第14話

 浩史はその頃の自分をたまらなく愛しいものに感じた。


 しかし、それはもうはるか昔のことにも思え、途方もない道のりを歩いてきてしまった己という存在が、ひどく物悲しかった。


 彼は受話器を握ったままはからずも涙ぐみそうになり、慌てて瞼に力を込めた。


 そして、あまりにもノスタルジックな、いつかの涼しい朝の雑木林みたいなこの会話を、早く打ち切ってしまいたいと願った。


 だが、実際に会話を打ち切ったのは相手の方だった。


 最初に聞いた親密な明るい声とは明らかに違う、どこかよそよそしさの漂う事務的な口調で、浩史から仲間の披露宴で再会する約束をとりつけると、じゃあまたな、と素っ気なく言って電話を切った。


 浩史にはその時、彼の声が「もう二度と電話しないよ」と宣告しているように聞こえ、肌寒い気がした。


 その直感が間違いないのもはっきりわかった。


 哀しいことだが、確かだった。


 友人は受話器を置く直前、最後の忠告だとでも言いたげに、こう言い捨てた。


「世の中には、知らない方がいいこともたくさんあるんだぜ」


 三秒後、浩史は空しい電子音を発している受話器を置き、相手の言葉の意味することについて考えてみた。


 確かにその通りだ。


 ひとたび人間によって発見され、穢れた指先で触れられた時、あらゆる存在は腐敗し、ダメになる。


 実例が見たければ、海へ行けばいい。


 すぐにわかるだろう。


 かつて海は、絶対的な解け得ぬ謎として偉大な力をもって人類の前に立ち塞がっていた。


 だが、いまやその長い闘争の歴史における勝利をほぼ手中におさめた人類にとって、海はもはや謎などではなく、ごく身近な自然の風景の一つに成り下がっている。


 あげく、かつては光すら到達し得なかった深海にまでも、核魚雷を搭載した原子力潜水艦がゆらゆらと回遊するようになる。


 彼らは自分たちが海底の支配者となるためなら、その危険な、自らをも破壊しかねない暴力を行使することさえやむを得ぬと考えているのだ。


 美しかった海岸には、その景観を破壊するために造られたとしか思えぬほったて小屋が異様な姿で立ち並び、縄の張られた粗末な駐車場に車が溢れ返っている。


 魚も鳥も、すっかりどこかへ追い払われてしまい、代わりに恥じらいを忘れた人間どもが、腐った肌もあらわに、沈没したタンカーから流れ出た真っ黒な重油にまみれて窒息したアザラシの死骸みたいに、白い砂浜を一面に覆い尽している。


 さらに悪いことに、彼らは腐らせるだけに飽き足らず、その腐乱した屍を始末するという責任から逃れるため、それらをせっせとろくでもない紙切れと交換してしまうのだ。


 やがて世界はそうした紙切れに覆われ、支配されるようになるだろう。


 いや、もうすでに支配されているのかもしれない。


 俺は、と浩史は思った。


 何だって人間なんかに生まれちまったんだろう?

 もっとマシな生き物はたくさんいるじゃないか。

 そうだ、いっそ愛玩用のシャムネコにでも生まれていればよかったんだ。

 そうすれば、有閑マダムや男日照りの女たちを相手取り、イケメンホストみたいな気儘な暮らしができたに違いない。

 いや、でもホストだって、あれで結構大変なのかも知れないぞ。

 第一、俺はイケメンになんてなったことがないんだ。

 それに、飼い主の勝手で痒くもないのに身体中いじくり回されたり、ゴミといっしょに捨てられたりするのはゴメンだし、まして車に轢かれて熱いアスファルトの上でぺしゃんこになったまま、長い間人目にさらされつつ少しずつ干からびていくなんてのはもっと嫌だ。

 じゃあ、鳥ならどうだろう。スズメやヒバリみたいな非力で小さな鳥じゃない。ワシやタカみたいな大きくて強い奴だ。

 なら誰に邪魔されるでもなく、広い大空をどこまでだって飛んで行ける。

 彼らから見れば、こんな地上の世界なんか、ちっぽけでつまらない、興味すら持てない世界に違いない。

 だが待てよ。

 空から見た地上がちっぽけなように、地上から見上げた空だって同じようにちっぽけじゃないか。写真に収まっちまうほどちっぽけじゃないか。

 それに、空には隠れる場所がない。

 もし人間に銃を向けられたらどうする?

 撃ち落とされるよりないじゃないか。

 死んじまうしかないじゃないか。


「俺は死にたくない」と、浩史は口の中で言った。

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