「2019年 榊 謙一郎 49歳」act-3 <夜のホテル 後編>

「私、誕生日に欲しいものがあるの」

雨音が蘇った。視線を向けると、部屋の片隅にある鏡台で瑠璃子が化粧を直している。「何だ?」という健一郎の問いかけに、瑠璃子は手にしたルージュで鏡に何か描き出した。

「おいおい、何を‥」

健一郎が言葉を失ったのは、彼女が描こうとしているものが分かったからだ。

「ダメ?」

甘えた声で振り返った彼女の背後に、真っ赤な猫の顔がある。

「最近、ひとりで部屋にいると寂しくて‥なんちゃって」

瞬きを忘れたかのように、鏡を見つめる健一郎に向かって「あっ、深い意味ないですよ」と少し慌てて瑠璃子は付け加えた。

「‥」

「どうしたの?」

「‥怒られるぞ。消せよ」

彼女は「はいはい」と返事をしながら、テイッシュで鏡面を擦り始めるが、ルージュは意外に頑固でなかなか消えない。

「まっ、いいか」

諦めた瑠璃子は「でも、私のマンション、ペット禁止なんですよね」と言って笑った。

鏡の中で崩れた赤が、霞のようにぼやけて残されている。

「何だ、それ」

 謙一郎は精一杯笑い返したつもりだったが、鏡に映った自分の顔は、泣きべそをかいた子供にしか見えなかった。

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