「1986年 岡崎恭介 45歳」act-1 <手相占い>
品の良い中年紳士達をタクシーで送り出し、女将は車に向かって深々とお辞儀をした。
午後十時、赤坂の裏路地。
折りたたみの椅子に腰掛けた岡崎は、その光景を路の反対側からぼんやりと眺めていた。小さなテーブルの上には、“手相鑑定”と手書きされた和紙のプレートが置かれている。
老舗の料亭がぽつぽつと並ぶこの薄暗い通りで、彼が手相占いを始めてもう三ヶ月が経つ。生暖かくはっきりしない夏は終わり、夜風がひんやりと感じられる日が増えてきた。
岡崎恭介は、中堅の食料品会社に勤めるサラリーマンである。四十五歳での部長職は、同期で一番の出世だった。顧客からの信頼は厚く、部下からも慕われている。その岡崎が会社帰りに、こっそりと手相の鑑定をしている理由‥それは家庭にあった。
二十九歳の時に妻と別れた岡崎は、その二年後、離婚の原因となった不倫相手の女性と再婚した。しかし、高校時代からの長い付き合いを経て結ばれた初恋の女性、そして生まれて間もない娘を捨てて選んだ生活は、数年で行き詰まりを感じることになる。
妻に対し、とりたてて不満があるわけではない。ただ、子供もなく二人だけで過ごすガランとした家、空間そのものが、漠然とした閉塞感となって岡崎を追い詰めていた。それは、岡崎自身の人生に対する虚無感でもあった。この先、繰り返されるであろう日常、変化せぬ膨大に残された時間‥仕事をしている時はまだマシであった。しかし妻と二人だけで過ごす家庭での時間、それがたまらなく苦痛であった。
仕事を終えた岡崎が、まっすぐ家に帰らなくなったのは今年の始め頃だ。最初のうちは部下を誘って飲みに行ったり、一人で赤提灯の暖簾をくぐったりしていたのだが、やがて沿線の駅で電車を降り、見知らぬ街を徘徊したり、公園のベンチで無意味に時間をやり過ごしたりするようになった。自宅に着いても玄関を開けることが出来ず、長い時間、自分と妻の名が刻まれた表札を眺めていたこともある。偶然手にした週刊誌の特集記事に、『帰宅拒否症候群』という現代病の名前を見つけたのは春先のことだ。症例のあまりの一致に冷や汗が出た。
そんな時岡崎は、別れた妻が凝っていた手相占いを思い出した。研究熱心な彼女の相手をしていたおかげで、手相に関して学が深くなっていた。岡崎は折りたたみの椅子とテーブルを買い、通勤時とは別の背広に着替え、人通りの少ないこの路地裏の一番目立たない場所を選び、ひっそりと手相の鑑定を始めたのである。
にわか知識のせめてもの償いとして、鑑定代は無料にした。無料という胡散臭さが客付きを悪くしていたが、岡崎にとっては返って好都合であった。商売っ気など毛頭ない。とにかく帰宅前に、時間を潰す場所さえあればよかったのだ。
道行く人の群れから圧倒的に低い目線‥岡崎は変装用の眼鏡の奥からそんな光景を眺めて過ごす時間に、不思議な安堵感を覚えていた。
勿論、そんな岡崎の前で足を止める人達もいる。帰宅途中のOLや出勤前のホステス。彼女達は岡崎の鑑定に最初から過度な期待などしていなかった。興味本位と単なる暇つぶし。岡崎は鑑定人と言うより、彼女達の職場や恋人に対する愚痴の聞き役のようなものであった。
だがそんな彼女達との会話が、岡崎の持て余した時間とまとわりついた虚無感を、わずかながら埋める役割を果たしていたのである。
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