第三章

第46.5話 暗闇にドッシリ

 精霊の光が照らす夜の浜辺に、寄せては返す潮騒とふたりの話し声。


「ちゃんと謝っておかなきゃと思って。昨日から、その……つまらないことで感情的になったりして、ごめんなさい」


 みおは深く頭を下げ、けんは首を横に振る。


「つまらなくなんかないよ。怒らせたのは俺だ。澪姉にはいつも笑顔でいてほしいって、そう思ってたのに……結局は俺の勝手な理想を押しつけてるだけだった」

「……そっか」


 澪は伏し目がちに微笑んで、砂の上へ腰を下ろした。膝を抱え、訥々と心情を漏らし始める。


「献慈は……私なんかよりずっと大人だな。これじゃお姉ちゃん……澪姉失格だ」

「そんなこと……」

「ううん。私、いい気になってた。感情任せで力を振りかざして、それで献慈やカミーユのこと守ってあげてるなんて勘違いしてた。献慈の優しさに守られてるのは、私のほうだったのに」

「それは買い被りすぎだよ」


 献慈は澪のすぐ隣に――と思ったが、やはり照れがあるので、拳ふたつ分ほど空けて腰を下ろした。


「俺だって同じだ。澪姉に守られてるばっかりじゃないんだって、背伸びして格好いいとこ見せようなんて焦ってた。内心怖くてビクビクしてるくせに、不必要に出しゃばったりして……本当みっともない」

「そう……だったんだ。でも……やっぱり謝らせて。そういう献慈の気持ち、私ちっとも考えようとしてこなかった。だから、ちゃんと反省するね」

「反省なら俺もしなきゃだよ。元はといえば、澪姉を怒らせちゃったも俺のせいなんだし。俺に隙があったから、あの……目の前で、永和ヨンホァさんに……その……」


 献慈の脳裏にオッペィレーション事件の記憶がよみがえる。今も手のひらに残る甘美な手触りと、胸に突き刺さった苦々しい思いは切っても切り離せない。


「あ、あれはべつに怒ったんじゃなくて、し……嫉妬というか……」


 澪は身をよじりながら反論するが、その言い草はどうにも漠然としている。


(嫉妬……? どういう意味だろ……)

「はぁ……私って本当ちっちゃいなぁ、って」

(〝ちっちゃい〟……〝嫉妬〟……〝永和〟さん……)

「悔しいけど、あの人――永和のほうがずっと堂々としてる。それに比べて私なんてまるで子どもみたい。全然成長できてない」


 澪は心細げに胸の前で手を合わせている。


(〝子どもみたい〟……〝成長できてない〟……はっ! 俺は何て失礼な想像を……でも、万が一、澪姉が〝そのこと〟を気にしているとしたら……)

「こんなつまらない女、献慈だってヤだよね?」

「……それは違うよ」


 献慈は言葉を選びながら、胸の内を吐露する。


「つい目先のものに囚われちゃう瞬間は俺だってある。けどそういう表面的なことよりも澪姉自身と向き合いたいって、俺は思うから。きちんと向き合った先にあるものなら俺は何だって受け入れるよ」

「あ……ありがとう。そんなふうに言ってくれるなんて思わなかったから、すごく……嬉しい」

(〝伝わった〟……のか……?)

「私、自分を卑下するのはもうやめるね。これからは胸張って生きてかなくちゃ」


 胸がすいたような澪の表情を見て、献慈もほっと胸を撫で下ろした。


「それじゃあ……」

「うん。遅くなっちゃったし、そろそろ戻ろっか」


 澪は立ち上がって、両手で腰に付いた砂をはたき落とす。


「ねぇ。お尻に砂、付いてないよね?」

「え……」


 献慈が腰を上げようとしたところへ、絶妙なアングル、絶妙なタイミングで眼前に突き出されたもの。

 それは、まごうことなき澪のお尻であった。


 精霊の放つ光のもと克明に浮かび上がる形状は、より明確となった陰影に縁取られるまま、かつてないまでに存在感を増し、審美を司る心の根底へと甘美なる真実の姿を突きつけて止まない。むっちりと隆起した膨らみが、布地に作り上げた皺をかき集め、お端折はしょりを歪ませる様は、巨大な質量が空間を歪ませるという一般相対性理論における命題の相似形を思わせた。張り詰めた生地を突き破らんとする勢いで、左右に押し合いへし合いする二つの球体が、互いに己の丸みを誇示する。それぞれが頂点に頂くハイライトが、神々しいばかりに眩しい。上下向かい合わせになった三角形の影とのコントラストが、これ以上ない程にその神聖性を称揚せしめていた。しかしながらそれも表層的な現象に過ぎぬのではないか、そんな疑念が頭をもたげるも、大きく張った骨盤の上にたっぷりと盛りつけられた極上の肉質が描き出す構図は、人という獣の内に脈々と息づく根源的欲求を呼び覚まし、あまつさえ生命という飽くなき闘争へと駆り立てるときの声となって小宇宙にあまねくこだまするのだ――刮目せよ、と。その果てに観測者が導き出す解答はただ一つ。いとえろし。眼前に鎮座する〝神〟に対し、おごそかに呼びかけるのだ。そう、つまるところエロスとは、人が心の内に抱きうる無上の愛の神格化にほかならない。献慈は今この瞬間も、とめどなくあふれ出る〝愛〟を、水平線の彼方で眠り呆けている太陽に向かって、心の限り叫びたい気分だった。


(ふォあああぁァ――――ッッ!! ゥオオォスィリイィ――――ッッ!!)

「ちょっと、聞いてる? ねぇ、献――ひゃっ!」


 突如、辺りが暗闇に覆われた。〈発光する精霊スピリット・オブ・レディアンス〉が時間切れで強制送還されたのだ。

 驚きはそれだけにとどまらず。


「――むぐゥっ!?」


 献慈の顔面を襲う、懐かしき衝撃。

 熱いほどの温もりと布の肌触り、柔らかく心地よい弾力こそはまさに、献慈がこのトゥーラモンドへとやって来た直後受けた〝あの感触〟の再来であった。


(これぞまさに……暗闇にドッシリ――)


 砂浜へ仰向けに倒れるまでのわずかな刹那、献慈の意識は煩悩の猛りと涅槃の安らぎとの間を幾度となく往復していた。


「あっ! ごめんなさい、大丈夫?」

「――――!? だっ、大丈夫! ちょっとポジ……直すだけだから」


 我に返るや、献慈は己の前面をかばいつつ身を起こす。


「治す? ケガしてるの!?」

「あっ、えと……気にしないで!」


 手早く身支度を整え立ち上がる。明かりも消えているし、澪には見えていないはずだ。


「さ、行こっか」

「う……うん」


 澪は若干の戸惑いを見せつつも、献慈と肩を並べ歩き出した。


「……献慈、もしかして……」

「え! な、何かな?」

「今のって、カミーユのイタズラだよね」

「…………あ、明かりのことね。うん、多分」

「もぉー、困っちゃうよねー」


 はにかんだような微笑みが、夜道を明るく照らしてくれる。


「そ、そうだね……(本当……困りものだ)」


 宿まではそう遠い道のりではない。だからこそこうして夏の終わり、星空の下をふたり歩くわずかな時間さえも、献慈には尊く思えてならなかった。




  *  *  *




お話のつづき


【本編】第47話 前に進めてる

https://kakuyomu.jp/works/16817139558812462217/episodes/16817330648258936652

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