夜稽古

第9話

 下にも置かぬ仰々しさで番頭弥吉やきちが源十郎を招いたのは、菱屋ひしやの店舗ではなく、本邸であった。

 歓待の意向、そこは間違いないか。

 店先で形ばかりの礼をいうか、ちょっと奥で酒肴しゅこうを少し。

 旦那も出てきて、愛想笑い。

 その程度だろうと高をくくっていただけに。

 むさくるしい、浮き草浪人をご立派なお屋敷に招くところは、さすが天下に名をとどろかせる大店、菱屋と感服かんぷくする。

 だが、そこまで。

 港の喧騒も遠い、町の一等地。

 高台である。

 町も、港も見下ろせて、天から人の営みを見下ろした気分。

 大きな武家屋敷並ぶなかに菱屋のそれも。それだけでも破格なものだが、庭もまたたいそう立派で、まるで古刹こさつ枯山水かれさんすい。遠く色付き始めた山々の借景しゃっけいが空々しく写るほど。維持するだけでも金は湯水ほどもいるだろうに。

 ため息以前に、その贅沢振りにはあきれ返る。

(フン……)

 びもびも鼻で吹いて飛ばす勢いのこしらえに、実際、源十郎げんじゅうろうのような無骨一偏ぶこついっぺんの男の頬には嘲笑が浮いたものだ。


 本邸での接待、まずはうやうやしく。

 風呂を勧められ、上等な着物まであてがわれた。

 こざっぱりとした体になれば、大店の番頭弥吉が自ら「ささ……」と、腰も低くして源十郎を招く。そこは百畳敷きの広間。上等な客の接待の場であろうその上座に源十郎は座らされたものである。

 上等な酒も確かに出てきた。

 どこぞの料亭から運ばせたのであろう、った料理も数々出てきた。

 若旦那、つまりは子供をかどわかされた父親は、妻も連れて、

「このたびはありがとうございました」

 と、親の情ありあり浮かばせ、浪人にも心より頭を下げたものである。

(だが……)

 ただの一度も、大旦那である治郎兵衛じろべえは出てこない。

 さらに、このようなときには、口止めもあろうが、礼として紙に包んだものでも出てくるのだが、そんなそぶりも毛ほどもない。


 酒も料理も確かにうまい。

 太鼓持ちには散々、源十郎、持ち上げられたものである。

 だが、気分良くそれで酔えるほど、源十郎は阿呆ではない。終始無言で、菱屋のものどもをその鬼の顔で怯えさせていたものである。


 宴席、終わりを向かえるころになって、

「是非、お侍さまにはうちの用心棒になっていただきたく」

 などと、番頭の弥吉が願い出てきたものである。

 その後ろで同じく頭を下げる若旦那。

 番頭や若旦那の、源十郎を神輿みこしにも担ぎ上げるほどの腰の低い姿勢も、そろそろ透けて見えるものもある。

(貧乏食い詰め浪人なら……)

 安い給金で雇い入れ、かつそれでここにとどめおけば、役人に下手なことをいおうとするのも防げるだろうと。

 なんとも、底の浅い。

 ちまたに聞くところでは、若旦那とはいえ婿養子。

 同じ廻船問屋のどこそこの出らしいが、菱屋の一人娘に婿入り、菱屋を大きくするのに使われたとか。それにしては、嫁御である菱屋治郎兵衛の娘はぴたりと彼に寄り添い、旦那を立てる風情浅からず。夫婦仲は良いと見えるが、だからといってしゅうとには逆らえまい。


「いいぞ。寝床も仕事ももらえるなら、それはありがてえ」


 源十郎、まるで根無し草が勿怪もっけの幸いと、無造作に言い放ったものである。

 源十郎には帰る家も待つ人もあるものだが、その心中、今はまだうかがい知れない。

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