第10話
やがて、そのあまりな濃密さのためかえって一瞬かとも錯覚されそうな長い時を経過した後、ようやくあと数歩で便所のドアに手が届きそうなあたりまで辿り着いたのだが、そこでそれまで浩史をさいなみ続けていた例の不吉な悪寒が、突如明確な生々しい具体的な感覚となり、たちこめた霧が豪雨と化して大地へ降りそそぐかのように押し寄せてきた。
嘔吐である。
胃袋の底から酸味のある粘っこく生暖かい半固体状の液体が、食道の襞を刺激しながらゲルゲルと音を立てて這い上ってくるのを感じた。
その液体はすぐ口の中で膨れ上がり、あのどうにも我慢ならない悪臭をともなった不気味な味覚でいっぱいにした。
そして、その流出を防ごうと固く結んでおいたはずの唇の間をいともたやすく突き破って噴水みたいに噴き出し、次の瞬間にはベチョベチョと床に溢れた。
慌てて口元を覆うと、手の甲を、胃袋から吐き出された黄白色の汚物が、垢の浮いた風呂の残り湯のような感触をともなう嫌な匂いを撒き散らしながら、滝のごとく流れ落ちた。
くそ、やっちまった!
と、浩史は思った。
が、すぐそれが錯覚だと気づき、ほんの束の間ホッとした。
我に返ると、彼は受話器を握りしめたまま、体中に脂汗を浮かべていた。
いつしか、教師だった頃の記憶のひとコマへと、意識をすっぽり埋没させていたのである。
それから、浩史は友人からの電話を受けている最中なのを思い出し、自分が情けなくなった。
嘔吐感が実際に全身を駆け巡っている感じだ。
意識が過去へ遡ってしまうというのは、何度体験しても嫌なものだった。
虚しいのだ。
たとえその行為が、一般的には建設的と考えられている反省という動機に基づいているとしても。
過去をどんな姿勢で望んでみたところで、現在という時の回廊に佇んでいる彼自身には、いかなる変化も訪れはしない。
記憶は常に所有者の都合の良いように装飾され、整理されてしまうものだし、そのせいで過去がいかに光輝こうとも、しょせんは通り過ぎる一瞬一瞬の残像にすぎないということを、浩史は彼なりに理解していた。
しかし、俺は何だってあんなことを思い出しちまったんだろう?
他にもっと思い出すに相応しい経験をしてきたはずなのに。
あれじゃまるで俺の五年間が、わけのわからぬ店でわけのわからぬ女に囲まれ、わけのわからぬ酒を飲みすぎて悪酔いし、わけのわからぬことを喚きながらゲロを吐いてひっくり返るためだけにあったみたいじゃないか。
そんなバカなことがあるか!
俺は一所懸命やったんだ。
生徒に誠実でありたいと願い、他の連中がやらないようなことまでやったんだ。
いっしょに清掃したり、歌を歌ったり、友達みたいに話したり、連中のために他の教師と喧嘩したり。
だからこそ、あのガメラみたいな女教師に、
「指導というのは、子供といっしょに遊ぶことじゃないのよ」
なんて怒られるハメになったんじゃないか。
俺は納得できなかったけど、結局彼女の言い分が正しかったんだろう。
何しろ俺は当の生徒たちからバットで袋叩きにされて学校から追放されたんだし、彼女は今でも何事もなく教壇に立ち続けてるんだから。
俺のやることったら、いつだってこうだ。
動けば動くほど事態を悪くする。
フン、どうだい。俺はこんなにいろんなことを学んできたんだぞ、と浩史は思った。
でも、自分が無意識に引き込まれた記憶があの場面だった事実は変えようもなく、いくら考えても、何故あんなことを思い出してしまったのか、まるで見当もつかなかった。
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