第2話
竜景寺は羽代藩の北部の丘陵地帯に建つ真言宗の寺院である。本尊である大日如来は木彫りの像として室町に幕府があった頃から竜景寺に伝わっている。
羽代城より三里ほど距離があって城下町の賑わいからは外れているが、尾根を一つ越えればその向こうに東海道が走っている。江戸と京を結ぶ大動脈の中間地点が羽代領内にある浅井宿で、そこは竜景寺と一里と離れていない。
羽代城城下が海運の町として栄えているのに対し、浅井宿は陸運の拠点である。羽代の領地内にあるその宿場は、もちろん、羽代藩に管理が任されていた。
古くからの街道なので浅井宿の周辺には人が集まり、多くの商人が店を構えている。街道に面した店の間口は狭くても、奥には広大な屋敷と三つ四つと並ぶ蔵を抱えた商家がいくつもあった。
竜景寺の経営はそれら昔からの浅井の商人の他、この地を通り過ぎる他国の者達の寄進で成り立っていた。
羽代の領主の菩提寺は代々竜景寺とは別の寺院であり、独立した経済基盤を有している竜景寺は藩からの統制に従わないことが度々あった。かつて出家した弘紀の兄、英仁の身を預かったのも、弘紀の命に従ったというより羽代藩政に食い込む糸口を得たと捉えた節がある。
弘紀が羽代藩主に着任したその年、弘紀の兄である英仁が弘紀の命を狙う事件が生じたが、これまでのいきさつから竜景寺が英仁の後ろ盾となったことが疑われた。
英仁は弘紀の暗殺に失敗した後、羽代の重臣、田崎によって今度は自らが暗殺された。英仁の首を切ったのは田崎の命を受けた修之輔である。
竜景寺と修之輔の因縁は深いが、弘紀にすら秘して仕組まれた暗殺の実体を知る者はほとんどいない。修之輔に竜景寺行きを依頼してきた山崎も、修之輔と竜景寺の因縁を知らないはずだ。修之輔は山崎の表情や口調から、その事実を確信していた。
「いつ行けばいい」
修之輔が応諾の返事代わりにそう聞くと、山崎は軽く眉を上げた。修之輔が自分の依頼を断らないことを見越していたのだろう。
「実は、竜景寺の坊主の方から三日に此方に来て欲しいと言われた」
「明後日か」
修之輔は先ほどまで弘紀の背後に並んでいた数人の僧侶の姿を思い出した。確か当主朝永家の菩提寺である花禄寺の僧侶の次席が竜景寺の僧侶だった。
「なんでも他所から新たな人事があって、寺に人が増えるらしい」
「それは」
「ああ。本来なら弘紀様に諮らなければ許可されない人事を勝手に行った、ということだ。それだけでも処罰に値するのだが、事後承認しろとあちらから言い出すとは」
真言宗である竜景寺は、東海道を利用して江戸参勤を行う他藩の藩主からも信仰を受けている。羽代単独で処罰をすれば、外部を巻き込んだ余計な軋轢が生じる。それを見越しての強気の行いだった。
「様子を見に行き許可されていない人事の事実が確認できれば、それを指摘すれば良いのか」
「そうだ、頼む。外田たちに任せるとどうも力づくで押さえつけるところがあるから、あいつらは行かせられない。秋生が適任だ。淡々とでいい、竜景寺にこちらが問題視しているという事実だけを伝えてきてほしい」
「わかった」
「それから、いつものように報告書を書いて上げてくれ」
山崎の声の抑揚に変化はなかったが、こちらが修之輔の主な任務だった。
羽代における馬廻り組は城の警固を役目とするが、一小隊相当の番兵の他、騎兵と洋銃、可動式の大砲からなる装備の実体からいえば充分に武力部隊である。寺社に関することを取り扱う役目の者は他にいるのに山崎が修之輔にこの任を依頼してきたのは、寺社取り締まりの役人の権威が最早竜景寺には効いていないことを表している。修之輔が出向することは、弘紀単独の命令で動かせる武力部隊が介入する準備があるとの示威でもある。
かつ、何か事が起きれば直ちに武力鎮圧を行うための情報収集に修之輔が適任であることは、これまでの経緯から羽代上層部で認知されている。
修之輔は当日、警固の任に就いている部下の名を頭の内で確認した。城の警備を手薄にするわけにはいかない。
「馬廻り組から三人出すが、番方から五人ほど貸してほしい」
「承知だ。あの辺りを知るものを付けよう」
そうして正月の松も取れない三日の朝、修之輔は自分の部下と番方の兵を率いて竜景寺に向かった。
空には正月からこっち薄雲が貼り付いて、気温は例年より低い。地面に溜まる水は全て凍り付き、霜柱は土深くから立ち上がっている。冬の道を馬廻り組の騎兵と洋銃を担いだ徒歩兵は黙々と三里の道を移動した。途中、道の両側に斜面が迫る浅い切り通しを通る時、修之輔はこの場所でかつて弘紀が英仁の命を受けた浪人達に襲われたことを思い出した。
二十数人もの血が流れた土は今、冷たい氷の光を白く反射している。
修之輔は腰に差している刀の鞘を軽く握った。弘紀から下賜された、弘紀と揃いの刀。黒漆塗りの鞘は、冬の朝日も青白く映していた。
二度とあのような事態を生じさせてはならない。
そのためには未だ権力に執着する竜景寺を確りと牽制することが必須だった。
凍てつく冬の間も青々と葉を茂らせる茶畑を通り、竜景寺の山門に辿り着く。門は開け放たれ、五色の幔幕が北風に揺れていた。案内の僧侶の後に着き、馬の見張りに一人を残して修之輔たちは境内に入る。
明らかな変化は目前にあった。
「このお社は」
修之輔は足を止め、案内の僧に尋ねた。
艶めく朱色の鳥居に、桧の香りもまだ漂う真新しい神社がそこに建てられていた。この正月一日に掛けられたばかりであろう注連縄に、真白な紙垂が下がっている。
「そちらが先月に紀伊の国から勧請致しました稲荷大明神様の御社です。こちらの神社をお祀りする神職もその時に参りました」
「それが他所から此処に新たに来たという者か」
「はい。様々な神道の術を知り、また真言宗の御仏にも明るい、たいそう博識な人物です。ぜひ羽代のお殿様にもお見知りおきいただきたく」
その弘紀の許可が無ければ許されない筈の人事を、僧は何の気負いもなく認めた。隠すつもりは元から皆無なのだろう。
ちり、と修之輔の胸の奥に緊張が走る。それは弘紀を蔑ろにする相手への公私混同となった怒りだったが、表情には出さなかった。
「ちょうどその者が新年の護摩会を執り行っているところでございます。お城の皆様もどうぞご参列ください」
案内の僧はそう言って、閉じられていた本堂の扉をあけ放った。
おん ばざらだとばん おん ばざらだとばん おん ばざらだとばん
おん あきしゅびや うん おん あきしゅびや うん おん あきしゅびや うん
唸り声のような真言が渦を巻いて流れ出してきた。
異様な熱気は真言を唱和する僧達の身体から立ち上り、護摩壇に焚かれた炎に炙られて熱を増す。
あん あらたんのうさんばんばたらく あん あらたんのうさんばんばたらく
あん あみりた ていぜいから うん あん あみりた ていぜいから うん
その場の空気に圧倒され、修之輔の背後では手を合わせて真言を唱和する者もいた。鉦が鳴らされ太鼓が打ち鳴らされる。誰の言葉も発せられる余地がないその場所の中心が高々と燃え盛る護摩壇の炎だった。その正面に座り、護摩壇に薪をくべ続ける者がこの儀式を執り行っている。
真白な浄衣。僧衣ではなく、神官の装束を身に着けた者がそこにいた。
おん なぼきゃ しっでい あく おん なぼきゃ しっでい あく
ちら、とその視線がこちらに向けられた。
りん、とそれまでとは異なる澄んだ金属の音が辺りに響く。
真言は速さを増し、熱量は急激に増大する。
おん ばざらだとばん おん ばざらだとばん おん ばざらだとばん
おん あきしゅびや うん おん あきしゅびや うん おん あきしゅびや うん
あん あらたんのうさんばんばたらく あん あらたんのうさんばんばたらく
あん あみりた ていぜいから うん あん あみりた ていぜいから うん
おん なぼきゃ しっでい あく おん なぼきゃ しっでい あく
鉦と太鼓が細断なく打ち鳴らされ本堂内に充満し。
りん。
その音とともにすべてが押し黙った。
本尊である大日如来に深く拝礼し、浄衣の神官が護摩壇から下りる。神官はするすると歩み、何の礼も示さないまま修之輔ら武家の一行の目前に迫った。
あまりに近いので、光量が乏しくとも神官の公家のような気品のある顔立ちが薄明りの中にも見て取れる。だが修之輔たちに向けるあからさまな威嚇の気配がその容貌にそぐわない。
礼を失している者を相手にこちらから声を掛ける謂れはない。修之輔は本堂の片隅にいる案内の僧に住職への取次を促そうとして。
ばさり、と神官が大きく袖を振った。
「月狼」
不測の動きに反射的に向けた修之輔の視線を神官は否応なく搦め取る。音のない足さばきで間近に身を寄せてきた神官は修之輔の耳元にまで顔を寄せ囁いた。
「近くに見るとその顔、思っていた以上に美しい。江戸では会えずじまいだったのが悔やまれるな」
突き離そうとしたが、いつの間にか相手とは間合いが離れていた。くく、と低く漏れ聞こえたのは嗤い声か。
「月狼、呑気に毛づくろいをしている時間は、ないぞ」
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