじぶんの目があった。

 足を踏ん張り、地面に手を突いてよこに転がる。

 大きな音が鳴る。いましがたいた地点に女の足が振り下ろされていた。

 ぞっとした。

 人間には初期動作というものがある。だが女からはそうしたつぎの動作を予測させる挙動のいっさいが窺えなかった。

 なんですかあなたは。

 非難するつもりで叫んだ。しかし女の声に遮られた。サイバの声よりも数段大きな声量で女は、なんだおまえ、と怒鳴ったのだ。「何者だ、なぜここにいる、何が目的だ」

 女の目は怒りに震えていた。それが怒りの感情の表れなのだとなんの疑いもなくすんなりと受け入れられた。女は逆上している。しかしなぜ鋭利な敵意を向けられなければならないのかがサイバには不明だった。

「邪魔をしてすみませんでした、ただ誰かが襲われているのかと思ってぼく」

 口早に釈明した。女はぽかんと口を開けて聞いていたが、やがて脱力し、その場にどすんと腰を下ろした。片足を立て、後ろ手に体重を支える。彼女は足首まで届くスカートを穿いていた。一種エプロンのようにも見える。中にもタイツのようなものを穿いているようだったが、姿勢を崩しても彼女の足は布に隠れてよくは見えなかった。

 いまさらながら彼女の容姿をまじまじと観察する。短髪に見えていたが、長髪を三つ編みに結い、さらに後頭部に団子にまとめあげている。

「おまえ、名前は」

 訊かれたが、名乗ってよいものか迷う。

「ま、言えないわな」

「あの」

「救急車呼んでやってくれ。あたしは帰る。巻きこんでわるかった。まあ、面倒にはならない、それは保障する。さっさと忘れて楽しい日々を送んな」

「決闘だったんですか」

「いや」

「でも」

 巨躯の男を見遣る。地面によこになり、苦しそうに息をしている。先刻よりかはいくぶん楽そうではある。意識はあるのだろうか。イビキは掻いていないようなので、そこは安心する。昏倒したときにイビキを掻く人間は、脳に障害を負っている場合がままあるからだ。

「説明してもいいけど、あんま首突っ込むと戻れなくなるよ。とくにきみみたいのは」

「ぼくはただ」

「ゲームだ。そう思ってりゃいい」女は粗暴な物言いをするが、見た目は質素で、素朴で、偏見でしかないが、休日は美術館巡りをし、雨の日は家で読書をしていそうな雰囲気がある。とても屈強な男をねじ伏せるほどの戦闘力があるようには見えない。単純な膂力を比べればサイバよりも格段に弱いはずだ。

 業なのだ、と思う。

 技術によって彼女は自身よりも強大なチカラを御することができる。

 理の武というものをサイバはこのときに初めて目の当たりにし、そういったものがこの世にあることを知った。

「もっと教えてください」なぜそんなことを口にしたのか分からない。ただ、知りたかった。未知を未知のまま放置しておくのは耐え難い。

 女の唇の端が持ちあがる。なぜか引力を感じた。

「殴蹴道という。殴る蹴る道、だ。スポサーがいて、登録者同士で潰しあう。決闘というよりもサバイバルにちかい。うえ見てみ」

 視線をあげる。音もなく球体が浮かんでいるのが見えた。

「カメラだ。あれで中継してる。録画もか。専用のチャンネルがある。もちろん会員制だ。厳選された金持ちの娯楽だな」

 むかしで言うコロシアムだ、と思う。女は、よっこいしょ、と腰をあげた。

「人を殺しても罪に問われない。殴蹴中はって限定つきだけどさ、ま、気晴らしには都合がいい。鬱憤が晴れる。ストレス解消にはもってこいだ」

 法治国家として看過しておくにはいささか危うすぎる。娯楽の範疇を越えている。戸惑ったが、女の口ぶりからはどうにも、罪の意識は窺えず、彼女にとっては日常の風景の一部でしかないのだと判った。

「どうやったら」

 それに参加できるのか、と問うとしているじぶんに気づき、サイバは言葉を呑みこんだ。

「勝てばいい」見透かしたように女は応じた。背伸びをする。「殴蹴道の登録者に不意打ちでもなんでもいい、勝って、参加資格を奪いとれ」

「そんなこと」

 していいわけがない。乱暴すぎる。野蛮だ。

 思うが、そのじつ現実社会はそうした乱暴な椅子取りゲームでできあがっているのだと理性では承知していた。受験など最たるものだ。座れる椅子は限られている。合格するとはすなわち、不合格者を蹴落としていることと同義なのだ。

 しかし受験の場合は合格ラインがある。いくら合格者が席を譲っても、座れない者はいつまで経っても座れない。椅子に座るためには座るだけの姿勢を、器を、自力で培わねばならない。

 それもまた他者から何かを奪うことで得られる資格であるのかも分からない。資質とそれを言い換えてもよい。姿勢を、器を磨くための道具を揃えるためにはやはり、何かしら他者を蹴落とす真似をどこかではしなければならないのだろう。蹴落としている事実から目を逸らす術すら道具のように手に入れられるいまは時代だ。

 社会はそうしてさまざまな盲目を駆使し、暗幕を提供し、発展してきた。

 殴蹴道なる娯楽もまたその一端にすぎないのだろう。やっていることそのものはプロの格闘技と変わらない。有り触れたビジネスの一部でしかないのかもしれない。

 ただやはり、相手を殺しても免罪されるのは逸脱しすぎている。

「安心しろ。殺しても罪には問われないが、ゆえに誰かを殺せばじぶんが殺されても文句は言えない。誰も死のリスクを高めようとは思わない。行き過ぎたやつが現れればそれを止めようとするやつもでてくる。いまのところバランスはとれているよ」

 そういうものなのか、と感心する。社会に警察機構が生まれたように、無秩序な乱暴ゲームのなかにもしぜんとそうした秩序が生まれてくるものなのか。

「つぎにおまえが訊きたがることを当ててやろうか。どうやったら殴蹴道の登録者を見つけだせるのか、だ。一般人とどうやったら見分けられるのか、違うか?」

 黙って言葉のつづきを待った。

「簡単だ。登録者は四六時中カメラで見張られてる。個室に入ればべつだが、屋外だとまず頭上にカメラが、あれが浮いてる」

 女は空を指差した。球体はいまなお宙にある。ふしぎなのはプロペラらしき飛行装置が見えないことだ。バルーンのような構造なのだろうか。或いはまったくべつの技術が使われているのか。ひょっとしたら電気の外部供給なしで長時間浮遊可能なのかもしれない。

 女は背を向けるとそのまま歩きだし、林の奥に姿を消した。

 名前を訊きたかったが、どう切りだせばいいのか分からず、声をかけられなかった。

 よこを見る。

 そばには巨躯の男が倒れたままになっている。まだ息がある。邪な考えが脳裡によぎったが、振り払うべく男に声をかけ、介抱し、救急車を呼んだ。男は時間の経過にしたがい症状が悪化した。緊急入院の扱いになった。命に別状はないらしいが、おそらくまともに身体は動かせなくなったのではないか。神経がどうのこうのと救急隊員が言っていたのを憶えている。

 サイバはそれからしばらくのあいだ街を出歩く際には人々の頭上を視界に入れるようになった。高い場所から雑踏を見下ろし、風景に球体が交じっていないかを探っていることもある。無意識からの所作で、いつも目で探してから、まただ、と気づくのだ。

 心理学を持ちだすまでもなく自身の欲求は明らかだ。

 参加したい。

 殴蹴道なる暴力の道に。

 否、本当はただふたたび例のあのひとに会いたいだけなのかもしれなかった。

 夜、ベッドのうえで闇にまどろんでいると、前髪をかすった細くしなやかなゆびの風圧を思いだす。全身に浴びた空気のうねりは、それ単体でひとつの生き物のようだった。

 大学に入学すると、キャンパスのなかで幾度か例の球体を目にした。思いのほか身近に登録者がいることに胸が躍った。血流が増す。鼓動が高鳴る。ボールが弾むようで、いよいよじぶんを誤魔化すのは無理そうだと悟った。

 隙間時間でスポーツジムや格闘技教室に顔を出してみたが、あのときのような全身の血の滾る経験はできなかった。ぬるいのだ。義務教育時代に学校の授業で感じていた欠伸のでるような退屈さが湧いた。

 こんなものではない。

 やはり飛びこまねば得られぬ境地があるようだ。

 悩むのをやめた。無駄なのだ。

 一人の登録者の跡をつけた。金髪に短髪、ストリート系のファッションという好戦的なイデタチの青年だ。もう一人はスーツを着込んだビジネスパーソンだ。路地裏で殴蹴が繰り広げられ、勝ったのは青年だった。

 勝敗が決してから、声をかける。

 申しわけないが、資格を譲ってくれないか、と言って反応を見た。

 相手は格闘経験者のようだった。先刻の殴蹴では、相手を一撃で沈めた。疲れは微塵も見受けられない。連戦でも問題ない。そう判断した。

「やんの? いいけどべつにそんなことしなくともほれ、こいつのもらっとけばいいよ」

 青年はあごをしゃくって、地面に倒れたもうひとりを示した。たしかに頭上には二つの球体が浮かんでいる。そう言えば例のひとと出遭ったとき、殴蹴の場には球体は一つしか浮かんでいなかった。ひょっとしたら倒されたほうの巨躯の男はサイバと同じように資格を奪おうとしていたのかもしれない。

 サイバは礼を言った。それから例のひとには投げかけられなかった様々な疑問をぶつけた。青年はご飯を驕ってくれたら教えてやってもいいよ、と言った。

 牛丼を買って公園で食べた。ベンチには座らず、花壇に腰掛けた。

 青年は名乗ることをせず、名乗らないようにしろよ、とまずは言った。素性は知られたらまずい、それは殴蹴道にかぎらず一般常識だ、と説いた。

「あの球体はずっと離れないのですか」

「バズだ。ありゃ離れないが、じぶんの部屋とかそういうプライベートは映さないようにしてくれる。そこは厳粛だから信頼していい。あとはそうだな、バズラー同士で殴蹴して勝てば、報酬を得られる。バズラーにはランクがあって、まあいっぱい勝てば上がるのと、ランクが上のやつに勝てばその分報酬が跳ねあがるって二つのパターンがあるな。得た報酬の金額がそのままランクに繋がる」

「優勝とかゴールとか、そういうのはないんですか」

「殴蹴するのが目的だからな。基本はない」

「例外はあるということですか」基本は、というからにはそうではない場合もあるということだ。

「おまえ頭いいだろ。そういうやつは向かないぞ」青年は牛丼を食べ終え、割り箸をバキバキに折り、さらに手で擦りあわせて細かく砂のようにした。おいそれと真似できる芸当ではない。「殴蹴の末に相手が死ぬこともある。その場合であっても捕まらないらしい。じっさい捕まらずに味を占めて殺しが趣味になるやつもいる」

「ひどいですね」

「そうでもない。やってることはオレたちと同じだ。ただ結果が勝ち負けのほかに死ぬってのが交ざるだけでな。そこに貴賤はない。本来はな。ただ、まあ、最初から殺そうとして殴蹴をするのはやっぱちょっと違うよな。そこは大多数のバズラーの総意だ。そこは暗黙のうちに同意がとれてる」

 バズラーとは要するに、球体カメラ、つまりバズを有している者を言うのだろう。サイバの言葉なら登録者だ。

「殺人狂を生きたまま倒せたらそのつど、いったんすべてのバズが回収される。ランキングも白紙になってまた最初から殴蹴道がはじまる」

「殺人狂はどれくらいの周期で現れるものなんですか」

「常にいるよ。殺しても捕まらないんだ。呼ばなくてもいつの間にか紛れ込んでやがる。いや、運営みたいのがあるとしたらそいつらが死刑囚とか買収して放りこんでんのかもな。そこは解らん。ただ、たとえばいまなら【グンジャ】ってやつがヤバイ。もう百人くらい殺られてるって話だ」

「百人」

 言葉を失う。大袈裟に言っているだけの可能性もある。だが人数の問題ではない。真実人を殺しても警察機構や司法が動かないことに動揺する。しかしこれも可視化されていないだけでこれまでもずっとあった不条理なのだろう。落とし穴なのだろう。闇なのだろう。殴蹴道という判りやすい舞台があるためにそれが目に映りやすくなっているだけの話だ。

「ゴールとは違うかもしんねぇけど、いまはだからグンジャの野郎を倒せば一目置かれるのは間違いねぇ」

「いったん一区切りついたらそこでお終いなんでしょうか。もういちど殴蹴道には参加できないんですか」

「できるだろうな。じっさいオレは二度目だし。そこは選べるようになってんだ。ま、やってみりゃわかるっしょ。もうおまえもこっち側だ」青年はサイバの頭上にぴったり張りついたバグを見る。「てかおまえ、やれんの」

 戦えるのか、という意味だろう。彼と比べるまでもなく、運動部に属する高校生と比べても筋力は劣る。「たぶんだいじょうぶだと思います」

 自信があるわけではなかった。だがサイバにはどうしても、目のまえの青年にしろ、その対戦相手にしろ、避けるべき脅威には思えなかった。

 あのときのような全身の細胞が逆立つような極限の生を味わうには物足りない。端的に、予想がつくのだ。どうすれば相手を屈服させられるのか。目のまえの青年にしろ、構内で見かけるバズラーにしろ、初期動作が丸見えだ。

 対処可能な時点で、苦戦するとは思えない。

 現に、

「軽くやってみっか」

 立ちあがった青年とその日のうちに手合わせをしてみたが、徐々に青年のほうでタガをはずしていき、最後にはサイバが蹴りを避けたついでに軌道をひょいとずらしてやると、狙い通りに青年の股関節は外れた。勝負ありだ。

 青年は呻いてばかりで、会話はできそうになかった。

 サイバは礼を述べ、その場を辞した。話では何もせずとも救急車は呼ばれる手はずになっているのだそうだ。きっとそれはバズラー同士での殴蹴に限定されるのだろう。ゆえに例のひとはサイバに救急車を呼ぶように指示したのだ。やはりあの巨躯の男はサイバと同様にバズを奪おうとしたのだとの認識を固める。

 以降、サイバは勉学に励みながら、片手間に殴蹴道を究めた。

 殴蹴は単なる喧嘩ではない。勝てば勝つほど資本を得る。税金を引かれるわけでもなく、収める必要もない。社会基盤から逸脱し、好きなことをする自由を得る。鍛練を重ねたい者は重ね、遊びたい者は遊ぶ。得た資本をさらに増やすべく事業をする者もあれば、身体を手術で改造し、人間離れした武力を備えようと画策する者もある。

 道具の使用は原則禁じられているが、その線引きは微妙だ。たとえルール違反をしたところでバズを失い、以降、殴蹴道に参加できない処分を受けるのみで、それゆえに追放された過激な元バズラーが、バズラー狩りをするといった事例も稀にだが起きた。

 その場合は、懸賞金がでる。害悪を駆除すれば相当な金額を手にできるだけに、みな浮足立つ。暴力はしょせん、資本に操られるだけのオモチャなのだ。サイバは徐々に殴蹴道に潜む覆しがたい構造を見据えるようになった。

 なにをしたいわけではなかった。

 ただ、どうにかできる気がした。予測まではいかないが、こうすればこうなる、といった予感めいた崩壊の起因が見える気がした。

 例のひととは会えずじまいだった。戦歴のある実力者にはあだ名がつきささやかれるようになるが、それらしい人物の名前はついぞ聞かなかった。すでに殴蹴道から去っているのかもしれない。できればもういちど会い、こんどは手合わせを願いたかった。

 連続殺人鬼のニュースを目にするようになったのは殴蹴道に参加してから一年と半年が経ったころだ。

 若い学生ばかりが惨殺体で発見されるようになった。ニュースにはなるが一向に犯人は捕まらない。ひょっとしたら犯人はバズラーなのではないか、と疑いはじめたころ、例の青年にあった。公園で牛丼を食べながら殴蹴道の説明をしてくれた彼だ。短髪に金髪は相変わらずで、遠目からでもひと目で思いだした。

「おう、久しぶり。憶えてっかな。おめぇにこてんぱにされた一人だ」

「はい。あのときはたいへん助かりました」

「光栄だね。あっという間に有名人になりやがってこの野郎」その声にこちらへの怨嗟の念は感じられなかった。「もう知ってっかもしんねぇけど話しときてぇことがある。時間あっか」

 頷き、以前と同じように牛丼を買って近場の公園に寄った。グラウンドで子どもたちが各々に遊び回っている。

「グンジャの話は前にしたよな。対戦相手を殺すやつ。いまじゃおまえのほうが詳しいのかもしんねぇけど。あ、もう殺りあった?」

 首を振る。

「いまニュースになってる連続殺人事件ってあんだろ」

「もしかして」

「らしい。グンジャの犯行だろうってもっぱらの噂だ。で、いちおう言うだけ言ってみるだけだから聞き流してくれて構わねぇが、オレとグンジャ狩りしてくんね」

 その言葉とは裏腹に青年の表情には悲壮感が漂っていた。訳ありだと察する。

「妹の友達が殺られたらしい。放っておけなくなった。バズラーならまだいい。だが何も知らねえガキどもにまで手にかけるなんて人間のすることじゃねぇ」

 人間のすることですよ、とサイバは言いたかった。だが議論をしたいわけではない。「いいですよ。ただぼくはグンジャさんとは会ったことがないですし、見掛けたこともありません。なんとなくですが、避けられている気がします」

「かもな。おまえの顔写真、けっこう出回ってんぞマスクくらいしとけ」

 どうやら大金を払って仮会員になれば誰であっても殴蹴道の動画は観られるようだ。過去の殴蹴道の映像の視聴や、賭け事をするには、厳正な審査を経て正規会員にならなければならないようだ。バズラーの個人情報を集めるために大金を支払い仮会員となり、情報を売って荒稼ぎしているバズラーもなかにはいるらしい。

「グンジャの画像だけはいまんところ見ないな。とっくにバズラーじゃなくなってるって話も聞くけどどうだかな。定期ランキングに名前は載るからやっぱ、運営が匿ってるんじゃねぇかって、これはオレの勘だけどよ」

 一般人にまで手をだしたとなると、おいそれと隠しとおせるものではない。さすがに運営もそちら側の殺人に関しては手を回せないのかもしれない。とすれば、グンジャの顔画像を警察に提供するバズラーの出現を考慮して、最初から画像の流出を阻止しようとしてふしぎではない。

「だとしたらどうやってグンジャを探しだすんですか」

「ほかのバズラーにも声をかけて回ってる。オレたちはいったんバズを手放す。一気にバズラーが減れば」

「残ったバズラーの元にグンジャは現れる、でもそう上手くいくでしょうか」理屈は理解できるが、大勢が一時にやめなければ効果が薄い作戦だ。「それにいいんですか」バズを手放せば殴蹴道に参加できないどころか、収入も途絶えるはずだ。

「おめぇがグンジャに勝ってくれりゃゲームはリセット、またゼロから殴蹴道は始まる。前にも言ったろ。バズラーをやめるときに選べんだ。リセットするまでは再戦はできねぇが、新規に始まればまたプレイヤーになれる」

 リセットにしろ自主的な離脱にしろ、その際に今後再戦するかしないかを選べるのだそうだ。

「基本、運営はプレイヤーを手放したくはない。そこはけっこう仕組みが充実してる。プレイヤー目線で、損はしないようになってんだ」

 だから、と青年は言った。

「グンジャと殺りあってくれねぇか」

 袋叩きにする案もでたそうだが、そこはバズラーの矜持なのだろう、やはり殴蹴道の参加者として一線を踏み越えずに、流儀を通したいのだそうだ。その気持ちは分かる気がした。

「ですがぼくで勝てるかどうか」

「おめぇが勝てなきゃ誰も勝てねぇよ」

 笑う青年に、サイバは例のあのひとのことを訊けなかった。ひょっとしたら、と嫌な想像が脳裡に浮かんで離れない。

 グンジャとは、例のあのひとのことなのではないか、と。

 ゆえに。

 グンジャらしき大柄の人物がじぶんのまえに現れたとき、サイバは危機を覚えるよりさきにほっとした。あのひとではない。

 青年たちの仲間はすでに殴蹴道から退いている。こっそり見守ってくれるかもと期待したが、そういう卑怯な真似はしないのだそうだ。ご立派なことだ。お手本にしたいほどの他力本願だ。

 大柄の人物の頭上にはバズがある。確実にバズラーだ。ただ、グンジャですか、と投げかけても返事はなく、これといった殺気もない。ただそこに佇立する。

 隙だらけだ。

 しかし進路を塞いで動かない。後退するとついてくる。

 やはり殴蹴が望みなのだろう。

 構えをとると、ようやく相手は大きく息を吐き、臨戦態勢の初期動作を見せた。緩慢に距離を詰めてくる。

 隙だらけなのは変わらない。だが体重を感じさせない足取りから、それが油断を誘うための偽装だと見抜く。

 一発目の拳をかわす。矢継ぎ早に放たれた蹴りをかろうじて避ける。水中で大型のサメがみじろぐような空気のうねりを感じた。

 速く、的確な攻撃だ。

 重く、鋭くもある。

 大柄な身体のどこをどう使えばかような打撃と蹴りを放てるのか。身のこなしは達人の域にあると判断を逞しくする。

 受ける選択肢はない。防御ごと身体を粉砕され兼ねない。一発でももらえば、骨は砕け、当たりどころがわるければ即死だ。心臓ごと破裂し、頭蓋骨を砕かれる。

 だがサイバとの相性はよいと言えた。

 相手の攻撃力が高ければ高いほど、その威力を利用して、相手の関節を破壊できる。攻撃の軌道をずらし、力の流れを誘導して、相手の身体の一点に負荷をかける。虫メガネで光を集めて紙の一点に火を灯すのに似た技術だ。

 ただ、今回ばかりは、相手の一挙手一投足が捉えきれない。真空がごとく切れ味だ。

 いったん間合いを置いて思考したかったが、その隙を与えてくれない。こちらが本気になったのを悟ったように大柄の人物は連打に次ぐ連打を繰りだす。

 薄暗い路地裏に、エンジンを噴かすような音が連続する。男の拳の通った場所にくっきりと空洞が穿いて見えるようだ。

 この感覚は、と知れず頬がほころぶ。

 あのひととの出会いのそれと似ている。

 胸が躍る。

 血流の音を耳の奥で聞く。

 ストローでギトギトの油を吸うような粘着質な躍動を感じ、全身の静脈や動脈のカタチがくっきりと浮かびあがるようだ。悦びが湧く。

 決着は一瞬だった。

 嵐さながらの連打がことごとく不発に終わり、息のあがった大柄の人物は、体勢を立て直すために後退した。サイバはそこを見逃さなかった。すかさずぴったりと張りつく。間合いを掴んで離さない。

 大柄な人物はサイバを引き離すべく、乱暴な蹴りを見舞った。

 軌道を読む。

 蹴りを回避する。潜りこむ。

 膝の位置まで移動したときには、男の丸太のような足は股関節の可動域ギリギリまで高くあがっていた。相手の身体の許容な関節の可動域は、散々回避した攻撃を見て見抜いていた。

 サイバは相手の膝の裏に肩を押しつける。足の裏に自重を載せる。ちょうど神輿を担ぐような格好だ。相手はよろけ、遠心力により流れつつも、後方によろけた。

 すかさず相手の太ももに手を回す。地面と垂直になるように固定する。自由落下の軌道を利用して地面に叩きつける。

 腰、臀部、膝、の順番で体重が乗り、衝撃が加わる。

 竹の割れるような音が鳴り、その感触が肩に、手のひらに伝わった。男の股関節は外れ、膝が大破する。

 呻く声が聞こえる。

 足から手を離し、流れるように苦悶の表情を浮かべる相手の頭部を踏みつけている。かかとに全体重を乗せた一撃だ。いかな力自慢とて、ハンマーさながらの一撃を顔面に受けてはひとたまりもない。

 が、そこはさすが益荒男と言おうか、相手は失神を免れ、朦朧としながもふらふらと立ちあがろうとする。

 ふだんならばここで追撃を加える真似はしなかった。

 しかし、相手が相手だ。情けは無用だろう。

 前かがみに顔面を抑えている相手のひたいに手をかけ、頭部を地面に打ちつけんがために後方に押し倒す。足首に足を引っ掛けるのも忘れない。かかとと後頭部が支点と作用点となり、テコの原理で加速度を生む。

 スイカを人間の身長の高さから落とした様子を想像すればいかほどの衝撃を孕んでいるのかは推して知れよう。なおかつ脆弱ながらもサイバの膂力と、テコの原理による軌道および加速が加わっている。

 威力は言わずもがな、受け身もとれずに相手は地に沈んだ。

 さすがに疲れた。

 サイバは息も絶え絶えだ。地面に横たわる。

 ビルの合間に曇天の川が広がる。球体が浮かんでいる。バズだ。中継されているのだといまさらのように思いだす。殴蹴道はリセットされ、また再起動するはずだ。

 これまで得た報酬は全く手付かずのままだったがそれはどこに消えるのだろう。帳消しになるのはすこしだけ口惜しいが、それもまたよしとするだけの利は、興奮は、得ていた。

 楽しかったのだ。

 しかしもう、終わりにしてもよい。

 満足だ。

 満ち足りている。

 或いはじぶんは例のあのひとに恋慕の念でも募らせていたのかと信じかけていたが、どうやらそうではないと判り、すっきりした。

 頬にしずくが当たる。ぱらぱらと雨が降りはじめ、辺り一面を無数の単音からなる曲に染めた。

 と、そのとき。

 ひときわ乾いた拍手が聞こえた。

 顔をよこに倒す。ビルの非常階段がある。剥きだしの錆びついた階段だ。その踊り場にある落下防止の柵に腰掛ける人物が目に留まった。

 女だ。

 ドレスにも似たポンチョを羽織り、楽しげに手を打っている。

「さすがだよ、よかった。とてもよかった。ぶらぼー」

 上半身を起こす。目を凝らし、疑いようもなく記憶にある例のあのひとだと認める。髪型から体型、砕けた口調まで何から何まで変わらない。

 おいしょ。

 非常階段から飛び降り、彼女は着地する。濡れたアスファルトが王冠を描く。

 何かを言おうとしたが、言葉にならない。じぶんの胸に湧いた感情はいくつも重複しており、ひとくくりに名前を付けるのは至難だった。

「ちょっと待ってね」

 女はこちらではなく、倒れている大柄の人物のそばに寄った。うえから覗きこむ。ポケットに手を突っこんだままの姿勢でおもむろに足の裏を男の首筋に置き、そしてひねった。

 雨音に紛れ、これといった音は聞こえなかったが明らかに大柄の人物の首はあらぬ折れ方をした。彼女はそこで止まらなかった。ぐねぐねの首のしたに足先を差し入れ、サッカーボールを宙に浮かすかのごとく軽く頭部を持ちあげる。矢継ぎ早に表面をかするように蹴とばした。

 大柄の人物の首は生ハムの原木じみた厚さがあったが、宙で何回転もした。女はそれを幾度か繰りかえした。

 男の首は明確に鈍い音を残してやがて千切れた。

 アスファルトのうえを、頭部が転がる。雨音が辺りを満たした。

「きょうはやめとこっか。ちゃんと休んでからまた会おう」

 彼女は手をあげ、背を向ける。千切れた頭部をそのままに、去っていく。

 サイバは声をかけた。こんどは声にだせた。

「あなたの名前を訊いてもいいですか」

 彼女は首だけで振りかえり、これみよがしに溜息を吐いた。

 つまらないことを訊くなよ。

 そう詰られた気がした。

 追いかけることもできたが、それは懸命ではないと直感がささやいていた。身体が動かなかった。疲れは関係ない。

 いまではない。

 予感ができた。追えばじぶんもああなっていた。地面に横たわる首なき遺体を目にする。

 挑めば、ああなっていた。

 グンジャ。

 舌のうえで転がすと、飴玉のように甘美な味が口のなかいっぱいに広がった。身体の内側をなぞるようにそれはよく馴染み、とろける。

 いまではない。

 だが、遠くないうちに、いずれ、また。

 再会の予感は、確信めいている。 




【飢えた獣にゃ詩をやれ】


 生き物を「拾う」と形容するのは好きではない。それが人間だったらなおさらだ。しかし、拾うとしか言いようがない出来事もないわけではないもので、ゆえに致し方なくそう形容するが、ミサダを拾った当時、彼女は飢えていた。なんでも通常の人間とは違って、食料では腹が膨れないのだそうだ。

「表現をくれって言われてもな」

「なんでもいいからくれればいいよ、歌でも、ラクガキでも、なんでも」

 小学生みたいなナリで道路に倒れていたミサダを拾ったのは、ほんの出来心だった。善意で関わってもいまのご時世面倒なだけだ。警察を呼んだからあとはここでじっとしていろ、と言い添えてその場を去るつもりだったのだが、ミサダはこちらに縋りつき、というよりもほとんど靴に噛みついて、かってなことをするな、なんてことすんだ、わたしを匿え、と吠えたてた。

 親から虐待されて逃げてきたのかもしれない。同情したわけではないが、まずは話を聞いてからでも遅くはないと思い、歩いて数分の距離にあるアパートの自室に連れていった。

 ミサダは飢えていた。かといって饅頭やインスタントラーメンを食わせようとしても頑として口にしない。そんなものでは腹は膨れん、と突っぱねるばかりだ。

 表現を食わせろ、さもなくば叫ぶぞ、変態扱いするぞ、と彼女は衣服をまくしあげる。衣服はぶかぶかだ。ちいさな身体にあっていない。あばら骨の浮きあがった白く、陶磁器のような肌があらわとなる。

「脅す気か」

「脅しとるんよ、もっと焦れ、本気だぞ」

 理解の範疇を超えている。よしんば彼女の要求通りに、なにかしらの表現物を用意できたとしても、はいよと渡せるほどオレは腕に覚えがあるわけではない。表現なんて学生のころに描かされた美術の絵や読書感想文くらいなもので、あとの人生は日記とすら縁遠い。

 メディア端末を操作し、無料の音楽共有サイトを開く。

「これでいいか」

「絵に描いた餅が食えるかバカモノ」

 善意で助けてやっているのにクソ生意気なガキだった。「じゃあどうすりゃいいってんだ。どんな表現ならいい、もっと具体的に言え」

「ふつうに考えりゃ解るだろうに、お兄さんあなた、画面に映った肉まん食べれるん?」

 おっさんと言わなかった点は褒めてやる、と揶揄するもミサダは、ムリっしょ、ムリムリ、と煽り立てる。

「だからってオレにどうしろってんだ」

「絵でも描いてくれ。歌でもいいぞ。あ、詩、ポエムでも許可する」

「ポエムだぁ」

「新鮮なやつならまあ、いける」

「文字でいいってことか」真に受けたわけではないが、真っ向から否定しても水掛け論だ。矛盾を突いたほうが効果的に思え、話を合わせた。

「小説でもいいんじゃが、あれはちと食うほうにも工夫がいるしな、詩くらいでよい。ほれ、寄こせ」

「ダジャレじゃダメなのか」

「さあ、わからん。いけるかもしれんが、食べたくはないな。うん食べたくはない」

 我がままだな、とぼやきつつも、紙とペンを手に取る。食えると言うなら食ってみろ。いじわるな気持ちになっていた。

 さて何を書いてやろうか。

 何気なく床に目がいった。汚れに目が留まる。床に染みついている。以前ここで指を切って血を流したことがあった。それから、そういえば、と思いだす。むかし住んでいた家の庭に頻繁にやってきていた野良猫が一匹いた。その姿がなぜか脳裡に蘇えり、なんとなくだが、その姿と床の汚れが似ているように思った。

 他人からしたら単なる汚れだ。過去の異物でしかない。洗剤できれいさっぱり失くしてしまったほうが好ましいものかもしれないそれを、いまさらのように懐かしく思った。それを、愛おしく、と言い換えてもいい。

 会いたいな、と思った。あの猫に。あの、野良猫に。

 本当は飼いたかったのだ。だが飼えなかった。

 いま出会えていたら愛猫としてこの部屋で飼えたのかもしれないし、こうしていま飢えたガキを見捨てずにいられなかった甘さもまた、そこからきているのかもしれなかった。

 詩を書いたことはなかった。ポエムと口にするだけでサムイボが立つ。愛はすばらしいと正論しか言わない感動もののドラマを観た気分になる。縁のない文化だった。

 だがいざ、言葉をペンに載せて紙にしたためると、なかなかどうして止まらない。十二行ほどの文章ではあったが、ひと息に書きあがった。ほとんどがひらがななのは漢字を書けなかったからだ。ふだんから文字を書く習慣はなかった。じぶんの名前と住所以外で文字を書いたのは本当に久しぶりな気がした。

「どれどれ」覗きこんだミサダの頭を押しのけ、かってに見るなと叱りつける。なんでよ、と怒鳴る彼女に、恥ずかしいだろ、と口走って顔が熱くなる。ミサダは口に手のひらをマスクのように添え、声なく笑った。

 癪だったので、食うんだろ、と紙を押しつける。食ったらでてけよ、と言い添えたのは、パトカーの音が近づいてきてすぐそこで止まったからだ。先刻通報したためだろう。百メートルも離れていない。

 ミサダは――このときはまだ彼女の名前さえ聞いていなかったのだが、こちらの投げかけには応じずに、紙面に手をかざした。焚火にでも温まるかのような格好だ。

 表現を喰らうなどと世迷言を真に受けたわけではなかった。半信半疑ですらない。にも拘わらず固唾を飲んで彼女の行いを見守ったのは、あまりに彼女の所作が堂に入っていたからだ。見たことはないが、歌舞伎や能といった特殊な鍛練をこなした者が器をすする動きをすれば似た動作になったのではないか。湧水の流れのようだ。研ぎ澄まされた一連の流れに神聖さを感じた。仮に彼女の言動が嘘であっても、それを邪魔するのは野暮に思えた。

 紙面の文字を掬うようにして、彼女は両の手のひらを口元に運んだ。手のなかには何もなかったはずだ。紙面には文字がそのままになっているし、何かが膨れてでてきたわけでもない。

 窓から差しこむ夕日の影響かもしれない。きっとそうだ。思いながら、目のまえの少女の口元を眺めた。淡い光を放っている。しゃぼんだまの膜のような紋様だ。木星や土星の表面のようでもある。

 彼女はそれをすする。喉を鳴らす。それからまるでラーメンのツユでも呑み干した具合に、ぷはぁ、と息を吐いた。

「美味い!」

 唸った彼女はすでにこちらの知る子どもの姿ではなく、四肢のすらりと伸びた、一回りは大きな少女の姿へと変貌していた。思春期まっさかりといった塩梅だ。ぶかぶかだった衣服は彼女の身体にぴっちり張りつき、各部のオウトツを強調している。咄嗟に手元の毛布を投げつけている。

「なにさコレ、いらないんだけど」

「いいから羽織っとけ」

「んー、臭そう」

 もっともだ。

 思いながらも傷ついた。ショックを受けているじぶんにショックだった。こんなにヤワな人間になったつもりはない。だからというわけでもないのだが、動揺するよりさきに、で、どうすんだ、と水を向けた。

「できたらしばらく住まわせてほしい」彼女は自身の手足をいじりまわす。「こんなに一気に元に近づけたのは初めてでさ、なんかお兄さん物分りよさそうだし、ね、いいっしょ」

「何が、ね、だ」いいわけがない。

「お礼はするからさ」彼女はまえのめりになる。

「金以外は受け取らねえぞ」こんどはバスタオルを投げつける。

「えー」

「えーじゃない」

「ちぇ。めんどっち」

 ミサダとの生活は野良猫を拾ったらこんな具合だろうなといった想像とぴったり一致したような騒々しく、手に負えない、散々な日々だった。排泄物の処理をせずに済むだけ野良猫よりかはいくぶんマシというだけであり、うるさく喚き散らす分を考慮すれば、むしろ野良猫を飼うほうが楽かもしれない。

 食費こそかからないからよいものを、ミサダの体型はころころと変わるため、服飾にかかる雑費が嵩んだ。ほかにもミサダはこちらの表現の質をあげるべく、あれやこれやと芸術に関する書籍をかってに注文し、暇さえあればこちらの腕を引っ張って美術館や映画館をはしごした。

 最初こそ断った。迷惑だからだ。

 生活の面倒まで看て、休暇の時間まで奪われてはたまったものではない。

 しかしミサダはそこで引き下がったりはせずに、その後一週間ほどかけて、断食を決行した。こちらがせっかく見繕ってやった詩には見向きもせずに、日に日にその背丈を縮ませる。

 出会ったころよりさらにちいさく萎まれたのでは、こちらもいよいよ折れるよりない。

「わるかったよ、頼むから食ってくれ」

「そこまで言うならしょうがない。あ、そうそう、美術館には?」

「行くよ、行かせてもらいます」

「よしよし、いい子だ」

 猫は気ままがゆえに、飼うと主従が逆転する、とはしばしば耳にする文言だが、よもやじぶんがかような体験を身を以って知るとは夢にも思わない。いっそ警察にでも突きだせればよかったが、ここまで関わってしまったのだ、通報ありがとうではさようなら、とはいかぬだろう。ミサダの関係者として何らかの拘束をされるに違いない。

 いつからどうしてそんな体質なのだ、と訊ねてみせても、ミサダはよくは知らん、と突っぱねるばかりで、ろくに事情を話そうとはしなかった。

 じっさいのところ彼女の実年齢は判然としない。

 いちどだけ日記をしたため彼女に食わせたのだが、その際には彼女の顔にはほうれい線が浮かんだ。異性の年齢を外見から推定するのが苦手だから具体的にそのときの彼女が何歳くらいだったかは分からないが、こちらよりも一回りは上になったかもしれない。姉と言って紹介すれば、十人ちゅう八人くらいは騙されてくれそうな貫禄があった。

 そう、ミサダは高齢のその姿にすら慣れている素振りがある。ふだんの言動はむしろ歳を重ねた姿にこそ似合うくらいで、彼女に逆らえないのはなにも彼女の特異な体質のせいだけではないのだ、と考えを改めたほどだ。

 幼い子どもだと思ったからこそ匿ったのだ。中身がおとなならばかってにしろ、と突き放したくもなる。

「じぶんの表現は食えないのか」

「それができたら苦労ないわ」

「いつまで居座る気だよ、かれこれ半年は経つぞ。礼をするとか言ってけっきょくこっちばかりが損をしている」

「損だぁ? 家賃を払ってるくらいで偉そうにするない」

「家賃を払ってから言え」

 ついつい売り言葉に買い言葉が口を衝くが、やはり彼女がいっさいの表現を拒むようになるので、意地の張り合いではいつも負けた。

「そんなに美味いのか」美術館に行ったついでに、カフェに寄った。ホットドックにかぶりつきながら、たったいま書いたばかりのポエムを彼女に渡す。彼女はそこから養分を吸いあげる。「美味いし、美味くなってきてるのがなかなかどうして病みつきになる」

 味についてのみ、彼女はこちらをべた褒めした。しょうじき、それほどわるい気はしなかった。

 芸術や美術の素養がなかっただけに、一流の作品群を目の当たりにして目が飛躍的に肥えた影響は無視できない。ひょっとしたら元々芸術の才能がじぶんにはあったのかもしれないと思いもする。

 自惚れたわけではないが、ポエム以外にも絵や粘土、ときに口笛を録音して音楽をつくったりもした。

「すごいな、すごいな、こんなに美味なのは滅多にないぞ、否否、初めてかもしれぬ」

 浮かれるミサダを眺めていると、やはりどこかじぶんを誇らしく感じた。

 彼女は表現を貪れば貪るほど、歳をとるようだった。それでも表現以外の食べ物も口にでき、ときおり手料理を振る舞うと、それにも手を伸ばした。

「料理も広義の表現なんじゃないのか」思ったので言った。

「かもしれん。が、ちと不服だ。ダイエットにはもってこいゆえ、食べてやるが、すぐにちんまりに戻ってしまって、行き倒れてしまう」

「太るのも早いが、縮まるのも早いよな」

「太るとか言うな。傷つく」

「傷つくほうがわるい。太ることがわるいみたいだ」

「でぶ」

「あん?」

「でぶでぶでぶでぶでぶでぶでぶでぶ、でーぶ」

 腹が立ったのでしばらくポエムに誤字を混ぜてやった。誤字や脱字の交じったポエムは苦いらしく、ミサダはよく苦言を呈した。手を抜いたときもすぐに見抜かれ、ためしに文豪の詩を模写したときには、食べることすらせずに、こんなん食えるか、とくしゃくしゃに丸めた紙を投げつけられた。

 ミサダが食べた詩であっても紙面から文字が消えるわけではない。半年が経過するころにはずいぶん溜まった。毎日一作、多いときには三作をつくるのだ、継続していれば半年で百作は優に超える。

「お代わりできないってのは不便だよな」

「そう、ほんに。新鮮でなければダメってのがめんどい」

「縛りがなけりゃ書店にいけば食い放題なのにな」

「ホントそう。でも案外あそこにある表現も玉石混淆でなぁ。美味そうなのもあればそうでもないのもあって」

「おまえの好みってだけだろ。じぶんの好き嫌いを普遍化すんな」

 そもそもそれを言いだしたらこちらの表現が文豪やプロの作家よりも秀でていることになる。ミサダの舌のお眼鏡に叶ったからといって表現の巧拙とはまた別なはずだ。

「そうでもない。だっていま残ってる文豪って、だいたい食糧として重宝してやった人らだし」

 玉ねぎを切る手を止める。しばし考え、たとえば誰がいるんだ、と繋ぎ穂を添える。

「猫目壮絶とか、複雑雪見とか、そこらへん」

「夏目漱石と福沢諭吉のことか? 名前すら言えんのに信じろとか、おまえ詐欺師の才能ゼロだな」

「お札になってるんじゃろ、知っとるわ」

「すでにそれすら曖昧じゃねぇか」

「なんにせよ、審美眼はある。おぬしのポエムもなかなかだ。絵にしろ、歌にしろ、わるくない」

「おだてるなよ」

「料理の腕はイマイチな。もっとがんばれ」

 気づけば、いつの間にかミサダの世話を率先して焼いている。へそを曲げる機会も減ったようで、ミサダの見た目はおおむね成人女性と大差ない。これならいつ追いだしても困ることはないだろうが、その後に目ぼしい表現に巡り会えなければまたぞろ子どもの姿にまで縮んで行き倒れるのがオチだ。

「前にも訊いたかもしれないが」

「じゃあ訊かないでたも」

「表現を食わなかった場合、どこまで身体は縮むんだ」

「どこまでもじゃな」

「それはつまり、赤ちゃんまで?」

「もっとじゃ」

「あー、それはつまり」

「消えるってこと。食わねば死ぬ。当たり前の話だ」

 ミサダに死を恐れている素振りはなかった。ただ、それを好んで迎えようという気がないことだけはよく知れた。彼女はことさらこちらの表現を食いたがった。

 その日は部屋の掃除をしていた。模様替えと言い換えてもよい。部屋を半分に分けて、彼女の生活スペースをつくることにした。とっくに半分はミサダの生活空間になっていたが、区分けを明確にして、互いに不可侵の領域をつくろうということになった。提案した理由は、彼女がかってにこちらの生活域を荒らすからだ。

 テーブルのうえにこれまでしたためてきた詩を載せておいた。それらはのきなみ請求書や振り込み通知書の余白に書いたものだったが、あとでノートにまとめようと思ってとっておいていた。

「これ、捨てるのか」

「いいや。あとで一冊にまとめようかと思ってな」

「わたしがやってやろうか」

 しばしその言葉の真意を考える。ミサダがこちらのために何かをしようと動いたことはかつてなかった。何かしら彼女にとっての利がその提案にはあるはずだが、狙いがよく解からない。

「構わんが、食えないんだろ。残飯漁ってもおもしろくないんじゃないか」

「む。何か勘違いしてないか。わたしは表現を食べるけど、表現の素晴らしが解らないわけじゃあない。小説だって読むし、映画だって楽しむ」

 予想外に食ってかかられ、たじたじになる。

「何度も言うけど、あんたの表現は美味い。美味なんだ。そんじょそこらの表現じゃない。いんや、そんじょそこらに出して回ってもいいくらいの表現だ」

「どっちだよ」

「自覚がないっておそろしい。たまにいるんだよな、こういうやつ。たしかアイツもそうだった」

「文豪の名前とかだすなよ」

「雨にも負けず、は美味かった」

「またとんでもないのがでてきたな」噴きだしたらヨダレが垂れた。口元を拭う。「ミサダ、おまえの話はおもしろいが信憑性が薄すぎる。その体質は信じるよりないが、百年以上も生きているとはさすがに信じられない」

「む」

「いいだろ別に。いまさら信用なんかされてもうれしかないだろ」

 コーヒーでも飲もう、と言ってキッチンのまえに立つ。狭い部屋だが、居間と廊下は分かれている。キッチンは廊下にあった。

 そんなことないわい。

 ミサダのぼやき声がちいさく聞こえた気がしたが、扉の閉まる音にまぎれて、よくは聞こえなかった。

 狭い居間が二分された。あいだにカーテンを引いた。プライベート空間ができあがる。さっさとこうしていればよかったのだ。一つ屋根の下で他人と過ごしていると、さすがにミサダ相手にも、ときおり動物の本能が騒ぐことがある。そうでなくとも溜まるものは溜まる。部屋をはっきりと区切ったおかげで、これですくなくともミサダが留守にしているあいだに、玄関口がいつ開くのかとびくびくしながら切実なもろもろを処理せずに済む。

 互いに接触が薄くなったせいだろうか、以前にも増してミサダの側面像、それこそこれまでの足跡が気になった。

 身の上話をそれとなく訊きだそうとするのだが、ミサダはのらりくらりと言及を避ける。お茶を濁しているのかと勘繰ったのは初めばかりで、彼女のずぼらな性格からすると本当に真実、じぶんの身の上が覚束ないだけかもしれなかった。

 このころにはもう、彼女が見掛けよりも長く生きてきた人物だと見做すようになっていた。こちらよりもずっとさまざまな時代を渡り歩いてきた旅人なのだ。理屈は解らないが、彼女には常識では測れない何かしらが起きている。現にこうして生活を共にすれば否応なく身に染みてそれを実感する。否定する理屈を見繕うほうが苦労するくらいだ、彼女はそういう存在なのだと鵜呑みにしたほうが眉間にしわを刻まずに済む。

 ある日、ポストを開けると支払い請求書のほかに真っ白い便箋が入っていた。ひと目で上等な紙が使われていると判り、ひと際浮いて見えた。しぜんと刀と竹を連想する。

 差出人は、ナントカ芸術協会からだ。宛名にはこちらの名前が書かれている。配達違いではなさそうだ。

 ミサダが関係しているのだろう、と察する。追手に見つかったのかもしれない。彼女にはこれといって誰かに追われている素振りはなかったが、警察の介入を拒んでいたからには、何かしら面倒の一つでも背負っていておかしくはない。それはそうだろう、何事もなく生きてはいけまい、とたびたび想像を逞しくしていた。

 穏便に引き渡すようにとの催促だろうか。

 久しく抱かなかった恐怖のようなものが胸のうちに渦巻く。見て見ぬふりをして、封を開ける。

 ひと通り読んで、頭が混乱する。もういちど読み、思っていた内容でないことにまた当惑した。

 要約すれば、あなたの作品はすばらしいのでぜひいちどお会いしたい、連絡先が書かれていなかったので手紙で失礼致します、返信をぜひ、との旨が一枚の紙に記されている。簡素でありながら読み手への尊敬の念と恐縮さを滲ませる手法に、こういう書き方もあるのか、と感心したほどで、生きてきたなかでお目にかかったことのないタイプの文面だった。

 ミサダは留守にしている。二日にいっぺんはこうしてどこかしらへと出かけ、ふらっと帰ってくる。いつか、そのまま行方を晦ますのではないか、と予想しているが、いまのところは軒下に居ついた野良猫のようで、気づくと戻ってきている。

 小遣いを与えているからか、帰りにお菓子やらつまみやらを買ってくることもある。マンガ本や映画といった娯楽は別途にこちらが購入したものを共有しているので、食費もかからないとくれば自由にできる金はけっこうあるはずだ。衣服に頓着がない性分らしく、黙っているとずっと着た切り雀でいつづける。虐待の疑いをかけられ通報されても面倒だ。致し方なく着る物もネットで注文し、与えている。やはり野良猫でも飼っている気分だ。

 帰ったぞ、と床に尻をつけて靴を脱いでいるミサダへ向け、

「なあこれ、おまえだろ」手紙を掲げる。

「なー?」首だけをひねってこちらを見る。買ってやったばかりの靴だからか、紐を固く結びすぎたのだろう、ほどくのに手こずっている。「おう、返事がきよったか。やっぱりな。わたしの見る目は時代に関係ない、どこでも通用するってこった」

 しかめ面を維持していると、

「なんだ、色よい返事ではなかったか」

 しょんぼりされてしまったので、こめかみを掻く。「いや、絶賛だった。ないとは思うがおまえ、オレの詩をかってに送ったりしてないよな」

「したに決まってる。なんだ、怒っとるのか。そんな怖い顔をするでない」

 すたすたと脇を通るとミサダは、手紙をぶんどり、自身の空間へと滑りこむ。

「おい」

「こっちはわたしの部屋だ。覗くなスケベ」

 どうやら臍を曲げてしまったようだ。

「怒ってない。ただ、それはオレがおまえに与えるためにつくった詩だ。かってに他人に読まれたくはなかった。こっちの気持ちを無下にしたってことは知っといてくれ」

「わかったってば、わるかった、ごめんなさい」

 怒鳴ってからしばらくしてミサダは、「喜んでもらえると思ったの」と独り言ちた。

 部屋が薄暗く、明かりを点ける。紅茶を淹れてからカーテンのまえに立つ。奥からは、ばりぼり、と何かを貪っている音が響いている。スナック菓子をやけ食いしているようだ。さぞかし喉が渇くことだろう。

「飲むか」

「なに」

「紅茶」

「飲む」

 カーテンの隙間から手が伸びてくる。高校生くらいの腕だ。気づかなかったが、またすこし縮んでいる。

「ちゃんと食べてんだろうな」

「食べてるよ」

 カップを手渡しがてら、ありがとな、と言い添える。「気持ちがうれしい。ただ、やっぱり黙って何かをされるのはあんまり気持ちがいいもんじゃないってことは知っといてくれ。サプライズはなしだ」

「わかった」ぼそっとつぶやき、カップごと手が引っ込む。

「返事、代わりに出しといてくれ。会うなら会うで、まあ代理として会うのも好きにしてくれ。ただべつにオレはおまえが食いたいって言うからつくってやってるだけだ。そのほかのためにつくる気はない」

 いまんところはな、と話を結ぶと、わかった、とまたちいさく声が聞こえた。

 それからミサダとの生活は単なる日常として流れていった。もはや同じ空間に彼女がいることが不満ではなく、異常でもない。いて当然で、いなければすこし部屋が広く感じる。ただ、シャワーは毎日浴びてほしい。赤ちゃんみたいに酸っぱい匂いを漂わせないでほしい。

 ある日、仕事から帰宅するとミサダが珍しく、おかえり、と出迎えた。

「おいおいなんだ、気味がわるいな。わるい話ならよしてくれよ」

「ん」

 腕を突きだされ、ぎょっとしたが、彼女は一冊の本を手にしていた。

「んだこれ」

「本」

 見りゃ判る、と受け取り、居間に入る。彼女はじぶんの空間へと引っこまずに、腕を背に回して、そわそわしている。

 部屋着に着替えてから、コーヒーを淹れがてら、本をめくる。予想はしていた。案の定だ。詩が載っていた。ミサダへ書いてやったものだ。

「へえ。出版されたんだな」

「そう」

「名義は、ああ。ペンネイムか」

 品色(ひんしょく)涼(りょう)とある。中性的で、名義から性別は判らないのが好ましく思った。それからしばし考え、おいこら、とミサダを叱る。

「食料品のアナグラムじゃねぇか」

「へっへっへ」そこに至ってようやくミサダは姿勢を崩した。ほっとしたようでも、得意げでもあるようだ。

「印税とか、契約とかどうすんだ」

「出版されてからだからこれからだって。でも現金でもだいじょうぶって言ってもらった」

「ふうん」

「半々ね」

「おい」

「ウソウソ」

「そうじゃなく、元はミサダ、おまえにやった表現だ。それを本にしたのはおまえだろ、好きに使えばいい」

 うまく伝わらなかったのか、ミサダがぽかんとした。

「印税は全部おまえのもんだ。だいじに使え」

「いやいや、ダメでしょ」

「ダメじゃない。というか、そうだな。そろそろ話をしようと思ってたころだ」身体ごと彼女に向き直る。「おまえとオレの話だ」

 つまり、これからのことについてだ。

 ミサダは唾を呑み込むと、その場にちょこんと腰を下ろした。

「居たければずっといればいい。オレはいまんとこ誰と結婚する気もないし、おまえがいてもいなくとも、負担はそれほど変わらない」

 ミサダはすこし寂し気な顔をしたが、気のせいかもしれない。

「ただ、しょうじき、このさきもおまえの味覚に叶う表現をつくりつづけていける自信がない。ずっと考えてたんだ。ミサダ、おまえの辿ってきた日々についてだ。いろんな出会いがあっただろ。短くない人生だったはずだ。そのなかでいったいどれほどの人間と、長く一緒にいられた? オレたちのような大多数の人間は食べていくために仕事をするし、分業する。それで独りでも生きていける。だがミサダ、おまえは違う。自給自足はできないんだろ」彼女はじぶんで生みだした表現を食べられない。「だから生きていくには、おまえの舌に、胃に、見合った表現をつくりつづけていける相手がそばにいないといけない。そしてそれは、一人見つければ安泰だって話ではないはずだ。違うか」

 彼女は俯いたまま、口を開かない。

 彼女を傷つけている。分かっているが、これはなあなあにしておいてよい話題ではなかった。

「ミサダ、仮におまえに上質な表現の見極めができたとしよう。そしてオレにおまえを満足させるだけの表現力があったとする。だがそれはいつまでも同じように出力できるような類の魔法ではないはずだ。オレだってそれなりにおまえに連れ回されて、目が肥えた。というよりも、どちらかと言えば、じぶんのつむぐ言葉の善し悪しがなんとなくだが判るようになってきてる、そんな感じがする」

 このさきはじぶんでも口にしたくない類の話だった。

 いま告げておかねばならないと腹をくくり、ゆっくりとじぶんへも言い聞かせるように言った。

「もうだいぶ、美味くはないんだろ。前みたいに美味い、美味いと食えるような表現じゃなくなってきてる。解ってる。誰がわるいじゃない。表現の持つ宿命みたいなもんなんだろ。おまえ、もう以前の半分もオレの表現食ってないだろ。食えなくなってんだ。だからそうして、菓子やらなんやらで腹を膨らまして、飢餓感を誤魔化してる。わるいがバレバレだ」

 部屋は明るいが、重々しい。上空は風がつよいらしく、巨人の呻り声にも似た音がどこからともなく途切れぬ絹糸のように届いている。

「さっきも言ったが、いたければずっといればいい。ただ、さきのことは考えておいてくれ。協力できることがあるなら、する。させてくれ。その一つがだから、印税だ。ミサダに使ってほしい。恩を返すと思って。頼むよ」

 うつむいたきり、ミサダは顔をあげなかった。いじけているようでもあり、ふて腐れているようでもある。或いは単純に怒っているのかもしれない。

「ま、いますぐ決めることではないわな」

 話を切りあげ、この日はインスタントラーメンを食べて、そのまま寝た。ミサダに新しい詩をこしらえてやれなかったが、彼女のほうで催促してこなければ、ことさらこちらから押しつけるのも野暮だろう。

 ひょっとしたら、と枕に後頭部を埋めながら考える。いじけているのはじぶんのほうかもしれない。とっくに彼女を満足させるだけの表現をつむげなくなっていると判って、おもしろくない感情に苛まれている。

 見たくなく、知りたくない。

 だからミサダが嫌々食事をとる姿を目にせずに済むようにと、彼女の体調をおもんぱかるよりさきに、善意の押しつけはよくない、と言い訳を並べて、彼女の食事を用意しない。

 詩を、つくらない。

 ミサダだけの問題ではなかった。彼女がこちらの詩をどのように評価するか以前に、そもそも詩ひとつひねくりだすのですら苦痛になってきた。そう、苦痛だ。

 初期のころにはあった快感がない。すくなくともあのころのじぶんは、詩を、言葉を並べることに、上向きの感情を抱いていた。

 いまなら判る。楽しかったのだ。

 もちろん、ミサダの口車にいいように乗せられていた側面は否定しない。彼女の称揚がなければつづけようとすら思わなかっただろう。そもそもつくることすらなかったはずだ。

 機会を与えられ、養分をそそがれ、枝葉を育んでもらった。

 だからこそというべきか、生半可な表現をだせなくなった。

 抵抗がある。

 そしておそらく、それが表現の質を下げる楔となっている。

 ミサダに褒めてもらいたい。美味いと言わせたい。そうした欲目が、表現にカビを生やし、味を落としている。

 ミサダから渡された本を眺めて、ぼんやりとしか浮かんでいなかったそれらの懸念が確信を帯びた。

 初期のころの詩と、いまの詩を読み比べて、その差をまざまざと自覚した。

 上達はしている。その分だけ、面白味が失せた。新鮮さ、斬新さ、この書き手ならではの世界の見方とも言うべき、味が感じられない。

 そう、味がない。

 表現を食べたらどんな味がするのだろう、とミサダを見ていてしばしば思った。想像の域をでない風味だが、それでもお代わりをしたくなるかどうかの差くらいならば、食べてみずとも自ずと判る。

 単純に、詩として、表現として、つまらないものになっている。

 物足りないでは済まない。

 味気なく、ゆえに不味いのだ。

 闇の向こうに霞むカーテンのシワを見る。このままではいずれミサダの身体がもたない。彼女のほうでここを出ていく素振りがいまのところない。まったく食べられないわけではないのだろう。代わりを探すにしても、表現を食べるなんて突飛な話を受け入れてくれる相手がそうそう見つかるとも思えない。ましてや彼女の舌をうならせる表現者ともなればなおさらだ。

 それとなくインターネット上の投稿サイトを見せてみたことがある。目当ての表現が見つかれば、そこから糧を得られるのではないか、と思ったのだ。

 だがやはりインターネット越しでは養分を摂取できず、さらに言うと彼女の気に入る表現は見つからなかった。

「ホントはあるのにないとか言ってないだろうな」

「懐疑主義もほどほどにしろ」

「面倒なんだろ。表現者にアポをとって、会って、説明をして、定期的に表現をくれなんてそんな交渉は、オレだってできれば避けたいからな」

 表現を提供したところで得られる利はほとんどない。彼女がおまけでくっついてくるくらいがせいぜいだ。負担にしかならない。そのようなことをぼやくと、

「利を拒んでるのはおまえだろ」

 ミサダは目を吊りあげたが、聞こえなかったフリをした。 

 彼女がうちにいるあいだ、それから三冊の本がでた。うち一冊は小説だったが、どれも新人作家の本としては珍しいくらいに売れたらしく、書店に行けば平積みされ、しばらくはインターネット内に記事が増えつづけた。印税はミサダに入るし、筆名も偽名みたいなものだ、なんだか本当にミサダの本がでて、売れたみたいに思える。

 ある朝、彼女はいつものようにふらりと部屋をでていき、それっきり、戻ってはこなかった。

 礼の一つも残さず、手紙もない。

 予感していたとおりで、なんだか拍子抜けした。

 しばらく彼女の生活空間はそのままにしておいたが、ひと月後にはまた広々とした部屋を独り占めした。

 長く短い夢を見ていた気分だ。

 四冊の本と、がらんとした静けさが部屋に残った。いまさら四冊の本を読みなおしてみたところで、しょうじきなところ、あまり実感がない。本当にこれをじぶんが書いたのだろうかと、ときおり記憶を疑いたくなることもしばしばだ。それだけ繰りかえし本に目を通していることの裏返しだと言えばそうかもしれない。

 彼女がいなくなってからもときおりは、なかなか抜けない習慣のように、詩やら、文章やらを並べた。

 驚くほどに苦痛だった。

 それはそうだ。元から好きではなかった。以前と何も変わらない。

 いちどだけ家に、例の出版社から便箋が届いた。新作を書いてみないか、との催促状だったが、書き散らしてそのままにしてあった文章を送りつけて、矢継ぎ早にその部屋を引き払った。

 引っ越したあと、世のなかの仕組みがすこし変わり、家でも仕事ができるようになった。

 出版社に送りつけた雑文がその後どうなったのかは知らない。気になりはするので、例の筆名で検索をかけてみるも目ぼしい記事は見当たらない。おそらく出版はされなかったのだろう。契約を結ぼうにも作者と連絡がつかないのだから当然だ。或いはそれ以前の問題かもしれない。

 意味もなく、猫か何かを飼ってみようかと考える日が増えた。却下の数が増えれば増えるほどに、そうした考えが浮き沈みを繰りかえす。その間隔まで徐々に短くなっていく。

 ときおりふと気づくと、じぶんの考えや気持ちを日記のようにしたためていることがある。苦痛は苦痛だ。表現なんてするものではないな、と、それが苦手であったことを確認するかのように、それは定期的に行なわれ、いまでもこうしてつづいている。

 布団に潜りこみ、暗がりの向こうの天井を眺める。

 またふらっと、何らかの匂いに釣られて、野良猫の一匹でも迷いこんではこまいか。表現を嫌いになればなるほど、不得手であったことを思いだせばだすほどに、そうした偶然に巡り遭う確率がすこしでもあがる気がしてならない。

 さいきんになってはっきりとした輪郭を浮き彫りにしつつあるそうした妄想を、目を固くつむって拭い去りながら、こんな我執に囚われているかぎりは、そんな偶然が舞いこんでくることはないのだろうとの予感をつよく抱く。

 断ち切ることもできずに、脳裡の表層、それとも奥底のほうで、まどろみのように妄念は、浮き沈みで律動を、それとも波を、或いは詩を、刻んでいる。




【秘薬の炎を消すシズク】


 その秘薬の噂は知っていた。ひと口飲めばたちどころにどんな難病も怪我も治るという話だ。じっさいに目にした者は身近にはいない。だがみなそれの実存を信じているようだ。否、信じたいだけなのだろう。

 病でたいせつなひとを亡くすのが珍しくない時代だ。みな誰かを看病し、いずれ看病される未来を受け入れている。

 あればいいなぁ、との願望が、みなに幻の秘薬を夢見させるのだ。

「秘薬はある。ただ、お勧めはしない」

 村を訪れた薬屋が言った。旅をつづけてきた彼なら知っているかもしれないと思い、雑談のつもりで投げかけたのだ。どんな病も怪我も治してしまう秘薬はあるのか、と。

 妹の薬の支払いが足りず、食事と宿の世話をしているうちに、そうした会話をちらほらするようになった。

「秘薬はある。噂は本当だ。ただ、手元にはない。これからも扱う予定はない」

「どうしてですか。そんな薬があるのならみな助かるじゃないですか」

「そうだ。そんな秘薬があるならみんなこんなに苦しんではいない。どうしてだかを考えてみるといい」

「やっぱり存在しないとしか」

「あるにはある」

「誰かが独占しているとか」

「だとしたら略奪されておしまいだろう。お主だって、そんな秘薬を独り占めしているやつがいると知れば、みなを焚きつけて、奪いにいくだろう」

「そんな強引なことはしませんけど」

「もちろん我々薬売りを生業にしている者たちが隠しているわけでもない」

 内心の邪推を見抜かれたようで居心地がわるくなる。現にこうして隠しているじゃないか、教えてくれないじゃないか、とヤキモキする。

 古傷だらけの顔を隠すように彼はいつも頭から布を被っている。屈強な身体つきだが、足取りは重い。身体のどこかが不自由なのではないか、と彼を見た者はみな思うようだ。

「我々としても仕事はないほうがいい。できれば同じ土地に居つき、野や畑を耕して暮らしたい。だが、そうもいかぬだろう。誰かが薬を届けなければ、苦しむ者は増えるばかりだ」

「どうしてその秘薬を配らないのですか。値段が高くとも、一生をかけて払う者はいくらでもいるはずです」

「いるだろうな。だが、お勧めはしない。あれは、みなが思うような万能薬ではない」

「副作用があるのですか」

「そういう問題ではない。あれは、ひとに扱える代物ではない。ただそれだけのことだ」

 お茶を濁すような物言いに、不満ばかりが募る。何を訊いても薬屋は、秘薬への仔細な言及を避ける。存在しないならないでそう言ってくれればよいものを、あるにはあるのだ、と無駄に期待を抱かせる。

「せめてどこに行けばそれが手に入るのかだけでも教えてくれませんか」

「教えてどうする」

「じぶんの足で探して、手に入れます」

「それをみなに配るのか」

「まずはじぶんで試します。毒でないと判れば、つぎは妹に。余っていればその分はみなに配ります」

「足りなければ争いになるぞ」

「なら、薬のありかを教えるまでです」

「秘薬が枯渇し、また似たような世界に戻るだけではないのか」

「それでも助かるひとがいるならそうすべきです」

 黙っていたって死んでいく者たちがいる。すこしでも多くのひとが助かるならそれでいいではないか、と涙が滲む。目のまえの薬屋は悪人ではない。しかし、助けられる人間を放置しているという意味では、理解しがたい人物であることは疑いようがなかった。

「あなたには感謝しています。とても。でも、見殺しにしているようにしか思えません」

「そこまで言うならじぶんの目でたしかめてくるといい」

 薬屋は食卓のうえに、ナイフで細かく地図を刻んだ。

「断っておくが、私は止めたぞ。きみはきみの意思で選ぶんだ。それだけは忘れないでくれ」

「解っています。このさきのことはすべてぼくの責任です」

「そのコの意見は聞かなくていいのか」

 薬屋は戸を見た。奥には妹が寝ている。

「聞けば止めるでしょう。旅は危険なことくらいわかっているでしょうから」

「それでもきみは行くというのか」

「どうしても助けてあげたいんです」

「頼まれたのか、きみが、そのコに」

「いえ。でも、元気になりたいに決まっています」

 何を言っているのだろうこのひとは、と思う。頼まれなければひとを助けてはいけないとでもいうのだろうか。妹はずっと寝たきりだ。野原を駆け回ることもできない。川の水の冷たさや、小鳥の群れの巨大な生き物のような迫力、羊の毛が本当は硬いこと、たくさんのいろいろを知らないままなのだ。

「このコはどうする気だ。このコの面倒は誰が看る」

「この村で元気な男子はぼくだけです。婿に欲しいと頼まれています。妹がいるのでずっと断ってきましたが、なにせ病人を家には招き入れたりはしないでしょう、妹を放置してぼくだけよい暮らしはできません。でも、秘薬が手に入り、妹が元気になれば、それも拘る必要がなくなります」

「婿入りする約束と引き換えに、妹の面倒を看てもらう。そういう話か」

「あなたには感謝しています。でも、ここからさきはぼくと妹のことです、あなたには関係ありませんよね」

 きつい言い方になってしまったが、本心だった。感謝はしている。本当だ。このひとがいなければ妹だけでなく、この村そのものがとっくに滅んでいたはずだ。かといって、このひとはただでさえ貧しいひとたちからの財産と引き換えに薬を置いていってくれるだけの商人だ。善人ではあるのだろう。だが、救世主ではたりえない。

 病気の妹を助けたい一心だった。

 妹はもう長くはない。同じ病の女性が先日亡くなったばかりだ。妹よりあとになって発症したにもかかわらず、帰らぬ人となった。

「あすにはでようと思います」

「私の宿はどうする」

「この家を好きに使ってください。妹の世話はほかのひとに頼んでおきますので、お手を煩わせることはないと思います」

「ずいぶん簡単にひとを信用するのだな。私が妹さんに何かイタズラをしないとも限らないだろう」

「するんですか」

「しないが、いやまあ、うん。止めはしないよ」

 長い旅になるぞ、と彼は言った。食卓に刻まれた地図からすれば自明のことだ。目的地周辺に辿り着くまでに一年はかかる。そこからさらに目当ての秘薬を探しだすまでに、さらに倍の時間はかかるだろうと思われた。

「妹の薬、この家を支払いの代わりにすると言ったらもっとよいのにできますか」

「可能か可能じゃないかで言えば、可能だ」

「お願いしてもよろしいですか」

 彼は頷いた。

 このまま何もしなかったら妹は遠からず死ぬ。できることは全部してあげたいと思った。

 夜通し、旅の準備を整える。町のひとたちに事情を伝え、挨拶回りを済ませるころには、翌日の昼を回っていた。

「休んでいったほうがいいんじゃないか。寝てないだろう」

「これくらい妹の苦しみに比べたらなんでもないです」

「比べるようなものだとは思わんがね。なんにせよ、気をつけて。無理はするな。必ず無事に帰ってこい」

 なんのかんの言って、やはりこのひとはいいひとだ。

 寝たままの妹のひたいに手のひらを置く。直接事情を説明できなかった。手紙を残した。体調のよいときに読ませてほしいと、世話役のひとに預けてある。きっと解ってくれるだろう。

 陽の暮れはじめたころに村をでた。見送りの影はない。しずかな門出だった。

 山をくだったところで寝床を確保する。起きたら山を越え、野を越え、また山を越える。水源を見つけるたびに喉を潤し、水筒に蓄え、小魚やキノコ、山菜や小動物、ときに虫を食べて飢えを凌いだ。

 なるべく里には近づかないようにした。寄っても施せる恵みはなく、負担になるだけだ。ときに旅人を襲う村もある。どこも逼迫している。無駄な争いは避けて通るのが利口だ。

 半月もすると海岸沿いに抜けた。あとはずっと南下していくだけだ。崖に阻まれるたびに迂回する。

 野盗や海賊の類を見掛けることもあった。運がよいのか、いつもすでに襲われているひとたちの悲鳴でさきに気づく。集団での旅のほうが危険なのかもしれない。

 一人旅は孤独だが、じぶんさえ守っていればいい。気楽ではあった。

 大きな都市にいくつか行きあたった。迂回しようにも、敷地が広域にわたっており、その近隣の土地にもその都市のチカラが浸透している。誰もがよそ者には厳しい目を向ける。抜けて通るよりも、正規に旅人として関所を通ったほうが安全に思えた。

 都市の形態はさまざまだ。王国と呼んだほうが正しく思える土地もすくなくなかった。

 豊かな生活が窺えた。反面、人々の暮らしにはいくつかの階層があり、貧しさが巧妙に隠されているように思われた。都市の周辺の村も都市の支配下にあるらしく、無断で道を抜けるのは至難だった。強引に進もうとすれば咎人として追手がつく。

 関所では、都市のなかになぜ入るのか、旅の目的を問い質された。怪しい人物はその時点で牢獄に入れられ、そうでなくともたいがいは高額な入場料をとられる。

「何用か」

「向こう側に渡りたいのです。通り抜けるだけですので。宿泊の予定もありません」

「その荷の中身はなんだ」

「食料と水です。あとは着替えや道具がすこし」

「荷は我々が預かる。向こう側の門にてこの印を提示せよ。今日中に行き着かねば荷物は没収する。その後街でお主を見掛ければ身柄も拘束する」

 渡された印は、銀板を割ったもののようだった。半分に割れたそれの片割れを持ち、向こう側の関所で、もう一つの片割れと合わせる。どの都市でも似たような仕組みの印によって、不法侵入者や不法滞在者を見逃さぬ策がとられているようだった。

 旅人から合法的に荷物や路銀を没収するために、街のなかで様々な罠を旅人に仕向ける土地もあった。

 格安で食事をとっていかないかと声をかけ、客に法外な金額を請求する店や、町人同士の諍いに巻きこみ制限時間内に街を抜けられなくする者、或いは単純に強盗に襲わせ再起不能にしてしまう者、そうした罠は街ぐるみで行われているように見えた。

 いずれも秘薬を求めて旅をつづけているこちらにしてみれば、引っかかる余地のない災難と呼べた。欲をだすから騙される。期待をするから足を掬われる。

 目のまえに立ちふさがる隘路はことごとく無視した。

 森のなかで獣に襲われるときばかりは命の危機を感じた。獣は群れをなすものが大半だったが、なかには魔物としか思えぬ異形の姿も見掛けた。

 目的地に近づけば近づくほどそうした知能ある獣と遭遇する機会が増えた。まるでそのさきに人を寄せつけないがために放たれる門番のように感じたが、単にそこが彼らの餌場として効率がよかっただけのことなのだろう。黙っていても餌のほうがやってくる。

 道なき道ながら、転々と白骨化した骸を見つけるたびに、みなここを通ろうとしたのだと思い、敢えて険しそうな道を選び直した。骸が転がっている以上、そこは危険なのだ。

 あべこべに、険しい道のように見えようが骸がなければ、すくなくともそこで死んだ者はすくないと言える。

 いちど人攫いの一行に捕まった。都市に売られにいく道中に魔物に襲われ、難を逃れた。人攫いの一行は壊滅し、堅牢な檻に閉じこめられていたこちらと幾人かの奴隷のみが助かった。

 奴隷たちは森の先に住まう者たちだった。

 言葉は通じなかったが、この森を抜けたいのだ、さきに行きたいのだと告げると、道なき道を案内してくれた。

 彼ら彼女らのあとについていくこと半月あまり、やがて森を抜けた。

 崖のうえにたつと、眼下に彼ら彼女らの集落が見えた。

 そのずっとさきに、ひと際そびえたつ山が見えた。

 本当にあった、と思う。

 たしかにそれがそこにあるといった話はついぞ、通ってきた都市や村では聞かなかった。そう言えばそんな伝説があったような、とうろ覚えの昔話をされるのが関の山だ。

 道案内をしてくれた彼ら彼女らはその山を、アベラと呼んだ。地面に描いた絵からするとどうやら、悪魔の棲む家、という意味であるらしい。彼ら彼女らにとって神聖な場所なのはたしかなようだ。

 目的の場所はその山の向こう側に広がっているはずだった。

 最果ての森がその奥にある。

 崖のうえで夜を過ごす。

 明朝、案内をしてくれた者たちに礼を述べ、崖のうえで別れを告げた。村に寄っていくとよい、と彼ら彼女らは身振り手振りで誘ってくれた。そこに邪心のようなものは窺えなかった。言葉なくとも心は通じあっていた。しかし善意に甘えたところで、こちらが彼ら彼女らの村にしてあげられることはない。お互いのためにここで別れたほうがよいのだと思った。

 念を押して感謝を伝え、名残惜しげな彼ら彼女らと別れた。

 村をあとにしてから一年以上が経っていた。

 急がねば妹の命はない。ひょっとしたらすでに息を引き取っているかもしれない。

 焦りを胸に、道を急いだ。

 ときおり、後悔の念が胸に湧いた。孤独に苛まれるたびに、じぶんは妹にもこの孤独を強いてしまったのではないか、といまさらながらに思い至った。

 いまからでも道を引き返そうかとの衝動に駆られる。こんなことはもうずいぶん前に覚悟していたはずだった。弱気になるじぶんを叱咤した。

 妹の命が短いことは判っていた。いずれ遠からず死ぬのならば、僅かの希望でも縋って、できることをしたうえで死を受け入れるほうが納得できる。

 しかしこれはじぶんの独りよがりだったかもしれない可能性に、旅にでてから気がついた。戻るわけにはいかない。あとには引けなかった。

 失った時間は返ってこない。

 妹の命を救うほかに術はない。

 アベラは空を覆い尽くしている。陽の沈む方角にそびえている。麓までの道のりは思ったほどには暗くなかった。

 どの方角にいようとアベラが見える。

 道に迷う不安はなかった。

 夜になると密林のなかは闇一色に染まった。

 人が寄りつかないためか魔物の数はすくなかった。反面、小動物、とくに毒虫が多く難儀した。

 寝るには地面に穴を掘り、周囲を土で盛って壁とする。葉で身体を包んで寝るわけだが、朝になると穴のなかには無数の虫が溜まっており、毒のないものは食糧にした。

 アベラを登りだすと、一転、草木は減った。森を一望できる高さにまでくると岩肌がずっとつづいた。

 足場を雪が覆いはじめる。足が埋もれるくらいに層が厚くなり、雪渓がつづく。

 濃い霧を抜けると、雲海が辺り一面に広がった。

 やがて氷の世界に突入する。何度も滑り落ちそうになったが、足の裏に石を挟み布を巻いて滑り止めにすると、転落の頻度はぐっと減った。

 山頂に着く。

 そこで終わりではなかった。

 雲海に沿って、奥へ奥へと道がつづいている。

 アベラは山脈の果てだった。

 左右を見る。

 大陸が分断されている。

 片や海、片や砂漠だ。

 麓をすぎると砂漠が風景の大部分を占める。いっぽう、麓の森を抜けると豊かな湿地帯が広がり、巨大な川が海へと繋がっている。

 稜線をいったいどこまで行けばよいのか。

 薬屋の地図を取りだす。写しをとっていた。食卓のうえに洋紙を置き、そこに刻まれた地図を筆でなぞったものだ。アベラの向こうに、秘薬の湧く泉があると聞いている。丸の描かれた地点は、まさにアベラを越えた地点にある。

 しかし、アベラの裏側など存在しない。地上を分断する壁となって、どこまでも地平の彼方へ延々とつづいて見える。これまで辿ってきた道のりよりも長く、途方もない道程に思われた。

 騙されたのだ。

 薬屋と共に残してきた妹のことを思う。

 いいひとだと思った。

 そのじつ、決死の旅にでる者に嘘の地図を持たせるような邪悪な人間だったのだ。

 そんな人間と二人きりでいったい妹はどんな思いですごしていることだろう。どんな目に遭っているだろう。

 歯を食いしばると鉄の味が口に広がる。

 口のなかだけでなく、身体の至る箇所がボロボロだった。道を急いだからだ。身体を酷使した。ろくに休養もとらなかった。じぶんが我慢すればするだけ妹の寿命が延びる気がした。

 ただの錯覚にすぎないことは百も承知だ。だがそう思わずにはいられなかった。苦労を背負えば背負うほど、願いが叶うように思えてならなかった。

 願望だったのだ。

 まやかしにすぎなかった。

 幻の秘薬とは言ったものだ。

 幻なのだ。手に入れようもない。手に入れてしまえばそれはもはや幻でも秘薬でもない。

 戻ろう。

 思うが、身体が動かない。凍えている。いまさら寒いと思い、遅れて痛いと感じる。そのうち段々と熱く感じられ、服を脱ぎたくなった。

 陽がでている。さんさんと照る光があるのだから熱を感じて当然だ。

 息苦しい。息苦しい。

 服を脱ぐと肌があっという間に白くなる。鼻水が凍る。鼻の穴が塞がり、口で息をする。喉に薄い膜が張った感覚があり、ますます息がしづらくなる。

 意識が朦朧とし、視界がチカチカと明滅する。視界はただ灰色にまばゆい。立っていられずに地面に倒れる。氷は硬いはずなのに弾力を感じた。きっと身体のそれはやわらかさなのだろう。麻痺している。肌とそれ以外の違いが判らない。境がない。身体の輪郭が溶けていく。空が見える。それとも氷の青さだろうか。

 氷は青いのか。

 白ではないか、それとも見えないのか。

 段々と思考も回らなくなり、暗がりにつつまれる。

 夜だ。

 それとも闇か。

 死の足音を聴いた。

 妹はこれと同じ音を聴いたのだろうか。まだ生きていてほしい。流れ星に唱える願いにちかいとびきり希薄なこれは望みでしかないことを本当はずっと知っていた。

 ひょっとしたらじぶんは妹の死を直視せずに済むように旅にでただけではないのか。妹の、死にたくない、お兄ちゃん助けて、と泣いて息を引きとる姿を見たくないがために、病に苦しむ妹を置いて、一人逃げだしただけではなかったか。

 虚無に落ちていく浮遊感がある。ピタリと止まる。

 こんなところで寝ていてよいわけがない。

 死んでいいわけがない。

 やるべきことをしなければ、死してあの世で妹に合わせる顔がない。

 土台、会うことは叶わぬだろう。妹は天国にのぼり、じぶんは地獄に落ちる。死後の世界を信じてはいないが、この際、あってもよい。

 あってほしい。

 せめて妹にはあの世で元気に、すこやかに、しあわせに暮らしてほしい。

 だがその前にじぶんには成すべきことがあるはずだ。

 風切り音が耳の奥にこだまする。

 吹雪の音だ。

 顔をあげる。雪が身体を覆い尽くしている。積もった雪が、風を凌ぐ。雪の層のおかげで却って体温を奪われずに済んだのかもしれない。

 衣服をまといなおし、震える指で、最後の酒を煽る。喉が焼ける。むせながら飲み干すと、わずかに身体の輪郭がよみがえった。世界と自我の境が明瞭さを取り戻す。全身の震えが戻る。

 行けるところまで行こう。

 どの道、あとはないのだ。

 旅にでたときからそれは決まっていた。

 幻の秘薬を手にするまで終われない。終わらせてはいけない。

 妹が待っている。

 ふと、吹雪がいっときやわらいだ。またすぐにぶり返すだろう。

 思い、足を踏みだしたとき、視界の端に光を見た。

 星か。

 いや。

 目を凝らす。まつ毛が凍ってろくに見えないが、幻覚ではない。風景のなかに映りこんだ明かりに見えた。

 位置的にそこは雲のうえだ。足場はないはずだ。

 地上の明かりが映っているのかもしれない。

 錯覚だ。蜃気楼だ。

 思うが、引き寄せられている。

 それしか目に入らなかった。その光しか。

 目に入らなくなったのだと、じぶんをふしぎと俯瞰している。

 吹雪がまた視界を覆う。

 目のまえには突きでた雪庇があり、そのさきの光を求めて、足を踏みだしている。

 落下して死ぬだけのはずが、足はそのさきを進みつづけた。

 足場があるのだ。

 見えない足場だ。

 宙を、夜を、歩く。

 ひとしきり進むと小屋が見えてきた。

 煙突からは煙がもうもうと立ちのぼり、火の気配を思う。

 幻ではないのか。

 これは幻ではないのか。

 扉のまえにくる。いつの間にか地面は石畳だ。大小さまざまの大きさの白い石が敷き詰められている。小屋の回りには花壇があり、畑のようなものが見えている。

 生暖かい風が流れていることに気づく。次点でじぶんが凍えていないことを自覚する。何も信じられなくなる。知覚も、思考も、目のまえの景色から得られる総じての信号がひどく頼りなく、自己と乖離したものに思えてならなかった。じぶんの認知への信頼が底を尽く。

 現実ではないのか。

 ここは現実ではないのか。

 首をひねり周囲を見渡しながら、しぜんと手は扉をノックしている。

「開いてますよ」

 奥から声がした。

 押したわけでもないのに扉がかってに引き、部屋のなかが窺える。

 暖炉がある。床には分厚い絨毯が四角く、数枚折り重なるように敷かれている。部屋の奥にも部屋があり、その奥にも部屋が見えた。合わせ鏡を覗いている気分だ。

「寒いのでどうぞおはやく中へ」

 声はやわらかかったが、有無を言わさぬ響きがあった。敷居をまたぐと、背後で扉の閉まる音がした。振り返るとそこに扉はなく、本棚がミシミシと膨張しているところだった。天井の高さまで膨らむと、本棚は静かになる。端からそこにあったかのような佇まいだ。木目が美しく、ひと目で格調高い造りだと判る。都市の図書館にはきっとこうした本棚がぎっしり並んでいるのだろうな、と想像する。

「秘薬をお探しなのでしょう」

 声に驚き、まえを向く。

 ソファに埋もれるように一人の少年が座っている。しかし目線はしぜんと部屋を彷徨った。声の主をまだ見つけていない。

「いいえ、私です」少年は言った。

 声が老婆のそれだったが、なぜか事態を呑みこめた。

 彼はそういう存在なのだ、とふしぎなほどすんなりと合点できた。

「お座りになってください」

 横にソファがあった。いつからあったのだろう。いちまいちど部屋に目を転じると、狭い書斎の一室になっている。

「単刀直入に申しあげます」少年は、こちらが座るのを待ってから口火を切った。「秘薬は存在します。しかし、あなたの望む未来は訪れないでしょう」

「あの」

「願いは叶いません。ざんねんながら」

 取りつく島もない。少年の言葉の是非を問うても意味はないのだろう。彼がこの場で、願いは叶わない、と言ったのならばそれは覆りようのない世の理に等しい。そういうものなのだとやはりすんなり呑みこめた。

 ふと、じぶんの身体が楽なことに意識がいく。あれほど凍えていたはずなのに、ただでさえ満身創痍のうえ、死を覚悟したほどの虫の息だったはずだ。鼻や指の末端が壊死していてもおかしくはなかった。いいや、現にすでに凍傷が進んでいたのではなかったか。

 それがどうだ。

 空腹すら感じない。満ち足りている。思考は明瞭と巡り、いまここでふたたびの旅にでろと言われても、唯々諾々と出かけてしまいそうだ。

「当惑されているでしょうね。そうむつかしく考えないでください。単にここでは時間が歪んでいるのです」

「時間が」

「私はかつて秘薬を服(の)みました。秘薬はこの空間のさきにあります」

「秘薬は本当にあるんですね。山の、アベラの向こうですか」

 勢い余って立ちあがろうとするも、手で制される。

「いいえ。山頂につづく道を辿ってもただこの地上のどこかに通じるだけです。この空間に入る際、あなたは正規の道を通らなかったはずです」

「空を歩いたような」

 見えない透明の道だった。

 氷のうえを歩いたのではないのか。

「氷の道、ある意味ではそうなのでしょう。時間の凍結した空間です。気体ですら変移の余地をなくせば固体と変わりません。ゆびで押してもカタチの変わらない雲は、もはや岩との区別はつきません」

「ですが、そんなことが」

「いまさら疑ってもしょうがないでしょう。こうしてあなたの身に起きている変化そのものが、時間の歪みのなによりの証左です」

 瀕死の怪我ですらこの空間ではなかったことにされてしまう。

 少年は己がちいさき手のひらを揉む。

「ひょっとして出られないのですかこの空間から。あなたは、秘薬を服んだせいで」

「数ある代償のほんのオマケのようなものです。そんなのはなんてことはありません。私が慣れればよいことです。それよりも、あなたに秘薬の話をしたのはどなたですか。この場所は偶然辿り着けるような区域ではありません。秘薬を探し求めていても、まずこの山の存在すら知り得ないでしょう」

「薬屋の方から教えてもらいました」正直に告げた。「ただ、ぼくのほうからなんとしても教えてほしいと頭を下げてのことです。その方は最後まで、考えを改めるように言ってくださいました」

 少年は、数回頷いた。「秘薬は誰かを救うためか」

「はい。妹を」

「病か」

「流行り病です。ぼくが戻るまでに息があるかどうか」

「なるほどな」少年の口調はいつの間にか淡泊なものになっている。「そやつの考えは判った。酷なことをする。だが、お主のためを思ってのことだろう。わるく思うな」

 薬屋のことだろうか。見透かしたようなことばかりを言う。

「でも秘薬は戴けないのですよね」

 仮に拒まれても隙を見て、盗んでいこうと決意する。

「そうカッカするな。さきの言は撤回する。秘薬は渡す」

「よいのですか。いえ、ありがとうございます」その場にひれ伏そうとするも、よせよせ、と少年は手で宙を払う。「礼を言われる筋合いはない。無駄なことに変わりはないのだ。秘薬は渡す。しかしお主の願いは変わらず、叶わん。そこだけは不動だ」

「それでもいいです」

 なんでもいいです、と語気があがる。「秘薬を戴ければいますぐにでも立ち去ります。ぜひ、お譲りを、どうかわたくしめに」

 ソファに腰掛けたまま、深く、深く、腰を折る。ひざとひたいがくっつくほどだ。床に頭をこすりつけたいくらいだったが、少年のほうで拒絶するだろうと思い、せいいっぱいの譲歩のうえで、誠意を示した。

「頭をあげられよ。そんなことをされてもうれしくはない」

 ほれ、と少年はいつから持っていたのか、ちいさな小瓶を宙に放った。弧を描いて、こちらの手のなかに落ちる。

「これは」

「秘薬だ」

 ありがとうございます、と言って席を立つ。部屋のなかに扉を探す。どこを見ても本棚が壁を埋め尽くしている。

「あの、出口はどちらで」

「まあ待て。いいから座れ。話はまだ終わっていません。ぜひ、ご着席を」

 はい、と席に着く。少年の声はまたしても変わった。こんどは落ち着いた女性の声だ。

「長々と話してもきっと耳には入らないでしょうから、端的に申しあげますね。秘薬を使ってもあなたの妹さんは助かりません。正確には、秘薬に難病を治す効力はないのです」

「ですが、あなたは」

 手のひらを向けられ、押し黙る。

「この部屋をでたあとのあなたの未来を予見しておきますね。あなたは運よくくるときと同じような道を辿って、なんとか無事に故郷に戻ります。妹さんに秘薬を服ませようとしますが、それは叶いません。なぜならすでにその村に妹さんはいらっしゃらないからです」

「そんなことは」

「一年ではないのでしょう。あなたが身を置いてきた旅の時間は。復路に同じだけ時間をかけたとして、よしんば多少の時間の短縮ができたとして、総合して二年間をあなたは旅に費やしたことになります」

 違いますか、と問われ、何も反論ができない。

「妹さんのご病気がどんなものかは知りません。ただ、あなたに秘薬の在り処を話した人物は、おそらく妹さんの寿命が保って一年かそこらとの推察していたのではないか、と私は見ています」

「どうしてそんなことが」

「解るのか、と言われてしまうと、答えに窮します。そう考えるといちおうの納得をじぶんに示せるから、としか言いようがありません。これは飽くまで、あなたに秘薬のことを話した人物と、私の思い描いている人物が同一人物であったならの話です。おそらくその確率が高いでしょう。なぜなら、秘薬とアベラを結びつけて話せる者が、その者のほかには現状、いないからです。もちろん私を除いては、という意味ですが」

「つまりぼくは騙されたということでしょうか」

「いいえ。その者はあなたと、そして妹さんのことを考え、そうすることがもっとも妥当な未来に繋がると考えたのでしょう。そして私がいまこうして状況を推し量るだろうことすら期待していたはずです」

「でも妹はどうあっても助からないのですよね。あなたはそう繰り返しおっしゃいますが、ではこの秘薬を持って帰ってもなんの意味もないじゃありませんか」笑おうとすればするほど、目頭が熱くなる。「こんなことなら、旅なんかでずに、ずっとそばにいてやるんだった。ぼくと妹のことを案じたというのなら、何の役にも立たない秘薬なんかの地図なんて教えずに、そっとしておいてくれればよかったんだ」

「そうするのも一つの手だったと思います。ですが、あなたがいまそう思えるのは、いまこうして秘薬を求めて旅にでたからではありませんか。ここに辿り着き、それでもやはり打つ手がないと知ったからではないのですか」

 妹さんをいまのあなたはどうあっても救えません。

「あなたはずっと、妹さんに、治る未来を押しつけ、苦しめていただけなのではないのですか」

 唾液を飲みこむ音がやけにハッキリと、大きく聞こえた。顔面の鼻の付け根がぴくぴくと小刻みに痙攣する。目じりがしきりに引くつき、うまく笑みを維持できない。

 なぜいま笑わなければならないのかも分からずに、めまいで部屋がぐねぐねとゆがむさまを眺める。愉快だ。

「私ははるか昔、このさきの【狭間】に行き着き、そこで秘薬を手にしました。【狭間】には泉が湧いています。泉だけがあるのです。その泉の水の効果を知り、繰り返し服用し、浴びるように飲み、そして泉の効能を我が物にしようと全身をそこに浸けました。望み通り私はこうして秘薬の泉と同質の存在となり、狭間から出られぬ身となりました。後悔はしています。しかしこうなる定めだったのでしょう。秘薬に世の定めを変えるチカラはありません。ひとの運命をすこしだけなら曲げることができます。ですが、それによって生じた流れの変化は、またべつのところに引き継がれます。簡単な例で言うなれば、あなたの妹さんに仮に秘薬を使うことができても、あなたの妹さんが辿るはずだった道をほかの誰かが歩むことになります。つまり、あなたの妹さんが病に罹らずに済むように過去を変えることはできても、その結果、ほかの誰かが妹さんの代わりに病に苦しむことになるでしょう。そうです。秘薬には、過去を変えるチカラがあります。しかし、未来の全体像は変わりません。変えることができないのです。私がこうして、【狭間の泉】の門番のような役割を果たしているのにも、きっと何かしら、大きな流れにおいての意味があるのでしょう。私がここにおらずとも、ほかの誰かがきっとあなたにこうして似たような話をしていたはずです。あなたにはこのさき、いくつかの選択肢があります。それはたとえば、ここで何も持たずに引き返すか。それとも、秘薬を持って故郷に戻るか。それともいっそ、ここで秘薬を服んでみるか、です」

 どう違うのか、とまずは思った。秘薬に過去を変えるチカラがある。そこまではよい。現にこうして、時間や空間がゆがんでいる。目の当たりにしている。いまさら疑うほうがどうかしている。秘薬は、飲んだ者の過去を変える。

 だったら妹に秘薬を飲ませ、病に罹らぬように予防を徹底させればいい。

 あの村をでてもいい。

 人里離れた場所で、共に自由に暮らせばいい。そのせいでほかの誰かが余分に病にかかるとしても、どの道誰もがいずれは病に苦しむ時代なのだ。

 罪悪感は湧く。

 だが、じぶんさえ我慢すればそれでいい。

 妹はいまの苦しみから解放される。悩む理由がない。

「私の意見でしかありませんが、おそらくそのどれを選んでも結末はあまり変わらないでしょう。どれを選んでも、あなたは結局同じ道を辿ることになります」

「ぼくに妹は救えないと」

「いいえ。あなたは妹さんを救おうと決意し、旅に出たことでこうして私と会話を果たしています。同じではありません。あなたが行動に移した影響は、あなたの未来においてはたしかにちいさくない分水嶺となり得たでしょう。しかし、そこに妹さんの未来は含まれません。いいえ、影響は受けるでしょう。しかし、どの道、あなたの満足いく未来は拓かれない。もちろんこれは私の意見でしかありませんが」

「やってみなければ判らないのでしょう。ならばぼくは秘薬をあなたから譲り受け、それを持って妹のもとに帰ります。きっと救ってみせます」

「止めはしません」

 少年はソファから立ち上がり、握手を求めた。手を伸ばすと、ちいさな両手が手を包みこむ。彼はこちらの手を封じたまま、小指をこちらの唇に押し当てる。ほんのりと唇が湿り、反射的に舌でそれを舐めとった。

「旅の無事な終わりを祈っています」

 少年が手のひらをこちらの背後に差し向ける。

 目を瞠る。

 本棚のあった場所に、扉が出現している。

 腰を折り、少年に礼を述べる。

 扉の取っ手を引くと、冷たい風が流れこんだ。視界が白濁する。吹雪だ。

 身体はふしぎと軽い。正常に寒さを感じる。凍えぬうちに歩きはじめる。

 方角が判らない。

 こっちだろうと勘で進む。

 間もなく朝陽が雪のつぶての合間に差しこんだ。方向が判る。進路を修正する。

 無我夢中で歩いていると、吹雪が晴れ、見知った景色が眼下に見えた。油断は禁物だが、下山の見通しがつき、身体だけでなく気持ちも楽になる。

 なぜじぶんはこんなにも疲労を感じないのか。

 先刻、秘薬の管理者らしき少年の小指が唇に触れた。何かを塗られた気がしたが、ひょっとしたらあれは、あれこそが秘薬ではなかったか。

 一滴にも満たない分量を舐めただけでこれほどの回復を見込めるのならば、受け取った小瓶を飲み干したらいかほどに効果が表れるだろう。期待よりも毒々しさが勝る。

 数日を要し、アベラを下った。麓の森を抜ける。

 食料が底を突いていたので、小動物を手当たり次第に捕らえた。皮を剥ぎ、肉を捌き、天日干しにして保存食にする。アベラを登るときにも、ほとんどこの干し肉を食べて飢えを凌いだ。かさばらず栄養価が高い。硬いために噛みちぎるのは至難だが、歩きながら口に含んでいれば事足りる。食事のための休憩をとらずに済む分、時間を節約できて重宝している。

 ただし、干し肉に加工するのに七日ほど足止めを喰らう。天日干しに適した岩場がなかなか見つからないためだ。

 そうこうしているうちに、どんどん体調がわるくなっていった。

 これといって病の兆候はない。身体が重く、動けないのだ。

 蒸し暑い森のなかにあって、なぜか凍えるように身体が寒かった。数日で体調は元に戻った。干し肉がちょうど完成した頃合いで、特別に出遅れてはいない。

 出発しながら、ややもすると副作用かもしれぬ、と嫌な汗を掻く。秘薬の後遺症だ。本来、山頂で凍え死んでいたはずの身体の苦痛が消えた分、熱病として数日後にやってきたのではないか。

 考えても答えはでない。しかし、そう構えていたほうがよさそうだと気持ちが沈む。

 妹にこんなものを与えてしまってもよいのだろうか。

 葛藤が、いまさらのように襲った。

 帰路は、行きよりも順調に進んだ。どこが危険で、どこで気を緩めてもよいのか。全体像が頭のなかに入っている分、避けられる隘路には端から近づかずに、迂回しながらも最短距離で故郷へと向かえた。

 妹のことばかりを考えた。

 徐々に思考が冷めていく。頭に血がのぼっていた。

 考えれば考えるほどに、行きの道中では、秘薬にばかり囚われていたと思い知る。狭間の泉の管理者ことあの少年の言うとおりかもしれない。

 妹のためと言いながら、とどのつまりじぶんのことしか考えていなかった。妹の意思を蔑ろにしていた。せめて相談をすべきだった。妹の考えを訊くべきだった。

 病で苦しんでいるのは妹だ。じぶんではない。だのに、妹の病が治りさえすればすべてが円満に、つつがなく、しあわせな生活を送れるのだと考えるまでもなく結論していた。

 重荷に感じていたのだ。

 病に侵された妹を。

 認めがたい。しかし、そうでなければ、ここまで得手勝手に行動をとったりはしなかっただろう。

 きっと妹にはこちらのそういった傲慢な善意は伝わっていたはずだ。苦痛だっただろう、屈辱だっただろう。それでも嫌な顔一つせず、兄のオママゴトに付き合ってくれていた。

 気を遣わせていた。煩わせていた。

 救われていたのはこちらだ。それでいて、一丁前に救っていたつもりでいた。支えていたつもりだった。

 いいや、世話をしていたのだから、支えてはいたのだろう。だが、その支え一本を恩に着せて、妹を暗く寂しい場所に追いやっていたのかもしれない。

 最後の最後で、正真正銘、寿命が尽きようとしていたあのときになって、自身を置いて出ていった兄をあのコはどう思っただろう。

 恨んだだろうか。怒っただろうか。

 そうあってほしい。

 いまもまだ健気に、一途に、愚かな兄の無事を祈り、家で独り待っていると考えるのは、さすがに残酷だ。胸が詰まる。

 森をいくつか抜けるあいだに、魔物の死体を発見した。角や骨を持って運び、都市を抜けるたびに換金する。通行料を払うだけの手持ちがなかったからだ。

「あなた、これをどこで」

「言い値で売りますので、できれば宝石か金で」

 予想よりもずっと多くの対価を得た。羽振りがよすぎても旅路は身を滅ぼす。都市を抜けるごとに、道中で手に入れた物品を換金し、旅道具や食料を揃えたあとの残りはすべて、その都市の医師に寄付した。医師とはいえど、無条件で信用はしない。貧しい者たちから話を聞き、みなから慕われている医師を探した。

 どの都市でも病は蔓延していた。旅人の通行料はのきなみ値上がりしており、通行制限が設けられているところもある。

 貧しい者たちの住まう区域は狭められ、都市のそと周辺には病人しかいない村が点々とあった。

 旅を通じて知った。じぶんの故郷もまた、こうした都市から半ば追いだされた者たちの築いた集落の一つだった。医師は都市に集められ、村の者たちはめったに治療を受けられない。薬屋がそうした村々を回り、せめて薬だけでもと配り歩いていた。

 不条理だ。

 都市と、村とのあいだのこの理不尽な差はなんなのか。

 怒りに駆られたが、誰もがそれを当然のことのように受け入れている。

 ときおりほかの旅人と道を共にすることがあった。数日という短い期間だが、話をすると、旅人たちのすくなからずは、こちらと似たような憤りを覚えているようだった。

「みな視えていないのさ。オレだって同じだ。旅をはじめてから世のなかの仕組みを理解した。そういうものがあることすら知らなかった」

「ぼくもそうかもしれません」

 焚火を囲い、野兎を焼いて食べた。

「世界は理不尽だと、不公平だと、そうした仕組みになっていると聞いてもそんなのはひがんだ人間の偏見だと一蹴していたくらいだ。みなじぶんだけはまともな世界にいると思いこみたいんだ。損をしているなんて思いたくない。これまでの我慢を、努力を、無駄だと思いこみたくはないんだ。むしろじぶんが耐えてきたのだから、ほかの連中が楽をするなんて許せないとすら考える。そう考えていることにすら無自覚でな」

 棘のある言い方だった。むかしのじぶんならば、その言葉に反感を覚えただろう。だがいまなら解かる。彼は怒っている。誰にではない。不条理という名の仕組みそのものにだ。

「わかります」そう首肯するのがせいいっぱいだった。

 あと数日で故郷の山々が望める。あれほど恋焦がれていたはずの土地が、いまではできたばかりのカサブタのように触れがたく、踏みがたい。旅の目的は家に帰ることで達成されるはずが、旅を終えたくない思いが、足取りを重くする。

 確かめたくないのだ。

 家に帰ったところで旅の目的が果たせるわけではないのだと、知ることがおそろしい。

 家の戸を開けても、その向こうに妹の姿がなかったら。

 或いは、家そのものが、村ごとなくなっているかもしれない。

 悪夢は、日に日に、故郷に近づくにつれて鮮明さを増す。来たる現実を目の当たりにしたときの予行演習のつもりなのだろうか。

 最後の山をのぼりきるころには、帰ってきたとの感慨が否応なく高揚感を引き連れる。

 山の頂から故郷を眺める。なぜ都市から距離のあるこんな辺鄙な場所に村を築いたのか。かつてこの地にやってきた者たちのことを思う。

 村は閑散としていた。活気がない。ひと気がない。空気が澄んでいることを妙に思う。堆肥の臭いがない。家畜たちの息遣いがない。静寂のなかにときおり家屋にぶらさがる種々相な生活品が、それはのきなみ樽や箒だが、カラカラと乾いた音を響かせている。

 まっすぐとじぶんの家へと向かう。

 扉のまえに立つ。

 なかに入るが、誰もいない。

 予感していたが、いざ目のまえに拭いがたく現実として広がると、胸の奥に膨らむ空虚ながらんどうを感じずにはいられない。

 妹の名を呼ぶ。

 否、つぶやくといったほうが正確だ。

 端から返事は期待していない。

 床や食卓には埃がかかっている。ふと、足跡があることに気づく。誰かが住んでいる素振りはないが、立ち入った者があると判る。

 せめて妹の居場所だけでも知りたかった。墓の場所だけでも。

 書置きがないかを探すが、それらしい手紙やメモは見当たらない。荒らされた様子がないことや、食料や生活必需品がなくなっている点からすると、村が滅んだというよりもこれはほかの土地に移住したと考えたほうがよさそうだ。

 書置きがないのは、来るな、との意思表示なのだろうか。

 或いは、妹が手紙を残せる状態ではなかったか、そもそもこちらが旅から帰ることを想定していなかったか、それとも旅にでた者がいることすら忘れ去られていてもふしぎではない。みなじぶんのことで手いっぱいだ。

 妹は死んだのだろう。最期がどんなものだったのかが、気がかりだ。誰かに看取られたのか。口減らしの憂き目に遭ったりはしなかったか。看病はしてもらえていたのか。家を対価に値の張る薬を購入した。妹に飲ませるよう、薬屋と取引きしたが、約束は果たされたのだろうか。

 妹のこれまでの日々に思いを馳せれば馳せるほど胸が苦しくなる。反面、思いのほかじぶんが悲しんでいないことに傷つきもする。やはりじぶんはあのコを負担に感じ、遠ざけたいと思っていただけではないのか。

 村の墓地に足を運んだ。

 目新しい墓がいくつも増えており、そのなかに妹の名前の刻まれた墓石を見つける。花の添えられた跡もあり、ことのほか手厚く弔われたと判り、ほっとする。微々たる安堵ではあるが、胸のうちが軽くなった。それはけっきょくのところ、じぶんの罪悪感が薄れただけのことでしかない。

 じぶんを許すな。楽になるな。

 自虐をし、己がふがいなさを責めることで、正気を保つ。

 そうでなければ、いまここで自死する以外に贖える道があるというのか。

 ほかの家々を見て回りながら、やはり村ごと場所を移動したのだとの認識を強める。

 家に戻ると扉が開いていた。閉めて出たはずだ。

 近場の壁に立てかけてあった農作業用のクワを手にし、家に近づく。何か肉の焼けた香ばしい匂いがした。

 慎重に、足音を鳴らさずなかを覗くと、こちらに背を向け佇む人影がある。

「何か用ですか」村人の装いではなかった。肩幅が広く、粗暴な印象を覚える。

「そろそろかと思ったのでな。戻ったか」

 声に聞き憶えがあり、こちらを振り返った顔に、あぁ、と声が漏れた。

 薬屋だ。

 秘薬の在り処を地図に描いて教えてくれた人物で、フードを深く被った顔には古い切創が刻まれている。こうして見ると、ずいぶん更けていたのだな、と改めて観察する。

 旅のあいだに染みこんだ習性の一つだ。以前は人を見るにも、おおざっぱにしか見ていなかった。いまなら判る。この薬屋は、武にも通じている。挙措が尋常の型ではない。衣擦れの音一つさせないのだ。

「積もる話もあるだろう。あのコの話も聞きたいだろうしな。墓は見たのか」

「いましがた」

 男はあごに蓄えた髭を撫でる。息を吐いた。

「碌なものを食べていなかったろう。まあ、座れ。すこし話をしよう」

 食卓の埃を手で払い、薬屋は持参していた鶏の丸焼きをそこにどんと置いた。香ばしい匂いの正体はこれだったのだ。

 皿がなかったようで、手本を兼ねてなのかさきに薬屋が鳥の足を手でもぎる。一口頬張ってから、ほれ、とこちらに手渡した。毒見をしてみせることで、安心して食え、と言っている。

「戴きます」

 しばし黙々と食事に専念する。何をしゃべればいいのか、考えがまとまらない。訊きたいことは山ほどあった。妹の最期はどんなだったか、苦しんだのか、眠るようだったのか、何も言わずにでていった兄を恨んでいたか、何回涙を流し、何回笑い、どれくらい他者と言葉を交わし、世界の奥行きを広げられたのか。花には触れたことがあっただろうか。

 妹のことばかりが思考を占める。罪悪感に支配されている。

「喉が渇いたな」

 井戸に水を汲みに出ようとする彼を呼び止め、すみませんでした、と頭を下げた。彼は笑う。「なぜ謝る」

「あなたの言うとおりでした。秘薬なんて求めるべきではありませんでした」

「間に合わなかったからか」

「いえ」否定してから、はい、と認める。「それもあります。でもたとえ妹がいま生きていたとしても相談するくらいのことはすべきでした。何もかもが自分本位だったと悔いています」

「秘薬は」

「手に入れました。これです」

 食卓のうえに置く。ひょっとしたら、と思う。目のまえの男の目的は、秘薬にあったのかもしれない。これを誰かほかの者にとってこさせ、戻ってきたところを奪いとる算段であったのやもしれぬ。

 小瓶から指を離しつつ想像するが、いまさら抵抗する気もない。

「飲ませてやれたところで、余計に苦しめただけかもしれません。これは万能薬ではありません。一時、苦しみを先送りにできるだけの毒のようなものです」

「知っていた。すまない。余計なことを吹きこんでしまったばかりに」

「いえ。訊いたのはたしかぼくのほうからです。あなたは親切に教えてくださっただけでなく、止めようともしてくれました。それを聞かずに強引に旅にでたのはぼくの意思です。ぼくはぼくの考えに従い、妹を置き去りにしたのです」

 やはり訊いておかねば、と臍を固める。

「妹の、あのコの最期はどんなでしたか」

「わるいが、オレは看取っていない。お主が旅にでたあとですぐにここを去った。もちろん薬は置いていった。定期的にこの村へ薬を届けてはいたが、半年後にはこの家にほかの者が暮らすようになっていた。あのコの世話をするならば、と許可をだしておいたので、そのせいだろう。だがその後、徐々に村人が減りはじめ、半年前にはこの村はもぬけの殻となった。よそへ移った者が大半だろうが、病人のほとんどは亡くなったのだろうな、途中からは薬を運んでも誰も買わなくなった。そういうことなのだろう、と思い、以来ここへは骨休みに寄るだけにした。このさきにも村がある。そちらも半年後に残っているかどうか」

「みなはどこに移ったのでしょう」

「山を越えて、都市にでも入ったか」

「受け入れてくれるような余裕があるとは思えませんでしたが」

「近辺には集落もある。ここよりかはマシな暮らしができるはずだ。その分、見たくないものも多く見ることになるが」

 言っている意味はぼんやりとではあるが理解できた。ここらの村はどこも悲惨だが、その分、みな境遇は同じだ。しかし都市には、じぶんよりも遥かに優雅な暮らしをしている者たちが、じぶんたちのような苦労を重ねずに、すこやかな生活を送っているように目には映る。同じ人間には思えない。じぶんが苦しい思いをすればするほどその感覚が精神を蝕む。日々を仄暗く染めあげる。

「ではみなさん、ご無事なのですね」

「大半は病に倒れたようだがな」薬屋は墓地のほうを見た。

 壁で見えないが、しばらくその奥へと焦点を当てる。

「妹のこと、気にかけてくださってありがとうございました。妹のことだけでなく、ぼくらのような者たちに薬を届けてくださって。旅があんなに危険だなんてじっさいにしてみるまで想像もできませんでした。薬屋さんには感謝してもしきれません」

「なに。一つどころに留まれぬ性質なだけだ。病が怖くて逃げ回っているようなものかもしれぬしな。罪悪感を薄めるためについでに人助けの真似事をしているだけで、どれほどそれらしく振る舞っても、非力であることに変わりはない。誰にも、何もしてやれぬ」

「虚しいですか」失礼な質問に思えたが、訊いておきたかった。いま訊かねばならぬと予感した。

「虚しい、か。そうだな。虚しいのかもしれぬ。かといってではどうすればよいのかなど分からぬしな。こうするよりないのだ。楽になりたい一心だ。チカラになれずにすまなんだ。こう頭を下げること一つとっても、やはり楽になりたいからなのだろうな」

「楽になりますか」すこしでもそうあってほしいと願う。

「どうだろうな。やめてみれば判る気もするが、怖くてできぬ」

 苦笑する。そういうものか、と心の芯に銘じておく。

「これは差しあげます」小瓶を食卓の中央に置き直す。薬屋はそれを見詰めた。拒まれる前に言い足す。「使う相手がもういないのです、私が持っていても宝の持ち腐れです。もっと本当に必要としているひとに使ってほしいと思います。かといってぼくでは処方もまともに施せません。あなたなら上手に使ってくれるものかと思いますし、そうでなくとも処理をするにも、あなた以上に適任はいないでしょう。私の罪過の後始末を押しつけてしまうようで心苦しいのですが、ぜひ預かっていただけませんか」

「よいのか」

「あなたなら悪用もしないでしょうし」

「それはどうだろうな。あまり信用されたくはないが」

「私にとってそれは毒と同じです。ですが薬とはそもそもそういう性質のもの。適切に処方できて初めて薬としての意味をなします。断られたら地面にでも埋めますが、きっと将来よくない影響がでるものかと」

「わかった。預かろう」

「適切に使ってやってください」まるで妹の命そのもののような言い方に、じぶんで辟易する。じぶんにそんなことを言えた義理はないのだ。もともとじぶんの所有物ですらない。

 鳥の丸焼きが骨だけになるまで語り合った。薬屋の来歴に興味があったが、それとなく水を向けるも、そこだけは頑として口を割らなかった。名前すら明かさない。

 他人においそれと話したくない過去は誰にでもある。きっとじぶんも今後、何があっても妹のことを人にしゃべりはしないだろう。胸に仕舞って生きていくよりない。

「これからどうする気だ」薬屋は鳥の骨を楊枝代わりにする。それを真似ながら、どうしようかと思案する。悩みながら、しかしそうするしかないのだ、という気持ちで、

「また旅にでようと思います」と打ち明ける。「明日の朝に出ます。ここにいると色々と思いだしてしまうので」

 薬屋は黙ってうなずいた。

 翌朝起きると、食卓のうえに水筒と羊皮に包まれた干し肉が載っていた。薬屋の姿はない。書き置きもなく、代わりといったらおかしいが食卓に刻まれているはずの秘薬の地図が削り取られていた。文字だけを拭い取ったように消えている。尋常の業ではない。

 ひょっとしたら秘薬を使ったのでは、と思いつく。使い方次第では生き物以外にも使えるのかもしれない。やはり土に埋めて処分するのはやめておいてよかった。じぶんの判断に胸を撫でおろす。

 妹のことだけではないのだ。後悔してもしきれない失敗はこれからも重ねていくこととなる。できるだけその頻度を下げ、奇禍を回避すべく術を磨いていかねばならない。そのためには知識が、経験が物を言う。

 旅支度を済ませ、まだ陽の昇りきらないうちに出発する。

 途中、さっそく身体を壊した。

 三日三晩、高熱にうなされ、四日目にケロリと治った。

 ひょっとしたら薬屋の用意してくれた食事に中ったか、それとも毒が入っていたのではないか、と案じたが、単にこの二年のあいだの旅の疲れが、どっといまになって湧いたのだ。きっとそうだ、と気にしないことにした。

 終わったと思った旅がまたはじまる。

 こんどは終わりなき旅だ。

 海とは反対の道をいく。

 砂漠の大地だ。

 大陸が地平の彼方までつづいている。

 おそらくアベラの属する山脈は、大陸と海の境目なのだ。地盤そのものが長い時を経てすこしずつ移動しているといった話を、都市部で耳にした。眉唾だったが、いざ山脈を目にし、その上から大地を望むと、あながち嘘とも思えなくなった。

 知は世界そのものの見方を変える。人間は世界そのままを見てはいない。ひどく狭い見方しかできていないのだ。

 旅をつづければ、すこしずつでも広く世界を視られるようになるはずだ。そうあってほしい。

 そしてできれば、この身に蓄積した知識を、それを必要としている者たちに分け与えていきたい。漠然と抱いていた目的が輪郭を得る。知は、銭や食料とは異なり、減ることがない。この世界に足りないのはまさに、それなのだ、と思った。

 長く険しい旅をつづけた。 

 大陸はどこまでも伸び、果てがない。

 人はどこにでもいた。言葉の通じない部族が多く、それゆえ身の危険をいくつも体験した。

 身体の自由を奪われ、拷問まがいの扱いも受けた。ときには武器を持って応戦した。

 なかには心優しい者たちもいた。大部分はそうした者たちだ。ただ、あちらからすればこちらの素性は知れない。警戒するのはひどく自然な対応で、その分、彼ら彼女らのやさしさを身を以って知る機会は減っていたのだと想像する。

 どの土地も貧窮していたが、それでもなけなしの食料や水を譲ってくれる者はいた。ときおり仕事を頼まれることもあり、そうしたときは、寝床の提供と引き換えに請け負った。荷物の運搬は比較的よくされる類の依頼だ。なかには子どもを連れて行ってほしい、といった引き受けがたい頼みもあり、そうしたときは丁重に断った。

 恨みを買うこともあれば、想像以上に感謝をされ、却って居たたまれない気持ちになることもあった。

 誰にでも等しく接せられるわけではない。引き受けられる仕事にも限りがあり、ある人物の頼みは聞けても、そのほかの者の頼みは聞けないことがほとんどだ。可能な限り、もっとも困ってみえる者、或いは達成することでより多くの者に恩恵が行きわたる仕事を選んではいるが、しょせん外部の人間の私見でしかない。何が正しい判断なのかは闇のなかであり、失敗に思える経験は数知れない。

 かといって誰の仕事も引き受けない、とするのは何も積みあげないという意味で、それこそもっとも忌避すべき事項に思えてならなかった。

 ときおりそれすら、本当に正しいのか、と頭を抱える。誰に対しても平等に接したほうが、のちのち村のなかでの不平等を生まずに済むのではないか。

 あいつは旅人に気に入られていい思いをした、とひがみを踏み台にして村八分にされてはいまいか。村を離れたのちによくよく悩む。誰にも手を差し伸べないほうが、全員等しく貧しいままで却って公平なのではないか。

 戻って確認するわけにもいかない。稀に同じ村を通ることもあるが、一日二日の滞在では村の機微までは分からない。長居をすればやはりそれだけ奇禍の種は大きくなる。

 自己満足なのだろう。無力ではないと思いたいがために、その場凌ぎの善意を振りまく。だが本質的には何も変わらない。森が燃えているのに、一本の木に水をかけたところで、根本的な対処にはならず、その一本にしてみたところでかけた水が干上がればまた炭になるのを待つだけだ。

 炎をどうにかしなければならない。森全体に水を注げる仕組みがなければやがて森は焼き尽くされ、草一本生えぬ土地と化す。

 そういう意味では、都市の役割は大きい。森全体から水を掻き集め、都市という局所的な範囲であれ、炎の脅威から身を守れる。森全部が焼けてしまうよりかはマシだと考えるのはさほどに不合理ではない。だが、そこからさきに進まないのであれば、やはり不条理ではあるだろう。

 オアシスがあることで砂漠がずっと砂漠でありつづけるというのならば、オアシスはむしろないほうが好ましい桎梏そのものと呼べる。

 都市があるからこそ薬屋が各地に治療の一端を届けてくれる。反面、都市があるからこそ、医師の卵たちは、村を去り、そして都市に囲われつづける。せめて医師を生み、育てたのならば、その恩恵の一端でも各地に派遣してくれればよい。薬屋がその一端だ、とする理屈はなんとなしでは妥当に思えるが、やはりそこからは、都市部以外の人間は死んでも致し方ない、との理不尽な思想が見え隠れする。

 都市があるから医師が育つ。それはよい。なれば、その知見をほかの村々にも共有しようとする意思を、行動を、起こしてほしい。

 だがそれを外部のいち旅人でしかないじぶんが言ったところで何が変わるわけでもない。

 都市部に負担を強いれば激しい反発を受ける。

 都市に住まう人々は外部の惨状を知らない。

 それでいて、都市の運営陣は、都市部の暮らしを気に入っている。貧しい他人を、奴隷のように支配し、それでいて不公平さを際立たせないように巧妙に恩を売り、いつまでも上部層にて安全という名の甘い汁を吸いつづける。

 命の危機から程遠い生活を、都市に暮らす一部の人間たちが独占している。そして都市の仕組みを決めるのは、そうした上部層に位置する者たちなのだ。

 便利な生活を手放そうとは思わないはずだ。

 原理的にそれは、医師を手放せない患者と似たようなものだ。

 じぶんの病が悪化するかもしれないのに、よその患者にじぶんの分の治療を与えようとは多くの者は思わない。

 じぶんさえよければそれでいい、とはすこし違う。

 じぶんの身の安全すら護れなくなるからその道を、術を、拒むしかないのだ。

 しかし、と歯噛みする。

 どうしても、なればこそ、と思わずにいられない。

 じぶん一人だけではなく、もっと多くの者たちが治療を受けられるように、安全な生活を送れるように、そうした仕組みを築こうと、目指そうと、そこを基準に都市の在り方を変えていこうとしてほしい。

 そのためにはやはり、知が欠かせない。単なる学問の知だけでない。世界をどう視るとどういった景色が拓けるのか、個々人の物の見方が違うことを前提とした知が肝要だ。広く、みながより世界を鮮明に捉えるための術を、知見を、耕し、蓄え、より洗練させながらより多くの者たちに、土地に、後世に、伝えていかねばならない。

 じぶんにはその役目は荷が重すぎる。

 一滴の水で山火事の炎を消すようなものだ。

 だが何もせずに目のまえの地獄、それはときに日常や常識のかたちをかたどっているが、人々の透明な血だまりを踏みつけ、素知らぬふりをして暮らしていきたくはない。

 妹と似た境遇の者たちが大勢いる。

 人知れず死に、生きてきた足跡すらどこにも残らない。

 苦しみ耐えていたこと、それでも日々を慎ましく、豊かに生きようとしたこと、身近な者を蔑ろにせず、じぶんの生以上にその者の生を尊び、敬い、たいせつにしていたこと。

 何も残らずに死んでいく。

 無駄死にだ。

 死んだ者のせいではない。

 それを無駄死にとしてしまうこの世の道理が、仕組みが、流れがおかしい。

 整えられるはずなのだ。

 川がそうであるように、森がそうであるように、猛威を、理不尽を、すこしずつでも正そうとできるはずなのだ。

 そのためには火種が燃え広がる前に消す術がいる。燃え広がったあとに消す仕組みがいる。それでいて、消火に不可欠な水の流れる道がいる。

 なにより、その道に流れる最初の一滴がなければ火は炎となり森を焼き尽くす。あとには不毛な土地が残るだけとなる。

 最初の一滴だけではまだ足りない。二滴、三滴、とあとにつづき、全体で大きな流れに育てなければ、焼け石に水を地で描く。炎に呑まれる草木と変わらない。

 薬屋たちの姿を思い起こす。

 一滴、一滴のちからだけであれほどの恵みを広い範囲に渡って及ぼしている。もっと互いに繋がりあい、知識を、情報を伝えあえば、水の持つチカラを増幅できるのではないか。

 誰かがそれをしてほしい。

 じぶんがいまこうして望むように、きっと誰もがそう望んでいる。

 見ている景色は同じなのに、なぜかそこには向かわない。

 なぜだ、と思い、そこに恐怖があることに気づく。

 無駄かもしれない、との恐怖だ。

 無駄に死んでいく者たちの姿を目にしすぎている。それがふつうなのだ、と誰もが諦めている。諦めていることにすら無自覚に、それをすれば損をすると判断するまでもなく判断している。

 崖から飛び降りれば死ぬ。それと同じ愚行なのだと見做している。

 だが、本当にそうなのか。

 水はそこかしこにあるのだ。一滴、一滴、そこにあるのに、誰もそれらを結びつけようとはしない。集めようとはしない。広く炎の種に浴びせようとはしないのだ。

 するだけの価値はあるはずだ。しかし、それによって最初の一滴が無残にも蒸発し、消えてしまうかもしれない。だがじっさいには消えたのではなく、その分の熱は確実に相殺している。もし後続する水滴がつぎつぎに現れたならば、相殺の連鎖は途切れることなく広がり、いずれは炎そのものを打ち消すに至るだろう。

 未だ延焼していない木々に水をあらかじめかけておくことで、炎の広がりを食い止めることだってできるはずだ。

 やりようはいくらでもある。

 ただ、誰もが最初の一滴になろうとしない。

 否、どこかには果敢に炎に飛びこむ一滴が現れてはいる。しかしそれに目を留める者がいないのだ。見ようともしていない。或いは、見て見ぬ振りすらしているかもしれないのだ。

 焼け石に水だ。

 おそらく、みなそれを理解しているからこそ、無駄だと諦めるのだろう。誰も見向きもしない。黙殺されるどころか、存在すら認知されずに、人知れず死んでいく。

 だが、と思う。

 何もしなくとも同じではないか。

 いずれにしろみな人知れず死んでいく。ならば炎に水をそそぎ、弱めようとは思わないだろうか、防ごうとは思わないだろうか。

 なぜ誰もみずからが最初の一滴になろうとはしないのか。

 そこまで考え、胸が痛む。

 すべてじぶんに跳ね返っている。

 なぜじぶんは最初の一滴になろうとしないのか。

 いいや。

 最初の一滴を目の当たりにしておきながら、なぜあとにつづこうとしないのか。

 薬屋の男を思い浮かべる。

 旅に身を置き、幾度となくことあるごとに彼の行動を回顧した。直接見たわけではない。知っているのは彼が妹に親切にしてくれた、病人たちに、苦しんでいる人々に、その家族に、希望を配って歩いていたことだけだ。

 なぜじぶんは彼のあとにつづかないのか。

 同じではないか。

 ぼやくだけ、嘆くだけ、不満を募らせるだけ。

 なぜみなはどうにかしようとしないのか、と不平を鳴らし、最も危険な初めの数滴の役割を他人に期待し、なすりつけようとしている。

 大きなうねり、流れになってから、誰にも気づかれないようにならば加われる。だがそれまでは遠くから、理不尽な現実に耐えながら、見て見ぬふりをしながら、みなで不幸を分かち合う。

 その結果が我が村だ。

 病が蔓延し、人は去り、廃れた。

 珍しくない光景だ。それがふつうとしてまかり通っている。

 だが本当ならばもっとよりよくしていけるはずなのだ。都市がそうであるように、仕組みさえ築けば、みなが問題点を共有し合い、打開しようとすれば、すくなくともいまよりかは暮らしやすい村が、国が、つくれるはずなのだ。

 日々を、つくっていけるのだ。

 やるべきことが視えた気がした。

 そう、視えなければ道を行くことはできない。

 辿れない。

 歩めない。

 アベラで歩んだ視えない道を思いだす。

 道そのものは一歩足を踏みださねば、そこにあるのかも分からない。

 あのときは明かりが視えた。

 秘薬の管理者の家の明かりだ。

 道そのものはあとからあれが道だったのだと気づくようなものなのかもしれない。

 まずは行き着く先、道の先、どこに行こうとするのかが肝要なのかもしれなかった。

 いいや、目的地があやふやであろうと、まずは一歩を踏みだそうとする、踏みだす、その意思がすべてと言ってもよいかもしれない。

 何もかもが定かではない。

 解らない。

 だがすべきことははっきりとした。

 道をつくる。

 水の流れる道だ。

 その一筋となる。

 ひとしずくはすでに世に流れている。

 結びつけ、道とする。

 その一滴となる。

 焚火の煙が朝陽の光を受けて澄んだ輝きをまとっている。

 旅にでたつもりでいた。

 しかしまだ一歩も踏みだしていなかった。

 荷物をまとめ、行先を決める。

 まずは薬屋になる。

 そのための薬が入り用だ。

 都市に寄って、医者の協力を得る必要がある。

 頭の中でこれまでの足跡、地図を開き、最も近い都市へと引き返した。

 道中、ずっと引っかかっていたことがある。

 故郷を発ってからずいぶん経つが、その間、薬屋を見なかった点だ。砂漠の側にはまだ薬を運ぶ文化が根付いていないのだろうか。都市の文明も、アベラへの旅路に通ったほかの都市に比べるといくぶん劣って映る。

 ひとが病で早晩に亡くなる。

 必然、文化の継承も滞り、なかなか発展しないものなのだと推測した。

 だがいくつもの都市を渡り歩くあいだに、違和感が募っていった。それはどこか、じぶんがどこを歩いているのかが判らなくなるような、妙な浮遊感だった。じぶんだけが異物に感じられる。もちろんそれは新しいことをしようと、未だ誰も成し遂げていない仕事にとりかかろうとしているからだとじぶんに言い聞かせ、打ち消しを試みてきた違和感だったが、志ある医師との連携がとれ、薬屋をはじめて数年が経つころになると、どうにも、それだけとも思えない。拭いがたいしこりのように身体の奥底のほうへと、それら浮遊感、違和感が、ある種の疑惑となって結晶しはじめた。

 確かめたい衝動がつねに喉元に薄膜がごとく張りついている。

 薬屋の担い手を求めた。

 都市の運営陣はいい顔をしないだろう。人に知られぬように行動する。

 確実な医療の知識が不可欠だ。

 医師の協力者を増やし、連係窓口を置き、そこを起点に薬屋を組織化していく。

 薬屋の担い手の多くは、都市部の医療を受けられれば死なずに済んだ身内を持つ者たちだ。病は平等に人を蝕むが、そこから死を遠ざけ、回復の道に立てるか否かは、大きく公正を逸している。助かる者が助からない現実が拡大していくいっぽうで、医療の流出を阻み、囲い、一部の者だけが病に怯えずに済む安寧が築かれている。

 その安寧の仕組みをいまではみな口を揃えて都市と呼ぶ。

 多くの者たちの犠牲と見えない搾取のうえに成立する桃源郷だ。

 完全な仕組みなどはない。大なり小なり人間の築く社会とはそういうものだ。都市がないよりかはあったほうがよい。発展しないよりかはしたほうがよい。

 ただ、そのさきがどこに繋がっているのか、都市がその発展の末に何をなさんとしているのかによっては、いささか仕組みの在り方を問わねばならぬこともある。

 築きあげた安寧に執着し、それを維持せんがために富が掻き集められ、医療の知見を強固な檻に入れて管理するというのであれば、宝箱を打ちこわし、檻を曲げ、蓄えられた安寧を広く分配する仕組みを新たに築こうとするのは、果たしてそれほど忌避されるべきことだろうか。

 むろん破壊はないほうがよい。破壊は発展を阻害する行為だ。ないほうがよい。

 だが、そうせざるを得ないほどに発展のさきに切り拓かれてしかるべき道が塞がれ、せっかく蓄えた財が腐敗していくだけならば、やはり誰かがそこに新鮮な空気と水をそそぎ、それを以って新たな都市の姿を示すのは、発展を促すための大いなる布石となるのではないか。

 一歩となるのではないか。

 終わりの見えない無限回廊に、歩むべき道しるべを引き直す偉大な一歩に。

 偉大でなくともむろん構わない。

 単なる卑近な一歩だとしても、その場に踏み留まっていては見えない景色を垣間見られたならば、それはなくしてはならない一歩である。

 甘い考えなのかもしれない。

 思考を煮詰めると必ず最後には、自己を諌める声が聞こえる。己が理想の無謀さに、現実を見ていない夢想家にすぎないのではないか、と内なる声は突き放す。

 その通りだ。反論のしようがない。

 現実はただ理不尽に流れていく。

 だがその流れに身を任せ、ただあるがままに流されていくことを潔しとするのであれば、夢想家で構わない、と腹をくくる。

 このままで終わらせたくはないのだ。

 このままでよい、と諦めたくはない。

 どうにかできるとの予感がある。いまこの現実はまだ、発展の最終局面ではなく、仕組みの最良ですらない。

 まだまだよりよくしていける。

 多くの理不尽を、安寧へと変質させていける。流れを変えていける。

 かつての都市がそうであったのと同じように。

 軒並みの村に都市のような安寧を築けるはずだ。

 砂漠に残した足跡の数だけ、協力者の数もまた増えた。

 繰り返し往復する道筋が広く、逞しく、根のように広がりを見せたころ、薬屋はぽつりぽつりと数を増やし、群れをなす。

「しばらく留守を頼みたいのだが」

 薬屋の一人に告げた。なぜ、と問われ、旅に、と応じる。

 砂漠に点在する村を結ぶ薬屋の衆の一人だ。長らく信頼を置いてきた。彼らにならこの広漠とした土地を任せられる。

 誰かがつくった組織ではない。組織というほどに統合されてもいない。まえを歩いた者の跡を辿り、ときに横道に逸れ、水滴同士がくっつき合い、しぜんと形成されたこれは流れだ。

 一人が抜けても差し支えない。

 そのはずだった。

 意に反して、猛然と反対に遭った。旅の目的を執拗に問い質され、あなたには責任がある、と詰められた。

「流れのないところに流れをつくる。道をつくる。これはそのための旅だ」

 熱心に説くと、こんどは我らもついていく、と言ってきかない。一人よりも二人、二人よりも三人のほうが流れは生みやすい、と訴えられたが、生むものではないのだ、と説き伏せる。

「驕り高ぶるでない。流れは我らにあらず。我らが生みだしたものでもない。川は川そのものの所有物ではなく、ゆえにしぜんに流れ、道を太くしていく。数に囚われるな。勢いよりもだいじなことがある」

 解かりません、と多くの者は最後まで異を唱えたが、信頼の置ける薬屋だけは、好きにしろあとは任せろ、とわざわざ追放の烙印を捺してまで流れのそとへと押しやってくれた。

「おまえにはほかの者たちには視えない世界が視えているらしい。それの善し悪しの秤は、あとになってきっちりしてやる。まずはやってみろ。話はそれからだ」

 おそらくは今生の別れになる。

「また会おう」

 ひしと固く握手をかわし、肩を抱き合い、離別した。

 旅はこれまでになくゆったりとした速度で進んだ。

 何度も足を運んだことのある村には、もう二度と訪れることはない。ゆえに、薬屋としてできうるかぎり知識を根付かせておきたかった。

 村を通るたびに、その村に、薬屋の仕組みや理念を説き、何か困ったことがあれば都市だけでなく、そうした者たちにも助けを求めるといい、と言い残した。ときには胡散臭く映り、邪見にされることもある。

 だがすくなからずの村々にはすでに薬屋の恩恵を知る者がいる。そうした者たちが陰に日向に知見を村全体に広めるよう働きかけてくれた。

 長い時間をかけ旅をつづけるとやがて視界のさきにうず高くそびえる山脈が見えてくる。あの先端にアベラがある。秘薬の管理者はまだそこにいるのだろうか。いるだろう。あれはそういう存在だ。

 すこし迷ったが、アベラには寄らずにいくことにした。

 いまさら秘薬に頼ろうとは思わない。

 あれは諸刃の剣だ。

 抜かずに済むならばそのまま安置しておくに越したことはない。

 人々に忘れ去られるくらいに世に安寧が萌えればそれが一番好ましい。

 見覚えのある景観が増えていく。

 長年離れていただけに、どの土地もどことなく変遷して映る。記憶違いか、と自身の記憶力を訝しむことも多々あるが、特徴的な岩肌や、大樹を目にすると、ああそうだった、そうだった、ここをあのとき通ったのだった、と若かりしころのじぶんを回顧する。

 やがて山脈の麓、森林地帯に足を踏み入れると懐かしい都市に行き当たる。以前よりも余裕があるように見受けられる。都市周辺の貧困村の数も減って見えた。

 まずは医師を探す。

 診療を受けるついでに、薬屋を紹介してもらうように頼んだが、話が通じずに早々に追い払われた。ほかの医師にも話を聞く。薬剤の話を持ちかけ、自前の薬を見せると、医師の目の色が変わった。診療時間が終わったら改めて話の場を設けてくれることになった。

 医師はほかにも同僚を席に招いていた。

 話し合いは滑らかに進んだ。

 薬屋の仕組みを話すと、訝しがられた。薬を他人に預けるのは宝石を他人に預けるのと同じこと、そのまま持ち逃げされれば破産は確実だ。下手をすれば反逆罪として死罪になる。そういった懸念を説かれた。

 そのとおりだと感じた。

 砂漠地帯の都市や村では、相互に交流が盛んだ。不義理を働けばそれだけで生活していけない。反対に、この地域の都市や村ではそもそも交流そのものが持たれない。

 土地柄の違いは大きいようだ。

 風習の違いだ。文化がまず以って異なっている。

 しかし妙だ、とますます胸のうちに湧いた疑惑が結晶する。

 薬屋はこの区域にもいたのだ。

 その者から秘薬の話を聞いた。

 アベラまでの道を教えてもらった。

 妹を、村のひとたちの症状を楽にしてくれた。

 ではあの薬屋は何者だったのか。

 医師たちにはこちらの手持ちの薬を分け与え、加えてこの区域では見かけない治療法を伝えた。

 ふしぎなのは、彼ら彼女らでも知っているはずの治療法を、彼ら彼女らが知らなかった点だ。まるでぽっかりと穴が開いたように、一様に医師たちには知識が欠けていた。

 誰かが掠め取ったような奇異な印象を覚えるが、おそらく解釈の仕方が間違っている。彼ら彼女らから記憶が抜けているわけではない。

 この世界ではまだ、蓄積されていないのだ。

 都市から都市へと渡り歩くたびに、疑惑は確信に変わっていった。

 故郷へと近づく。

 胸騒ぎがする。

 この間、薬屋の同属にはついぞ出会わなかった。

 そして故郷の村に辿り着き、そこでかつてのじぶんにそっくりの少年と、そして妹の元気な姿を目の当たりにした。

 村には活気があり、まだ流行り病に侵されていないと判る。

 村の長に話をした。いずれ病が蔓延する。そのための準備をいまからしておいたほうがよい。

 流れ者たるこちらの意見は長には伝わらなかった。詐欺師とでも思ったのだろう、長居はするな、と釘を打たれた。

 念のために、と薬を置いていく。足りなければ、こんどきたときに声をかけてくれ、と言い添えておく。効果を目の当たりにすればこちらの言い分をすこしは信じる気になるだろう。対価は、次回からで結構、と言い含めておく。

 無償の善意は却って懐疑の目で見られやすい。

 詐欺師の常套句でもあるからだろう、美味い話がそうそう転がっているわけがない。

 だが本来は、無償の善意を無条件に信じられる世界が望ましい。いくつかの悪意のせいで善意が通りにくくなるなど、そちらのほうが土台おかしな話である。

 無償の善意の効能を知れば、みなそちらに目を向けるようになるだろう。そうあってほしい。

 とはいえ、じぶんのしていることが果たして無償の善意なのか、と自問すると、なかなか首肯するには及ばない。

 故郷を離れる。

 またいずれ足を運ぶことになる。

 長い旅に身を置いたあの日を思い返す。

 例の薬屋に秘薬を譲った。

 あのひとはそれを、こちらに持たせた水筒にいくらかそそいでいたのではないか。

 秘薬は時間の流れを超越する。

 傷や疲労を一時的に消す効用があると思ってきたが、それは一側面でしかなかったのかもしれない。

 薬屋の数を増やすべく旅をつづけた。

 数年ののちにふたたび故郷を訪れると、村は惨憺たる有様だった。流行り病に毒されている。置いて去った薬を長はついぞ使わなかったようだ。

 なんとなくそうなるのではないか、との予感はあった。

 じぶんのときがそうだったからだ。

 我が身とよく似た少年は、病に苦しむ妹をかいがいしく看護していた。

 宿泊させてもらう代わりに薬を譲ると申しでると、少年は快く家に招き入れてくれた。

 薬屋と会うのは初めてではないようだった。ほかの面々もまたこの村に足を運んでいたようだ。それでいてこれほどの衰退ぶりは尋常ではない。村の長が薬屋の話に耳を傾けなかったのではないか、と穿った妄想を浮かべる。少年はついぞ、村の長から薬の話を聞かずにいたそうだ。

 秘薬の話をしてきたのは少年からだ。アベラの秘薬については誰にもしゃべっていない。それを知るのは、それをそのむかしこちらに教えてくれたあの薬屋だけだ。旅のあいだも秘薬については、ほかの薬屋たちにも話していない。

 おそらくは、みな万能薬を夢見ているのだろう。

 誰もが思い浮かべる夢物語だ。

 そんなものがあればよいなとの祈りが、噂となって、人から人へと伝播する。

 少年もまた信じてはいないようだった。だがやはり、ありもしない幻想に垣間見える一筋の救いを信じたい気持ちがあるのだろう。小馬鹿にしていながらも、そこには何かしら夢に縋るような響きがあった。

 だからだろうか、

「秘薬はある。ただ、お勧めはしない」

 どこかで耳にした言葉を口にしている。

 少年との話の流れでアベラまでの道のりを食卓のうえに刻んだ。

 少年は旅支度をその日のうちに済ませ、翌日には村を発った。

「兄さんは?」

 妹は何も知らされずに、兄との離別を悲しんだ。見送りもできなかったのだ。捨てられたのだ、と言葉にこそしなかったが、そう気を病んでいたのはたしかに思えた。

 少年は妹の世話を村のほかの者に任せていったが、少年が村をでた十日後には、少女のもとに通う者はいなくなった。

 死にかけている幼子だ。それも身寄りもない。旅にでた少年にしたところで無事に帰ってくるのかも分からない。村の食料や薬は、人が減ればそれだけ浮く。村からでていく者を誰も引き止めはしない。

 少女が不憫だった。

 少年の家は薬の対価としてすでにもらいうけている。あとは少女の世話を買ってでるだけだ。あとで因縁をつけられたら面倒だ。少女の見受け金を村に払った。

 厄払いできたうえに銭を得たと素直によろこんでくれればこちらとしても清々したところを、村人はそこはかとない罪悪感をまとい、ときおり様子を見に来るようになった。

 少女はやはり村人の顔を見ると心が晴れるようだった。

 桶の水を覗きこむ。

 そこには顔中傷だらけの、獣じみた男が映っている。いくら口で安全だ、安心しろ、と言ったところでおいそれと信用はできないだろう。ただでさえ怖がらせると思い、少女に率先してしゃべりかけたりはしていない。

 薬の調達のために月に一度は数日のあいだ家を空ける。ほかの薬屋がこの村に訪れても、病人全員分の薬を分け与えられるわけではなく、また全員が薬を購入できるほどに蓄えがあるわけでもない。

 少女によくすればおこぼれをもらえると考えたのか、こちらが家を留守にするときには少女の世話を引き受けてくれる村人が出始めた。

 しかしそれも少女の病状が悪化すると、家のなかに入るのすら拒むようになった。

 当然の配慮だ。

 病は移る。

 罹っていない者であれば、病人に近づかないのが一番だ。

 本来であれば病人を一か所に集め、看病する者を限定するのが治療を行ううえでは妥当だったが、医師がいないのでは却って病の蔓延を早めるだけだ。各々、家のなかで病人を看病し、できるだけ相互に関係を持たないようにするよりいまは術がない。

 情報が共有されない理由はそこにあるのかもしれない。病人を怖れるがあまり、他人と関わらなくなる。真実に情報を必要としている者ほど、人との関わりから切り離され、そのまま死へと突き進む。

 やはり適切な治療を行える土壌を築くほかに有効な対策はないように思えた。

 都市が各地の村から医療の仕組みを奪っている。そしてその事実すら村々の者たちは知りようがない。

 少女は薬のおかげか、徐々に回復に向かっていた。この流行り病は治るのだ。治療さえ受けられれば、誰であっても死なずに済む。だがその治療をまんべんなく行えない。

 余力の問題と言えた。

 誰を生かし、誰を死なせるか。

 そうした選別が、どの村でも平然と当たり前のように行われている。話し合いの場が設けられることすらない。暗黙の了解で、村にとって必要のない者、足手まといになる者が優先的に死へと追いやられている。

 それは風のように目に見えず、それでいて風と同じくらいにたしかにそこここに介在する流れだった。

 これもまた流れか、と思う。

 善し悪しはないのだ。流れはただ、そこここに顕現する。それをして流される人間の営みが、どのような方向に移ろうのかが肝要なのだ。流れそのものの善悪を論じてもおそらくさほどに益はない。

 薬屋の会合を開いた。薬だけを配っていても埒が明かない。誰でも治療の受けられる都市をじぶんたちの手でつくらねばならない。

 いまはどの都市も武力に割く余力はない。

 医療で優位に立てれば、ほかの都市とも交渉の余地が生じる。各都市との医師たちとも連携がとれれば、世のなかの流れは大きく変わる。いまある現実の行くさきもまた変わっていくはずだ。

 そのために、これまで以上の連携がいる。足並みはそろえなくていい。各自、目のまえの困った者を助けるためにできることをしていこう。ただし、見据えるさきの方向を、どこに向かって進んでいるのかを、いままで以上に振り返り、振り返り、進路が曲がっていないかを確かめてほしい。

 そのような旨を述べた。

 都市を築くためには、広域で地盤のしっかりした土地、肥沃な土壌、資金、人材が要る。都市の大半の人口は最初のうちは病人で埋まるだろう。だがいずれも他人の痛みの判るよき民だ。病さえ克服すればどの都市の民よりもしあわせのために生きるだろう。じぶんのしあわせを掴むために、なすべきことが判るだろう。病人を切り捨てるのが当然の世のなかでは、じぶんはけしてしあわせにはなれない。それを知る者たちだからこそ、築ける都市があるはずだ。

 そしていずれは、病に罹らずとも、そうした他者を想い生きることが当たり前の流れができていくかもしれない。それはそれで何かしら問題がでてくるだろう。流れそのものに善悪はおそらく関係がない。ゆえに、どこに向かうのかが肝要なのだ。

 繰り返しそう述べる。

 まず目指すべき経由地に指針を定める。そのあとのことは、そのときになって考えればよい。

 まずはそこ。

 動かねばならぬ。

 このままじっと耐えしのんでいてもさきがないのだから、動くよりないのだ。

 兄に置いていかれた少女は立って歩けるまでに回復した。村の長はとっくに病で亡くなっており、いまではその娘さんが村の長の役目を引き継いでいる。とはいえ、やることは限られている。村同士での交流がなければ、旅人も寄りつかない。順調に死の村と化しつつあった。

 家畜がいるだけまだほかの村よりかはマシかもしれない。

 思い切って、土地を移らないか、と申しでる。都市をつくるのだ。こちらの展望を話して聞かせた。

「病人はどうするのですか」

 娘の瞳は、置いていくなら話はそれまでです、と訴えていた。

「もちろん連れていく。そのためにも薬を病人分配りたい。家畜のいくつかを売ることになるが、どの道、土地を移るなら全部を連れてはいけない。減った分は山で狩ることもできる。このままこの土地で滅びるのを待つよりかは道は拓けるように思うが」

「なぜそこまでこの村に尽くしてくれるのですか」

「どの村でも同じことを言われるよ。ひとを助けるのに理由がいるのかい」

 娘の目は揺らいだ。下唇を噛み、天井を見上げ、それからもういちど唇を舐めると彼女は、いりますね、と言った。「酔狂で施される善意には責任がありません。軽々ひとに施せる時点で、気分によっては軽々取り上げられるでしょう」

「一理ある。だが本当に助けになりたいだけなんだ。そしてそれがふつうの世のなかになるとよいと思っている。ただ、なぜこの村が最初なのかについては理由がある。信じられないかもしれないが、私はこの村の出身だ。ここは故郷なんだ」

 娘はいくつか質問を寄越した。この村についてのことだ。難なく答えたこちらに娘は目をしばたたかせた。半信半疑ながらも、この村の身内という話は呑みこんでくれたようだ。「まずは薬を用意してください。そのために家畜が入り用なら好きに使ってください。病人を助けるとあなたは言ってくださいました。まずはそれを証明してください」

 儼乎な口吻で言い切ると娘は襟を正し、

 村を助けてください。

 頭を下げた。

 こちらもそれに習ってお辞儀をする。礼儀作法に頓着はないが、なにかしらを交わせた気にはなる。

 段取りがつくと、村の移動はとんとん拍子で進んだ。薬さえあれば病人の多くは自力で歩けるまでに回復する。家財道具はなるべく持っていかない。まずはつぎの土地に全員無事に送り届けるのが先決だ。

 移住は容易ではない。短くない旅になる。

 必要な物は、体力のある者があとで小分けにして運べばいい。どの道、村同士での交流を築いていかねばならない。行きかう道そのものの整備もいる。簡単な関所もいるだろう。病が引けば、貧困が残る。治安は一時的に悪化すると予測できる。

 これから築いていく都市は、ほかの村々との繋がりによってその流れを維持する。ほかの都市のように独立はしない。完結はしない。排他しない。

 薬屋の拠点にする。旅のあいだ薬草の種を集めてきた。ほかの薬屋にも集めるように通達してある。種だけではない。薬の作り方や、医療の知見、医師たちの評判など、さまざまな情報を集め、共有している。

 栽培師や医師にも話をつけている。

 医師としてすでに都市に雇われた者を引き抜くことはできないが、その弟子たちならば話は別だ。

 医師の卵を受け入れる。みなでゼロから育むのだ。

 うまくいくかは判らない。だがどの道、崩れいく定めのなかにある。死ぬときは死ぬ。なればやれることをやって、人として死んでいきたい。

 大きな腐敗の流れにはうんざりだ。

 流されるだけなら枯葉と何も変わらない。

 人は泳ぐことも、流れを新たにつくることもできる。

 村の移住を完了させたのは、我が身にそっくりな少年が村を発ってからちょうど二年が過ぎてからのことだ。

 そろそろかと思い、無人の村を訪れる。

 幾日もしないうちに少年は帰還した。疲れきった顔をしている。

 墓を見てきたのだろう。そこには村人の名前の刻まれた墓石が並んでいたはずだ。

 彼の妹の名もそこにある。

 むろん本人は生きている。

 村ごと移住したと知れ渡れば都市部から偵察隊がやってくる。そのため、村は病で滅んだことにしておく必要があった。都市の運営陣がもっとも避けたい事柄の一つが、近郊の村の民が押し寄せることだ。病気を撒き散らすだけでなく、都市の秩序を脅かす。

 都市周辺にはただでさえあぶれた貧困層が独自の居住区をつくっている。そこにさらによそ者が大勢加わるのはせき止めた川に濁流が押し寄せるようなものだ。都市の者たちにはそのように映るのだ。

 野盗に見せかけて、移住中の旅群を討伐するといったわるい噂も耳にする。そしておそらくそれは事実の一側面を言い当てている。

 旅をして学んだことのいくつかには、都市に住まう人間たちの慈悲深さと冷酷さが含まれる。同族には温かく、そうでない者には情を割く素振りもみせない。都市には都市の仕組みがあり、それは見えない根っことなって大陸全土を覆っている。一つどころに収まっていては見えないものがある。

 それらは仕組みとして理不尽な事象の根っこの役割を果たしている。

 そのお陰で都市の秩序が保たれている。

 都市部に住まう者たちにとっては必要な策だ。だがそうでない多くの逼迫した者たちにとっては、救いを求めたその腕を斬りおとされるよりもひどい不条理にほかならない。

 排除にほかならない。

 排除されていることにすらきっと多くの者は気づかずに命を落とすのだ。

 都市には都市の、野盗には野盗の道理があるのだろう。

 そして病人には病人の道理がある。

 すべてが丸く収まる道はないものか。何かがうまく噛みあっておらず、ほんのすこしの組み合わせの順番を変えるだけで、流れの矛先を自在に決められる気がする。

 ほんのすこしを、みなでいっしょにするだけでよい。

 そのためにはやはり、どこを向き、なにを見据えているのかがだいじなのだろう。

 同じ結論をぐるぐると辿る。

 きっとそれだけでは足りないからだ。

 その足りないものを炙りだすためにも、動かねばならぬのだ。

 少年は妹を亡くしたとすっかり思い込んでいる。

 彼は旅にでて、秘境アベラの山頂に立った。そこで秘薬の管理者から秘薬をもらい受けた。そのような旨を彼は語った。旅の道中で見聞きした多くのことに心を痛めているようだった。そしてそのことをじぶんでは気づいていないらしい。

 秘薬を預かってくれ、と少年は小瓶を差しだした。食卓のうえに置く。そこには地図が刻まれている。アベラへの道だ。この手で刻んだ。

 少年はまた旅に身を置くと告げた。

 夜、少年が寝静まってからこれからのことを考える。

 彼にしてやれることは何か。

 けして安らかな旅ではない。過酷な旅だ。もういちどそれを歩めと言われたら腰が引ける。そしてその道を少年が辿ると知りながら、黙って送りださねばならない理由もまたしかと理解している。

 流れの一つなのだろう。

 変えられないものだろうか。

 手には少年から譲り受けた秘薬がある。

 試しに一滴を食卓のうえに垂らし、木片で薄く伸ばす。食卓に刻まれた地図がまるでミルクの薄膜を取り払うように消える。

 本物だ。

 それはそうだ。あのときじぶんは薬屋に本物を渡した。

 その相手が誰かも知らず。

 少年のために手持ちの干し肉と水筒を置いておく。どれもじぶんには必要ないものだ。

 水筒に秘薬は混ぜずにおく。

 きっとあのときのじぶんは秘薬をそれに混ぜたはずだ。

 だがもっとよい方法がある。

 まっさらになった食卓に、もういちどべつの地図を刻む。村の移転先だ。旅を経た少年ならば簡単な図式でも自力で辿り着くだろう。妹は生きていると伝えようかとも迷ったが、いまの彼ならば却って足を鈍らせる。

 妹はきみを恨んでいない。いまでも帰りを待ち望んでいる。

 そうと伝えるには、少年の費やした苦悩は深く、そしてきっと本人からじかに聞くしかその呪縛を解く方法はない。さいわいにも少年には会うための足がある。何にも増して、妹のほうでは彼にそそぐ言葉には際限がない。いくらでも少年の胸に開いた穴を塞いでくれるはずだ。

 あとは彼らの問題だ。

 なんとかなる。

 なんとでもなる。

 流れは新たな溝をつくり、絶えず乾いた土地に潤いを拡げはじめている。

 窓のそとを見遣る。

 ほんのりと明るい。

 夜の帳が開けはじめている。

 小瓶の蓋を開け、半分ほど口に含む。無味無臭だ。

 もっと多いほうがよいのだろうか。分からない。時間が戻りすぎてわるいということもないのでは、と思い直し、すべてを飲み干した。

 熱い。

 身体が内側から燃えるようだ。

 意識が朦朧とする。

 きっとこのさきの世界では、幼き日頃のじぶんのもとに秘薬の話をする薬屋は現れないだろう。そしてそこでは我が妹が病に苦しむことも、長く苦しい旅に身を置くこともない。なぜなら端から誰もが医療を受けられる仕組みが、流れが、つくられるからだ。

 どの村の人々も病に怯えずに済む。

 そんな流れが当たり前に漂う世のなかになっている。

 そうするように動く者が、ここにいる。

 時代は関係ない。

 薬を運ぶのだ。

 分け与えるために。

 回り回って世のなかをよりよくするそれが源流となる。

 最初の一滴になる。

 こんどは一筋ではなく。

 何度でも、何度でも、流れができるまで。

 秘薬の噂が消えるくらいに。

 森の炎を消し去るくらいに。

 澄んだ一滴を。

 何度でも。




【闇夜のどどど】


 ささいなことで母と喧嘩した。食事の前にお菓子を食べただけだのに、きっと仕事で疲れていて八つ当たりしたかっただけなのだ。ケントは理不尽な母に抗議するつもりで家出をした。

 夕陽が鮮やかだ。

 昼と夜の境目をこんなにハッキリと目にしたのは初めてのことに思える。

 小学校の裏手には森が広がっている。国立公園と繋がっており、森の奥がどこまでつづいているのか、想像もつかない。人の手が入っていないために、奥へ行けば行くほど太古の森を彷彿とし、神秘的であり不気味でもあった。

 ケントは臆病なじぶんを叱咤して、ずんずん進む。友人たちの話では、森の奥には滝があるとの話だった。そこを目指した。

 頭上は木々の葉が覆い、陽が沈むと闇が世界を塗りつぶす。

 拓けた場所にでてようやく今宵は月が眩しいのだと気づいた。

 満月だった。

 ひときわ明るく、地面にも月があった。

 最初に目にしたとき、それは湖に見えた。だが水面に映った月が霞むように揺れていたので、流れがあると気づく。

 ささめく葉の立てる風の音の合間に、どどどど、と水の立てる音がある。

 滝だ。

 歩を向ける。

 緩やかな斜面を登ってきた。道に迷ったらとりあえず下ればいい、と思った。

 不安はなかった。気分が高揚していた。

 滝壺の水面には砕けた波紋が、キラキラと光沢を放っていた。白い花が地面を覆い尽くすかのようだ。

 生ぬるい風が汗をさらう。

 ケントは、歩を止める。匂いがしたからだ。

 風が妙に、香ばしい。

 長く吹き、それから反対のほうへと引いていく。波のようだと思い、そんな風があるだろうか、と引っ掛かりを覚えた。

 滝の、どどどど、の合間に、風の音とは違った音があることに気づく。上空に吹き荒れる強風の余韻のようでもあり、遠い国から聞こえる地響きのようでもあった。

 ケントは後ずさる。本当は滝をこの目にしかと焼きつけてから、いまきた道を引き返そうと思っていた。家出のことなどすっかり忘れて、一晩の冒険のつもりで、楽しい思い出にするつもりだった。

 頭のなかではすでに、布団のなかにくるまれるじぶんの姿を想像していた。

 だがケントは身動きがとれなくなっていた。

 崖だと思っていた。奥に滝があり、それをぐるっと囲む背の高い崖がある。拓けた場所だが、森の木々が見えないくらいにうず高く聳えていた。

 妙だ。

 悪寒が全身を突き刺す。

 夜空と崖の境目が、一定の周期で、上下している。その振幅に合わせて、生ぬるい風まで、引いては寄せて、を繰りかえす。

 ケントは唾を呑みこむ。ゆっくりとじぶんの来た道を振り返った。まっすぐ引き返せば難なく脱せられるはずだ。何かの見間違い、いっときの目の錯覚かもしれない。

 臆病なじぶんを叱咤するよりも、まずはこの場から逃げ去りたかった。

 しかしケントのそうした思惑とは裏腹に、目のまえの逃走経路が、頭上から振りおろされた太く、長い、丸太のようなもので塞がれた。それはよくしなり、波打つように地面に横たわった。

 滝壺から広がる水面を中心として、ぐるっと囲われた。滝の流れ落ちるそこだけが、真実本物の崖なのだとケントはようやく察し至った。

 ひときわつよく、風がうなる。

 巨大な目が、三つ目の満月がごとく、闇夜に開いた。

 翌日からケントは森を抜けて、滝のある場所まで赴くのが日課となった。夕陽が沈んでから、父と母が仕事に疲れてじぶんの余暇に浸っている合間に家を抜けだし、闇を抜けて、空と地に浮かぶ月のきれいな場所に着く。

 ケントが辿り着くと、大きな目が、虚空に開く。まるで空間に突如として出現するみたいで、ケントはその瞬間を目にするのが好きだった。

 足音か、それとも匂いか、目の主は、いつも声をかける前にケントの存在に気づいた。

「食べなかったんだ」ケントは目の主に駆け寄る。昨晩、食べるかと思い、置いて去ったのだが、口に合わなかったようだ。家の冷蔵庫にあった豚肉だ。「お腹、空いてないの」

 目の主は、一定の律動で呼吸を繰りかえすばかりだ。

 言葉が通じているのかは分からない。ケントを見下ろす目は、安らかで、そこに敵意のようなものは感じられなかった。

 目の主は動かなかった。ひと目では視界に収めきれないほどの巨体を持ちながら、未だ一歩もその場を動こうとしない。ゆいいつ尻尾を自在に動かし、ときおり滝の水に浸して、口に運び、喉を潤している素振りがある。昨日まではあった木が何本か消えていたりして、ひょっとしたら草食動物なのかもしれないとケントは推し測る。

 恐竜の生き残りかとも思ったが、背中には身体を包みこむように折りたたまれた翼があり、ケントの知る限り、似た造形は、空想上の生き物にしか当てはまらなかった。

「いままでずっとここにいたの? よく見つからなかったね、こんなにすごいのだから、見つかったら大騒ぎだよ」

 目の主の、鋭くつややかな爪を撫でながらケントは言った。爪はケントの顔が映るほどツルツルで、ゆびで触れるだけでも、それがとてつもなく硬い物質でできていると判った。

 上空からはどう見えるだろう。ケントは想像する。ひょっとしたら、この目の主の翼が、岩に擬態して見え、ケントが思うほどには、外からでは判らないのかもしれなかった。

 滝の周囲に生き物が寄りつかないのだと気づいたのは、ケントが森に通うようになってから半月後、目の主と目が合ってから十六日が経ってからのことだった。

 目の主の身体には苔が生えず、虫も這わない。滝壺は生き物たちのかっこうの水飲み場であるにもかかわらず、いつ覗きこんでも月明かりが水底にまで達するほどに澄んでおり、魚一匹、水草一本、生えていない。

 毒でもあるのではないか。

 ケントは不安になる。しかしやがてゆびを浸け、顔を洗い、持ってきた果物を洗うようになると、なし崩しで口に含み、喉の渇きを潤すようになっていた。これがまた、滝の水とは思えぬほど美味なのだ。家に帰り、水道水やジュースを口にするたびに、はやく夜にならないかな、と滝壺の水への渇望が募る。

 水だけではない。

 空気が澄んでいるのか、滝壺の空間に身を置くだけで、常日頃身にまとっている陰のようなものが薄れる。楽なのだ。呼吸から、気分から、じぶんがいかに普段肩肘を張っていたのかと気づかされるほどで、心なし身体にかかる重力すら軽くなって感じられた。

 目の主が何を考え、どうしてここにいるのかをケントは知らなかった。知ろうとも思わない。関係がないのだ。目の主は終始穏やかで、なんだかケントは力強いものに見守られているようで、包まれているようで、心地よかった。

 気づくと、夜中だけではなく日中にも滝壺の空間に足を運ぶようになっていた。学校を抜けだして行くこともあり、そのことで親から叱られたりもした。学校から連絡が入ったのだろう。どこに行っているのか、と詰問されたが、森のなかだ、と正直に告げた。学校の授業よりもそっちのほうが楽しい、と告げ、学校は窮屈で嫌だと訴えた。

 森のなかで何をしているのか、と親は説明を求めた。正直に打ち明けるのには抵抗があった。目の主がおとなたちに見つかれば、いいや、たとえそれが子どもたちであろうと大騒ぎになるだろう未来は容易に想像がついた。

「生態系に興味があって」

 ケントは聞きかじりの言葉を使って説得した。現に、森のなかで過ごすあいだに、自然がじつに多様なシステムによって縦横無尽に繋がりあっていることに感心していた。

 滝壺の空間に生き物がいないからこそ、森の多様な仕組みに目がいったのかもしれない。

 純粋な土は森にはなく、どこも腐葉土によってふかふかしている。必然、砂利道には草木は生えず、木々のあるところは雑木林となって豊かな生き物の街然とする。川の近くはひときわ草木が鬱蒼とし、虫や小動物を見掛ける頻度が高くなる。

 うさぎやシカやリスを目にしたこともある。遠目にクマも見た。

 そこまで口にすると、

「クマなんて危ない」

 母親がしかめ面をしたので、遠目だったからクマかは分からない、タヌキかも、と言い繕う。

 世のなかの趨勢か、父親はケントの考えを無下にはしなかった。「学校には行きたくなったら行けばいい。その代わり、学校の授業は受けること。リモートでもいまは出席扱いになる。いつ受けてもいい。録画したもので勉強してもいいそうだから、まあ、あとはそうだな。研究の成果をレポートにまとめて、お父さんとお母さんに見せること。それを約束してくれるなら、研究を優先してもいいぞ」

 研究をしているわけではなかったが、父のその提案は好ましいものに思えた。元から学校は退屈で、好きではなかった。一つの部屋にぎゅうぎゅう詰めになっているのも嫌だったし、じぶんの速度で勉強できないのも、なんだか窮屈で、足に重りをしているようでやはり抵抗があった。

 元から教育系の動画は眺めていた。義務教育のように、細かなブロックを積みあげていく考え方よりも、大枠を引いてから、ジグソーパズルのごとく隙間を埋めていく学習方法のほうが性に合っていると感じていた。

 森の自然は、生態系という大枠がある。疑問はそのつど、隙間を広げ、そこに見合う破片をときにじぶんの考えで、ときに本や動画の情報で埋めていく。退屈はしなかった。

 動画は端末さえあればどこでも見られる。自由にできる時間が増えた。こそこそと家を抜けださずに済むようになった分だけ、気が楽になり、視界が広がったような開放感があった。

 自由は素晴らしい。

 端末を滝壺の空間にも持っていくようになり、そこでケントは、目の主が動画に映らない事実を発見した。カメラを向けても、目の主は、単なる岩の壁にしか映らないのだ。動画にしろ、画像にしろそれは変わらなかった。

 ケントはじぶんの認識を信じられなくなった。が、たしかにそこには、巨大な生き物が居座って視えた。

 じぶんだけに視えているふしぎな現象だ。思えば、目の主が尻尾を振りおろしても、地面にはなんの跡もつかなかった。

 目の主を納めた画像を父や母にそれとなく見せてみたことがある。やはりそれは、画面に映ったままの姿として、言い換えれば単なる岩の壁として、両親の目には映っているらしかった。

 正しい認識だ。画像には、巨大な生き物など映ってはいない。しかし滝壺の空間へと足を運べば、そこには見紛うことのない現実として、巨大な生き物が息づき、荘厳な気配を発しているのだった。

 ケントは誰かをこの場に連れてきたい衝動に駆られた。確かめてみたい。これがじぶんの妄想ではない、と。確固としたその証をケントは欲するようになった。

 しかし、ケントがそれを実行することはついぞなかった。

 真実がどうかよりも、この場所にじぶん以外の者が立ち入ることのほうが、嫌な気がした。そして、そう考えるじぶんの思いが、なにやら滝壺の空間に似つかわしくのないよどんだ空気を孕んでいることにも、なんとなくではあるが、思い到っていた。

 お気に入りの場所である。それは間違いない。だがこの場所はじぶんの物ではない。それもまた同じくらい確かだった。

 じぶんの我がままで、ここをこれ以上荒らすのはよくない。心が痛む。そう判じた。

 というのも、すでにじぶんが部外者であり、この場を荒らしている存在なのではないか、邪魔者なのではないか、とケントはたびたび申しわけなさを感じていた。

 すこしでも目の主が嫌な素振りを見せたら、もうここにはこないようにしようと決意していた。だが、目の主はケントのそうした思いを汲んでいるかのごとく、泰然自若と鷹揚に佇んでいた。

 ケントが滝壺の空間に入り浸るようになって一年が経とうとしていたころ、それは勃然と起こった。

 まずその変化に気づいたのは、各国の困窮者だ。貧困から飢餓から難民と、あすの暮らしすらどうなるのかが判らない人々がつぎつぎと死に絶えはじめた。次点で、ニュースサイトがそうした事案を取り上げるようになり、ビジネス街がにわかに騒然としはじめたころにはすでに、全世界の国という国で、原因不明の死者が多数報告されるようになった。

 連日媒体を問わず、その同時多発的大量不審死について報道された。

 ケントは戸惑っていた。

 みなが何を言っているのかが解らなかったからだ。

 何を言っているのだろう、みなは。

 あんなにハッキリと死を撒き散らしている根源がいるのに、なぜ見て見ぬふりをしているのだろう。

 それは動画にも、画像にも、ハッキリと映り込んでいた。ケントにはそれが、虫の群れのように視えていた。しかし群れは、右往左往と揺らめきながらも、ある一定の輪郭を保っていた。鳥の群れや、魚群のように、輪郭そのものは不安定にうねりながらも、巨大な獣のように、四肢を動かし空を舞い、頭部を駆使して、都市という都市を呑み込んでいた。

 巨大という一点でそれは目の主と似ていた。しかし、目の主よりも遥かに大きく、ケントの住まう街くらいならば十歩と言わずして横断してしまいそうなくらいにうず高く、幅があった。厚みがあった。

 バッタの群れのようだ、と改めて思った。

 分厚い曇天のごとく都市という都市を覆い、死を振りまく。

 元凶は一目瞭然でありながら、ケントにはどうすることもできなかった。ほかの人々にはやはり視えていないようであり、父や母に訊ねてみても、不吉なことを言うもんじゃない、といった訝しげな顔をされるだけであった。

「あれはよくないものですか」ケントは目の主の爪を抱きしめるようにして、縋りつく。声をかけても返事はないし、気持ちが通じるわけでもない。ただ、そうする以外に安心する術がなかった。「あれはここにもきますか。ぼくたちもみんな死んじゃうんですか」

 そんなのは嫌です。

 じぶんが死ぬよりも、父や母が死ぬ姿を見るのが嫌だった。世界的に、子どもよりもおとなが死ぬ確率のほうが高いようだった。

 ケントはその日、家に戻らずに、目の主に身体を預け、眠った。夜を過ごした。ヒンヤリした、それでいて身体の芯からぬくぬくした温かさから離れたくなかった。

 本当はただ、家に帰ったら居間で父や母が死んでいるのかもしれない、と思うと、その姿を見たくないだけかもしれなかった。

 身体が軽い。浮遊感がある。

 夢心地にケントは、身体の輪郭を風がなぞるくすぐったさを覚えた。

 ぼくはいま、空を舞っている。

 そんな夢を見た。

 目覚めると、ケントはがらんとした空間に寝そべっていた。明るく、緑が目にやさしい空間だ。広々としており、水の流れる音がする。青空がずっと奥にあり、鳥のさえずりがそこかしこから聞こえた。

 上体を起こす。

 木漏れ日が芝生のうえに網の目を描いている。

 野原にいた。泉がある。周囲を木々が覆っている。泉は崖と接している。

 ケントは寝ぼけていた。見知らぬ場所にいると思った。しかし既視感がある。

 徐々に覚醒しはじめた意識は、いまいる場所が、見慣れた場所であるとの認識を色濃くさせた。

 あるべきものがなくなった世界だ。

 目の主がいない。

 巨体が、岩肌が、囲いが、失せていた。

 滝もまた消えていた。滝壺は単なる泉と化しており、生命の息吹のいっさいが感じられなかった聖なる域は、芝生の覆った生き物の気配のさわがしい森の一部となり果てていた。

 ケントはしばらくその場で呆然とした。よたよたと歩き回り、ひとしきり見て回ると、森を抜け、自宅へと帰った。

 玄関を開けると、母が血相を変えて現れた。叱られると身構えたが、母はケントの身体を抱きすくめ、どこ行ってたの、と声を荒らげた。しばらくすると父が帰宅し、ケントの姿を目に留め、息を大きく吐いた。

 聞けば、ケントは一週間ほど家に戻っておらず、父と母は警察にも捜索願を届けでていた。それにしては家のなかは静かだった。

 家だけではない。

 街中がしんと静まりかえっている。森からの帰路にも人影を見た覚えはなかった。

 たいへんなことになった、と父は言い、いままでどこにいたの、と母は繰りかえした。

 ケントの記憶では、家を留守にしたのは一日だけだった。両親の話とは齟齬があるが、日付けはたしかにケントの記憶よりも一週間ほどあとのものになっていた。

 時間が飛んでいる。

 思えば、あの場所も、一晩で緑豊かな土地になるのはおかしな話だ。目の主が消えたことと無関係ではないことくらいは理解できた。滝が消えたのも不可解だ。

 どこまでがじぶんの妄想で、錯覚で、記憶違いなのか、が不明瞭だった。

 外出禁止を言いつけられ、ケントは部屋に閉じこもる。端末を駆使して、情報を漁った。

 世界各国を騒がせていた巨大な死の影は、徐々にではあるが薄れつつあった。動画にしろ、画像にしろ、そこにはやはり輪郭の定まらない四足の獣じみた影が映っていたが、それは都市を丸ごと呑み込むほどの大きさではなく、はぐれた雲のような、ビルの影のようなものに変わっていた。

 相も変わらず、その影の現れた地域では、死者が多数報告された。しかし着実にその数は減り、連動して四足の獣の影も縮んでいった。

 いいや、因果が逆なのだ。四足の獣の影が縮んでいるから、世界中で同時多発的に生じた謎の集団不審死が収束しつつある。

 それからひと月ばかりが経過した。そのあいだケントは家のそとにでず、両親も、近所のひとも、いいや世界中の人々が何かが通り過ぎるのを待つように、台風の夜のように、ひっそりと暮らした。

 間もなく、蝉の声が分厚い層となって窓のそとを塗りつぶす。

 初夏の夜、ケントは、大地ごと屋根を揺るがすような音に驚き、飛び起きた。動悸が高鳴っている。声は、獣の呻り声のように、或いは遠吠えのように、長く、太く、轟いた。

 雄叫びのようでもあり、悲鳴のようでもあった。

 階段を下り、両親の寝室に飛びこむ。謎の音は風にかき消されそうなほどちいさくなっていたが、まだ消えてはいなかった。

「どうしたの」母が腕を伸ばし、顔を撫でた。「こわい夢でも見たの」

「この音はなに」ケントは天井を指差す。夜空に轟く音の正体を訊ねたつもりだ。

「どの音?」母が言い、父が明かりを灯した。「おいで、いっしょに寝よう」

 聞こえていないのだ。ケントは察した。寝ぼけたみたい、と言い添え、じぶんの部屋へと戻る。父も母も、そうおやすみ、と呆気なく見送った。

 ケントは着替えて、下の階の様子を窺う。

 両親が寝静まるのを待って、屋根伝いにそとに下り、例の場所へと向かった。街を抜け、森を抜け、滝壺のあった空間へと走った。

 泉が月光の灯りを浮かべている。闇夜の森にあって、そこだけが煌々と淡い光を放っている。

 水の溢れ落ちる音がする。どどど、とそれはちいさく、細切れに響いていた。

 神聖な空気が、冬の朝靄のような希薄さで足元に漂っている。

 完全ではない。

 完全ではないが、またあのころのような特別な場所に回帰しつつあるのだとケントは思った。

 予感があった。だからきた。

 それは、泉に尻尾を垂らし、芝生のうえに寝そべっていた。

 ちいさい。

 月光を受け、白い毛並を神々しく輝かせるその見たこともない生き物は、近づく足音を気にする素振りもなく、ケントが手で触れるまでその場にじっとしていた。

 手で撫でつけると、白い毛並のその生き物は、いちどだけ目を開け、それからすぐに閉じ、心地よさそうに、ごろごろと喉を鳴らした。遠雷のようなその音に、ケントはなぜか無性に泣きたくなった。

 おかえり、おかえり。

 ケントはただただ胸のなかで唱え、赤子を寝かしつけるように、子猫をあやすように、撫でつづけた。

 朝陽がゆっくりと昇っていく。

 芝生の朝露がキラキラと陽の光を反射している。

 森の匂いが風に乗る。水の溢れ落ちる音はない。鳥の声が頭上から、それとも木々の奥から、賑やかに聞こえている。

 朝だ。

 ケントは手のひらを見る。

 ちいさな、幼い手があるばかりだ。

 ひとり、泉のほとりに立っている。

 水面に魚が跳ねる。波紋が広がる。アメンボが滑る。水草が、風になびいている。

 蝉たちがいっせいに鳴く。青い空に、白い雲が泳いでいる。

 家に戻ると、母が玄関の向こうに仁王立ちしていた。

 詰問を受けたが、散歩をしてきたと言い張り、この日は粘り勝ちした。

 父が見ていたニュースでは、遠い国の荒野に、突如として巨大な瓦礫の山ができた、と報じている。現地の人々が集まり、瓦礫の山を眺めている。上空からの映像だろう、俯瞰の視点でその様子が映しだされた。

 それはまるで、大小さまざまな岩でできた、四足の獣のようにケントには視えた。父や母にそのことを言ってみたところで、生返事をもらうだけだろうと思い、黙っていた。

「昨日は寝ぼけて、今朝は散歩。つぎはまた家出かな」

 母がぼやきながら、父のつくった朝食を運んでくる。ケントはそれを手伝い、もうしないよ、と約束する。しばらくは家でゆっくりする、と言うと、いまは夏休みだものな、と父が言い、まだしばらくはたいへんそうだよね、と母が付け加えた。

 ケントは席に着く。

 いただきます、と言って手を合わせ、何かを祈るように、息を止める。瞼の裏には、闇夜に開いた三つ目の満月と、耳には、どどど、と溢れ落ちる滝の音がよみがえる。手にはまだ、白くやわらかな毛並みの感触が残っている。 




【失恋捏造記】


 空馬(くうば)雨季雄(うきお)が転校生としてナツミのクラスにやってきたのは残暑の厳しい夏休み明けのことだった。

 中学校生活もあと半年という段になってからの転校生で、微妙な時期にきたものだ、と誰もがどこか当惑気味に迎え入れていた。空馬雨季雄は、ナツミの知る限り、しばらくのあいだはクラスに、いいや学年全体に馴染めずにいた。

 時期がわるい、とナツミですら思った。もっとはやく、せめて三年生になった時期にきていれば、みなも学友として最後の一年間を共にすごし、思い出を分かち合おうとしていたに違いない。

 だが異物たる転校生を身内と見做すには機が熟しすぎていた。思い出をこれからいっしょに築いていこう、同じ仲間として、同窓生として、最後の学校生活を味わい尽くそう、と思えるほどには、みなの精神に余裕はなかった。

 ただでさえ受験が迫り、みな内心、進路への不安でピリピリしている。友人と慰め合い、ときに励まし合い、或いは下らないおしゃべりをして現実逃避をし合うなかで、何を言えば怒り、それとも笑うのかの線引きすら曖昧な転校生という存在は、異物以外の何物でもなかった。

 空馬雨季雄は孤立していた。ナツミの目からしてもそう見えた。空気が読めない、と学友たちからしばしば笑い者にされるナツミであったが、それでも友人がいる。クラスにあるいくつかの輪の中に入っていられる。

 やっぱり転校生は異質なのだな、と可哀そうに思っていたが、ナツミのそうした所感もしばらくすると、なにも彼の孤立の要因は、転校生という属性だけではないのではないか、と変質しはじめた。

 というのも、空馬雨季雄の話題はそこかしこで、生徒たちのあいだに膾炙している。どちらかと言えば、クラスで彼のことを気にかけていない者は皆無と言えた。

 しかし、誰も関わろうとしない。話かけようとしない。

 近寄りがたいのだ。他人との交流を拒んでいるわけではないのだろう、それはナツミにも判った。

 空馬雨季雄はどちらかと言えば、他人から好意を寄せられやすい顔カタチをしているし、それでいて物静かで、自己主張を極力せず、しかしここぞというときには意見を口にするが、かといってその意見を押し通そうとはしない。じぶんから他者へ干渉するときはたいがい、じぶんが困っているときか、誰かが困っているときで、おおむね他者が問題を抱えたときに、それとなく声をかけ、さりげなく周囲の者に協力を呼びかけ、解決している。

 問題が解決するときにはすでに、その渦中から遠のいているために表立って称賛を浴びることはないが、声をかけられた者が増えれば増えるほどに、あれは本当は彼のお陰なんだよ、と内心の戸惑いを覚え、ますます彼への関心が増す。

 ナツミが具合をわるくしたときもそうだ。誰も気づいてくれなかったそれに、空馬雨季雄だけが気づき、声をかけてくれた。生理のせいだったために、なかなか友人に言いだせなかったのだ。というのも、ナツミはまだ生理がきていないことになっている。なぜそんな歪んだ認識がまかりとおってしまったのかは不明だが、たしかに中一の終わりまでは友人たちのなかでただ一人初潮を迎えていなかった。なんだかみんなから、だいじょうぶだよこなくても問題ないよ、あんなの痛いだけでうらやましい、とまるで手のひらに握った小鳥の頭を撫でるような扱いを受けて以来、なかなか言い出せずにいた。

「がまんはよくないよ」

 見透かしたように空馬雨季雄は言った。体育の最中だというのに、教師に進言し、保健室にいく口実をつくってくれた。保健室から戻ると、クラスメイトたちはナツミが足を挫いたらしいと勘違いしていた。いいや、きっと転校生の彼がそのように言い繕ってくれていたのだろう。教師も彼の弁の意図を汲んでいるのか、休んでいるといい、と言ってその日の体育はみんなの姿を眺めながら小学生ぶりに砂いじりをした。ダイヤモンドみたいな砂粒を集めていると、あっという間に時間が飛んだ。

 秋も深まり、推薦組がぽろぽろと進路を確定させはじめたころ、ナツミは何か言いようのない違和感を覚えていた。正体不明の引っ掛かりが、ふとした拍子に、夢から覚めるような心地を抱かせる。

 あれ、なんかいま変だったな、とときおり不意に思うのだ。

 だがその違和感はいつも、寝起きに夢を思いだそうとするときのような、霧散して掴みどころを失くしていく気持ちわるさと引き換えに途絶える。

 落ち葉が通学路を埋め尽くすころには、ちいさなそれら「あれ?」は気泡のようにパチパチと弾けては消えるを繰り返し、いつしかナツミはその正体を探ろうと気を張って過ごすようになった。それはたとえば、祖母の物忘れが増えはじめて、これってひょっとして認知症ではないの、と警戒するような僅かな、しかし無視できない生活の、意識の、変容だった。

 違和感を覚えるのはたいがい誰かと言葉を交わしているときだ。誰かの話を聞いて、数人で笑い声をたてているときに、何か変だな、と頭の片隅で思う。ナツミはこれまでに数回ほど、友人たちにその違和感のことを打ち明けてみた。一様に、なにそれ病気じゃないの、とジョークのように言われてしまい、そうかもしれん、と神妙にうなづいてみせ、取り繕った。

 だが、不意に訪れる違和感は、日に日に増えていく。

 授業中にもそれを感じるようになり、いよいよとなってナツミはその正体に目星をつけた。

 違和感を覚える直前には、おおむね誰かが、言いよどむのだ。そしてこれまでの脈絡とは別の話に転換する。脈絡が逸れる。べつだんおかしくはない。誰だってそういうことはある。よしんば話が逸れたとして、では逸れなかったらどのような話に膨らんでいたかなど、聞き手側には分からない。

 だからこれは、ナツミがかってに引っ掛かり、気にしているだけの些事のはずだった。

 しかし、ナツミにはそれがどうしても、欠落に思えてならなかった。

 理由はいくつかある。

 一つは、話題が逸れたと気づいたときには、それまでいったいそのひとが何の話をしていたのかを思いだせないことだ。居眠りをしていて聞いていなかった場合でも似たような感覚になるが、そのときはじぶんに過失があると判る。だがナツミの覚える欠落感は、もっと不自然に、まるで積み木のブロックがそこだけ抜けたような、虫食いみたいなもどかしさがあった。

 そう、虫食いだ。

 しっくりくる表現にナツミは、さすがわたし、と自画自賛する。

 欠落がじぶんだけに集中して起きれば、それは単なる物忘れや、或いは病気であるなら若年性認知症の予兆にも思えるが、どうやらこれはじぶんだけに現れるポッカリではなさそうだ、と学友たちの様子を眺めていて、徐々にではあるが、結論付けざるを得なくなってきた。

 みな、何かを忘れていることに気づいていない。何を忘れたのかはナツミにもよくは分からないが、ただ何かを忘れてしまっているのだ、とナツミには察することができた。いつも聞き役に徹している影響かもしれない。

 違和感の正体はこれだ、とようやくナツミが理解したのは、あれほど記憶力のよかった学友が、ことしの学園祭の記憶を部分的に失くしていることに気づいたときのことだ。

「いやいや、そんなんないっしょ」

「貸したよ。ぜったい。ね、そうだよね」

 友人たちが言いあっている。

 聞けば、学園祭のときに貸し借りした衣服があったのだが、いっぽうは貸したと言い、もういっぽうは、そんな記憶はない、と言い張った。意見が食い違っている。

 最初はみな、記憶力のよいほうの言い分を信じた。この三年間、彼女の記憶力は徹頭徹尾、間違いを犯さなかった。クラスの全員が黒と言ったことですら、彼女の記憶により白だったと判明したことがあったほどだ。

 彼女は、衣服を借りていない、と主張した。

 だが数日後に、じつは服を借りていた、部屋を漁ったら、クローゼットに入っていた、とばつのわるそうに打ち明け、謝罪をし、彼女たちは仲直りをした。

 ナツミはそれを眺め、これかぁ、と思ったのだ。

 何かを忘れたなら通常、何かを忘れたとの認識を持つはずだ。だがこれまでナツミが目撃してきた者たちはなべて、忘れたことを誤魔化そうとした。さも、記憶に瑕疵はないが話そうとしていたことのほうが間違いだったと訂正するかのように。

 言い換えればクラスメイトたちはみな、途中で誤解に気づいたように振る舞うのだ。

 だがナツミにしてみれば、彼らの挙動は、みな似すぎていた。せめて一人一人違った反応を示せばまだ、ナツミのほうで気のせいの判を捺せたのだが、どうにもみなこぞって、一瞬ぽかんと口を開けてから、あー、と言い、なんだっけ、と誤魔化しの笑みを浮かべる。

 今回の喧嘩は、記憶を保持しているほうから過去の出来事を持ちかけたので、記憶を失った側が混乱し、強気に反論したことで、騒ぎが大きくなったと考えられる。おそらくは似たような出来事は、単発でかつ小規模に頻発していたはずだ。

 相手が忘れていたら、どうしても譲れないこと以外は案外みな、水に流してしまうようだ。じぶんもそうだ、とナツミは思う。

 現にこうして、じぶんだけがこの違和感に気づいていながら、誰にもそれをつよく意見しようとは思わなかった。

 言っても伝わらない気がしたし、伝えたところで、ではどうすればよいのか、なんて分からない。

 ナツミはクラスメイトたちを観察した。やがて、ある法則に気づいた。

 記憶を失ったような言動をとる者たちは、その直前にみな、例の転校生、空馬雨季雄と接触していたのだ。

 いや、同じクラスなのだから接触していて当然だ。しかし、転校生、彼に至っては、ひときわその接触が際立って映った。それもそのはずで、彼はことさらクラスメイトたちの輪のなかにはおらず、いつも独りで本を読んでいる。

 そんな彼が接触した相手に限って、何かを失念した素振りを、ぽかん、と演じる。

 まるで転校生の彼が、みなにぽかんを植えつけているかのようだ。

 ナツミはよくよく彼に目をつけた。見張る、とそれを言い換えてもよい。

「なぁに、あんた。さては惚れたな」

 ひとの気も知らないで友人たちがからかってくるが、そんなのは無視だ。

 転校生は、相も変わらず、困っていそうなひとたちによく手を貸した。足りない椅子を用意したり、それとなく筆記用具を貸したり、日直がし忘れた仕事を代わりにこなしていたりと、人知れずクラスが穏便に過ごせるように、落ちた画びょうを拾って回るようなしずかなる活躍を継続している。

 まるで人形劇の黒子だな、とナツミは感心する。

 あまりにじろじろ見ていたからか、しばしば転校生と目があった。惚れていると思われたら厄介だな、と思ったが、そう思ってもらったほうが事を荒立てなくて済む。

 ナツミは一つの仮説を立てていた。

 転校生こと空馬雨季雄は、他人の記憶を盗むのだ。

 進学のこの時期、他人の学力を奪えればさぞかし楽ができることだろう。あべこべに、学力を奪われたほうは堪ったものではない。鳶にから揚げを奪われるどころの話ではなくなる。

 友人たちの秘密を奪って、陰で脅すこともできる。そうでなくとも秘密をバラせば、いともたやすく他人を破滅させることだって可能だ。

 ナツミは遅れて気づく。

 記憶を盗めるなら、その前の段階で、他人の記憶を覗けるのでは?

 ひとの考えを読めるのでは?

 閃いたところで、転校生と目があった。いまは自習の時間で、受験組が必死こいて問題集とにらめっこをしている。空馬雨季雄はまっすぐとこちらを振り返り、何かを言いたげに、口元だけをほころばす。眉は八の字に寄っていて、困ったなぁ、の意思表示を顔だけで表現しており、この役者め、とナツミは思った。

 放課後、トイレ掃除を終えて、帰りの身支度を整えていると、すれ違いざまに転校生が、ここで待ってる、と言った。

 声をかけられたことにびっくりしたし、ここってどこやねん、と内心に湧いた苛立ちに呼応するように、脳内に学校の近くの公園の映像が浮かんだ。腰が抜けそうになった。これがあの漫画とかでたまに目にする腰が抜けそうになるやつか、と感心したほどだ。

 公園の映像はハッキリと目のまえにありありと浮かんだ。なにより、じぶんの意思でその映像を消すことはできなかった。どかすこともできず、数秒のあいだ視界を塞がれたままで、身体を硬直させているよりなかった。机にしがみつくようにしていたナツミを目撃したからだろう、掃除を終え教室に戻ってきた友人たちこぞって笑い声をあげた。

「卑猥だぞナっちゃん」

「そんなんじゃないやい」

 河原で動画撮ろうぜ、の友人たちからの誘いを断り、ナツミは公園に急いだ。友人たちは川のせせらぎを背に、うつくしく盛った動画を撮って、承認欲求の肥やしにする腹なのだろう。ふんだんに編集し、加工したそれをインターネットという大海原へ放流する気なのだ。なんてたのちそうなんだ。

 公園に着くと、転校生こと空馬雨季雄はブンラコを立ち漕ぎしていた。真顔で漕いでいるので、声をかけずにこのまま帰っちゃおうかな、と逡巡する。

 ナツミに気づいたのか、空馬雨季雄はブランコから飛び降りた。柵を飛び越え、地面に砂埃をたてて着地した。並の運動神経ではない。

 息一つ乱さずに彼は言った。

「ベンチに座って話しましょう」

 それからナツミは彼から、いくつかの話を聞いた。いずれもナツミの疑問や仮説に対応する、ナツミの知りたかった話だったが、いかんせん、途中途中で眠くなるような、理屈っぽい話をされたものだから、ナツミは、うんうん、と必死に食らいつきながらも、意識を百回ほど失いかけた。

「要するに空馬くんは不死者で、みんなの記憶を食べなきゃ生きていけないってこと?」

「ずいぶん思い切ったまとめ方をしますね」

「だってそうとしか聞こえなかったから」

「不死者というところは否定できないので、そうですね、そう言えなくもないです。ただ、記憶を食べる、というのは正しくはないです」

「でも奪ってるんでしょ、わたしたちの記憶を」

 ナツミの予想は当たっていた。空馬雨季雄はクラスメイトたちの記憶を、パンをちぎって食べるみたいに頂戴していたのだ。

「食べているわけではありません。原理的にぼくらのような存在は食事をとらずとも死ぬことがありません。ただ、長く生きすぎたせいか、人格がどうにも人間離れしてしまって。人間として生きていきたいと望むぼくたちのような個体は、みなさんの記憶を戴いて希薄な人間としての核を補強することで、なんとかこうして人間社会のなかに紛れて生きていけるのです」

「それってどうしても必要なことなの」

 食べていかなくとも生きていけるのなら、他人の記憶だってわざわざ摂取せずともいい気がする。ナツミが意見すると、

「ときおりいますよ、そういった個体も」空馬雨季雄は言った。「でもたいがい、そうした個体は社会全体に災いを撒き散らします。世のなかの独裁者や、殺戮者の陰には往々にして自壊者がいると言われています」

「ジカイシャ?」

「長く生きすぎて人間としての核を失った者たちです。人間らしく生きるのはそれなりに窮屈ですからね。制限も多く、自由とは程遠い。人間社会という枠組みに縛られずに生きていくなら、人間らしさなんてものは邪魔ですらあります」

「ならどうして空馬くんはひとの記憶をつまみ食いしてまで、そんな中学生の真似事なんてしてるの」

 見た目はナツミの同級生と似たようなものだが、不老不死だとするならば中身は、ナツミの祖父母よりもずっと歳をとっていることになる。

「人間の記憶にも限界があります。長く生きれば生きるほどに、取りこぼされていく記憶は増えていき、やがて似たような刺激や経験は、記憶すらできなくなります」

「ふうん。たとえば?」

「五感の情報はだいぶ衰えます。苦痛や快楽、味覚や嗅覚、それから命の尊さなんかはまっさきに薄れていきます。人間を見ても、蟻との違いを探すほうがむつかしくなるほどです」

「ウゲ。最悪じゃん」

 言ってから、しまった、と思う。神さまみたいな相手に悪態を吐いてしまった。もちろん空馬雨季雄の話が本当だったらの話だ。

「ええ。最悪だとぼくも思います」

 そう思えるじぶんでありたいのです。

 ナツミはそこで、それが先刻じぶんが投げかけた問いへの答えなのだ、と気づいた。

「できればぼくはこれからもぼくらしくありたいと望んでいます。そのために、申しわけないとは思うのですが、ナツミさんのような人々から、生活に支障のでない規模で記憶を戴けるとありがたいのです。ナツミさんさえ許してくださるなら、これからもいまと同じようにぼくは過ごしていきたいです。もちろん、ナツミさんからの要望があれば可能なかぎり考慮します。おそらく、何かしら至らないところがぼくのほうであったのだと考えています。こうこうこういう記憶は奪わないでほしい、といった助言をいただければ、ぼくとしましてもたいへん助かります」

「そうだよそうそう。けっこうみんな困ってると思うよ。できれば友達同士の思い出には手をださないでやってほしい。あと、知識系。これ以上頭悪くなったらどうしてくれる。わたしだけじゃなく、わたしの友人たちも」

「おっしゃる通りです。配慮が足りませんでした。以後、そのようなことがないように対処します。ありがとうございます」

「あと、これは単純に疑問なんだけどね」

「なんでしょう」

「どうしてわたしの記憶をとらなかったの」

「いえ、ナツミさんからも戴いていましたよ」

「そうじゃなくって」

 内心、やっぱり盗んでやがったのか、と苛立ちを覚えながらも、「今回のこれ。わたしから、空馬くんが怪しいって考えた記憶を消しちゃえば、こうして危険を冒してまでじぶんの秘密を打ち明ける必要もなかったんじゃないかなって」

「ああ、それはそうですね」

 しまった、とナツミは思う。そうだったそうだった、と言って、ここで記憶を消されたら誰も彼を監視できない。他人の人生をめちゃくちゃにできるチカラを持った人間には、そうさせないための目があったほうがよいはずだ。

 ナツミは腕を交差し、拒絶の意を全身で示す。

「いえいえ、そんなことはしませんよ」空馬雨季雄は首筋をゆびで掻く。そういう所作は人間らしくて好感を持てるが、ひょっとしたらそれも誰かから奪った記憶で培った人間らしさかもしれない。

 想像すると、なんだかとたんに目のまえの少年がモザイクのツギハギに見えてきた。

「そもそもふつうは気づかれることがないんです」頭上の街頭が灯る。陽がとっぷりと暮れている。そろそろ帰らんとな、と公園内の時計を見上げながらナツミは、

「何が?」と相槌を打つ。

「ぼくたちは、いわば蚊みたいなものなのです。記憶を戴くときには、相手に奪われたと感じさせない細工をしぜんと行えます。だいたいぼくたちは、ひとつのコミュニティに属せば、すべての人間から均等になるように記憶を戴きますから、そもそも違和感を持つこと自体が、できないんです」

「じゃあ、わたしは」

「おそらくは、ナツミさんの祖先に、ぼくたちのような個体がいたのかもしれません。ほかのひとたちよりもすこしだけナツミさんは、ぼくたちへの耐性があったのだと考えられます」

「それってわたしも長生きになるってこと?」

「そこまで顕著な影響はないと思います。なつみさんのお母さんやお父さん、おじぃさんやおばぁさんはほかのひとたちと比べて歳をとりにくかったりしますか。傷の治りが早かったり、そもそも怪我をしなかったりといったことは」

「んー。ないと思う」

 父や母、祖父母は、どちらかと言えば感情的な人間の部類だ。人間臭さの塊と言ってよい。しょっちゅう言い争いをしては、休日になると仲良くお出かけをしたりする。

 それともそれも、ナツミの知らないところで誰かの記憶を奪っているからこその日常なのだろうか。

「心配はいらないと思います。すくなくともこの街に、ぼくと同じような個体はいません」

「わかるの」

「なんとなくですが、同族の縄張りに侵入すると嫌悪感が湧きます。個を特定するまでの精度ではありませんが、いるかいないか、くらいは高い確率で判ります」

「ふうん。便利だね」

 ナツミはベンチから腰をあげ、背伸びをする。「そろそろ帰るね。楽しかった。ありがとう」

「もし何か質問があればいつでも訊いてください。学校ではでも、なるべく話しかけないほうがいいかもしれません」

「どうして」

「ぼくはどうやらみなさんに避けられているようですので」

「そんなことないと思うけど」

 あ、と思いだし、訊いた。

「記憶が覗けるなら、思考も読めるの」

「ざんねんながら」

「それはどっち」

「読めません。記憶も、覗くというより、浅いか深いか、で選んでいるだけですので。そのひとがたくさん思いだす記憶にはなるべく手をださないようにしています。記憶にもいろいろと領域があるのです。色のようなもの、或いは、味のようなものが」

「じゃあ、さっきわたしにしたみたいに、記憶を植えつけることもできるんだ」

「さっき?」

「ここで待つって言ったでしょ。そのときわたしに見せたじゃん」

 この公園の記憶をさ。

 言いながら、空馬雨季雄がすっとんきょうな顔を浮かべたので、あれ、と違和感が魚の骨よろしく胸の奥に引っかかる。彼は、たいへん上手に、ぽかん、の顔を浮かべてみせている。

「ぼくはちゃんと手紙を渡したはずですが」

 ブレザーのポケットをゆび差され、ナツミは、いやいやそんなばかなことが、とジョークを楽しむような心地で、そこに手を突っこんだ。ゆびさきに身に覚えのない紙の感触が伝わり、動悸が高鳴った。

 紙を取りだす。折りたたまれたそれを広げると、この公園の地図が現れた。空馬雨季雄が描いたものだろう、学校と公園の位置だけが簡略されて記されている。

「これってつまり、そういうこと?」ナツミは曖昧に訊ねた。

「そんなはずはありません。なぜならナツミさんからはなんの気配も」空馬雨季雄は言葉を切った。目を伏せ、深く考えこむ。「ひょっとして、でも、そんなことが、いや、でもそうとしか」

「なになに、怖いんですけど」

 ナツミは遁走の構えを見せる。聞きたい。聞きたいけれど聞いたらあとに戻れなくなりそうだ。毛布を被りながらホラー映画を観るような心境で、転校生、不死者、他人の記憶をかってに貪りマンこと空馬雨季雄のつぎなる言葉を待った。

「きみはひょっとしたら、統合者かもしれない」

「トウゴウシャ? それはどれくらいマズいやつ?」

 病院にいったほうがいい?

 ほとんど縋るようにナツミは訊いた。身体は、公園のそとを向き、いつでも駆けだせる体勢を維持している。

「統合者は、ぼくたち喪失者を一つにまとめられる奇跡の個体です」

「それはえっとぉ」安心してもよさそうな響きに、しぜんと身体が弛緩する。「よろこんでもいいの」

「きみはたぶん」空馬雨季雄は言った。「ぼくたちの記憶を、核を、ひとつにまとめて結びつけるチカラを持っています」

「つまりどういうこと?」

「ぼくたちをきみは、一挙に殲滅できる。やろうと思えば、いますぐにでも」

 ジョークだよね、と反問するも、空馬雨季雄はじっとナツミを見詰めている。呆気にとられた表情を浮かべたままだ。

 なんだそんな人間臭い顔できんじゃん。

 じょうずじょうず、の心境の裏で、ナツミはただただ、そんな話は聞きたくなかった、いっそ記憶ごと消してくれ、と頭を抱えて、へたり込む。

「きみに話すつもりはありませんでしたし、話してもどうしようもなかったので黙っていたのですが」

「じゃあ聞かずにおきますね!」

「いま、現在進行形で、人間社会に仇をなす崩壊者が、徒党を組みはじめているらしいのです。ぼくは無理に干渉すべきではないとの考えだったのですが、それは下手に刺激して暴走されても困るからだったのですが、きみならひょっとしたら止められるかもしれません」

「やんないよ。絶対ヤダからね」

「このままだと世界は、人類は、一人の崩壊者の意のままに、記憶ごと歴史が、社会が、塗り替えられてしまい兼ねません。きみはそれを潔しとするのですか」

「よかないけど、どうしようもないじゃん」

 だってそんな話、いまされても困っちゃうし。

「きみならそれを止められます。嫌ならまた元に戻せばいいんです。きみこそ、人類を、世界を、意のままにできるチカラを有しているかもしれないのに、それを試そうともしないだなんて」

「まだなんもわかんないって言ってるでしょ!」

 ああもう、うるさい。

 画面をスキップするように手を振ると、空馬雨季雄が動きを止めた。あー、と目を虚空に漂わせ、なんでしたっけ、と破顔すると、見事なまでの、ぽかんを演じた。

「なんでもない、なんでもないよ。もう諦める。急に告白してごめんね」

 脳みそを著しく働かせ、受験テストも真っ青の満点の回答を口にし、ナツミは駆け足でその場を去った。空馬雨季雄から遠ざかれば遠ざかるほど、じぶんの影がどんどんと伸びていき、公園をでるころには、薄れて消えた。

 とんでもないことに巻きこまれた。なんだか重くどしがたい罪をなすりつけられたようで、ナツミは家に帰ってからすぐにシャワーを浴び、湯船に浸かり、夕飯を待たずにカップラーメンをたいらげ、母親からの手伝いの要請を無視して、体調わるいの、と布団に潜りこみ、忘れろ、忘れろ、とじぶんにあるかもしれない能力をじぶんに行使すべく、子守唄のように唱えて、寝た。

 翌朝目覚めると、ナツミは胸が痛かった。母親に、学校に行きたくない、と愚痴り、それでも仮病を使えずに、とぼとぼと登校した。

 席に着くと友人が寄ってきた。「どうしたのその顔」

 昨日、好きな男の子に振られちゃって。

 ナツミは言った。

 初めての失恋は途切れぬことのない悪夢に似ていた。寒気に似ていた。ナツミはどこか釈然としない心地で、砂だらけのおにぎりを頬張るようなぎこちなさで、友人に言った。

「思いだしたくもないんよ」 




【ムーバ】


 ムーバは下水道で生まれ、長いあいだ臭気と反響と闇のなかで暮らしてきた。自身のいる場所が下水道なのだと知ったのはずいぶんあとになってから、ときおり差しこむ光の向こう側には自身の住まう空間よりもずっと広い世界があるのだと察してからのことだった。

 ムーバには名前がなかった。全身が艶やかな毛に覆われた黒い生き物だった。長い尾があり、先端は矢じりのようになっている。四つの脚があり、頭部にはツノのような耳がピンと尖って生えていたが、ふだんはくるんと折れ曲がり、お椀型にぴったりと頭の表面にくっついている。一見すると球体の突起物がちょこんと頭のうえに載っているようだ。隙間がない。

 耳に汚水は入らず、黒いつややかな毛並みも、濡れることを知らなかった。汚物の汚れも臭気すら身体に付着せず、ムーバは下水道のなかにあって唯一汚れを寄せつけぬ存在であった。

 ムーバの食料は下水道内に息づく様々な小動物たちだった。ネズミや昆虫が多かったが、ときおりタヌキやハクビシンが棲みついた。ムーバの大きさはそれら獣と比べると二回りちかくちいさく、ゆえに雑食であるほかの獣に食われぬように、足音を察知するたびに汚水のなかに浸かった。

 ムーバは目が見えなかった。つぶらな眼球は有していたが、毛並みに紛れて露出してはおらず、まぶたが備わっていたので、年中つむっている。耳もまた折れ曲がり塞がっているためそれほど視覚や聴覚は敏感ではなかった。

 ただし、全身の毛という毛が周囲の振動を増幅して感知するため、ほかの獣たちよりも暗がりのなかでの認識可能範囲はずっと広かった。可視光線を頼らないため、獣たちの体内の様子も克明に窺い知ることができた。

 壁の向こう側や折れ曲がった通路の奥の様相も克明にムーバの脳内に浮かんだ。まるで脳裡にもう一つの空間があるようで、それはときにいくつも同時に展開された。

 昆虫は複眼を駆使して世界を視ているが、果たしてその一つ一つの目はどのように処理されているだろう。ムーバの脳内に展開される外部情報は、ともすれば昆虫のそれと似ているのかもしれない。

 ムーバは言葉を持たないが、思念がないわけではなかった。じぶんという存在を認識し、それ以外を区別した。

 好奇心旺盛で、暗がりの空間にこれまでにない空気の揺らぎ、波紋を感じると、臆病にも姿を汚水のなかにひそめながら、対象の様子をじっくりと観察した。

 接近すればするほど脳内の像はくっきりと浮きあがる。

 質感や温度、味すら判るようだ。

 或いは物体の振動、音以外にも感知している媒体があるのかも分からない。空間そのものがじぶんの身体のように感じられることがムーバにはたびたびあった。

 ムーバが自身をムーバと呼び、認識するに至った経緯には、光と声と、やはりというべきかムーバに生まれつき備わっていた好奇の欲動が深く関わっている。

 下水道の闇のなかにはときおり、キラキラと熱を帯びた細かなハタメキが柱となってふりそそいでいる。ムーバの毛が感知する振動よりもずっと細かなそのハタメキのそそぐ場所には、決まって洪水のような音の余韻が漏れていた。

 脳内の空間に展開しきれない巨大な世界を感じ、ムーバは畏れを抱いて近づかなかった。

 だがいつの頃だろう、たった一つの細かなハタメキのそそぐ穴のそばを通ったおりに、そこから聞こえた声があった。

 単なる音ではなく、ムーバにはそれが声なのだとハッキリと判った。

 あとになってそれが歌と呼ばれる旋律であることをムーバは知るが、そのときはただただ甘美の衝撃に身体の動かし方を忘れた。自身にいったい何が起きているのかと当惑した。

 逃がれられない引力への畏怖が湧き、忘れがたい好奇の蠢きに衝き動かされた。

 熱を帯びた細かなハタメキは、光だった。

 暗がりの下水道に地上からそそぐ光の筋を、ムーバは辿った。

 恐怖よりも好奇が勝った。

 甘美の声の正体を知りたかった。

 ムーバの辿った道は、とある家の浴室の排水溝に繋がっていた。そこでは一人の女がブラシを片手に、床磨きをしていた。

 地上はムーバにとっては、情報の海だった。下水道が世界のすべてだったムーバにとって、そこはいっさいが光の世界だった。

 身動きがとれなかった。どこに何があるのか、いったい何がどうなっているのかがまるで解からない。生まれて初めての体験に、ムーバの身体は硬直した。

 ムーバは排水溝から浴室を覗いていた。むろん眼球を向けていたわけではなく、全身の毛を通じて、外部の電磁波や音波、すなわちあらゆる物質の波動を感じていた。

 排水溝にすっぽりハマっていたムーバの身体は、浴室の水の流れを止めていた。

 床に溜まるいっぽうの水を妙に思ったのだろう、女は排水溝に顔を近づけた。

 ムーバと女の縁はそうして結ばれた。

 最初はほんのわずかな、接点でしかなかったそれが、女の生来の慈愛により固く結び直されていく未来など、このときのムーバには予想もできなかった。

 ムーバはしばらく、まっさらな世界で生きた。動けなくなり、外界の知覚すら満足にできなかった。

 女から施されたあらゆる献身をムーバは岩のようにただ甘受した。知覚が麻痺していた。外部刺激が加わっていたことすら知りようもなかったのだ。

 女から受けた献身の数々はたとえば、温かいお湯で全身をやさしく洗われたり、ふわふわの清潔なタオルで包まれたり、寝床を用意してもらい、静かで涼しく、それでいて体温の保たれる快適な空間で眠っていられたり、と至れり尽くせりであった。

 下水道を世界のすべてと認識してきたムーバにとってそれは天変地異に匹敵する環境の変容であった。

 初めに戻った感覚は、空腹であった。次点で嗅覚、そのつぎに全身の毛の感覚器官が世界の起伏や色彩、熱源、音、それらをひっくるめた波動を取り戻していった。

 寝床は段ボールにタオルを敷いただけの質素な造りであったが、ムーバにとっては極楽でしかなかった。

 もうここから動かぬ、ここで暮らす。

 あまりの居心地のよさに身体から根が生えたようであった。

 寝床のそばには餌らしきツブツブが置いてあった。女の用意した犬の餌であったが、ムーバの口にもそれは合った。美味、という概念をムーバはそのとき獲得した。

 餌の器が空になると悲しくなった。ムーバの態度があからさまだったからか、女はムーバが意図しないうちに器にお代わりのツブツブを盛った。

 ムーバは警戒をしなかった。

 目覚めてからも、知覚が戻ってからも、或いは寝ているあいだにすら女からは敵意や危険な揺らぎはいっさい感じられなかった。

 警戒をする発想がそもそもムーバにはなかった。寝床にじっとしていれば安全だと考えるまでもなく結論していた。それほど女の献身、慈愛は無条件に深いものであったことの裏返しかもしれず、女がムーバを慈しめば慈しむほど、ムーバのほうでも女への無条件の信頼の念を寄せるようになっていった。

 乞えば美味をくれる。安全で、危害を加えられず、ただただ心地よい空間に身を寄せていられる。

 何より、女から発せられる声音は、ムーバの全身の毛という毛に染みわたり、よろこびとは何かを幾度も繰り返し教えた。

 女はハシュワと言った。女は自身のことをじぶんでハシュワと呼ぶので、ムーバはそれが女の名前なのだと理解できた。加えて、彼女はムーバをムーバと呼んだ。そこでムーバは自身に名前がついたことを知った。ムーバにはハシュワの考えが、色を知覚するように伝わった。ハシュワのような動物の放つ波動には、ほかの獣や小動物にはない、複雑さや起伏が感じられるのだった。

 ハシュワはムーバと向き合わないときでも、家にいるときはよく歌を口ずさんだ。歌が聞こえなければ、彼女が遠くにいっているのだと判断できるほど、彼女がそばにいるあいだはよろこびの渦のなかに身を沈めていられた。

 下水道で延々、汚水に身を浸し、隠れていた日々からは信じられないほどの環境だ。

 もう二度とあの場所に戻りたくはない。

 寝床に齧りつきムーバは、いずれこの場から引き離されるかもしれない恐怖を噛みしめる。

 だがいつまで経ってもハシュワはムーバをそばに置きつづけた。

 家のなかには彼女以外の息遣いはなかった。

 いちどだけ、ムーバは下水道に戻ろうとしたことがある。ハシュワはいつも四角いカチカチと口を開け閉めする物体を持ち歩いていた。興味が湧き、ハシュワが浴室で裸になってお湯を浴びているあいだに、ムーバはそれをいじくった。

 ジュボっと音をたて、それは光と熱を放った。

 ムーバはのた打ち回った。下水道にそんなものはなかった。触れるだけで頑丈な毛が爛れた。

 物音に気付いたのだろう、ハシュワがすぐに顔を覗かせた。そこで水をかけてくれなければどうなっていたことだろう。ムーバはじぶんのさもしい妬心と、向こう見ずな好奇心を恥ずかしく思った。

 こんな失敗をしでかしてしまったらもうここにはいられない。

 浴室の排水溝のまえに立つ。下水道に戻ろうとしたが、そこには蓋がしてあった。立ち往生しているうちに、背後からハシュワのやわらかな手が伸びてきて、ムーバの黒くしなやかな身体を抱きかかえる。彼女は含み笑いを浮かべ、どちたの、どちたの、と甘い波動を発した。

 季節が移ろう。ムーバにはそれが周期的な環境の変容であると察することができた。下水道のなかであっても、似たような変容があったからだ。きっと連動していたのだろう。

 ムーバは徐々に、下水道にいたときと同じくらい、広範囲に知覚を反映させられるようになっていった。家のそとにも、ハシュワのような生き物がたくさんいた。ときにそれは、身を竦めるような恐ろしい波動を発していることもあり、同じようで同じではないハシュワの固有の波動をさらに好ましく思った。

 ムーバはハシュワから発せられる歌や声、波動を一つ漏らさずに感受した。まるでじぶんはそのために生きている気になった。彼女の波動を受け取るだけの存在だ。そんなわけはなかったが、そうであったらどれだけよいだろう、とハシュワのいなくなった空虚な部屋でムーバは無想した。

 ある日、帰宅したハシュワから不安の波動が漏れていることにムーバは気づいた。

 どうしたのか、と足元にすり寄ると、ハシュワはムーバを抱きあげ、黒い毛並に顔を埋めた。

「人攫いかもだって。怖いね」

 ハシュワはよく独り言を言った。もちろんムーバに話しているので、厳密には独り言ではないのだが、返事を期待してはいないのだろう、心情を吐露して終わることがほとんどだった。

 ときどきムーバの反応を欲しがることもあり、そうしたときはムーバはここぞとハシュワにまとわりつき彼女を全身で甘やかした。

「きみは甘えんぼうだなぁ」

 ムーバの気持ちはうまく伝わらない。

 家のそとに出たことはなかったが、外の世界があることは知っていた。外部には波動が溢れている。糸を手繰るようにムーバはそれら波動を辿ったが、果てがないこと以外を知ることは叶わない。種々相な生き物が様々な生活圏で蠢いているのは判ったが、なぜ安全が保たれているのかがムーバにはどうしても理解できなかった。

 明らかに危険な波動を放つ個体がおり、それはハシュワと似た姿カタチをしていた。怒りの波動、殺意の波動、邪悪そのものを帯びた個体がそこかしこに散見された。

 ハシュワは上手にそれら個体と距離をとっていたので、外出を引き止める真似をムーバはしなかった。彼女が家にいないあいだは身体の内側が希薄になった。うれしいはずのツブツブを食べても身体はふしぎと満たされないのだった。

 ムーバはときおり、家のそとで波動が減るのを知覚していた。それは突如、ぶつ切りに途切れるのでどれほど遠くの波動であっても察知できた。風景に穴が開くように個体が消えるのだが、そういうこともあるのだろう、とムーバは考えていた。

 外の世界は、なんでもありだ。

 想像もできない速度で物体が移動し、鳥のように飛び去っていくことすらある。何が正常で何が異常なのかの判断がつかず、ムーバにとってはどんな事象であれ総じて異常な出来事だった。

 ゆえに、突如消える波動を察知しても、そういうものだ、と見做していた。

 しかしそれはどうやら本来、頻繁にあってよいことではないらしい。ハシュワの独り言を何度も聞いてからかように認識を覆した。

「みんなどこに行ったんだろうね。旅行とかだといいな。誘拐じゃないか、事件じゃないか、ってみんな浮かれすぎだと思う。そんなふうに騒ぐから帰ってこようにも帰ってこられないだけじゃないかな」

 どう思うムーバ、と抱きすくめられ、ムーバは黙って毛の一本一本を極限までやわらかくすることに努めた。

 ムーバは気づいていた。

 ときおり地上からハシュワに似た生き物が消えるのを。

 その瞬間を何度も波動として捉えていた。

 みな、地下へと引きずりこまれていた。

 ナニカがいる。

 捉えきれない不穏な波動が足元のずっと奥に蠢いている。ムーバはそれがとても不吉で嫌なものだと感じていた。

 かといって距離があれば安全なことは知っていた。

 世界は危険な事象で溢れている。相手から気づかれなければそれでよく、接触しなければそれで済む。

 何よりほかの生き物たちはムーバのように波動を敏感に感じとれない。ムーバはそのことを間接的に、体験的に、そういうものなのだ、と学んでいた。

 いっぽうてきに覗いているのはじぶんだ。

 対面さえしなければ相手に存在を気取られることはない。

 だからムーバがどれほど危険な存在を察知しても、即座に危機を抱くことはなかった。

 ハシュワの不安は我がことのように、手に取るように伝わっていたが、ムーバにはさほどに気を揉むべき事態ではないと判っていたし、その旨をどうにか教えてあげたいとヤキモキするくらいには余裕があった。

 安全なのだ。

 ハシュワと共に家にいるかぎり、ムーバの至福は揺るがない。

 その油断が木端微塵に崩れ去ったのは、ムーバがハシュワの歌を聴きよう聴き真似で奏でたときのことだ。全身の毛を固く尖らせ、リンリンと擦り合わせて音を鳴らせた。ムーバはほかの生き物のように鳴き声を持たない。家のなかで見掛けたちいさき生き物を真似た。ハシュワの言葉でそれはコオロギといったが、羽を擦りあわせてきれいな波形を生みだしていた。

 見よう見真似で、ハシュワの歌を全身の毛で模倣したが、きっとそれがいけなかった。

 足元の奥深く、かつての住処である下水道から、ナニカの波動が触手がごとく伸びてきた。死の濃厚な香りが漂っている。

 見ているぞ。

 そう知らしめたいがためにそうするように、それはねっとりと絡みつくようにムーバの身体にまとわりついた。カタチのない明確なそれは危害だった。

 ムーバは恐怖で動けなかった。

 ハシュワが帰宅してきても、いつものように出迎えに駆け寄ることすらできずに、身動き一つ、呼吸一つするのですら、決死の覚悟が入り用だった。

 生殺与奪の権を握られたも同然だった。

 じぶんはもう死んでいるのではないか、とムーバは錯覚した。なぜ未だにハシュワに抱きかかえられ、どうちて食べないの、と餌に口をつけないことを心配されていられるのかがふしぎでならなかった。

 奇跡だ。

 そしてその奇跡は長くはつづかない。そういうものだ。

 見つかってしまった。

 身体にまとわりついていた触手じみた波動はいつの間にか消え失せていた。濃厚な死の香りだけがいつまでもムーバの毛並みにこびりついていた。

「どうしちゃったの。お医者さん行く? きょうは無理だからあした行こうね。ごめんね、お仕事行ってくるね」

 ハシュワの手の感触が心地よい。遠のいていく彼女の波動を、ムーバはどこまでも、どこまでも辿った。彼女はバスに乗り、途中で朝食を購入し、職場に着くと夕方まで熱心に働いた。

 ハシュワにはハシュワの世界があり、そして家のなかのハシュワはその一端でしかない。ムーバはそのことが寂しくもあり、救われた心地にもなった。

 ハシュワの波動の近くには、例の死そのものの波動は感じられず、ただそれだけを確認するためにじぶんは生きているのだ、とつよく思った。

 ハシュワはよく働き、よくしゃべり、ほかの個体から親愛の波動をよくよくそそがれていた。

 安心したわけではなかったが、ムーバはウトウトとまどろんだ。夕陽の沈みゆくひんやりとした変遷の軌跡を毛に感じる。

 そろそろハシュワが戻ってくる。

 身体の奥底から湧きあがる弱火じみた歓喜の躍動を覚え、目を覚ます。

 ハシュワの波動を探る。

 近所のバス停に彼女はちょうど降り立ったところだ。

 ほっと息を吐いた、そのときだ。

 地面の下から迫りくる、鋭い影のようなものを察知した。

 ムーバにはそれが、断層に走る亀裂のように感じられた。

 ハシュワの足元まで一気に駆け抜け、迫ったそれは、地上へと突き抜けた。

 ハシュワの波動が大きく振幅する。悲鳴だ。恐怖、怯え、驚愕、闘争、さまざまな感情の起伏が多層に入り交じって、ハシュワの危機的状況を伝えている。

 ムーバは家のそとへと駆けだす真似ができなかった。

 濃厚な死の香りが、鋭い影の出現した地点からは噴出している。

 アイツだ。

 例の、アイツの波動だ。

 鋭い影のようなものは、地下から地上へと一直線に、ときに複雑に折れ曲がりながら伸びている。本体は地下に潜んだままだ。ソイツは明確にハシュワを狙っていた。

 見ているか。

 嘲り笑うかのように濃厚な死の香りが、ムーバのほうへと風になびく煙がごとく向けられる。

 挑発している。遊んでいるのだ。

 助けにきたほうがいいのではないか。

 助けにでられるものならな。

 ムーバは段ボール箱のなかから一歩もそとに踏みだせなかった。ぶるぶると震え、それでいてハシュワの波動を見失わぬようにしかと追い、無事に帰ってきますように、なんとかなりますように、と曖昧な願望で祈るしかなかった。

 現実を見て見ぬふりをするしかなかった。

 ハシュワを執拗に襲う細く鋭い影は、しかし通りがかったバスに轢かれ、動きを止めた。死の濃厚な香りが地下にしゅるしゅると引いていく。

 ムーバはただぶるぶると震えることしかできなかった。

 この一件で、地下に潜むバケモノの存在が地上の者たちにも明らかになった。ときおり報告された失踪者の大半は、件のバケモノの餌食になったとの見解がだされた。ムーバにしてみれば、いまさらなことであった。

 数日後には討伐隊が組まれた。

 地下には数百人規模の兵隊が流れこんだが、例のバケモノと遭遇したとの発表はなされなかった。なぜか一度の投入で討伐隊は解体され、地下への探索は打ち切られた。

「きっと被害がでたんじゃないかな。あんなの人間に太刀打ちできないよ」

 ハシュワはしばらく家に引きこもることにしたらしい。ハシュワだけでなくこの街の住人はみなそのような判断を自主的にとっているようだった。一週間もすると街のほうで外出禁止を促す放送を流しはじめた。

 ムーバは迷っていた。

 濃厚な死の香りを振りまく存在は、身体の一部を細く伸ばすことで、その波動を極めて希薄にすることができる。ムーバにさえ気づかれず、この家に身体の一部を潜りこませることなど造作もないはずだ。

 ムーバは、じぶんが死の濃厚な香りを引きつけているように思えてならなかった。

 安全な場所にいると高をくくって、施すべき警戒を怠った。

 その代償がこれだ。

 ハシュワの波動を探る。彼女は鼻歌を奏でながら夕食をつくっていた。餌をなかなか食べないムーバのために、とびきりのご馳走を用意しようとしてくれている。

 ムーバはせつない気持ちで身体が張り裂けそうだった。あべこべにしゅるしゅると空気が抜けるように身体が萎んでいく感覚がある。現にムーバの身体はふだんの半分の大きさにまで縮んでいる。

 食事を摂らないからだ。それもある。しかしどちらかと言えば、自己防衛の一つだ。こうして身体を縮めることで可能な限りじぶんの波動を遠くへ漏らさないようにしている。意識的にしている部分もあれば、無意識から身体のほうでそのような変化を帯びている部分もあった。

 変幻自在なのだ。

 例の死の濃厚な香りを振りまく存在を垣間見て、ムーバは悟った。

 あれはきっと、じぶんのもう一つの姿だ。

 同じ個体という意味ではない。分身ではない。あり得た未来の一つのカタチだ。

 地下には、ムーバのような生き物がほかにもいる。

 じぶんのようなバケモノが。

 ムーバはいまいちど、よくよくハシュワの波動に自身を重ね、いつでも彼女の歌を思いだせるように、再現できるように、模倣できるように、黒くつややかな毛の一本一本に刻みこんだ。

 音を立てぬように寝床から脱し、ハシュワの部屋を覗く。彼女はいま台所にいるが、部屋には彼女の衣服や雑貨が無造作に散らばっている。テーブルのうえに置いてある、四角い物体をかすめ取ると、ムーバは廊下を通って、浴室に立った。

 排水溝には蓋がしてある。

 ムーバは身体を細く変形させた。望めばそうなることを、例の死の濃厚な香りを漂わせる存在から学んでいる。恐怖ばかりをただ受け取っていたばかりではない。

 液体のように垂れ、ムーバは隙間から下水道へと落ちていく。

 いつ振りだろうか。

 遠い記憶に沈んだ懐かしき景色、否、いっさいが臭気と反響と闇の世界は、意外なほど落ち着いた。心地よさとはべつの、もっと根源的な安らぎがあった。

 例の死の濃厚な香りを振りまく存在を思うと恐怖に身が竦むが、いまはもう身体の自由を奪うほどの強固な桎梏ではなかった。

 ムーバは場所を移動する。

 ひときわ広い空間を見つけると、そこで身体いっぱいに毛を戦慄かせ、みずからの波動を響き渡らせた。

 空間のつづく限りそれは広く伝播する。

 脳内に展開されるムーバ固有の視界に、例のバケモノの姿が映った。

 即座に、ムーバのものよりも遥かに強力で、分厚い波動が返ってくる。

 それは物体を振動させるほど激しい波動で、下水道はビリビリと震え、小動物や獣たちがいっせいに逃げだした。

 騒がしくなったのは一瞬だ。

 あとにはただ、水のしたたる音と、風のうねる音が残る。

 闇を占めたそれらの静寂の合間を縫って移動する巨大な陰を、ムーバは知覚する。

 それは汚水のなかから現れた。ゆるやかに、あたかも汚水そのものがカタチを伴ったように、ゆったりと起伏を帯び、盛りあがり、屹立した。

 広い空間を選んだはずが、これほどまでに狭かったろうか。

 ムーバは壁際に追い込まれた。

 空間のほとんどを、死の濃厚な香りが埋める。

 物理的にカタチを伴った闇となって、それはムーバを、その身体から発する波動で以って覆い尽くした。

 逃げ場はない。

 それでよかった。

 ムーバには端から逃げる考えがなかった。

 闇のなかに、ぞわぞわ、と総毛立つ無数の鋭利な光を見た。闇のなかに輝く光があるのは妙なことだが、きっとその一つ一つに今生に開いた穴が宿っている。

 死が無数にこちらを見据えている。

 ムーバは全身を波打たせ、細かく毛を擦り合わせて、そこに刻んだゆいいつの生を奏でた。

 そして、飛びこむ。

 闇に。

 死に。

 ムーバはみずから飛びこんだ。

 カチカチ。

 いつの日にかしたように、ムーバは身体に忍ばせておいたハシュワの四角い物体を操り、熱と光を生みだす。

 それはまずムーバの身体の表面を覆い尽くし、次点で下水の表層を青白く走る。

 青白い光と熱は、駆け抜けることなく、揺らぐ影を暗がりに生み、最後に例の死の濃厚な香りを撒き散らす存在を包みこんだ。

 ぱちぱちと硬質な音を響かせながら、ムーバたちの身体は爛れ落ちていく。

 ロウソクの蝋が溶けるように、細かく弾けながら、砕けながら、共に一個の波動となって、燃える。

 波動は増幅され、物体に共鳴し、下水道をどこまでも広く伝播する。

 ムーバは最後まで毛の一本一本に刻みこんだ歌を、ハシュワの波動を、模倣しつづけた。

 臭気と反響と闇の世界にムーバの波動はよく響き、やがて地上にまでゆき届く。

 ハシュワの波動をムーバは捉える。

 彼女はふと動きを止め、何かに気づいたように、ムーバの名を呼んだ。

 ムーバはことさらつよく歌う。

 パキパキと青白く熱と光が踊る。踊る。

 揺らぐ影はやがて動きを止め、ほかの闇と手を繋ぎ、ふたたびの臭気と反響と闇の世界に回帰する。

 下水の表面に波紋がひとつ広がりを帯びる。

 歌はまだ、聴こえる。

 か細くも、産声のごとく、ちからづよさで。




千物語「影」おわり。

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