第8話 男同士、一万円札、社長命令、何も起こらないはずがなく……
新しい職場で働き始めて少し経った。
釘崎の会社はインターネットで海産物を販売するというシンプルな事業だけれども、その商品の良さと売り方の良さ、そしてウェブサイトの使いやすさが相まって登録会員数が伸びている。
売上高もこの規模の会社にしてはなかなかだ。事業の拡大をしてさらに成長できそうな、伸び盛りの会社と言っていい。
ただ、僕が財務担当として色々お金のことを洗い出していくと、やっぱり釘崎だなと思うところがたくさんあった。
彼女は昔から大ざっぱなのだ。スボラでだらしない点が多々あるので、それが経理的なところにも現れている。
これを健全な状態に持っていって、無駄遣いを減らしたり、余計な税金を払わなくても良いようにするのが僕の仕事ということだ。
耕す前の畑を前にしたかのような気持ちになり、前途多難とはいえなかなかやりがいのある仕事だ。頑張った成果が目に見えるというのも、なかなか悪くない。
そんな充実感たっぷりの職場にありつけたということで割と楽しく仕事をさせてもらっているわけだけど、どうも未だに距離感が掴めない人が一人いる。
「おはようございます。今日も早いですね、羽山さん」
年齢は僕より二つ下らしいけれども、一応先輩ということで僕は彼に対して敬語を使っている。
「……」
僕が挨拶をしても、羽山は黙々とパソコンに向かってコードを打ち込んでいる。いつもこうだ。
毎朝職場に来ると、決まって羽山がヘッドフォンをつけてキーボードを叩いている。僕より早く来ていることもあれば、ここで寝泊まりすることもあるらしい。
彼の生態みたいなものは、未だに少しよくわからない。
僕は自分の席についてノートパソコンの電源を入れた。メールのアプリを起動して、新たに届いたメールのチェックをするのが毎朝のルーティンなのだ。
「ん……? なんだこれ?」
受信トレイを更新すると、新着のメールの中に一つ違和感のあるものがあった。
送り主は羽山。別に添付ファイルがあるわけではないのに、すぐそこにいる彼からメールが送られてきたのだ。
『敬語じゃなくていいです ダルいので』
件名無しで送られてきたメールには、ただそれだけ書かれていた。
「なっ……、それくらい口頭で言ってくれればいいのに。というか、聴こえているなら返事してくれよ!」
僕がそうつぶやくが、遠くの席にいる羽山は顔色一つ変えていない。
釘崎と羽山が会話をするのは見たことがあるので、単純に僕とコミュニケーションを取りたくないのだろう。要するに、僕はかなり彼に警戒されているというわけだ。
二人で起こした会社にいきなりやってきた大学の同級生。信用できないと言われれば、確かにそうかもしれない。
「……まあ、こればっかりは仕事で信頼を得るしかないか」
羽山のようにコミュニケーションをなかなかとってくれない人から認められるためには、仕事をきちんとやって結果を出すのが一番だ。
彼同様に黙々と仕事をしてやろうと、僕は目をかっ開いてパソコンに向かう。
しばらく集中していると、いつの間にかお昼が近くなっていた。
すると、やっと起床してきた釘崎がオフィスにやってくる。
「おはよー」
「おはよう釘崎。もうお昼だよ」
「昨夜もみっちりやってたからつい夜ふかししちゃったんだよねー」
釘崎はあくびを交えながらそう言う。なにをみっちりやっていたのかは聞かないことにしておこう。
さすがに寝間着で登場ということはなかったが、完全にノーメイクでオンのスイッチは入っているようには見えなかった。
「……あれ? なーんかオフィスの中、雰囲気悪くない?」
「そう? ちゃんと換気はしているはずだけど」
「そうじゃなくてさ。……まあいいや、とりあえずお昼だし高橋と羽山、これでメシでも行ってきなよ」
釘崎はおもむろにポケットからお金を取り出す。僕に渡してきた一万円札は、文字通り釘崎のポケットマネーというやつだ。
「えっ、いいの? こんなにもらっちゃって」
「ただし条件がある」
「なに?」
「羽山とサシでメシに行くこと」
僕は思わず「え゛っ」という濁った声でリアクションをしてしまった。
「君らなーんにも会話しないんだもん。この機会になんか喋ってきなよ」
「で、でもそれは、彼のほうがコミュニケーションをしたがらないから……」
「そこは高橋の腕の見せ所でしょ? 男同士なんだし、女の子口説くより簡単でしょ?」
どっちもどっちだよとは言えず、僕は一万円札を釘崎に返そうとする。しかし彼女は頑なにそれを拒む。
「これは社長命令です。いいから二人で焼肉でも寿司でもうなぎでも行ってこい!」
「は……はい……」
釘崎の圧に押され、僕はその一万円札を受け取ってしまった。こうなれば、もう羽山を連れてメシに行くしかない。僕は肩をすくめる。
しかし、羽山を呼び出そうと振り向いたところ、驚くことに彼はもうコートを羽織って出かける準備を整えていた。
「釘崎さん、ごちそうになります」
「うむ。じゃあ高橋と一緒にランチ行ってらっしゃい」
「はい」
羽山はまるで賢い犬のように命令に忠実だった。
なぜか彼は釘崎の言うことにだけはちゃんと従うのだ。
「ほら、高橋も早く早く」
「わ、わかったよ……」
命令に従ってキビキビと動く羽山のあとを、僕は戸惑いながらついていった。
「あっ、メシに行ったら領収書もらっといてね。あと、お金余ったらついでに化粧水買ってきてくれない? そんなに高いやつじゃなくていいや」
「それ、全部経費で落とす気じゃないよね?」
「……だめ?」
僕は経理担当として、やれやれと呆れながらダメだよと彼女に告げる。
この釘崎千夏というちゃっかりした女性に、優秀なエンジニアである羽山がついてきた理由が余計に知りたくなってしまった僕であった。
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