第5章 銀照の綾波
第1話
徳川慶喜公による大政奉還について、事前に知らされていたのは幕府上層部の一握りの大名に限られていた。多くの大名にとっては寝耳に水の報せであり、幕府の独断ともいえる対応に憤りを示す者が大半、これを機に薩長への武力行使の実行を提言する大名もいたが、その数は少なかった。
弘紀は、上方から確かに徳川家の大政奉還の上表が朝廷から承認されたという知らせを待ち、家中の家臣を集めた。
「先日十月十五日、徳川公は朝廷に大政奉還を願い上げ、それが受け入れられた。徳川公は時機を見て新たな政体を樹立する御心積もりがあるらしい」
その弘紀の言葉に、二の丸御殿に集められた家臣たちは騒めいた。
大政奉還の建白は、佐幕派からも尊皇派からも挙げられていた。いずれにしても徳川家が武家の頭領の座を降りることには変わりない。
徳川家に従ってきた自分たち武家はどうなるのか。
これからの自分の身の上の心細さに動揺するのは仕方ない。弘紀は少しの間、家臣たちが互いに大政奉還の件について自分の思いを話す時間を取った。口論にはならず、ただ押し殺されたざわめきが御殿の広間を満たしていく。
しばらくそのまま放置して、それでもそろそろ、と、弘紀が言葉を口にする前、近くに控える加納が、
「御前である、私語はほどほどに控えよ」
と珍しく大きめの声を上げた。途端に静まり返る座敷のその上座から、弘紀は再び家臣たちを眺めた。
「此度の大政奉還により徳川公は武家の頭領であることを退いたが、全国各地の領地を守る大名の役目に変わりはない。我々は、徳川公が目指している公武合体によって新たな政権が生まれるまで、我らの領地である羽代を太平に治めなければならない」
弘紀は一度言葉を切って座敷に並ぶ家臣の顔を見渡した。そして、
「皆にはこれまでと変わりなく、この羽代を守るために働いて欲しい」
弘紀は自分の行方を失うことに怯える家臣達をそんな言葉で宥めた。
徳川慶喜公が大政奉還してからひと月の間は、隠微な緊張は続いたものの目立って大きな出来事は羽代近辺には生じなかった。ちょうど稲の収穫が終わった時期で、幕府も、佐幕派や攘夷派のどの大名も、各々の領地で得た米を大阪や江戸で売ることが目下の仕事だった。
穏やかな晩秋の午後、弘紀が久しぶりに修之輔の長屋に遊びに来たのは、これまで絶えることのなかった羽代内外のいざこざが今は収まっていることの表れでもあった。
「茶の木に花が咲き始めました」
弘紀はそう云いながら、手折ってきた茶の木の枝を適当な器に投げ入れにした。椿の花にも似た白く小さな花だが、床の間に置かれればそれなりに華やかに見える。
「須貝の庄では茶の花摘みが始まったようです。次の春は出荷量を増やせそうです」
弘紀は寛いだ笑みを修之輔に向けた。
「秋生、馬廻り組や番方には、最近、変わったことはありませんか」
弘紀の正面に座り、弘紀の手指が茶の木の枝に触れる様子を見ていた修之輔は、
「特に変わったことは無い」
そう云って首を軽く横に振った。弘紀は小さく首を傾げて「そうですか」とうなずいた後、しばらく押し黙った。修之輔はその様子を無言のまま見守り、弘紀が次の言葉を発するのを待った。
「……実は、朝廷から京へ参集するようにとの要請を受けたのです」
まだ家中には明らかにしていないのですが、と弘紀が抑えた声で云う。
朝廷からの参集の要請は、大名全てに送られたらしい。朝永家を含む江戸城溜詰めの大名は、幕命が無ければ朝廷の招集には応じない、という意志を皆の一致で決めたという。
「一方で、病気だから、といって、どんなことにも反応しようとしない諸公も一人や二人ではないのです」
物事を明らかにしたがる弘紀には、そんな反応が歯がゆいのだろう。素直に苛立つ表情は、けれど加納などの家臣には見せることはなく、修之輔だけが見ることのできる表情だった。
今この時期、各大名は俵に詰まれた年貢米を江戸や大阪の問屋に売ることで手一杯だ。どこも大きな動きはできない。羽代も藩の船を使って江戸と大阪に米を輸送していた。今年はその米の中に竜景寺から取り上げた社寺領の収穫も加わっている。
竜景寺から没収したのは稲田だけでなく、弘紀はその他いくつかの仏教儀式や農民との必要以上のかかわりも禁止した。竜景寺が執り行えなくなった儀式の代わりを、城下の矢根八幡権現に一部、委託することにしたのだという。
「矢根八幡権現には八幡神と阿弥陀如来がお祀りされています。神仏に祈りをと言いますが、そのどちらも、羽代の民の信仰を支える左右の両翼が必要なのです」
弘紀とそんな会話を交わした数日後、修之輔は馬廻り組の部下たちに剣の指導を行った。銃と剣を併用する実戦での使い方を教えながら、この穏やかな日々のままで新たな年を迎えられるのだろうかと、修之輔の脳裡に、ふとそんな疑問がわいた。
十二月の晦日が差し迫ったある日、修之輔は番方を率いる山崎と正月行事の打ち合わせをするために竜景寺に向かった。
定期連絡の範疇だったその訪問の帰り道、左右に広がる田では稲が刈られて水が抜かれ、乾いた土がひび割れていた。それは水不足の深刻さではなく、陽の光に温められた土の朴訥さだった。
りん
不意に金属が鳴らされる音がきこえ、修之輔は自分の前方に稲荷神社の神官である古老がいることに気づいた。彼の神官は竜景寺の藩の処罰が明らかになってもまだ、羽代に留まっている。
相変わらず瞬きの間、あるいは幻惑の術でも使っているのか、修之輔は古老に間合いを詰められ、その真正面から向き合った。
「月狼、其方は己の出自を知ろうとは思わないのか、知りたいとも思わないのか」
古老が修之輔に禅問答のような問いかけを寄こした。修之輔は古老とは目合わせないまま、
「俺は羽代を統治する朝永家に仕えている。それだけで十分だ。それ以上、自分が何者であるのかを知る必要は皆無」、そう応えた。
ふん、と古老が軽く鼻を鳴らす音が聞こえた。
「月狼はどこまでも月狼というところか。其方は本多の跡継ぎに忠義を尽くすのか。月狼は主人の呪いも穢れも引き受ける存在、先代の日輪の巫女は己の呪いを月狼にすべて負わせた。負い切れずに月狼は野垂れ死に、その代わりをお前が引き受けていたではないか」
「……何のことだ」
思いがけずに古老の言葉に呼び起された記憶。その細部を思い出さないうちに認知の裏に無理やり沈める。
黒河の、修之輔の生家で。修之輔の身に執拗に加えられた暴力の記憶。
「月狼に苦痛と不遇しかもたらさない日輪の巫女との主従の関係を、訳もわからず継承しているのが今の其方だ」
何故、彼の巫女はそれを我が子に伝えなかったのか。
謡うような口調でそう云い終えて、古老はまるで興味を無くしたように修之輔に背を向けた。
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