第20話「七転び八起き」

「残念だけど、やっぱりお前が適任だよ。東二。」

目の前に立つ男から、この言葉が放たれる。

俺はその言葉のほとんどを理解できなかった。


「伊月。あなたそんなこと言ってるけど、裏では東二のこと激推ししてたじゃない。」

「やめてくださいよ、綾野様。一応大学からの親友なんですから。本人からの合意なくして八咫烏のNo.2にするのは心苦しいものがありますよ。」


俺を挟んで、伊月とアヤノが意味のわからないことを話し合っている。異国語を話されている気分になった。


「東二。あなたはこれから八咫烏の中核として、この日本を変えていってもらうわ」

アヤノが俺に歩み寄り、真っ直ぐ目を見て話してくる。

「いや…、ちょっと…、待って…、なんで伊月が…」

俺は息絶え絶えに言葉を絞り出す。アヤノの足下に横たわる死体が、さらに俺の喉を締め付けて呼吸を苦しくする。

「…まぁ、無理もないか。急なことばかりだったもんね。よしよし。」

俺の頭に感触が伝わる。温かく、そして柔らかな。

「触るな!」

しかし、俺にはそれが異様に気持ち悪く感じた。まるで人肌のスライムのような。

たまらず拒否反応を示してしまった。

「東二ってば、可愛い。わかった、一つずつ説明するから…。…全部ね」

アヤノは俺の拒否に一切動じず、ニコッと微笑むと、細くしなやかな人差し指を一本立て、唇につけた。




「私の目的はただ一つ。この日本国民を従順な犬にすること。」



「え…」

俺の困惑の声を無視してアヤノは話し続ける。


ここから始まった演説は、とても嫌なところに刺さる、言うなれば、喉に魚の小骨がつっかえるような話だった–––。


***


私は八咫烏の一族、鴉丸家に生まれた。私の祖父が凄い人で、祖父の代から急激に力を持った私の家は、父の代には既に日本が手のひらの上にある程の地位を築いたの。


そんな家の長女として生まれた私は、小さい頃からずっと、高い場所で日本を見てきた。そして子どもながらに気づいた。



この国には猫が多すぎるって。



戦時中、日本は一致団結を体現していた。国のために死ぬことが正義。そんな考えが支配していたわ。まあ国民全員がその考えに賛同していたとは思わないけど、反対の声がかき消されるほど、国は国民を従順な犬にしていた。




そして戦後、まだ国の力が名残ある頃に日本は急速に豊かになった。敗戦から復活しようと。欧米を追いかけようと高度経済成長を起こし、国力をどんどんと高めていった。

だけど、もしかしたらこれが逆効果だったのかもしれない。


豊かになった日本、そして日本国民は徐々に力を得てしまった。お金、地位、技術とか。国がお伺いを立てるくらいの民間企業まで出てきてしまった。そうなれば…、国の力が弱くなる。国に従う必要がなくなる。つまり…、自由気ままな猫になってしまうのよ。



そうして時は過ぎ、現在。日本はどんどん低迷している。考えればそうよね。みんな好き勝手に生きて、自分の都合の悪い事ばかり批判して。何かあればすぐに権利を主張する。権利、権利、権利…。


だから私は考えたの。国の力を意地でも強めて、国民に首輪をつけようって。従順な犬として結束力を高めさせ、意図的に日本復活を起こそうって。


これが、私の行動の動機。


***


アヤノの顔がちょうど灯台の光に照らされた。

その顔は今日一番の満面の笑みだった。口角は限界までつり上がり、目は糸よりも細く見えた。



『…達川さん、犬と猫、どっちが好きですか?』

あの情報屋は知っていたのか。アヤノの動機を。



日本復活。確かに日本は今、落ち目と言えるかもしれない。後進国と呼ばれるほどに多くの課題を抱えていることは事実だ。

だが…。


「…アヤノ。どんな思いでそんなことを考えるんだ?愛国心か?それとも…、別の野望があるのか?」


これを聞かなければいけないと思った。どちらにしろ許されざることをしているが、愛国心が本心ならまだ俺の中で情状酌量の余地はある。


「どんな思いで…。そうね。強いて言うなら…」


「仕方なく、かな。」


仕方なく…?

「どういう意味…」

アヤノは俺に背を向ける。

「私は本当は猫が好きなの。自由気ままで好きなところに居座って。でも時々甘えてくる。そんな性格が可愛くて。東二も知ってるでしょ?」

確かにアヤノの猫好きは初めて会ったときの態度でわかっていた。

「だからそんな猫がいっぱいの日本が好きだった。だけどこのままじゃ共倒れ。一度壊して、再構築しなければいけない時代になってしまった。だから仕方なく、なのよ。」

アヤノは再度俺の方を向き、悲しげに目を伏せる。

その姿を見た瞬間、心の中にわずかに残っていたアヤノとの今までの思い出は砂のように吹き消え、ただ目の前の女に対しての怒りが上ってきた。


「ふざけるな!!なにが仕方なくだ!お前の勝手な基準で日本を図って、勝手に絶望して、こんな大量に人を殺すのか!?八咫烏はそんな腐った組織なのかよ!!」


ひとしきり声を荒げて、俺はハアハアと息が乱れる。


「……『腐った』…ねぇ…」


後ろから男の声が聞こえた。かつての親友の声。


「そう言われるのも無理はないか。でも東二。綾野様が世界を作り替えれば、みんなが幸せになれるんだぞ。」

そう言って、伊月は俺の背中に手を乗せる。

「はぁ!?」

「東二、『幸せ』っていうのはな。無知ほど簡単に感じられるものなんだよ。生まれたときから奴隷だった奴はその環境が当たり前で過ごす。だから小さな事でも幸せを見つけられる。綾野様が国民を従順な犬にして飼えば、皆が幸せを感じられる世界が作られる。」

伊月の目は黒く光り、本気で話していることがひしひしと伝わった。そしてとても恐怖を感じる。

「そ、そんな世界は、幸せじゃない…!不幸を感じないだけだ…!」

唇を震わせながらも俺は意見する。

「………俺がお前を八咫烏の幹部に推薦してた理由。わかるか?」

伊月の声の温度が下がる。

「知るか…」


「お前は『知ることの辛さ』を身に染みて痛感したからだよ」


伊月はゆっくりと、一言一句はっきりと耳元で囁いてきた。

「…なんだそれ。知ることに辛いも何もあるかよ!!」

深夜の静寂に俺の声が響く。



「それがあるんだよ。東二。」

俺の顎に温度を感じる。気づくとアヤノが目の前で俺の顎を撫で始めていた。




「東二。あなたが会社説明会で相対した多くの就活生。彼らの顔をよく思い出して。」


その言葉は俺の脳に深く突き刺さり、奥隅に隠そうとしていた嫌な記憶をほじくり返してきた。


「あ、あぁ…」


「彼らはどんな顔をしていたの?」

「やめろ…」


キラキラと光り輝く希望に満ちた面々が目の前に立ち並ぶ。


「入社した子はどうなったの?」

「やめろ…!」


――『思ったような仕事ができなくて…。つまんない仕事でミスして怒られるのがキツいです…』


思い出したくない声が流れる。


気がつくと、俺は涙と汗が止まらなくなっていた。


「ね。知らない方が幸せだったなんていっぱいあるんだから。それを日本に広めていきましょう。」

俺の頭に感触が伝わる。温かく、そして柔らかな。


この考えは絶対に間違っている。

そう何度も自分を確かめる。

しかし先ほどのように、アヤノの手を振りほどくことはできなかった。


「もし、八咫烏の幹部として私たちとともに行動するなら、この手をとって」


目の前に手のひらが映る。

これを取ってしまえば、俺はもう戻れない。もう…、戻れない。


戻る…?どこに。

あの毎日、会社の隅でひたすらに時間を潰す生活にか?


そもそもどうしてああなった?

社会に絶望したから?会社に見放されたから?


違う。俺があの生活に逃げたかったからだ。

あんな事件を起こし、失態を晒し、自身の価値を自問自答する。

そして俺は逃げた。「価値がない」という答えが出ることを恐れて。まだ心のどこかで何かできると信じたくて。



もう一度、目の前の手を見る。


従順な犬。要は「大して考えなくてもいい」世界だ。

良いじゃないか。人間は賢くなると自分の価値とかを考え出してしまう。


気づくと俺は無意識に手を取っていた。


「ありがとう、東二。やっぱりわかってくれた。」


後ろから大きな歓声が沸き起こる。

振り返ると、八咫烏組織の軍団が俺に向かって声を上げている。



「八咫烏現当主、鴉丸綾野が宣言します。達川東二を八咫烏の副長に任命します!」


『おおおおおおおおーーーーー!!!!』


さらに湧く群衆。この異様な空間に戸惑いを覚えたが、不思議と悪い心地はしなかった。



こいつらと創っていくんだ。


誰もが幸せな理想郷を。

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