第4話 聖なる夜に
西城 美奈は呼び鈴を鳴らした。家は神社だが、クリスマスやハロウィンのイベント事は好きだった。あの事件から何度かここへは遊びに来ていた。祐弥くんがああなってしまってから、智弥からよく相談を受けるようになっていた。その流れで、智弥の優しさに惹かれたのは間違いない。けれども智弥は可愛い弟の事でいっぱいいっぱいで、女の子には興味がないらしい。女として意識されないことは少し心外ではあるが、相談して頼ってくれるのは嬉しい。
モテるんだろうなぁ……
そう思うが、少し鈍感……というか天然な所がある。この三ヶ月でそう思うことが多々あった。
玄関ドアが開き、祐弥が顔を出した。
「こんにちは。クリスマスケーキの材料買ってきたの。一緒に作らない?」
この子は目も見えないし口も利けないのにすごく頑張り屋さんだということを美奈は知っていた。元々料理は好きだったらしく、簡単なものであれば自分で作っていた。ただ、目が見えないので、包丁や火を使う料理はお父さんや智弥がさせなかったらしい。だから美奈が偶にこうして来て、危なくないように見守りながら料理をしていた。
祐弥が不意に自分の部屋を指し示した。手話で何か伝えようとするが、美奈は手話が解らなかった。挨拶くらいなら解るが、祐弥が何を伝えようとしているのか解らない。
「部屋に何かあるの?」
祐弥がこくりと頷く。美奈は家に上がって祐弥の部屋を覗くと、泣いている少女を見て一瞬困惑した。
これは……ヤバイやつでは無かろうか……?
家にはどうもこの二人以外居ない様子だ。男の子の部屋のベッドで少女が泣いているシチュエーションとなると……無いとは思うが嫌な妄想に駆られてしまう。
「え、襲ったの?」
恐る恐る自分の考えを口にする。祐弥が否定も肯定もしない様子から、少女を気遣って居るのだと察した。荷物を置いて部屋に入ると、泣いている少女に声をかけた。
「大丈夫? どうしたの?」
美奈が聞くと、少女は涙を拭った。
「……何でもないです」
何でもないのに、男の子の部屋のベッドで泣く女の子なんていないでしょう。と思うが、ただの強がりだろう。服が乱れた様子は無いので、襲われたとかそんな事も無いと思う。となると考えられるのは、大人の真似事をしようとして言い寄ったけれども拒絶されたといった所だろうか? 清楚に見えるのに中々過激な子だなぁ……
「えっと……男の人はやっちゃえば終わりだけど、女の人は妊娠するリスクがあるからもう少し大人になってからの方が良くない?」
少女が、きょとんとした表情で美奈を見上げた。その表情から、もしや違ったのかと冷や汗が流れる。自分で言って恥ずかしかった。少し考えるような素振りをして、少女の顔が真っ赤になる。
「ちっ……違います!」
「ごめんね。もうこの状況ではそれしか思いつかなくて……」
「誤解です」
「なら良かった。今から祐弥くんとクリスマスケーキ作るんだけど、えと……お嬢さんもしない?」
美奈が誘うと、百合はドアの方へ視線を向けた。祐弥の姿は無いが、ドアは開いている。
「あの……失礼ですが、明神くんとはどういうご関係なんですか?」
おや、自分と祐弥との関係を疑っている。この子は祐弥の事が好きなのだろうと思うと微笑ましかった。
「私の名前は西城 美奈。祐弥くんは……」
そう言いかけて、どう説明したものかと少し悩んだ。
「命の恩人だよ」
ふと、以前川に落ちた時に助けて貰った事を思い出した。年下なのに、私を川の中から引き上げてくれた。そんな優しい彼が女の子を泣かせるなんて正直信じられなかった。
「命の……恩人……」
少女は何か思うところがあるのか、ゆっくりと繰り返した。
「祐弥くん、誰にでも優しいよね。だから惚れちゃう気持ち解る気がするの。でもね、祐弥くん優しいから、学生相手に手を出したりしないよ」
言葉が悪かったのか、彼女が驚いた様に目を丸くする。外で会話を聞いていた祐弥が呆れて入って来ると、手話で少女に何か話していた。
「え、智弥さんの彼女さんですか……」
「え、そう見える? だったらちょっと嬉しい」
美奈は照れながら祐弥の頭を撫でた。
「智弥くん、弟くんの事で頭がいっぱいみたいだから、私の事なんて眼中に無いよ」
美奈がにこにこして言うと、祐弥はまた手話で何か伝えようとしている。
「ごめんね。私、手話はよく解らなくて……」
「デートになかなか誘えなくて弟の相談をネタに会いに行ってるって……」
意外な発言に美奈は驚いていたが、美奈はくすりと笑った。
「そんな風に思わせてたのならごめんね。心配しなくても、お兄さんを盗って行ったりしないから安心して?」
祐弥が、兄の事を大事に思って居ることは知っていた。だから兄を盗られるんじゃ無いかと心配させているのだと美奈は思ったのだが、祐弥が再び手話で何かを伝えようとしている。百合がそれを読んで眉根を寄せていた。
「何って?」
「お父さんが御老体だからさっさと安心させてやりたいのに、二人の仲が進展しなさ過ぎてこっちが気を使うって……」
「相変わらずお父さんの事も好きなのね。良い子良い子。そうよね。お父さんとお兄ちゃんの為にリハビリ頑張ってたもんね。心配かけたくないってのも解るけど、周りに甘えて頼りなよ」
この子は甘え下手なのは知っていたのでそう言ったのだが、ふとそれが原因なのではないかと勘付いた。
「えと……お嬢さん」
「百合です」
「百合ちゃん。今からクリスマスケーキ作るんだけど、祐弥くんの手伝いしてあげてくれないかな?」
百合の瞳に光が差した。
「祐弥くん、人に頼るの苦手で、何でも自分一人でやっちゃおうと抱え込んじゃうから、そういう時に傍で寄り添って、手を貸してくれる人が居ると良いなって思うの。百合ちゃんにそれをお願い出来ないかな?」
百合の瞳が小刻みに揺れている。嬉しさと戸惑いと不安が入り混じった様な顔で祐弥を見つめていたが、祐弥にはそれが解らないのだろう。
「私からお願いしたのでは不満?」
百合は戸惑いながらも首を横に振った。
もう時計は十五時を指しているのに、百合が昼食を食べていないと聞いて祐弥が台所に立っていた。音の反響とかで物の大体の位置が解るらしい。手探りに冷蔵庫の中を確認するが何も無い事に落胆していたので、美奈は声をかけた。
「一緒にご飯食べに行こう」
祐弥はそれを聞いて安心して手を振り、頭を下げた。
「何言ってるの。祐弥くんもよ」
祐弥は頭を上げ、首を横に振った。
「美奈さん、私は大丈夫です。お腹も空いてないし……」
「百合ちゃん、それはストレスよ? 体に悪いわよ」
祐弥が不意に百合に近付き、両手を握った。その手を自分の額にあてるが、百合は手を振り払った。
「私の事なんかどうでもいいんでしょ?」
直ぐに祐弥が首を横に振る。美奈はそんな二人を微笑ましく見つめていた。
「あ、じゃあ、お蜜柑あるよ」
美奈はそう言って吉田蜜柑と書かれた袋を取り出した。百合が首を横に振ると、祐弥が手を差し出す。美奈が一つ手に乗せると、椅子に座り込んで蜜柑の皮を剝ぎ始めた。器用に剥くのを見て美奈は笑った。
「上手になったよね。右手、全く動かなかったのに……」
百合はそれを聞きながら祐弥の指先を見つめていた。確かに、何処か少しぎこちなく感じる。百合の手を取って剥いた蜜柑を手に乗せるが、百合は泣き出しそうな顔をしていた。
「百合ちゃん……」
美奈が声をかけると、祐弥は蜜柑を一粒摘んで百合の頬にあてた。手探りに口元を探して口に入れると、百合はほんのりと頬を赤らめる。
「祐弥くん、他人の世話をするのは好きなのに自分が世話になるのが嫌なのね。けど、祐弥くんが百合ちゃんの為に何かしたいっていう気持ちと、百合ちゃんが祐弥くんの為に何かしたいって思う気持ちは、お姉さん同じだと思うな」
美奈の声に、祐弥は項垂れていた。
「祐弥くん、祐弥くんだって、百合ちゃんに良かれと思って蜜柑の皮を剥いたのに、食べて貰えなくて悲しかったでしょう? 百合ちゃんもきっと同じ気持ちだと思うよ? 相手の気持ちにどうして寄り添ってあげないの?」
祐弥はゆっくりと首を横に振った。彼の頑固さも知っているので美奈は机に荷物を広げる。ケーキの材料を並べると、ふふっと笑う。美奈がグラニュー糖を計ろうとすると、百合が祐弥の手を振り解いて近付いてきた。
「明神くん、甘い物苦手なんです」
「え? そうなの?」
美奈は驚いて祐弥を一瞥した。確かにケーキは今回が初めてだったが、何でも食べるので好き嫌いなど無いと思っていた。
「だからショートケーキを作るのでしたらスポンジのグラニュー糖の量を減らすとあまり膨らまないので、生クリームの方のグラニュー糖の量を減らすと割と甘さ控えめに感じられて……」
そう言って百合が泣き出すと、美奈は百合の頭をそっと撫でた。
「そう。教えてくれてありがとう。よく知っているのね」
きっと、彼の為に調べたのだろう。調べて試行錯誤して、それに辿り着いたのだろうと想像する。
「泣かない泣かない。涙は女の武器よ? 男にブランドバッグ強請る時だけにしなさい」
百合は驚いて目を丸くし、可笑しくて笑っていた。
「美奈さん、面白いです……」
「百合ちゃんが純粋すぎるのよ。お姉さんとしてはそりゃあ祐弥くんとお付き合いして貰えれば良いなって思うけど、言ったら何だけど男なんて幾らでも世の中に居るのよ? 失恋の一つ二つで涙流していたらやってけないわよ」
美奈はそう言って軽く溜息を吐いた。
「先輩、今頃何してるのかなぁ……」
高一の頃に二つ年上の男の人とお付き合いしていた頃の事を思い出した。先輩の方から告白してきたのだが、付き合ってみるとこれが中々上手く行かず、お互いに距離を置くようになり、先輩は松山の大学へ行ってしまった。それから一切連絡は無いので、所謂自然消滅というやつだろう。美奈もそこまで惚れ込む事が出来なかったのでまあ別に良いのだが、時間が経つに連れて昔の思い出が不思議と美化されてしまう。あの時に恥ずかしがってキスを拒否しなければ良かったのだろうかと思い悩む事があった。
「美奈さんは失恋した事があるのですか?」
百合の質問に、指を立てて数を数え初めた。
「まあ……いやでも多分、百合ちゃんみたいなのでは無いよ。幼稚園の時に優しくしてくれた男の子とか、小学生の時に足が早かった子とか、中学の時イケメンだった男の子とか、新任の年若な先生とか、所謂成長の過渡期にありがちな憧れとかってやつだよ。今思えば、恋愛感情じゃなくて、恋ってどんなものなのかなっていうなんだろう……自分でもよく解んなくなって来た」
美奈が笑いながら話すと、百合は少し落ち込んでいた。
「まあ、それだけ真剣じゃ無かったからふられてもそこまで悲しく無かったし、中学の頃に周りがカップル多かったから私も少し焦っちゃった節もあったりで、手頃な所で軽いお付き合いみたいな感じで相手の家に一緒に宿題しようって誘われて行ったりもしてたんだけど、まあ、向こうは家に呼ぶ口実ってだけで宿題なんか碌にせずに自慢話ばっかりするし、私が反論したらつまらない女だって言ってたから、お互いに未熟だったんだと思う」
美奈はそう言ってふと我に返った。
「でも祐弥くんは違うよ? 中学生なのにしっかりしてて真面目だもん。私が男運が無かっただけ。だから私の失恋話なんか役には立たないかな」
祐弥は手探りに薄力粉をふるいにかけていた。百合は卵を割って、黄身と白身を分けている。
「祐弥くん、私と付き合ってみる?」
からかい半分で美奈が言うと、百合が卵を落としていた。祐弥を見ると、首を横に振っている。
「ほら、またふられちゃった」
美奈が布巾とナイロン袋を持って来て卵の殻を拾う。百合は布巾で床を拭きながら目を伏せた。
「美奈さんって、簡単にそういう事が言えるんですね」
「冗談よ。祐弥くんは百合ちゃん一筋なんだから他の女が言い寄ったって靡きもしないわよ。その点はちょっと焼けちゃう」
百合が少し不思議そうに首を傾げた。
「どうしてそう思われるのですか?」
「だって私まだ祐弥くんに手を握って貰った事ないもん」
美奈の言葉に百合はきょとんとしていた。
「祐弥くん、こっちが手を差し伸べたり、手を握ったら直ぐ離しちゃうの。お父さんと、智弥くんは別みたいだけど……自分から両手握って相手の手を自分の額にあてるなんて初めて見たよ?」
百合の視線が祐弥に注がれたが、祐弥の様子は変わらない。
「だから変なこと考えないでね。百合ちゃんが死んじゃったら、どっかの犬みたいに後を追って橋から飛び降りそう」
「何ですかそれ……」
「何だっけ? 何かで読んだ気がするんだけど……」
美奈も首を傾げると、祐弥が手話で何か伝えていた。百合はその手の動きを読んで目を細める。
「1793年にマリー・アントワネットが処刑された後、彼女の愛犬ティスビーが後を追ってセーヌ川へ飛び込んだという逸話がある……?」
「そうそうそれ、相変わらずよく知ってるのね」
美奈はそう言って百合を一瞥した。世界史にそんなの載ってたかなぁと小声でぶつぶつ呟いている。
「私はただの歩く辞書くらいにしか思わないけど、人によったら知識をひけらかす嫌な奴って思う人も居るのよ?」
「えっそんなのただの妬みじゃないですか」
「だからね、自分の性格を長所と見てくれる人なんて中々居ないのよ」
美奈はそう言って祐弥を見据えた。
「祐弥くんはこれからどうするの?」
祐弥は右手の人差し指を立てて左右に振った。「何を?」と聞き返しているらしい。
「お兄さんがもし将来結婚でもして、お父さんが亡くなっちゃったら、一人で生活するの?」
美奈の言葉にこくりと頷いた。
「思っていたよりも傷が深いなぁ」
美奈は独り言の様に呟いていた。
電話が鳴り、美奈が電話へ駆けて行った。祐弥と百合はお互いに何も言わず、黙々と材料を混ぜている。百合がオーブンの温度を確かめに台所へ行くと、美奈が戻って来た。
「智弥くんって双子だったんだね。私、智弥くんに誂われてるのかと思った」
にこやかにそう話す美奈に、百合も少し笑った。
「声、よく似てますよね。顔も背格好も同じなんですよ」
「うわぁ。じゃあ会えるの少し楽しみ」
美奈の言葉にふと、百合は目を瞬かせた。
「……もしかして和弥さん、私を迎えに来るんですかね? 一人で来たこと怒ってました?」
「怒って無いと思うよ? 何か私も途中から記憶無いからあれだけど……」
百合はそれを聞いて首を傾げた。
「二重人格っていうのかな? 私、偶にそういうことがあるんだ。けど大抵、危険な時に守ってくれるのよ。幼稚園の頃に道に迷った時も、もう一人の私が家までちゃんと連れて行ってくれて……」
美奈の話しに百合は瞳を輝かせた。
「24人のビリー・ミリガンみたいですね」
「ごめん、それ知らないんだけど……24人もいないよ」
「解離性同一性障害で、ビリー・ミリガンは一人の体に24人もの人格があったっていう話しなんですよ。結構面白かったですよ」
「へー……でもごめん。私、少女漫画しか読まない……」
この二人、凄く賢いなぁ……
「じゃあ、ロバート・ルイス・スティーブンソンのジキル博士とハイド氏なら解りますか?」
「題名くらいなら聞いたことあるけど内容知らないなぁ……」
「貴志 祐介の十三番目の人格……あれなら実写映画化されましたよね」
「それ、ジャンルホラーだったよね?」
美奈が苦笑いを浮かべると、祐弥が手話で何か伝えて来た。
「ごめんなさい。私ったらはしゃいじゃって……」
「え? 良いよ。なんか面白そうだから私も読んでみようかな。私の場合、こうやって話題に出ないと知らないまま終わっちゃうから少し嬉しいよ? 図書館なんか行ったら沢山種類ありすぎてやっぱり漫画の方へ行っちゃうもん。就職したら周り年上しか居ないのに、少女漫画しか分からなかったら自分が苦労するんだよ? 少しでも知識は広いに越したことないよ」
美奈の言葉に百合は照れた様に頷いた。
「祐弥くん、何って?」
「えと……相手を理解することと、自分の知識を押し付けるのは違うと怒られました」
「はは……私が知らなかっただけなのになんかごめんね。私の事を知ろうとして、共通の話題を探ってただけだもんね。共通の話題かぁ……何なら私も話せるかなぁ?」
美奈はそう言うと、考え込む素振りを見せた。
「最近はち○れの化粧品にハマってるくらいかな」
百合はそれを聞いて目を丸くした。
「それってドラッグストアの化粧品売り場にある……」
「そうそう! 値段お手頃だし気に入ってるんだよね」
「私、無印○品の化粧水使ってます」
あまり聞き馴染みの無いお店に美奈は頭を悩ませ、記憶の奥から引き出した。
「……あ、松山の商店街に店舗あったね。あそこ雑貨屋さんだと思ってた。化粧水もあるんだ」
「あ、こっちにはまだ店舗が無いんですね……ちふ○って使い心地良いですか? 私、ドラッグストアで買った化粧水が合わなくて、それで足が遠退いてて……」
やっと和気藹々と話しが弾むと、祐弥は安心しているようだった。
ケーキが出来上がる頃にやっと智弥が帰って来た。祐弥が買い物袋を引っ手繰る様に取って行った事に驚いていた智弥は、家の中に美奈が居るのを見て更に驚いていた。美奈はリビングで百合の爪にマニキュアを塗っている所だった。
「どうしたの?」
「クリスマスだからクリスマスケーキを祐弥くんと百合ちゃんと三人で作ってたの。あとは人生相談かな?」
美奈がにこにこして台所へ視線を向ける。手早く何かを作っている祐弥を百合はリビングから心配そうに眺めていた。
「そうですか。ありがとうございます」
「ううん、私も楽しかったから」
不意に対面式キッチンの方から紙を丸めた物が飛んで来て智弥の後頭部に当たった。智弥が振り返ると、祐弥が手話で何か伝えようとしている。
「女の独り歩きは危ないから送って行け」と言いたいらしい。時計を見ると十七時だったが、外はもう暗い。
「送って行きます」
「良いの? 今、帰って来たばかりなのに……」
「一人で帰らせたら弟にどやされます」
「じゃあお言葉に甘えちゃおっかなぁ」
美奈がにこにこしてソファから立ち上がった。
「じゃあ百合ちゃん、悪いけど……祐弥、前に一度包丁で手を切った事があるから、見ててくれる?」
何となく悲しそうな顔でこくりと頷いた。智弥にはその理由が解らなかったが、美奈は百合の手を引っ張ると小声で耳打ちした。
「私の神社に伝わるおまじないでね……」
ゴニョゴニョと囁き終わると、百合は不思議そうに美奈を見た。
「すみません。神社の方なのにクリスマスケーキ作るんだなってちょっと意外で……」
「ふふ……私、こういうイベント大好きよ」
偏見だ! と美奈は思ったが、それは今回に限ったことではないので気にしない。
「じゃあ祐弥くん、またね」
祐弥がこくりと頷くと、美奈は外へ出る。冷たい風が頬を刺すと、肩を竦めた。夜の空から雪が舞い降りていた。
「今年の冬は寒いね」
美奈がなんの気無しに言うと、智弥は徐ろに自分が首に巻いていたマフラーを美奈の首に掛けた。美奈が驚いて固まっていると、智弥は優しく美奈の頭を撫でた。
「朝晩は特に冷えますから、体調には気をつけて下さいね」
ぽっと花が咲いた様に顔が熱る。今まで付き合った男の人で、こんな風に心配してくれる人が居なかったから凄く嬉しい。
「ありがと……」
「あとこれ、気に入るか分からないんですけど……」
智弥が小さな紙袋を取り出して美奈に差し出した。何だろう? 祐弥からあんな事を聞いた後なので色々と期待してしまう。まだ付き合っても無いのに指輪とかは無いよね? 大きさは小さ目だからネックレスとかだと嬉しいなぁ……
ドキドキしながら紙袋を開けると、桃色の小さな……ヒルドイドソフト軟膏と書かれた薬が一つ入っていた。美奈は困惑しながら智弥を見上げる。
「美奈さん、それ、僕が皮膚科で貰っている薬なんですけど、冬の手荒れの時期はそれが一番良くて……」
智弥の話しに思わず吹き出す様に笑った。女の子へのクリスマスプレゼントがまさか手の軟膏だなんて思いもつかないし、今迄の彼氏の誰一人としてそんなのをくれる人は無かった。右手の小指に皹が出来ているのを目敏く見つけたのだろう。だからといってそれをクリスマスに異性に贈る所が、天然だと思った。前髪を切ったり、爪のマニキュアの色を変えたって気付きもしない男の方が多いのに、それに気付いてくれたことが嬉しい。
「ごめんなさい。もう嬉しくて……」
こういう所が面白くて好きだなと思った。ちゃんと私のことを見て、私のことを考えて、数ある贈り物の中からこれを選んでくれたのが嬉しい。
「じゃあ私からも……」
「もう頂きましたよ。ケーキ作って下さったんでしょう?」
「混ぜるのは全部祐弥くんにして貰ったし、百合ちゃんがオーブンの火加減とか見てくれたので、私は苺を切ったくらいですよ」
「充分です」
智弥がにこりと笑うと、美奈は人差し指を立てて口元を抑えた。
「ここだけの話しなんですけどね」
美奈が小声で言うと、智弥は少し前屈みになって美奈に耳を傾けた。美奈が軽く智弥の頬にキスをすると智弥の顔が赤くなる。美奈はそれが面白くて笑った。
「私からのクリスマスプレゼントです」
美奈がそう言うと、智弥は美奈の手を握った。
「美奈さん、その……もし、好きな人とか居なければ……」
「え、居ますよ?」
美奈が即答すると、智弥は少し驚いていた。
「私の手を今、握ってくれている人です」
美奈がにこりと笑って言うと、智弥も恥ずかしそうに笑っている。暗い夜道を二人は手を繋いで歩いていた。
百合の眼の前に料理が並んでいた。グラタンに、ゆで卵の入ったツナサラダ、クラムチャウダーに魚のムニエル……よく目が見えないのにこれだけつくるなぁと百合は感心していた。けれどもやはり、料理が一人分しかテーブルに並べられなくて目を伏せた。百合が箸を取らないで座っていると、祐弥は百合の隣に座ってスプーンを取った。グラタンを一口分掬って百合に差し出すと、百合は眉間に皺を寄せた。
「要らない。私が欲しいのはそれじゃない」
百合が言い放つと、祐弥はスプーンを置いた。深い溜息を吐くと、頭を掻き毟っている。根負けしたのか、「どうしたら許してくれる?」と手話で問い掛けて来た。百合はまた泣き出しそうになるのを必死に堪えていた。
「じゃあ教えてくれる?」
右手の人差し指を立てて左右に振った。
「私の何が気に入らないの?」
祐弥は首を横に振る。
「私、ずっと明神くんからの手紙、待ってたんだよ?」
こくりと頷いた。
「どうして一言連絡くれなかったの?」
祐弥が「ごめん」と手話で応えた。
「ごめんじゃなくて、理由を教えてよ。音沙汰無ければ私が勝手に諦めると思った? ここまで一人で来る筈無いと思った?」
祐弥は首を横に振り、再び謝ってから「こんな自分を、お前に見せたくなかった。知られたくなかった」と手話で返した。「自己満足だった。お前の気持ちを考えてなかった」と続けると、百合は拳を握った。
「酷い……」
百合が涙を流すと、祐弥は手を差し伸べかけて引っ込めた。「俺に出来ることであれば何でも一つ願いを叶えてやるから、俺のことは忘れて幸せになってくれ」祐弥が手話でそう伝えるのを見て、百合は涙を流した。
「なら、私は何も要らない。明神くんを忘れたくないし、不幸でいい」
百合の言葉に祐弥は項垂れた。そっと祐弥の頬を両手で包むと、百合は呟いた。
「ちはやぶる神の住まいは吾が身にて出入る息も内外の神」
美奈に教えてもらった歌を唱えて祐弥の額に息を吹きかけた。短い前髪が靡くと、固く閉じられた瞼が微かに動いた。
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