海鷹の翼

葛西 秋

第1章 初春の青海

第1話

「新年の御慶びまことにめでたく申し入れ候」


 羽代はじろ藩当主居城、羽代城の二の丸御殿に慶賀の声が響く。普段、障子襖で立て切った御殿の内部は全て開かれ、大広間には正装をした家臣一同が並び揃っていた。


「御目出度うございます」

「御目出度うございます」


 筆頭家老である加納の発声に、他の者が一斉に唱和する。上段の間には加納ら藩政の中枢にある数名の者たちが座し、その中央に言祝ぎを受ける藩主朝永弘紀ともながこうきの姿があった。

 藩主を警護する馬廻うままわ組頭くみがしらの任にある秋生あきう修之輔しゅうのすけは、弘紀のその姿を二の間の外廊下に近い場所から眺めた。


 この正月で二十二歳になる弘紀は藩主の座についてから五年の月日が過ぎるうちに、この羽代を統べる当主としての威厳を身につけていた。やや小柄な体躯であっても鮮やかな青、煌びやかに金糸銀糸の刺繍が施された羽織袴には決して見劣りせず、弘紀本人の気性の闊達さは立ち居振る舞いから十分に見て取れる。

 くっきりと弧を描く眉の下、黒曜の瞳の光は長い睫毛を透いてもその光の強さを失わない。輪郭の明らかな鼻梁の下、形良い紅唇が今は微笑を浮かべていた。


 絢爛な慶賀の衣装に映える弘紀の華やかな顔立ちをしばらく見つめてから、修之輔は視線を素早く広間全体に巡らせた。上段の間には限られた上層の者のみが、修之輔がいる二の間には中堅以下の家臣が序列に従って並んでいる。中には番方に任を持つ外田や山崎などの見知った顔があったが、さすがに神妙な顔をして他の家臣たちと膝を並べている。修之輔が見慣れていない顔は無かった。


おもてを上げてよい」


 これだけの広さでも通りよく聞こえる弘紀の明瞭な声に、居並ぶものが揃って従う。


「今年を迎えるにあたり、皆には昨年より一層のはたらきを期待している」


 弘紀が家臣に向けて年始の言葉を述べる間、修之輔はさりげなく三の間にも視線を向けた。

 板敷の三の間には武士ではない者たちが集まっている。近隣の庄屋や有力な商人、宿場の世話人の他、僧形の者や浄衣を纏った神職の姿もあった。普段、接触することがないそれらの者達の様子にも、修之輔は注意を絶やさない。


「……以上、本年も皆が恙無く日々を過ごすこと、またこの土地に神仏の慈悲と御加護があることを願う」


 弘紀の言葉が終わると太鼓が打ち鳴らされ、居並ぶ者たちはその身分にかかわらず一斉に頭を下げた。弘紀が立ち上がって上段の間を去ると、それに加納ら家老職にあるものが続き、また二の間の者達は廊下から御殿の外へ出始める。

 上段の間を出た弘紀はそのまま御殿の玄関から外に出て、周りに家臣が行列をつくるのを待って羽代城大手門へ向かった。


 大手門の外は、海に面した砂浜が広がる。

 砂浜の一画にはすでに緋毛氈が敷かれており、弘紀がそこに着くとその後ろに先ほどは三の間に控えていた僧職と神職が並んだ。

 素足のままで波打ち際に近づいた弘紀が酒を海に注いで手を合わせるその間、僧は読経を、神職は鉦を鳴らす。行列を作って城から出てきた家臣たちも弘紀に倣って海に手を合わせ、修之輔も彼らに倣った。


 いつもならばこの時間、小舟が海を漂うが元日の今日、海に船を出すのは禁忌である。船番所の向こうには城下町に住む町人たちが集まり、ともにこの新年の儀式に参加をしているようだった。その中には城には上がらなかった下士の姿も見える。

 砂浜には城の番兵が並んでいた。番兵一人一人が手にしているのは洋銃ミニエー銃である。城下町の背後の小高い山の上にある大砲も砂浜にいる藩主を守って配置されている。

 修之輔は前日までにこれら藩主の警護の準備が遺漏無く整っていることを確認していた。弘紀の身を守るための備えはしすぎることはない。船番所に留め置かれている羽代公用の荷船にも、番兵が配置されていた。


 新年の清浄な空気とは別に隠微な緊張が祭礼の場であっても強いられるのは、このところの羽代内外、どころか徳川の幕府の状況の不安定さに理由があった。


 昨年、慶応二年は日本の各地で打ちこわしがあり、それは地方の大名領だけではなく幕領でも頻発した。領主は鎮圧に奔走しながら、かつ、幕府から命じられる任務の重さに疲弊を隠すことができないでいた。


 幕府が諸大名に科す任務は、海防の他、主要都市の警護の割合が増え、羽代も江戸近隣の地に警固役の人員を何度か派遣していた。滞在費も軍装備費も、すべてが藩からの持ち出しである。各地を統べる藩主は皆、見通しの立たない巨額の出費の捻出に身を細らせ、あるいは豪商に借金をしてどうにか財政を維持している状態だった。


 そもそも幕府からして地方の長州を相手に戦をして敗退するなど、これまでの世の在り方が根本から大きく揺らいでいる。固定された身分に抱く不満をあからさまに声に出す者もいる。


 そのような状況にあって、藩統治の頂点にある弘紀の身の安全は必ず守らなければいけないことだと、それは修之輔が何より強く心に決めていることだった。


「秋生」


 弘紀が儀式を終えて城の中に入っていくのを見届けていると、脇に山崎が寄ってきた。先ほどは二の間に座る姿を見ていたが、行列に参加して浜まで下りてきたようだ。

「なんとか無事に済みそうだな。秋生は昨年の師走からこっち、ずっと気が休まらなかっただろう。これで少しは正月気分を味わえるか」

「ああ。山崎殿も」

 番兵や砲兵の配置は番方を取り仕切る山崎の采配である。他所への藩士の派遣や領地内の見回りの要請もありながら修之輔に協力を惜しまなかった山崎こそ、気が休まる時がなかったに違いない。

「まあ、なんだな、三日ほどは少々のんびりしたいとは思っているのだが、またすぐに八幡宮の例祭があるだろう」

「すでに打ち合わせをしている通りの警備で良いように思う」

 修之輔が人気ひとけの引き始めた浜の様子を見ながら山崎に云うと、

「儂もそう思う」

 山崎からはすぐに答えが返ってきた。が、互いの意志が確認できても、山崎はその場を去ろうとしない。効率を求める山崎には珍しい様子に、修之輔は視線を山崎の方に向けた。

 山崎は海の彼方に目を向けたまま、心持ち低めの声で修之輔に云った。


「北にある竜景寺にこのところ少々おかしな動きがあると知らせが来た。儂が確かめるわけにはいかん。秋生、正月早々悪いが、近いうちに竜景寺に行ってもらえないか」

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