Broken

 ファントムが口を噤むと、ダスクは徐に向き直った。

「何でもっと早く言わねぇんだよ、アホ」

「だから、できるだけ貴方を煩わせたくなくて」

「言えよ。結局こうなるって分かってたくせに」

 わざとらしい棘を含んだ声で不貞腐れるダスク。穏やかに、困ったように──嬉しそうに微笑むファントム。

 針が9を指した。

「なぁ、その発作って、どのくらいの間隔で来るんだ」

「一概には言えませんが……そうですね、今回は2ヶ月ぶりでした」

「じゃあ次、いつ来るか分かんねぇのか」

「はい。でも、制裁の日が近付いてくれば大体分かりますよ。身体がざわつき出しますから」

「それでオレを起こしたんだな、今日」

「ええ、洗濯だけはしておきたくて。ああ、そうでした、洗い直さないと」

 もう一つの枕を掴み、掛け布団を喉元まで引き上げ、ベッドの中央へ這い寄るダスク。

「明日にしろよ。寝る」

「早いですね。今日はいいんですか」

「気分じゃねぇ」

「そうですか。おやすみなさい」

 ファントムに背を向けて横になるダスク。

 雨はまだ降っている。狭霧のように細かな雨粒がどこからか入り込んでくるのか、部屋の中にも、ひやりと湿った空気があった。

 寝る、と言いながら白い目は見開かれたままだ。彼の脳裏には、闇と血に塗れた先の光景が繰り返し、繰り返し――

「ねえ、ダスク。やっぱりキスくらいしてくれませんか」

「……」

 沈黙の後に、ダスクはごそごそと身体の向きを変えて首を伸ばした。目を伏せて、軽く触れるようなキスをする。

「これで満足か。……言えよな、次から。隠すなよ」

「ありがとう、そうします。おやすみ、ダスク」

 いつの間にか傷の塞がっている胸元を、つ、と撫でて、ダスクは身震いし、差し出された腕の中に入った。

 ほんのり血の味がした。



《Few months later――》


「おはようございます、ダスク……あれ、もう起きてたんですか」

 くたびれたシャツを着たファントムが布団をめくろうとすると、ぐしゃっと丸まった布団の中から立った中指が飛び出た。

「言えって言ったろ、クソが」

 くぐもった、苛立ちまみれの声。ごめんなさい、と、苦々しく笑うファントム。

「どうしても、気が引けてしまって……じゃあ、行ってきますね。覗かないでくださいね、何かあったら怖いですから」

「うるせぇ。余裕かましてねぇでさっさと行けよ」

「はい。すぐ戻って来ます」

 カツカツと足音が遠ざかっていくのを確認して、ダスクは布団から顔を出した。

 彼が初めてファントムの苦しむ姿を見てから、何度目かの発作だ。朝早く、ファントムがこっそりと布団を抜け出して行ったときから、ああ、今日はそういう日なのだと、ダスクはとうに気付いていた。

 気付かないはずはない。隣にあった身体が消えて、代わりにすっと冷たい空気が入り込んでくれば、嫌でも目が覚める。

「……すぐ戻って来られる訳がねぇだろ、バカ」

 がらんどうの室内には、やけに大きく響く独り言だった。どうせ今回も、ずたずたになって、無理をして笑うのだ。

「もういい。戻って来んなよ」

 包丁を握り締め、切るような痛みとともに、そう吐き捨てた。



《Few hours later――》


「ただいま、ダスク。……ダスク?」

 それは日が中空を通り過ぎ、山の端へ向かい始めた頃だった。

 神の手を逃れ、消耗しきった心身を暫く地下倉庫の中で休ませた後、這い出してきたファントムである。あれ以来、「済んだら呼べ」とダスクには釘を刺されていた。ただでさえ躊躇して、今回も発作が来ると告げずに彼の機嫌を損ねてしまったので、流石に呼ばねばまずいかと部屋までやって来たのだ。床が汚れてしまうので本当はすぐ洗い場に直行したいのだが、ダスクの介助があれば楽になるのも間違いではない。掃除をする暇なんていくらでもありますし、申し訳ないですが頼らせてもらいましょうか……と、思っていたのだが。

 荒れた室内、肝心のダスクの姿はない。

「ダスク?」

 引っ掻き回された跡のあるクローゼット、起き抜けの痕跡をそのまま留めている冷たいベッド、半開きのカーテン、床に散らばるガラス片、血飛沫。応える声もない。

「ああ……」

 ふと時計を見たファントムは顔を覆った。

 割られた風防。止まった針の間に挟まれたカード――『お別れだ』と、乾いた血で綴られていた。

「何てことを。よりによって、こんな日に」

 のたうち回るうちに自らつけてしまった傷を余ったシャツで縛り、上着を羽織る。

 募る焦燥に反して動かない身体を叱り飛ばしながら、ファントムは外に出た。


 生い茂る茨を蹴散らして走って、切れてはいない存在の糸を手繰る。そう、分かるのだ。命を懸けて愛し続けた恋人の居場所くらい、容易に。

 しかし距離は離れていく。

「どうして。どうして逃げるんですか、ダスク」

 走っているのに追いつかない。とすれば、彼もまた、走っているのだろう。いや、そもそもファントムの足が空回っているのか――


 それでも執念が勝った。

「ダスク!!」

 丘の上、赤い空を切り取る黒いシルエットに叫ぶ。ゆらりと振り返った影の目元と手元が、ぎら、と光った。

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