第2話 闇

 肌に当たる日差しは心なしか温かいが、風は冷たい。智弥は車椅子を押しながらいつもの道を歩いた。団地を抜け、港の方へ少し歩くと、大きな総合病院が見えてくる。その広い庭に差し掛かると、水仙の花が一つ二つ咲いていた。

「おはようございます」

 不意に声を掛けられ、智弥は振り返った。明る目の茶髪を綺麗に纏めた二十代後半くらいの女の人が立っている。

「おはようございます。今日もいい天気ですね」

 智弥はにこりと笑い、会釈をした。すかさず女性が車椅子へ回り込むと、座り込んで祐弥の両手を握った。

「おはよう。祐弥くん」

 女性は微笑んで声をかけるが、祐弥は直ぐに手を振り払った。

「祐、射干さんだよ?」

 やかん、という珍しい名字で、智弥は直ぐに覚えていた。祐弥が病院に入院していた頃から何かと気にかけてくれた看護婦さんだった。

「まだお姉さんの事、怖い?」

 祐弥は首を横に振ったが、相手が女の人というのもあって少し苦手な様だった。

「すみません、内気な子で……」

 智弥がそう言いかけると、不意に祐弥が膝に置いていた膝掛けを広げた。松編みの三角ストールを射干に掛けると、射干も智弥も驚いて目を丸くした。射干は若草色のストールを見つめ、祐弥に視線を戻した。

「これは……」

「リハビリの為にずっと編んでたものなんです。僕はてっきり……」

 百合ちゃんへのプレゼントだと思っていたのだが、まさか他の女性へあげてしまうなどとは夢にも思わなかった。

「自分のだと思っていたんですけどね」

 まあ流石に、他の女性の為に編んでいたものを射干にあげる筈は無いだろうと智弥は思い直した。

「右手が上手く動かなかった頃から何度も作り直していたんです」

 射干はそれを聞いて驚いた様に目を丸くした。病院に入院していた頃は全く右手は動かなかった。退院して包帯が取れてからでも指先が曲がらなかった。その頃を知っている射干だからこそ、そのストールを作るのに人一倍時間がかかった事は想像に難くない。今でも、祐弥の右手は怪我をする前程器用には動かなかった。

「私にくれるの?」

 戸惑いながら射干が聞くと、祐弥は頷いた。咳をするような仕草をしてから手でかき消したので、「風邪をひくなよ」と言いたいらしい。

「……ありが、とう……」

 射干が困った様な表情をしたのを見て智弥は戸惑った。祐弥が頑張ったとはいえ、今時手編みは嫌だっただろうかと少し気落ちする。祐弥はそんな事に気付いていないのか、射干の頭をそっと撫でた。射干が驚いて跳ねる様に立ち上がると、気恥ずかしそうに頬を赤らめている。

「射干さん?」

「えっあの……少し驚いてしまって、その……」

 顔が真っ赤になり、耳まで赤くなっている。智弥はその様子に恋を疑ったが、まさか中二相手にそれは無いだろうと自分の考えを打ち消す。

「何かありました?」

「何も無いです! では、また後で……」

 射干が恥ずかしそうに駆けていく。いつもは同じ病院へ入って行くまで一緒に歩くのだが、智弥はその様子に冷や汗を流した。そりゃあ、動かし辛い手で時間をかけて作った物を贈られたら嬉しいだろう。それが異性となると、そんな風に意識してしまうのかも知れない。

「祐弥、もしかして今迄ああやって女の人に勘違いさせてたりしないよね?」

 そうだとしたら罪な男だと思う。その気も無いのに優しくされ、勘違いした女の子達が今迄どれだけいたのだろうかと訝った。そりゃあ中性的というか一見顔は女の子みたいだし、頭も良い。これで優しいとなったら引く手数多だっただろうと想像する。

 智弥の質問に祐弥は首を傾げた。どうやら本人には自覚が無いらしい。ただ、よく声を掛けてくれる看護婦さんに、リハビリがてら作り上げたストールをあげた。くらいにしか思っていないのだろう。

「祐、身の振り方ちょっと考えよう」

 智弥の言葉に祐弥の肩が震えた。どうやら笑っているらしい。もしかして態と、相手に勘違いさせるような行動を取ったのかと訝しく思った。

 ふと、空から雪が降りて来るのを見て智弥は空を見上げた。

「雪だね。こっちは雪が積もること無いけど、里の方は雪が積もってるんだって。今度汽車に乗って行こっか」

 智弥が車椅子を押しながら言うと、祐弥は肘掛けを指先で叩いた。

 こ、ろ、ぶ、か、ら、や、め、と、け

「ふふ……転ばないもんね」

 智弥はそう話しかけながら歩いた。病院の前に着くと不意に変な事が思いついてしまった。

「もしかして、射干さんの事が好き?」

 一回り程年上だが、目が見えない祐弥にとってそれは関係無いかも知れない。祐弥が声もなく笑うと、智弥は眉根を寄せた。

 昨日、百合ちゃんから電話が掛かって別れ話をしたばかりでそんなことは無いと思いたいが、声も出ないし、両目が開かないので目語も出来ない。だから祐弥が心の底では何を考えているのか全く解らなかった。



 射干は祐弥から貰ったばかりのストールを眺めながら屋上に立っていた。腰の辺りまですっぽりと隠せるほどの大きな三角ストールは丁寧に編まれていて温かい。射干は編み目を一つ一つ見つめながら彼がどれ程苦労したのかを想像した。どれだけ探しても解れがないので、失敗する度に解いて編み直したのだろう。目が見えないのに手探りで、指先で編み目を確認したのだろう。これを作り上げるのに一体何時間、何日かかったのだろうかと想像するとじんわりと涙が溢れてくる。

 自分だったらきっと挫けて投げ出すだろう。利き手が上手く動かなくなり、目も見えない。口も利けない。足だって……それでも、自分の努力の結晶を容易く誰かに施してしまう彼の優しさに胸が締め付けられた。

「どうして私に……」

 看護婦なら他にもいた筈だ。だから偶々自分に……というだけかもしれない。けれども初めて作り上げた物を自分や家族ではなく私に差し出された事が心底嬉しかった。異性にそんなことをされたことが無くて戸惑ってしまった。

 気付くと雪がちらついていた。彼と会ってから二ヶ月半が過ぎた。その間に、彼がどれだけ努力したのかを見続けた。

 冷たい風が頬を刺すと、室内へ戻り、階下へ降りた。一階のリハビリ室で、祐弥が手探りに折り紙を折っている。その隣で智弥が他の患者に折り紙を渡していた。祐弥が器用に折り紙を折り、鋏で切り込みを入れて広げ、切った先をテープで張り合わせている。目が見えていないはずなのに同じものを六つ作ると、その六つの端を繋ぎ合わせている。六花が出来上がると、鶴を折っていた小学生が目を見開いて祐弥に近付いた。

「それ、僕にも教えて!」

 祐弥がこくりと頷き、また折り紙を取って折って見せる。小学生は祐弥の隣にバイプ椅子を持って来て座り、見様見真似で作っていた。あの小学生の男の子は、交通事故で左手が不自由になった子だった。男の子が「出来た!」と燥ぐと、他の患者も祐弥の傍に集まって来る。智弥も少し驚いていたが、祐弥と一緒に折り紙を教えていた。

 不思議な子ね……

 よく物を知っている子だと思った。気長で根気強い優しい子だ。だからいつも彼の周りには人が集まって来る。目が見えないとか口が利けないなんて相手に思わせない程周りに溶け込んでいる。それは彼の今迄の勉強の成果なのだろう。どんな状況に陥っても生きられる様に、何があっても誰かの為になる様に、それが回り回って自分や自分の周りの人を守れる社会にする為に勉強してきたのだろう。

「祐弥くん、声帯の手術はいつ?」

 射干が徐ろに近付いて話しかけるが、祐弥はまた何か折り紙で折っているらしい。円錐の形をした小さな折り紙が三つ並んでいる。

「声帯の手術は嫌がっているんですよ」

 智弥の言葉に射干は目を伏せた。

「どうして? 私、祐弥くんともっとお話しがしたいなぁ。もしかして、手術が怖いのかしら?」

 こないだ足の手術を受けたばかりなのでそれは無いだろうと思うのだが、少し誂う様に言った。けれども気にしていないのか無視なのか、黙々と折り紙を折り、同じものが五つ出来ると束ねてテープで止めた。

「祐……」

 智弥が見兼ねて声を掛けると、作ったものに細いストローを刺してひっくり返した。指先で出来上がりを確認すると射干に差し出す。白い折り紙で出来たそれは五弁の花のようだった。

「私に?」

 祐弥がこくりと頷き、人差し指を口元に当てる。自分の左胸を指した後に射干を指し示すと、自分の胸を叩いた。

 どうやら、話せなくても心は通じ合えると言いたいらしい。射干は差し出された花を見つめると少し笑った。

 再び祐弥が今、差し出した花を指し示してから自分の口元を指し示すと、射干は首を傾げた。その様子に智弥が口を挟んだ。

「花だって、何も喋らないけどそこに咲いているでしょう? そう言いたいみたいです」

 祐弥がこくりと頷くと、射干の手が小刻みに震えた。

「そう……ね……」

 この眼の前に座っている祐弥相手に言い知れない恐怖を覚えた。目も見えない。喋れない。満足に動くことも出来ない。それなのに、まるで自分の罪を見透かされている様な、黄泉の女王に睨まれているような緊張感がある。

「射干さん?」

 智弥に声を掛けられ、射干は我に返った。まさか、こんな子供が知るはず無いと自分に言い聞かせる。

「ごめんなさい。昨日、夜更かししてゲームしてたからね」

 射干が気恥ずかしそうに話すと、和弥が驚いた様に目を丸くする。

「すみません、夜勤明けとかかと思っていたので……看護婦さんも夜更かししてゲームするんですね」

「偶に息抜き程度なんだけどね」

 適当に繕うが、自分が彼にした事が脳裏を過ぎった。彼はちゃんとリハビリを受け、自分の足で歩ける様になって退院していた。何度か経過観察の為に病院へ通い、何度転んでも挫けなかった。怪我をしていたと思えない程ちゃんとしっかり歩いていた。その姿があまりにも真剣で、一生懸命で、羨ましかった。

 羨ましくてつい、もう二度と立ち上がれなくなれば良いと思った。彼の左足に壊死が見つかり、切り落とさなければならないと聞いた時、心底歓喜した。あの直向きな彼が、挫けて、打ち拉がれて、二度と前を向けなくなる事を願った。そうであって欲しい。だって病院へ来る誰もが、心も体も病んでいる。病人はそうでなければならない。心が弱っている方が漬け込みやすい。彼には自分が必要なんだと、支えてやらなければならない存在だと……自分よりも立場の弱い人間だと見下さなければやっていられない。それなのに、落ち込んだ様子が一切ない彼が疎ましかった。



 ーー青白い月の光が木々の間を縫って地面に降り注いでいる。その光を吸って白い百合の花がそこここに咲いている。その花に包まれる様に横たわる少女の姿に目を伏せた。真っ黒な瞳は虚ろで、暗い夜空を映している。夜露に似た涙が鈍い光を宿し、陶器の様な白い頬を流れ落ちた。口から流れた赤黒い血をそっと拭うが、彼女は見捩り一つしなかった。さっきまで雲雀の様に煩く鳴いていたのに、皮を剥いで肉を裂いたら何も言わなくなった。

 彼女の気を引こうとした。宥め賺して情で絆そうとしたけれども、彼女は靡きもしなかった。それが悲しくて、逃げた彼女を探して、捕えて、力で捻じ伏せた。

「大嫌い」

 それが彼女の最後の言葉だった。その彼女の最後の言葉が、自分の中の奥底に隠していた扉を力強く叩いた。

 隠そう……

 少女の体を抱き締めると柔らかい肌にまだ微かに温もりが残っていた。ーー

「祐?」

 智弥に声を掛けられ、祐弥は我に返った。

「大丈夫? しんどい?」

 智弥の声にこくりと頷いた。どうやら自分でも気付かないうちに疲労が溜まっているらしい。智弥が車椅子を押すと、冷たい風が頬にあたった。

 何とも、生々しくて嫌な夢だった。百合によく似た少女を切り裂いて殺してしまった。けれどもその身動き一つしない彼女を美しいと思ってしまう自分が怖い。きっと自分はいつか、百合に同じ事をしてしまうのではないだろうかと不安になる。

 不意に車椅子が止まった。まだ家までは少し距離があるはずなのに何故止まったのか解らなかった。冷たい空気に混じって微かに懐かしい香りがする。

「明神くん……?」

 忘れるはずもない彼女の声に耳を疑った。聞き間違いであって欲しい。彼女が今の自分に、憐れみの眼差しを向けている事を想像した。

「百合ちゃん、ごめん、騙すつもりは無くて……」

 智弥の焦った声に思わず智弥の腕を掴んだ。首を横に振ると、智弥はそっとその手を包み込んだ。

「祐、百合ちゃん、態々ここまで来てくれたんだ。寒いから、家に上がって貰おう?」

 智弥の言葉に、ゆっくりと手を離した。

 智弥が家の前で車椅子を止めると、祐弥は一人で立ち上がり、手摺を触りながら器用に片足で三段の階段を登る。音の反射や空気の流れで大体の物の位置は把握出来ていた。ドアの鍵を開けて家に入ると、壁に掛けられた靴べらで靴を脱ぎ、そのまま自分の部屋へ入った。脱力してそのままドアにもたれ掛かって座り込むと、ドアの向こうで智弥の声がした。

「凄いでしょ? 大抵のことは自分でやっちゃうんだ」

 智弥と百合が家の奥へ入って行く足音を聞いた。きっと智弥は自分の知る限りの事を彼女に話すだろう。彼女は一体何を思うだろうか? 彼女の記憶の中くらいは五体満足な自分の姿のままで居たかった。

 少しして、部屋のドアをノックする音が響いた。

「祐弥、百合ちゃんが話したいって」

 直ぐにドアを三回叩いた。話などしたくない。彼女の前にこんな自分を晒したく無かった。

「ごめんね。はいが二回、いいえが三回って決めてるんだ」

 智弥の声に俯いた。態々ここまで来てくれた事が嬉しい。けれども同時に何で来たのだと苛立った。

「百合ちゃん、僕ちょっと買い物に行きたいんだけど、一緒に行かない?」

 智弥の声に思わずドアを開けた。もう別れたのだから、彼女が誰と付き合おうと関係無いのだが、智弥と二人っきりで買い物など考えたくない。

「じゃあ、僕一人で買い物に行ってくるから、百合ちゃん、お留守番宜しくね」

 智弥が可笑しそうに笑って出て行った。玄関ドアが開閉する音がして、智弥の気配が消える。

 弄ばれている……あいつ態とあんなことを言ったのかと意地悪な兄貴に心中穏やかでいられなかった。

「急に来てごめんね。どうしても会いたくて……」

 直ぐ側で百合の声がした。何となく大体の位置は解るが、どんな顔をしているのだろうかと思うといたたまれなくなる。

「触ってもいい?」

 戸惑いながらも握手を求めるように手を差し出すと、彼女の両手が優しく包み込んだ。彼女の手が小刻みに震えている事に気付くと、そっと手を引っ込めようとする。けれども百合に小指を握られ、思わず可愛いと思ってしまった。まるで幼い子供に手を引っ張られる様な感覚で、心の中がふわふわする。

「私のこと、嫌いになった?」

 そんなことは無いけれども、彼女の将来を思えば首を縦に振るしか無かった。どうしても、彼女の未来を自分の我儘で壊したくない。百合の手がまた小刻みに震えていた。

「酷い……」

 百合の言葉に耳を塞ぎたくなった。手を振り払おうとするが、百合は両手で強く手を握った。

「消して行って」

 百合の言葉に困った様に項垂れた。もう前の様に記憶を消してやる事なんて出来ない。けれども、彼女がそう望んだ事に深く傷付いた。祐弥の掌を百合はそっと胸にあてた。掌に彼女の温もりと鼓動が伝わる。

「この胸の炎は貴方が点火したのですから、貴方が消して行って下さい。私一人の力ではとても消すことが出来ないから」

 思わず膝から崩れ落ちて彼女の手を額にあてた。気恥ずかしくて悔しい。彼女がどんな顔をしているのか見られないのが歯痒かった。

 そうか、前に別れ際に虹の話しをした事に対して太宰治の斜陽から引用してきたのか……「私の胸の虹は、炎の橋です」という一文を思い出して尚更恥ずかしかった。

 ……惚れた。否、惚れ直した。

 右手の甲を左の頬に擦りつけた。百合はそれに気付いたらしい。

「ずるい?」

 祐弥は頷いた。こんな弱っている時にそんな事を言われたら、彼女の為に諦めようとした気持ちが揺らいでしまう。

「明神くんの方がずるいよ……私、明神くんの為に勉強してきたのに、困っている時に手を差し伸べるチャンスもくれないの?」

 百合の手が優しく頬を包んだ。彼女の額がおでこにくっ付くと、少し熱を放っている。恥ずかしそうに顔を真っ赤にした彼女の顔を想像し、手探りに彼女の頬に触れた。ここが耳で、ここが目元で……彼女の顔が見えないのがいじらしくて、指先に彼女の唇が触れると、そっと口吻をした。嫌がる様子のない彼女の体を抱き締めて、この腕に閉じ込めておきたかった。ずっと傍に居てほしい。何処へも行かないで欲しい……また離れ離れになってしまうのなら、いっその事壊してしまおうと思った。

 その時にあの夢で見た少女の姿を思い出して思わず百合の体を離した。

「明神くん……?」

 そっと彼女の頭を撫でて笑って見せた。「少し一人にしてほしい」と手話で伝える。壁に付いた手摺に捕まると部屋に入って行った。ベッドに横になると、百合が掛布団をかけてくれた。そのまま出て行ってくれると思っていたのだが、布団の中に百合が入って来て心臓が止まりそうになる。彼女に背を向けると、背中にぴったりと百合が引っ付いた。背中に小刻みに伝わる震動が、寒さに震える仔猫を彷彿とさせた。

 寒がってる……?

 もう十二月だし、ストーブを点けていない。だから寒くて震えているのか、自分を男として意識して緊張しているのか解らない……

 体を起こして振り返ると、手探りに彼女の顔を触った。やはり、少し熱を感じる。羽布団の上から毛布を掛けると、部屋を出て行く。手拭いを濡らして固く絞った物を持って部屋に戻ると、百合のおでこに乗せた。そのまま手を引っ込めようとすると手を握られる。

「暖めてほしいな」

 百合が指を絡ませると、そっと頭を撫でた。

 よく考えたらあの台詞は妻子持ちの男に妾にしてくれと懇願する手紙だ。恋愛小説ではなく敢えてそれを選んだのは、手紙を出しても返事が来なかった事を皮肉っているのか……他に好きな女が出来たんじゃ無いのかと暗に聞いてきているのだ。……良く勉強している。

「福井さん宅で上原さんと何をしていたか教えてくれる?」

 これまた、さっきの小説の話しだ。右手で右肩の先を払うようにして「知らなくていい」と手話で返した。中二が誘うなと言いたいが、まあ三ヶ月ぶりだから、色々と思うところがあるのだろう。会えなかった日々が、彼女の中で恋を美化してしまったのだ。あの小説と同じ様に、久しぶりに再会して変わり果てた姿に幻滅して恋が終わったというのなら何も言わずに出て行ってほしい。それなのに意地になって、恋の革命だのと変に触発されて自分を安売りしてほしくない。

「知識は幾らあっても良いって言ったよね?」

 お前の将来を思って言った言葉だったのに、それを乱用されるのは本意でない。だから「もう少し、子供でいてほしい」そう手話で伝えると、百合の不満そうな声が聞こえた。

「また子供扱い……」

 別に今必死に背伸びする必要など無いだろう。彼女は恋に恋をしているのだ。自分ではない。あの小説を読んだならそこまで解りそうなものだが、恋は盲目なのだろう。まあ、恋人の欠点を美徳と思わないようなものは恋しているとは言えないとゲーテが言っていたか……?

 そう考えると少し笑ってみせた。彼女の細くて小さい手が頬を摘む。

「泣いても良いよ?」

 愛想笑いだと気付かれてしまったらしい。父も兄も気付かなかったのに、よく見ている。

「けだし我が国民の笑いは最もしばしば、逆境によって擾されし時、心の平衡を快復せんとする努力を隠す幕である」

 新渡戸稲造の武士道の一文を暗唱する百合の手をそっと包んだ。この子なら、もう何処へ行っても大丈夫だと安心する。自分が居なくても、自分で未来を切り拓く事が出来るだろう。だから、安心して手を離せると思ったのだが、百合は指を絡ませる様に祐弥の手を握った。

「願わくば 天に在っては 比翼の鳥 地にあっては 連理の枝に」

 思わず嬉しくて手を離せなくなってしまった。翼が片方しか無くても寄り添って空を飛ぶように、片足しか無くても寄り添って生きて行こうという彼女なりの気持ちが嬉しい。

「私じゃ駄目かな?」

 百合の悲しげな声が響いた。

「私がずっと明神くんを支えるから、傍に置いて貰えないかな?」

 ここまで来ると流石にこっちが折れるまで口説き続けるつもりなのでは無いだろうかと少し不安になる。策が尽きるまで媚びなければ勝手に疲弊していくだろうが、それもなんだか可愛そうに思う。ただ、我ながら酷い男だと思うが、それも少し楽しい。

 肩を震わせて笑うと、百合の手の甲にキスをした。

「明神くん?」

 呆気に囚われた様な彼女の声がした。右手を離して軽く拳を握り、自分の脇腹を二回叩くと、百合がまだ握っている左手を強く握った。

「面白い?」

 不満そうな声に祐弥が頷くと、百合の右手が震えていた。彼女の真剣さは伝わるのに、それを笑う男にやっと嫌気が差したかと心底安心する。

 繋いだまま彼女が祐弥の手を引き寄せると、その手に彼女が口吻をした。手首に涙が当たると、泣かせてしまったのだと気付いた。呆れてその恋を終わらせてしまえば良いと思っていたのに、泣き落としに切り替えるなんて狡い……そう思うが、狡いのは自分の方だろう。彼女の気持ちを踏み躙って泣かせておいて、被害者面するのも情けない。

 「ごめん」と手話で伝えるが、彼女の涙が止まらない。右手で涙を拭うが、次から次へと涙が溢れていた。

 君はまだ若いから解らないだろうか……君の恋心を人質に取って、目も見えない、口も利けない、彼女が困った時に助けに行ってやれない体で君の将来を奪う事を憚られると思うのも愛だと信じてほしい。可能であれば歳をとって、他の人と幸せを享受したその後にでもこんな男に恋をしていたこともあったと懐かしく思ってくれればそれで良かった。

 そう思っていたのに……彼女の言葉が琴線に触れた。ちゃんと告白に対しての返事の為に沢山本を読んだのだろう。会えなかった三ヶ月の間に沢山自分の事を考え、思い続けてくれたのだろう。その思いに応えてやれない自分が情けなくて今すぐにでも消えてしまいたかった。けれども、彼女がくれた命を身勝手に捨てる事も出来なかった。

 彼女の手が解けた。百合の嗚咽が何も見えない自分の胸を締め付ける。手を伸ばしかけたが、手を引っ込めて部屋を出た。



 智弥は公衆電話で和弥に電話をかけていた。今頃二人共仲良くやっているだろうかと少し心配しつつも、まだ中学生だし、直ぐに仲直りするだろうと考えていた。

「……ということで、和弥、迎えに来てくれる?」

「はあ?」

 百合が一人で来たと言っていたので、一人で帰らせるのは心許ないと思っていた。自分が送って行っても良いが、目の見えない祐弥を日中一人にするのも気が引ける。まあ大丈夫だとは思うが、買い物に誘っただけであの態度だったので、送り狼になるんじゃないかと弟を心配させるのも忍びない。それで、和弥に迎えに来る様に電話したのだ。和弥は百合が一人でこっちに押しかけてきたと聞いて溜息を吐いていた。

「昨日の今日で……懲りないなぁ」

「昨日?」

 和弥の言葉に智弥は首を傾げた。今日は二十五日なので、昨日は二十四日だ。十二月二十四日と言えばクリスマス・イブくらいしか思い付かない。

「昨日、お嬢ちゃんの誕生日だったんだよ」

 和弥の言葉に智弥は驚きを隠せなかった。

「お嬢ちゃん、自分の誕生日には手紙の返事が来るんじゃないかって、ずっと待ってたんだ。それなのに電話一つかけて来ない。理由も何も教えてくれない。さっさと諦めれば良いのに、朝一の便で飛び出して行っちまったんだろ。

 俺からも目が見えないとかは言って無いから、実際に会ったらショックだったと思う。けど、返事が来なかったのはその目のせいだったんだと障害のせいにして、会えない間に美化した恋が再燃するんだろ。お嬢ちゃんの性格だと恋に障害がある方が燃えそうだし……

 でも、女の為に自分の寿命を挿げ替える様な男に何言ったって聴くはず無い。誰かの為に自分を犠牲にしても、惚れた女を自分の為に犠牲に出来る程あいつ大人じゃないんだよ。人間は持ちつ持たれつが普通なのに、相手に寄り掛かって助けてもらう事に慣れてない。

 だからお嬢ちゃんの気持ちなんて二の次で、お嬢ちゃんの将来の為に返事なんか寄越さなかったんだろ。それにお嬢ちゃんが気付いたとしても、お嬢ちゃんはあいつのことを諦めたりしないんだろ。諦める気があるなら普通、とっくに諦めてる。

 お嬢ちゃん、ずっと色んな本を読んで勉強してたんだぜ? あいつの為に。その努力をあいつは自分の身の上を卑下して簡単に謗るんだろうな。自分の薄っぺらい自尊心の為に」

 和弥の話しに智弥は唇を噛み締めた。

「祐はそんな事しないよ。百合ちゃんの事を大切に思ってるから……」

「大切だから、自分から遠ざけようとするんだろ。弱っている所に言い寄って来る女が居たら、弱さを振り翳して自分の良いように利用する奴だって居るのに、あいつにそれが出来るとは到底思えん。それが出来る人間なら、十年前の封印の時にも、我が身可愛さにお前や親父を生贄にしていた筈だ。だから元々そういう気質であって悪気は無いんだろうけど、悪気が無いからこそ質が悪い。

 お嬢ちゃん、今迄の恋が成就しないと気付いて、思い余って死ななきゃいいけど」

 和弥の言葉に寒気がした。そんな事は無いと思いたいが、和弥の話しには説得力がある。

「考え過ぎだよ……」

「まあ、そこんところ心配だから迎えには行くけど、年の瀬の迫った時期じゃあ飛行機取れるか解らん」

 智弥は思わず笑った。

「ありがとう」

「あいつの事だからどうせ……」

 そう言いかけて和弥が言葉を止めた。何となくその先が智弥には解っていた。

「あんな体になったのは、僕や父さんや百合ちゃんみたいに大切な人の為の犠牲だったんだろうね。目が見えなくなっても、喋れなくても、足が一本無くなっても落ち込んだ様子が一度も無かったから……」

「解ってんなら良いけど……家族への負担が大きいと感じたらあいつ、さっさと身を引いちまうから気を付けてやれよ」

「解ってるよ」

 解っている。本当は彼が今にでも消えてしまいそうなくらい弱い事を……一人で生活出来るようになれば、さっさと出て行こうとしている事も……

 電話が切れると、智弥は受話器を置いた。テレホンカードの残りは僅かだが、財布に仕舞って外へ出る。空を見上げると牡丹雪が降っていた。

 不意に獅子と牡丹を思い出して目を細めた。彼女に傍にいてほしいというのは彼の本当の気持ちだろう。同時に幸せになって欲しいというのも……自分が傍に居ることで彼女を不幸にしてしまうと思い込んで居るのだろう。

 智弥は公衆電話を後にすると、商店街へ入って行った。

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