第5話

 階下で母が呼んだので、浩史は本を閉じて降りて行った。


 彼女は電話のところで受話器を持ち、息子が下りてくるのを待っていた。


 誰から、と尋ねると、高校時代からの付き合いで、現在は自動車の販売会社でセールスマンをしている友人の一人の名を言った。


「もしもし」


 受話器の向こうで、聞き慣れた懐かしい声がした。


 2年ぶりぐらいだろうか。


「しばらくだな」浩史は言った。「調子はどうだい、車は売れてるか?」


「ぼちぼちな。金なんてのは、あるところにあるもんさ」


 友人はそう言って笑った。


 それからその声は、浩史と共通の高校時代からの友人一人の名をあげ、その男から披露宴の招待状が届いたのだが、彼のところへはこなかったかと訊いてきた。


「来たよ」と、浩史は答えた。


 その招待状は三日前に届いていた。


 だが、その時は(あいつが結婚か)と漠然と思っただけで、何の感慨もなかった。


 それより、その招待状を郵便受けから持ってきた母親が、


「あの人が結婚なんてね。時が経つのって、本当に早いわねえ」


 妙にしみじみ呟いたことの方が、変に頭の隅に引っかかっていた。


 受話器の向こうでは、友人が結婚する男とその相手についていろいろ喋り続けている。


 二人の馴れ初めについて、結構知るところがあるらしい。


 でも、浩史にはその友人が結婚する男の話にことよせて、実は自分と恋人のことを話したがっているのだろうと察せられたので、率直にそう言った。


 案の定、友人は話の内容をすぐ自分のことに切り換えた。


 セールスマンってのは、みんなコレだ。どんな無駄話にも、必ず目的がありやがる。


 友人はポツポツ話し始めたが、その内容はまた見事に脈絡がなかった。


 陽気に日曜日のデートの話をしているかと思うと、急に女の気持ちなんかアテになるもんか、などと深刻に呟いてみたりする。


 浩史は彼の一言一言に言い知れぬ滑稽さを感じた。


 友人が伝えたいのは要するに、


「俺たちは互いにぞっこんさ」


 それだけだったからだ。


 浩史は黙って彼の話に耳を傾けていた。


 脳裏に、結婚やら家庭やら、いってみればささやかな幸福とでも名づけられるべき金色の羽根を背に生やし、神々しい光の中を天使のように手に手をとって天高く舞い上がって行く、無数の恋人たちの姿がイメージされた。


 その映像は、浩史に己が想像力の非凡な貧困さを刻印するに充分すぎるほど、陳腐でありきたりのものだった。

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