8-3 社畜の幻影

「くそっ!」


 あたふたと、ガトーが立ち上がる。大きな音を立て弁当箱を蹴散らすと、ショートボウに矢をつがえた。隣でエリンがボウガンのハンドルをカタカタと回し、弓を引いている。


 ガトーの前に、俺は駆け込んだ。すでに胸に妖精プティンが収まっている。


「クイニー、来いっ」

「お、おう」


 幾分へっぴり腰ながら、新米剣士クイニーが俺の左に立った。一瞬、背後を振り返るとティラミスもマカロンも、決められた位置に陣取っている。魔道士ボーリックはもう口の中でもぐもぐと詠唱を始めている。


「ど、どんな奴っすかね、ブッシュの兄貴」


 クイニーは泣きそうだ。初見の邪神が相手と知り、腰が引けている。


「知らん。でも俺達は勝つ。思いっ切り戦え」

「くあー、怖えーっ。ブルるぜ」


 ドン――と音を立てて、すぐ前の地面が噴き上がった。まるで中からなにか飛び出したかのように、土が舞い上がる。


「な、なにも居ないっす」

「ブッシュ」


 プティンが俺の胸を叩いた。


「珠っ。それで見えるようになる」

「わかってる」


 王女から手渡された「加護の珠」を、懐から取り出した。


「姿を現せ、邪神野郎っ」


 高々と掲げる。その瞬間、鈍色の珠が真っ赤に輝いた。目もくらむほどに。


「うおっ、眩しい」


 こらえきれず一瞬、目をつぶってしまった。この瞬間を狙われたら、死ぬだけだ。無理やり目を開けると、もう輝きは消えていた。


 そして……奴が立っていた。モンスターでもなんでもない。ただの人間。見覚えのある男。そう、前世で俺を地獄に叩き落としたカス上司が。


「綾野、お前、またドジ踏んだのか」


 スーツ姿。眼鏡越しに、冷たい瞳を俺に投げる。


「使えん奴だ」

「てめえが俺の業績、盗んだんじゃねえか」


 俺は底辺を這いずり回ってきたが、中でもドツボに落ちて這い上がれなくなったのは、こいつのせいだ。半年も苦労してまとめ上げた俺の成果を横取りした上に、バレないように速攻で俺を底辺子会社に転籍させやがった奴。あまりに労働環境と人間関係が悪く、離職者続出の問題子会社に。俺がとっとと辞めれば、こいつは完全犯罪成功だからな。


 俺は歯を食いしばって耐えたよ。このカスの思うツボだけには、はまるまいとな。


「この野郎っ。ここで会ったが百年目だ」


 剣を抜いた。


「覚悟しろっ!」


 走り出そうとした俺は、剣を持つ腕を、誰かに掴まれた。


「だめっ! ブッシュさん」


 ティラミスだ。華奢な体なのに信じられないほどの力で、俺の腕を取っている。


「あれは幻です。ブッシュさんを間合いに誘い込むための罠ですよっ」

「そうだよブッシュ、目を覚まして」


 プティンが俺の胸を叩き続けていた。


「くそっ」


 頭を振って、怒りをなんとか吹き飛ばした。思考力が戻ってくる。


 あの邪神、俺の弱点を的確に突いてきた。しかも俺が一瞬でヒートしたってことは、単に幻影を見せてきただけじゃない。きっと俺達の激情を、ある程度コントロールできるんだ。思考力を失わせるために。


「みんな落ち着け、あれは幻影だっ」


 振り返ると、だが全員、大混乱に陥っていた。


「か、かあちゃんがゾンビに……」


 クイニーはがくがくと震えている。なんとか構えている剣は、左右に大きく揺れていた。


「いやあーっ! し、触手来ないでっ」


 ボウガンを取り落とし、エリンは頭を掲げている。


「大法院のカス野郎めっ」


 ショートボウを放り投げたガトーが剣を構えて敵をめがけ突っ込んできたので、やむなく殴り倒した。


「しっかりしろ、ガトー。あれは人間じゃない」

「お、俺は……」


 倒れ込んだまま、頭を振っている。


「あっちとこっち、ランスロット卿がふたりも……」


 ノエルは絶句。


「ラ、ランスロットのおじちゃん……」


 マカロンは呆然としている。どうやら、ノエルとマカロンは敵にランスロット卿の幻を観ているようだ。当のランスロット卿はというと……。


「ま、魔王……さ……そんな……」


 頭を抱え、しゃがみ込んでいる。


「く、黒の魔道士……」


 棒立ちになったボーリックが、呆然と呟く。


「みんな、しっかりしろっ」


 どうやらティラミスとプティン以外、俺も含め全員おかしくなってたみたいだ。敵の幻影攻撃によって。


 どうしたらいいんだ。このままではろくに戦えないまま、ここで全滅する。邪神と呼ばれる、異世界の神の残存思念によって……。


 俺の額を、汗がひと筋流れ落ちた。

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