「1998年 垣内和彦 30歳」act-6 <嗚咽>
由美の家を出て垣内は電車に乗った。バスに乗り換え十分ほど揺られると、女性のアナウンスが懐かしい停留所の名を告げた。
バスを降り、塾帰りであろう小学生達と擦れ違いながら夕闇の道を歩く。やがて見えて来た彼の実家は、台所に明かりが灯っており、魚でも焼いているのか、細く開けられた窓から煙が立ち上っていた。
玄関を開けると、エプロンで手を拭きながら出て来た母親に迎え入れられた。台所に行くと父も帰宅している。突然帰って来た息子に、二人とも、降って湧いた祝い事のように驚き喜んでいる。
「早く手を洗ってらっしゃい」
子供を促すような口調で母に言われ、洗面所で手を洗い台所にもどると、父がビールの栓を抜いていた。
「一杯やろう」
食卓に着き、父からグラスを受け取りビールを注いでもらう。手酌で自らのグラスを満たした父と乾杯し、母の手料理がポツポツと並ぶテーブルを挟み、両親と向かい合った。
「どうだ、東京での生活は」
父の問いかけに、垣内は都会での充実した日々を語る。大手のスポンサーを複数抱え忙しさに追われる日常‥息子の言葉に父は感嘆し母は嬉しそうに聞き入る。
しかしそれは全て偽りだ。東京に出てすぐに、勤めていた広告代理店は辞めていた。以来定職には就いていない。今は歌舞伎町で知り合った水商売の女性と同居している。
作り話を語る息子に、母がご飯と味噌汁を盛り付けた。煙の正体は秋刀魚であった。垣内の前に一匹、父と母の前には半分の切り身が置かれている。
二人とも三年前の話には全く触れようとしなかった。垣内は、母の作った味噌汁を手にした。湯気の向こうに、少し年をとった両親の笑顔がある。
突然垣内の頬を、はらはらと涙が伝った。自分が捨て去った時間の中で、消えることなく静かに息づいている優しさがある。
—ずっと一緒にいてねー
由美の声が聞こえたような気がした。味噌汁を手にしたまま嗚咽する垣内のグラスに、父親がそっとビールを注ぎ足した。
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