第7話 贈り物

 肉を裂く音で美奈は目を開けた。隣に座った和弥が消毒液で傷口を消毒してくれている。手際良く和弥がファーストピアスを付けると、美奈は手鏡に映った自分の耳朶を見た。

「可愛い」

「まさかそんなのを強請られるとはな」

 和弥はドラッグストアのレジ袋に使い終わったピアッサーを二つ投げ入れた。

「もう少し高いものを強請られるかと思った」

「充分高いですよ。ピアッサーとか消毒液とかピアス諸々で結構するでしょう?」

「精々三千円くらいだろ」

 和弥が呆れているが、美奈は自分の耳についた宝石の輝きに見とれている。

「ダイヤモンドみたい……」

「キュービックジルコニアだ」

「分かってますよ! いいじゃないですか」

「あ〜、はいはい。すんませんでした〜」

 和弥はそっぽを向いて適当にあしらった。まさかカラオケの点数で99点などを叩き出され、田舎娘といったことを謝罪させられた上に詫びの品を献上しろと言われた。二人でカラオケボックスを抜け出して近くのドラッグストアへ連れて来られた時には色々と妄想してしまった。けれども、敢え無く和弥の期待は裏切られ、ピアス穴を開ける道具を買わされる羽目になった。まあ、それで彼女の機嫌が治るのなら安いものではあるが……

「小遣いくらい貰ってるだろ? 自分で買えば良いのに」

「今月はちょっと使い過ぎちゃったんですよね。ケーキの材料買ったり、本買ったり、色々……」

 成程、少々お金の使い方が荒いらしい。

「家計簿とまでは言わないが、レシート取っておいて、月末辺りに一度買ったものを見直した方が良いぞ。料理のことはよく知らないが、普通の材料の代用品で済ませれるかもしれないし、本なら図書館で借りる手があるだろ」

「見た目に反して頭のキレる方ですね」

「喧嘩売ってんのか?」

「褒めてるんですよ」

 美奈がにこにこしながら言うと、和弥は不満そうに眉根を寄せた。

「ファッション雑誌買ってるんですよ」

「ふふっガキっぽい」

 和弥が笑うと、美奈は頬を膨らませていた。

「息抜き程度には良いと思うが、のめり込んで勉強サボるなよ」

「ええっ?! 勉強なんてするんですか?」

「おい。本気で怒るぞ」

「チャラくて遊んでばかりいそうなイメージだったから」

「あのなぁ……」

 和弥が呆れ気味に嘆息すると、不意に智弥が駆けて来て目を瞬かせた。

 やべぇ、御魂伏のこと忘れてた。

 和弥が思い出して立ち上がると、殴られる覚悟で少し身を引いたが、智弥は真っ先に美奈の前に蹲った。

「何してるんですか!」

 智弥の言葉に和弥は一瞬混乱した。てっきりその台詞は自分に向けられるものと思っていたのに、まさかナンパした女の子に向けられるとは思っていなかった。

「今直ぐ外して下さい!」

 和弥は首を傾げた。

「可愛いでしょう? 買って貰ったんです」

「そういうの欲しかったらシール買ってあげますから、そんなものの為に自分の体を傷つけるのは辞めて下さい!」

「シールって、ガキじゃあるまいし……」

「わかった」

 落ち込むかと思っていたが、案外あっさりと了承して美奈は今、付けたばかりのピアスを外した。和弥が消毒液と絆創膏を取り出すと、智弥が手早く美奈の耳朶を消毒して絆創膏で穴を塞いでいる。和弥は外したファーストピアスを消毒綿で拭くと、二人の様子を伺った。

「ごめんね。折角買ってもらったのに……」

「いいさ。田舎娘にはまだ早いと俺も思ってたし。絆創膏の方が似合ってる」

「ふふっ」

 顔は笑っていたが、目に涙を溜めていることは智弥も和弥も気付いていた。

「すみません。言い過ぎました。でも、受験するにしても就職するにしても、ピアス穴があると印象悪いです。せめてイヤリングくらいにしていただけないでしょうか?」

「そう言われればそうだね。そこまで考えて無かった」

 美奈が驚いた様に言うと、和弥は溜息を吐いた。

「来年のことを言えば鬼が笑うぞ」

「和弥」

「震災の前日、お年玉持っておもちゃ屋の前で玩具を眺めている同級生が居てな。ずっと欲しかったけど、親は高いから駄目って言ってたらしい。悩みに悩んでやっぱり買うのを諦めた翌日に震災が起こって瓦礫に挟まれて死んじまったよ。その時親が何て言ったと思う? 玩具くらい買ってやれば良かったってさ。

 そんなのが身近にあった俺からすれば、やりたい事は後悔せずにやらせてやった方が良いと思う。まあそれで面接落ちたってなら自己責任だがな」

 和弥の話しに美奈は俯いた。

「何でも買い与えれば良いってものじゃないです。確かに親は買ってやれば良かったとその時は後悔するんでしょうけど、ものを与えてご機嫌取った思い出よりは、家族で共に過ごした時間の方が僕は大事だと思う。綾羅の錦繍は冥途の貯えではありません」

「童子教か。あの弟にこの兄貴ありか」

 二人が話しているのを聞いて美奈は首を傾げた。

「どう……何ですかそれ?」

「古い教科書だ」

「二宮尊徳も実語教と童子教で勉強したって話は有名だよね。気になるなら家にあるから貸してあげるよ」

「お前、平成のこのご時世にあんな化石みたいなもの読ますなよ」

「故きを温めて新しきを知るですよ」

「あれ読んでて弟の蘇りにご執心だったなんて笑わせてくれる」

「童子教は弟が蘇ってから読むように薦めて貰ったの」

 智弥と和弥の間に火花が散ると、難しそうな話しをしているなぁと美奈は二人を見比べた。美奈は智弥の左手と和弥の右手を取ると、二人が美奈へ視線を向ける。

「喧嘩しないで下さい」

「してないです」「してねぇよ!」

 二人が同時に声を上げると、美奈は思わず笑った。智弥と和弥はそんな美奈を見ると、お互いに視線を交わせ、和弥は手を引っ込めた。

「彼女の体を心配するのもいいけど、度が過ぎて泣かせたら俺が直ぐ貰うから」

 和弥が呟きながら美奈のポシェットを取ると、ポシェットの蓋にファーストピアスを付けた。美奈がぽっと頬を赤らめる。

「え? 彼女居ないんですか?」

「三十番目くらいの彼女にしてやるよ」

 和弥の言葉に智弥は眉根を寄せた。

「最低です」

「彼女を一人に絞ったら、そいつ死んだ時に立ち直れないからな。好きな女は多いに越したことはない。俺も自分が死んだら後を追うような女よりは、さっさと他の男に寄生して生きるくらい強かな女の方が良い」

 和弥の話しに智弥は哀れみの眼差しを送った。

「君は寂しい人だね」

「特定の人間に偏るのは感心しない」

「それは真実の愛ではないよ」

「いい意味では誠実だが、青二才だな」

 再び二人の間に火花が飛ぶと、美奈は再び和弥の手を取った。

「また喧嘩してる」

「してません!」「してねぇっつってんだろ!」

 二人が同時に叫ぶと、美奈は思わず笑った。何だかこの二人を眺めていると懐かしい様な気持ちになって嬉しくなる。それが何故なのか、美奈には解らなかった。



 百合は祐弥に手を引かれてカラオケボックスを出た。非常階段を上って屋上へ上がると、冷たい風が頬を刺す。振り返った祐弥の顔は何処か悲しげだった。

「どうしたの?」

 寒空の下で百合が問いかけた。祐弥は少し目を伏せて戸惑いながら口を開いた。

「ごめん」

 祐弥が軽く頭を下げると、百合はにっこりと笑った。

「大丈夫だよ」

 彼女の笑顔に恐る恐る包みを差し出した。百合が驚いた様に目を丸くし、頬を赤らめた。

「え、良いの? ありがとう」

 祐弥はこくりと頷いた。さっきお金や物で気持ちを繋ぎ止めたく無いと言っておきながら結局何か見繕って来てくれたのだ。その気持ちが素直に嬉しい。

「開けてもいい?」

 百合は受け取ると嬉しそうに聞いた。祐弥が無言で首肯すると、百合は紐を解き、包み紙を開ける。中から布製の本カバーに包まれた単行本が出て来ると、百合はその装丁に目を輝かせた。

「凄い。可愛い」

 生地は綿だろうか? とても肌触りが良く、白地に金糸で雪輪の刺繍が施されている。雪輪の中に一つ一つ違う絵柄が施されていた。ペンホルダーから三色ボールペンを抜くと本が開く形になっている。本を開くと、白と青の水引で作った六花の栞と、蘇香の匂いがする。百合は本に書かれた文字に驚いて目を丸くし、祐弥を見つめた。

「えと……」

 少し困惑しながら本の最初の頁を開いた。英語で書かれた文字を目で追う。

 The little prince

「星の王子さま?」

「読んだことある?」

 百合は不安げに首を横に振った。

「日本語に訳された本は読んだことあるけど、いまいちよく解らなくて……」

「旧訳版は誤訳が多いから、日本語訳を読むなら新訳版の方が良い。けど、こっちの方が英語の勉強にもなるだろう」

 祐弥の言葉に百合は一度本へ視線を落としたが、直ぐに笑顔を作った。

「ありがとう。英語は自信ないけど、辞書ひいて頑張って読んでみるね」

「……お前になら出来ると信じてる」

 不意に祐弥の視線が逸れた。その表情に百合は首を傾げる。

「何かあったの?」

「別に……」

 暗に受験勉強頑張れと応援してくれているのだと思ったのだが、どうやら他にも意図があるらしい。あの別れ話って、高校受験が終わるまで勉強に集中したいからお互いに距離を置こうって意味だったのかな? それとも本当にもう私のことを好きではなくなったのかな? 好きでもない女の子の為にこんなにポケットやペンホルダーの付いた本カバーを態々作ったりしないよね? ポケットにメモ帳と付箋まで入ってるし……

 雪輪は豊作だよね? その雪輪の中に竹と、他の雪輪の中に梅が描かれているから、歳寒三友を指していて、縁起が良いってことかな? でもそれだったら松の絵が無いのは変だし、他の雪輪の中の絵は多分菊と、もう一つが蘭かな……? だとしたら四君子を指しているのだと思う。四君子も吉祥の縁起のいい柄で……

 本の栞は連続あわじ結び……意味は『末永く途切れないお付き合いをよろしくお願いします』だから別れようっていうのは嘘で、ずっと傍にいて欲しいけど、何かの理由でそれが言えないのだろう。

「私、明神くんが私の為にってこうやって本を選んでくれたり、本カバーを手作りしてくれたりしてくれるの嬉しいよ? 私の将来の事を考えて、別れようって言ったんだよね? でも……理由を聞いてもいい?」

 百合の目に涙が浮かぶと、祐弥はそっと百合を抱き締めた。百合は顔を真っ赤にする。

「さよなら。俺が最初で最後に愛した人……」

 祐弥がそう呟くと、百合はそっと目を伏せた。一気に背筋が凍るような寒気が走る。きっと自分は何か言葉を間違えたのだ。何を、何処で間違えてしまったのだろう?

「明神くん……」

「心配しなくても待たないから気にするな」

「明神くん! 私……」

 何を言ってあげれば正解なのか解らなかった。きっと彼は幾つもヒントをくれていた筈だ。それに気づけなかった自分が悪い。脳裏にいつか二人で観た虹が不意に過ぎった。

「一緒に……読もう? 私、きっと間違えるから……明神くん……」

 多分、その言葉を彼は期待していたのだ。別にThe little princeでなくても、難解な本であれば読めないと弱音を吐くだろうと……そうすれば私の傍に居る理由になると思ってこれを選んだのに、私が辞書で自分で調べると言ったから彼は落胆したのだ。

 祐弥は抱き締めたまま、黙って頷いた。けれども何も言ってくれない事が余計に不安を煽る。答えは合っていたのだろうか?

「明神くん……私、明神くんとずっと一緒がいい」

「一緒に死んでくれる?」

 祐弥の問いに百合は戸惑いを隠せなかった。けれどもそれが冗談だと百合には解っていた。自分の寿命をすげ替えてまで生かした百合を道連れにするつもりなどないだろう。

「いいよ」

 祐弥に体を押し返され、彼の悲しげな眼差しが刺さった。

「巫山戯……」

「一緒に歳を取って、一緒に同じお墓に入ろう」

 百合が呟くと、祐弥は悲しそうな顔をしてその場に座り込んだ。頭を掻き毟ると、深い溜息を吐いた。

「なんで……」

 百合はしゃがみ込むと、祐弥の背中を擦った。

「明神くんは、私が何を言えば納得してくれるの? 明神くんの欲しい答えは何? 別れようって言った時、『はい解りました』って私が言えば良かったの? 一緒に死んでくれる? って言われた時、嫌だって私に言って欲しかった? 『私は明神くんが居なくても、一人で生きていける』ってそんな応えが欲しかったの?」

 祐弥がこくりと頷くと、百合は祐弥の頭を撫でた。

「でも、そうだったら、この栞……あわじ結びなの可笑しいよね? この本を選んだのも、一緒に読みたかったからじゃないの?」

 祐弥が再びゆっくりと首肯すると、百合は祐弥を抱き締めた。

「そっか。一緒に居たいって気持ちも、自分から離れて欲しいって気持ちも、どっちも本当の気持ちなんだね」

 不意に見上げた空から白い牡丹雪が降って来た。百合はふわふわと漂いながら下りてくるそれを眺めて彼の複雑な心の様だと思った。



 山の北側は一面の銀世界だった。祐弥はストーブを出して点けると、百合に赤い綿入り半纏を掛けた。温かいミルクティーの入ったコップを差し出すと、卓袱台に英和辞典を置いた。

「直ぐ終わらせるから、ここで待ってて」

 祐弥の言葉に百合はにこりと微笑んで頷いた。祐弥が部屋を出て行くと、遠くで皆の声が聞こえる。呪詛の解体がどうのと難しそうな事を小耳に挟んだが、祐弥が説明してくれなかったので多分、自分には関係のない事なのだろう。百合は祐弥から貰ったばかりの本の頁を開いた。何となく自分でも解る単語を拾い読みするが、解らない単語に出くわして英和辞典に手を延ばす。けれども一緒に読もうと言った手前、少し躊躇した。

 自分で調べて読んだのでも全く彼は気にしないだろう。直ぐに終わらせると言っていたから多分、直ぐ戻って来る。その間に全て読み終わってしまうなんてことは先ずないだろうと英和辞典を手に取った。

 美奈は塾があるのだと言って帰ってしまった。狛も居ない。話し相手が居ないのは少し寂しい。

 一時間くらい経っただろうか? 目が疲れて本を閉じ、庭に降り積もった雪を眺めた。五十cm程積もっている。花のついていない藤の木や梅の木の枝に綿のように降り積もっていた。不意にいつの間にか自分の目から涙が溢れると、百合は半纏を脱いで部屋を出た。硝子戸を開け、縁側から外へ出ると柔らかい雪の感触が、針のような冷たさで靴下の裏を刺した。門を出て山へ入って行くと、雪の下に隠れていた鋭い枯れ枝に何度も足を取られた。

 ああ……そうか……

 百合の瞳が遠い昔の記憶を映していた。白髪に碧眼の姿をした青年の姿がまるで晴れた日の空の様だった。その彼の手が、私の胸の皮膚を裂いた時、頭に抜けるような痛みが走った。痛みと恐怖で体が痙攣する。彼の手が傷口の中を掻き回し、血管が引き千切れて血が迸った。自分の悲鳴が夜の闇に溶けて、鉄を含んだ血の臭いが口いっぱいに溢れた。抵抗しようとした掌が空を掴み、悔しさと不甲斐なさで胸がいっぱいになった。

 ふと、後ろから手を握られて振り返った。祐弥が目の前に立っている。百合はそっと目を伏せた。

「だから、もう深見草じゃなくて、牡丹なのね」

 祐弥が何も言わずに手を延ばそうとすると、百合は後退した。祐弥の手を振り解くと、祐弥の瞳が小刻みに震えている。百合は何も言わない祐弥の姿に涙を流した。否、何も言えないのだ。たった一言、傍にいてほしいと言う事すら彼から取り上げてしまった。

「……すまない」

「明神くんが私の立場だったら許せる?」

 百合の問いに祐弥の視線が宙を泳いだ。

「君が俺の立場だったら、君は俺を殺しただろうか?」

 祐弥が聞き返すと、百合は目を伏せた。

「そうね。意地悪な質問だったね。でも、これでやっとお母様の元へ帰れる。貴方のお陰ね。ありがとう」

 何か言いたげだった祐弥が言葉を飲み込んだ。項垂れる様に頷く姿に、百合は軽く微笑んだ。彼は優しいから、行かないでほしいと言えないのだと解っていた。

「一つだけ」

 祐弥が呟くと、百合は首を傾げた。

「置いて行ってほしいものがある」

 百合はそれを聞くと、直ぐに察しがついて体が小刻みに震えた。涙が止め処なく溢れると、首を横に振る。

「いやだ……聞きたくない」

 両手で耳を塞ぐが、容赦無く祐弥の声が銀世界に響いた。

「その躰だけ置いて行ってほしい」

 祐弥の声が研ぎ澄まされた刃の様だった。

「貴方っていつもそう。千年前も、その前もずっと、私の気持ちなんて何一つ考えてくれない。私の身体だけ? 私の身体さえ無事なら心が壊れても良いの? 身体の病気さえ治れば心なんてどうでもいいの? 私は貴方の玩具じゃない!」

 百合は何も言えない祐弥が歯痒かった。違うと、君の気持ちも大切だと言って欲しい。けれどもそれを言えば嘘になる。それが解っていたから尚の事苦しかった。

「また力ずくで捻じ伏せて言う事を聞かせる? それとも記憶を消してまた捨てる? どっちでもいいよ? 貴方がそうする前にこの身体壊してあげる」

 祐弥がそれを聞いてゆっくりと片足で歩を進めた。

「一つだけ、どんな願いも叶えるから、花を貰えないだろうか?」

 祐弥の言葉に百合は目を伏せた。

「……私の……願いは……」

 祐弥の手がそっと頬に触れると、百合は祐弥の頬に両手を差し伸べた。

「解ってる癖に」

 百合は必死に笑みを浮かべたが、涙が一筋頬を伝った。遠い昔の事を思い出して祐弥に抱き着くと、祐弥はそっと百合の背中に手を回した。百合の身体から力が抜けると、百合の背中から薄っすらと靄の様なものが出て龍の姿に変わる。龍が空へ向って翔けて行くと、祐弥はその場に座り込んだ。

「行ってらっしゃい」

 祐弥がそう呟くと、遠くで智弥達の声がした。祐弥は百合の体を強く抱き締めると、空から振り落ちる真っ白な雪を眺めていた。



 霞を掻き分けて水晶の龍が一頭長い階段を登って行った。柔らかな空気が振動し、豪奢な建物の門が開くと、御簾が一斉に上がる。龍の姿が少女に変わり、板張りの床に立ち竦むと、直ぐに磐永姫が奥からやって来て少女を抱き締めた。

「お帰りなさい」

 目に涙を溜め、愛おしそうに少女の長い黒髪を撫でた。少女は磐永姫にしがみついていたが、そっと磐永姫の顔を見上げた。

「お母様、聞いて頂きたい事がございます」

 少女の言葉に磐永姫はゆっくりと頷いた。

「私に起こった事をお母様に知って頂きたいです。けれども、とても大昔の話しです。どうか怒らないで聞いていただけないでしょうか?」

 磐永姫は優しくにこりと微笑んだ。

「怒るだなんて……」

「私は……」

 少女の顔は酷く強張っていた。

「天司神に亡き者にされました」

 磐永姫は唇を固く結んだが、直ぐに笑顔を繕った。

「大丈夫。心配せずとも、その者は私が八つ裂きにして根の国へ長い間縛り付けておきましたよ。それでも貴女の気が晴れないというのでしたら、また捕まえて来てどんな罰でも与えましょう。あの白髪碧眼の隱神を……」

 磐永姫の言葉に少女の顔が強張った。身体が小刻みに震え、視線を落した。

 成る程、彼が自分を母の元へ帰らせたくなかったのは、自分が死んでからの事を知られるのが嫌だったのだろう。

「お母様……」

 少女の言葉に磐永姫は首を傾げた。屋敷の奥から茶を持って来た采女がしずしずと二人の邪魔をしないように少し離れた所へ控えた。御簾越しに二人の様子を伺っている。

「あの神は、私の願いを叶える為に隠してくれたのです」

 少女の言葉に磐永姫も采女も首を傾げた。



 見捩り一つしない百合の頭を祐弥は優しく撫でた。縁側に腰掛け、一面の雪景色の中にさっきまで煩く喚いていた狛の姿を思い浮かべた。最期に好きなものをたらふく食べさせてやると言ったら、あいつらしくもなく「要らない」と言っていた。

「美味いもので腹一杯になって動けなくなっては本末転倒じゃからの」

 狛からそんな言葉が聞けるとは思って居なかったので少し寂しかった。

「また生まれ変わった時にでもたらふく食わせてもらうのじゃ」

 いたずらっぽく笑う狛に祐弥は肩を竦めた。出来れば来世よりも今を大事にしてもらいたいが、それ程充実していたのだろう。御魂伏の解体が終わって寿命が尽きると、挨拶もなくさっさと逝ってしまった。それが少しだけ寂しかった。

「祐」

 智弥に呼ばれて振り返ると、智弥が心配そうにこっちを見つめていた。

「大丈夫?」

 問い質され、祐弥はこくりと頷いた。隣の部屋で、怪我をした直人と和弥の手当てを刹那と伊織がしている。何か口喧嘩をしている声が何度か聞こえていたが、祐弥の耳には入って来なかった。霞雲は怪我こそしていないが、力を使い過ぎて寝込んでいる。

「何だかあの頃に戻ったみたいだね」

 智弥は祐弥の隣に腰掛けると呟いた。

「……そうか」

「百合ちゃんの身体、姫宮家へ帰す為に置いて行ってってお願いしたんだよね?」

 祐弥はそれを聞くとゆっくりと瞬きした。

「え、もしかして自分の式神にする為?」

 祐弥の瞳が宙を泳いだ。智弥は祐弥が何を考えているのか解らず首を傾げる。

「考えて無かった」

「えっ?」

「何でも願いを叶えてやると言ったのに願いを言わなかったから保留になっている。これからこの身体が消えるかもしれないし、完全に呼吸が止まって死ぬかもしれない。それは俺にも解らない」

「願いって……」

 智弥はそれを聞いて呆れた様に溜息を吐いた。

「そっか、あの時の答え合わせをしようとしているんだね」

「……さぁ……」

 祐弥が呟くと、白い息が寒空に溶けていく。智弥が屋敷の奥へ入って行くと、祐弥は暗い空を見上げていた。

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