第5話 理由
そろそろもう良いだろうか?
射干は首に巻いたストールを結び直すと、白い息を闇の中へ吐露した。
三ヶ月……いや、まだ三ヶ月……けれども長い三ヶ月だった様に思う。これから一年、十年、百年、千年待っていても状況は変わらない気がする。だからもうそろそろ帰ろうかと思っていた。
ちらつく雪を眺めながら射干は考え事をしていた。
このまま帰るのも何だか気が引ける。最後に謝って、取り上げたもの返して帰ろうか……彼なら多分、許してくれるのだろう。否、そもそも向こうが悪いのにこっちが謝るのも何だか癪に障る。なら、このまま何も言わずに帰るか……それも何だか居た堪れない。
射干はそっと三ヶ月前の事を思い出した。
次元の歪みに真っ先に気付いたのは磐永姫様だった。次に気付いた自分が、直ぐに磐永姫に詰め寄る。
「磐永姫様……」
直ぐにでもそれを確かめに行きたいだろう。逸る気持ちを抑え、磐永姫の様子を伺った。
「……放っておきなさい」
「何故?」
「あれは殺されても口を開きませんよ」
前に、殺して魂だけ根の国に縛り付けておいてもその場所を吐かなかった事を思い返しているのだろう。流石に千年過ぎると呆れて離していた。あの時に、気持ちに一区切り着けたのだと仰っていたが、何処を探しても見つからない娘の事を一時も忘れた事など無いだろう。だから一瞬でも娘の気配を察知したと言うのであれば居ても立っても居られないに決まっている。それなのに、使いも出さないなんて何を考えているのか解らなかった。
「きっと何か、理由があっての事でしょう」
理由など知ったことでは無かった。他人の娘を誘拐して隠しておいて、理由も何もあるものか。
「私が様子を見て来ます!」
磐永姫様の静止を振り切って、三日と間を開けずに現し世に降り立った。
「姫様を何処へやった?」
銀杏の黄色い葉が雨の様に降っていた。やっと見つけた手掛かりを、今度こそ手放す訳にはいかなかった。
「俺が殺したと言えば満足か?」
一気に胸に抱えていた怒りが吹き出すのが解った。今でもあの時、彼が何と応えたなら満足したのか自分でも分からない。彼が何を言った所で、自分の怒りが治まるはずがなかった。その事を彼は承知の上だったのだろう。怒りの赴くままに彼を殺そうとした時、白い犬神が襲いかかった。首を引き千切られると思った瞬間、彼に庇われた。彼の右腕に噛み付いた大きな犬神が、我に返って申し訳無さそうに後退する。
何故……?
考える前に彼の足を潰していた。
「今からでも、姫様を返せば命だけは助けて差し上げますよ」
犬神が再び牙を向こうとしたのを見て短刀を彼に向けると、犬はその場に蹲った。
「死んでからも割と長い間鎖で繋いでいた連中にしては寛大な物言いだな」
彼の両瞳が碧色に輝くと、思わず右眼を潰していた。それでも、彼の表情が変わることが無かった。
「これで満足か?」
痛がって泣き叫べばいいと期待していたのに、裏切られて焦燥した。こいつには痛いとか憎いとかいう感情は無いのかと困惑する。彼から離れると、犬の首根っこを捕まえた。
「じゃあこいつを先に始末してやる!」
彼の左目が、初めて憂うのを見た。そんなにこの飼い犬が大事かと心の中でほくそ笑む。そう、私や磐永姫様にとっても、姫様は大切な方だった。お前の飼っている犬なんかよりもずっと大切な方だった……。
「狛、許せ」
短刀を握り締めて振り翳した。
「酷い飼い主ね」
犬神に憐れみの眼差しを向けると、真っ直ぐに彼を見つめていた琥珀色の瞳に彼の姿が映っていた。
「やめ……!」
彼に視線を向けると、喉を抑えて口から血を吐いていた。どうやら自分で喉を潰したらしい。もう姫様の居場所を聞き出せないと悟ると、再び頭に血が上った。
「巫山戯るな!」
もう片方の目も潰してしまった。せめて姫様の手掛かりを……そう思って神社の拝殿を開けると、赤い髪の女神が立ちはだかっていた。
なんとも美しく、畏ろしい神だった。
「下がりなさい」
あれは一体何の神だろう? 天司神であることは違いないだろうが、見たことのない神だった。
ーー何故、彼は抵抗しなかったのだろうか?
考えた所で理由など解らなかった。普通なら、自分の身に危険が及べば応戦するのは当たり前だろう……否、あいつは隱神だった頃も、磐永姫様に殺される瞬間さえ抵抗しなかった。根の国に長い間縛り付けられても弱音一つ吐かなかった。普通なら、さっさとその在り処を吐露してしまいそうな状況でさえ彼の意志は揺らがなかった。
あれには痛みや恐怖といったものが無いのだろうか? だとすれば欠陥品だ。
彼が作ってくれたストールをじっと見つめた。
何故、私にこれを差し出したのだろうか? 自分から目や足を奪った張本人だと気付かなかったのだろうか? それとも気付いていて、差し出したのだろうか? こんなもので取り入って機嫌を取ろうとしたのだろうか? その為に、全く動かなかった右手のリハビリを乗り越え、両目が見えないのに手探りで仕上げた?
不意に車椅子に乗っている彼の姿が脳裏に浮かんだ。
喋れなくても、目が見えなくても、丁寧に自分の知る限りの知識を駆使して周りを気遣っていた。その中に偶々自分が居たというだけで、罪を咎めも謗りもしない。まるで空の様に、神にも自然にも人にも平等に接する彼の姿が射干の意志を揺り動かしていた。
「変な男ね」
きっと、磐永姫様も呆れ果てたのだろう。あれは何も言わない。
掌に二つの碧玉を並べた。
この瞳を返してほしければ姫の居場所を教えろと言った時、彼は首を縦に振らなかった。足を切り落とさなければならないとなった時にも彼の態度は変わらなかった。
不意に後ろから肩を掴まれて振り返った。女が威嚇するように睨んでいる。
「何であんたがそれを持ってるのよ!」
思わず、碧玉を握り締めた。こいつらは……彼の知り合いだろう。こいつらを人質に取れば今度こそ、彼の意志を挫く事が出来るのではないかと笑みが溢れた。
掌から何か抜ける様な感覚があった。握っていた掌を開くと、ただの小石が二つ転がっている。射干はそれを見ると、女の手を振り切って走り出した。
真っ暗だった闇の中に、薄っすらと光が差した。ゆっくりと瞼が開くと、黒い大きな瞳が心配そうにこっちを見ている。唇に塗られたグロスが微かに桃色の艶を帯びていて、目尻に少し茶色のアイライナーがひかれている。祐弥は白い陶器の様な頬に触れると、少し笑った。
「目弾きは落としとけ」
「目弾き?」
百合が困惑していると、祐弥はそっと目の端を指でなぞった。
「肌が荒れるから化粧はしなくていい」
「アイライナーのこと?」
「化粧の事はよく知らないけど、あまりやりすぎると歌舞伎役者みたいになるから程々にな」
「そこまでがっつりやるつもりありませんよーだ」
百合はそう言って笑うと、祐弥は白い衣を百合の体に被せた。
「すまない。少し立て込んでいるから、ここに居てくれ。狛を置いていくから」
不意に祐弥の隣に狩衣姿の狛が現れると、百合は目を瞬かせた。
「何処へも行くなよ」
百合のおでこに額をくっつけると、百合は顔を赤くする。
「一人で行くのかのぅ」
狛が心配そうに呟くと、祐弥は狛の小さい頭を撫でた。
「智弥に連れて行ってもらう」
片足で立ち上がると、器用に一本の足で手摺に掴まりながら玄関へ向かって行く。靴を履き終わる頃に玄関が開くと、智弥は祐弥の目が開いている事に驚いていた。
「祐弥?」
「話しは道中でするから、肩貸せ」
「僕、今帰って来たとこなんだけど……」
「小蝶が来ている」
祐弥の言葉に智弥は首を傾げた。
「射干さん?」
何となく、彼女が祐弥に酷い事をしたのではないかと思っていたのだが、証拠が無いので気にしない様にしていた。祐弥も気にした風でなかったから尚更だったのだが……
祐弥は外へ出ると、智弥の肩を掴んだ。雪がちらつく中を、智弥は祐弥を支えながら歩いた。
「射干さん、人間じゃないよね? 妖かしとも違うからどういう立ち位置の人なのかと思ってた」
「磐永姫の采女だ」
そう言われ、智弥は少し首を傾げた。
「成る程、祐弥が磐永姫の娘の力で蘇ったから、使いを出したのか。けど酷いことするなぁ」
「娘奪われた母親の苦しみに比べれば足一本や目くらい安いもんだろ」
「君のそういうところは治した方が良いと思うな」
智弥は少し笑っていた。眼の前に蝶の大群が押し寄せると、智弥は右手の人差し指を立てて中空をなぞった。ぽっとストロボライトの様な光が輝き、蝶は目がくらんだのかその場で右往左往している。不意に闇の向こうから呪符が数枚飛んで来ると、身悶えている蝶の足元に呪符が並んだ。丸く並んだ呪符に遮られ、蝶がその場ではためいている。智弥はその様子に首を傾げていたが、祐弥は表情一つ変えなかった。
「霞雲?」
智弥が呼びかけると、暗い路地の奥に蹲る霞雲と、斜干を地面に押し付けている刹那の姿が浮かび上がった。
「いつまでも大昔の事を根に持ってんじゃないわよ。巣立った雛にいつまでもついていく親鳥なんていないでしょ? 一体何処まで粘着質なのよ!」
刹那が怒鳴ると、斜干は睨めつけた。
「他人の子供を攫っておいてよくも……」
「攫ってねえよ!」
斜干の声を霞雲が遮った。蝶の鱗粉で痺れた体を必死に奮い立たせようとしている。
「少なくともあいつはそんな事しないし、俺はあの女が死ぬ前に一度話してる。家に帰してやると言ったのにあの女は自分の名前も、身の上も明かさなかった。母親の為に帰らないのだと言った!」
霞雲の言葉に斜干は驚いていたが、直ぐに眉根を寄せた。
「嘘仰い! どうせあんた達が攫って……」
「何の為に?」
智弥が聞くと、斜干はやっと智弥の存在に気付いて視線を向けた。智弥の隣に祐弥の姿を認めると、頭に血が上る。
「そんなの……」
「僕達は高天原を追われてこの葦原へ来た。先の大戦で地司神からも良くは思われていない。それでもこの国で生かしてもらった恩を仇で返す様な真似をしなければならない理由は何?」
智弥の質問に斜干は悔し涙を浮かべていた。
「そんなの……」
「そっちには」
不意に次元が歪んで闇の中に和弥の姿が浮かんだ。刹那は智弥と瓜二つの和弥に尻込みする。
「匿ってもらう為に一柱人質に寄越していた。だから下手をすればそいつの立場が危うくなる。そうと解っていてお前の所の姫に手を出させたりしない」
斜干は和弥を睨みつけた。
「隱神を悪者にすることで丸く治まったのに、今更昔の事を蒸し返して何になるって言うのよ?」
刹那の目から涙が溢れていた。
「私達は皆、静かに暮らしていたのよ? それなのにお姫様を誘拐したですって? 言いがかりも大概にしなさいよ! あの子がどんな思いで磐永姫に殺されたのか知りもしないで……!」
「刹那」
不意に祐弥の声で刹那は顔を上げた。涙を拭うと、片足だけになった祐弥の姿が目に入って一層泣きそうになる。
「あんた、祐弥の足を……」
「俺のことは良いから、小蝶を離してやれ」
祐弥に言われ、振り上げた拳をゆっくりと下ろした。斜干から離れると、蹲っていた霞雲に寄り添った。斜干は起き上がると、祐弥を見据えた。
「小蝶、お前が覚えている磐永姫の娘は、どんな女だった?」
「磐永姫様に似て意志の強い優しい方でした」
祐弥はそれを聞いてゆっくりと頷いた。
「そう、その岩の様に硬い彼女の意志を壊してしまったことは事実だ。だから俺は幾らでも罰を受け続ける。それで磐永姫や小蝶の気が休まるなら何をされても俺は抵抗しない。但し」
祐弥が言葉を止めると、斜干は眉根を寄せた。
「俺以外の誰も恨むなよ」
斜干の瞳が小刻みに震えていた。
「そして俺以外の全てのものを慈しんでやれ」
斜干の手が小刻みに震えていた。
「何なのよ……何であんたはそんな風に立っていられるのよ? 本来あったものを無くして失意のどん底に落ちる人間が世の中に幾らいると思って……」
「この国は、足や腕が無くなった所で生きていけない様な国じゃない。目が見えなくても喋れなくてもちゃんと人や、あらゆる神々が支えてくれる。そういう国にお前達が造った事を思い出して欲しかった。皆で支え合える国にしたのは、今迄この国を支えて来た皆の努力だろう? その努力を目の前にして諦めるとか落ち込む方がどうかしている」
斜干はその場に膝を着くと、ゆっくりと深呼吸をした。自分の眼の前に居る祐弥が信じられない。本当に今迄、長い間恨み続けた相手なのかと自分を疑う。違ったとしたなら、自分は一体今迄何をしていたのだろう? 何年も何百年も何千年も全くお門違いな事をしていたのでは無いだろうか? 磐永姫様もそう思って、放っておけと仰ったのだろうか?
「例えばだが……長く続いた先の大戦にお互いに疲弊し、和睦の意味で二人の姫が嫁に行った。それなのに片方が自死を選んだから父親は残った姫を実家に連れ戻した。その上で、姫の娘が行方不明になれば、先方が攫ったと考えるのが普通だろう。また大戦の火種になりかねないから、出自が明るみになっていないあいつが、この地を再び戦火にせずに済ませる為に名乗り出た。それなのにお前はまだ、過去に囚われているのか?」
和弥が話すと、斜干は和弥を見据えた。狼狽え、戸惑って目を伏せた。
「そんな……」
「小蝶」
祐弥が名を呼ぶと、斜干は顔を上げた。
「小蝶や磐永姫が自分達にとって正しいと思う事をしたことを俺は知ってる。だからお前達は自分を責めなくていい。全部俺のせいだから、お前達はこれからも花を愛でてやってくれ」
斜干の目から一滴の涙が溢れた。
狛は瞳を輝かせてテーブルに並べられた料理を見つめていた。
「食べてもいいよ?」
百合がスプーンを差し出すと、狛は満面の笑みを浮かべ、差し出されたスプーンに手を伸ばしかけた。
「いや、一人で食べるのは良くないのじゃ!」
必死に欲望と戦うように首を横に振る。百合はくすりと笑うと、箸を取った。
「じゃあ私が食べちゃう」
「ああっ俺様も食べたいのじゃ!」
「じゃあ一緒に食べよ?」
「百合がそこまで言うのじゃから仕方がないのぅ」
狛はスプーンを取ると、嬉々として食べ始めた。百合も箸と小皿を取ると、少しだけ取皿に分けて食べ始める。
「美味しい」「美味いのじゃ!」
二人同時に声が重なると、百合と狛はお互いに笑いあった。殆狛が一人で食べきってしまうが、百合は美味しそうに食べる狛を見ているのが楽しかった。
「百合、彦の奴の、心の病気なんじゃ」
唐突に言われ戸惑ったが、百合は微笑んだ。
「知ってるよ」
百合が応えると、狛は申し訳無さそうな顔をした。
「大昔に大切な人を失っての」
「お母さんのこと?」
狛が一度視線を這わせて百合を見上げた。
「まあ……言い訳がましいのぅ。百合、彦のことを嫌いになるなとは言わないのじゃ。ただ、許してやってほしいのじゃ」
「許す?」
百合が聞き返すと、狛は頷いた。
「今迄百合に、散々酷いことをしたと思うのじゃ。けれどもそれは、百合のことを思ってしたことなんじゃ。彦は、百合のことが好きで、好き過ぎて、それで空回りしてしまったり、百合の将来のことを思えば自分を卑下して身を引こうとしたり、そうかと思えば思わせぶりなことを言ったりして、正直面倒臭い男なんじゃ。面倒臭い男なんじゃが、百合を大事にしたいって気持ちは今も昔も変わらないのじゃ。じゃからの、あの愚弟を許してやってほしいのじゃ」
百合は微笑むと狛の頭を撫でた。
「大丈夫だよ」
狛の瞳が不安そうに小刻みに震えていた。
「これは、俺様も聞いた昔話しなのじゃが……ここは沢山の神々が住まうとても良い国じゃったそうじゃ。狭い国土でも皆が工夫して、其々の仕事を全うし、支え合うとても気の良い神々じゃったそうじゃ。けれども、他所で悪さをした神がある時、この国に流れ着いたそうじゃ」
狛の話しに百合は首を傾げた。
「その神はカモと言う獣をペットにしておっての……」
百合の頭の中に茶色い羽の鴨が思い浮かぶと、狛は察したらしい。
「禍の獣と書いて禍獣と呼ぶのじゃ。猪に似た姿をしていて厄災を齎すと言われておる。この土地には元々そんなものは居なかったから皆、珍しがって見に行ったそうじゃ。それを見に行った神は二度と戻って来なかったそうじゃ。禍獣は大量の鉄や針を食べなければ死んでしまう。だから直ぐに禍獣自体は死んだそうじゃ。じゃがの、その血を酒に混ぜて八柱の神に飲ませると見るうちに八つの頭を持った大蛇に姿を変えたそうじゃ」
百合はじっと狛の話しを聞いていた。
「奴は禍津神だと大騒ぎして国から兵を呼んだ。雷を司っていた俺様の上から二番目の兄がそれを仕留めた時に、それが禍津神ではなく、その土地神が禍獣の血で姿を変えられたものだと直ぐ気付いたそうじゃ。そいつは土地神の宝を横取りし、蛇の尾から出て来たと嘘を言って自分の国の姉に献上した。禍津神を殺したのも自分だと、自分はその国では英雄だと吹聴したそうじゃ。この土地に昔から住んでいた神々は直ぐに疑問を抱いたじゃろう。他所の神が禍を持ち込んだと知ってこの国の神々は怒り、戦争に発展したそうじゃが、その神は禍を撒き、この国の土地神を禍津神に変えて行ったそうじゃ。禍を持ち込んだ神は根の国へ送られ、俺様と二番目の兄はそいつの尻拭いの為に姿を変えられてしまった土地神を殺して回ったんじゃ。俺様はその禍を腹に溜めて根の国へ運ぶ役目で作られた神じゃった。
じゃからの、彦は気付いてしまったのじゃ。俺様が邪気や禍を飲み込む事で寿命が削られてしまっている事を……それで、御魂伏の解体に二の足を踏んでしまったのじゃ。俺様は多分、その御魂伏に封じられた禍を飲み込めば根の国へ逝かねばならんのじゃ。じゃから決して、百合を騙そうとか考えての事ではないのじゃ。それだけは心に留めてもらいたいのじゃ」
俄には信じられない話しに百合は首を傾げたが、どうやら自分ではなく、他の誰かに語りかけている様に思えた。
「俺様、彦と百合に会えてとても楽しかったのじゃ。次に生まれ変わる時にはこんな姿ではなく、人に生まれ変わりたいのじゃ。もしその時可能であれば、子は鎹と言うからの、彦と百合の鎹になれればと思うのじゃ」
狛は百合の両手を握って話した。百合は優しくその小さな手を握り返すと小さく頷いた。
漆黒の闇夜に小さな蝶が幾つも飛び立った。薄紫色、白、黄色、灰色……色とりどりの蝶が空へ帰って行くのを見送ると、智弥は不意に和弥へ視線を向けた。
「地司神に人質に出した一柱ってマナのこと?」
にっこりと微笑んでいるが、言葉に怒りが滲んでいた。
「それ以外誰が居るんだ?」
「成る程、椿が和歌に精通していたのはそのせいか……自分で育てる自信が無かった? それとも……」
「葦原へ来た時に『天司神なんか信用出来ない』と向こうから人質の要求があった。だからマナを預けた。尤も、最後まで人質だなんて本人も知らないままこっちで過ごしていた。マナが天司神だと知っているのは精々大山祇くらいだろう」
和弥がそう話すと、智弥は溜息を吐いた。白い吐息が闇に吸い込まれていく。
「寒いから、話の続きはまたにして貰えるか? 和弥、明日伊織を連れてこっちへ来てもらえるか? 御魂伏の解体をしたい」
祐弥の言葉に和弥は眉根を寄せた。
「俺はそれで椿が開放されるから別に構わないが、お前の方はどうなんだ?」
祐弥の目が寂しそうに伏せていた。
「御魂伏に封印されたあの女の思念が、刀から離れれば何処へ向かうのかは解ってるよな?」
和弥の質問に祐弥は溜息を吐いた。
「俺には関係の無いことだ」
「祐……」
「それが百合の体に入って、磐永姫の元へ帰ると言うのであれば帰してやれば良いし、こちらに留まると言うのであればそれもまた彼女の……」
「百合ちゃん、きっと怒るよ?」
智弥が問い質すと、祐弥は視線を宙に泳がせた。
「どうでもいい」
祐弥が呟くと、徐ろに刹那が近付いて来て祐弥の頬を叩いた。
「どうでもいい女の為に、磐永姫に殺されに行ったの?」
刹那の声は酷く震えていた。
「あんたって本当最低。可哀想だと思って甘やかした私が馬鹿だった! あんたみたいな弟知らないっ」
刹那が怒鳴って踵を返すと、霞雲を担ぎ上げて暗い路地へ入って行った。和弥はそれを見送ると溜息を吐いた。
「俺の手前、そう言ったんだろうけど、もう少し言葉選べよ」
「前の記憶が戻った後どうするかは百合の問題で、俺の気持ちは関係無い」
「それ、百合ちゃん眼の前にして言える?」
智弥に問い質され、祐弥は目を伏せた。
「俺が行くなと言えば思い留まる様な甲斐甲斐しい娘だったらそもそも惚れてない」
祐弥の言葉に和弥と智弥は視線を交わした。
「それに、そんな大昔のことを引き合いにして親元へ帰る神経もどうかしている」
「僕は帰ると思う」
智弥の言葉に祐弥が不満そうな顔をした。
「全部お母さんに洗い浚い話しちゃうと思う。怖いなぁ。磐永姫様にまたやっかまれるんじゃないの?」
「その時は甘んじて受け入れる」
「本当、ぶっ壊れてるよな」
和弥が呆れた様に呟いた。
「俺のせいか」
和弥が聞くと、祐弥はにやりと笑った。
「まさか」
「なら、御魂伏の解体を急ぐ必要は無いだろ」
「狛の寿命が尽きかけている」
それを聞いて智弥は驚いた様に祐弥を見据えた。
「どの道あと三年も持たない。だから全員集まれる間に御魂伏の解除をしておかないとまた持ち越されることになる。椿をあのままにしておくことなんて俺には出来ない」
祐弥がそう話すと、和弥は舌打ちして闇の中へ消えて行った。智弥は踵を返すと、祐弥を支えながら歩いた。
「本当に良いの?」
「小蝶は説得したから、無理矢理百合を向こうへ連れて行ったりはしないだろう」
「百合ちゃんが自分から帰るって言ったら?」
祐弥の瞳が小刻みに震えていた。
「母親と他人を両天秤にかけて敵う気はしない」
「解ってるじゃない」
「可能であれば天寿を全うした後に母親に言いつけに行くのが理想ではあるが、それまで黙っていられる程辛抱強くも無いだろう。この辺がどの道潮時だ」
まるで他人事の様に呟く祐弥が、心の底でどう思っているのだろうかと考えると何だか遣る瀬無かった。
「別にさ、兄弟なんだから本音で話したんで良いんだよ? 後三年狛の寿命があるなら、それまで……」
「智弥なら出来る?」
祐弥の問いに智弥は苦笑いを浮かべた。
「自分がなぶり殺した女眼の前にしてあと三年も平然としていられる?」
智弥は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「別にそうしたくてしたわけでは無いでしょう?」
「だから、そういうつもりがあったとか無かったとか俺の気持ちは関係無い。彼女を壊した事実は変わらない。それを黙って彼女と同じ時間を過ごすのは不誠実だと思う」
驚いて目を丸くしたが、直ぐに笑顔を作った。
「ふふっ……不器用」
「好きな女を騙して平気な顔して生きて行ける大人になんかなりたくない」
「別にどんな夫婦だって秘密の一つや二つあるものだよ……まあそこは僕のせいか……」
智弥はそう呟いて目を伏せた。
「確かに、マナは血の繋がったお前の子供では無かったけど、別に美奈に二心あったとかそういう訳じゃなくて……」
「まさか弟に弁護されるとは美奈も思って無かっただろうね。大丈夫。僕は心が広いからそんな二千年以上前のことなんて根に持ってないよ」
顔は笑いっていたが、地雷を踏んでしまっただろうかと祐弥は思った。
「千年前に生まれ変わった子は確かに真盛と血が繋がっていた。けれども本人が、どうも鉄と一緒に過ごすことを選んだらしい。だからお前が捨てたのは、お前だけが悪いわけでは無くて……」
「だから気にしてないって言ってるでしょ」
智弥が言葉を遮ると、少し喋りすぎたかと溜息を吐いた。冷たい風が二人の背中をそっと押していた。
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