第14話「認識」
トントントン………
まな板に包丁があたる音が響く。
それはこの部屋が異様に静かだからだろう。
いつもは何かしら会話をしたり、テレビを流していたりしたものだが、今日はそんな空気ではなかった。
俺はリビングにかけられている木目調の時計に目を向ける。
時刻は22時49分。
これから夕飯にしてはかなり遅い時間帯だ。
次いで俺はキッチンを見る。
そこではアヤノが無心で食材を切っていた。
…あんなことの後で。
――数時間前までアヤノは情報屋を名乗る人物に攫われていた。
俺は情報屋の言う通りに従い、大宮良秋に会ってきた。
彼からは良く意味のわからないCAの目的を聞いただけだった。
これで良かったのか。
しかし他にどうすることも出来ずに家に戻ると、アヤノがリビングのソファに座っていた。
アヤノに駆け寄り、抱きしめた。
俺は泣いた。声を上げて。とにかく安心した。
アヤノもただ泣いていた。声を上げることなく。
数十分、お互いに抱き合いながら涙を流し、落ち着いた後、俺は夕飯を作ると言った。
しかし、アヤノは自分が作ると言い出した。
攫われて大変な後にそんなことはさせられないと俺は反対したが、アヤノはただ一言、「いいから」と言った。
その顔はどんな感情を表していたのかはよくわからない。
口角は少し上がっていた。眉は下がっていた。目はまっすぐ俺を見ていた。
安堵、不安、決意。どうとでも取れるし、どれでもしっくり来なかった。
俺は仕方なく、アヤノに夕飯の支度を任せて、今は一人ソファに腰掛けている――。
「……なぁ」
「……なに?」
「…なんか、手伝えることとかある?」
「……別に。ゆっくりしてて」
「あっ…、そう…か。ありがとう」
…………。
再び、沈黙が始まる。
俺はとても困惑していた。
アヤノが戻ってきたことは嬉しい。
だが、攫われたことについて聞いていいものだろうか。
あの情報屋は俺が素直に言うことを聞く限り、アヤノに危害は加えないと言っていた。
しかしそれを100%信じることはできない。
もしアヤノが攫われた先でひどい目にあっていたなら、そのことについて深掘りして、心の傷をえぐってしまうかもしれない。
思考を巡らせた結果、俺はなにも喋れなかった。
重苦しい空気の中、ただ吸って吐いてを繰り返す。
同棲を始めてから、初めて同じ空間に誰も居て欲しくないと思った。
「痛っ…!」
突然アヤノの声が空気を揺らす。
「どうした?」
俺はキッチンに足を運ぶ。
アヤノの人差し指から血が出ていた。
「ごめん。包丁で指切っちゃった…」
「大丈夫か?とりあえず水で洗っといて。救急箱取ってくる。」
アヤノはうんと頷き、水道水で傷口を洗う。
俺はアヤノの寝室に向かい、救急箱を持ってきた。
そして清潔なガーゼで水を拭き取ると、数回消毒液を吹き掛け、少し大きめの絆創膏を貼った。
「…ありがとう。もう大丈夫。」
「やっぱり夕飯の支度は俺がやるよ。アヤノは休んでて」
「いや、大丈夫。私がやるよ。」
「だめ。アヤノ、なんだかぼーっとしてるでしょ。またケガするから。」
譲らないアヤノに俺も引かなかった。
「……わかった。お願い。」
アヤノはそう言って自室へ戻っていった。
バタン
アヤノはかなり精神的に来てるのかもしれない。
特段攫われた先で何かされたわけではなくとも、誰かに突然拘束され、連れて行かれる。これだけで十分心にダメージを負うに決まってる。
クソっ…。なんでこんなことに…。
俺はモヤモヤを抱えたまま、調理台に向かう。
調理台を見ると、まな板、包丁、フライパンが調理中の面影を残したままだった。
まな板にはみじん切りにされた玉ねぎと切りかけのにんじん。
解凍した牛合い挽き肉。
なるほど。ハンバーグだな。
俺が包丁を手に取ると、刃先にかすかに血がついていた。
アヤノがさっき切った血か。
俺は付着していた血を綺麗に洗い、他にも血がついていそうな部分の食材は念のため捨てた。
そして調理を再開する。
切りかけだったにんじんを慣れた手つきで輪切りにし面取りをする。
そして鍋ににんじん、水、砂糖、バターを入れ、火にかける。沸騰したら弱火に落とし、じっくり煮る。これで付け合わせのにんじんのグラッセはOK。
さて、次は…
グッ
「あぃ?」
棚からフライパンを出そうとしたとき、後ろから服を引っ張られた。
完全に料理モードに入っていた俺は突然のことに変な声が出る。
後ろを振り返ると、そこにはアヤノが立っていた。
「あれ、アヤノ。どうし…」
ガバッ
俺の言葉を遮り、アヤノは抱きついてきた。
後ろに倒れそうになるのをなんとか持ち直す。
「ど、どうしたの、急に…」
その時俺は服が濡れていることに気づく。
泣いている?
「……かった…」
「え?」
「こわかった…」
アヤノは震えてながら顔をうずめる。
やはりアヤノは隠していた。恐怖も不安も。俺にいらぬ心配をさせないために。
そんな彼女の気遣いに無頓着だった自分が嫌になる。
「宅配便の業者を装って、家に入ってきて、突然後ろから押さえつけられて、目隠しされて…、車に乗せられたの。そして目が覚めたら縛られてた…。」
「…ごめん」
「ずっと何時間もそのまま、それで急にまた車に乗せられて、降ろされたら家の前だった。」
「…ほんとごめん」
「東二は悪くないよ。攫った人が言ってた。『達川さんはあなたを守るために従ってくれた』って」
「……でも、俺がそもそも元凶で…」
「東二は巻き込まれてるだけ。仕方ないよ。東二が責任感じる必要はない。」
「……ありがとう、アヤノ」
「うん。でも…」
「東二…。いなくならないでね…。」
「……うん。」
「そばにいて。」
「うん。」
抱き合ったまま見つめ合う。
換気扇が回る音、コトコトと煮える音の中、優しい甘い香りが立ちこめる。
俺たちは顔を近づけ、唇を合わせた。
じっくりと、お互いの存在をを確かめ合うように。
アヤノはゆっくりと口を離し、右手でガスコンロの火を消す。
煮えていた音は消え、キッチン内の温度が少し下がる。
そして俺と目を合わせた後、視線を彼女の寝室へ向ける。
そのアイコンタクトの意味を知らないほど子どもではなかった。
心臓が跳ねる。
俺は彼女の腰に手を当て、一歩ずつ、一歩ずつ。
ドアを開けると、その部屋は、照明が消え、サイドテーブルに置かれたランプだけが視界を確保してくれる。
その曖昧さ。隣の彼女の顔すら不鮮明で、薄ぼんやりと。それがとても魅力的だった。
彼女は俺の手を引き、ベッドへと
そのまま二人は倒れ込む。彼女が下。俺が上。
彼女の絹のような髪が乱れる。それもまた美しい。
俺は彼女の服のボタンに手をかける。
焦らず、ゆっくりと彼女の服を脱がすと、青色に花柄のブラジャー越しに豊満な胸が姿を現わした。
俺は彼女の顔を見る。
少し恥ずかしがっているのだろうか。暗くてよくわからない。
次いで俺は彼女の腰に着いているベルトを外し、スカートを脱がせた。
ブラジャーと同じ柄のショーツ。
再び彼女を見る。
すると見るなり彼女は俺の後頭部に手を回し、グッと顔を引き寄せた。
二人の息が混じり合う。
その時間はとても長く感じられた。
「今日は、私の不安をあなたで埋めて。たくさん」
彼女は泣いていた。
彼女は今、暗闇の中で孤独を感じている。
その孤独は俺が埋める。
隣には俺がいる。存在を認識させる。
体温を共有して――。
***
「いってきます」
「いってらっしゃい」
俺たちはいつもの挨拶を交わす。
彼女は今朝にはいつもの調子に戻っていた。
今日は家で気になっている映画を見まくると息巻くくらいに。
二人静かに朝食を取り、他愛ない話をする。
そんないつものモーニングルーティンが今日も行われた。
とにもかくにも、戻って良かった。
俺は家を出て、最寄りの駅へと向かって歩く。
歩きながら、昨日の大宮さんの言葉を思い出していた。
『CAの目的は、国民の思考力を奪うことだ』
『思考力を奪って…、『低燃費人間』を作る。それが目標だ。』
低燃費人間。
これがCAの目標らしい。
これは単なる造語といっていたが、何を暗喩しているのか。
低燃費。仕事量に対しての燃料が少ないこと。
つまり少ない燃料で働ける人間を作る…ということなのだろうか。
それって……
テンテテテテンテンテンテン…、
社用スマホから着信だ。相手は…、細前…?
そういえばしばらく前に電話した限りで、その後連絡は取ってなかったな。
「はい、達川です」
「達川さん!達川さんですか!」
細前の第一声は鬼気迫る死に際のような声だった。
「ど、どうしたんですか…」
「異常事態です!ニュース見てないんですか!」
「あぁ、まあ、そうですね…」
昨夜は
「本当にやばい事件です!マジで…!」
細前は上手く舌が回っていなかった。
「とにかく落ち着いてください。なにがあったんですか」
「落ち着けないですよ!殺人ですよ!」
殺人?まぁ確かにニュースで流れて気分が良い物ではないが、そこまで取り乱すほどではないのだろうか。
「殺人って…。誰が殺されたんです?」
俺は電話しながら歩いて、駅にたどり着いた。
「お、落ち着いて…、聞いてくださいね…」
まずお前が落ち着け。
「はぁ、はい。」
「うちの七橋商事を初めとした大手総合商社、
「は!?」
俺は駅の中で物凄い大声を出してしまった。
「な、なんで!」
「わかりません…。動機も不明で、犯人もいまいちわかっていません。」
「わかっていない?」
「この犯行は集団で同時多発的に起きたそうです。殺された人は計32名。そして一人一人で実行犯は違います。」
「集団殺人…。でも…さすがに捕まったんだろ?」
「はい…、一応」
「ならこれ以降は…」
「でも実行犯は指示されてやったと言っています。」
「指示されて…?」
「実行犯32名は…、みなホームレスです」
「……!」
俺の頭にあの放火犯がフラッシュバックした。
「つまり、殺人教唆をした人は捕まっていません…」
俺は頭が真っ白になった。
すべての思考が吹き飛び、頭の中でただ一つのシルエットだけが形作られていく。
白いカラスが。
「だから達川さんが心配で電話したんです!真犯人は駒を使っていつでも殺しに来るので!気をつけてくださいね…、達川さん!」
「………あぁ」
俺はスマホを持っている腕がだらんと落ちた。
また巻き込まれるのか…。
一周回って笑いがこみ上げてきた。
「フフッ…、アハ、ハハハッ、ハハハ!」
俺が周りに人がいることを承知で大笑いをする。
周りの目など今は気にならなかった。
ただ今は自分の立場を笑うしかなかった。
もうこの後の展開が手に取るようにわかる。
来る。絶対に。
テュルルルル…、テュルルルル…、
「……はい」
「昨日ぶりですね、達川さん。あの時の情報屋です!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます