第8話

「あの坊主、さらわれたのか?」

「は、はい。わけも分からず、狂気の沙汰さたと……。そこをそのぅ、お侍さま、に、助けていただいて……」

 恩人に浪人とはいえまい。

 それと分かっていながら、源十郎げんじゅうろうは真顔崩さず、

「で、役人に事情説明、俺に付き合えということか?」

 皮肉も失笑もまじえないのは、さっさと話しを済ませようということか。

 しかし、菱屋ひしやの番頭弥吉やきちのほうが煮え切らない。

「いえ、そうではなく……」

 口ごもる弥吉を無視して子どものほうをみれば、ぐったりしているその子を、ずんぐりしているが力の強そうな下働きが、抱えて立ち去ろうとしているではないか。

「おいおい。役人、待たなくていいのかよ?」

「そ、その……」

 弥吉の態度が物語る。

 察しのいい源十郎である。言わずもがな、

「なるほど。事をおおやけにしたくねえってところか」

「は、はい……」

大店おおだな難儀なんぎなもんだな。店の評判に傷がつく? そんなところか」

 いやなものを見たとばかりに吐き捨て、そこでもう源十郎はきびすを返した。

 これ以上かかわり合いになるのはごめんだと、態度にあらわして。


「お、お待ちください」

「なんだ?」

 袖にすがり付く弥吉をギロリとにらめば、それだけで彼は卒倒してしまいそう。

 コン太のような可愛げなど、チリほどもない。

 それでも弥吉は必死。

「お、お侍さま! あ、あの……っ」

「別になんも言い触らしゃしねえよ。そんな、なんの得にもならねえことするかよ」

「し、しかし、このまま恩人さまを何のおもてなしもしないとなれば、それこそ菱屋の名折れ」

「いいって、そんなもんは」

 大方、口止めにわずかな銭でも握らされるのであろう。

 下に見られたものだと、それも気分が悪い。

「お、お侍さまにお頼みしたいもございますゆえ」

 どうか、どうかと、それこそ土下座でもしそうな勢いである。


(旦那が怖いのかねえ?)


 源十郎、弥吉が真に見ているものが何か、分かった気がした。

 菱屋の大旦那、治郎兵衛じろべえ。齢七十を超えるというが、いまだ矍鑠かくしゃくとして、店を取り仕切っているという。すでに跡継ぎもそれ相応の年であるというのに、全く隠居など考えず、店の差配さはい、あれやこれや何にしても口出し、手出ししなければ気が済まない。

 豪腕みなぎり、それが店を大きくしているのだが、悪いうわさはたいてい、当代のそれから聞こえてくるものである。

 源十郎、そこで折れた。

「……うまい酒はあるんだろうな?」

「は、はい!」

 番頭でもないがしろにされることは多いのだろう。ここで弥吉の顔を立ててやらなければ、果たして店に帰ってからどのようなお叱りを受けるものか。嘆息も漏れるが、大事な孫を取り戻しても、手落ちのほうを言い立てられて折檻せっかん受けるに違いない。

不憫ふびん……)

 と、思うたかして、源十郎、それ以上は何も問わず、黙って弥吉について大きな屋敷の門をくぐったのである。

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