Detonator

《Few hours later――》


 次にダスクを眠りから引き上げたのは陽光でもファントムの声でもなく、吹き込んでくる雨粒だった。

 古びた時計の短針は4を指している。存外しっかりと寝入ってしまったようだった。

 今度はいくらか寝覚めがよいらしく、すっと立ち上がったが──訝しむように動きを止めた。

「……」

 首を捻り、元から細い目を更にギッと引き絞る。

「……どこ行った?」

 口端を微かに引き攣らせてそう囁く。


 いない。──ファントムが、いない。


 数奇な縁で結ばれた二人である、たとえ姿が見えなくとも、どこか意識の深いところで繋がっているのだろうか、互いの存在は感じ取れるのだ。いつもは当たり前すぎて気にも留めない繋がりだが、もしそれが感じられなくなれば、強烈な違和感を覚える。

 今、それは、完全に途切れた訳ではないが、限りなく希薄になっていた。今にもぷつりと切れてしまいそうなほどに。

「どこ行った……どこ行った」

 そう、それは違和感。常ならば無縁なモノ──恐怖である。

 カーテンを嬲る風が、黒い霧を吹き込む。

「ハッ……、ァ、……」

 だらりと垂れ下がった手が、漏れ出る呼気が、戦慄き始める。悪夢がフラッシュバックする。

「……黙れ……黙れ黙れ黙れ」

 声が溢れかえる。『△△△』と、彼の知らない女の名を呼び続けるファントムの声が。『△△△』と動くファントムの白い唇の形が脳裏を埋め尽くす。

 ダスクが何度包丁を突き立て、何度殴り、何度殺しても、ひたすらにダスクではない者の名を繰り返し続けたファントム。そう、あのときも、彼の魂はダスクから離れ、どこか遠いところにいた。ダスクを置いて、どこかへ行ってしまっていた。

「どこ行きやがった、野郎ッ」

 恐れは焦りへ。焦りは怒りへ。

 手荒くクローゼットを開けて服を掴み出すと、それを無造作に身に付け、ダスクは洗い場へ向かった。


 ダスクが足を踏み入れてみると、そこには、昨晩の床よりも酷い有様で服が散乱しているだけだった。

「何でこんなことになってんだ、あのバカ」

 舌打ちして窓を立て切り──またも動きを止める。

 彼の視線は床の一点に注がれていた。


 血痕である。


 ほんの僅かながら、血が垂れていたのだ。

 反射的にダスクは手を伸ばし、血を拭い取って、口に含んだ。よく知っている味だった。

 ゴク、と喉が鳴る。

 そうして彼は、雨に濡れて散らばった洗濯物もそのままに、水溜まりを踏んで水を跳ね散らそうとも構わずに、踵を返して駆け出した。


「ファントム!!」

 怒号が響く。応えはない。

 手当たり次第に扉を開けるダスク──そのどこにも、捜し求める相手の姿はない。ただ、トタンを叩く、軽くて騒々しい雨音の中、辛うじて残っている繋がりが、相手の異変を知らせる微弱な信号となって、却って神経を逆撫でするだけ。

「ファントム!! 応えろ!!」

 たとえ何を言わずとも、ひねくれ者で意地っ張りな心の声を聞いて、付き従う。それがファントム、そのはずである。

「どこだよ……応えろよッ、いるんだろ!?」

 ダスクは悟っていた。いつかのようにファントムがどこかへ彷徨い出ていったのではなく、すぐ近くで、弱々しい命の信号を送っているのだと。

 血眼になって捜す。けれども見つからず、ダスクは地下への階段を駆け下りた。手探りで探し当てたスイッチを押せば、ジ、と火花を散らして頼りない光が灯ってゆく。左右に倉庫が立ち並ぶ地下通路、その奥から──微かに、物音。


 反響する足音、高まる心音。

 ダスクはそれと思われる扉の前に立った。錆の浮く重々しい金属扉、そっと手を掛け、ぐっと力を込めると──

 中から溢れ出たのは、濃い血の臭いと苦しみに満ちた呻き声だった。


 五感がダスクを殴った。

 スーツ姿のまま、中央に頽れているファントム。耳障りな喘鳴の混じる苦悶の声、蘇る、甘くも苦々しい鉄の味、黴と錆と何かおぞましいものの臭い、じっとりと纏わりつく生温い空気。

「……ファントム?」

 恐る恐る、歩を進めてみれば──

 襟元を握り締めて肩で息をする彼は、埃と血に塗れ、ガクガクと全身を震わせ、潰れた悲鳴を上げている。ちらと垣間見えた、赤黒い血を垂れ流す口元に、ダスクの見慣れた笑みはない。そこに、代わりにはりついているのは苦痛だった。

「オイ……ファントム。どうしたんだ、オマエ……」

 歯を剥き出し、歪めた口から零れる喘ぎの合間に、ダスクの声が揺れる。

「しっかりしろよ、なぁ、オイ……」

 蹲る彼を抱き起こそうと、ダスクが伸ばした手を──ファントムは、尋常ではない勢いで払い除けた。

「ダスク……ダスク、なんですか。そこにいるんですか」

 それは詰問だった。常の、柔らかで穏やかな響きはどこにもない。息も絶え絶えになりながら、掴みかかるような勢いを持っていた。

「オレだよ。何でそんなこと訊……」

「離れなさい!!」

 突然の大声と共に吐き出された血の塊が、びしゃりとダスクの手にかかる。震える指先へ、どろ、と伝ってゆく。呆気に取られて固まる彼を他所に、ファントムはまくし立てる。

「離れなさい。早く。早く!! 私は平気ですから、すぐ外に出なさい。行きなさい。今すぐ!!」

「だってオマエ、それ……」

 あまりの剣幕に押され、口篭りながら後退るダスク──見れば、突き立てられたファントムの指は、床に深々と五本の爪痕を刻んでいる。異様に長く、角張ったその爪はまたファントム自身の胸を抉り、シャツを真っ赤に汚している。

「ダスク!! 早く!!」

 弾かれたように倉庫から転がり出たダスクは、轟音を立てて扉を閉め、壁を背にしてずるずるとへたりこんだ。そうして、四肢を投げ出し、震える息を押し殺しながら、中から聞こえてくる叫び声を──湿った激しい咳の音を、のたうち回る身体の音を、そして声にならぬ悲鳴を、半開きの口を引きつらせながら、聞きたくもないのに聞いていた。



 やがて、何も聞こえなくなった。

 乱れに乱れていたファントムとの繋がりは、ようやくいくらかの落ち着きを取り戻した。

 逸る心臓を抑え、きりきり痛む胸の奥、息を詰まらせて、ダスクは再度倉庫の前に立った。少しだけ開けた扉の隙間から一条の光が差し、またも倒れているファントムの背を朧気に照らす。今度は音がしない。ファントムは微かに身体を上下させるだけで、動かない。

 ダスクは暗闇をこじ開け、傍らに屈み、そろ、とファントムの肩に手をかけた。

「オイ……ファントム」

 応えるように、床に伏せられた顔がぎこちなく動く。血のこびりついた口元に、あの微笑を湛えながら。

「……ダスク。ダスク……」

 掠れた声で呟き、肩に添えられた手に彼がすっと絡めた指。もう、硬く無骨な長爪を生やしてはいない。

「大丈夫ですよ。ええ……もう大丈夫です。心配いりませんよ」

「……」

 じっと、ファントムの胸元に目を落とすダスク――普段はきっちり上まで留められているボタンが外され、ネクタイも緩められ、シャツは皺になり、引き裂かれて、抉れた傷を覗かせる、未だ血の乾ききらない胸元に。

「……いつまでそんなとこで寝てるつもりだ。立てよ」

「いえ、しかし……」

「立てよ。早く」

 ファントムを見下ろし、暗く張り詰めた声でダスクは言う。

「立てねぇのか? 立てんだろ。なぁ」

「分かりましたって、そう怒らないでください」

 肘をつき、緩慢に身を起こすファントム。彼の口の端が時々、痛みを堪えるように歪む――そんなを、ダスクはどこか虚勢の見え隠れする目で睨みつけていた。

「行くぞ、上。……こんな場所にいたくねぇ」

 ぼそっと吐き捨てると、ファントムの腕を掴んで己の肩に回す。

「大丈夫ですよ、ダスク。ほら、汚れますから先に行きなさい」

「うるせぇ。洗えばいいだろ、そんなもん」

「ありがとうございます。優しいですね、貴方は」

「ちょっとは黙っとけ」

 足取りの怪しいファントムに肩を貸し、彼を半ば引きずるようにして、ダスクは地上へ戻っていった。


 ファントムが連行されていったのは、洗い場だった。勿論、誰かが片付けをするはずもない。水浸しで、洗濯物が床に折り重なったままだ。

「ああ、ごめんなさい……雨が降ってしまったんですね。片付けましょうか」

「後でいい。さっさと脱ぎやがれ」

 そう言いながらダスクもジャケットを脱ぐ。ファントムの血が染みていることを認識して、シャツも脱ぎ捨てる。しまいにはズボンも脱いで、曲がったハンガーにかけた。

「貸せ。早く」

 苛々と黒い指が壁を叩く。ようやく差し出された、血と埃で散々な有様となっている服をひったくると、それもひとまずハンガーにかけ、ダスクはファントムに頭から水をぶちまけた。続いて彼自身も水を被る。血が、赤い煙となって水の中に溶け出し、排水溝に飲み込まれてゆく。

「怒ってますか、ダスク」

 タオルを押し付けられながら、ファントムは申し訳なさそうに俯いた。

「別にそういう訳じゃねぇよ。いいから来いよ」

 口ではそう言いながらも、ダスクはあからさまな不機嫌さを隠そうとしなかった。しかし、確かに彼は、怒っていた訳ではないのである。

 無言でファントムの肩を抱く。相棒がよろめいて、その体重がぐっと己にかかる度に顔をしかめながら、ダスクはファントムを寝室へ連れていった。


「横になれよ、ファントム」

 ずり落ちた掛け布団を戻しながらダスクは言う。

「いえ、もう……」

「苦しいんだろ」

 ──ファントムを見上げる目。底無しの、白。

「ええ、まあ」

「そうだろ。苦しいんだろ……痛ぇんだろ」

 ダスクはどさりとベッドに腰を下ろし、顎で自分の隣を指す。ファントムはそれに従い、倒れ込むようにして寝台に上がった。

 雨はまだ降り続いている。一時より雨足は弱まったようで、サ──と静かな雨音が二人を包む。

「ファントム」

 背中越しの呼びかけ。

「はい、ダスク」

 枕をあてがわれて強制的に寝かされたファントムは、シーツに皺を寄せるダスクの左手に、そっと自らの手を重ねた。

「教えろよ。……何だったんだよ、アレ」

 裸の肩が小刻みに震えているのを見てとり、ファントムはふっと息を漏らした。

「そうですね、貴方にはまだ何も、話していませんでしたね。……長くなりますが、お話ししましょうか」

 沈黙の肯定を受け、ファントムは語り始めたのである。過去を──そして、来るべき未来を。

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