第3話
慶応三年十二月二十日までに、新政府の議定となった尾州藩主徳川慶勝と越前藩主松平春嶽の懸命の働きかけで、徳川慶喜公の明治政府参入がほぼ決定となっていた。
旧幕府に連なる諸公は胸をなでおろしたが、薩摩長州は京都から軍を引かず、むしろ松平春嶽公の暗殺を企てるなど、政局は全く安定していなかった。
江戸では、慶喜公の留守を預かる庄内藩酒井公が、薩摩浪士による暴動と新政府側との武力衝突を辞さない旧幕臣とを同時に抑えて、治安をかろうじて維持していた。しかし表面張力の危うい均衡で保たれていた危うい安定は、激化する薩摩浪士の挑発により敢え無く崩壊した。
十二月二十三日、その日は昼に江戸城から火の手が上がり二の丸が全焼した。火事の混乱に便乗した狼藉を取り締まるために庄内藩江戸見廻り役が市中に出動していたのだが、その下部組織である新徴組屯所に薩摩藩邸から銃弾が撃ち込まれた。
町人一人が犠牲になったこの襲撃は江戸に残る旧幕臣を激昂させ、当日中に庄内藩を始めとした複数の藩からなる討伐隊が編成された。十二月二十五日未明、薩摩藩江戸下屋敷は旧幕臣による総攻撃を受けて焼け落ちた。
薩摩藩邸討ち入りの一報は十二月二十八日に大阪の慶喜公に伝えられ、旧幕府側は打倒薩摩に一気に傾いた。
そして慶応四年元旦、この日は慶喜公が新政府の議定となり旧幕府と朝廷の和解が成る日だった。だが慶喜公の議定任官を待たずに旧幕府軍は薩摩に宣戦布告を行い、全国の諸大名に出兵を要請した。
ここに鳥羽伏見の戦いが開戦し、旧幕府勢一万五千人と新政府軍五千人の兵が激しく衝突した。
「羽代は、上方への出兵を行わない」
浮足立つ羽代家中を前に、弘紀はそう明言した。
「上方に向かう途中の彦根藩が新政府側についた。東海道を西に進めば、上方に向かう前に戦闘になる。彦根藩に追従するところは必ず出る」
かつて徳川幕府の大老を務めた井伊家が治める彦根藩が新政府に与したことは、周辺諸藩に小さくない動揺を与えていた。
それだけでなく東海道の真中に位置する羽代は、江戸の情報を上方より早く、上方の情報を江戸より早く得ることができる。上方と江戸で旧幕府側の意思の疎通に支障が生じていることは明らかだった。
「旧幕府側の出兵要請には、羽代は東海道を守るとだけ伝えた。軍は竜景寺から動かさない」
弘紀は主軍を東海道に近い竜景寺に駐屯させたまま、羽代城の守りは海上に任せることにした。江戸や大阪に米を運んでいた大型の弁財船は、船尾に大砲と特殊な帆を設置して戦闘への換装を済ませていた。
その羽代城の中では正月の慶賀の儀式は全て中止された。羽代の家臣一同は、日に何度ももたらされる上方と江戸の双方からの報せを聞き、弘紀の判断を待つ他に仕様がなかった。
「新政府軍に朝廷から錦の御旗が下賜されたようです」
加納が弘紀に報告するその声は、さすがに緊張の色が隠せなかった。新政府軍は天皇の軍である官軍となり、慶喜公と慶喜公の出兵の要請に従った藩は朝敵になる。
「羽代の兵は、動かさない」
弘紀は断言した。慶喜公が鳥羽伏見に展開しているのは一万五千の兵力だった。江戸からは旧幕府海軍が軍艦を向かわせており、また新政府軍に妨げられることなく援軍を送ることができる藩がある筈だった。
だが、弘紀の判断は思っても見ない方向から否定された。
「慶喜公、密かに大阪を脱出して江戸にご帰還されたそうです!」
「なに」
「まさか」
報せを聞いた者は一様に驚愕した。旧幕府軍の総大将である慶喜公が自軍を見放して敗走したのである。残された旧幕府軍は総崩れとなり官軍に敗北した。
弘紀は思わず視線を上に泳がせた。上方に旧幕府軍があればこそ、それより東側の味方は官軍を挟み撃ちにすることができたのだ。軍装備の充実に旧幕府軍と官軍の間に埋めがたい差があることを考えれば、勝機はその挟み撃ちにしかなかったのに、よりによって慶喜公が味方を見捨てて敗走するとは。
「加納、地図を」
弘紀の命に応じて加納が地図を何枚か弘紀の前に広げた。そのうちの一枚、日本全図を弘紀は選んで凝視した。
「彦根藩、紀伊藩、尾張藩が新政府側か」
それは、一つの絶望的な事実を弘紀に突きつけた。
「羽代が、官軍との戦争の最前線になる」
慶応四年二月十五日、官軍は有栖川宮幟仁親王を東征大総督とする五万の兵を率いて江戸へ進軍を始めた。そして弘紀はほどなく、官軍の使者から降伏勧告の書状を受け取った。
「朝永公に於かれましては一両日中にご返事ください。なお、この返事なく勧告に従わなければ朝敵とみなし総攻撃を行います」
藩主に対するものとは到底思えない居丈高な使者の態度に、その場に居合わせた者は気色ばんだ。言葉に西の訛りのある使者は意に介した様子もなく話し続ける。
「これまで東海道沿いの諸侯に同様の勧告を行いましたが、皆様受諾されました」
それは誇張ではなく事実だった。官軍は京都を出てから一戦もすることなく、東海道を進軍していた。
「……明日、返事をする」
弘紀はそう応え、降伏勧告状を傍らに置いた。
「承知いたしました。では明日、返事を受け取りに参ります」
使者が二の丸御殿を辞した後、弘紀は勧告状をその場に残したまま座敷を立った。加納をはじめ、残った家臣達は皆沈黙したままだった。
答えは、もうずっと前から一つしかなかった。皆、それを分かっていた。
「秋生」
座敷を出た弘紀は二の丸御殿の外廊下で修之輔を呼んだ。表座敷の警固をしていた修之輔がすぐに弘紀の近くに来た。弘紀は目線だけで辺りを見回してから、修之輔に小声で伝えた。
「少し城の外に出たい。馬の用意を」
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