Bloody Rose
《🌹》
──さて、どこから話せばいいでしょうか。
少々遠回りかもしれませんが、折角ですから、私たちが生まれた頃のことから話し始めましょうか。貴方は覚えていないんですものね、あの頃のこと。
実はね、ダスク。私たちが生まれた世界はここではなく、神の世界の一つなのです。あれは、『ゆりかご』と呼ばれている場所でした。
私たちは一体何者なのか、そう考えたことはきっと、貴方にもあるでしょう? これでも私たちは神の眷属なのですよ……とは言ってもずっとずっと下位の存在ではありますが。世界の秩序を守るために、神の命を受けて働く、『守護者』と呼ばれる部類に属する者です。
守護者として生まれた者は、子供時代を『ゆりかご』の中で過ごすのです。立派な守護者となっておつとめを果たせるよう、教育を施されるとでも言いましょうか。……ええ、そうです。教育です。言い方を変えれば、洗脳です。それも、得体の知れない、目も潰れんばかりの光による。
『守護者よ、盲目であれ』……その言葉の通り、私たちは、聖なる教えの光で目を灼かれるのです。余計なものを見て、道を外れていかないように、と。
あの場所の空気を吸い、あの場所の陽を仰いでいると、いつしか私たちの身体は、与えられた使命を果たすために動く器となります。神の命令は脆弱な自我に勝り、私たちは何に代えても使命の遂行を優先する存在になります。それが、守護者というものなのです。
──何が何だか分からないという顔ですね。それも仕方のないことです。
私はこれでも守護者の端くれ……でも、ダスク。
貴方は違います。
私は貴方が生まれる瞬間を見ました。まだ幼い私が散歩していたときのこと、突然、目の前の空間がぐにゃりと歪んだかと思うと、光の膜に包まれた何かが、ずるりと滑り落ちてきたんです。
守護者はそうやって生まれてきます。当時の私もそれまでに数回は、同胞の誕生の瞬間を目にしていましたから、ああ、また仲間が増えた、と思ったのですが、地面にぼたりと落ちたそれは、焼けつく斜陽のような赤い光を纏っていました。見たことのない色でした。
やがて貴方は光の膜を破り、赤いヴェールを脱いで、姿を現しました。
――驚きましたよ。その姿は、気味が悪いほど私によく似ていましたから。
ね、今も私たち、写し身のようにそっくりでしょう? あの頃から変わったことと言えば、体格くらいのものですよ。人間そっくりの身体に、のっぺりした顔、頭の上半分に巻いた包帯。生まれたときからこうなんです。
けれども、貴方は黒かった。
私の身体は雪のように、少しの青みを帯びた白でした。ですが貴方の身体は夕闇のように、藍を溶かした黒でした。
不安が私の胸の奥を掠めました。黒は、不吉な色です。堕落の色だからです。
そのとき私の頭を過ったのは、『守護者堕ち』、という言葉でした。
――『守護者堕ち』とは、使命を果たさず、自身の欲望のままに生きるようになった守護者のことです。絶対であるはずの神の声に耳を塞ぐ、あるいは逆らうことができる、稀有の存在です。
守護者堕ちは抹殺しなければいけません。『断罪者』と呼ばれる上位の
そのときの私はまだ幼く、同胞の命を奪うだけの力も持ってはいませんでしたから、私がとるべき行動は、断罪者を呼ぶことだったのかもしれませんね。
しかし私は迷いました。生まれた瞬間から堕ちている、などということが果たしてありえるのか、そもそも貴方が本当に堕ちているのかどうか、分かりませんでしたから。
その逡巡が運命の分かれ目となりました。貴方の包帯の隙間……ほんの僅かな隙間から覗いた目が、それは強烈な、赤子らしからぬ昏い輝きを以て、私を刺し貫いたのです。
黒い頭に一筋、そこだけが白く、仮面の割れ目のように輝いていて……
私は動けませんでした。すっかり貴方の目に魅入られてしまったんです。
そんな私を余所に、貴方は口を開いたのでした。何て言ったと思います? 覚えていないでしょうね。
「オイ、白いの」、と、私を指差して言ったんですよ。
何と恐ろしかったことか! というのも、私たち守護者は本来、この世にぽつんと生まれ落ちた後、乳母の役をする天使たちの手で取り上げられ、洗礼を受けて初めて、言葉と知、そして力とを得るんです。ですがダスク、貴方は。貴方は明らかに……洗礼なんて受けていません。だって、私は貴方が生まれてからそのときに至るまで、ずっと貴方の目の前に立って、貴方の一挙手一投足を見ていたんですから。
「腕寄越せ」と、貴方は続けました。「腹減った」、と。
私は確信しました。貴方が、生まれながらの守護者堕ちであると、ね。
神の僕である守護者ならば、お腹など空かないんです。私たちは食べ物を必要としません。ね、私だって普段、ほとんど何も食べないでしょう? 私があまり眠らないのも、そういうわけです。
守護者ならば、崇高な使命に魂を捧げる代わりに、命あるものの制約と、欲望からは切り離されているはずなんです。だから、生命を、それを自らの同胞を食べようなどとは、思うはずもないんです。
しかし私は、知らぬ間に、貴方に引き寄せられていました。私はそっと、己の右腕を差し出していたのです。
すると貴方は、一体どこに隠し持っていたのでしょうね、すっと一本の包丁を取り出しました。続いて、まだ小さかった手で私の右手首をがっちりと掴むと、氷のような刃を私の肘の下辺りに添え……
気付いたときには、腕がなくなっていましたよ。
私たちは神の眷属です。肉体的な痛みを感じることはありませんし、それこそ断罪者のような上位存在に傷つけられない限り、身体はいくらでも再生します。現に、貴方や私がそうであるように……ですから、腕の一本や二本はどうってことないのですが。
それは何と異様な眺めだったことでしょう。貴方は私の右腕を貪り食っていました。私の白い皮膚の下には、こんなにも真っ赤な、みずみずしいものが詰まっていたのだと知りました。
貴方は嬉しそうでしたよ。口の周りがびしょびしょになり、顔を覆う包帯がぐしょぐしょになるのも構わずに、私を食らうのです。私を。
白い歯を見せて、貴方は笑いました。私にはその笑顔が、この上なく眩しく見えました。純真で、清らかな邪悪だ、と思いましたよ。
流れ出し、滴り、飛び散った私の血は、次々と赤い薔薇に形を変えました。まるで、貴方を祝福するかのように。
そして私は、断罪者を呼ぶことをやめたのです。
あのときの私は、まだ守護者として完成されていませんでした。光に染まりきっていませんでした。まだ、盲目ではなかったのです。
そんなときに、私は貴方に出会ってしまった。見てしまったんです。
そのときの私に備わっていた憐憫の情もまだ、ごく自然なもので、盲目的ではありませんでした。
だから私は貴方を憐れに思ったのです。
貴方は何も悪いことをしていませんでした。ただ生まれただけです。それなのに、あのままでは殺されてしまう運命だったんですよ。ああ、なんて可哀想な子! 違いますか? だって、貴方は何の罪も負っていなかった。それなのに存在が許されないなんて、おかしいじゃないですか。
私が、哀れなこの子を助けなくてはいけない。そう決意したんです。
私は貴方を連れて、『ゆりかご』を抜け出しました。長い逃避行の末、辿り着いたのは人間の世界。今はこうして、すっかり逞しくなった貴方と二人、ここに身を隠している……というわけです。
貴方の黒の輝きを、私は美しいと思ってしまいました。それを見続けていたかった。光で穢したくなかったんです。
きっと私はそのとき既に、背徳の快楽に堕ちたのでしょう。ある意味では私も、立派な守護者堕ちですよ。それに今や、私は欲望の虜ですしね。ねぇ、ダスク? そうでしょう? 貴方が欲しくて堪らないんですから。
それなのに私の頭の中には未だ、神の声が鳴り響くんです。正しきことを為せ、悪を滅ぼせ、と。
私の身体は守護者の呪縛を受けたままです。堕ちきれない守護者はどうやら、時折下される罰と闘っていかなければならないようです。今日のように……神の怒りだけは、苦痛として感じられるのですよ。身体も損傷を受けますし、精神も攻撃を受けて、自我を奪われそうになります。私に、貴方を殺させようとします。
勿論、絶対にそんなことはさせませんよ。私は貴方に身も心も捧げると決めたんですから。神の存在もその教えも、私にとっては何の価値もありません。もう、私は神の手を振り切って堕ちるつもりなんです。
それでも次第に、私を元の道に戻そうとする天の力が強くなってきてしまいましてね。貴方に余計な世話はかけたくなかったので、ずっと隠していたのですが。
ごめんなさい、ダスク。でも、貴方は何も心配しなくていいですから。大丈夫、私は絶対に負けませんよ。何があっても、ずっと貴方の傍にいますからね──。
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