第18話 もふもふ

 40分ほど車をはしらせてたどり着いたのは、秋田犬がたくさんいるという観光施設。

 忠犬ハチ公の生まれ故郷として知られる、隣の大館市の新名所だ。


 ゴールデンレトリバーやサモエドといった大型犬が好みの葉月だが、秋田犬もやっぱり守備範囲に入るらしい。


「葉月、着いたよ」


 僕は車をその観光施設の駐車場に駐めた。

 車内が暖房で暖かかったせいか、葉月は助手席で寝息を立てている。


 無理に朝早く起きたのもあるのだろう、道中信号の少ない山道に入るとすぐに寝てしまったのだ。


「ううーん……、もう着いちゃったの……? もうちょい寝かせてくれてもいいんだよ?」


「それでもいいけど、犬に会いに行く時刻に間に合わなくなっちゃうよ」


「それはヤダ。でもまだ寝てたい」


「気持ちはわからなくないけど……。どっちかにしようよ……」


 寝起きの葉月はまるで駄々っ子のよう。

 気持ちよく微睡んでいたならば、もう少し惰眠を貪りたい気持ちはすごくよくわかる。

 性欲、食欲より存在感こそないものの、睡眠欲というのは三大欲求の中で一番強いことを思い知らされる場面だ。


「うーん仕方がない! 眠いけど起きる!」


「そうだね、せっかく予約までして来たんだもん、秋田犬に会わないと」


 葉月は意を決して伸びをすると、手荷物をとって車のドアを開ける。すると、冷たい空気が入り込んでくる。


「寒っ……。やっぱやめよ?」


「いやいや、さっきまでの勢いはどこに行ったの……」


 眠気にも、秋の寒さにも負けてしまう葉月を車から引っ張り出し、観光施設の中へ連れこむ。さすがに建物の中は暖房が効いていて暖かい。 


 館内は秋田犬のことだらけ。グッズが販売されていたり、忠犬ハチ公についての解説が展示されていたり、犬好きなら欠かせない情報がたくさんある。

 もちろん、飼育されている秋田犬をガラス越しに観察することもてきる。今館内にいる秋田犬は、さっきまでの葉月みたいにひと目を気にせずすやすやと眠っていた。


「すいませーん、10時半から予約した桜庭なんですけど」


「はい、2名でご予約の桜庭様ですね。こちらへどうぞ」


 葉月が係の人に予約した旨を告げると、僕ら2人は別の部屋に案内された。

 そこには赤毛のもふもふとした秋田犬が1頭いた。体高が60センチくらいあって、かなり大きく感じる。


「この子は3歳になる、萌心もこちゃんです。可愛らしい女の子ですよ」


「もこ……、ちゃん?」


 係の人がその秋田犬のプロフィールを教えてくれるのだけれども、僕は最初の「もこちゃん」のインパクトが強すぎてその後のことは頭に入ってこなかった。

 だってその名前は、葉月がAV女優として活動していた頃の芸名と同じだったから。


 僕は葉月に耳打ちする。訊くのはもちろん「もこちゃん」のこと。


「……もしかして葉月、知っててこのを?」


「あはは、バレた? なんか親近感が湧く名前だったからついね」


 いつものいたずらっぽい笑顔で葉月は僕を困惑させる。

 昨日の夜も葉月のセーラー服写真には大変お世話になったのでなんだか気まずい。


 いや、普通なら新斗米もこの正体である葉月を見て気まずくなるのだろう。しかし、もうそんなことには慣れきってしまった。

 それゆえ葉月ではなく、「もこちゃん」という名前の秋田犬に対して気まずくなるという、よくわからなない現象が起こっている。


「ぷっ……、まさかそんなに動揺するなんて。一太郎面白っ」


「なっ、そ、そんなに動揺してないしっ……!」


「またまたー、顔赤くしてるくせによく言うよー」


 僕は嘘をつくことも苦手であれば、顔にも出やすいタチので、葉月はあっという間に僕の動揺を見抜いた。

 さすがに彼女にしてやられてばっかりだ。ここは平静を保とう。


「ま、まあ、それはさておき……。この子と一緒に散歩とか出来るんでしょ? 時間も限られているし早く行こうよ」


「そんなに焦らない焦らない。まずは初対面だし触れ合わないと」


「確かにそれもそうか……。それじゃあ、よろしくお願いします」


「一太郎、めちゃくちゃ緊張してて面白いね。なんか名刺交換してるときみたい」


 あまり犬に触れる経験をしてこなかったので、僕は恐る恐る萌心もこちゃんの背中を撫でようと手を伸ばす。


 すると何かに気がついたのか、触れる寸前で葉月がこんなことを言う。


「そういえば一太郎、萌心ちゃんは女の子だけど触れられるの?」


「さすがに犬だから大丈夫だと思うけど……。人間以外で試そうなんて思ったことも無いからなあ」


「ふーん。じゃあ触ることが出来たら萌心ちゃんに先を越されちゃうなー、妬けちゃうなー」


 葉月は白々しく僕にそう言う。

 そんな風に言われてしまうと、なんだか犬に触ることにも気が引けてしまう。


「なーんて、うそうそ。ほら、せっかくのもふもふなんだから堪能しないと」


「そ、そうだよね。それじゃあ……」


 僕は手を伸ばして萌心ちゃんの背中を撫でる。

 そのもふもふ加減は大変良かった。葉月がハマってしまうのも頷ける。

 このもふもふに溺れながら眠りにつけたら最高だなと思いながら、僕はさらに無心で萌心ちゃんを撫で続ける。


 懸念されていた発作は起きなかった。

 やっぱり女性恐怖症の対象というのは人間だけらしい。

 それがわかったということで調子に乗った僕は、萌心ちゃん背中以外も撫でた。


 すると、萌心ちゃんはテンションがあがって来たのか、いきなり僕を押し倒して顔を舐め始める。


「ちょっ……、ちょっと萌心ちゃん!?」


「ハハッ、一太郎ったらモテモテだねえ。すっかり萌心ちゃんに気に入られちゃって」


「わ、笑ってないで助けてくれよ!」


「はーい。仕方がないなあ」


 興奮する萌心ちゃんを葉月が引き離すと、僕は舐められた顔を洗うためにトイレへと駆け込んだ。

 初対面で顔を舐められてしまうあたり、実は僕の顔は犬界隈ではイケメンなのかもしれない。


 顔を洗ってから葉月と萌心ちゃんのいる部屋へ戻ろうとしたとき、なにやら独り言のような声が聞こえてきた。

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