第31話 ハグ

「……ギブアップ」


「はいっ! 1分22秒。だいぶ長くなったね!」


 数日後の朝。僕はいつもの通り、葉月と『恋人繋ぎ耐久』を行っていた。


 始めたての頃は20秒も耐えられなかったのだけれども、次第に慣れてきたのか1分を越えるようになってきた。

 葉月との同棲生活効果が出始めているのかもしれない。


 この数日の間も、家にいるときは葉月の色仕掛けとおもてなしによりかなりいい思いをさせてもらっている。

 正常な同い年ぐらいの男性であれば、羨ましいことこの上ないだろう。僕自身も女性恐怖症であることを何度も悔やんだ。


 早く克服してなんのためらいもなく葉月といちゃつきたい気持ちがはやるせいか、最近よくえっちな夢を見ることが増えた。

 その度に僕自身が暴発するため、後処理で毎度毎度恥ずかしい思いをする。その際に葉月から生暖かい視線を受けるので、早いことこのループから脱出したい。


「1分以上耐えられるようになってきたし、ちょっとハグしてみてもいいかな?」


「う、うん。どれだけ耐えられるかわからないけど、全然だめってことはないはず……」


「毎日30秒ハグができたら、克服への道もかなり進んだ感じするよね。なんだか新婚さんっぽい」


「新婚さんって……、僕バツイチなのに……」


 複雑な表情を浮かべてしまった僕に、葉月はそんな顔するなよと笑ってツッコミを入れる。


「それじゃあやってみよっか」


「うん……。ほら、どうぞ」


 僕は両腕を開いて葉月を受け入れる体勢をとる。

 葉月は僕に向かって突進するかのように向かってきた。

 僕の鎖骨あたりに顔をうずめた葉月は、ゆっくりと僕に抱きつく。僕もつられて彼女を抱きしめる。


 温かくて、柔らかくて、いい匂いがした。


 でもトラウマとは残酷なもので、いくら心地よくてもそれを上回るような勢いで僕に襲いかかってくる。


「ご、ごめ……、ちょっとダメっぽい」


「……そっか。ハグできたの、ほんのちょっとだけだったね」


「ごめんね……、本当はもっと抱きしめたいんだけど、どうしてもダメみたいで」


「ううん、いいのいいの。むしろ今までなら近づくだけでアウトだったんだから、かなりの成長だって。一太郎は頑張ってるよ」


 葉月は僕を慰めてくれる。

 でも僕には彼女の残念そうな気持ちがひしひしと伝わってくるのだ。せめてもう少し、抱きしめてあげられたらと思うと、悔しくて仕方がない。


「ほら、そろそろ時間だしお仕事に行こっ。忘れ物ない?」


「う、うん。大丈夫」


 時計を見るとまもなく出勤の時刻だ。

 玄関のドアに鍵をかけて、僕と葉月は仕事へと向かう。


「今日も一日頑張ろうね」


 別れ際に葉月はいつもそう言って笑顔を見せてくれる。

 毎朝こんなふうに見送ってもらえたら、やる気が出ないわけがない。最高のパフォーマンスで仕事をやってやろうという気がどんどん湧いてきた。


 ◆


 仕事場へ着くと、入口のドアには張り紙が貼ってあった。

 そこには僕の上司であり、この税理士事務所の主である雅春さんの字でこう書いてある。


「『昨日、スワローズが惜しくも日本一を逃してしまったため本日は臨時休業いたします』って……、おいおい……」


 そういえば昨日までプロ野球の日本シリーズが開催されていたのをすっかり忘れていた。


 生粋のスワローズファンである雅春さんは、無論日本一になるように毎日毎日応援していた。しかし、惜しくもパ・リーグ覇者のバファローズに阻まれてしまった。

 それがあまりにもショックだったのだろう。今日の雅春さんは仕事なんてやっていられない気分らしい。


 こういう時には電話の1本でもくれればいいのにと思うが、この貼り紙で全てを済ませるのがなんとも雅春さんらしい。昭和の男は無粋なことをしない。


「まあ、しょうがないか……。せっかく休みになったわけだし、家に帰って積んである本でも読もう」


 葉月に励まされてやる気が出てきていたのに、急に仕事がなくなった僕はその情熱を向ける先を失ってしまった。


 人生において、こういうことはよくある。大切なのは、このいきなり生まれた空き時間を有効活用することだ。

 ガリ勉気質な僕らしく、ここは読書に費やすのが無難な時間の使い方だろう。


 すぐに車に乗って家へと引き返す。


 再び自宅玄関ドアの鍵を開けた僕は、そのまま自室へ向かい、積ん読の束を抱えて居間へと運んだ。

 締め付けの強い衣服を外し、飲み物を用意すればもう立派な読書体勢だ。

 時間はたっぷりあるので、この積ん読を全部読破してやろうと思う。


 しばらく読み進めていると、あっという間に夕方を迎えてしまっていた。

 あまりにも読書に没頭していたため、昼ご飯を食べることも忘れていた僕は、腹の虫が鳴いたことによってふと我に返った。


「もうこんな時間か……。そろそろ葉月も帰って来るし、部屋の片付けぐらいはしておかないと……」


 僕は居間のソファから立ち上がって本を片付けようとすると、ちょうどそのタイミングで家の呼び鈴が鳴った。

 合鍵を持っている葉月が呼び鈴を鳴らすはずはないので、宅配業者だろうか。


「はーい、どちら様で……」


 僕はおもむろに玄関ドアを開くと、そこに立っていたのは宅配業者でも郵便屋さんでもなく、一人の若い中性的な人だった。


 黒髪ウルフカットで身体の線は細く、人形のよう。端正な顔をしていて、うっすら化粧もしているように見える。とても美人だ。

 ぱっと見は女性のように見えなくもない。女性だと言い張られても納得できるぐらいの見た目である。

 しかしそれにしては凹凸が無くてスレンダー過ぎる。おまけに、細身の身体の骨格がところどころ男性っぽい。


 その人の放つ不思議なオーラみたいなものに、僕は一瞬たじろいでしまった。


「あーよかった! 先輩が出てきてくれて助かりましたー! 突然で申し訳ないんですけど、ちょっと家に入れてくれません?」


 その人は僕の顔を見て安堵の表情を浮かべる。

 声はちょっと高くてハスキー。男性っぽいと言われれば男性っぽいし、女性でもこういう声の人がたまにいるからなんとも言えない。


 それよりも僕は、その人の言い草が気になってしまった。

 僕のことを『先輩』と呼ぶのだ。ということは、少なくとも後輩のひとりであるのは間違いない。

 しかし、僕の記憶の中にこんな中性的な後輩はいない。


「えっ? ちょ、ちょっと待ってよ、家に入れるも何も、君は一体誰なんだよ!? 僕が先輩だって……?」


 するとその人は、少しいたずらっぽい表情を浮かべてこう言う。


「えー、先輩はあんなに可愛がっていた後輩のことも覚えていないんですかー? ボクですよボク、土濃塚とのづかみことですよ」


「ええーー!!!???」


 その人の正体は、僕の後輩であり親友の弟である土濃塚尊だった。


 女性っぽさも垣間見えるその容姿だけれども、無論、れっきとした男である。


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