第8話
「大体ですね……」
テーブルの下で女のドレスの裾を捲り上げ、太腿の間に左手を滑り込ませながら、学者風が言う。
「子供が無垢な存在だなんて認識は間違ってるんですよ。誰が言い出したか知らないけど、とんでもない勘違いだ」
陰気な顔の学年主任は、水割りのグラスをあおって肯く。
「そのとおりだ」と、彼は言った。
「純粋には違いないが、それは彼らに判断力がないということ、言い換えれば人間たるべき社会的認識が何もないってことにすぎんのだ。連中の心は常識的な大人と比較しても、はるかに冷酷で情け知らずにできている。それをバカな親が理解しないせいで、学校は教育を司るべき本来の機能を失い、すっかり堕落してしまったんだ。教育ってのはもっと理性的に、ある意味では冷めていると言っていい考え方で行われるべきなんだ」
すると、唐突に体育教師が喉にからんだような渇いた笑い声を発した。
軽く左手でテーブルを叩き、女の腰にあてがった右腕はそのままに、三人の方へその笑顔を向けた。
そして、さもバカげていると言いたげに、
「夢ですよ」と、吐き捨てた。
「悪夢ってヤツです。でも、こんなトコで教育がどうの子供がどうのって野暮な話はよしましょうや。無意味です」
丸太ん棒みたいな太い腕で傍らの女をグッと引き寄せ、舌の絡み合う音が耳障りな例の露骨なやり方で相手の唇を吸った。
「俺たちはしがない地方公務員です。夢だの理想だのたいそうなお題目を掲げたところで、しょせん給料をもらって暮らしを成り立たせるため働いているにすぎんのです。例えば、先生」
と、彼は急に浩史を見遣った。
「あんたは国語科の先生だが、子供たちに何を語っているかといえば、こういうことにすぎんわけです。『はい、○○クン、よく読めたね。でも、もう少し感情を込めて、例えば歌うような気持ちで読めたらもっと良かったな。じゃあ座って』とね。いや、責めてるんじゃない。俺が言いたいのはつまりね、そんなのが我々に求められてる教育だってことですよ。結局、そんなもんなんです。ま、俺も含めて他の先生方だって大差ないでしょう。最初に言ったけど、俺たちは一介の公務員にすぎんのです。一歩校門を出たらくだらんことは考えず、一人の人間として自由を謳歌すればいいんです」
浩史が勢いよく立ち上がった。
横の女がびっくりして身をすくめ、三人の教師はいっせいに振り仰いだ。
「おや」と、体育教師が唇を歪めた。
「怒ったのかね、先生。青いな、あんたも」
もしこの時浩史に通常の判断力が残っていたなら、先輩たちの心ない自嘲的な言葉が己が教育観をいかに深く傷つけ、侮辱することになるかを正確に理解したはずだった。
が、彼は酔っていた。あまりにも酔いすぎていた。
いまや彼の内部では、人類の進化、もしくは退行の興亡の膨大な足跡たる歴史を作り出す最大の原動力であるところの、例の一連の感情、怒り、失望、幻滅といったあのとらえどころのない不快な感情が、凪いだ海面をびっしり覆い尽くす重油の波のように、ドロドロと重々しくうねっているだけだった。
青いも赤いもあるもんか!
本当なら浩史は、ためらわずに喚き散らすべきだったのだ。
くそったれめ!バカったれめ!おまえらは何だ?人間を育ててるんじゃないのか?
しかし、彼はやはり酔いすぎていた。
「ちょっとトイレへ」と、浩史は言った。
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