第4話
松風と共に大手門を駆け抜けていく弘紀の姿に気づいて、数名の門番は目に見えて慌てた。だがすぐ後ろから残雪に乗った修之輔がやってきて、
「弘紀様には自分が付いていく。直ぐに戻る。中に知らせる必要は無い」
そう告げて弘紀の後を追うと、門番はその場で足を止めた。藩主護衛の馬廻り組頭である修之輔の言葉は門番が従うに足るものだった。
弘紀は城を出ると迷いなく北の方向へ馬を向けた。海に背を向け、城下町には入らず、稲の切り株が残る田の中を貫く道を、松風を走らせていく。二月の空気には春の気配が混ざり始めており、それは梅の花の香りとして辺りに漂っていた。
道が高台に迫る場所に来て、弘紀は、ちら、と一度上の方を見上げ松風を止めた。修之輔も直ぐその傍で残雪を止めさせた。弘紀の視線の先には石段があって、その先には古ぼけた鳥居が見えている。
其々の馬の手綱を立木に絡めて繋ぎ、二人して石段を上り鳥居をくぐったその先には、小さな祠が置かれていた。祠は海に向かい、注連縄に括られた真白な紙垂が風に揺れている。視界は開けて眼下には周辺の田や茶畑が広がり、その向こうには羽代城と羽代の海が青く見えた。
「秋に稲が実る時、ここからの光景は美しいものでしょうね」
弘紀の穏やかな声を聞きながら、修之輔もそ弘紀の思い描く光景に自分の想像を重ねた。
風に波立つ稲穂のうねりは金色の海を思わせて、葉が擦れ合う音がさらさらと絶え間なく聞こえてくる。緩やかな斜面には茶の木がつやつやとした濃緑の葉を茂らせて、羽代の茶に独特の香を微かに振りまく。
背後の山の中にはたたらの村があり、何本もの太い楠が枝を伸ばしている。
これまで弘紀が守ってきたもの、朝永の歴代の当主が育ててきたものがすべて、二人の視界の中にあった。
百数十年前に徳川公から羽代の地を拝領してから弘紀の代にいたるまで、朝永の祖先が重ねてきた年月は短くはない。
幕府が倒れて朝廷が主導となる新たな政府の統治の下、これからどうなるのか、その先が見えないのに羽代の行く末は弘紀一人の判断に委ねられていた。
戦って、この地を焦土と成しすべてを失うか。
それとも。
「……秋生」
戸惑って、けれど決断は弘紀がしなければならない。
先の言葉が続かない弘紀に修之輔は近づいた。
「皆、弘紀に従う。弘紀がどのような判断をしようと」
「……私の判断が誤っていれば、家中すべてが巻き込まれる」
「弘紀の判断に正誤は無い。ただこの時、この状況で為しうる判断を弘紀はするだけだ。正しいとか、誤っているとか、それは十何年、何十年が経った後の世の者が云うことだ。弘紀には最早関係のないことだろう」
弘紀は顔を伏せたまま修之輔の言葉を聞き、しばらく黙ったまま身動きもしなかった。
その弘紀の姿に、修之輔が初めて出会った頃の過去の弘紀の面影が重なる。
自分の身を護る術を放棄して、命の危険を前に無防備に立ちすくんでいたあの時の弘紀の姿。危機を救った修之輔に向けられた信頼の眼差しは変わることなく、けれど今の弘紀の肩に乗るものの重さは当時と比べようもなく大きい。
「それに俺は弘紀が正しかろうと間違っていようと、そんなことはどちらでもいい。弘紀が間違って多くの者から背を向けられても、その正しさを誰も信じてくれなくても、俺は常に弘紀の側にいる。……前に、そう云ったはずだ」
弘紀の肩から少し、力が抜けた。弘紀はうつ向いたままだった顔を上げて、修之輔を見上げた。その唇の端には微笑が浮かんでいた。
「……貴方はいつだって、変わりませんね」
弘紀はそう云ってから、自分の額を修之輔の胸に軽く押し当てた。弘紀はしばらくその姿勢のままで、二人の耳には早春の風が芽吹きを待つ木々の枝を揺らす音が聞こえていた。
翌朝、羽代城に再びやってきた官軍の使者に、弘紀は羽代が降伏することを告げた。
新政府軍は羽代の返事を受け取ってすぐに東海道を東に動き始めた。
弘紀は竜景寺の兵の一部を東海道脇の高台に置き、自分も兵と共に東海道を見下ろした。
新政府軍の先頭が浅井宿に入ると、弘紀の合図で大砲から空砲が撃たれた。砲撃の音に隊列は少々乱れたが、直ぐに何事もなかったかのように行軍を再開した。
「礼砲だ。祝砲では断じて無い」
その弘紀のつぶやきを聞いたのは、側でその身を護る修之輔と、弘紀に従いついてきた加納や西川らの数人の重臣だけだった。
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