第9話
だははははっ、と数学教師の学者風が無遠慮に笑い、その声につられるようにして、他の教師や女たちの間に失笑が拡がった。
そのためか、浩史が立ち上がった一瞬に走った険悪な緊張は、すぐにもとの喧騒と馴れ合いの空気へ溶け込み、消えていった。
浩史は急速に転倒し続ける天地を目の前に感じながら、砂漠の灼熱に孤独な死を目前にした男が水を渇望するような形相でカウンターにもたれかかり、奥の一画に位置する照明の落とされたそこにだけポッカリ穴の開いたような暗闇に向かい、ひたすら便所を求め、這うように歩いて行った。
背後で誰かの声がする。
何を言っているのかわからない。
わかりたくもない、と浩史は混沌とした頭脳で思った。
まったくおめでたい連中だ。
奴らときたら、自分を悲劇の主人公に見立てて、その話にすっかり酔いしれてやがる。
揃いも揃って、同じ話の登場人物になりきってるんだから、できすぎじゃないか。
あいつら、てめえが悲劇のヒーローどころか、実に滑稽なピエロだってことにも気づかないんだ。
呆れた哲人どもじゃないか。
いや、そうじゃない。
彼らこそ立派な、より模範的な社会人なんだ。
確かに彼らは哲人ではないかもしれない。でも、より優れた生活者であることに違いないんだ。
でも、そうなら俺は一体何なのだろう?
そんなことはどうでもいいじゃないか。
今考えるべきことじゃない。
今考えなきゃならないのは、便所についてだ。
俺が便所へ行きたいってことさ。
とにかく、今は便所へ行かなくちゃ。
俺は絶対便所に行ってやるぞ。
誰にも邪魔させるもんか!
浩史はいまや、肉体だの精神だのの区別なく、全身を名状しがたい不吉な悪寒にすっかり蝕まれていた。
無数の人間たちが、それぞれむやみに抱え込んでいる、わけのわからない思想だの、哲学だの、主義だのの干からびた種芋みたいなものが、ミキサーさながら彼の脳味噌を引っ掻き回し、よってたかってぐちゃぐちゃにしてしまったのだ。
だが、浩史はそんな脳の血管が膨張してはちきれそうな状況でも、暗闇の奥で息を潜めている便所のドアを押し開けるために、なお頑なに、青虫みたいにのろのろ前進し続けた。
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