隠し事

第17話

 月に叢雲むらくものたとえあるが、今は風流なんぞいらぬ。

 逃げるにはむしろ、暗夜あんやこそ。

 月が隠れた今こそ。


(はあ、はあ、はあ……)


 群生するすすきは袖振そでふり草。あいだを駆け抜ければ、名残を惜しまれ、り傷無数。

 されどそれも、今しばしの辛抱。

 このすすきの高さこそが、やましい身を隠してくれる。


(逃げ切れる……!)


 もう、戻れない。

 何も得られるものはなかった。


(チクショウ、チクショウ!)


 胸にじくじくと去来きょらいするのは、これまでの汚辱おじょく屈辱くつじょくの日々。

 売られたような丁稚奉公でっちほうこうも、これまで散々尽くしてきた。

 さげすまれてもひたすら耐えて。

 主人は横暴。逃げ行くものは多数。

 それでもおのれは、

(いつか、番頭に……)

 夢を抱き、それで暖簾のれん分けしてもらえれば、やっと自由の身と、石にかじりつくようにして我慢の日々もこらえてきた。文句の一つも口からは出さず、ただひたすら心を殺し。

(どうせ、主人は高齢、先に……)

 ところが、年取れば取るほど意気軒昂いきけんこう。幼いころに取れたはずのかんの虫がまた湧き上がったようで、短気はなおさらひどくなるばかり。叱責もきついが、腰を悪くしてから頼るようになった杖で難癖なんくせつけて叩かれるのは辛抱も限界だった。


(いったい、いつまで……)


 主人には娘が一人きり。

 跡取り息子はない。

 なおも我慢を重ね、ついに大番頭まで上り詰めたのだ。

 娘をもらい、我が大きくしたも同然のこの店は、いずれ自分が継ぐことになるだろう。

 店の誰もがそれは当然のことだと、その雰囲気は隠し通せず満ちていたものだ。

「いえいえ、そんな……」

 平身低頭の遠慮も、もちろん心からのものではない。


「おまえのような愚図ぐずに、娘も、店も、やるわけないだろうがッ!」


 当の主人は一喝。

 組合のなかでも評判の大人しさ、ひっそりと生業なりわい続けてきた家の次男坊を「こいつならわしの思うまま」と、まさか婿むことして取ってくるとは。


(く、悔しい。くそぅ……)


 ささやく声がした。

 胸の奥に溜め込んだ、ねっとりとしてドロドロしたものが、さらに濃く、黒く、深く、渦巻けばこそ、何かを呼び寄せたのかもしれない。

 それも隠し通して、尽くしつくす。

 それが出来れば苦労はない。

 くらい感情は日に日に高まる。

 恨み骨髄こつずいに徹し、もはやどうにもならぬ。

 卑屈な小心、おのれこそ自覚していたのに。

 いつしか悪党どものなかに身を投じていた。

 憂さ晴らしと、慣れぬ賭場に一歩でも入ったのが悪かったのだろう。

 今さら思い返してみれば、おのれでも寒気が走るほど、以後は大胆な悪事に走ったものだ。


(それもあと少し、あと少しだったのだ……)


 どこで間違った?

 なんで、あんな男が出てきた?

 あれと出会わなければ……。

 あいつはいったい、なんなのだ?


 いやもう、それはいい。

 おのれの命さえあれば。


(もう、何もかもどうでもいい。私を知らぬところへと逃げ、逃げ切って、もう一度やり直そう)


 懸命に駆けるも、草に切られる傷は増えるが、一向にすすき野から出られない。


(なんだ? この野辺のべはこんなに広かったか?)

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