第9話

 その夜、上弦の月が照らしたのは土から湧いた霧の流れだった。


 白く漂う霧は夜道に幽かな光を与える。寅丸は街道から外れた細道を足早に移動していた。

 秋生修之輔を竜景寺で見送った後、寅丸に翌朝を待つ余裕はなかった。

 月の明かりを利用して道を行き、夜の暗さを利用して国境くにざかいを超えなければならない。もっとも近い国境は北の方向だった。その先は、西へ向かうも東へ向かうも決めていなかった。


 未練は、なかった。

 この土地で自分がすべきことはすべて為した。

 寅丸の脳裡に友人や剣道場の門下生の顔が浮かんだ。一人一人の顔を、声を、思い出しながら名前を確かめていく。縁があればまた会うこともあるだろう。不思議と今生の別れとは思わなかった。


 加ヶ里。

 浅くはないが深いとは言えない仲の女人の顔が浮かんだのは、夜風の中に甘やかな花の香りを感じ取ったせいだった。正直なところ、加ヶ里とは互いに肌を合わせてみたこともある。だからといって情けが湧くような性格ではないのは、加ヶ里も自分も同じだった。似た者同士だったといえるかもしれない。


 寅丸の中では加ヶ里もまた、羽代というこの土地に生きる顔の一つだった。

 次々に浮かぶ顔の一つ一つを胸の奥底にしまい込みながら寅丸が足を速める道の先に、突然、人影が現れた。


「寅丸、わいは裏切っとな」

 怒りを隠さない男の口調に、その人影がこれまで世話を見てきた薩摩浪士の一人だと悟った。寅丸は足を止めて夜道の先を見据えた。


「おぬしたちを裏切るのではない。儂が抜けたところでお主等は関係なく物事を進めるだろう。足手まといの助言しかしない土地の人間など、いない方がお主たちも動きやすいのではないか」

「そげんこっじゃなか。おいたちが同志を迎えけ行っちょっ間に、竜景寺の部屋を荒らされた。銃がおっ盗られた。薩摩ん者しか持っちょらん銃や」

「それは今、初めて聞いたな」

 寅丸のその言葉は本心からのものだった。だが薩摩浪人は言い逃れの言葉だと受け取ったらしい。語気を一層荒くした。


「今日の夕方、羽代城から役人が来たと寺ん者がうちょった。わいん手引きじゃろが」

 竜景寺の薩摩浪人が留守になるのを見計らって秋生を寺に呼び寄せたのは確かだ。その秋生の来訪をこの薩摩浪士は寺の者から聞いたようだ。特に口止めもしていなかったので当然だろう。

「それは確かに儂の知り合いだ。だが一人だけだし、ずっと儂と一緒だった。帰りも見送った。なにも土産なんぞ持たせてない」

 そう応えながら寅丸には思い当たることがあった。


 加ヶ里だ。

 秋生との面会の時に一度も現れなかった加ヶ里は、寅丸と秋生に周囲の注意を向けさせ、その間に密かに秋生に同行していた馬廻り組の部下たちを竜景寺内に引き入れたのだろう。


 薩摩しか持っていないという最新式の洋銃は今頃、馬廻り組の手によって羽代城へと運び込まれ、二の丸御殿で家臣たちの見物にされているに違いない。


 あいつ、抜け目がないな。

 寅丸はその口元に思わず苦笑を浮かべた。


「やっぱいわいが裏切ったんじゃな」

 その苦笑を肯定と見て、薩摩浪人は刀の柄に指を掛けた。人を斬ることに慣れていて抜刀することに躊躇しない相手だ。寅丸も自分の刀に手を掛けた。表面だけとはいえ昨日まで仲間だった相手だが、いっそ清々しい思いがした。


「儂はもう何が裏切りで、誰が味方なのか分からなくなった。誰の云うことを聞いても誰かへの裏切りになる。ならば自分の志だけは裏切らないと決めたのだ。そのために儂は羽代を出る。そこを退け」

「勝手なことをな!」


 上弦の月は木立の上から光を降り注ぎ、道の上には細かな影が風に揺れてさざめいた。


 相手の初手を防ぎ、自分の流れに持っていく。

 そんな自分の試合の流儀が通用するのか、寅丸には分からなかった。薩摩の初太刀は寅丸の刀より長く太く重い刀が渾身の力を込めて振り下ろされる。それを躱さなければこの先に己の道は無い。

 寅丸は自分の刀を抜き、いつもは取ることのない正眼に構えた。刃に月の光が零れて、そして。


 目の前に唐突に別の人影が現れた。

 月明かりの中に特徴のない黒羽織が揺れて、その人物は寅丸に背を向けたまま薩摩浪人に正対した。

「これ以上、この国で好き勝手を働くことは許さない」

 感情のない声音でただ一言そう云って、その人物は自分の刀を抜いた。一本だけでなく、片手に長刀、もう片手に小刀を握っている。

「なんじゃわいは。二刀流か。邪魔をすっなら、わいから切る!」

 猿声とともに薩摩浪士は二刀をもつ相手に切りかかった。

 渾身の一撃を片手の長刀で受けきれる筈がない。体が二つに切り裂かれる音を覚悟した寅丸の耳に、だがその音は聞こえなかった。


 代わりに、きぃん、と鋭い音が響いた。


 薩摩浪士の一撃は振り下ろされる前、横から長刀の打撃を受けた。剣先は軌道を逸れて土に刺さる。


 確かに衝撃を正面で受け止める必要は無く、斬撃の向きを変えるだけなら力は必要ない。片手で操る長刀でも充分だろう。だがその術、その機微は、薩摩の剣術を実施で攻略した者しか考えつかない妙手だった。


 自らそのような境遇で身につけたのか、あるいは、実戦の中で誰かから学び取ったのか。いずれにしても高い技量の持ち主であることには変わらない。


 そのような剣術の熟練者が薩摩者の隙を見逃すはずはなかった。

 迷いなく横に滑り込み、今度は小刀で薩摩者の左脇を突いた。小刀の刃は体内にするすると吸い込まれるように突き刺さり、この一撃が致命傷だったと気づく前に薩摩浪士は地に伏した。

 二刀流の人物は死体から自分の小刀を抜き取り、血を振り払った。


 血のしずくは足元に低く流れる霧の中に消え、そして。


「秋……」

 寅丸は漏れかけた声を抑え、背を向けたままのその人物に一礼した。そして顔を伏せたままその脇を足早に通り過ぎた。薩摩浪人を弑して自分を助けてくれた者の正体を知らない方が良いと、そう思った。


 寅丸は夜の道をふたたび国境に向けて歩き始めた。


 ただその人物のすぐ横を袖がすり合う近さで通り過ぎるとき、微かに目の端、上弦の月の光がその並外れた美貌をより人外の美しさに際立たせていると、そう思った。

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