第17話「大好きな人と」

カチ…カチ…カチ…


時計の秒針だけが鼓膜を揺らす。

心臓の鼓動と連動して、まるで時計に生かされている感覚に陥った。


目はすべてを映し、そしてなにも見えていなかった。視覚情報はすべて眼球上ではじかれ、脳に電気信号として伝わらない。脳が認識しなければ見えていないのと同じだ。


三島さんとの食事を途中で抜け出して帰宅した俺は、「おかえり」といったアヤノに目もくれず、自室に閉じこもっていた。

俺は何をしていたんだろう。心の中での自問が止まらなかった。


最初は単なる会話を小耳しただけだった。資産運用が上手くいっている。そんな同僚の話。

それがなぜここまでになってしまったのか。

こんな…、友人の裏の顔を知って絶望する程までに。


また心がざわつき始める。それと同時に錆び付いた脳が少し動き始めた。

俺はそこで初めてスマホが鳴っていることに気づいた。


出るべきだろう。でも出たくなかった。

幸であろうが不幸であろうが、もうなにも自分に関わる情報を入れたくなかった。

俺は傍観者でいたいのに。どうしてひきづり込む。


ブー…、ブー…、ブー…


デスクにあるスマホはバイブレーションで俺の方に向かって動く。

しかし俺は椅子にはりつけにされたように動かない。


そしてついにスマホは動きを止めた。

心が安堵の味を少し感じた。

そう。それでいい。


ずっとこのままでいたい。このままで……――。




コンコンコン…


「東二。入って良い?」

ドアの向こうからアヤノの声が聞こえる。


どうすれば良いだろうか。いつもならこのまま承諾していた。

しかし今の俺の対人の恐怖心は常軌を逸している。


大宮さんから警告を受けて、アヤノですら。


俺は迷った末に「…あぁ」と声を出した。


アヤノは「開けるよ…?」と、未知の部屋に入るかのように、ゆっくりと扉を開ける。

ドアを小さく開けたアヤノは狭い隙間に身体を滑り込ませ、音を立てないようにドアを閉めると、俺と対面した。


「…」 「…」


数秒間、俺たちは見つめ合った。静寂が二人を包む。


俺は何をすれば良いかわからなかった。


さっき無視をした謝罪?

どこか遠くへ一緒に逃げようという相談?

友人の裏切りに対する愚痴?

…それともこのまま黙るべきか?


どの選択もが空気に馴染まない。それほどまでに二人には異質な空気が漂っている。



「東二」


そんな中、アヤノが口を開き、俺に歩み寄る。


そして座っている俺に目線を合わせるように膝をつくと、細い腕を俺の首に回す。


「…東二。なにがあったかは聞かない。でも…」


「私はここにいるよ」


腕を引き寄せ、優しく俺を抱きしめた。

温かい。気づけば俺の目に涙が溢れていた。


『ここにいる』


その言葉だけでどれだけ救われるか。


「……ごめん」


俺が必死に考えて絞り出した言葉だった。


「ううん。いいの。東二と一緒にいるのは私だから。」

アヤノはずっと慰めの言葉をかけてくれる。

俺の心はアヤノによって雪解け、少しずつ穏やかになっていった。


それからも俺たちは10分近く、抱き合い続けていた。


***


「どう?美味しい?」

「あぁ。すごく美味しいよ」

俺はそう言って箸で煮物をつまむ。


――俺はあの後も散々泣きはらした。落ち着く頃には、午後9時35分。

アヤノに促されてシャワーを浴び、その間にアヤノが用意してくれた料理を食べていた。

三島さんとの夕食はほとんど食べずに退席してしまったため、意外にもお腹が空いていた。



「ごちそうさま」

かなりの早さで食べ終わると、手をパンッっと合わせる。

食器を重ね、台所に持って行くと、ダイニングテーブルでスマホを見ていたアヤノが「水につけておいて。後で私が洗う」と言う。

俺は言葉に甘えて「ありがとう」と言い、食器を水につけると、リビングに戻り、ソファに腰掛ける。

腰が少し沈み、柔らかな心地よさを感じる。

すると、ダイニングテーブルにいたアヤノも俺の隣に座った。


「ねぇ、東二。もう落ち着いた?」

首を傾げながらアヤノは言う。

「うん。おかげさまで」

「良かった」

アヤノは優しく笑いかける。

俺の心がまた少し温かくなった。


「そうだ。」

突然、アヤノは思い出したかのように、宙を見上げた。


「東二ってさ、明日休みだったりする?」


アヤノは真っ直ぐな目でこちらを見る。

「明日?特に用事は無いと思うけど…」

俺はダイニングテーブルの近くの壁に掛けられているカレンダーに目を向け、明日が土曜日だと確認する。

「そう!なら私と少し出かけない?」

「出かける?なんか買いたい物とかあった?」

「ううん。最近の東二見てるとなんか疲れてそうだからさ、海でも見に行こうかなって」

アヤノがそんなことを考えてくれていたなんて。彼女の優しさが心に染みる。

「ありがとう!すごい嬉しいよ。どこに連れて行ってくれるの?」

「実は、前から行ってみたいところがあって…」


「鯵ヶ島灯台なんだ」


鯵ヶ島灯台?どこだ?

「それってどこにあるの?俺、知らないんだけど…」

「ちょっと遠いんだ。横須賀の方にあるの。」

「そうなんだ。まぁ…、気分転換には良いかもね」

久々の遠出か。そういえばアヤノとどこかに遠出するのは初めてだ。

「良かった!じゃあ午後3時頃に出発しよう。で、車で大体1時間だから、そしたら丁度夕日が見れそうだね」

「夕日か!確かにちゃんと見たことないかも」

「でしょ!しばらく夕日を楽しんだら、近くの観光がてら、美味しいご飯を食べよう。色々あるらしいから私が探しておくね。でその後に…」

「結構、満喫するんだな。いつ帰るんだ?」

アヤノは指を折って、やることを一つ一つ数えている。

「待って。10時まではいるの」

「10時!?そんな遅くまでいるの?」

俺は予想外の数字に声が裏返る。

「実は明日、鯵ヶ島灯台で軽いもよおしがあってね。12月10日の午後10時は昔にその灯台の光が中国の難破船を救った日時らしいの。だから午後10時に灯台が綺麗にライトアップされるんだって。それを見たくて」

アヤノは興奮気味に早口でまくし立てる。それが微笑ましくもあった。

「そっか、それは俺も見てみたいな!別に日曜日も何もないし、遅くなっても良いか」

「やった~!じゃあ早速準備しなきゃ!」

アヤノはソファから勢いよく立ち上がる。

「え、もう11時近くだよ?寝て明日の午前にでも準備した方が…」

「いいのいいの。『善は急げ』っていうでしょ?早く準備するのが吉よ。あ、眠かったら先に寝ていいからね」

いや…、早く準備しても家出る時間は変わらないんだけど…。

彼女は自室のドアをバンッっと閉める。

俺は彼女の熱量にあっけにとられていた。

さすがに体力の限界が近かった俺は一人寝る準備を進める。

限界とはいえ、久々の気分転換に心はおどっていた。

「灯台…ね…。俺だったら絶対に行かない選択肢だな」

俺は少し笑いながらぼやく。

やはり人間一人で見られる世界には限りがある。アヤノには感謝しなければ。

俺は洗面台の前で歯を磨きながら、そんなことを考える。


明日を待ち遠しく思いながら、俺はコップを手に取り、口をゆすいだ。


・・・


寝るか。

寝る前の準備もすべて終わった俺は、ベッド付近のコンセントに刺さっている充電器で充電しようと、デスクにおいてあるスマホを手に取る。

「…あ」

ふと映ったスマホの画面には、不在着信があった。

そう。先ほど俺が出なかった電話だ。電話番号に見覚えはなかった。

「もういいんだ…」

俺はその履歴を見なかったことにする。

もう変に首を突っ込んで、痛い目を見るのはごめんだ。

明日、アヤノと出かけて楽しい思い出を作る。そして近々に東京を離れ、二人で楽しく人生を送りたい。


俺は布団に潜り、二人の優雅な生活を夢に見ながら、眠りについた。


***


「準備はいいか?」

「うん!バッチリ!」

アヤノは満面の笑みで返事をする。

「したら行こっか」

俺はシフトレバーをPからDに切り替え、サイドブレーキを下ろす。

そしてゆっくりアクセルを踏み込んだ。車がゆっくりと動き出す。


「でも、ほんとに運転するの、私じゃなくていいの?今日は東二のリフレッシュで出かけるのに…」

助手席のアヤノは不服そうに話す。

「大丈夫。俺、運転するの好きだし。疲れた時はアヤノに変わってもらうから。」

「じゃあ帰りは私がする!」

「うん。お願い」


その後もアヤノと色んな会話を繰り広げた。

最近行った美味しい店の話、気になってる映画、俺たちの出会い、これからのこと…。

快調に車を走らせながら、楽しく、時に真剣に話した。

未来のことを考える。

仕事に精を出せず、ただひたすらに時間を浪費していた当時の俺には想像もできなかった。

だが今こうして、アヤノが隣にいてくれること。それが俺の未来に繋がっている。


そろそろ目的地。

今日は俺の人生にどんな色がつくだろうか。

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