隱神 其の肆
餅雅
第1話 兄弟
速達で届いたばかりの手紙を、玄関の土間で明神 祐弥は開いて読んでいた。嬉しそうに少し頬が綻ぶと、その様子を伺っていた兄の鳴神 智弥は少し羨ましかった。
「何て書いてあるの?」
「教えない」
祐弥が丁寧に手紙を畳んで封筒に戻すと、智弥は少し頬を膨らませる。祐弥よりも三つ年上だが、未だに彼女は居なかった。だから恋話には興味があるが、未知の領域だった。
「お前も彼女に手紙書けば?」
なんの気無しに言う祐弥に苦笑いを浮かべた。
「相手が居ないんだよね」
祐弥が少し首を傾げた。前世では許嫁が居たので、その流れで今世でも彼女の一人くらい居るだろうと思われていたらしい。
「俺の蘇り何かに無駄に時間を費やすから……」
祐弥が呆れた様に言うと、智弥は眉間に皺を寄せた。
「無駄なんかじゃない!」
智弥が怒鳴ると、祐弥は宙に視線を泳がせた。
「智弥、ちょっと付き合え」
祐弥に言われ、玄関ドアを開ける。家の奥から父の嬉しそうな「行ってらっしゃい」の声が聞こえた。智弥は困惑しながらも、彼に手を引かれて歩きながら、失われた兄弟の十年を埋めるように噛み締めていた。今度こそ普通に、仲の良い兄弟で居よう。そう心に決めていた。
祐弥に案内されるまま、左近の神社に辿り着いた。ここには以前、屋敷に置いていた資料をここへ移動させたのだと父から聞いた折に来て以来だった。祐弥が鳥居を潜ると、神社の庭に生えた大きな銀杏の木が、黄色く色づき始めた葉を揺らしている。智弥は一礼してから鳥居を潜ると、祐弥はそのまま拝殿に向かった。鈴の音が外まで響いている。祐弥が障子を開けると、巫女姿の西城 美奈が驚いた様に祐弥を見つめた。
「あら、久しぶり」
美奈はにこりと笑ったが、智弥は慌てて祐弥の肩を掴んだ。
「すみません、神楽の途中で……」
「練習だから大丈夫ですよ」
嫌な顔一つせずに美奈は言う。祐弥は智弥を拝殿に押し入れた。
「美奈、結界張っとけ」
祐弥の両瞳が碧色に光ると、美奈が戸惑った様な表情をした。智弥は何が何だか分からず、祐弥の様子を伺う。
「智弥、絶対に外に出るなよ」
そう言って祐弥は障子を閉めた。智弥は訳が分からず頭を掻きむしった。
「西城さん、急に押しかけてごめんなさい……」
そう言って振り返ると、美奈の髪が真紅に変わっていた。智弥が驚いていると、美奈は持っていた神楽鈴を鳴らす。その真剣な表情に、明らかにさっきまでと雰囲気が違った。
大きな音と同時に障子に赤い血飛沫が飛んだ。智弥が障子を開けようと手を伸ばすと、美奈が智弥の襟首を掴んで奥へ引き摺る。勝手に障子が開くと、美奈が智弥の前に出た。
「ここを何処だとお思いですか?」
突風で何も見えない。智弥は必死に開いた障子の向こうへ目を凝らすが、そこには誰もいない。
「無礼にも程があります。下がりなさい」
ぴたりと風が止み、智弥は顔を上げた。美奈の髪が、元の赤茶色に戻っている。智弥が外へ駆け出すと、血だらけになった山犬と、その足元に祐弥が倒れている。智弥が祐弥に駆け寄ると、犬は狩衣を着た子供の姿に変わった。
「祐!」
「救急車を呼んできます!」
慌てた美奈の声が響いた。智弥は祐弥を抱き起こすとしっかりと抱きしめた。
「何で……」
「すまんのじゃ、俺様が……!」
狛が声を上げると、祐弥の左手が子供の腕を掴んだ。祐弥の目は開いていない。閉じられた両目から血が流れ、頬を濡らしている。口から血を吐き出すと、智弥は祐弥の両目に掌を翳した。
祐弥の手が離れると、狛が苦虫を噛み締めた様な顔をして姿を消した。祐弥の右腕にはくっきりと犬の噛み跡が残っている。両足に杭が打ち込まれているのを見た時に智弥は言い知れない恐怖を覚えた。
「祐……死なないで……」
やっと、普通の兄弟で居られると思っていた。これから先、失われた十年分、我儘を聞いてやるつもりでいた。十年分可愛がって、それから……
「死なせません」
電話を掛け終わった美奈が戻って来た。手早く両足首に布を巻き、止血を試みている。智弥も祐弥をその場に寝かせ、腕の傷の止血を試みた。救急車のサイレンが遠くから聞こえる。智弥は不甲斐ない自分を恨んだ。何故、あの時直ぐに障子を開けなかったのかと後悔した。
手術で一命は取り留めたが、それから一週間経っても意識が戻らなかった。点滴の管に繋がれ、病院のベッドに横たわる祐弥の姿に何度自分を責めただろう……自分は何も変わってない。また、祐弥に守られてばかりではないか。
「祐弥、ごめん……」
いつもの様に彼の手を握ってそう呟いた。たった三日だった。彼と父と三人で暮らしたたったの三日間しか、兄弟らしい日々を過ごせなかった。
不意に、手を握り返されて智弥は顔を上げた。目と喉には包帯を巻いている。祐弥の唇が微かに動くと、智弥は声をかけた。
「祐……?」
彼の広角が少し上がった。どうやら耳はちゃんと聞こえているらしい。智弥は嬉しくて涙が溢れた。
「良かった……」
智弥の声に応える様に祐弥は指で智弥の手を軽く叩いた。
「何があったの?」
智弥が聞くが、祐弥は何も言わなかった。否、声が出せなかったのだ。意識が戻って父も喜んでいた。
一ヶ月程してやっと祐弥は退院した。その頃には両足も治り、リハビリの甲斐あって一人で歩ける様になっていた。そこまでになるまで何度も転んでいたのだが、リハビリを嫌がる様子は無かった。足の悪い祐弥の為にと父は下の階への引っ越しをしてくれた。前はエレベーターの無い三階だったので、祐弥が上り下りで苦労するだろうとの心遣いだった。家に帰ると、祐弥は何でも一人でしようとしていた。こっちが手を貸そうとすると手を振り払われて落ち込む。それに気付いたのか、祐弥は動かし辛い右手で自分の左胸にあて、それから右胸にあてる仕草をした。入院していた頃から時々そんな仕草があった。最初は何の合図なのか解らなかったが、父が手話だと先に気付いた。
智弥は手話に詳しく無いので本を読み漁った。喋れない祐弥が、必死に何を伝えようとしているのかが知りたい。その一心で本を読み漁り、大抵の手話を覚えた。祐弥の仕草が「大丈夫」という意味だと知った時、あの子の頑固さと直向きさに気付いた。そして、手を貸して欲しい時にはちゃんと頼ろうとしている事にも気付いた。
動かない右手のリハビリの為に毛糸と編み棒が欲しいと手話で教えてくれた。
「何色がいい?」
思わず、目の見えない祐弥に聞いてしまったが、祐弥は「若草色」だと応えた。何故、彼がここまで手話を覚えているのか少し不思議ではあったが、お陰で意思の疎通を図ることが出来た。
少しずつ、右手の感覚も戻っている様だったが、何度も編み直しをしていた。きっとそれは、彼女の為なのだと智弥は思っていた。
「手術は受けない?」
検査結果で、声帯の手術をすれば声が戻るかもしれないと医者から言われたのに、祐弥は首を縦に振らなかったらしい。智弥は学校だったので、父が付き添って病院へ行ったのだが、目の手術はしても、声帯の手術はしないと手話で話したらしい。父も手話の本を片手に祐弥の伝えたい事を受け止めていた。けれどもまさか、手術すれば治る可能性があるのにそれを受けない理由が解らなかった。理由を聞いても、彼は何も応えなかった。
二ヶ月程経ったある日、急に祐弥が熱を出して左足を痛がった。病院へ連れて行くと、左足が壊死していて、切り落とさなければならないと聞いた時、智弥と父は再び絶望のどん底に突き落とされた気分だった。彼が今まで、普通に歩ける様になるまでどれだけ努力をしていたのかを知っていたからこそ、足を切り落とすだなんて考えられなかった。
それが誰かの呪詛によるものだと気付いた時、言い知れない憎悪に駆られた。
「何で……」
呪詛は解いたが、壊死した足は元に戻らなかった。仕方なく、祐弥の左足を膝から切り落とす事になった。手術が終わり、智弥と父は深く沈んでいた。きっと本人が一番ショックだろう。あんなにも頑張って、一人で歩けるようにまでなっていたのに……だから、二人が落ち込んでいるわけにはいかない。二人で祐弥を支えていこうと話し合った。
二人の心配を他所に、祐弥は笑みを浮かべて義足を所望した。本人はまだ、自分で歩く気満々らしい。それを知った智弥と父は思わず笑ってしまった。要らぬ心配だった。このまま彼が挫けて、もう二度と笑顔も見られないだろうと思っていた。それなのに、祐弥は二人の不安を呆気なく消してしまった。
本を読みたいというので父が点字の本を仕入れて来た。何故か点字も読めるらしい。読みたい本で点字のものが無いと、智弥は点字で書き起こす作業をした。
そんなこんなで目まぐるしく月日が流れて行った。いつの間にか冬休みが目前に迫っていた。
姫宮 百合は赤いマフラーを首に掛けた。茶色いコートを纏うと、机上に置かれた手紙を一瞥した。手に取りかけたが、そのまま持たずに部屋を後にする。外に出ると、刺すような冷たい風が長い黒髪を攫った。空は雪を溜めているのか、酷く重く曇っていた。
「は? 返事が来ない?」
神崎 和弥の言葉に百合は頷いた。パイプ椅子に腰掛けていた和弥は施設の壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。もう月は師走に変わっていた。短い髪を掻きむしると、腕を組んで顎を触った。
「お嬢ちゃん、言っちゃあ悪いけど、それはやめた方が良いって」
百合は残念そうに肩を落とし、俯いている。最後に顔を合わせたのが九月のシルバーウィークだったから、もうかれこれ二ヶ月半は音沙汰が無いことになる。最初こそ手紙の文章がおかしかったのだろうかとか、忙しいのだろうかとか、住所を間違えたのだろうかと色々考え、返事の催促もしたが梨の礫であった。
「ちょっと待ってろ」
和弥はそう言うと二つ折りの携帯電話を取り出した。呼出しベルの音が数回鳴り、電話が繋がった。
「もしもし? 神崎だけど……」
双子の兄である智弥の家の電話番号は前に会った時に聞いていていた。
「祐弥居る?」
怒りを抑えつつ矢継ぎ早に聞くが、応答がない。智弥や父なら直ぐに応えた筈なので、本人だと勘付いた。電話の向こうで微かに小さな音がする。
「お前、何やってんだよ? お嬢ちゃんからの手紙、見ても無いのか?」
和弥の言葉に百合も電話口に居るのが彼だと気付いて自分の裾を握った。嬉しさと不安が綯交ぜになる。何も聞こえてこない事に痺れを切らせ、和弥は携帯電話を百合に差し出した。百合はまごつきながらも電話を耳に当てる。
「もしもし? 明神くん……私……」
話したい事は沢山あるのに、涙が溢れて言葉にならない。何も聞こえない事が一層不安を煽った。
「待ってても良いんだよね?」
やっと言葉を絞り出したが、返事はない。微かに電話の向こうで床を数回叩く音がするが、声は無い。
「何で何も言ってくれないの?」
それでも電話口から声は聞こえない。不意に電話の向こうで物音がした。
「もしもし?」
智弥の声がして、百合は何故今、智弥が電話口に出たのだろうかと訝った。
「……姫宮 百合です」
「えっ……」
明らかに動揺した声だった。
「……ごめんね。祐弥ちょっと……風邪引いてて喋れないんだ」
百合がそれを聞いて落胆すると、その様子を見ていた和弥が眉根を寄せた。
「そう……だったんですか……」
百合が応えると、和弥が携帯電話を取り上げる。
「おい」
「あ、和弥、久しぶり。元気だった?」
「そんな月次な挨拶はいい。てめえの弟どうした? 何でお嬢ちゃんに手紙の返事を書いてやらない?」
「え?」
これまた動揺した声に和弥は怪訝な表情をした。
「ごめん。百合ちゃんからの手紙、嬉しそうにしてたんだけど……そっか……じゃああの後も手紙を出し続けていたんだとしたら申し訳ないけど、祐は読んでないよ」
智弥の物言いに和弥は違和感を覚えた。
「おい、お前の弟、生きてるよな?」
その質問に百合の顔が真っ青になった。まさか……と思ったが、それなら手紙の返事がない事も納得がいく。
「……元気だよ?」
「じゃあ今すぐ代われ」
「風邪引いてて喋れないんだよ」
「手紙の返事くらい書けるだろ」
「……解った。僕から伝えとく」
「そこに居るんだろ? 今すぐ代われ!」
和弥はそう怒鳴ると百合に携帯電話を差し出した。百合が電話を取ると、恐る恐る耳にあてる。
「あの……風邪、治ったら、また電話してもいい?」
必死に涙を堪えて声を絞り出した。やはり、何も返事はない。代わりにまたさっきと同じ何かを叩くような音が響いた。暫くするとまた電話口に智弥が出た。
「ごめんね。悪いんだけど……祐の事は忘れて」
百合の頬を涙が伝うと、和弥はまた電話を取り上げた。
「おい、今お嬢ちゃんがどんな顔してんのか想像つかないわけ無いよな? この二ヶ月半、どんな思いで……」
「和弥」
和弥の表情が歪むと、百合は涙を拭った。
「後でちゃんと説明するから……百合ちゃんの事、頼んだよ」
「おい、それどういう……」
電話が切れると、和弥は再び電話をかけるが繋がらない。
「くそっ」
荒々しく机を叩くと、百合が跳ねる様に体をびくつかせた。それに気付いて自制すると、唇を噛みしめる。
「何なんだよ一体……」
百合の涙が白露の様に光っていた。
智弥は電話を切り、受話器を上げたまま横に置くと、床に座り込んでいる祐弥に視線を向けた。
「本当に、これで良かったの?」
俯いたまま、こくりと首を縦に振る。薄暗い廊下に蹲った祐弥は声を発さなかった。
「百合ちゃん、ずっと手紙の返事待ってたんだって。とっくに諦めたかと思ってたけど……今まで和弥に相談しなかったのは、告げ口みたいになるのが嫌だったんだろうね。健気な子だよ」
祐弥は再び頷いた。彼女を泣かせてしまった事はちゃんと理解しているようだった。
「ちゃんと手術受けて、治ったら会いに行こうか」
祐弥は首を横に振った。もう百合には会う気が無いらしい。
「百合ちゃん、ずっと待っててくれるよ」
元気付けるつもりで言ったのだが、祐弥は智弥の手を軽く叩いた。祐弥が立ち上がろうとするので智弥が手を差し伸べるが、弾かれてしまう。祐弥が膝をついて自分の部屋へ入って行くと、智弥は目を伏せた。
「祐……ごめん」
閉まった扉に向って呟いた。コンコンとドアを叩く音がする。智弥はそれを聞くとその場に座り込んだ。
夜、時計は十時を指していた。朝の九時から夜の八時の間に電話を済ましておくのが常識だが、あれから何度かけても繋がらなかった。それでこの時間になって、やっと電話が繋がった。
「もしもし?」
「おい」
「こんな時間に電話なんて非常識だよ」
「うるせえ。てめぇの弟の方が非常識だ。あんな思わせぶりなこと言っといて手紙の返事一つ出さないなんてどういう……」
「書けないんだよ」
智弥の言葉に和弥は顎を触った。
「手でも怪我したか?」
「まあそれはそうなんだけど……」
煮え切らない返事に和弥は苛立った。
「何だよ?」
「目をね、潰されてしまったんだよ」
思わず寒気がした。目が見えなかった頃の自分を思い出す。あの頃に戻れと言われれば間違いなく嫌だと公言するだろう。
「けど、なら電話で話すくらい……」
「喉もね……何も喋れないんだ。けど、耳は聞こえているから百合ちゃんの話しをちゃんと聞いてたよ」
「何でそんなことになってんだ? いつから……」
「君達と別れて、三日後くらいだったかな……」
「三日後って、ならその時にでも連絡寄越せよ」
「僕の番号は和弥に渡したけど、僕は君の携帯番号知らないのにどうやって連絡するの?」
智弥の質問に和弥は眉根を寄せた。そう言えば、そうだった……店の電話が黒電話だったから、家の電話もそれと相違ないだろう事は想像がつく。和弥は自分の携帯番号を智弥に教えた。
「それで、手紙の返事が来なければいずれお嬢ちゃんが俺の所へ相談に来て、電話掛けてくるだろうって事でお嬢ちゃんの手紙を無視か」
「無視には違いないだろうね。うちには届いて無いし、屋敷の方も見に行ったけど無かった。多分狛に命令して、手紙が届いても捨てるようにでも言ってるんだと思う」
「焼きが回ってんのか」
「まあね。祐の呪術の根本があの碧眼だったから、それを潰されると大した呪術が使えないんだよ。それで自暴自棄になってる部分もあるとは思う」
和弥は怒りを抑えて舌打ちした。そうなると御魂伏の封印の解除も出来なくなるか……まあ、今はそんな事を言っていられないが。
「それで? 何でそんな事になってんだ?」
「……詳しいことは僕にも解らない。僕が気付いた時には瀕死の状態で……病院で手術したけど一週間は意識が戻らなかったんだ。それからは祐の退院の準備とかで忙しくて連絡どころじゃなかったってのもあるかな」
和弥は落胆した様に深い溜息を吐いた。目が見えないのでは文字も禄に書けないだろう。
「じゃあ今度お嬢ちゃんを連れて行ってやるよ」
そうでもしなければ、百合は納得出来ないだろう。顔さえ合わせれば身振り手振りで意思の疎通くらいは出来そうだと思った。
「それはちょっとやめてほしいかな」
意外な言葉に面食らった。
「は? その方が弟も喜ぶだろ」
「本人が会うの嫌がってるんだよ」
意味が解らなかった。あんなにも大事にしていた彼女に会いたくないなどと想像がつかない。
「お前が会わせたくないんじゃなくて?」
「思い出くらいは綺麗なままにしといてあげてよ」
否定しなかったが、その意味深な言葉に眉根を寄せる。
「はあ?」
「左足切断して今、車椅子なんだよ」
一気に鳥肌が立った。
「……本人が自分で歩きたいって言ってるから義足の準備はしてるけど……今度また目の手術があるから、それで何処まで視力が戻るか解らない……
本人はもう百合ちゃんに会う気無いみたいだし……」
そんな状態で、彼女に会うのは気が引けるというのもなんとなく解る気もする。
「その様子じゃあ、彼女も気付かなかったんだね」
智弥の言葉に和弥は眉根を寄せた。
「何が?」
「祐が電話に出た時、何か音がしなかった?」
「あ? ああ、壁か床を鉛筆で叩いたり、線を書くような……」
そう言って険しい顔をした。
「モールス信号か?」
「当たり」
「中学生がそんなのに直ぐ気付くわけねえだろ! 阿呆か!」
和弥が怒鳴ると、電話口から溜息が聞こえる。
「……だよね」
和歌だの文学だのと知識に偏りがあるとは思っていたが、まさか中二の祐弥がそれを知っているとは思わなかった。
「お前が教えたのか?」
「まさか! 僕も最初はそれと気付かなかったんだよ」
「本当に中学生か? 年齢詐称してないか?」
「それは無いね。兎に角今はそっとしといて欲しい。何があったのかこっちも把握出来て無いし……百合ちゃんには本当に申し訳ないんだけど……」
それを聞くと気が抜けて肩を落とした。事情が事情な為に、百合になんと説明しようかと悩む。本当の事を言えば直ぐに飛び出して会いに行くのだろう。
和弥は頭の中で必死に祐弥の様子を想像した。多分、ずっと電話が来るのを待っていたのだと思う。返事が無ければ何かあったと想像するだろう。けれども気持ちを踏み躙られたのだと嫌気がさして電話なんか来ないかもしれない。それでもあいつは彼女からの電話を待ち続けていた。それが叶った今、あいつは一体どんな気持ちでいるのだろうか? 何の返事も出来ない自分が情けなくて、余計落ち込んでやしないだろうか?
「あ、ちょっと待って」
不意に智弥がそう言った。どうやら傍に祐弥が居るらしい。何度か机を叩くような音がしたが、聞き取れなかった。
「百合ちゃんを護って欲しいって」
「あ? てめぇの彼女だろ。喋れないだの足が無いだの言い訳せずに……」
「虫に気をつけて」
それを聞いた時、和弥は考える様に腕を組んだ。
「……おいそれ、嫁入り前の娘に虫が付かないようにしろってか?」
「ああ! 成る程!」
智弥が驚いた様に言った。腹が立って思わず電話を切ってしまった。
「馬鹿にしやがって!」
百合を泣かせておいて、その上他の男に任せるとかどうゆう了見だ!
和弥はそう思うと祐弥が何を考えているのか解らなかった。
何処までも闇が続いている。その闇の中に百合の姿を思い浮かべた。長い黒髪に、黒曜石の様な真っ黒な瞳……白く抜ける様な肌……身長は同じくらいで、ころころと表情が変わる可愛らしい少女だった。彼女がくれた言葉を一つずつ記憶の海から拾い上げるのが一番の楽しみだった。彼女の言葉や仕草の一つ一つが、心を温めてくれる。もうその姿を見ることも、声を聞くことも出来ないと思うと少し寂しいが、彼女が元気でいてくれさえすればそれで良かった。
不意に手を握られ、祐弥はその小さい手をそっと握り返した。
「何でなんじゃ? 百合に会いたいのでは無いのか?」
狛の声が聞こえると、ゆっくりと首を横に振った。
「百合の事が嫌いになったのか?」
それにも首を横に振る。狛が不意に手を祐弥の右腕に伸ばした。凸凹した腕の傷を優しく撫でている。
「まだ、痛むのじゃ?」
それにも首を横に振る。その手を取ると、そっと右手で手探りに狛の顔を触る。柔らかい頬を撫で、そのまま短い髪に触れると、頭を撫でた。
お前のせいではないと言ってやりたいのに、声が出ない。けれどもそれは狛に伝わっていると祐弥は解っていた。狛の、驚いた様な悔しそうな顔が瞼に焼き付いていた。
「何故止めたんじゃ?」
祐弥は微笑んで見せた。
狛の表情は解らないが、きっと困った様な顔をしているのだろうと想像する。不意に部屋の扉を叩く音がして狛から手を離した。部屋の扉が開くと狛の気配が消える。
「祐、誰か居た?」
智弥の声に首を横に振る。智弥が近付くと空気の流れが頬に微かに当たり、大体の位置が解った。
「本当に?」
さっきよりも近い距離で智弥の声がする。祐弥は少し微笑むと、智弥は嘆息した。
「何があったのかまだ話す気にならない? お父さんも心配してるんだよ? また祐に何かされるんじゃないかって」
祐弥はそれを聞くと、右手の指先を左胸に当て、それから右胸に当てた。
大丈夫だという手話だが、智弥の周りの空気が肌に刺さった。心配と不安が綯交ぜになった気の流れに祐弥は笑う。何も見えないが、手に取る様に肌で感じる事が出来た。
手話は小学生の頃、特別学級に耳の聞こえない下級生が居た頃に覚えたものだった。祐弥が小六の時に一年生として入学して来た子だったので、一年程しか関わる事が無かったが、休み時間にその子と一緒に手話を覚えたのがこんな形で役に立つとは思って居なかった。その頃に点字やモールス信号の事も少し囓っていた。
「もう夜遅いんだから、早く寝るんだよ?」
智弥に言われ、祐弥はこくりと頷いた。目が見えないので今が夜なのか昼なのか、何時なのか解らない。布団に横になると智弥が掛け布団をそっと体に掛けてくれる。それが何だか少し気恥ずかしくて擽ったかった。
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