「1986年 岡崎恭介 45歳」act-2 <私服の少女>

午後十一時。狭い一方通行の路地に、タクシーの列が出来始めた。岡崎が、帰り仕度をしようとしていた時である。

「手相無料って書いてあるよ」

カン高い声とともに、高校生らしき制服を着た二人の少女が、岡崎のもとに駆け寄って来た。

「ねえユウ、観てもらいなよ」

制服の一人が振り向き、暗がりの自販機にコインを入れている私服の少女に向かって手招きをした。ユウと呼ばれた少女は、出てきた缶コーヒーを手の中でころころと転がしながら岡崎の前にやって来た。

整った顔立ちに真っ直ぐな黒髪が印象的な美少女だ。私服のためか、制服の二人より大人っぽく見える。

「おじさん、この子私達の同級生なんだけどさ、不登校やってて学校来てないんだよね」

制服の一人のそんな言葉を無視するかのように、その少女は缶コーヒーをカーデガンのポケットに突っ込むと、岡崎に向かって無造作に右手を突き出した。


手相は手の平の皺、それに丘と呼ばれる肉付きなどを合わせて鑑定する。無論、当たるも当たらぬも八卦である。しかし多くの鑑定士は、それを補う会話術を心得ており、その言霊の差が鑑定人の良し悪しを決めている。にわか鑑定師に言葉の力は無いに等しいが、十代の少女にとって岡崎のソフトな口調は説得力があるのか、私服の少女に対する通り一遍の鑑定に、両脇から覗き込んでいる制服二人はいちいち“当たってる”を繰り返した。


とその時、岡崎は少女の手首に、数本の切り傷があることに気付いた。平行に並んだその薄赤い線は、彼女が自らの肉体に刃物を押しあてたことが明白であり、岡崎は思わず少女の顔を見上げた。

「どうしたの?おじさん」

制服の一人が岡崎に顔を近づけた。私服の少女が小首を傾げる。

「何なのよ、おじさん」

もう一人の制服が怪訝そうな顔をした。

「いや、何でもないよ。鑑定は終わり」

岡崎は制服の二人にそう告げると、私服の少女に向かって言葉を続けた。

「余計なことかもしれないけど、学校は行った方がいいんじゃないかな」

「何だよ、説教かよ」

制服の二人はそう言うと、何が可笑しいのかゲラゲラ笑いだした。

「ユウ、行こう」

二人に促された私服の少女は、ポケットから先程の缶コーヒーを取り出し岡崎に差し出した。

「これ、おじさんにあげるよ」

初めて耳にする彼女の声は、その容姿からは不釣り合いなほど幼かった。

岡崎は、少しぬるくなった缶コーヒーを受け取ると、笑いながら去って行く三人の背中を見送った。


—不登校に自殺未遂かー


後味の悪いため息と混じり合い、胸の奥に苦い感覚が残った。だが、学校に行かない彼女と、家に帰れない自分にどれだけの違いがあるのだろう。


岡崎は、駅のトイレで通勤用の背広に着替え、それを折りたたんだ椅子やテーブルと一緒にコインロッカーに放り込み、少し混み合う電車に飛び乗った。

窓の外に流れる見慣れた景色が何となく鈍い色に見えたのは、内ポケットに入れた缶コーヒーの違和感のせいかもしれなかった。

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