【テーマ】信用のない幻覚
この世の中で、信用できないもの。
一位、「信じている」という熟慮のない言葉。
二位、「良いヤツだ」という中身のない賞賛。
三位、「大丈夫」という根拠のない励まし。
私は、何も信じない。誰も、信じない。などと言ってしまえば、随分と偏屈なひねくれ者のように思うだろう。私の過去には、それはそれは壮絶な悲劇があったのかもしれないと想像するだろう。
けれども、それは違う。
何もなかったのである。
私は、この四十余年の人生で、何も為さなかったのだ。
恋愛など、生まれてこの方一度も経験していない。
友情など、生まれてこの方一度も味わっていない。
あるいは、それを哀れに思う人もいるだろうが、それも違う。
私は、生まれてこの方幸福なのだ。
なぜなら、一度として裏切られたことがないのだから。
などと、そんなことを語って聞かせると、彼女は笑った。
私を心底嘲笑うような、そんな乾いた声だった。
「いや、それって酸っぱい葡萄じゃん」
「……なんだと?」
四十年にも及ぶ私の人生における一つの結論──哲学をこうも一蹴されるとは。
信じられず、彼女の顔を見る。
呆れたような笑みを湛えて、彼女は言った。
「誰とも関わらなかったからこそ、裏切られることもなかった。とかさ、くだらなくない? なんか、とんちが効いてるって自慢に思ってそうでウケルんだけど」
「うける? なぜだ? 人と関わるのはくだらないことだろう? 短いはずの人生を、何故他人のために使わなければならないのだ。実にくだらないな」
「ほらそれ。キミはさぁ……人と関わったこともないくせに、どうしてそれが無駄だって言えるのかな? 知らないことを、きっとこうだろうって決めつけるのって、それこそくだらないでしょ」
「……分かり合えんな。時間の無駄だ」
「ほら、そうやってすぐに諦める。卑怯だねぇ」
楽しそうに笑う彼女に向けて、あからさまな侮蔑の視線を送った。
私は、彼女について考える。
三日前、彼女は突然現れた。
朝、目が覚めて、仕事に向かい、帰宅した。
いつも通り、部屋の電気を点け、帰宅途中に購入した出来合いの夕食を机上に並べた時、気が付けば真正面に座っていたのだ。
彼女は何者なのか。
そう問いかけると、彼女は答えた。
──私は、幻覚だよ。孤独なオジサンが脳内に創り出した幻覚。
……くだらんな。つかれているのだろう。そう思った私は、彼女を無視して、夕食も摂らずに眠りについた。が、翌日も、翌々日も彼女はそこに居た。
だからこそ、半ば諦観を抱きつつ、私は彼女との対話を試みたのだった。
くだらない徒労に時間を使ってしまったことに、そこはかとない疲労感を覚えつつ、私は彼女に呟いた。
「全く。私が生み出した幻覚のくせに、どうして私のことを理解できないのか」
彼女は笑った。
「キミが、自分のことを理解してないからだよ」
「そんなはずがないだろう? 私は、誰よりも私を知っている」
「ううん。それは嘘。キミそれは、夢見てるよ」
「あぁ、そうだろうな。この状況が夢幻の如くなり、だ」
「……そういう話じゃないのに」
ぼやく彼女を無視した私は、今日も早めに床に就いた。
明日も仕事があるのだ。
やはり、疲れが抜けていないのだろう。
明日目が覚めれば、彼女は影も形も残さずに消えていることだろう。
〇
翌日も、彼女は消えていなかった。
つかれているのだろう。
仕事に行って、帰宅して、一言二言言葉を交わした後、すぐに寝た。
〇
翌々日も、彼女は消えていなかった。
つかれているのだろう。
仕事に行って、帰宅して、一言二言言葉を交わした後、すぐに寝た。
〇
翌々々日も、翌々々々日も、翌々々々々日も、翌々々々々々日も──。
気が付けば、彼女が現れて二度目の冬が来ていた。
毎晩のように同じ話をしていた。それは私の性格について。
なんの新鮮味もない退屈な会話だった。
よくもまあ、彼女も頑なに意見を曲げないものだと思う。
……呆れた。呆れつつも、彼女と過ごす日々の中、私は、私自身の胸の内に奇妙な感情が湧き上がっていることに気が付いた。
ある晩、私は彼女に問いかけた。
「一体どうしたら、お前は消えてくれるんだ」
彼女は答えた。
「キミがその在り方を改めたらね」
「改める……一体何を?」
「だから、その厭世的な生き方を、だよ」
「厭世的……?」
間抜けにもオウム返しに呟いてしまった。
瞬間これを好機と見たか、彼女は得意げに言った。
「厭世的っていうのはね、悲観的になりすぎてるって意味だよ。生きるのが辛くて苦しくて、だからネガティブになってる様子のことね。全く、私が居ないとキミはダメダメだね」
……そういう意味ではない。
目を細めて彼女を睨めつけ、溜息交じりに呟いた。
「……馬鹿にするな。それくらいの意味は知っている。私が分からないのはお前の発言の意図の方だ」
「私はキミが作った幻覚だよ? だからキミのことはちゃんと知ってる。……いや、キミ以上にキミのことを知ってるんだよ?」
「……」
私は黙った。
確かに彼女は私が作った幻覚だ。
彼女は私以外には認識できないようだった。先日我が家に来た宗教の勧誘を追い返すように彼女に命令したものの、若い宗教家の男性には彼女の姿は見えず、声も届かなかったのだ。
そのうえ、彼女は私のことを知っている。以前はそんなはずがないと思ったりもしたが、それが思い違いであったと確信した。
彼女は私以外には知らないはずの、幼い頃の話を知っていた。
それは、とある過去の出来事。
中学生の頃、ありふれた、どこにでもあるような友情とも愛情ともつかない幼い感情の話だ。だからこそ、彼女は私であり、あるいは私も彼女なのだろう。
私は、諦めて呟いた。
「まあ、お前の言うことも一理あると、最近は思い始めているのだ。確かに私は厭世的かもしれないな」
諦める、というのとは違うと思うが、ほとんどそれと相違ない。実際のところ、独りで生きて来た私だけれど、時折言葉にならない寂寥感に咽ぶこともあった。
認めがたいことではあるが、私は確かに酸っぱい葡萄の童話のように、手に入らない他者というものを心のどこかで求めていたのかもしれない。
なんて、柄にもなくそんなことを想うけれど、
「おっ、どういう心境の変化かな? 全く随分と時間がかかったね。でも、それに気づけたなら、キミは大丈夫だよ。だって、キミは本当は良いヤツなんだからね。私はキミを信じているよ」
ほら、この通り。
信じかけても彼女は決まってこう言った。
この世の中で、信用できないもの。
一つ、「信じている」という熟慮のない言葉。
二つ、「良いヤツだ」という中身のない賞賛。
三つ、「大丈夫」という根拠のない励まし。
そして何よりも──。
こんな幻覚を見てしまうような、私自身が何よりも、信用に欠ける存在である。
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