「1986年 岡崎恭介 45歳」act-3 <閃光>
その二日後の夜、いつもの路地裏に岡崎はいた。夕方に降った雨が路面を濡らし、道脇に並ぶ料亭の灯りを曖昧に反射させている。
「おじさん‥」
その光の中から、ふいに幼い声がした。顔を上げると、あの私服の少女がいる。制服の二人はいない。
「ああ、確かユウちゃんだったね。今日はひとりかい?」
「おじさん、昨日いなかったでしょ?」
「毎日いるわけじゃないよ。昨日来たの?」
岡崎の言葉にユウが無言で頷く。
「手相はね、毎日観るものじゃないよ」
「手相じゃない。おじさんに会いに来たんだよ」
予期せぬ言葉に驚いていると、ユウは岡崎に顔を近づけ、耳元で押し殺した声を出した。
「おじさん、私の手首の傷見たでしょ」
「うん?あ、あぁ」
妙に大人びた彼女の瞳に、少し圧倒されながら岡崎は答えた。
「大丈夫だよ。私、死のうなんて思ってないから」
悪戯っぽく笑うユウに、岡崎は冷静さを取り戻して言った。
「ああ、わかってる。本気で死のうと思ってる奴は、そんな中途半端な切り方はしない」
その言葉が予想外だったのか彼女の癖なのか、ユウは小首を傾げて岡崎を見た。
そこに少し酔った若いカップルが来た。岡崎はユウを無視するかのように、二人の鑑定を始めた。気を利かせたのか、ユウは少し離れた場所に座り込み、雑誌をペラペラめくっている。
それから小一時間。先程のカップル以外に客はなく、二人は同じ距離を保ったまま言葉を交わさずにいた。その奇妙な沈黙に耐えかね、岡崎は声をかけた。
「君は学校に行ってないようだけど、高校生だろう?もう遅いから、家に帰った方がいいんじゃないかな」
ユウが雑誌を閉じ、岡崎を見る。
「ご両親も心配してるよ」
岡崎がそう言った時、二人の近くに停まっていたタクシーが急発進し、その不快な音でかき消されるようにユウの声が聞こえた。
「お母さん仕事してるから、帰ってくるの遅いんだ」
そして、不意に襲った静寂の中で言葉が続いた。
「お父さんはいないよ。小さい頃死んじゃった」
まるで子供のようなその言い方と、ヘッドライトに一瞬照らし出されたユウの表情は、岡崎の怠惰な日常に突如差し込んだ閃光のような残像を残した。
岡崎は長い間言葉を探していたが、やがて無言で椅子から立ち上がると、先日ユウが缶コーヒーを買っていた自販機に向かった。そして同じ缶コーヒーを買い戻って来ると、それをユウに向かって放り投げて言った。
「この前のお返しだ」
呟くようなユウの「ありがとう」は、岡崎に届かないくらい小さかった。
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