第29話 YES-NO

「大丈夫ー? そろそろ落ち着いてきた?」


「うん……、だいぶ良くなってきたよ」


 風呂でのぼせてしまった僕は、居間のソファで茹でだこのように伸び切っていた。


 それから葉月に介抱されて今に至る。水分もとったし、外の涼しい風にもあたったのでもうほとんど回復したようなものだ。


 すっかり調子も戻ってきたので、さっき買ってきた風呂上がりのアイスでも食べようと立ち上がった。するとちょうどよく葉月がお風呂場から帰ってたという所だ。


「一太郎がのびてる間にお風呂入っちゃった。確かにあの入浴剤いい感じだね」


「だよね、不思議とリラックスできる香りだったよ。……てか、葉月? その寝間着って……」


 僕は葉月が身につけている寝間着に違和感を覚える。

 上下灰色のスウェット。新品ではなく、少し着込んでいて若干の毛玉がある。しかも、葉月が着るにしては結構なオーバーサイズでダボダボだ。


「ああこれ? 一太郎のクローゼットから拝借しちゃった。彼シャツならぬ、彼スウェット的な?」


「そ、そんな僕の寝間着なんてわざわざ着なくても……。葉月の服みたいにいい匂いがするわけじゃないし……」


「そうかな? 私はその……、一太郎の匂いって、嫌いじゃないよ……?」


 葉月はスウェットをクンクンしながらそう言う。


 ああもう桜庭葉月という女性はどこまで僕のツボを突いてくるのだろうか。


 好きな人の匂いを嗅ぐのに夢中になるシチュエーションというのは、身体の内面まで愛されてしまっているような印象を受ける。僕はそれが狂おしいほど好きだ。

 無論、好き人の匂いを嗅ぐのも好き。許されるならば、葉月の着た服だって嗅いでみたい。


 同じジャンプーと同じボディーソープを使っていて、同じ入浴剤の入った湯船に浸かり、僕のスウェットを着ている葉月。

 それなのになぜか彼女からは、鼻腔をくすぐる香りが漂ってくるのだ。


 もうこれから寝るだけだというのに、その香りのせいで心の中だけは臨戦態勢のままだ。今夜は眠れるかどうか怪しい。

 それでも明日はやってきてしまうので、早いところ床について身体を休めよう。


「と、とにかく今日はもう寝ようか。明日も朝早いし」


「うーん、名残惜しいけどそうだねー。本当はこれからがお楽しみなんだけど、ちょっと初日から飛ばしすぎちゃったしね」


「そうそう、まだ9日もあるんだから、休み休みいこうよ。ははは……」


 僕は苦笑いしながら寝室へと向かう。

 このペースで10日間かっ飛ばしたら、身体が何個あっても足りない。


 ご丁寧に葉月は寝室まできちんと整えていた。


 シーツとか布団カバーは洗いたてのものになっていたし、添い寝できない僕のためにもうひとつ布団を用意していたのだ。

 2つ並んだ布団というのは、それだけでちょっとやらしい雰囲気が出る。枕元にティッシュ箱が置いてあれば尚更だ。


 ふと目をやると、僕が寝る方の布団には見慣れないクッションがひとつ置いてあった。

 ハート型のそれはピンク色のカバーに包まれていて、アルファベットの『Y』『E』『S』の3文字がでかでかと刻まれている。

 反対に裏側には青地の生地に『NO』と書かれていて、意思を示す際に使うものだというのがよくわかる代物だ。


 おわかりの通り、これは『YES NOクッション』だ。

 性交渉に及ぶか及ばないかという雰囲気になったとき、直接言葉で伝えるのはなかなかに恥ずかしい。


 それを補助するのがこのクッションである。主に女性が使うイメージがあるが、どうやら我が家では僕の方にクッション権があるようだ。


「へへっ、どう? 新婚カップルっぽいでしょ?」


「ま、まあ確かにそうだね。でも、クッションは僕の方にあるんだね」


「そりゃ、私がクッション持つ意味ないもん」


「そうなの? どちらかというとこのクッションは女性が持っているイメージが……」


 葉月は「まあそうね」と相槌を打つ。


「だって私は『YES』しか出す気ないもん。クッションいらずって感じ? 『YES YESクッション』なら持ってもいいかもだけど」


「そんなものはないのよ」


「だから持つ意味ないってこと。いつでも始められるようにスタンバイだけはしてるから、遠慮なく『YES』を出してくれてもいいんだよ?」


「……ぜ、贅沢な悩みだ」


 ムラっときたらいつでも受け入れ体制が整っているなんて、男の欲望をそのまま体現したようなものだ。

 でも僕は大手を振ってそれを喜ぶことができないのがとてももどかしい。


 とりあえず今日のところは寝ようということで、僕は不本意ながら『NO』の面を向ける。

 葉月は少し膨れ面をしたあと、仕方がないなあと言って布団に潜り込んだ。


 並んだ布団で誰かと寝るなんて、修学旅行の夜ぶりだろうか。

 不思議とノスタルジックな気持ちが湧いてきて、思わず葉月の方を向いてしまう。


「葉月、そういえばなんだけど……」


 しかし、葉月からの返事はない。


 耳を澄ますと、彼女は既にすやすやと寝息を立てていた。

 今日の葉月は随分と張り切っていたので、かなり疲れていたのだろう。


 その瞬間、こんなにも尽くしてくれる葉月のことがとても愛おしくなった。他の誰にも渡したくないし、守れる力があるならば全力で守りたいなと思った。


 この気持ちを言葉にするのは少し難しい。

 だから僕はぎりぎり聞こえるか聞こえないかの声で、シンプルにこう伝えることにした。


「……ありがとう。お疲れ様。大好きだよ」


 そのきれいな寝顔をずっと眺めているうちに、僕もいつの間にか眠りについていた。

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