【テーマ】ふわゆるなあの子

 私、もっと自由になりたい。

 好きなことを好きって言ったり、嫌いなものを嫌いって言いたい。周りの顔色を気にして、誰も傷つけず、誰にも傷つけられないために生きることには、もう、飽きちゃったんだ。

 だから、私、もっと自由になりたい。

 そう言うと、あの人は笑ってくれて、それから白魚みたいに細長く白い指を目いっぱいに開いた掌で、優しく、だけど力強く私の頭を撫でてくれた。


「そうだね。そう生きられたらきっとサイコーだろうね」


「私、センセイみたいになりたいの。センセイは、自由じゃないの?」


「……本当に自由なら、私はこんな場所には来なかった。あんなことだって、しなくて済んだ。……なんてね」


 遠景に揺らめく夕日に目を細め、センセイは寂しそうに呟いた。

 町の外れの高台の、五丁目公園の奥深く。他人の一切近寄らない林の奥。そこが、私とセンセイの秘密基地。お母さんも、お父さんも、もう決して知るのことのできない、私たちだけの居場所。

 私よりも随分と年上のセンセイは、大学生らしい。ふわふわに巻いた髪の毛に、薄ピンクのドレスみたいなワンピースをいつも着ているセンセイは妖精みたい。

 言われてみれば、センセイの格好はこんな小汚い林の奥には似合わない。

 そしたら、この人も自由ではないのかもしれない。


「ねぇセンセイ? 私、じゃあ、自由じゃなくていいよ。センセイみたいになりたいの」


 どうすれば、センセイみたいに可愛くなれるのかな。困っている人を──四日前、私を助けてくれたみたいな、格好いい人間になれるのかな。

 訊ねるけれど、センセイは何も言わない。

 代わりに、ゆっくりと溜息を吐きながら首を振った。


「センセ……?」


 それは、少しだけ怖かった。……いや、うそ。とっても、怖かった。

 腹の底がさぁっと冷たくなって、足の裏が地面から離れてく感じ。身体が宙に浮いて、それでふわふわした感じがして、すぐ、地面に強く叩きつけられる。みたいな。

 何度となく経験した感覚。

 それは、私がダメだったとき、お父さんとお母さんに味わわされる感覚だった。

 きっとこの人は、オロカでニブイ失敗作の私に、がっかりしているのだろう。

 背中に冷や汗が伝った。

 意味もなく、足の裏で地面の枯れ葉を擦ってみた。

 うん。大丈夫。まだ、足は地面に着いてるね。

 センセイはすぐ、はっとしたような顔をして、私を抱きしめてくれた。


「ごめんね。大丈夫。私は、キョウちゃんにがっかりしてるんじゃないよ。私は、自分にがっかりしてるんだ」


 いい?


 そう言って、センセイは随分と長いこと、センセイの本当の気持ちを教えてくれた。

 本当は先生もうまく生きていけないような、そんなオロカな人間であるということ。

 キョウちゃんの前だから、つい格好つけてしまうんだってこと。

 あの日、お父さんとお母さんにいじめられていたキョウちゃんを助けたのは、本当にただの偶然だったっていうこと。

 そして、さいご。

 センセイは、もう、この場所には来られないということ。

 

 全てを聞き終わって、私はセンセイに訊き返す。


「センセイとは、もう二度と会えないの?」


 センセイは頷く。

 涙が零れた。


「どうして?」


 センセイは何も言わない。

 涙が零れた。


「お願いだから、嘘って言ってよ。センセ? センセ?」


 センセイは、何も、言えない。

 だって、最初に泣き出したのは、センセイの方だったから。

 だから、もう、私は限界だった。

 私の視界は、少しずつ水っぽく歪んでいく。

 嘘だと思いたかった。

 

 センセイだけなのだ。

 

 こんな私を、可愛いと言ってくれたのは。

 

 センセイだけなのだ。

 

 こんな私を、立派だとほめてくれたのは。

 

 テストでいい点数を取れなくたって、

 かけっこでびりになったって、

 ピアノの発表会で失敗したって、

 お父さんのお母さんの言いつけを守れなくたって──。


 ──こんな私でも、特別なんだって。

 

「センセ、センセ。お願いだよぅ。置いてかないでよぅ……」


 センセイの身体にしがみ付いて、お願いをする。

 だけど、センセイは首を振った。


「ごめん。ごめんね、キョウちゃん。私ね、もう、ここには帰ってこれないの。だから、さよならなんだよ。許さないでね。嫌ってね。怒ってね。それでね、それでね──」


 どうして、そんなことを言うのだろうか。

 分からなかった。

 だから、センセイはすぐ、答えを教えてくれた。


「私ね、本当はね──ずっとずっと、」


 一呼吸分。すぐ、続く。


「ずっとずっと、宙ぶらりんだったの。何をしたいのかも、どこに行きたいのかも、全部、分からなかったの。だからね、キョウちゃんみたいな子供を助けることで、私だって、何かができるんだって、そう思いたかったの。でも、駄目みたい。間違えちゃった。キョウちゃんはね、自由に生きてね。大丈夫だよ。この世界の大人の人たちはね、本当はもっともっと優しいんだよ? あんなふうに、自分の子供をいじめたりしないんだよ? あんなことを、するはずがないんだよ? お願いだから……許してね」


 センセイは、随分と長いこと話していた。

 わたしはもう、途中から息もできないくらいに泣き出して、何も言えなかったし、何も聞いて居られなかった。

 気が付けば、眠っていたみたい。

 気が付けば、もう、センセイはいなかった。

 


 あの頃のことを、思い出していた。

 センセイも、お母さんもお父さんも居なくなって、独りぼっちになった私だけれど、こうして何とか今の今まで生きることができた。

 あの頃のことを思い出すと、胸がきゅっと苦しくなった。


 多分、私もセンセイも、同じだったのだろう。


 どこにも居場所がなくて、宙ぶらりんでふわ浮いている自分を、それでも誰かにして欲しかったんだ。

 ふわゆるなあの人は、もう、この世界のどこにもいない。

 だから、私だけが、いまも、ふわゆる。

 ずっとずっと、独りきり。

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