「1998年 垣内和彦 30歳」act-5 <約束>
知らなかった。何も言わず、ぷいと東京に行ってしまった不肖の息子の代わりに、父と母は頭を下げにこの家へ来ていたのだ。三年間、連絡ひとつ入れないような親不孝な息子のために‥
垣内は、自分の感じていた違和感の謎が解けたような気がした。
「実は今日、僕は門前払いされても仕方がないと思って来たんです。それなのに、おばさんは優しく迎えてくれて‥父と母のおかげだったんですね」
「いいえ、違いますよ」
彼女はゆっくりと首を振り、由美のベッドに腰掛けると言葉を続けた。
「確かに親御さんの気持ちは伝わりました。でもね、それは別の話です。一人娘があんなに傷つき、悲しむ姿を見た親の気持ちがわかりますか?私はあなたを憎みました。許せませんでした」
垣内は軽率な言葉を恥じた。当たり前だ。自分のしたことは、そんな簡単に許されるものではない。謝罪したのは垣内の親であって、当の本人は逃げ回っていただけだ。
「ではどうして、僕を責めないのですか?」
「あれは、由美が死ぬ一週間ほど前だったと思います。あの日由美は何だかとても元気で、病室で付き添いをしていた私と久し振りにたくさんの話をしたんです」
彼女は遠い目をして続けた。
「その時、垣内さんの話になってね。お別れして以来、家ではあなたのことが会話に出ることはなかったのですが、あの時は由美が切り出したのです」
鼓動が高鳴り始めた。
「楽しい話ばかりでした。あなたと旅行に行った時のことや、初めてこの家に来た時の話やら‥でね、最後にあの子、妙に改まって私に言ったんです」
垣内は言葉を待つ。
「あなたに結婚の申し出を頂いた時、ひとつだけ約束をしてもらったって。でもその約束を、結婚していたら自分が守れなかったかもしれない。だからもし垣内さんに会う機会があっても、絶対に彼を責めないでねって」
約束?由美が守れなかったかもしれない‥?何のことだ
虚ろな目で立ち尽くす垣内に「下へ行ってますね」と告げると、母親は部屋を出て行った。
先ほど彼女が開けた窓から斜光になった秋の西日が差し込み、部屋全体を暖かな色に染めている。机の横には飾り棚があり、天板の上に香水の瓶と並んで写真立てがひとつ置かれていた。幼い頃の彼女の写真だ。お揃いの青いリボンをした猫と一緒に写っている。
—可愛いでしょー
初めてこの部屋に入った時、由美はちょっと自慢げにそう言って笑った。その写真立ての隣には、小さなサンタクロースの人形がちょこんと置かれていた。
サンタは、背丈に似合わぬ大きな袋を背中に背負っている。
垣内は息を飲んだ。あの日由美は、窓際に佇み外にチラつく雪を眺めていた。不恰好な袋を、サンタにくっつけたのは自分だ。そしてプロポーズの言葉とともに彼女に渡した。
まさか‥垣内は人形を手に取り、その背中から袋を外し逆さにした。中から小さなものがころころと掌に転がり落ちる。西日を反射して光るそれは、由美に贈った婚約指輪だ。彼女の笑顔と言葉がはっきりと蘇る。
「ずっと一緒にいてね」
身体中の力が抜けた。あの日由美と交わした約束‥そのあまりに残酷な結末と、彼女の深い想いを受け止める甲斐性など、垣内のどこを探しても無かった。
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