「1998年 垣内和彦 30歳」act-3 <裏切り>
由美と付き合い始めてすぐに、垣内はこの家に招待された。最初はかなり戸惑いがあったが、やがて入り浸るようになる。
由美は、早くに父親を亡くしたと聞いていた。男の気配の無い家庭環境‥母と娘にとって垣内は特別な存在であり、その丁重なもてなしが居心地良かったのだ。由美も同じ県内にある垣内の実家には、よく遊びに来ていた。明るく料理好きな彼女は、垣内の両親にも好かれていた。
由美に結婚を申し込んだのは、付き合い出して二年が過ぎた時だった。
就職した東京の広告代理店でのハードな仕事にも慣れ、ようやく学生気分が抜けてきた頃だ。由美は川口市の中学校で音楽の教師をしていた。ロック好きな彼女が、すました顔でクラシックを教えている様を想像すると可笑しく、そのことで垣内はよく由美をからかった。
将来の展望が確実に見え始めたこの時期、垣内の前に一人の女性が現れる。彼が担当するローカルCMに出演した二十歳になったばかりのモデル‥若輩のはずの垣内も、彼女にとっては大人のクライアントだった。
甘ったるい接近が営業の一環だと分かってはいた。だから最初は、ちょっとした遊びのつもりだった。しかし、一度深い仲になると抜け出られなくなった。垣内は唐突な別れを由美に告げると、逃げるように地元を離れその彼女と東京で暮らし始めた。
だが悲壮な決意とは裏腹に、その女性との生活は半年ほどであっけなく終わる。何の前触れもなく、彼女は垣内の前から姿を消した。長髪の若い男と腕を組んで歩く姿を街中で見かけたのは、それから一ヶ月ほど経った頃だ。
ずっしりと背中にのしかかる挫折感。そして、由美を裏切ったことに対する遅過ぎた呵責の念‥雑踏の中に、自分の身体が少しづつ沈んでいくあの感覚を、垣内は今でもはっきりと覚えている。
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