「2019年 榊 謙一郎 49歳」act-1 <夜のホテル 前編>
要領を得ない部下の言葉にイラついていたためか、彼女の唇の動きが何を伝えようとしているのか分からなかった。人差し指が自分の左手を指していることで、落ちそうになっている灰に気付いた。
榊 健一郎は短くなった煙草を慌てて揉み消し、右手に持っている携帯を強く耳にあてると、明日の案件について手短に要点をまとめ始めた。視界の片隅に瑠璃子がベッドから身を起こし、長い髪をかきあげる仕草が映る。露わになった乳房を隠す羞恥心は、もうない。
「内野君、大丈夫ですか?」
切った携帯をルームキーの横に置き、腰に巻いたバスタオルをずり上げながら椅子を立った健一郎に、瑠璃子は会社にいる時のような口調で言った。
だが会社では“内野さん”である。一つ年上の先輩を君付けで呼んだのは、上司といる優越感なのか、それとも知らぬところで親密な付き合いでもあるのか。
「大丈夫じゃないと困る」と答えベッドに滑り込んだ健一郎に、瑠璃子はふわりと覆いかぶさり「ですよねぇ」と言って軽く笑った。
窓を叩く雨粒の音が激しくなっている。明日の遠足を楽しみにしていた娘の顔がふと脳裏を掠めた時、それを遮るかのように赤い唇が押し付けられた。
抗えない媚薬のように思えた若い女特有の匂い‥が、その効力はすでに失せている。背徳を貪る季節は終わっていた。そしていつものあの光景が、健一郎の胸を強く締め付け始めた。
ぽつんと佇む少女と、その髪で小さく揺れる青いリボン‥
滲む新宿のネオンに幼い記憶が重なる。
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