不登校
連喜
第1話
*虐待の話が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
俺は五十代で無職の中年男だ。数カ月前に、二十年も働いた会社にリストラされて、今は失業保険を受給している。
正社員希望で就職活動はしているけど、正直言ってかなり苦戦している。年齢不問のところに応募してるのに、書類はほぼすべて落ちている。今からやるとしたら、接客・介護福祉関係・タクシー・警備・コールセンターなどしかない。前職は金融業界で、俺の経験が生かせるような仕事はなかった。独身で少しは蓄えがあるし、両親とも亡くなっているのがせめてもの救いだろうか。血圧が高めだが、特に持病もない。
住居は1DKの安アパートで、一人で暮らしている。リストラされるちょっと前に引越した。実はリストラの直前に会社からたびたび面談という名の指導があった。そういう面談に呼ばれると半年後には解雇というのが今までのパターンだった。裁判などになった場合に備え、会社が何度指導しても、従業員が改善しないという既成事実を作りたかったのだ。説教部屋に耐えられなくて自分から辞めて行く人もいるが、俺はちょっとでも受取金額を増やしたくて、解雇されるまではじっと耐えていた。
今の1DKのアパートは狭くて、生きる気力を蝕んでいく。前は家賃八万円の1LDKに住んでいたが、今のところは四万八千円とほぼ半額になった。二階建ての木造で、各階四部屋づつある小規模な建物だ。築三十年くらいだろうか。金のありそうな人は住んでいないと思う。大体が生活保護受給者のようだ。洗濯機はベランダにあって不便だから、若い人はおらず、年配の人ばかりだ。1DKに二人で住むのは狭すぎるけど、夫婦で住んでいる人もいた。それだけ余裕がないということだ。その中には、シングルマザーの人もいた。いつもお母さんと娘が二人で玄関から出てくる。女の子は大人しくて、いつも伏し目がちで喋っているところを見たことがない。今は小学校五年生くらいに見えた。
離れた部屋ならそれほどお互い気にならないだろうけど、その家族は俺の隣に住んでいた。俺が玄関を開けてその家族を見かけると、気まずいから取り敢えず挨拶した。すると、お母さんだけは挨拶を返してくれる。子どもは俺の方を見ようともしなかった。
俺は失業前は平日週五日働いていたから、二人がどうやって生活してるのかわからなかった。会うのは土日だけだからだ。
しかし、俺が仕事を辞めて家にいると、隣から叫び声が聞こえるようになった。
「てめー何やってんだよ!早く学校行く準備しろよ!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
女の子の悲鳴が聞こえる。そして鳴き声が響く。
「おめーがダラダラしてるから出かけられないだろうが!さぼったら、殺すからな覚えてろよ!」
俺はハラハラしていた。壁に何かが当たる音がした。人がぶち当たったのかと思い、ギョッとする。
「とっとと行け!」
戸を開け、勢いよくバタンと閉める音がした。俺はそっと魚眼レンズから覗いた。小学生の女の子が泣きながら外に立っていた。足は素足だった。どうやら学校に行きたくないらしい。
俺はドアを開けて、手招きした。女の子がそれに気付いて俺の方を見た。もう一度、手招きする。すると、俺の方に寄って来て、部屋に入ったから、お母さんに見つかる前にドアを閉めた。
「どうしたの?学校行きたくないの?」
女の子は泣きながら頷いた。
「学校何時から?」
「八時」
「間に合う?」
女の子は首を振った。
「でも、行かないといけないんじゃない?」
「行きたくない。いじめられる」
「そっか・・・でも、行かないとお母さんが困るんだ」
女の子は泣いた。
「じゃあ、うちにいてもいいよ。お母さんに言っておくから。うちにいるって」
女の子は首を振った。
「これから、困ったことがあったらうちに来てもいいよ」
女の子は頷いた。
俺はドアを開けて、通路を覗き込んだ。お母さんはいない。隣のインターホンを鳴らしてみた。
「はいー」
中から隣のお母さんの声がした。
「あの・・・隣の前田ですが」
「あ、どうも」
グレーのスエットの上下にサンダル履きだったから、きっと怪しかっただろう。
「あの・・・娘さん、廊下にいたので今うちにいます・・・お仕事ですか?今から?僕、今、失業してて暇だから、娘さん預からせてください」
「え・・・?」
「娘さんを抱えてお仕事って、すごく大変ですよね。時間気にしないで、今日はゆっくりして来てください。娘さん、何時まででも預かりますから」
「うちは娘いませんけど・・・」
「え?まさか。いつも一緒に歩いてますよね」
「知りません・・・私一人暮らしですから」
「はあ」
お母さんが否定するから俺は困ってしまった。じゃあ、部屋にいる女の子は誰なんだろうか?どこの誰でもない女の子。不謹慎だが俺はそわそわした。部屋に戻ったら小学生の子と二人っきりになる。完全に挙動不審だっただろう。
いつか実子でない女の子を育ててみたい。そんな願望は誰しも持っているんじゃないだろうか。
***
俺が部屋に戻ると、女の子はいなくなっていた。
「やばいな・・・俺、幻覚見ちゃったのかな」
自分の頭がおかしいのかと思った。
「まあいいや・・・隣は女の子いないんだし」
俺は思わず声に出していた。
しばらく女の子のことが頭から離れなかった。
それから、一週間後のことだ。朝、また怒鳴り声が聞こえて来た。
「早く起きろって言ってんだよ!いつまで寝てんだよ!さぼりやがって!お前がいるせいでこっちは彼氏もできねぇんだよ!お前なんか江戸川に飛び込んで死んじまえ!」
「ギャー」
悲鳴が聞こえる。娘はいないと言ってたのに・・・俺はその音声を録音しつつ、隣の部屋に声を掛けに行った。インターホンを鳴らした。
「はい」
お母さんが変なものを見るような目で俺を見ていた。
「すいません。叫び声がしたから大丈夫かなと思って・・・」
「はぁ・・・私はテレビもつけてないし静かに暮らしてますけど・・・」
「女の子の叫び声がしたんですが」
「多分、聞き違いだと思いますが。私は聞いてませんから」
「はあ」
俺は部屋に戻った。録音した音声を聞いてみたら、ちゃんと母親の怒号と女の子の悲鳴が残っていた。これを持って交番に行こうか・・・いや・・・それで面倒なことになって、引越さないといけなくなったら困るな。引越したばかりだし、リストラされて金がない。俺はその音声データを残したまま、また、普段通りに生活するようになった。
朝になるとまた悲鳴が聞こえる。
「助けて!殺される!」
俺はさすがに気の毒になって、隣のお母さんに声を掛けた。
「すいません・・・また叫び声が聞こえるんですけど」
「そんなこと言われても・・・私一人暮らしですから。困るんです」
もしかして、女の子は監禁されているのかもしれない。だから姿が見えないんだ。きっとそうだ。俺がこんな風に訪ねて行って、後でさらに酷いリンチを受けているかもしれないじゃないか。
それでも俺は警察に行かなかった。理由は俺にも人に知られては困る秘密があったからだ。俺は前々から盗撮が趣味で、駅やトイレで女性を撮影した盗撮データがスマホに山ほど入っている。最近はリストラされて時間があるから、毎日のように高校の近くの駅などに遠征に出掛けていた。俺も何らかのきっかけで家宅捜索が入った場合、スマホやパソコンを押収される可能性があるのだ。
毎朝欠かさず悲鳴が聞こえていた。このアパートの住人は皆見て見ぬふりをするらしかった。結局人でなしばかりだ。そんな風だから、こんな貧しいアパートに住んでるんだとさえ思った。
***
俺がスーツを着て駅に行こうとしていた時だ。玄関の鍵をかけていると、隣のお母さんがちょうど出て来たところだった。今朝、大声で「仕事行くんだから早くしろ!このクズ!」という叫び声が聞こえて来たからだ。お母さんは毎日仕事をしているはずだ。
「あれ、今日はお仕事じゃないんですか」
俺は嫌味を言った。
「いえ・・・違います」
その女の人は俺と目を合わせないようにして、部屋の中に入ってしまった。声が漏れていることを、遠回しに指摘されて、恥ずかしかったんだろう。結局、子どもが学校に行かないから、仕事にも行けなかったんだ。生活が苦しいはずなのに、不登校だと大変だな。俺も余計なことを言ってしまった。不登校は恥だと思う人も多いだろうけど、正直に言ってくれればいいのに。俺が預かっても構わないのだが、お母さんは心を開いてくれそうにない。大人しい感じの人だけど、よくあんなどすのきいた声がでるもんだと感心する。
女の子と仲良くなれたらなぁ。俺は変な妄想を始める。女の子に信頼されて、好きだと告白される展開。俺に断る理由はない。もし、その子がいたら、俺は駅での盗撮をやめられるんだけどなぁ。
「アトハキミシダイだよ」
あの子、名前はなんて言うのかな。大好きなエロゲ―の登場人物から名前を取って、あやめちゃんと呼ぶことにした。
***
次の日の朝も叫び声が聞こえて来る。
「とっとと起きろ!おら!」
「ごめんなさい。頭が痛い」
最近は女の子の声を聞くとちょっと興奮してしまう。薄い壁の隣で小学生の子が暮らしていると想像すると、それだけでムラムラして来る。
「嘘つけ!どうせ仮病だろ!」
俺のところに来れば好きなだけ寝てられるのになぁ・・・。俺はにやにやする。弱れば弱るほど俺の手に落ちやすくなるんだ。お母さんを応援したい気持ちにさえなっていた。
***
俺は失業保険をもらいながら、就活もしているが、今まで書類が通ったのは数件だけだった。すべてが消費者金融などの貸金業だった。そういう業界に行くくらいなら、警備などの仕事の方がましかもしれない。貸金業にいると借金を返済できなくて自殺する人がいるのが当たり前だからだ。回収に回されたりしたらうつ病になってしまう。
あやめちゃんとデートできたら、原宿でも連れて行ってあげたいなぁ・・・俺は変な妄想を始めた。
俺は現実逃避する。
すると、叫び声が聞こえた。
「殺される!助けて!」
俺は耳を塞いだ。俺には何もしてやれない。ごめんね・・・あやめちゃん。
「ごめんね!私、もっといい子になるから」
「どうせ口だけだろ!何も変わらねぇって。このクズ。死ね!」
「許して!」
お母さんは死ね死ねと言ってるけど、本当に殺すつもりなんてないんだ。もう何カ月も経っているからわかる。
俺はポストに手紙を投函した。一応、お母さん狙いだ。
「聞こえてますよ。怒鳴り声、すごいですね。きっと夜もすごいんでしょうね」
別の時はこう書いて送った。
「あなたの怒鳴り声がすごいから、部屋に置いてあるダンシングフラワーが揺れてますよ」
「ストレスが溜まってるみたいだから、今度、娘さんを交えてお食事でもどうですか?」
「もう、夕飯食べましたか?ちょっとおかずを作りすぎちゃいました。僕は独身ですから、遠慮せずにいらしてください」
「朝からすごい怒鳴り声ですね。声枯れませんか?あなたの声を聴くと、今日一日頑張ろうっていう気になりますよ。セクシーですね」
***
昼頃電話がなった。
「もしもし」
「すいません。管理会社の〇〇〇興産ですが」
声の感じからして二十代くらいの女性だった。
「はい」
「あの・・・騒音の件でお隣に直接苦情をおっしゃってるって聞いたので・・・」
「毎朝、怒鳴り声が聞こえてすごいので・・・」
「いえ、お隣さんはできるだけ気を使って暮らしてるっておっしゃってて・・・しかも、お一人暮らしなので、子どもの叫び声なんて出していないとおっしゃってます。多分、お聞き違いじゃないでしょうか」
「そんなことありませんよ。間違いないです。録音もしてますから」
「そうですか・・・私どもも現場を見てないので何とも言えないですが」
「迷惑してるのはこちらなんです」
「はぁ・・・ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした。また、改めてさせていただきます」
「まあ、誰にでも勘違いはありますからね」
若い女性なので、俺は好感度を上げたくてそう言った。直接家まで来てくれないかな。彼氏いるのかな・・・。直接会ったとしても、失業中の俺になんか興味ないか・・・。俺にはあやめちゃんがいるじゃないか。浮気はけしからんぞ。俺は苦笑いした。
***
夜八時くらいだ。スマホが鳴った。知らない番号からだった。女の人の間違い電話だったらいいなと思う。そこから出会いがあるかもしれないからだ。
「もしもし」
年の感じだと七十歳くらいだろうか。さすがに射程圏外だとがっかりする。
「前田さんですか?」
「はい」
「大家ですけど。隣の部屋の件ですが・・・」
「ああ、大家さんですか。はじめまして。前田と申します」
「はじめまして。不動産屋さんから聞いたんで。あの・・・お部屋変えましょうか」
「でも・・・この部屋以外で開いてる部屋ってあるんでしょうか」
「はい。一階ですけど・・・」
「一階は防犯上ちょっと」
「そうですか・・・二階は今いっぱいで」
「ですよね」
「聞こえますか?」
「え?隣の部屋のこと、ご存知ですか。お母さんと娘だけで住んでて、怒鳴り声がすごいんです。女の子の悲鳴も聞こえますし」
「もしかして・・・ですけど。前田さんが住んでる部屋。障害事件があったんですよ」
「え?いつですか?」
「一年くらい前で・・・」
「じゃあ、事故物件じゃないですか」
「でも、一人は亡くなってないので・・・娘さんの方は生きてて」
事故物件は皆殺しの場合だけ適用されるなんてことはない。被害者が一人でも事件に遭って亡くなったことには変わりないのに。
「え・・・じゃあ、亡くなったのは・・・」
「お母さんです。娘さんがお母さんを刺してしまって」
「・・・そうですか。虐待されてたんでしょうね」
「そうじゃなくて。お母さんが虐待されてたんですよ」
「えぇ‼何で!」
「さあ、わかりません。お母さんが病気で寝たきりでしたからね。娘さんはちょっと頭がおかしかったんでしょうね」
「学校行けって叫んでましたけど」
「私学の給食センターで働いてたみたいだけど、病気で休職してましたよ。すごいですね。本当に聞こえてたんだ・・・私霊感とかないんで」
「本当ですよ。録音もしてるし・・・でも、こんなにうるさくても、隣の女の人は聞こえてないんですかね?」
「ははは・・・隣に住んでるのは男性ですよ。両側とも」
「え?」
「昔は女性も住んでましたけど、いろいろ事件があったから、男性だけにしたんです。その辺、治安があんまりよくないんでね」
大家さんは笑った。そういえば、俺が住んでいたアパートは男性専用って書いてあったんだ。じゃあ、あの女の人は何だったんだろう。俺は頭がおかしいんだろうか。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「すいません。ちょっと、宅急便みたいで。もう、遅いんで明日折り返し架けます」
「はい。お部屋の件、考えておいてください」
「わかりました」
俺は急いで玄関まで飛んで行った。今日は新しいエロゲーが届く予定だった。大好きなシリーズの新作が出てから1ヶ月前から予約していたのだ。1LDKに住んでいる時と、やっていることは変わらない。
「はいー」
俺は玄関のドアを開けた。
そこには、隣の女の人が立っていた。
「あ、どうも」
青白くてきれいな人だった。思ったより若い。しかし、脇腹から血が滲み出ていた。
口からも血を吹いている。
・・・そう言えば、さっき亡くなったって聞いたばかりだ。
「今日は娘も連れて来ました。娘を預かっていただきたくて・・・」
俺は驚いて声が出なかった。
隣にいたのは相撲取りのように太った二十歳くらいの女の人だ。
茶色いぼさぼさの髪を後ろに縛っていて、顔は吹き出物だらけだった。
「あやめです。よろしくお願いします」
女が俺を見て、にっと笑った。
俺にはそれから後の記憶がない。
不登校 連喜 @toushikibu
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