第六小節 武藤りきた
この物語はフィクションです。実在する人物、団体、企業とは一切関係がありません。
数日後、昼の12時半頃、ブツが届いた。
心底嬉しかった。
命の次に大切に思い、そして失って諦めてしまっていた宝物がもう一度この手に戻って来たのだ。
こんな僥倖がこの世にあるのだと、神に感謝すらした。
僕はすぐにDVDをプレイヤーにセットし、観始めようとしたのだが、問題が一つあった。
その日は13時から喫茶店のシフトが入っていたので、30分後には出勤しなければならない。
僕は最初の一曲目だけを観て、少し感動した後、
「帰って来たら思う存分観よう」
と思い、プレイヤーを止め、バイトに向かった。
いつもの仕事だ。
僕と、バイト仲間かつバンド仲間の能代と、社員の女子の三人で店を回す。店長は非番だ。
しかし今日という素晴らしい日に限って、憂鬱が襲って来た。
部長が店舗に来たのだ。
いつものように部長は社員の女子にパワハラをする。
バイトである僕と能代は、触らぬ神に祟りなしとばかりに黙々と仕事をこなす。
暫くすると部長は、社員の女子と僕と能代をレジの横に呼び寄せ、いつもの小言を始める。
グダグダグダグダグダグダグダグダグダグダグダグダ…
「…はい。…はい。…はい。」と言って僕らは聞いている振りをしながら聞き流す。
しかし。
今日という日に限って、部長は聞き捨てならない言葉を放った。
「グダグダグダ……会社の経営状態がうまくいっていないのは 君 ら バ イ ト が サ ボ っ て いる せ い な ん だ か ら な !」
「…はい…。」僕は声を絞り出すように答えた。
「じゃぁすぐに仕事に戻れ!」部長は言う。
僕はその時、店頭販売をしていた最中に呼び出されたので、また店の外に出て店頭販売を再開した。
店頭販売には戻ったが僕は売り口上の声が出なかった。
僕は立ち尽くし、呆然としながら考えをめぐらせていた。
僕はこの喫茶店でサボったことなど一度もないつもりだ。
と、同時に、僕は「自分はロックンローラー」だと思っている。
上司に理不尽な事を言われて、「はい。」と答えて素直に従うのは果たしてロックンローラーとしてあるべき態度だろうか。
ジョン・ライドンがもし僕の立場だったら果たして同じように「Yes,sir.」とだけ言って上司に従うだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=cBojbjoMttI&ab_channel=jaroshy
カート・コバーンがもし僕の立場だったら果たして同じように「Yes,sir.」とだけ言って上司に従うだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=hTWKbfoikeg&ab_channel=NirvanaVEVO
あらゆる伝説のパンクミュージシャン達がもしも僕の立場だったら果たして同じように「はい。」とだけ言って上司に従うだろうか。
わからない。
三年間我慢した。部長の理不尽に。耐え続けてきた。
僕はここで従うのは違うと思った。僕はサボっていない。
経営が傾いているのは僕らバイトのせいじゃない。
僕はロックンローラーだ。
だが、今日、このまま部長の理不尽を受け入れるなら、僕のロックンローラーとしてのアイデンティティーは崩壊する。
僕は永遠に「理不尽な上司に頭を下げた男」としてしかロックができなくなる。
永遠に胸を張ってドラムを叩くことはできなくなる。
歌を歌う時も、ギターを弾く時も、僕はいつもこの部長に頭を下げた事を思い出しながら演奏する事になる。
僕はロックンロールができなくなってしまう。
僕はロックンローラーではなくなってしまう。
僕の中で怒りが頂点に達した。
店の中から僕を呼ぶ声がする。また部長が呼んでいるようだ。
僕が店内に戻ると部長が寄ってきて何かを喋りだした。
僕はただ部長の前で立っていた。自分がまばたきをしていないのがわかった。
部長の言葉は一言も僕の耳からは入って来ない。
何か僕を非難しているようだ。
僕はもう心を決めていた。
「おい!聞いているのか!?」部長が言う。
「おい!」
「荻堂!」異変を察知した能代の声が聞こえる。
次の瞬間僕の右手の握り拳が部長の左頬に飛び込んだ。
倒れる部長。
何事かと、急に静まり返る店内。
「あーあ。やっちゃった。。」能代の声。
部長がおもむろに立ち上がる。
人間って意外と一発でKOできないものだな。と思う。
「何をするんだ急に!」
と叫ぶ部長の左頬にもう一発僕の右手握り拳が飛び込む。
再び倒れる部長。
僕はもう怒りの塊となっていた。
再び部長が立ち上がる。
「何をするんだ!」
もう一発右手の握り拳は部長の左頬に飛び込む。
三たび倒れる部長。
倒れている部長に向かって僕は絶叫した。
「経営状態が悪ぃのはてめぇのせいだろうが!」
「え?」部長は倒れたまま左頬を押さえ、あっけにとられたように答える。
僕はもう一度絶叫した。
「経営状態が悪ぃのはてめぇのせいだろうが!」
しばらく固まっていた能代が僕の背後に駆け寄り、僕を羽交い絞めにした。
「荻堂!」
部長は倒れた状態で左頬を押さえたまま黙った。
僕は能代に羽交い絞めにされて少しだけ正気を取り戻した。
部長が三たびは立ち上がろうとしないのを見た僕の殺気が少し収まったように感じたのか、能代が羽交い絞めを解くと、僕は休憩室に向かった。
次期社長を三回殴った以上、もうここにはいられない。
店を辞めるつもりだった。
自分の荷物を全てまとめて、休憩室を出る。
店内に戻ると部長は立ち上がっていた。部長の横を通り過ぎようとした僕の左腕を、部長は掴み、言った。
「お前はそこまでの男か?!」
僕はその言葉がなんだか非常に滑稽に思えて、半分笑って答えた。
「は?(笑)」
部長の手を振りほどき店を出た。
すると部長が追いかけてきて道端で叫んだ。
「お前を傷害罪で告訴する!」
僕は部長に軽蔑の眼差しを注ぎ、帰ろうとした。すると部長は僕の左腕をもう一度掴み、言った。
「お前を傷害罪で告訴する!」
再び怒りが頂点に達した。
「やれるもんならやってみろこの野郎!!!」
この物語はフィクションです。実在する人物、団体、企業とは一切関係がありません。
僕は駅前の交番にいた。
部長はなにやら警官に事情を説明しているようだ。
別の警官が僕の前に座って言った。
「何か身分証明できるものとかありますか?」
僕は普段まともな身分証明書を持っていないため、数年前海外旅行に行った際に作ったパスポートを携帯していた。
「はい!!なんでもご自由に調べて下さい!」
パスポートを含めた、リュックサックの中に入っているものを自ら全部出して見せた。
「先方さんが告訴するって言ってるからこれからパトカー来て沼上警察署行くけどいい?」
「なんでもいいですよ!」
生まれて初めてパトカーに乗った。まさか自分が容疑者として乗る日が来るとは思っていなかった。
念の為僕が逃げないようにだろう。僕は後部座席の真ん中に座らされ、二人の警官が左右を固める。
僕が抵抗する意思を見せなかったからなのか手錠はされなかった。
所轄の沼上警察署に向かう車中、僕はどの警官にともなく、聞いた。
「実際の暴力より、言葉の暴力の方が酷くないですか?」
一人の警官が答える。
「うーーーん。気持ちはわかるんだけどねえ。手ぇ出しちゃ駄目なんだよー。」
僕は黙った。
沼上警察署に到着すると僕は驚いた。
数十人の警官がズラリと並んで、僕が乗ったパトカーを待っていたのだ。それはまるでヤクザの若い衆が親分を出迎える時のような光景だった。
恐らくは署内中にアナウンスが流れたのだろう。
「容疑者荻堂圭が連行されます」と。
僕は、自分が傷害罪の容疑者になったことを思い知らされた。
僕は取り調べ室らしい部屋に通された。TVドラマで観るような薄暗い雰囲気ではなかった。卓上ライトもなかった。6畳位の普通の事務室という感じだ。
数分黙って座っていると、年配の警察官が部屋に入って来て、初対面にもかかわらずやけに馴れ馴れしく話しかけて来る。
「殴っちゃったんだって?」
「はい」
「まぁ、気持ちはわかるんだけどさー。手ぇ出しちゃ駄目だよー。」
「はい」
僕はもう前科持ちになる事を覚悟していた。
するとその警官は意外な事を言い出す。
「先方さんは、君がちゃんと謝るんなら告訴は取り下げるっていってくれてる。どうする?謝るか?」
僕は意外な提案に驚き、考え込んだ。
確かにロックンローラーとしては、行くとこまで行って、敗訴するなりした方が格好はいい。
だが、前科はつく。
今後僕は前科持ちとして生きていく覚悟は本当にあるだろうか。そんなに自分で思う程、僕はロックンロールに人生をかけて生きて来ただろうか。
僕はぐらついた。
ただのアマチュアドラマーである。売れるのうの字もない。
上級者とも言えない、たかが只の中級アマチュアドラマーがロックンローラーという生き方のために前科を背負えるだろうか。
「どうだ?謝れるか?」その警官がもう一度聞く。
ぼくは背負えないと思った。
せいぜい15~20回位、仲間内でのライブをやったというだけのただのアマチュアドラマー。ライブをやってもお客さんなんて3人来ればいい方の駆け出しもいいとこ、いや、駆け出してすらいないレベルの何者でもない僕が前科をつけて何かいいことがあるだろうか。
そもそもこうやって損得計算をしている時点で、僕は既にロックンローラーではなくなっているのではないか。
警官が言う。
「もっと自分を大切にしろ。」
僕は少しはっとした。
直後答えた。
「謝ります。」
部屋を移り、大きいテーブルを挟んで部長の対面に座る。
周りには先程の警官を含む3・4人の警官が立っている。
先程の警官が口火を切る。
「彼は謝罪するっていっているので、許してあげてくれませんか?」
暫く黙り込む部長。
警官全員が部長に被害届の提出をやめるように説得しているようだ。
どうやら部長としてはどうしても被害届を出したかったようだったのだが、それを警官達がなだめているという構図のようだった。
僕は「さっきの話とは少し違うな」と思いつつ黙ってうつむいていた。
「まだ彼も若いですし、未来ある青年ですから…。」
警官全員が僕の味方をしてくれているように感じた。
今思えば、単に被害届を出されるといろいろ手続きが面倒なので、何事もなく事を終わらせたかっただけなのかも知れない。
でもどちらにしても僕からすれば有難かった。
「許してあげませんか部長。」
「いや、そういう判官贔屓みたいなのよくないよ!こっちは殴られてる側なんだから。」
「まぁ、そういわずに。」
僕はただうつむいていた。
部長は社長に電話をして意見を聞いたりしている。
社長としては「我関せず。よきにはからえ。」的な反応のようだ。
「許してあげませんか。」
「いや、そういう判官贔屓は良くないよ!」
そんなやりとりが何回か繰り返されたあと、先ほどの警官が言った。
「じゃぁ、彼に謝罪文を書かせましょう。それでなんとか許してあげてくれませんか?」
「謝罪文かける?」僕に聞く。
「書きます。」
部長はやりとりに疲れたのかしぶしぶ了承した。
私、荻堂圭、32歳は、〇月〇日〇時〇分頃、MK喫茶店内において、滝本部長の左頬を三回殴打した。私はこれについて全面的に謝罪致します。誠に申し訳ございませんでした。また今後二度とこのような反社会的行動を起こさない事を誓います。 〇月〇日 荻堂圭
僕が渡された和解書のようなものにこれをするすると書くと、警官は少し驚いたように言った。
「君文章上手いな。こういうの書いたことあるの?」
「いえ、初めてです。」
「へぇ凄いねぇ。」
「またそういう判官贔屓を!」
「まぁまぁ。じゃぁ君、これ読んで正式に謝罪できる?」
「はい。」
僕は謝罪文を読んだ。読んでいるうちに涙が溢れてきた。
三年間我慢して、とうとう我慢できずに殴り、啖呵を切ったあげく、結局今、謝罪している自分が情けなかった。
本当は「自分は悪くない」と思っているのに謝罪している自分が情けなかった。
殴るだけ殴って、警察に連れてこられたら泣きながら謝っている自分がまた情けなくて、さらに涙が溢れてきた。
たかが前科がつくというだけのことが怖くて謝罪した自分も情けなかった。
これが「自分はロックンローラーではなくなった」ことを意味していた事も悲しかった。
そして、こんな生き方しかできない事が悲しかった。
ただ泣きながら謝罪文を読み上げた。
「どうですか部長?彼ももう二度とこんな事はしないって言ってますし、許してあげてくれませんか?」
「…チッ。しようがねぇな。」
部屋に安堵が広がる。
「じゃぁタクシー呼びますんで、二人でお帰りいただいて。部長さんも帰りに彼にコーヒーの一杯でもおごってあげて下さい。」
部長が僕にコーヒーを奢るわけがない。
部長はコーヒー豆の焙煎屋だ。自社のコーヒーこそ最高級品だと信じている部長が他社のコーヒーを買うはずがない。
僕はそう思ったがただうつむいていた。
テーブルに座って黙ったまま、暫くするとタクシーが来る。
部長と僕は沼上署を出て、タクシーに乗り込んだ。
例の警官が後ろから追い打ちをかけるように言った。
「部長。彼にコーヒーの一杯でも奢ってあげて下さい。」
タクシーの扉がしまり、帰路につく。
タクシーの中で、部長が言った。
「俺はお前にコーヒーは奢らないからな。」
そりゃそうだろう。こいつはそういう人間だ。
店に戻ると、もう閉店時刻を過ぎていて、お客さんはおらず、非番だった店長が駆けつけていた。
ひとしきり部長は店長、社員の女子、能代、僕に説教をしたが、何を言っていたかはよく覚えていない。特に内容のない説教だった。
さすがに部長も疲れたのか、説教が終わると先に帰宅した。
後片付けは店長達がやってくださっていた。
有難かったのは店長をはじめ、社員の女子も能代も僕を責めないでいてくれたことだった。
本当に有難かった。
店長が帰り、社員の女子が帰り、能代と僕だけが残って、一時間程暗い店内で今日あったことを振り返った。
能代はバンドのギター・ボーカルだ。僕は能代と知り合ってやはり3年程経っていたが、
初めて能代の前で泣いた。
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